2011年03月06日

 40周年・ベニスに死すMorte a Venezia  今日の一曲 <341> マーラー <342> レ・オルメ Le Orme

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Single レ・オルメ Le Orme / すみれの香り Il profumo delle viole
1970年発表。レ・オルメが死のモードに突入する前夜
Tangerine DreamのUltima thule同様、移行期の重要シングル


<341> マーラー Mahler / 交響曲第5番第4楽章アダージェットSymphony no.5 IV - Adagietto
<342> レ・オルメ Le Orme / 空を見た Sguardo verso il cielo 1971年


〜 40周年 ベニスに死す 40 anni Morte a Venezia 〜


  3月5日に重い事件の示談ができ、ほっとしています。
  2011年3月5日は、映画「ベニスに死す」がイタリアで1971年3月5日に公開されてから40周年にあたります。そして、1971年は、ベニスのグループ、レ・オルメLe Ormeが音楽性の方向を転換してからの第1作である3rdアルバムCollageを発表した年でもあります。

  世阿弥が500年前に指摘したように、芸能の世界は、芸術性を追及すると大衆がついてきてくれません。他方で、万人受けを狙うと自分の求める表現ができず、目利きからは見放される。聖と俗、芸術性と大衆性の拮抗は、古来からの芸術家のテーマでした。
  レ・オルメLe Ormeは、聖と俗の両面においてヒットチャートでNo.1になった世界でも稀有のバンドと言えます。すなわち、Le Ormeが最も芸術性を追及した時代にUomo di pezzaを1972年にLPチャートの1位に送り込むとともに、大衆性を追及した時代にCanzone d’amoreが1976年にシングルチャートで1位になっています。これは、イギリスのGenesis、Yes、オランダのEarth & Fireといったバンドでもなしえなかったことです。
 
  レ・オルメLe Ormeが「あしあと」を意味するように、彼らの音楽的変容は時代を映す鏡であったともいえます。1967年にデビューしたLe Ormeは、当初はたくさんあった1960年代のBeat groupのひとつにすぎませんでした。1970年代に入ってそれらのBeat groupは、I Poohのように大衆性を追及するものと、PFMのように前衛的Progressiveな方向に向かうものに分かれていきます。
  Le Ormeも方向を模索していました。イギリスに渡って最新のRockを研究した彼らは、QuatermassやELPのようなキーボード主体のトリオに編成を変え、1970年にPhilipsから第1弾シングルを発表します。

レ・オルメLe Orme / すみれの香り Il profumo delle viole 1970年
http://www.youtube.com/watch?v=17j0iINwJAQ
力強いイントロはもろに英米のロックからの影響。Deep Purple / Speed KingやDoors / Roadhouse Bluesを想起させる。ところが、歌になると一転、CarJukebox時代のフラワーポップに逆行する。未消化な展開は1970年の時点で彼らがまだ過渡期にあったことを示している。


Il profumo delle violeを収録したベスト盤



  映画“ベニスに死す”そして、「空を見た」Sguardo verso il cieloを収録したLe Ormeの LP“Collage”が発表された1971年は、イタリア音楽界の転換期でもありました。1960年代のイタリアは、世界を席巻していたSanremoサンレモ音楽祭を中心に回っていました。サンレモ音楽祭は、アメリカンポップスと比肩しうる世界的影響力を持っていました。
  例えるならば、こんなことが想像できるでしょうか? 日本の紅白歌合戦に、ビヨンセ、マドンナ、マイケル・ジャクソン、サラ・ブライトマン、フリオ・イグレシアス、U2などが、「出場させてください」と言って殺到する。しかも日本語で日本の作家が作った歌を日本人の歌手とペアで歌うのです。
  アメリカの1957年の第1回グラミー賞をイタリア人のドメニコ・モドゥーニョDomenico ModugnoのボラーレVolareが受賞して以来、イタリアは世界のポップスのひとつの中心でした。

ウィルマ・ゴイクWilma Goich / 花咲く丘に涙してLe Colline Sono In Fiore
http://www.youtube.com/watch?v=QXM2jjAAHpM
1965年Sanremo音楽祭2位。日本でもヒット。





  このような1960年代のイタリアの状況において、PFMのマウロ・パガーニMauro Paganiによれば、強力な支配力を持つイタリアのレコード会社は、Sanremoを初めとする音楽祭での入選と売り上げに力を注ぎ、アーティストに対してもラブソングか外国曲のカバーしか歌わせなかったといいます。
  1967年にデビューしたレ・オルメLe Ormeもまた、Carjukebox時代はビートルズやサイケデリックの影響を受けたラブソングを歌っていました。
  前述のように1970年に入って方向性を模索していたLe Ormeですが、1971年3月5日にイタリアで公開された「ベニスに死す」が、このベニスのバンドの方向性を決定付けたといえます。


映画DVD



ベニスに死す Morte a Venezia 予告編
http://www.youtube.com/watch?v=X4N8B1ggYc4&feature=related

ベニスに死す Morte a Venezia ラストシーン
マーラーMahler / 交響曲第5番第4楽章アダージェットSymphony no.5 IV Adagietto
http://www.youtube.com/watch?v=kE8QOcJHSCE&feature=related
マーラーの交響曲第5番の第4楽章アダージェットは、もともとはマーラーが当時恋人だったアルマにあてた音楽によるラブ・レターだったが、この映画「ベニスに死す」の感情的表現においては、ほぼ主役ともいえる役割を果たした。

