2018年05月25日

山口冨士夫と情報誌「シティロード」J1979年の「ぴあ」+1971年・1973年のニューミュージックマガジン

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ニューミュージックマガジン(NMM)1973年2月号 
鋤田正義「山口冨士夫フォトセッション」、村八分の公演やディスコガロ出演情報を掲載


今日の1曲
 村八分 / Twist and shout 1979年5月
 村八分 / マネー 1979年7月
 村八分 / 操り人形 1971年4月
 New Trolls / Concerto Grosso Adagio 1971年3月
 Speed / BOYS I LOVE YOU 1979年
The Stooges / Down On The Street 1970年
 村八分 / ぶっつぶせ 1971年
 Beatles / I saw her standing there 1963年
 山口冨士夫 Tumblings /んっ(村八分)1983年
 カシオペア / タイムリミット 1979年
 YMO / Technopolis 1979年
 久保田早紀 / 星空の少年 1979年


 山口冨士夫と情報誌「シティロード」11回目は、前回の1978年に続いて、1979年に購読した情報誌「ぴあ」を見てみました。1979年は山口冨士夫が村八分を再結成した年ですが、東京の「ぴあ」には、山口冨士夫の名前はみつかりませんでした。

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「ぴあ」1979年4月号から1980年1月4日号。
有名な表紙を書いた及川正通もミュージシャンだった。

 そこで、前回に続いて山口冨士夫著「So what」「村八分」等をてがかりに、1979年を振り返ってみたいと思います。ニューミュージックマガジン1971年12月号、1973年2月号も見てみます。「ぴあ」の1979年1月号は所持していませんでした。

 1月21日に元村八分の青木真一は8年ぶりにSpeedとして録音。春に山口冨士夫は村八分再結成のために京都へ。山口冨士夫は著書「村八分」で、高円寺でパンクの活動をする青木真一に会い、再起へのポジティブな気持ちになったと語っています。


☆「ぴあ」1979年2月号

 ・2月5日  屋根裏 「パンクナイト」スピード 自殺 サイズ
 ・2月11日 屋根裏 RCサクセション
 ・2月12日 屋根裏 Pyramid
 ・2月26日 屋根裏 カシオペア 
 ・2月27日 屋根裏 裸のラリーズ 

 渋谷「屋根裏」の2月5日「パンクナイト」は、青木真一のスピード、自殺、サイズという1987年に山口冨士夫Teardropsを結成するメンバーが在籍したバンドが集結。2月11日には1990年に山口冨士夫が参加するRCサクセションが出演。

 続く12日には、1983年に山口冨士夫タンブリングスを結成する青木正行のPyramid、27日には1980年に山口冨士夫が参加する裸のラリーズが並ぶ。当時日本のロックの中核だった「屋根裏」と山口冨士夫がつながっていたことがわかる。
 

☆「ぴあ」1979年4月号

 ・4月3日 屋根裏 恒田義見&高木英一 セッション
 ・4月7日 池袋City 恒田義見(元ハルヲフォン)佐藤満(四人囃子)
 ・4月15日 屋根裏 「パンクナイト」 Speed
 ・4月24日 福生Electric UZU 「UZU3周年」 Pyramid
 ・4月25日 屋根裏 裸のラリーズ
 ・4月28日 福生Electric UZU Speed (Punk)

 元第1期村八分(裸のラリーズ)の恒田義見がセッション活動を開始。ハルヲフォンの前にはオムニバスLP「ロック・エイジ・コンサート」に1曲だけ残す伝説的バンド「ブラインドバード」にも在籍した。この後、ポップロックバンド「ペグモ」を経て和太鼓の世界へ。

BLIND BIRD /KICK THE WORLD ブラインド・バード
https://www.youtube.com/watch?v=P9L91Mxfpgg
この時点では恒田義見は参加していない。

 恒田義見は、ブログで村八分という日本のロック史に残るバンドにいたことは誇りと述べている。2017年12月31日の内田裕也主宰のワールドロックフェスティバルでは「近田春夫×恒田義見×高木英一」としてシーナ&ザ・ロケッツ等と共演、健在ぶりを示す。

恒田義見著「ロックンロールマイウェイ」
http://uuuupsbooks.com/?pid=121924690

 4月28日のElectric UZUに初出演したSpeedは、告知にずばり「Punk」という呼称を使用。過去の「ぴあ」「シティロード」を振り返ってみて、青木真一こそが「パンクの元祖」村八分というイメージを作ったのではないかと思えるようになりました。

 山口冨士夫はGS時代からプロで「So What」でも自分はパンクではないと言う。チャー坊も中学からフォークギターを弾き、渡米から帰国後に裸のラリーズのベースになる予定だった。他も楽器経験者で、本当にゼロから始めたのは青木真一だけだった。

青木真一参加の1971年「くたびれて」旧第2版のジャケット



 1983年から見たタンブリングスのライブでは、MCはすべて山口冨士夫が表に立ち、青木真一は控えめな存在でした。1984年12月に山口冨士夫が欠席したときに、1回だけ青木真一が「俺たちだけで楽しもうぜ」と言ったことだけ覚えています。

★ニューミュージックマガジン(NMM)1971年12月号

 1983年に国会図書館でNMMのバックナンバーを探し、山口冨士夫著「村八分」の表紙になった写真が掲載されたNMM1971年12月号を読みました。写真と村八分の異様で圧倒的な存在感を伝える内容の文章に衝撃を受けたのを覚えています。

ニューミュージックマガジン(NMM)1971年12月号で掲載された写真
同じように横向きに縦1面で印刷されていた



 征木高司のインタビューに対して村八分は黙ったままほとんど応えず、チャー坊がこの写真を指して「夢」とつぶやき、1996年の「クイックジャパン」でも3代目ドラマーのカントが「かわいそうになるほどつっけんどんに対応した」と回想しています。 
 
 インタビューでメンバーがしゃべらない中、青木真一(記事では青木真と記載)だけが「俺たちの演奏を聴ける奴がどこにいる。いないじゃないか」と強い言葉を発しているのが、非常に印象に残っていました。

NMM1971年12月号より 「村八分」青木真一の発言
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 青木真一のスピードは、ストゥージズ等に影響を受けた日本で最初期のパンクバンド。最近初めて、Speedのライブ映像と青木真一が話す姿を見た。剣道部の主将だったという青木真一の「今のガキに目を覚ましてほしい」という言葉に意志の強さを感じる。

Speed / BOYS I LOVE YOU 記録映画「ROCKERS」1979年
https://www.youtube.com/watch?v=IrvBKxOrZpw
38:00からSpeed。青木真一は「昔いたバンドとは?」という質問に「村八分」と回答。

 映像で、青木真一はスピードへの参加を拒んだ元村八分上原裕のことを暗に批判しています。しかし、上原裕もまた1981年から1984年まで沢田研二とニューウェーブを追求し、1986年に燃え尽きたように一度音楽から引退します。

青木真一(元村八分ベース、Fools、山口冨士夫タンブリングス、Teardrops)1979年
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The Stooges - Down On The Street 1970年
https://www.youtube.com/watch?v=85RSPV9Q-3s
The Stoogesの活動期間は村八分と重なっている。

