2018年04月17日

山口冨士夫と情報誌「シティロード」E 1984年後半(11月号〜12月号)

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「おさらば」の歌詞のようについに1984年末、山口冨士夫の活動が一度停止してしまう


山口冨士夫 / おさらば (LP「ひまつぶし」で唯一、山口冨士夫が作詞もした曲)

  「やっと ここともおさらばします」
  「色んな奴らに 出逢ったけれど」
  「やっぱり こことも おさらば」


今日の1曲
 山口冨士夫 / おさらば 1974年
 山口冨士夫 / 泣きたい時には 1974年
 加部正義 / ムーン・ライク・ア・ムーン 1983年
 ゴールデンカップス / 銀色のグラス 1967年
 村八分 / あっ 1971年 
           from 『村八分 / くたびれて (2018 remaster)』
 The Rolling Stones
         / Jumpin' Jack Flash (Get Yer Ya-Ya's Out!)1969年
 ジョー山中 / 人間の証明 1978年
 浅川マキライブ 池袋文学座ル・ピリエ 1984年
 裸のラリーズ / The last one 1984年


 特集・山口冨士夫と情報誌「シティロード」の第6回目は、前回の1984年後半(9月〜10月号)に続いて、今回は1984年の11号と12月号の頃を振り返ってみます。
山口冨士夫と同世代の尊敬するアーティストの1984年の活動にも触れました。


★「シティロード」1984年11月号


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Foolsレコード発売記念ライブで「ゲスト山口冨士夫 必殺のラインナップだ」と紹介


 ・11月3日  屋根裏 タンブリングス(山口冨士夫バンド)
 ・11月17日 ライブイン Foolsレコード発売記念 ゲスト「山口冨士夫Band」
 ・11月24日 オールナイト 法政大学ホール( 山口冨士夫出演可能性あり )

 
 青木真一が結成・在籍し、1982年11月の山口冨士夫の復活の切っ掛けを作って以来、山口冨士夫と行動を共にしてきたFools。
 そのFoolsの11月17日のレコード発売記念ライブは、シティロードでも「ゲスト山口冨士夫 必殺のラインナップだ」と紹介。Foolsの伊藤耕も最近亡くなりました。





 11月24日の法政大学ホールの山口冨士夫の出演については確かではありません。
 しかし出演者が、フールズ、少年ナイフ、ローザ・ルクセンブルグ 「他」とあり、
 また、山口冨士夫「So What」に「秋の法政大学を最後に一人旅に出た」とあります。

 さらに、翌12月の法政大学ホールのライブに山口冨士夫は欠席しています。
 以上からすると、この11月24日に山口冨士夫が出演したものと推測されます。シティロード11月号は学園祭特集で、「今年もロックの硬派は法政だ」と書かれています。

 11月1日明治大学は「チャボvsチャー」の企画でピンククラウドとチャボバンドが出演。
 山口冨士夫と1976年にリゾートを組んだルイズルイス加部は1978年から1994年までピンククラウドで活動、1980年代は毎月大きな会場でライブがありました。

 私もこのころ本多劇場の下北沢音楽祭でピンククラウドを見ました。山口冨士夫も加部正義を意識したと思います。1979年に村八分の再結成に山口冨士夫が「おれは賭けた」というのは、「ジョニー、ルイス&チャー」に触発されたのではないかとも思います。

resort(山口冨士夫&加部正義) trailer
https://www.youtube.com/watch?v=RQFcGvd9Quc


ついに世に出た伝説のバンド「リゾート」の1976年のライブ



 ピンククラウド関係の中でも、山口冨士夫のEP「ライドオン!」の直後の1983年7月に発売された加部正義のソロLP「ムーン・ライク・ア・ムーン」は傑作でした。
 本来はギタリストの加部正義が書き溜めていたと思われる名曲、名リフが多い。

 このLPは「ひまつぶし」のようによく聞きました。Gentle Giant / In a glass houseのようにガラスの割れる音から始まる。「ムーン・ライク・ア・ムーン」はPink Floydのように音が広がるインストロックでした。

 このLPの音や銀色のグラスなどのゴールデンカップスに憧れて、横浜の本牧に一人旅をしたのもこのころでした。伝説のクラブ「ゴールデンカップ」も見ました。いろいろなことを思い起こすと、懐かしく感傷に浸ってしまいます。
 
MASAYOSHI KABE - ONLY THE YOUNG
https://www.youtube.com/watch?v=cCIOYpRN0DA
アルバム最後のリラックスした名曲。EmtidiのSaatと同じコード進行。青春の終わり。


1983年5月の山口冨士夫のEP「ライドオン!」の後、1983年7月に発売



 11月23日には、1971年に頭脳警察、1972年に村八分が出演した慶應大学三田祭で、PANTAのライブがありました。PANTAは、レコーディング中に病によって倒れてしまったという問題作「16人格」を8月に発表したばかりでした。

