2018年05月25日

山口冨士夫と情報誌「シティロード」J1979年の「ぴあ」+1971年・1973年のニューミュージックマガジン

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ニューミュージックマガジン(NMM)1973年2月号 
鋤田正義「山口冨士夫フォトセッション」、村八分の公演やディスコガロ出演情報を掲載


今日の1曲
 村八分 / Twist and shout 1979年5月
 村八分 / マネー 1979年7月
 村八分 / 操り人形 1971年4月
 New Trolls / Concerto Grosso Adagio 1971年3月
 Speed / BOYS I LOVE YOU 1979年
The Stooges / Down On The Street 1970年
 村八分 / ぶっつぶせ 1971年
 Beatles / I saw her standing there 1963年
 山口冨士夫 Tumblings /んっ(村八分)1983年
 カシオペア / タイムリミット 1979年
 YMO / Technopolis 1979年
 久保田早紀 / 星空の少年 1979年


 山口冨士夫と情報誌「シティロード」11回目は、前回の1978年に続いて、1979年に購読した情報誌「ぴあ」を見てみました。1979年は山口冨士夫が村八分を再結成した年ですが、東京の「ぴあ」には、山口冨士夫の名前はみつかりませんでした。

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「ぴあ」1979年4月号から1980年1月4日号。
有名な表紙を書いた及川正通もミュージシャンだった。

 そこで、前回に続いて山口冨士夫著「So what」「村八分」等をてがかりに、1979年を振り返ってみたいと思います。ニューミュージックマガジン1971年12月号、1973年2月号も見てみます。「ぴあ」の1979年1月号は所持していませんでした。

 1月21日に元村八分の青木真一は8年ぶりにSpeedとして録音。春に山口冨士夫は村八分再結成のために京都へ。山口冨士夫は著書「村八分」で、高円寺でパンクの活動をする青木真一に会い、再起へのポジティブな気持ちになったと語っています。


☆「ぴあ」1979年2月号

 ・2月5日  屋根裏 「パンクナイト」スピード 自殺 サイズ
 ・2月11日 屋根裏 RCサクセション
 ・2月12日 屋根裏 Pyramid
 ・2月26日 屋根裏 カシオペア 
 ・2月27日 屋根裏 裸のラリーズ 

 渋谷「屋根裏」の2月5日「パンクナイト」は、青木真一のスピード、自殺、サイズという1987年に山口冨士夫Teardropsを結成するメンバーが在籍したバンドが集結。2月11日には1990年に山口冨士夫が参加するRCサクセションが出演。

 続く12日には、1983年に山口冨士夫タンブリングスを結成する青木正行のPyramid、27日には1980年に山口冨士夫が参加する裸のラリーズが並ぶ。当時日本のロックの中核だった「屋根裏」と山口冨士夫がつながっていたことがわかる。
 

☆「ぴあ」1979年4月号

 ・4月3日 屋根裏 恒田義見&高木英一 セッション
 ・4月7日 池袋City 恒田義見(元ハルヲフォン)佐藤満(四人囃子)
 ・4月15日 屋根裏 「パンクナイト」 Speed
 ・4月24日 福生Electric UZU 「UZU3周年」 Pyramid
 ・4月25日 屋根裏 裸のラリーズ
 ・4月28日 福生Electric UZU Speed (Punk)

 元第1期村八分(裸のラリーズ)の恒田義見がセッション活動を開始。ハルヲフォンの前にはオムニバスLP「ロック・エイジ・コンサート」に1曲だけ残す伝説的バンド「ブラインドバード」にも在籍した。この後、ポップロックバンド「ペグモ」を経て和太鼓の世界へ。

BLIND BIRD /KICK THE WORLD ブラインド・バード
https://www.youtube.com/watch?v=P9L91Mxfpgg
この時点では恒田義見は参加していない。

 恒田義見は、ブログで村八分という日本のロック史に残るバンドにいたことは誇りと述べている。2017年12月31日の内田裕也主宰のワールドロックフェスティバルでは「近田春夫×恒田義見×高木英一」としてシーナ&ザ・ロケッツ等と共演、健在ぶりを示す。

恒田義見著「ロックンロールマイウェイ」
http://uuuupsbooks.com/?pid=121924690

 4月28日のElectric UZUに初出演したSpeedは、告知にずばり「Punk」という呼称を使用。過去の「ぴあ」「シティロード」を振り返ってみて、青木真一こそが「パンクの元祖」村八分というイメージを作ったのではないかと思えるようになりました。

 山口冨士夫はGS時代からプロで「So What」でも自分はパンクではないと言う。チャー坊も中学からフォークギターを弾き、渡米から帰国後に裸のラリーズのベースになる予定だった。他も楽器経験者で、本当にゼロから始めたのは青木真一だけだった。