村八分 / ぶっつぶせ 1971年
https://www.youtube.com/watch?v=TvvVefeljdQ

青木真一がベースで参加した1971年のライブ「ぶっつぶせ」



☆「ぴあ」1979年5月号

 ・5月5日 屋根裏 ジョー山中 前売りあり(1500円)

 ・5月6日 京大西部講堂「狂騒ロックコンサート」 ジョー山中グループ 
           → 村八分が、飛び入りで参加
                      (→ 「ぴあ」には記載なし)

 ・5月6日 屋根裏 RCサクセション
 ・5月12日 関内 ファーイースト 
           ルイズルイス加部(g) 野木信一(dr)&Family
 ・5月12日 福生Electric UZU  Speed (Punk)
 ・5月26日 福生Electric UZU Pyramid

 5月6日に京大西部講堂「狂騒ロックコンサート」のジョー山中グループに飛び入り的に村八分が参加。村八分BOX収録の6曲で、チャー坊の歌には長期の療養生活によるダメージが感じられるが、「くたびれて」ではそれが深い情感になっていると思います。

 関西で最高のギタリストだったという松田幹夫(ミッキー)のボーカルによるTwist and shoutは、まさに村八分のメンバーたちが、ビートルズから受けた衝撃をダイレクトに伝える熱狂的な演奏になっています。

1979年5月6日のライブを収録した村八分BOX



 元リゾート(山口冨士夫)のルイズルイス加部(g)が、元パワーハウスの野木信一(dr)&Familyでライブ。1978年9月に合歓の里で合宿を開始し、12月のデビューライブが中止になった「JOHNNY, LOUIS & CHAR」の再始動に向けてのものと思われます。 

 青木正行、中野良一のピラミッドは、スピードとともに福生Electric UZUへ出演。この月が最後の出演で、加納秀人と外道を再結成。UZUで青木正行と青木真一とのつながりができたと思われ、後の1983年山口冨士夫タンブリングス結成に至ります。

 1983年からの山口冨士夫Tumblingsでの「んっ(村八分)」や「酔いどれ天使」では、ニューロック出身の青木正行と、パンク出身の青木真一のコンビネーションでバラエティーに富んだアレンジが毎回なされ、それが深い魅力になっていたと思います。

 このころキングから1971年3月23日〜27日に録音されたNew Trolls / Concerto Grossoが再発。「日本のギタリスト」でのインタビューによれば、山口冨士夫自身の選ぶベストプレイは、1971年4月30日録音の村八分「くたびれて」だという。

New Trolls / Concerto Grosso Adagio
https://www.youtube.com/watch?v=DCgvp6IfE7w
3:48のギターソロ。1971年には、日本でもイタリアでも強い磁力が働いていた。





☆「ぴあ」1979年6月号

 ・6月7日 村八分 日本テレビ「11pm」出演      
               (→ 「ぴあ」には記載なし)
 ・6月13日 屋根裏 裸のラリーズ
 ・6月27日 関内 ファーイースト ルイズルイス加部(g)野木信一(dr)&Family
 ・6月28日 屋根裏 恒田義見&フレンズ
 
 6月7日に村八分は、1973年2月4日の「リブヤング」以来の日本テレビ「11pm」に出演。オリジナル曲の予定を覆し、本番でビートルズの「ロールオーバーベートーベン」
「I saw her standing there」を演奏。村八分のビートルズへのこだわりがわかる。

The Beatles - I Saw Her Standing There 2009 Stereo Remastered
https://www.youtube.com/watch?v=Rq8u0tnyDGI





☆「ぴあ」1979年7月号

 ・7月14日 日比谷野音「JOHNNY, LOUIS & CHAR」『Free Spirit』

 ・7月15日 京大西部講堂 村八分
              (→ 「ぴあ」には記載なし)

 7月14日にルイズルイス加部の「JOHNNY, LOUIS & CHAR」が再始動.
 日比谷野音のフリーコンサートで野音の動員記録を樹立。
 君が代も演奏した。

JOHNNY, LOUIS & CHAR / Natural Vibration
https://www.youtube.com/watch?v=6GPcMNVI8RM
以前からのチャーの女性ファンたちは、ロックへの変貌で泣いていたという。





 翌7月15日に山口冨士夫の村八分は西部講堂でライブを行う。「日本ロック体系」によれば昔からの同窓会的な人が集まったようでしたが、「でも音はよかったですね」と山口冨士夫は述べています。ここでは山口冨士夫がビートルズのマネーを歌っています。

村八分再結成 Underground Tapes 1979年7月15日


 チャー坊が山口冨士夫を東京にまで迎えにきて再始動した村八分は、11月の慶應大学三田祭に向けて準備していましたが秋に解散。チャー坊は「ブルーダイヤモンズ」(青い死の門)の名で活動予定でした。

 新曲が少なく村八分の評価を決定的にした「あっ」「あやつり人形」などが詞の問題で封印され、チャー坊の体調やメンバーの入院などが重なりました。「村八分」の中で山口冨士夫は「音楽は楽しいからやる」というポリシーがチャー坊と違ったといいます。

 再結成した村八分の活動で顕著だったのが、山口冨士夫のビートルズへの思い。
 山口冨士夫は「So what」で、中学1年生の時、イギリス軍人の父の国で階級社会から成功したビートルズに対して「本気で憧れた」と語っています。

 1979年の5月から7月まで村八分が公の場で演奏した14曲のうちビートルズが5曲。
 山口冨士夫は1983年でも1stシングルLove me doをレゲエにアレンジし、同年のクリスマスには、1曲目でDear Prudenceをほぼ原曲に忠実に演奏しました。

 また、「クイックジャパン」によると、1996年に福生UZUで若いミュージシャンがビートルズを演奏し大合唱する中へ、山口冨士夫は思わず入っていってギターでセッションをしたとのことです。


★ニューミュージックマガジン(以下NMM)1973年2月号

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NMM1973年2月号
「村八分公演決定!」(5月5日京大西部講堂と思われる)東京新宿のロック喫茶の広告
関西でのライブがこのように広告の一部として告知されるのは異例

 NMM1973年2月号は、鋤田正義の8ページにわたる山口冨士夫のフォトセッション写真で話題になりました。最後の山口冨士夫が墓地に立つ写真が印象的でした。
 この2月号には、さらに村八分についての情報が2つ掲載されています。

 1つめの情報は、「村八分公演決定!」告知がある新宿のロック喫茶(ライブハウス?)MAGAGINEの広告。おそらく1973年5月5日の京大西部講堂のライブと思われますが、日程も不明の段階で村八分がいかに注目されていたかがわかります。
 
 国会図書館で読んだ1971年から1973年のNMMには、村八分が数回掲載されていました。1979年のNMMに7月京都の村八分のライブ告知があったかは不明ですが「ぴあ」には出ていません。「ぴあ」「シティロード」では関西のライブ情報は出ません。

 「クイックジャパン」「ヤングギター」の記事(フラワートラベリンバンドの有名なSATORIのイラストレーター石丸忍のレポート)によると、1972年8月の村八分の円山公園でのライブの際は、東京からヒッチハイクをして見に行った人もいました。