 1960年代に山口冨士夫にブルースバンド結成を持ちかけたPANTA。彼もソロの時代はラブソング集に以前のファンから批判を受けたり、山口冨士夫と同様、方向性に苦しんだ時期があったと「団塊の世代」特集のインタビューで語っていました。





★「シティロード」1984年12月号
 

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12月21日 「タンブリングス+ゲスト:鮎川誠」 山口冨士夫が再び欠席してしまう。
1983年5月にルイードで山口冨士夫と対バンだった安全地帯がブレイク

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12月22日は裸のラリーズ
2年続いた山口冨士夫、裸のラリーズの法政大学ホールでのクリスマス連日ライブ。


 ・12月8日 東福生 SUNSHINE UZU
             タンブリングス(山口冨士夫 青木真一 青木正行 小林秀弥)
 ・12月21日(金)法政大学ホール  タンブリングス ゲスト:鮎川誠 
                             山口冨士夫欠席 
 ・12月22日(土)法政大学ホール  裸のラリーズ
 ・12月29日 0:30am 新宿ミッドナイトスペシャル  山口フジオ+エミリー+アキオ

 ・12月31日 クロコダイル In the midnight special 84’
            タンブリングス(山口冨士夫G) 鮎川誠&シーナ(予定)
              ← この日については、シティロード1985年1月号に告知


 ・12月6日  クロコダイル    ジョー山中 Reggae Vibration
 ・12月末  文学座ル・ピリエ  浅川マキ 


 1983年のクリスマスに2日間素晴らしいライブを見た山口冨士夫のタンブリングスと裸のラリーズが再び、法政大学ホールで12月にライブを連日行うとの告知。
 ゲストが鮎川誠ということで、たいへんな期待を持って会場に向かいました。

 12月21日に、「ゲスト鮎川誠」がどういう形で参加するのか不明でしたが、シーナ&ロケットとして出演しました。500円のカンパで見れたのはラッキーでした。
 翌1985年1月24日にシーナ&ロケットは渋谷公会堂で単独ライブをしています。


 


 しかし、シーナ&ロケットの演奏終了後、なかなか山口冨士夫が現れません。
 その間、ホールに大きな音でライブの音が流れました。私は、直感的に「これは村八分の伝説の最盛期のライブ音源ではないか、、、」と思いました。
 
 会場で流れた「あっ」は、1971年4月録音の村八分の「草臥れて」でした。ホールのエコーがかかった状態で大音量で聞きました。イコライザーでベースを思い切り上げて、全体にリバーブをかけたような音でした。


あっ!! from 『村八分 / くたびれて (2018 remaster)』
https://www.youtube.com/watch?v=O8SuvuaVqfU
ベースなどの音圧が上がり凄いサウンドにremasterされた。


4回目のリリースとなる「くたびれて」 



 この「あっ」では青木真一のベースのグルーブが中心。山口冨士夫が「So What」で「テッチャンのリズムギターは、バンドのビートを唸らせていた」と語る浅田哲のリフ、上原裕の跳ねるビートが台風の目のように渦を巻き、それをチャー坊の叫びが扇動する。

 小学校の頃に、Rolling Stones / Jumpin' Jack Flashをラジオで録音したものが、シングルヴァージョンと違って音が太く、グルーブして何度も聴いた。5年前にやっとそれがGet Yer Ya-Ya's Out!のライブとわかりました。

The Rolling Stones / Jumpin' Jack Flash (Get Yer Ya-Ya's Out!)
https://www.youtube.com/watch?v=2O8U2skkqyY


全盛期のストーンズと村八分のイメージが重なるライブ盤


 法政大学ホールで聞いたエコーのかかった「あっ」は、まさにストーンズの感じだった。

 「くたびれて」の「あっ」、慶應三田祭CDの「あやつり人形」を聴くと、山口冨士夫がMusic Life1971年6月号で「世界で一番すごいのはストーンズと村八分だ」「チャー坊の方がミックジャガーより上。持っているものが違う」と言ったことが理解できる。 
 
村八分1971〜1972年の映像
https://www.youtube.com/watch?v=G9EqrB0ISaw
3:17〜「音楽にダンスを融合させるロックシンガー」チャー坊と山口冨士夫の頂点
「天国のひまつぶし」で村瀬シゲトが「二人は1+1=2ではなく、4,5になった」と言うのがわかる





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タンブリングスのライブ


 ホールで、村八分「草臥れて」からの「あっ」「どらねこ」などが流れた後に、ついに会場に「山口冨士夫は出ません」というアナウンスがありました。
 青木真一が「おれたちだけで楽しもうぜ!」と言ってライブが始まりました。

 あの会場にいた青木真一は、自分の村八分時代の演奏を聴いてどう思ったのか。
 もしかしたら、山口冨士夫の欠席を見越して、青木真一か誰かが村八分の音源を用意していたのかとも思いました。

 山口冨士夫は、前座のシーナ&ロケッツを聴いて自信をなくしたのかとも、そのときは想像しました。シーナ&ロケッツはBOURBONからアルファレコードに移籍し、サウンド面でYMOがサポートして先端の音をロックンロールの形にして演奏していました。

