フジオさん追悼のためにマイルス・デイビスのTシャツを着て踊った。
山口冨士夫参加の裸のラリーズMars StudioのCD(左下が山口冨士夫)
山口冨士夫も水谷孝もマイルス・デイビスのファンと語っている。
今日の1曲
山口冨士夫wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E5%86%A8%E5%A3%AB%E5%A4%AB
裸のラリーズwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%B8%E3%81%AE%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA
1990年に山口冨士夫の自伝「So What」でその存在を知ってから23年、山口冨士夫が1980年に数ヶ月参加した裸のラリーズのMars Studioの音源を初めて聞くことができました。レコードとして出す予定だったのがお蔵入りになっていたものです。
「So What」の中で山口冨士夫は、1年経たずに脱退したものの、裸のラリーズのアプローチは真剣なもので「命がけとも言えるものだった」「あのバンドにいたことを誇りに思う」と述べています。
裸のラリーズは知っている限り、日本で最大の音でライブをするバンドでした。
物凄いエコーとギターのフィードバックの嵐でした。
ラリーズのライブを聞いた後は、3日間は耳鳴りが続きました。
Mars Studioは「スタートします」という声まで収録されています。ライブでの轟音を想像していたのですが、ライブの曲と同じ曲とは思えないほど、多くの曲が実に優しい穏やかな音です。ラリーズの本質が実に繊細なものだとわかりました。
ライブではエコーのためによくわからない歌詞の内容も聞き取れますし、ギターのコード進行もよくわかるので、裸のラリーズの世界をまさに裸にした感じです。フジオさんが裸のラリーズの音にどうアプローチしようとしたかも聞いていてわかります。
裸のラリーズの水谷孝は、かつてインタビューで「今注目しているアーティストは?」という問いに対して「君たちすべて」と述べています。聴衆から「見られている」という緊張感があの裸のラリーズの驚異のライブを支えていたのかもしれないと思いました。
最もスピードが速い「夜の収穫者たち」と、ライブでの最後の曲「The Last One」では、ライブと同様の轟音ノイズのギターが聴けます。
やはり裸のラリーズは轟音ノイズ。
サイドギターに徹していた山口冨士夫が、「The Last One」の後半でリードギターを弾きます。水谷孝とのダブルリードギターで地獄のようなバトルを展開するこの部分が本CDの最大の山になっています。
〜 山口冨士夫 追悼ダンスWomb13 〜
山口冨士夫のためにWombで追悼ダンスをしました。私が今ダンスを継続できているのも山口冨士夫や裸のラリーズのライブからの影響が強いです。やるからには徹底的に踊ることは彼らのステージから学んだものだと思います。今回も2時間踊りました。
今回のダンスは、ここ10年以上続けてきた頭をアップ・ダウンさせるHiphopとは違うものを初めて試みました。それはハマチャチャと呼ばれるダンスで、1960年代の終わりにベトナム従軍兵として横浜に滞在していた黒人のダンスをルーツとするものです。
頭の位置は上下させることなく、脚をスケートのように動かし、そこにジェームス・ブラウンの高速ステップを混ぜてみました。山口冨士夫から学んだ精神を忘れることなく、初心に戻ってダンスの可能性を開いていきたいと思います。
山口冨士夫在籍時の裸のラリーズのライブ
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