 2つめの情報は、「RANDOM NOTES」で村八分の京都のディスコ「ガロ」への出演を紹介。村八分自身は「ガロ」への出演を公にしておらず、ハコバンの情報まで雑誌に掲載するのは珍しい。「ガロ」でのライブ音源は「村八分BOX」に収録されました。

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☆「ぴあ」1979年8月号

 ・8月20日 屋根裏 シーナロケット 
 
 YMOの援助を受けた鮎川誠のシーナロケットが、「真空パック」でアルファから再デビュー。1960年代から暗黒舞踏を続ける1978年に会った麿赤児のインタビューが印象的。時代への迷いも感じたが、この後Dance Butoとして海外から評価を得る。

☆「ぴあ」1979年10月12日号
 
 ・9月26日 屋根裏 スマイラー(大木啓三 元ダイナマイツ)
 ・10月1日 サンシャインシティ10階 南正人with ルイズルイス加部
 ・10月7日 日比谷野音 南正人with ルイズルイス加部 RCサクセション
 ・10月27日 法政大学ホール 裸のラリーズ

 ルイズルイス加部が南正人と共演し「スーパーレザリウムとバンドのジョイントコンサート」を行う。外道の加納秀人も参加。南正人は「ロックの旗手」として新譜を発売。ソロ、裸のラリーズ、浅川マキジャズセッション、ビリーバンバンなど多くの分野と共演。

 アルファレコードから、「テクノポリス」でYMOの人気を決定的にした「ソリッドステイトサバイバー」、カシオペアの1stアルバムが、1面広告で掲載されています。私は、道玄坂YAMAHAでデビュー前のカシオペアを最前列の目の前で見てギターを諦めました。

カシオペア / タイムリミット 1979年ライブ
https://www.youtube.com/watch?v=yX0_fze8FJU
3:40から、MC「次は、めちゃめちゃハードな曲でタイムリミット」

YMO - Technopolis
https://www.youtube.com/watch?v=Y2lOyCxRp5s

 このころ、FM東京「スペース・フュージョン」で土曜深夜3-5時にプログレッシブロックの輸入盤を放送。1970年代初期のLPが中心で、村八分の全盛期と重なる。村八分も1973年に「むらさき」などでCanのようなアプローチを始めていた。

むらさき、天までとどけを収録



☆「ぴあ」1979年11月9日号
  
 アルファレコードから、シーナ&ロケット「真空パック」発売の広告。
 「YMOとロックンロールの劇的な出合い!」という宣伝文句。
 村井邦彦のアルファレコードが時代の半歩先を走っていました。





☆「ぴあ」1979年12月7日号
 
 ・12月4日 屋根裏 裸のラリーズ


☆「ぴあ」1979年12月21日号

 ・12月22日 屋根裏 Speed ゲスト シーナ&ロケッツ

 Speedが、シーナ&ロケッツをゲストとして登場。1984年12月21日の法政大学ホールでのタンブリングス(山口冨士夫欠席)との共演以前に鮎川誠と青木真一が会っていたことと、シーナ&ロケッツもパンクに対して好意的だったことがわかります。

☆「ぴあ」1980年1月4日号

 「79年と80年の間に」というサブタイトルで、浅川マキの年末連続公演が始まる。
 久保田早紀のファーストアルバム「夢がたり」の1面広告。
 JAシーザーが12月23日、24日に原宿ラフォーレで、馬淵晴子の演出でコンサート。

久保田早紀のファーストアルバム「夢がたり」
山口冨士夫「ひまつぶし」のようにほとんど捨て曲がなく良曲が揃っている


 
 このころ青木真一が裸のラリーズへの加入を断る。
 1980年に山口冨士夫が裸のラリーズに参加。 
 山口冨士夫の参加した裸のラリーズの最初のライブは1980年8月13日の屋根裏。

 順番が逆になってしまいましたが、「シティロード」1980年から1981年3月までの山口冨士夫が裸のラリーズに参加した時期については、山口冨士夫と情報誌「シティロード」FGをご覧ください。


 次回の山口冨士夫と情報誌「シティロード」12回目は、山口冨士夫が裸のラリーズを脱退した1981年4月以降から、フールズのゲストから再復活した1982年12月までの「シティロード」を見ていく予定です。
 
 

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2018年05月16日

山口冨士夫と情報誌「シティロード」I 1978年の「ぴあ」+ 1974年の「Music Life」ミュージックライフ

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Music Life1974年3月号 人気投票のギタリスト部門で山口冨士夫が8位
 村八分は1973年に解散していたが、LP「ライブ村八分」の反響がわかる。

 山口冨士夫がスパイダース時代に憧れ、1971年に「日本ではPYGがいい」と言った井上堯之が1位。ボーカルはソロになった沢田研二が1位で、演奏はPYGがサポート。ドラム部門の1位は1970年野音の山口冨士夫グループにも参加した角田ヒロ。


今日の1曲
 ザ・ダイナマイツ/恋はもうたくさん LPヴァージョン 1968年
 ザ・ダイナマイツ/恋はもうたくさん シングルヴァージョン 1967年
 ザ・ダイナマイツ / トンネル天国 1968年
 Murasaki (紫) - Mother Natures Plight 1978年
 タイフーン / シスタージェーン 1975年
 外道 / 香り 1974年
 森田童子 / みんな夢でありました 1980年
 村八分 / にげろ ライブ テレビ「リブヤング」1973年2月4日
 村八分 / にげろ 「村八分ライブ」1973年5月5日




1973年の「ライブ村八分」は外道やその後の日本のロックに影響を与えた



 山口冨士夫と情報誌「シティロード」は、前回の1976年、1977年に続いて、1978年に購読した情報誌「ぴあ」のころを振り返ってみました。この年の「ぴあ」にも、山口冨士夫の名前はみつかりませんでした。

 1978年はセックスピストルズの影響でロックが活性化し、1979年の村八分の再結成や山口冨士夫にも影響を及ぼしたと思います。1983年に山口冨士夫と組む元外道の青木正行、元村八分の青木真一の活動も1978年に活発になります。

☆「ぴあ」1978年1月号

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1978年1月の屋根裏(左列)  3日瀬川洋(元ダイナマイツ)、14日ジョン山崎(元ゴールデンカップス)、15日アイ高野(元カーナビーツ、ゴールデンカップス)、16日トランザム(石間秀機・元ビーバーズ、フラワートラベリンバンド。チト河内元ハプニングスフォー)と元実力派系GS出身者が活躍。右列は、新宿タロー(ジャズ)

 ・1月3日 屋根裏 瀬川洋&ハッピージョー・テンプル
                  (元ダイナマイツ)
 ・1月9日〜12日 Electric UZU Tune up day
 ・1月13日 屋根裏 近田春夫とハルヲフォン
                 (ドラム恒田義見、元村八分)
 ・1月18日 屋根裏 RCサクセション
            (1990年に山口冨士夫が「カバーズ」に参加)

 山口冨士夫は1978年に入っても表立った活動が見当たりませんが、1月9日〜12日の福生Electric UZUのTune up dayなどにも出演可能性があります。

 1月3日には、屋根裏でダイナマイツのリーダーだった瀬川洋&ハッピージョー・テンプルがライブをしています。三が日に出演していることから、ダイナマイツがゴールデンカップスなどと並んで重要なバンドとみなされていたことがわかります。

