2018年04月25日

山口冨士夫と情報誌「シティロード」F 1980年8月〜9月号 

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山口冨士夫が初参加した1980年8月14日屋根裏・裸のラリーズの告知


今日の1曲
 Les Rallizes Dénudés (裸のラリーズ) 造花の原野
                             1980年 Double heads
 Harold Budd / Brian Eno – The Pearl 1984年
 Uno / Uno nel Tutto 1974年

 特集・山口冨士夫と情報誌「シティロード」の第7回目は、前回の1984年後半(11月〜12月号)から4年遡って、裸のラリーズに参加した1980年の8〜9月号の頃を振り返ってみます。


★「シティロード」1980年8月号 

 ・1980年8月14日 屋根裏 裸のラリーズ 
                   → 山口冨士夫が裸のラリーズに参加した最初のライブ



 
 山口冨士夫は1979年京都での村八分の再結成の後に、1980年に裸のラリーズに参加。1990年に「So What」を読み、1970年に「村八分」がバンド名のないころは「裸のラリーズ」と名乗っていたことを知って驚き、繋がりがわかりました。 

 ”きたな!”ってオレは思ったよ。
 ”村八分のあとはラリーズか”ってね
 「相手にとって不足はないという感じだったな」(So whatより)
 
 1980年のシティロードの「アーティストIndex」は、1982年の「3分の1」の量しかなく、8月号の「は」行を見ても裸のラリーズはありません。ネット検索もない時代、シティロードやぴあで屋根裏の「裸のラリーズ」の1行を探すのが貴重な情報源でした。

 また、1980年8月号には、「あの村八分の山口冨士夫が裸のラリーズに参加」といった1983年のような記述はありません。昔からのファンの口コミでしか、山口冨士夫が裸のラリーズに参加したことを知る手段はなかったと思われます。

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シティロード1980年8月号と9月号

 1991年の裸のラリーズの公式CDリリース以降、最近やっと山口冨士夫が参加した1980年の幻の音源が聞けるようになりました。「So what」で山口冨士夫は、自分がいたころのラリーズが、「一番ポップだったんじゃないかな」と言っています。

 そのため、ずっと「明るい」裸のラリーズという先入観がありました。しかし、Double HeadsのライブCDの音源を聞いて驚きました。山口冨士夫がダイナマイツ時代に培ったポップさが、逆に裸のラリーズの重さを引き出しているように思えます。

 1980年の「造花の原野」を聞くと、「ギターはサイドだ」と言った山口冨士夫の唸るようなリズムギターとリフ、ときに水谷孝とダブルリードギターになるところなど筆舌に尽くしがたい。すごみだけでなく、美しさがあります。

 この「造花の原野」は短期間で作れるものではないでしょう。
 「3か月ぐらいはスタジオに閉じこもった」
 「ラリーズは建築物のようでもあった」と言っていた意味がわかります。

Les Rallizes Dénudés (裸のラリーズ) 造花の原野
https://www.youtube.com/watch?v=HOUqOAL-utM
7分間の中にあらゆるギターの可能性が詰め込まれている。
1980年8月14日の屋根裏の1曲目か。

裸のラリーズ Double heads

 

 また、「So What」新版を読んでいて、旧版と違うなと思ったので比べてみました。言葉使いが柔らかくなっていたり、旧版ではここは言いすぎかなと思えていた部分が削られているなど、山口冨士夫が細かい部分に気を使っていたことがわかりました。

 裸のラリーズについて、山口冨士夫は、「時代は80年代はじめだぜ!世間の動きはニュー・ウェイブ真っ盛りさ! 正直言ってワクワクしたよ」と、ニューウェーブにも目を向けていたことがわかります。

 シティロード1980年8月号では、山口冨士夫が関心を持っていたというブライアン・イーノのAmbient2など新譜が2枚紹介されています。イーノの「環境音楽」シリーズという分野が軌道に乗ってきたころでした。
 
Harold Budd / Brian Eno
https://www.youtube.com/watch?v=6-Zj4LvNvqo&list=PL5CC786FE9C94E2A0
イーノ関係では1984年のこの作品が一番聴きやすいと思う。


Harold Budd / Brian Eno -



 1980年8月号では平岡正明による桑田佳祐のロングインタビュー。お道化でなく鋭い目をしている。サザンが屋根裏の常連だったころ裸のラリーズを見たかもしれない。山下達郎より少し下の世代の桑田佳祐は村八分や山口冨士夫をどう思っているのだろうか。
 
 あの最も苦しかった1980年の夏、イタリアの1974年のUnoが、同年の山口冨士夫「ひまつぶし」のようにいいLPで、よく頭の中で鳴っていました。Osannaと村八分は、活動年代や顔へのメイク、1973年の分裂と1979年の再結成など共通点がありました。

