一番見に行った1983年〜1984年ごろの山口冨士夫バンド(タンブリングス)
今日の1曲
1984年3月3日
猛暑が続いており、ゆで卵の前の半熟卵のような気分です。夜になっても32.7度! 経済的節約もありますが、クーラーはなるべく使わず、体に水をかけて扇風機であおる(かなり気持ちいい)など、さらなる温暖化が進まないように少しばかりでも助力したいと思います。
1983年の山口冨士夫のライブの思い出を振り返るだけの予定だった「山口冨士夫とシティロード」は、4カ月15回の長期になりました。1976年から1984年までの雑誌を読み返す中で、日本でロックを継続することが困難であり、山口冨士夫が偉大なミュージシャンであることを改めて知りました。そこで、もういちど1976年から1984年のころのことをまとめて振り返ってみました。
◆1976年
1976年を思い出すと、レコード店で買いたいレコードが消えてゆき、1977年になると天国だったレコード店が砂漠のように思えました。ベトナム終戦後、世界的にみてもロックは存在意義を失って停滞し、魅力を失っていました。
1976年はまだ歌謡曲、演歌が主流。沢田研二(とPYG)が歌謡曲をロックにより近づけていきました。そこへ、吉田拓郎、井上陽水などフォーク、ユーミンなどのニューミュージックが台頭、キャロル出身の矢沢永吉が初めてロックで商業的に成功しました。
このような1976年に山口冨士夫はリゾートを結成。桃源郷、ロックの理想は、ルイズルイス加部との音楽性の違いから短命に終わります。東京のライブハウスも、屋根裏とロフトしかなく、ロックが非常に困難だったことがわかります。
リゾート 1976年
https://www.youtube.com/watch?v=RQFcGvd9Quc
ルイズルイス加部もギターのWギター編成
◆1977年
1977年12月にセックスピストルズが日本で発売。パンクの衝動で多くの新しいバンドが生まれましたが、プログレに影響を受けていたセックスピストルズの音楽性は旧世代のやる気も呼び起こしました。
Sex Pistols - Holidays In The Sun
https://www.youtube.com/watch?v=2Ah1JM9mf60
◆1978年
山口冨士夫は福生などでヒッピーなどアマチュアとセッション活動、曲づくり。ブライアンイーノにも関心を持っていたようです。このころに元トゥーマッチ、外道の青木正行に出会いセッションをしています。
このころライブハウスでロックを続けている人は、グループサウンズ世代では実力派と言われたダイナマイツ、ゴールデンカップス、ビーバーズ、パワーハウスなど米軍のクラブで鍛えられた人が多いのがわかります。
パンクロックにすぐに呼応したのは村八分脱退以後、活動歴がなかった青木真一で、スピードを結成しライブでも「Punk」と明言。ジョー山中の人間の証明の主題歌がヒットし武道館でライブ。ジョニー・ルイス&チャーで、ルイズルイス加部も本格的に再始動。
人間の証明
https://www.youtube.com/watch?v=-wQ0ik_wZG4
◆1979年
セックスピストルズに触発されたと思われるチャー坊が村八分を再結成。その際に山口冨士夫はパンク活動をする青木真一に会って刺激を受けたと言っています。村八分ではビートルズの曲が多数演奏され、ビートルズの影響の大きさを感じました。
村八分 / Money 1979年
https://www.youtube.com/watch?v=HtvO9Zsreec
歌:山口冨士夫 Beatlesへの回帰
このころ、クロコダイル、ライブインなど渋谷を中心にロックのライブハウスが新たに出店。元村八分の恒田義見は四人囃子2名、安全ばんどというニューロック世代のメンバーとテクノポップバンド「ペグモ」を結成。時代はニューウェイブに移行していました。
◆1980年
再結成した村八分が解散した後、山口冨士夫は裸のラリーズに参加し、ラリーズのサウンドに大きな変化を与えます。命懸けだったというラリーズの活動がその後の山口冨士夫に影響を与えます。RCサクセション、サザンオールスターズ、シーナ&ロケットなど屋根裏、ロフトなどで活動していたバンドがブレイク。