ザ・ダイナマイツThe Dynamites/恋はもうたくさん (album Version1968年)
https://www.youtube.com/watch?v=_EtkDkRFGKA
今のバンドと比べても飛びぬけている山口冨士夫のギターソロとサイドギター 

 瀬川洋は「So What」で村八分もいいが、山口冨士夫はダイナマイツ時代がベストと証言。「天国のひまつぶし」でダイナマイツのベースの吉田博が、山口冨士夫ほど練習する人を見たことがないと言っており、改めて山口冨士夫のギターの凄さがわかります。

ザ・ダイナマイツ 恋はもうたくさん 1967年シングルヴァージョン
https://www.youtube.com/watch?v=h0dyLWHtU7c
ストリングスが入るとGS風に趣が変わる


トンネル天国などが海外でも評価の高いダイナマイツ



 1977年12月29日に渋谷の東横劇場で紫のライブ。日本のバンドでルックスで初めて凄みを感じた。ベトナム戦争時代に沖縄コザでもロックが全盛。ベトナム戦争の影響は立川基地のダイナマイツ、横浜本牧のGolden Cups、福生UZUなどにも及んだ。
 
Murasaki (紫) - Mother Natures Plight
https://www.youtube.com/watch?v=4PV1vM7anPw
1979年のミュージックライフの人気投票では、国内グループ部門で紫が1位になる。

 1979年にYAMAHA池袋でジョージ紫のトークライブに行った。寡黙な彼がピアノでタイフーンのシスタージェーンを弾いたので、質問コーナーで緊張しながらなぜ弾いたのですかと尋ねたところ、サングラスをかけたジョージ紫が無言だったのを思い出す。

Tai Phong - Sister Jane 1975年
https://www.youtube.com/watch?v=b0ry-4Z6clw
ジョージ紫は日系米人。タイフーンはベトナム人が2人いた。利根川 裕著「喜屋武マリーの青春」によれば、人を殺したくないと思ったジョージ紫は祖国の沖縄に戻ったという。

ベトナム戦争の問題が深かった沖縄の紫が日本のハードロックの頂点に



 1月20日には渋谷ジャンジャンで、GS時代に山口冨士夫とも交流があった「加橋かつみの透明な世界」のライブ。加橋かつみもタイガースの後は反戦ミュージカルヘアーの主演、ソロアルバムでユーミンの最初の曲を録音したり、演歌にも転向した。

 1月27日に、渋谷エピキュラスのKeyboard Junctionに行く。バッハレボルーションと共演した稲田保雄に30年後に会い、1974年の幻のLP「感覚思考」の話題になった際、彼が昔の日本のロックバンドの中で真っ先に名を上げたのが村八分だった。

 1973年に解散した村八分の影響は1974年にも及び、Music Life1974年3月号の人気投票で、グループ部門で村八分が7位、ギタリスト部門では山口冨士夫(村八分)が8位。前年の1973年で、まだレコードを出していない村八分が15位にランク。

1974年7位。前年1973年(1972年10月〜1973年3月の集計)15位。ライブの評価がいかに高かったがわかる。
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村八分、山口冨士夫がランクインしたMusic Life1974年1月号、3月号(最終結果)
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☆「ぴあ」1978年2月号

 ・2月19日 福生Chicken SchackUチキンシャック 染谷青&シゲセッションバンド

 2月19日に福生Chicken SchackUで、初代村八分ギタリストの染谷青のセッション。福生なので、山口冨士夫と交流があったかもしれません。1月号では「はみだし情報」として欄外に出ていたChicken SchackUが2月号からElectric UZUと並ぶ。

 この1978年のころ、「チャー坊 遺稿集」によると京都のチャー坊は療養中。
 このときの医師が村八分のことを知っていたため信頼関係ができて回復方向に向かい、これが1979年の村八分の再結成につながったようです。
  
 2月19日に渋谷アピアで「ギリヤーク尼ケ崎 津軽三味線に舞う大道芸人」を見て衝撃を受ける。1972年のチャー坊のダンスにも似た妖気があった。また、無名時代の坂本龍一が現代音楽で「坂本龍一個展」のタイトルにインパクト。その後忌野清志郎と共演。


☆「ぴあ」1978年3月号

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1983年から山口冨士夫タンブリングスに参加する元外道の青木正行が福生でライブ

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山口冨士夫タンブリングスに参加する元村八分の青木真一もスピードで福生でライブ

 ・3月3日 福生Electric UZU  青木正行セッションバンド(リョウ)
          ※ 山口冨士夫の参加可能性あり
               → B. 青木正行(外道・解散中)
                  1983年に山口冨士夫・タンブリングスに参加
               →「リョウ」はDr.中野良一(外道・解散中)

 ・3月12日 福生Chicken SchackU スピード
               → G. 青木真一(元村八分・ベース)
                  1983年に山口冨士夫・タンブリングスに参加

 山口冨士夫がセッションをしていた福生で、Electric UZUに1983年に山口冨士夫とタンブリングスを結成する元外道の青木正行、Chicken SchackUに元村八分の青木真一(スピード)が時期を同じくして「ぴあ」に初登場。2店は700m程の距離。

 山口冨士夫は「So What」で、リゾートの後の時期にこう語っています。

 「ちょうどそのころ、外道のリズムセクションだったマサと中野と出会った」
 「ワクワクするような音が聞こえてきて」「思わずウズの中に入っていった」
 「一度だけセッションをした」「外道のライブにも行った」

 そこで、3月3日のElectric UZU「青木正行セッションバンド」に山口冨士夫が参加した可能性があります。その後、青木正行は、山口冨士夫とやったら他とはできないと語り、1987年のタンブリングス解散後は主だった活動はしていないようです。

 青木正行(ベース)は、トゥーマッチの後、1973年に加納秀人(ギター)中野良一(ドラム)と外道を結成。外道は、1974年にはハワイで10万人のフェス、郡山ワンステップロックフェスでも一番受け、ジェフベックとの共演でも勝ったと言われたバンドでした。

 山口冨士夫は、2010年に下北沢で外道(加納秀人)とも共演し、最後に外道の「香り」を一緒に演奏。これが私が最後に見た山口冨士夫のライブでした。外道には、村八分の「逃げろ」に影響を受けたと思われる「逃げるな」という曲もあります。
 
 外道 / 香り
https://www.youtube.com/watch?v=uHfBhJsqrD8

後に山口冨士夫と活動をする外道のメンバー



 3月18日にビートたけしがジャズ喫茶で共に働いた永山則夫の映画「裸の19歳」、3月22日に渋谷ジャンジャンで高橋竹山の津軽三味線を見る。共に貧困の問題があった。3月31日渋谷YAMAHAでカシオペアの無料ライブ。野呂一生は速弾きの極限を追求。


1978年の「ぴあ」にも「山口冨士夫」の名前はみつからなかった
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☆「ぴあ」1978年4月号

 ・4月7日〜9日 Electric UZU ピラミッド(中野良一 青木正行) 
                      UZU Family Band
 ・4月30日 Electric UZU Special day  Magical Power Mako


 Electric UZUに元外道の中野良一、青木正行が結成したピラミッドが出演。外道は1976年に解散後、1979年の加納秀人のソロ『エレクトリック・ウズ』を機に再結成。山口冨士夫が外道を見たのはそのときと思われます。1982年に外道は再び解散。