Uno / Uno nel Tutto (1974)
https://www.youtube.com/watch?v=SMCPVjfo1DM&list=PLn6IUYFGu6PJzXjqO7muvREpv58yHNu5Y&index=6
Osannaから分裂しインターナショナルな成功を目指したUno。一人はドラッグで廃人になってしまったという。Goodbye friendでは「ピンクフロイド / 狂気」の女性シンガーLiza Strikeが参加。


Uno / Uno



村八分(1972年)とOsanna(1971年)のメイク
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★「シティロード」1980年9月号

 ・1980年9月11日 屋根裏 裸のラリーズ 
                       → 山口冨士夫参加           
 ・1980年9月16日 屋根裏 シーナ&ロケット 1000円 前売りあり
 ・1980年9月29日 屋根裏 フールズ(元サイズ+スピード)
                       → 青木真一G. (ex 村八分)初ライブ

 ※1980年9月 Mars Studio(レコーディング) 裸のラリーズ 山口冨士夫参加


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右から2列の途中までが「屋根裏」(3回クリックしていくと拡大します)
11日裸のラリーズ、16日シーナ&ロケット、29日フールズ


 1980年9月の屋根裏のスケジュールを見ると、山口冨士夫が裸のラリーズを脱退した後に、一緒に演奏するフールズ、シーナ&ロケットが出演していた。 
 彼らは、すでに山口冨士夫の近いところにいて待っていたように見えます。

 裸のラリーズへの参加の誘いを断ったという元村八分、スピードの青木真一は、フールズを結成し、29日の屋根裏が初ライブ。伊藤耕以外の3名は、後に山口冨士夫のTeardropsのメンバーになります。

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久保田真琴(ex裸のラリーズ)のサンセッツと屋根裏でのシーナ&ロケットの告知

 鮎川誠と特にシーナはダイナマイツの熱狂的ファンで、家出してまで東京までGSを見に行ったそうです。ロケットがバンドで上京したときも、周りから山口冨士夫のことを聞かされていたとのこと。

 夏に武道館公演をしたシーナ&ロケットが、屋根裏に16日に初出演しています。
 このときに「11日」に出演した「裸のラリーズ」に山口冨士夫が出演していたことを彼らは知っていたのか気になるところです。  

 久保田真琴は、1970年代初期に裸のラリーズに参加していましたが、並行して夕焼け楽団のような音楽を作り、1984年にサンディー&サンセッツとしてヒットしました。1990年に山口冨士夫のTeardropsのMixin Loveをプロデュース。

 裸のラリーズは、Mars Studioで9月4日から9日に録音したものの、レコードでリリースされませんでした。CD「Mars Studio」は「Double Heads」ライブのような轟音ではなく、穏やかな曲調のものも多く裸のラリーズの別の側面がわかります。

Mars Studio




(追記) Music Life 1973年11月号
              → 裸のラリーズ参加 「エレクトリックピュアランド」コンサート評

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Music Life1973年11月号 裸のラリーズ 
4ページしかない日本のRock Popsの記事の中に、荒井由実の1st、矢沢永吉インタビュー、内田裕也with沢田研二・ジョー山中、頭脳警察などが詰め込まれている。
11月号の月間ベストアルバムは、PFM / 幻の映像
 
 Music Life1973年11月号は、最初に買った思い出深い雑誌。「エレクトリックピュアランド」のコンサート評で、裸のラリーズについて、「LP『オズデイズ』とは違って聞こえた。やはりレコードという平面ではラリーズは真価を発揮できないかもしれない」とあります。

 しかし、今は裸のラリーズのCDもデジタル化で立体感のある音になり、動画でヘッドホンで大音量で聞けばライブに近い体験ができるようになりました。
 海外からも、これが40年前の音かと絶賛されています。

 Music Lifeの矢沢永吉のインタビューでは、タイガースが残したものは大きいと言っているのが印象的です。キャロル側からキャンセルしたという「ロックンロール・タイトルマッチ キャロル対村八分」という幻のライブが、1973年には予定されていました。





 シティロード1980年9月号に戻ると、萩原健一のインタビューがいい。「So What」によるとダイナマイツ時代は山口冨士夫とよく喧嘩していたとのこと。GS世代は「一夜にして人気がなくなったり、1回挫折した人間が多いからわかりあえる」と語っています。 

 ショーケンも沢田研二とのPYGのときに、京都大学西部講堂で村八分と共演。
 テンプターズもデビュー前は中川三郎ディスコテック専属で、モンスターズのような本格的バンドでした。ショーケンは芸能界の色に変えられてしまったと嘆いていました。

 ダイナマイツから村八分に移った山口冨士夫を西部講堂で見て、ショーケンも影響を受けたのではないだろうか。
 「傷だらけの天使」の再放送のショーケンを見て、ふとそう思いました。

 ショーケンは、ジョー山中が癌になったときのクロコダイルでの支援ライブで初めて見ました。かっこよかったです。亡くなったお姉さんなどのためにお遍路参りをしているというショーケンは、山口冨士夫の死をどのように感じたのでしょうか。

次回の山口冨士夫と情報誌「シティロード」8回目は、1980年10月号以降になります。

 



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