2019年07月03日

〜 幻の村八分出演 〜 間章プロデュース「自由空間」音楽祭1972年4月29日 

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村八分が出演キャンセルした間章プロデュース「自由空間」音楽祭 1972年4月29日



今日の1曲

  Tangerine Dream / Phaedra
  村八分 / 脳みそ半分


 久々にYoutubeでびっくり映像を発見しました。
 1972年4月29日新潟体育館での間章プロデュース「自由空間」音楽祭の30分のライブドキュメント映像です。NHK総合で「ある青年の試み」として放送されたそうです。

 間章(1946-1978)は夭折した伝説の音楽評論家です。私が小学5年生のときに読んだ東芝の石坂敬一による冊子「Beatles Forever」の次に大きな影響を受けたのが、中学2年生のときに読んだ「タンジェリン・ドリーム / フェードラ」の間章の解説でした。

Tangerine Dream / Phaedra
https://www.youtube.com/watch?v=URssLwPXkVk


間章 ドイツロックなどのエッセイ



 「自由空間 ~ 副題 今からの光 さらに寒くさらに北へ」現代音楽祭は、9時間23グループ60人による演奏です。

 ビデオ前編の9:14で、間章は、「ロック、ジャズ、現代音楽、伝統音楽、といった既成の音楽ジャンルにはとらわれない。セッションで一堂に会し、ミュージシャンは晒され、観客も晒されながら、孤立化と寒さに震えていこう。」と発言しています。

自由空間 前編 間章 NHK 1972年
https://www.youtube.com/watch?v=2BcmjAThuLg
Akira Aida was a famous music critic and organizer. He introduced Free Jazz (Ayler, Dolphy...), German Rock (Tangerine Dream, Schulze, Faust...), etc. This video is about a contemporary music concert titled "Free Space" which Aida organized.

三輪車に乗る子どもの頭をなでる間章
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 ビデオ前編の冒頭から3:00のPink Floyd的な音はファーラウトだと思われます。
 間章が街で自らチラシを配り、子どもの頭をなで、頑固なサラリーマンにチラシを見せて「音楽は、北しかないの」と話しかけるシーンなど、行動的で、意外な面があります。

 笛の演奏家の歌代鉄之助という老人との事前の打ち合わせでは、「歌代さんに、この20分間で今までのことを叩きこんで全部出してほしいんです」と話しかけています。技巧ではなく、50年間も続けている涙が出るほど寂しい壮絶さが好きですとも語っています。


〜 幻の村八分出演 〜


ロック画報 特集「最も危険なロック 頭脳警察・村八分」



 ビデオ前編の3:58から出演者の出たポスターが出てきます。
 三上寛、村八分、イエロー、ロストアラーフ、マジカルパワー、ファーラウト、吉沢元治などが出ています。笛、津軽三味線などの伝統芸能も出演します。

 「マジカルパワー」は、マジカルパワーマコがデビュー前に現代音楽として出演したものと思われます。出演者を見ると、自由音楽祭は、1971年の三里塚の幻野祭から政治的な色彩を取り除いたような印象を受けます。

 間章が、「裸のラリーズ」をイギリスのヴァージンから出そうとしたことがありました。
 「もっと北へ」とたびたび語っていた間章が、「村八分」にも関心を持って出演依頼していたことを、今回の映像で初めて知りました。どういう経緯か興味深いものがあります。


ニューミュージックマガジンに掲載された1971年10月29日の村八分。
この直後の11月に間章が村八分に出演を依頼。インタビューで、チャー坊は、一言「夢」、青木真一は、日本に俺たちの演奏をきけるやつはいないと述べている。P1210568.JPG


 非常に印象に残ったのが、ビデオ前編の6:53での「村八分」からのキャンセルとも思われる電話の会話です。1972年4月29日に村八分が演奏したという記録は、今まで見たことがありませんので、出演しなかったのは事実でしょう。

 そこで、間章は以下のように話しています。

 「最終的に降りることになったんですか?
 出るって、昨年の11月から言っていたはずですよ。
 ワングループ、10人のバンドでも1万円と言ってるじゃないですか。ギャラですか? 
 現代音楽祭自体が気に入らないという話も聞いたんですけど、本当ですか?」

 当時の村八分はメンバーが流動的なときでした。
 また、ギャラのことで「今日の客は村八分を見にきたんだから半分はほしい」ともめたことがあります。そこで、キャンセルの電話は村八分の可能性が高いと思われます。

ロック画報、村八分BOXの解説などによれば、当時の村八分は、

1971年
  1月 村八分を名乗り始める
  3月 京都Mojo Westでデビュー。PYGと共演
  4月以降 最初のピーク。
       CD「草臥れて」「ぶっつぶせ」を録音。
  9月〜10月 高円寺ムービン周辺のアーティスト、カントとの交流始まる。
       ドラムの上原ユカリ脱退、カント加入。
  10月29日 ニューミュージックマガジンに掲載された有名な写真を風月堂前で撮影 
  11月6日 慶應大学三田祭をキャンセル。
  
1972年1月10日東京体育館での村八分。チャー坊、山口冨士夫、カントの三人で出演
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1972年
  1月10日 東京体育館 チャー坊、山口冨士夫の二人でブルース、脳みそ半分など2-3曲を演奏。
   カントはステージを歩いていた。「それが刺激的だったようだぜ」(山口冨士夫)。
  1月 カント脱退。同月ベース青木真一脱退
  4月 ベース加藤義明加入
  5月 ドラム村瀬シゲト加入

 1971年は、ドラムが村八分では一番上手かったと山口冨士夫が語った上原ユカリで、日比谷、各地音楽祭を精力的に廻っていました。ところが、秋に村八分は芸術的な方向に転換し、ドラムを叩いたことがないカントにメンバー交替しています。

 おそらく、間章は上原ユカリの頃の村八分を見て、その音と「あやつり人形」「あっ」などの詞に共感して、村八分を「自由空間」に招聘したのだと思います。しかし、もしかすると、カントの芸術的な人脈との交流で繋がったのかもしれません。

 1971年11月の時点では、間章と村八分の間で、ギャラや「自由空間」の趣旨も納得していたと思います。しかし、1972年4月は、ドラムがなく、音楽的方向も定まらず、4月29日に村八分は演奏できなかったのだと思われます。

 このように、1971年秋から1972年5月まで村八分に激しい変動がありました。
 そして、新生村八分が、ディスコ以外の公の場で現れるのは1972年8月27日、京都の円山音楽堂「村八分No.1コンサート」になります。


円山音楽堂「村八分No.1コンサート」を収録した村八分BOX



 ビデオ後編では、音楽祭のヘッドライナーの三上寛が出てきます。間章は、「彼はギターも歌もできないのに叫び続けてきた。フォークで自由空間に呼べるのは彼しかいない」と語っています。間章は、「村八分」にも深い思いを持っていたと思われます。

 
自由空間 後編 間章 NHK 1972年
https://www.youtube.com/watch?v=p2QjTDVM8Kc
13:30「もっともっと寒くならないと何も見えてこないと思うんですよね」


没後40年。間章の著作集3部作


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