山口冨士夫ライブの告知が掲載された情報誌「シティーロード」1983年1月号〜1984年3月号
今日の1曲
/John Foxx 1983
前回に続いて、1983年の情報誌「シティロード」で山口冨士夫の出演告知を探しながら、当時の思い出を振り返ってみました。
今回は、1983年後半の7月号から12月号までです。
★「シティロード」1983年7月号
・7月9日 クロコダイル pm8:00「山口冨士夫」として告知。
・7月9日〜10日 法政大学ホール All night in Gakkan 山口冨士夫バンド
(共演)近藤等則、じゃがたら、山岸潤史、Fools etc
→ クロコダイルのライブの後に出演。凄いスケジュールだ。
・7月16日 クロコダイル Cry for love & peaceという15-16日のイベント
16日のヘッドライナーとして、「山口冨士夫」が出演
15日には、元The M、ゴダイゴの浅野孝己が出演
「シティロード」7月号のインタビューは山下達郎。彼はGSにも造詣が深く、シュガーベイブの1975年のドラマーは元村八分の上原ユカリでした。山下達郎がダイナマイツ時代から、山口冨士夫の復活をどう思い、今もどう評価しているのか興味深いです。
また、7月5日に中野サンプラザで来日ライブを見たPILのジョン・ライドンに原宿の竹下通りで会いました。「シティロード」7月号の裏表紙にサインをもらいました。CharがSex Pistolsを初めて聞いたとき「これって村八分じゃん」と言ったという話があります。
PILは、アンコールで、ジョン・ライドンが、はっぴのようなものを着てAnarchy in the UKを演奏したことだけ覚えています。村八分の1972年のチャー坊+山口冨士夫の映像は、Sex Pistolsの1977年のジョニーロットンに匹敵するインパクトがあります。
映画では、7月に、Popol Vuhが映画音楽を担当したヘルツォーク監督の「アギーレ神の怒り」「フィッツカラルド」が2つ公開されています。裸のラリーズが、この年の12月のライブの開始前にPopol Vuhの「アギーレ」を流していました。
POPOL VUH "Aguirre pt I, II, III"
https://www.youtube.com/watch?v=zdeIN3sYcfk
★「シティロード」1983年8月号
・8月27日クロコダイル 「山口冨士夫」として告知。
映画では「フラッシュダンス」が大ヒットして話題になっていました。1年前の1982年の夏に六本木のディスコに週2-3回通っていたのですが、もうディスコに戻る意欲はなく、「山口冨士夫」が私にとって人生の灯台のようになっていました。
☆「シティロード」1983年9月号
→ 山口冨士夫の記載なし
このころは、10月に千葉でライブがあったように、東京だけにとどまらず、日本中を精力的にライブ活動で回っていたようです。
★「シティロード」1983年10月号
・10月1日 クロコダイル 「山口冨士夫」と告知。共演Boogie Baby
・10月9日 千葉ダンシングマザーズ 「山口冨士夫グループ」と告知。
・10月10日 裸のラリーズ 鹿鳴館
手元に裸のラリーズのフライヤーがあるのでおそらく、この日が最初に裸のラリーズを見た日のようです。しかし、鹿鳴館で裸のラリーズを見たのは1984年の10月17日だと記憶しています。やはりこの年の12月24日の法政大学ホールでの裸のラリーズのライブがあまりに凄かったため、それが最初の裸のラリーズ体験だと思えています。
「シティロード」10月号のインタビューは、沢田研二が映画「ときめきに死す」に絞って話しています。沢田研二が山口冨士夫をどう評価していたのかも興味のある所です。GS時代にタイガースとダイナマイツは会っているでしょうし、山口冨士夫は、加橋かつみとセッションをして「フジオちゃーん」と言われたと「クイックジャパン」連載にあります。
Music Life 1971年6月号
フラワートラベリンバンドSatoriの新譜紹介と山口冨士夫のインタビュー
また、1971年3月20日に村八分は沢田研二のPYGと京大西部講堂で共演しています。1971年6月号のMusic Lifeのインタビュー「人間訪問」で、山口冨士夫は「世界で一番すごいのは、ストーンズと村八分だ」と述べています。
さらに、山口冨士夫はMusic Lifeのインタビューで、好きな日本のバンドとしてPYGをあげ「ちゃんとあれだけの客をのせて、音楽的にもいいと思う」とも述べています。西部講堂でPYGは酷いヤジを受けましたが、山口冨士夫はPYGを認めていたのです。
沢田研二の1983年のExoticsのドラムは、村八分の2代目ドラマー、山下達郎のシュガーベイブを経た上原”ユカリ”裕でした。日本のロック黎明期に関わった上原裕はExotics解散の後、しばらく活動を停止します。
沢田研二/ストリッパー ドラム:上原裕=元村八分
https://www.youtube.com/watch?v=kTljhurK_z8
★「シティロード」1983年11月号
・11月4日 横浜Shel Garden 「山口冨士夫(旧村八分)」として告知。