 
☆「ぴあ」1978年5月号

 ・5月3日 福生Chicken SchackU ROCKERS(スピード、ミラーズ、Mr.カイト)
 ・5月3日、5日 JAPAN ROCK FESTIVAL 日比谷野外音楽堂
     内田裕也with Smiler (大木啓三exダイナマイツ 1983年傷 山口冨士夫)
     近田春夫とハルヲフォン(恒田義見 村八分初代ドラマー)
    デイブ平尾(元ゴールデンカップス ルイズルイス加部)
     陳信輝(元ベベズ、パワーハウス、フードブレイン、スピード・グルー&シンキ)
 ・5月12日 Electric UZU ピラミッド(元外道)
 ・5月24日 屋根裏 ピラミッド 中野良 青木正行
 ・5月26日27日 屋根裏 近田春夫とハルヲフォン
 ・5月30日 日本武道館 ジョー山中 Never give up新しい世界へ


 5月3日と5日に当時は最大規模のJAPAN ROCK FESTIVALが日比谷野外音楽堂であり、内田裕也with Smilerには大木啓三(ダイナマイツのサイドギター、1983年1月1日に山口冨士夫をゲストに傷を結成)が参加。

 ルイズルイス加部と縁の深い横浜の元ゴールデンカップスのリーダーデイブ平尾は自分のライブハウスを経営。陳信輝もライブハウスの経営に乗り出し、これ以後主だった活動は見られない。

トンネル天国 ザ・ダイナマイツ
https://www.youtube.com/watch?v=txyLqyztYXA
ダイナマイツ時代の大木啓三

 5月30日には日本武道館で「人間の証明」がヒットした元フラワートラベリンバンドのジョー山中が単独ライブを行い成功。
 翌1979年5月にジョー山中は、京大西部講堂で再結成した村八分と共演しています。


ジョー山中ライブ。翌年、村八分と共演。




☆「ぴあ」1978年6月号

 ・6月7日 福生 Chicken SchackU スピード(青木真一)
 ・6月3日、10日、18日 Electric UZU Special Guest day 
                   10日は、OZの春日博文がゲストと明記

 6月16日の初台騒ではサタデーナイトに伝説のフリージャズ奏者阿部薫が出演。1970年代後半もフリージャズは盛んだった。阿部薫の死を追うようにジャズ評論家の間章も夭折。山口冨士夫も1992年に山内テツと一度だけフリージャズ的なライブを行う。

 「ぴあ」6月号の表紙はディスコブームに火をつけた「サタデーナイトフィーバー」。ロックも明るいポップスやAORが主流に。高校生、中学生もディスコに行き、新宿歌舞伎町には体育館のようなディスコがいくつもできました。


☆「ぴあ」1978年7月号

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7月1日 福生Chicken SchackU 染谷青(村八分初代ギタリスト)

 ・7月1日 福生Chicken SchackU 染谷青
 ・7月16日 Electric UZU Speed
 ・7月23日 S-KENスタジオ Tokyo Rockers 1978
                   フリクション スピード 

 7月1日に元村八分で山口冨士夫「プライベートカセット」に参加した染谷青が単独ライブ。7月16日には、青木真一のスピードが初めてElectric UZUに出演。7月23日は、後に山口冨士夫に関わるチコヒゲがドラムのフリクションと、スピードが共演。

 7月15日に神奈川県民ホールで、1971年に村八分とPYGで共演し、1975年に音楽活動を再開した萩原健一のファースト全国ツアー。萩原健一+PYGのシングル「戻らない日々」、「ブルージンの子守歌」以降俳優に専念していた。

 7月29日森田童子が聖マリア大聖堂でライブ録音。「ぴあ」では森田童子の新譜の広告がいつも大きかった。平野悠著「ロフト青春記」には、学生運動で挫折した者にとって森田童子は特別な存在だったとある。

森田童子 / みんな夢でありました
https://www.youtube.com/watch?v=uiXDF4jcZXM


山口冨士夫が活動を再開する1983年に新宿ロフトで活動を停止した森田童子



☆「ぴあ」1978年8月号

 ・Electric UZU 「今月はライブをお休みします」の告知

 ・8月6日  S-KENスタジオ フリクション(チコヒゲ) 
 ・8月13日 S-KENスタジオ スピード (青木真一)
 ・8月27日 九段会館 ローリングストーンズ1万人集会 3回フィルムコンサート
 ・8月27日 屋根裏 RCサクセション
 ・8月28日 後楽園球場 矢沢永吉コンサートGoldRush’78 
 ・8月31日 田園コロシアム 沢田研二 ジュリーロックンツアー78

その後山口冨士夫に関わる青木真一(スピード)とチコヒゲ(フリクション)
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 8月27日にまだブレイク前のRCサクセション(1990年に山口冨士夫と共演)が屋根裏でライブ。1971年に山口冨士夫が「世界で一番すごいのはストーンズと村八分だ」と言ったローリングストーンズは1973年の来日中止の後も来日の目途がつかず。

 かつて村八分と「ロックンロールタイトルマッチ」という共演も予定されたキャロル出身の矢沢永吉が後楽園球場でライブ。村八分の唯一のテレビ出演「リブヤング」がキャロルの翌週で、チャー坊はキャロルを意識し村八分のメジャー進出を考えていたようです。


村八分「リブヤング」での「にげろ」「鼻からちょうちん」


 
 村八分と1971年にPYGで共演した沢田研二もまたロック色を強めていき、1980年にPYG時代からの共同制作者井上堯之と別れ、1981年のエキゾチックスではドラムに元村八分の上原ユカリ裕を迎えて、ニューウェーブに突き進んでいきます。


村八分との共演も予定されたキャロル出身の矢沢永吉



☆「ぴあ」1978年11月号 (※ 追加)

1978年11月 屋根裏 スケジュール 豪華ラインナップ
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☆「ぴあ」1978年12月号

   
 ・12月21日 屋根裏 裸のラリーズ
 ・12月24日 沢田研二 Julie in 武道館
 ・12月28日 中野サンプラザ「ウルトラコンサート」ジョニー・ルイス&チャー
             デビューコンサート → 中止
 ・12月29日 Electric UZU Special Guest day
 ・12月31日 浅草ニューイヤーロックフェスティバル 
         内田裕也スマイラー(大木啓三 元ダイナマイツ)
         加納秀人(外道は解散中)

12月28日中野サンプラザ「ウルトラコンサート」ジョニー・ルイス&チャー 
山口冨士夫とのリゾート解散後2年、ルイズルイス加部の活動も本格化
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 パンクに触発されてか、日本でもチャーが歌謡曲路線から脱却し、山口冨士夫のリゾート解散後のルイズルイス加部とジョニー・ルイス&チャーを結成。グループサウンズ、ニューロックの後、フォーク、歌謡曲に押されたロックが再び活動活発に。

 セックスピストルズは、パンクの仮面をつけたプログレファンで、クリストーマスはピンクフロイドのプロデューサー。古い世代にも火をつけ、キングクリムゾンのロバートフリップも活動再開。チャー坊はキングクリムゾンの全LPのファンだった。 

 ※山口冨士夫も初期パンクについて「ピストルズなんかは別だけど」と述べている(「So What」新版P132)