青木真一参加の1971年「くたびれて」旧第2版のジャケット



 1983年から見たタンブリングスのライブでは、MCはすべて山口冨士夫が表に立ち、青木真一は控えめな存在でした。1984年12月に山口冨士夫が欠席したときに、1回だけ青木真一が「俺たちだけで楽しもうぜ」と言ったことだけ覚えています。

★ニューミュージックマガジン(NMM)1971年12月号

 1983年に国会図書館でNMMのバックナンバーを探し、山口冨士夫著「村八分」の表紙になった写真が掲載されたNMM1971年12月号を読みました。写真と村八分の異様で圧倒的な存在感を伝える内容の文章に衝撃を受けたのを覚えています。

ニューミュージックマガジン(NMM)1971年12月号で掲載された写真
同じように横向きに縦1面で印刷されていた



 征木高司のインタビューに対して村八分は黙ったままほとんど応えず、チャー坊がこの写真を指して「夢」とつぶやき、1996年の「クイックジャパン」でも3代目ドラマーのカントが「かわいそうになるほどつっけんどんに対応した」と回想しています。 
 
 インタビューでメンバーがしゃべらない中、青木真一(記事では青木真と記載)だけが「俺たちの演奏を聴ける奴がどこにいる。いないじゃないか」と強い言葉を発しているのが、非常に印象に残っていました。

NMM1971年12月号より 「村八分」青木真一の発言
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 青木真一のスピードは、ストゥージズ等に影響を受けた日本で最初期のパンクバンド。最近初めて、Speedのライブ映像と青木真一が話す姿を見た。剣道部の主将だったという青木真一の「今のガキに目を覚ましてほしい」という言葉に意志の強さを感じる。

Speed / BOYS I LOVE YOU 記録映画「ROCKERS」1979年
https://www.youtube.com/watch?v=IrvBKxOrZpw
38:00からSpeed。青木真一は「昔いたバンドとは?」という質問に「村八分」と回答。

 映像で、青木真一はスピードへの参加を拒んだ元村八分上原裕のことを暗に批判しています。しかし、上原裕もまた1981年から1984年まで沢田研二とニューウェーブを追求し、1986年に燃え尽きたように一度音楽から引退します。

青木真一(元村八分ベース、Fools、山口冨士夫タンブリングス、Teardrops)1979年
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The Stooges - Down On The Street 1970年
https://www.youtube.com/watch?v=85RSPV9Q-3s
The Stoogesの活動期間は村八分と重なっている。

村八分 / ぶっつぶせ 1971年
https://www.youtube.com/watch?v=TvvVefeljdQ

青木真一がベースで参加した1971年のライブ「ぶっつぶせ」



☆「ぴあ」1979年5月号

 ・5月5日 屋根裏 ジョー山中 前売りあり(1500円)

 ・5月6日 京大西部講堂「狂騒ロックコンサート」 ジョー山中グループ 
           → 村八分が、飛び入りで参加
                      (→ 「ぴあ」には記載なし)

 ・5月6日 屋根裏 RCサクセション
 ・5月12日 関内 ファーイースト 
           ルイズルイス加部(g) 野木信一(dr)&Family
 ・5月12日 福生Electric UZU  Speed (Punk)
 ・5月26日 福生Electric UZU Pyramid

 5月6日に京大西部講堂「狂騒ロックコンサート」のジョー山中グループに飛び入り的に村八分が参加。村八分BOX収録の6曲で、チャー坊の歌には長期の療養生活によるダメージが感じられるが、「くたびれて」ではそれが深い情感になっていると思います。

 関西で最高のギタリストだったという松田幹夫(ミッキー)のボーカルによるTwist and shoutは、まさに村八分のメンバーたちが、ビートルズから受けた衝撃をダイレクトに伝える熱狂的な演奏になっています。

1979年5月6日のライブを収録した村八分BOX



 元リゾート(山口冨士夫)のルイズルイス加部(g)が、元パワーハウスの野木信一(dr)&Familyでライブ。1978年9月に合歓の里で合宿を開始し、12月のデビューライブが中止になった「JOHNNY, LOUIS & CHAR」の再始動に向けてのものと思われます。 

 青木正行、中野良一のピラミッドは、スピードとともに福生Electric UZUへ出演。この月が最後の出演で、加納秀人と外道を再結成。UZUで青木正行と青木真一とのつながりができたと思われ、後の1983年山口冨士夫タンブリングス結成に至ります。

 1983年からの山口冨士夫Tumblingsでの「んっ(村八分)」や「酔いどれ天使」では、ニューロック出身の青木正行と、パンク出身の青木真一のコンビネーションでバラエティーに富んだアレンジが毎回なされ、それが深い魅力になっていたと思います。