Mahler / Symphony no.5 IV Adagietto
Chicago Symphony Orchestra conducted by Daniel Barenboim
http://www.youtube.com/watch?v=VWPACef2_eY&feature=related


シノーポリ指揮



  もともと原作者トーマス・マンは、この小説の主人公を老作家としていました。しかし監督のルキノ・ヴィスコンティは、主人公の「グスタフ・アッシェンバッハ」を作曲家グスタフ・マーラーに置き換えました。アッシェンバッハ指揮によって発表された作品は聴衆から罵声を浴び、足を踏み鳴らされます。そして、マーラーと親交のあった作曲家シェーンベルク(アルフレッド)を登場させ、二人は「美」について論争します。一人娘も病気で失ったアッシェンバッハは、旅行先のベニスでタジオという少年に自分の求めていた「美」を見出します。アッシェンバッハはコレラにかかり、浜辺でタジオを目で追いながら死亡します。

  Le Ormeの1970年からのプロデューサー、ジャンピエロ・レヴェルベリGianpiero Reverberiは、ルイジ・テンコLuigi Tenco が1967年のサンレモ音楽祭での落選に抗議してピストル自殺したときの 参加曲Ciao amore ciaoの編曲者であり、指揮者でした。
  美の論争、そして作曲家の死という「ベニスに死す」のテーマが、作曲家Gianpiero Reverberi、そして奇しくもLuigi Tenco が死んだ1967年にデビューしたベニスのバンドLe Ormeに及ぼした衝撃の大きさは想像に難くありません。


Luigi Tencoの本



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イタリアで最初の「内容を伴った」レコードといわれるLe Orme / Collage
「ベニスに死す」のダーク・ボガード扮するアッシェンバッハと同じ死に化粧。
ALDOはMICHIの持つ十字架に串刺しにされている。
右は、Le Orme / Sguardo verso il cielo のLiveを収録したRarita Nascoste


  かくして、PFMのMauro Paganiによれば、アーティストが本当に表現したい「内容を伴った」イタリアで最初のレコードと言われるレ・オルメLe Orme のアルバム Collageが1971年の5月から6月にかけて録音されました。ラブソング以外の音楽、例えば、フランスのジャック・ブレル Jacques Brel、ボリス・ヴィアンBoris Vian、アメリカのBob Dylan、Doors、日本の丸山(美輪)明宏などが創作したことを初めてイタリアではLe Ormeが行ったのでした。

  Collageでは、ナイスやELPの手法を用い、クラシックの旋律を導入しました。イタリア人の彼らは先人であるドメニコ・スカルラッティDomenico ScarlattiのソナタSonata in E major, K 380の旋律を使っています。

Le Orme / Collage 1971年
http://www.youtube.com/watch?v=6JDY2elDuNM&feature=related
CollageのA面では続く2曲で、初恋、文明批判について歌われている。


Collage



  そして、Le Ormeのスタンスを明確に示したのが、シングルカットされたB面の1曲目「空を見た」Sguardo verso il cieloです。「ベニスに死す」の影響を受けたCollageのテーマは、ずばり「死」でした。それは、Sguardo verso il cieloの「生きることの罪と変えようのなさ」「砂漠に捨てられた道化師の仮面」といった詞に如実に表れています。
  湾岸戦争のときにはテレビでは凄惨な映像が隠されていたのと異なり、ベトナム戦争当時は空爆などの殺戮がテレビで平然と流されていました。イル・パエーゼ・ディ・バロッキのメンバーがインタビューで、音楽制作の背景には「ベトナム戦争」など社会情勢に対する悲観的な展望があったと述べたように、「空を見た」Sguardo verso il cieloからは、殺戮を繰り返す人類の愚かさに対する怒りと諦観が感じられます。 
 

Le Orme / Sguardo verso il cielo  SENZA RETEでのLive 1972年
http://www.youtube.com/watch?v=D3Y0ofxcz7o&feature=related
メドレーのUna dolcezza nuovaでGianpiero ReverberiがPianoを弾いている。

Le Orme / Sguardo verso il cielo スタジオ版 1971年
http://www.youtube.com/watch?v=tFzebLBBSoE&feature=related
2:00でのリズムチェンジが、前年のIl profumo delle violeとは異なり、意味をもったものとなっている。Sguardo verso il cieloという言葉が2回繰り返される。
「生きることの罪」といった詞の内容は、同じくクリスチャンである岡林信康の1970年の「私たちの望むものは」に通じるものがある。

  1970年のシングル「すみれの香り」Il profumo delle violeは、翌年のアルバムCollageのB面の最後の曲で「ある花の死」Morte di un fioreへと変貌を遂げました。
  そこには、まだ希望を見出そうとする明るさで締めくくられています。
  しかし、ベトナム情勢が混迷を続ける中で、Le Ormeは次の1972年のUomo di Pezzaでは「開かない扉」「精神錯乱」、そして1973年には、核戦争による世界の破滅を予言した最高傑作Felona e Soronaを発表します。

  Collageは、MoogやMellotronの使用度が低いこともあり、日本では人気がいまいちです。私も高校時代は、意味もわからず白化粧を馬鹿っぽいジャケットだと思っていました。また、常に渋谷Ciscoで売れ残っていたこともあって、2流バンドと決めつけていました。それは、イタリアでLe OrmeがI Poohについで人気があったためレコードがたくさん再版され、輸入されていたからであって、全くの認識違いでした。イタリアでCollageの評価がなぜ高いか理解するのに長い年月がかかりました。


イタリアの歴史の一部になっているLe Ormeの軌跡




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