 「So What」で、山口冨士夫はこのころについて
「しばらくバンドはやりたくなかった」
「山奥で音作りをしていた」と言っています。

 1979年春にチャー坊が山口冨士夫に電話で「バンドやろうけ」と村八分の再結成を持ちかけたのも、山口冨士夫が「もう一度やってみようと思った」というのも、1978年の内外のロックの動きの影響があったのではないかと思います。

 次回山口冨士夫と情報誌「シティロード」11回目は、1979年の「ぴあ」を見てみます。

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2018年05月11日

山口冨士夫と情報誌「シティロード」H 1976年と1977年の「ぴあ」など

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「ぴあ」1977年12月号 1975年にできたロックライブハウスの福生Electric UZU
山口冨士夫の出演可能性があるElectric Specialなどのセッションの告知


今日の1曲
 リゾート(山口冨士夫&加部正義)
                 / One more time (Them cover)1976年
 シュガーベイブ(村八分2代目ドラマー上原裕)
                      / ダウンタウン1976年3月31日 
 サンハウス(鮎川誠) / LP有頂天 1975年
 近田春夫とハルヲフォン(村八分初代ドラマー恒田義見)
                      / ファンキーダッコNo.1  1975年
 The Sex Pistols - Anarchy In The U.K 1977年


左から「ぴあ」1977年12月号、10月号、8月号
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 山口冨士夫と情報誌「シティロード」は、前回の1980年からさらに遡って、1977年8月号から1980年12月21日号まで断続的に購読した情報誌「ぴあ」を見てみました。
 このころの「ぴあ」には、山口冨士夫の名前はみつかりませんでした。

 そこで、山口冨士夫著「So what」等をてがかりに、山口冨士夫や村八分に関連するミュージシャンについて振り返ってみたいと思います。今回の第9回目は、山口冨士夫が加部正義とリゾートを組んだ1976年から1977年までです。


★1976年 (「ぴあ」「シティロード」)

・1976年8月27日 渋谷エピキュラス リゾート(山口冨士夫、加部正義)
・1976年8月30日 渋谷パレス座 リゾート(山口冨士夫、加部正義)
・1976年12月11日 新宿ロフト 
     「リゾートFuturingフューチャリング山口冨士夫・ルイズルイス加部」

 山口冨士夫は、1974年に発売した「ひまつぶし」とZOONというバンド活動のあと、1976年に元ゴールデンカップス、フードブレイン、スピード・グルー&シンキのルイズルイス加部とリゾートという伝説のバンドを作ります。

リゾート(山口冨士夫&加部正義) / One more time (Them cover)
https://www.youtube.com/watch?v=LhzznWdoQRw
from live 1976。 ゴールデンカップスのドキュメンタリー映画のタイトル曲でもあった
 
 白夜書房「日本ロック史」の山口冨士夫インタビューによると、リゾートは「ひまつぶし」にも入っていないオリジナル曲を演奏し、ライブをした渋谷パレス座は屋根裏の近くの映画館だったそうです(西武百貨店B館並び。現在閉館)。

 リゾートは8月27日に渋谷エピキュラスでライブをしています。エピキュラスには1度だけシンセサイザーのライブに行きました。坂を上った所にあり、クラブチッタやOn Airのような雰囲気もある近代的なライブハウスだったと記憶しています。


伝説のリゾートの1976年ライブCD 



 1977年8月まで、私はまだ「ぴあ」も「シティロード」も買っていませんでしたが、渋谷エピキュラス、ロフト、屋根裏のリゾートのスケジュールについては、1976年の「ぴあ」「シティロード」のいずれにも掲載されていたと思われます。

 平野悠著「ライブハウス ロフト青春記」が非常に貴重な資料になります。「ロフト青春記」では、1944年生で学生運動出身のジャズファンだった著者が1970年代前半からロックに関心を持ち、いかにライブハウスを作りあげたかが語られています。

 「新宿ロフト」では、1976年12月11日の「リゾートフューチャリング山口冨士夫・ルイズルイス加部」の告知があり、当時のスケジュール表も「ロフト青春記」掲載されています。屋根裏の常連だったリゾートを著者の強い決断でロフトに招聘したとのこと。

現在の「新宿ロフト」のスケジュール
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/index.html
1976年のリゾートが出た12月は、たった11組しか出演していないが、Char、オフコース、サディスティックスなど後にビッグネームになる人ばかり。

1976年12月の「リゾート」掲載のスケジュール表あり



・1976年3月31日 荻窪ロフト シュガーベイブ ラストライブ
         (ドラム : 村八分の2代目ドラマー上原ユカリ裕)

 1976年3月31日に「荻窪ロフト」でシュガーベイブのラストライブが行われています。
このときのドラムが村八分のCD「くたびれて」「ぶっつぶせ」のときの2代目ドラマーだった上原ユカリ裕でした。シュガーベイブでも2代目のドラマーでした。

 1977年7月31日にも「下北沢ロフト」で、Special Jamとして上原裕は、山岸潤史(G)、山下達郎(G)とライブをしています。上原裕はその後、沢田研二のエキゾチックスなど、日本人で彼のドラムを聞いたことがない人はいないと言われるほど活躍します。

左から、山下達郎、大貫妙子、上原ユカリ裕(元村八分)
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 山下達郎はシュガーベイブ時代に、硬派なロックファンから野音で石を投げられたそうです。しかし、山下達郎は、自分の歌を批判した雑誌編集部に抗議に行ったり、大貫妙子にも村八分のチャー坊のような佇まいの写真があり、強い意志を感じます。    

シュガーベイブ / ダウンタウン 
https://www.youtube.com/watch?v=a9fRcNeMMAo&index=3&list=RDCHZSXMZneMs
1976年3月31日 ラストライブ 荻窪ロフト


シュガーベイブ 大瀧詠一(福生在住)のナイアガラレーベルから発売
 


・1976年8月13日「荻窪ロフト」サンハウス

 1976年8月13日には、山口冨士夫のファンで1986年に共演する鮎川誠のサンハウスが上京し「荻窪ロフト」でライブ。鮎川誠は、村八分、ひまつぶしも聴いていたそうです。この時点では、山口冨士夫と加部正義のリゾートを知らなかったようです。

サンハウス - ロックンロールの真最中・レモンティー
https://www.youtube.com/watch?v=LY6jXuBAlDI
全盛期の貴重ライブ映像 1975年8月22日 兵庫県・阪神競馬場


サンハウスの1stアルバム有頂天



 「ロフト青春記」によると、「ぴあ」は1971年に創刊され、「いつどこで何が行われるか」を重視していたのに対し、「シティロード」は1972年に創刊され、批評性を重視していたと書かれています。しかし、「ぴあ」においても映画に対しては強い批評性がありました。

 私は1982年8月号から「ぴあ」は月刊でなく隔週刊になっていたため、1か月先の予定がわかる「シティロード」に変えました。1983年から山口冨士夫を推していた「シティロード」を読んでいなかったら、山口冨士夫のことは一生わからなかったかもしれません。

 ロフトが発行していた月刊誌「ルーフトップ」の1983年5月号は、5月1日と2日に連日ライブ「酔いどれ天使たちへ。大物ゲスト多数」を行う山口冨士夫を表紙にしています。1983年4月の山口冨士夫の「Ride On」発売時のフライヤーと同じ顔のデザインです。