 このころキングから1971年3月23日〜27日に録音されたNew Trolls / Concerto Grossoが再発。「日本のギタリスト」でのインタビューによれば、山口冨士夫自身の選ぶベストプレイは、1971年4月30日録音の村八分「くたびれて」だという。

New Trolls / Concerto Grosso Adagio
https://www.youtube.com/watch?v=DCgvp6IfE7w
3:48のギターソロ。1971年には、日本でもイタリアでも強い磁力が働いていた。





☆「ぴあ」1979年6月号

 ・6月7日 村八分 日本テレビ「11pm」出演      
               (→ 「ぴあ」には記載なし)
 ・6月13日 屋根裏 裸のラリーズ
 ・6月27日 関内 ファーイースト ルイズルイス加部(g)野木信一(dr)&Family
 ・6月28日 屋根裏 恒田義見&フレンズ
 
 6月7日に村八分は、1973年2月4日の「リブヤング」以来の日本テレビ「11pm」に出演。オリジナル曲の予定を覆し、本番でビートルズの「ロールオーバーベートーベン」
「I saw her standing there」を演奏。村八分のビートルズへのこだわりがわかる。

The Beatles - I Saw Her Standing There 2009 Stereo Remastered
https://www.youtube.com/watch?v=Rq8u0tnyDGI





☆「ぴあ」1979年7月号

 ・7月14日 日比谷野音「JOHNNY, LOUIS & CHAR」『Free Spirit』

 ・7月15日 京大西部講堂 村八分
              (→ 「ぴあ」には記載なし)

 7月14日にルイズルイス加部の「JOHNNY, LOUIS & CHAR」が再始動.
 日比谷野音のフリーコンサートで野音の動員記録を樹立。
 君が代も演奏した。

JOHNNY, LOUIS & CHAR / Natural Vibration
https://www.youtube.com/watch?v=6GPcMNVI8RM
以前からのチャーの女性ファンたちは、ロックへの変貌で泣いていたという。





 翌7月15日に山口冨士夫の村八分は西部講堂でライブを行う。「日本ロック体系」によれば昔からの同窓会的な人が集まったようでしたが、「でも音はよかったですね」と山口冨士夫は述べています。ここでは山口冨士夫がビートルズのマネーを歌っています。

村八分再結成 Underground Tapes 1979年7月15日


 チャー坊が山口冨士夫を東京にまで迎えにきて再始動した村八分は、11月の慶應大学三田祭に向けて準備していましたが秋に解散。チャー坊は「ブルーダイヤモンズ」(青い死の門)の名で活動予定でした。

 新曲が少なく村八分の評価を決定的にした「あっ」「あやつり人形」などが詞の問題で封印され、チャー坊の体調やメンバーの入院などが重なりました。「村八分」の中で山口冨士夫は「音楽は楽しいからやる」というポリシーがチャー坊と違ったといいます。

 再結成した村八分の活動で顕著だったのが、山口冨士夫のビートルズへの思い。
 山口冨士夫は「So what」で、中学1年生の時、イギリス軍人の父の国で階級社会から成功したビートルズに対して「本気で憧れた」と語っています。

 1979年の5月から7月まで村八分が公の場で演奏した14曲のうちビートルズが5曲。
 山口冨士夫は1983年でも1stシングルLove me doをレゲエにアレンジし、同年のクリスマスには、1曲目でDear Prudenceをほぼ原曲に忠実に演奏しました。

 また、「クイックジャパン」によると、1996年に福生UZUで若いミュージシャンがビートルズを演奏し大合唱する中へ、山口冨士夫は思わず入っていってギターでセッションをしたとのことです。


★ニューミュージックマガジン(以下NMM)1973年2月号

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NMM1973年2月号
「村八分公演決定!」(5月5日京大西部講堂と思われる)東京新宿のロック喫茶の広告
関西でのライブがこのように広告の一部として告知されるのは異例

 NMM1973年2月号は、鋤田正義の8ページにわたる山口冨士夫のフォトセッション写真で話題になりました。最後の山口冨士夫が墓地に立つ写真が印象的でした。
 この2月号には、さらに村八分についての情報が2つ掲載されています。

 1つめの情報は、「村八分公演決定!」告知がある新宿のロック喫茶(ライブハウス?)MAGAGINEの広告。おそらく1973年5月5日の京大西部講堂のライブと思われますが、日程も不明の段階で村八分がいかに注目されていたかがわかります。
 
