
アリーチェALICE - Prospettiva Nevski 1985年
今日の1曲
アリーチェALICE - Prospettiva Nevski 1985年
Alice Visconti - IO VOGLIO VIVERE 1975年
ジルダ・ジュリアーニGilda Giuliani
- Parigi a volte cosa fa 1973年 世界歌謡祭グランプリ
甲子園春夏の江川卓 1973年
James Brown - Soul Power +Get Involved Live 1971年
東京では今日からカラオケも解禁になり、コロナの状況は徐々に良くなっています。
これからは「自粛ではなく自衛を」とのこと。カラオケで採点したり、録音して聞き直すと、つくづく自分の歌が情けなくなりますが、また行きたいです。
そこで今回は久々に、カラオケ下手には憧れの「カッコいい女性ボーカル」特集。
イタリア編、アリーチェとジルダ・ジュリアーニです。いままで、Inga Rumpf、Shannon、Dalida、Janis Joplinなどを紹介してきました。
〜 アリーチェ Alice ビジュアル系実力派 〜
まず、1985年のアリーチェAlice。ロングヘアーからスーパーモデル級の美貌に変身。鬼才Franco Battiato作品を最先端のエレクトリック・ポップのアレンジで歌っています。Battiatoは1970年代初期に実験音楽を作っていました。
ALICE - Prospettiva Nevski 1985年
https://www.youtube.com/watch?v=z06p2UxNdOg
あえてシングルカットせずに、ビジュアルと一体の作品としてRAIなどで放映する戦略をとったと思われる。
ALICE - Prospettiva Nevski 英訳付き
https://www.youtube.com/watch?v=qiDZKzFfV5U
Battiatoの歌詞はニジンスキーのロシアバレエ団のことなど。
Aliceは1954年生まれ。
1971年にI PoohのTanta voglia di ireiを歌ってコンテストで優勝し、1972年にサンレモ音楽祭、ベネチア音楽祭で本名のCarla Bissiでデビュー。
1975年にAlice Viscontiとして再デビュー。
I PoohのDorazio作曲のIO VOGLIO VIVERE(I want to live)でも、サウンド&ビジュアルの美しさで圧倒しています。
Alice Visconti - IO VOGLIO VIVERE 1975年
https://www.youtube.com/watch?v=EbIfOZ-77sw
歌う前はヤジも飛んでいるが、次第に聴衆も沈黙していく。I Poohや当時のイタリアンポップスで、ここまでシンセサイザーやオーケストラに没入したサウンドはないのでは。
〜 ジルダ・ジュリアーニGilda Giuliani 剛速球系実力派 〜

10年に一人の大型新人と呼ばれたジルダ・ジュリアーニ。第4回世界歌謡祭でグランプリと最優秀歌唱賞を受賞。1970年代の世界歌謡祭はサンレモ以上の権威を持っていった。
ジルダ・ジュリアーニもアリーチェと同じ1954年生まれ。こちらも鳴り物入りで1973年にサンレモ音楽祭でデビュー。19歳で参加した同年11月東京の世界歌謡祭では、「愛の流れの中に」 Parigi a volte cosa faで、ギリシャのDemis Roussosなどを抑えてグランプリと歌唱賞を同時に受賞。
ジルダ・ジュリアーニは、アリーチェと異なり圧倒的な歌の声量と抑揚、テクニックで圧倒する剛速球系実力派。難解なシャンソンなどもこなす。New TrollsのConcerto Grossoのように悲劇的、感傷的なイタリアオーケストラのアレンジも全盛で、歌を支えていました。
1973年はベトナム戦争がまだ泥沼状態で、イタリアのProgressive Rockでも深刻な内容の傑作群が生まれた時期。彼女のMinaとMilvaを合わせたような情念の歌からは、そのような時代背景も感じられます。
Gilda Giuliani - Parigi a volte cosa fa 1973年
https://www.youtube.com/watch?v=yu_9Vivwh_0
1:25〜 野球のピッチャーに例えれば、154キロの直球ストレートど真ん中。
3:10〜 唸りを上げて高めにホップする160キロのストレートに空振り!
3:57〜 プログレ風間奏からの半音上げた150キロの高速スライダーに見逃し三振
しかし、ベトナム終戦後は時代も変わり、悲運にもジルダ・ジュリアーニのような実力派歌手たちは、世間からは求められなくなりました。 壮麗なオーケストラによる伴奏も消えていきました。
しかし、ジルダ・ジュリアーニは今でも、自殺したイタリア史上最高の歌手とも呼ばれるMia Martiniのカバー曲集を2008年に出したり、Edith Piafの愛の賛歌を録音するなど、実力派歌手の歌を歌い継いでいます。
〜 1973年甲子園・春夏 江川卓

コロナのためにオリンピックだけでなく、春夏の高校野球もついに中止になってしまいました。若い人たちは目標を失ってつらいと思いますが、負けずに頑張ってほしいと思います。
先日、高校野球史上最大の怪物と呼ばれながら、映像が少なかった江川卓の甲子園での貴重映像がみつかりました。江川卓は1955年生まれで、ジルダ・ジュリアーニ、アリーチェと同年代でした。
昭和48年1973年夏 江川卓 奪三振集 (柳川商戦)
https://www.youtube.com/watch?v=T2bdUPw5sAs
どの球も凄いが、3:18の内角低めは本当に速い。投球を続けて見ていると、James BrownやLTDのKickin’backの強烈なグルーブ感を伴ったFunkビートのようだ。
James Brown - Soul Power +Get Involved Live1971年
https://www.youtube.com/watch?v=SmrZRcfYWvA
イタリアのRAIで放映されたMinaの番組Teatro10でのライブ。ALICE、Gilda Giuliani も当然見て影響を受けたはず。放送の翌日、イタリアの子供たちはJames Brownの真似をしていたという。
Soul Power +Get Involved 今までで一番聴いたCDの1枚
江川が一番速かったのは、1973年夏ではなく、春の選抜だったとのことで、数少ない映像を探してみました。1回戦の対戦相手で大阪代表の北陽高校は、優勝候補で全国で最高のチーム打率でしたが、作新学院江川の前に19三振で完封負けしています。
江川卓 甲子園 選抜で最も速かった男 1973年春
https://www.youtube.com/watch?v=p-dxrtInTRA&t=272s
2:10の高めにホップする速球は160キロを超えているのではないか。相手校応援団の少年の嘆く顔がすべてを物語っている。高校生の試合にノーラン・ライアンやロジャー・クレメンスが現れて本気で投げているようなものであろう。その後の江川の野球人生はジルダ・ジュリアーニと同様に平坦なものではなかった。
1973年、江川卓が甲子園で、ジルダ・ジュリアーニが日本武道館で、160キロの剛速球を投げる姿が重なるような気がします。当ブログも6月でおかげさまで12周年になりました。野球のネタを出したのは初めてかと思います。