チャージは1800円で一番高いランク。
このころ、元パワーハウスのChiboの活動も活発で「シティロード」に頻出。
11月7日か8日にJohn Foxxを中野サンプラザで見る。ダンスアルバム「Garden」は山口冨士夫の「ひまつぶし」のように良曲ばかりの素晴らしいLPだったが、Golden Sectionは精彩を欠いた。UltravoxのI can’t stay longが聞けたのはよかった。
I Can't Stay Long - Ultravox! 1977 /Humania /John Foxx 1983
https://www.youtube.com/watch?v=OpmNo78xMts
11月12日に慶應日吉で沢田研二が初めて大学の学園祭に出演しています。また、前年1982年10月に日吉で裸のラリーズのライブがありました。裸のラリーズは、頭脳警察がはっぴいえんどの時間枠をジャックした1971年の慶應三田祭に出演しました。
1983年当時のミニコミ誌での山口冨士夫の記事
ライブを見た人でも「よかった」「あれは化石だ」という意見があるとのこと。
山口冨士夫「村八分のことは、あの2枚組のLPに全部入っている。ただ、聴くだけでなくてシノギを削ってほしいよ」「バレーボールの選手はストーンズのように続けられないだろ。でも俺たちはまだできるんだよ。やる気だけ。それが絶対条件」
★「シティロード」1983年12月号
(※12月号はみつからなかったため、他にもライブがあった可能性があります)
・12月23日 山口冨士夫 法政大学ホール
・12月24日 裸のラリーズ 法政大学ホール
満を期して、山口冨士夫が登場。
しかも、クリスマスの23、24日に裸のラリーズと名前が並んでいた。なぜ、山口冨士夫と裸のラリーズが並んでいるのか?という時点で興味深々だった。
・1983年12月23日 山口冨士夫 法政大学ホール
今までの人生で一番感動したライブの一つ。
ビートルズの「Dear Prudence」のイントロが聞こえたとき、本当に時間が止まって体が動かなくなるような感動があった。数あるビートルズの曲の中で、4人がなぜ「Dear Prudence」を頭にもってきたのか。地味な曲の一つでありながら、実に心に深く響いてくる。演奏しているのは、村八分と外道とトゥーマッチの元メンバーなのだ。本当にすごいバンドに巡り会えてよかったと思った。
ホールは、音の広がりが素晴らしく、ステージの下からみる山口冨士夫バンドは躍動感に溢れていた。屋根裏のアットホームな感じもよかったが、ここでは神々しく見えた。
「酔いどれ天使」が途中でリフになるところで、ゆったりしたスピードにアレンジしていた。村八分の「んっ」もやったと思う。Twist and shoutにぶっ飛ばされた記憶がある。
今日はなんと雪が積もり、最近再び体調が苦しくなりがちなのだが、今も山口冨士夫のCDを聞きながらこれを書いていて、あのクリスマスのときのライブのことを思い出すと勇気づけられる。
The Beatles(White Album)- Dear Prudence
https://www.youtube.com/watch?v=AZDw0uu6UO0
・1983年12月24日(土)裸のラリーズ 法政大学ホール
今までの人生で一番衝撃を受けたライブの一つ。
まず、開演時間になってもライブが始まらず1時間ぐらい待ったと思う。その間に1960年代前後のジャズが流れていた。当時コルトレーンなどのジャズにも興味を持ち始めていたので、待たされている感じがしなかった。
なにより驚いたのは、山口冨士夫が自分より2〜3席前の方に座っていて「水谷君が、、、」と話している声が聞こえたことだった。「ブルース系ロックの山口冨士夫と裸のラリーズがなぜ関係があるのか!?」ライブへの期待も膨らんだ。
SEが最後の方でPopol VuhのAguirreになり、音が途絶えるとついに轟音のギターが始まった。2時間ぐらい続いたが圧倒された。3日間ぐらいは耳鳴りがした。
その日以後、山口冨士夫と裸のラリーズの関係については、「So What」の本が出るまで謎で神秘的であり、両者への関心も相乗効果で大きくなった。
Les Rallizes Denudes (with Fujio Yamaguchi) "Field Of Artificial Flowers"造花の原野 1980年
https://www.youtube.com/watch?v=HOUqOAL-utM
こうして1983年は終わりました。山口冨士夫と裸のラリーズの1年でした。
インターネットのない時代に「シティロード」には本当に助けられました。
関係者の方にはお礼を申し上げたいです。
次回は、1984年の山口冨士夫と「シティロード」です。
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- 山口冨士夫と情報誌「シティロード」G 1980年10月号〜1981年3月号
https://www.library.metro.tokyo.jp/search/research_guide/magazinebank
今回は本当にありがとうございました。