裸のラリーズ / 造花の原野 1980年8月14日
https://www.youtube.com/watch?v=HOUqOAL-utM
今年聞いた曲の中では一番感銘を受けた。
◆1981年
山口冨士夫は、3月の裸のラリーズのライブを最後に脱退し、ギターを燃やして音楽活動を停止。元村八分の上原裕はロックへ移行した沢田研二のエキゾチックスのドラマーになりテレビに頻出。山口冨士夫が影響を受け、自伝のタイトルにもしたマイルスデイビスが9月に新宿で復活ライブを行います。
沢田研二&エキゾチックス / ストリッパー
https://www.youtube.com/watch?v=0LEXckET_fQ
◆1982年
11月22日のフールズのライブのゲストとして山口冨士夫の名が本人の承諾なく「シティロード」に記載。これをきっかけに山口冨士夫が音楽活動に復帰。このライブから「シティロード」が山口冨士夫の活動をほとんどフォローし支援するようになります。
11月にはマイケルジャクソンがポールマッカートニーとGirl is mineを発表し、黒人初のスーパースターとなります。
◆1983年
1月1日にダイナマイツ解散後も内田裕也のバンドなどで活動していた大木啓三とKIZUでクロコダイルに出演。3月に山口冨士夫がフロントに立ち、1978年からパンクムーブメントにいた青木真一と1971年からトゥーマッチ、外道というニューロック世代の青木正行、小林秀弥が参加。日本のロックシーンで10年以上続けてきた人たちのライブを見れたのは非常に幸運だったと思います。ビートルズのラブ・ミー・ドゥをレゲエにしたり、ソウル、ブルースなどあらゆる要素が詰め込まれていました。
1971年ころのトゥーマッチという深大寺のイベントでチャー坊が観客として映っていたとのこと。
Michael Jackson - Beat Itはソウルの曲の中でエディー・ヴァン・ヘイレンがギターソロをとるという画期的な曲。この頃から「ソウル」という呼称がなくなっていきました。
Michael Jackson - Wanna Be Startin' Somethin'
https://www.youtube.com/watch?v=3ibDF4MLIqo
◆1984年
このころの山口冨士夫バンド(タンブリングス)の映像がみつかりました。今までの人生でライブで一番感動した一つのビートルズのDear Prudenceなど古い曲や新曲など、当時のベストといえるパフォーマンスだと思います。
1984年3月3日 新丸子リンディスファーン
https://www.youtube.com/watch?v=xkIDT7adu54&t=603s
前期タンブリングスの活動が完成されるとともに停滞。
山口冨士夫がライブで欠席し、1984年12月のライブでも会場に現れず、再び活動を停止。1983年から1984年にかけて、私は山口冨士夫のライブに5〜6回、裸のラリーズは3〜4回行きました。他のライブはほとんど行っていませんでした。
1983年のころ、アルバイトで「自分も昔ブルースバンドでギターを弾いていた」という人に会いました。その人に山口冨士夫のライブのテープを聞いてもらったところ、「よかったよ」と言った後に「執念だな・・」とぽつりとつぶやいたのが今でも印象に残っています。
山口冨士夫は「ロックは生き方なんだ」と言っていますが、1976年から1984年の山口冨士夫の活動もまさにその言葉どおりだと思いました。そして、山口冨士夫という才能のある人に多くの人たちが集まっていったことがわかりました。
1985年以降の「情報誌シティロードと山口冨士夫」については、しばらくお休みします。
いつ再開するか未定ですが、右列「1960年代後半、1970年代前半の日本のロック、山口冨士夫」のカテゴリーをご覧ください。
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- 山口冨士夫と情報誌「シティロード」E 1984年後半(11月号〜12月号)