 「ロフト青春記」を読むと「シティロード」「屋根裏」だけでなく、「ロフト」が、特別な思いで1976年のリゾートのときから1983年まで、山口冨士夫を注目、支援していたことがわかります。


☆「ぴあ」1977年8月号

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福生のElectric UZUで8月27日と28日「スペシャルデイ」
山口冨士夫出演の可能性がある

・1977年8月27日28日 福生Electric UZU スペシャルデイ

・1977年8月13日14日 夕焼け祭りVol.4 裸のラリーズ
・1977年8月20日21日 ロックグライド富士野外音楽堂 裸のラリーズ
・1977年8月20日 渋谷エピキュラス 「ロックンロールパーティ」
             近田春夫とハルヲフォン(ドラム : 村八分初代ドラマー恒田義見)

 私は「ぴあ」を1977年8月号から買いました。8月号を探すと、8月27日と28日に福生のElectric UZUで「スペシャルデイ」とあります。出演者の名前は出ていませんが、山口冨士夫の出演の可能性があると思います。

福生UZUのHistory
http://uzu69.com/history/

山口冨士夫は「So What」で、リゾートを解散した後に、以下のように言っています。

 「福生のライブハウス『エレクトリックウズ』に3-4回出た」
 「アマチュアにもすごいシンガーやギタリストがたくさんがいたから、そういった人たちとちゃんと練習して出ていたんだ。はたから見ればセッションに見えたかもしれないけれど、人前でやるからには、ある程度ちゃんとしたことをやりたかったからね」

 また、1986年に山口冨士夫の「プライベートカセット」に参加し、Teardropsのレコーディングやライブにも関わったチコ・ヒゲも「So what」で、1977年にウズで山口冨士夫と3曲だけセッションをしたと言っています。白夜書房の山口冨士夫のインタビューによると、そのときは夜中の12時に始めたため3曲で警官が来て止められたそうです。


1986年山口冨士夫の「プライベートカセット」
 


 あの頃、「ぴあ」の中でも福生のElectric UZUは私には特殊な世界に思えました。1976年の芥川賞受賞作の村上龍の「限りなく透明に近いブルー」や、1976年頃にテレビで見たマジカルパワーマコの不思議なイメージがあったからだと思います。

 1970年の村八分の母体で、1980年に山口冨士夫が参加した裸のラリーズは、1977年8月13日14日の「夕焼け祭りVol.4」と1977年8月20日21日の「ロックグライド富士野外音楽堂」に2週続けてオールナイトライブに参加しています。

1977年8月13日14日「夕焼け祭りVol.4」  泉谷しげるも裸のラリーズを見たとのこと
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 8月20日には、前年にリゾートがライブを行った渋谷エピキュラスで、「ロックンロールパーティ」のイベントに、村八分の初代ドラマーの恒田義見がいた近田春夫とハルヲフォンが出演しています。

 恒田義見は、1970年に富士急ハイランドに出演し、村八分がまだ裸のラリーズを名乗っていた頃のドラマーで、1971年まで1年半在籍しました。1975年のハルヲフォン最初期のファンク時代のLIVE映像では素晴らしいグルーブ感を出しています。

ハルヲフォン / ファンキーダッコNo.1 ドラムス恒田義見 1975年貴重映像
https://www.youtube.com/watch?v=VvEP6OQyRbM
和製リン・コリンズ&JBsとも言える素晴らしいグルーブ感


1970年8月「裸のラリーズ」(水谷孝、チャー坊、山口冨士夫、恒田義見)の写真が掲載



 恒田義見は、現在和太鼓の名手として活躍しています。
 ブログでは、山口冨士夫追悼イベントへの出演や村八分2代目ドラマー上原ユカリ、
4代目村瀬シゲトとの出会いについて語っています。

恒田義見ブログ 「俺達は、....ドラマー達は元気にしているよ」
https://blog.goo.ne.jp/cohan2005/e/ef08ce5ec53a914420987fc7110de8a7


ハルヲフォン1975年-1977年ライブ ドラム恒田義見



 1977年8月号のころは、ニューミュージックが台頭し、チャー、矢沢永吉などロックが商業的に成功。77・8・8Rock Dayでは紫が登場して、8月13日にもコンディショングリーンが中野サンプラザでライブを行い、沖縄ロックのインパクトは最強でした。

 「ぴあ」でも、当時はアングラ(アンダーグラウンド)系がまだ根強く、映画ではルイ・マルの「鬼火」の大きな広告がインパクトがあり見に行きました。暗黒舞踏、小劇場(状況劇場、天井桟敷、黒テント)、自主制作映画が盛んでした。


☆「ぴあ」1977年10月号

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・1977年10月22日 下北沢ロフト「ダイナマイトセッション」
                       ゲスト:ルイズルイス加部

 山口冨士夫とのリゾートの解散後、ルイズルイス加部もピンククラウド(JL&C)加入前には、いろいろな人たちとセッションを組んでいたようです。
 おそらく横浜ではもっと活動していたのでしょう。

 このころの「ぴあ」のMusic Spotのスケジュールのコーナーを見るとロックのライブハウスの少なさに驚かされます。100軒位のライブスポットで、大音量で演奏をするロックライブ専門は、屋根裏、ロフトぐらい。あとロックが出ているのは、UZUなど10軒程度。

 このころは、フォーク弾き語り、歌謡ポップス、ジャズ、シャンソン、カントリーなどが主流で、当時ロックがいかにマイナーだったかがわかります。屋根裏、ロフトのスケジュールを見ると、サザンなど今でも活躍する人たちが500円〜800円で見れた。

 サザンなども店でバイトをしながら、ライブではお客さんがほとんど入らなかったといいます。当時ロックをやっていたのは本当に音楽が好きな少数の人たちだったようです。1960年代後半のグループサウンズブームがいかに大きかったかがわかります。 


☆「ぴあ」1977年12月号

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「ぴあ」1977年12月号「屋根裏」「ロフト」(荻窪→サザン出演、新宿、下北沢)
「ジャンジャン」など。40年前はロックがまだマイナーなジャンルだったことがわかる。

 ・1977年12月27日〜30日 福生Electric UZU Electric Special
 ・1977年12月31日 Electric UZU Special all night

 ・1977年12月2日 屋根裏 サンハウス(鮎川誠)→翌1978年3月25日解散
 ・1977年12月21日 屋根裏 裸のラリーズ
 ・1977年12月26日 労音会館 「アルファルファ・ロックフェスティバルvol.4」
            出演:染谷青&ジョイ (染谷青は、村八分の初代ギタリスト)


 12月27日〜30日にも福生Electric UZUで出演者の記載のない「Electric Special」という匿名性の高いライブがあり、山口冨士夫の出演の可能性があります。
 31日にも「Special all night」が企画されています。

 白夜書房「日本ロック史」のインタビューで山口冨士夫は、こう語っています。

 「バンド活動がメインじゃなくて、いろんな奴といろんな付き合いをしながらって状態でしたね」 「福生とかで。」
 「本当はね、いいミュージシャンとか本当のシンガーとかって隠れてるんですよ」
 「ヒッピーにもすっごいポリシー持ってやってる人たちとか、本当多いんですよね。
 で、そういう人たちとやってました」