 国会図書館で読んだ1971年から1973年のNMMには、村八分が数回掲載されていました。1979年のNMMに7月京都の村八分のライブ告知があったかは不明ですが「ぴあ」には出ていません。「ぴあ」「シティロード」では関西のライブ情報は出ません。

 「クイックジャパン」「ヤングギター」の記事(フラワートラベリンバンドの有名なSATORIのイラストレーター石丸忍のレポート)によると、1972年8月の村八分の円山公園でのライブの際は、東京からヒッチハイクをして見に行った人もいました。

 2つめの情報は、「RANDOM NOTES」で村八分の京都のディスコ「ガロ」への出演を紹介。村八分自身は「ガロ」への出演を公にしておらず、ハコバンの情報まで雑誌に掲載するのは珍しい。「ガロ」でのライブ音源は「村八分BOX」に収録されました。

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☆「ぴあ」1979年8月号

 ・8月20日 屋根裏 シーナロケット 
 
 YMOの援助を受けた鮎川誠のシーナロケットが、「真空パック」でアルファから再デビュー。1960年代から暗黒舞踏を続ける1978年に会った麿赤児のインタビューが印象的。時代への迷いも感じたが、この後Dance Butoとして海外から評価を得る。

☆「ぴあ」1979年10月12日号
 
 ・9月26日 屋根裏 スマイラー(大木啓三 元ダイナマイツ)
 ・10月1日 サンシャインシティ10階 南正人with ルイズルイス加部
 ・10月7日 日比谷野音 南正人with ルイズルイス加部 RCサクセション
 ・10月27日 法政大学ホール 裸のラリーズ

 ルイズルイス加部が南正人と共演し「スーパーレザリウムとバンドのジョイントコンサート」を行う。外道の加納秀人も参加。南正人は「ロックの旗手」として新譜を発売。ソロ、裸のラリーズ、浅川マキジャズセッション、ビリーバンバンなど多くの分野と共演。

 アルファレコードから、「テクノポリス」でYMOの人気を決定的にした「ソリッドステイトサバイバー」、カシオペアの1stアルバムが、1面広告で掲載されています。私は、道玄坂YAMAHAでデビュー前のカシオペアを最前列の目の前で見てギターを諦めました。

カシオペア / タイムリミット 1979年ライブ
https://www.youtube.com/watch?v=yX0_fze8FJU
3:40から、MC「次は、めちゃめちゃハードな曲でタイムリミット」

YMO - Technopolis
https://www.youtube.com/watch?v=Y2lOyCxRp5s

 このころ、FM東京「スペース・フュージョン」で土曜深夜3-5時にプログレッシブロックの輸入盤を放送。1970年代初期のLPが中心で、村八分の全盛期と重なる。村八分も1973年に「むらさき」などでCanのようなアプローチを始めていた。

むらさき、天までとどけを収録



☆「ぴあ」1979年11月9日号
  
 アルファレコードから、シーナ&ロケット「真空パック」発売の広告。
 「YMOとロックンロールの劇的な出合い!」という宣伝文句。
 村井邦彦のアルファレコードが時代の半歩先を走っていました。





☆「ぴあ」1979年12月7日号
 
 ・12月4日 屋根裏 裸のラリーズ


☆「ぴあ」1979年12月21日号

 ・12月22日 屋根裏 Speed ゲスト シーナ&ロケッツ

 Speedが、シーナ&ロケッツをゲストとして登場。1984年12月21日の法政大学ホールでのタンブリングス(山口冨士夫欠席)との共演以前に鮎川誠と青木真一が会っていたことと、シーナ&ロケッツもパンクに対して好意的だったことがわかります。

☆「ぴあ」1980年1月4日号

 「79年と80年の間に」というサブタイトルで、浅川マキの年末連続公演が始まる。
 久保田早紀のファーストアルバム「夢がたり」の1面広告。
 JAシーザーが12月23日、24日に原宿ラフォーレで、馬淵晴子の演出でコンサート。

久保田早紀のファーストアルバム「夢がたり」
山口冨士夫「ひまつぶし」のようにほとんど捨て曲がなく良曲が揃っている


 
 このころ青木真一が裸のラリーズへの加入を断る。
 1980年に山口冨士夫が裸のラリーズに参加。 
 山口冨士夫の参加した裸のラリーズの最初のライブは1980年8月13日の屋根裏。

 順番が逆になってしまいましたが、「シティロード」1980年から1981年3月までの山口冨士夫が裸のラリーズに参加した時期については、山口冨士夫と情報誌「シティロード」FGをご覧ください。


 次回の山口冨士夫と情報誌「シティロード」12回目は、山口冨士夫が裸のラリーズを脱退した1981年4月以降から、フールズのゲストから再復活した1982年12月までの「シティロード」を見ていく予定です。
 
 

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