 しかし、これは勘違いで、白夜書房の日本ロック大全のインタビューによると、山口冨士夫はシーナ&ロケッツに対して引け目を感じるようなことは全くなかったようです。
 実際のところ、この日、山口冨士夫は最初から会場に来れなかったようです。





 この12月21日の山口冨士夫の再度の欠席についても、9月の屋根裏のときと同様、全く不満な感情は起きませんでした。山口冨士夫は、10月のクロコダイルで、「お前らも何かしたいけどわからないから俺のところに来てるんだろ?」と客に問いかけました。

 しかし、その山口冨士夫自身もミュージシャンとして「自分は何をすべきか悩んでいるのではないか」と、私は考えるようになりました。
 山口冨士夫とその音楽が自分を代弁してくれる鏡のように思えました。
 
 この日、山口冨士夫の欠席を鮎川誠も心配したのはではないでしょうか。
 この1年後、ダイナマイツ時代から山口冨士夫のファンだったという鮎川誠とシーナのサポートで山口冨士夫は復活します。

  



 翌12月22日の裸のラリーズは、前日の山口冨士夫欠席の不安を消すように1983年12月と同様にぶっ飛んだ演奏でした。1983年12月のときは山口冨士夫も客席で聞いていましたが、このときはみつかりませんでした。
 
 造花の原野のような速いテンポの曲の音の広がりや、The last oneの重厚な締めくくりは素晴らしかったです。 水谷孝は最後にギターを壊して踏みつけたこともありましたが、最後にはマイクに向かって「ありがとう」と言っているのが印象的でした。

 裸のラリーズは、法政大学2回、屋根裏、鹿鳴館1回ずつと4回見ました。絵画展で水谷孝と遭遇したことがあります。ベルギー象徴派展かと思ったのですが、それは1982年12月〜1983年1月だったので時系列で合いません。裸のラリーズについては体に刻まれた爆音に消されて、記憶がいつかわからない感じです。





 12月8日のクロコダイルに赤ペンでマークがついており、この日に8月に江の島で山口冨士夫と共演したというジョー山中のReggae Vibration (石間秀機G 篠原信彦Key)を初めて見たようです。

 ジョー山中については、フラワートラベリンバンドの「メイクアップ」を聞いて日本にもこんな凄いバンドがあったのかと尊敬していました。クロコダイルでジョー山中と目が合ったときは緊張しました。

 ジョー山中もFTBの解散後、人間の証明でヒットしたり、ミュージカルやいろいろな道を模索し、レゲエにたどり着いたようでした。
 このころ、ジョー山中の「魂」のLPジャケットをずっと部屋に飾っていました。


ジョー山中自伝 アフガニスタンの危険地帯にも内田裕也とボランティアに行ったという



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12月29日に告知されていたライブを偶然発見。
カタカナの「フジオ」名義が1974年の「ひまつぶし」を想起させる。


「おさらば」「泣きたい時には」収録



 1984年末に初めて浅川マキを見ました。驚きのライブでした。黒い衣装でシャンソンに近いイメージで一人で歌い出した浅川マキが「〜さん」と一流のジャズミュージシャンを一人ずつ呼びながら、ビリーホリデイのように徐々にジャズのグルーブに乗って歌う姿。

 浅川マキはこの時代でも音楽誌で称賛されていた。心の空虚に引き込まれながら心の空虚を埋めてくれるような声。世の中に音楽の天才は本当にいるのだと思いました。
 山口冨士夫の「泣きたい時には」もいい。これほど歌心が伝わる歌は多くない。

※山口冨士夫も「ひまつぶし」に「浅川マキのような感じの曲が入っている」と述べている。So What」新版P133

「アングラの女王 歌手・浅川マキ」 追悼
https://www.youtube.com/watch?v=964NthnsN_A
2010年にライブ当日に名古屋のホテルで亡くなっていた浅川マキの人生は、
「Rockとは生き方のことなんだ」と言っていた山口冨士夫と重なる

池袋文学座ル・ピリエ(12月27日〜31日)での浅川マキの年末恒例だったライブ
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1984年は、山口冨士夫の活動停止と浅川マキの大晦日ライブで、終わりました。
 山口冨士夫は、予定されていた12月29日と12月31日のライブにも出られなかったのではないかと思います。

 1985年に入ってから、しばらく山口冨士夫に関する情報は全く途絶えてしまいます。
 しかし、1985年から私の人生が苦しい局面に入った時にも常に山口冨士夫の存在が心の支柱でした。
 
 1985年末からの鮎川誠とシーナ&ロケッツのサポート、そして1980年代後半からの空前のバンドブームを経て、山口冨士夫はついに1989年にTeardropsでメジャーの表舞台に出ることになります。

 
 次回の山口冨士夫と情報誌「シティロード」7回目は、1985年以降に進む前に、1980年に遡ろうと思います。  




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