 12月26日に労音会館のライブで、「染谷青&ジョイ」が出演。染谷青は1970年の村八分結成時の初代ギタリスト。山口冨士夫が「So what」でも高く評価していたブルースギタリストで、山口冨士夫「プライベートカセット」でも20分の「ストーン」で共演。

「ぴあ」12月号 (イギリスの村八分?)セックスピストルズ「勝手にしやがれ」の広告
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  「ぴあ」12月号にセックスピストルズ「勝手にしやがれ」全世界同時発売の広告が出ています。セックスピストルズを初めて聞いたとき、チャー坊が「あっ、村八分だ」、Charが「これって村八分じゃん」と言った話があります。

 時系列でみると、Sex Pistols が村八分再結成の大きな要因の一つに思えます。
 「So What」でも、1979年に村八分を再結成したときに、山口冨士夫はチャー坊と「面白い奴らが出てきたなあ」と話していたとあります。

The Sex Pistols - Anarchy In The U.K
https://www.youtube.com/watch?v=cBojbjoMttI





 1977年には異端だったロックのライブハウスが、パンクブームと1980年代後半のバンドブームで活気づいたことがわかります。この波の中で山口冨士夫が、村八分、裸のラリーズ、タンブリングス、Teardropsと変遷したのはとても深いことだと思います。


 次回の山口冨士夫と情報誌「シティロード」10回目は、1978年と1979年の「ぴあ」を見てみます。

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2018年05月02日

山口冨士夫と情報誌「シティロード」G 1980年10月号〜1981年3月号 

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左:神奈川大学1980年11月7日裸のラリーズ 右:学園祭出演時の山口冨士夫

今日の1曲
 裸のラリーズLes Rallizes Denudes "White Waking" 1980年
 Popol Vuh - Letzte Tage, Letzte Nachte 1976年
 シーナ&ロケッツ レモンティー 

 
 特集・山口冨士夫と情報誌「シティロード」の第8回目は、前回の1980年8〜9月号に続いて、10月〜12月号、そして1981年1月〜3月号の山口冨士夫が裸のラリーズに参加した時期を振り返ってみます。


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1981年3月で、山口冨士夫は約1年参加した裸のラリーズを脱退する


★「シティロード」1980年10月号

 ・1980年10月29日 屋根裏 裸のラリーズ 山口冨士夫参加

 ・1980年10月3日 シーナ&ロケッツ 海老名文化会館


 渋谷屋根裏において、8月、9月に続いて10月29日に山口冨士夫が参加した裸のラリーズ 3回目のライブがありました。月1回ですので早いペースです。このころは、私は山口冨士夫を知りませんでした。
 
裸のラリーズLes Rallizes Denudes "White Waking"
https://www.youtube.com/watch?v=JavSBbVpwok
1980年8月14日

 このころの裸のラリーズの2人のギターサウンドは、やはりダブルギターだった1970年頃のドイツのAmon DuulUや、一人でダブルギターを多重録音していた1976年頃のPopol Vuhを思い起こさせます。

Popol Vuh - Letzte Tage, Letzte Nachte 1976年
https://www.youtube.com/watch?v=i2JnTD4rooc





 10月3日には、シーナ&ロケッツの海老名文化会館でのライブがありました。おそらく、私がシーナ&ロケッツを見たのはこの日です。1982年のタイガースや1983年4月の山口冨士夫の前に見ていたことに今回気づきました。
 
 非常に思い出の深いライブでした。
 2階席の隅で聞いていたときに、鮎川さんが「もっと前においで」と手招きされたことに感動しました。

シーナ&ロケッツ レモンティー
https://www.youtube.com/watch?v=bzWOPaFX1so
https://www.youtube.com/watch?v=fhuGM5MuYY0

 10月号は、シーナ&ロケットのインタビュー。鮎川誠は「バディーホリーを聞いたら驚くことばかり。ロックンロールは古くならん、ほんとにいいもんならね」「新しいもんはゾクゾクするね。でも3日経ったら古くなる。その中から残る。」と熱く語っています。


1980年は「ユーメイドリーム」がヒット



★「シティロード」1980年11月号

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11月23日法政大学オールナイトライブの告知


 ・1980年11月7-8日 神奈川大学「100時間劇場」オールナイト
                      裸のラリーズ(山口冨士夫参加) シーナ&ロケット
 ・1980年11月23-24日 法政大学ホール オールナイト
                「Imaginative Garage for ストリート シンジケート」
                      裸のラリーズ(山口冨士夫参加)

 11月は2つの学園祭のオールナイトのライブに裸のラリーズは出演しています。「So what」によると、「屋根裏のライブは満員で、特に法政大学での動員数はすごかった」とあります。

 神奈川大学では、裸のラリーズの出演した翌日にシーナ&ロケットやパンタ&HALが出演しています。このときは、鮎川誠も山口冨士夫の裸のラリーズへの参加を知って意識していたでしょう。

 11月30日には九段会館でもシーナ&ロケットはライブをしています。
 さらに11月15日にも神奈川大学でオールナイトのライブがあり、青木真一(元村八分、後にタンブリングス)のフールズが出演しています。

神奈川大学での裸のラリーズのライブ



★「シティロード」1980年12月号

 ・1980年12月23日 屋根裏 裸のラリーズ(山口冨士夫参加)

 1980年12月23日に再び屋根裏で、4回目の山口冨士夫が参加した裸のラリーズのライブが行われています。
 このあと、しばらくライブが途絶えます。  


★「シティロード」1981年1月号 

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※1980年12月31日 裸のラリーズ(予)との告知 

 ・1980年12月31日 新宿ニューヨークシアター 「Last of Tokyo’80」
                  「裸のラリーズ(予)」と告知
                                → 出演せず

 1980年12月31日に新宿ACB会館のニューヨークシアターで「Last of Tokyo’80」というオールナイトイベントがありました。出演する12バンドのうち、裸のラリーズだけ「(予)」という告知でしたが、結局出演はなかったようです。
 
☆「シティロード」1981年2月号 
                   → 裸のラリーズ(山口冨士夫参加)告知なし

★「シティロード」1981年3月号

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1981年3月23日 屋根裏「未定」と記載 裸のラリーズ(山口冨士夫)の最後のライブ     


 ・1981年3月23日 屋根裏 裸のラリーズ(山口冨士夫参加)
     「シティロード」3月号では、「未定」と記載
      
 ・1981年3月5日〜6日 屋根裏 シーナ&ロケット


 1981年3月23日の屋根裏を最後に山口富士夫は裸のラリーズを脱退します。
 「シティロード」でも1982年の11月号に「フールズ ゲスト山口冨士夫」が出るまで告知がなくなります。

 
※RCサクセションが1位 1980年「シティロード」読者選出ベストテンアルバム部門
1988年に山口冨士夫は、RCサクセションの「カバーズ」に参加。
忌野清志郎もダイナマイツ時代からの山口冨士夫のファンだったのだろう。
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次回は、山口冨士夫と情報誌「シティロード」9回目。
 1980年からさらに遡って、当時購読していた1977年から1979年の「ぴあ」の頃を見てみたいと思います。

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