2018年04月11日

山口冨士夫と情報誌「シティロード」D 1984年後半(9月号〜10月号)

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1983年の4曲入りEP「ライドオン!」からの山口冨士夫の活動に陰りが現れる


今日の1曲
 山口冨士夫 / Ocean
 山口冨士夫 / 愛の子
 山口冨士夫 / ムスタングサリー
 高橋竹山 津軽三味線



 特集・山口冨士夫と情報誌「シティロード」の第5回目です。
 前回の1984年後半(7月〜8月号)に続いて、今回は1984年の9月号と10月号を辿ってみます。


★「シティロード」1984年9月号



 ・9月4日 屋根裏 「タンブリングダイス(山口冨士夫band)」1700円 
                                   山口冨士夫が欠席   
 ・9月21日 歌舞伎町Moon stone 「タンブリングダイス(山口冨士夫グループ)」
                                    2000円
 ・8月4日 江の島フリーコンサート(シティロード8月号には告知なし)
      タンブリングダイス  共演:ジョー山中レゲエバイブレーション


 9月4日の屋根裏「タンブリングダイス(山口冨士夫band)」で、初めて山口冨士夫が欠席しました。欠席のことは鮮明に覚えているのですが、その日付については「天国のひまつぶし」の本によればこの日のようです。 





 渋谷屋根裏は、初めて山口冨士夫を見た場所、初めてのライブハウスであり、その日も登場を期待して待っていました。観客もホールに余裕があったので、数十人から100人弱ぐらいだったと思います。


右:1984年9月4日 山口冨士夫が欠席した日の「屋根裏」タンブリングダイスの告知
左:渋谷ジャンジャン 高橋竹山には晩年の山口冨士夫に感じた技術と風格があった 
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 すると、「今日は、山口冨士夫から出られないという連絡が入りました」というアナウンスがありました。病欠ではないようでした。今まで山口冨士夫のライブの深い音楽性に感銘を受けていたので、欠席するのも音楽的な理由と察せられました。
 
 私は「この人はすごい。自分が納得いかないときには出演しないのか。これこそ本物のロックミュージシャンではないのか」と思いました。
 売れることが第一のいわゆる「産業ロック」が主流になった時代でした。

 当時の私は、山口冨士夫の深い悩みにまでは思いが至りませんでした。
 その日は山口冨士夫がいないライブが行われましたが、それでも良いライブでした。
 帰るときにチャージをたしか千円返されましたが、逆に申し訳ない気がしました。

 渋谷屋根裏は、山口冨士夫2回と裸のラリーズ1回の計3回行きました。狭い階段でした。裸のラリーズを見た日は思い出せないのですが、階段で並んでいたら水谷孝が礼儀正しく「失礼」と言いながら上がっていったのが印象的で、影響を受けました。

 「ぴあ」時代から屋根裏の出演者を見ると、サザン、カシオペアなど今も活躍する人たちが多く出ています。「渋谷ジャンジャン」「ロフト」は素晴らしい回想録が出ましたが、「屋根裏」も経営や出演者との人間関係でたいへんだったのではないかと思います。

高橋竹山 津軽三味線
https://www.youtube.com/watch?v=tEjrkHAnzVs
ロックフェスにもよく出演した高橋竹山も山口冨士夫も渋谷で戦っていた





 9月号には歌舞伎町Moon stoneでの9月21日のライブ告知もあります。
 1984年9月5日に開店した大きなホールだったようですが、10月号以降は掲載がなくなっています。


8月4日に江の島でライブがあったとの情報
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 なお、9月号の編集後記に「ジョー山中とタンブリングダイスのフリーコンサート」が8月4日に江の島であったとの驚きの情報があります(8月号にはこのライブは非掲載)。猛暑のために記者は行かなかったとのことでした。

 江の島の鵠沼側ステージは、あるダンスイベントで曇りの日でお客さんが少なくほとんど一人で2時間踊ったことがあるので懐かしい。若い人たちが飲み物を持ってきて応援してくれました。同じステージに山口冨士夫が立ったことがあるとしたら光栄です。

 ジョー山中と山口冨士夫の共演は、1971年のFTBと裸のラリーズで出演したときの富士急ハイランド、1979年村八分再結成時の京都大学西部講堂以来と思います。タンブリングダイスの野外ライブは初めて知りましたが、本当であればぜひ行きたかった。

 
★「シティロード」1984年10月号


10月13日の屋根裏 「タンブリングス」に改名した告知
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 ・10月13日 屋根裏 「タンブリングス(山口冨士夫グループ)」
 ・10月25日 クロコダイル「タンブリングダイス」
 ・10月17日 裸のラリーズ 鹿鳴館


 初めて13日の屋根裏で「タンブリングス」というバンド名に変更。25日のクロコダイルではまだ「タンブリングダイス」。ローリングストーンズそのままだから変えたとのことですが、9月の屋根裏欠席について心機一転もあったのではないかとも思います。


左列:クロコダイル 10月25日に以前の「タンブリングダイス」のバンド名で告知 
右列:Eggman
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 10月13日屋根裏と10月25日クロコダイルのライブの間の10月23日にスタジオ録音された山口冨士夫のOceanという曲があります。初期Kraftwerkや特に1972年のNEU!のライブのような曲で、「ライドオン」とは違う音楽性を模索していたようです。


10分に渡る「Ocean」収録の「Ride on!」デラックス・エディション



 山口冨士夫著「So What」によれば、音楽的な悩みは、9月ではなく1984年に入ったころからすでに始まっていたようです。「So What」の中で「Tumblings」の1984年の記述はたった12行です。その中で、以下のように書かれています。

「すべてが煮詰まり始めていた」
「すべてがマニアックになりつつあるという気がしてた」
「客もいつもと同じさ」

 また、「タンブリングス」の項目で、「学生運動とはいわないが、今の学生にも少しは何か見せてほしいと思うときもあるよ」「『明るいパンク』ってやつをやれば、コブシをあげてくれるのか。オレはまっぴらごめんだな」とも書かれています。





 以前もブログで書いたのですが、クロコダイルでのライブで深く心に刻まれた思い出がありました。「シティロード」や今までの情報を辿っていくと、それはこの1984年10月25日のライブだったのではないかと思います。

 そのライブで、突然山口冨士夫は「イエー」という客に対して、真剣に「お前たちはイエーしか言えないのか?!」と問い正すように言いました。いつも和気あいあいだったライブで、初めて山口冨士夫が怒ったのを見たので驚きました。

 続けて山口冨士夫は、「お前らも何かやりたいんだけど、それがわからないから俺のところへ来てるんだろ?」と言いました。
 私は何もできない自分の心を見透かされたような気がしました。


愛の子収録



 そして、山口冨士夫は、「だったら聞かせてやるぜ! 世紀のあいの子、山口冨士夫!」と叫び、演奏を始めました。その曲は「愛の子」という曲だったようです。
 私は山口冨士夫が自分自身に対して差別用語を使ったことにショックを受けました。

 1983年の4月にも山口冨士夫がそのような言葉を使ったときは、明るく冗談のように話していました。村八分のチャー坊の「おれはカタワ」以上に重く感じました。1996年の「クイックジャパン」連載で初めて「カタワ」とはチャー坊自身の経験だと知りました。

 この後、山口冨士夫はしばらく活動から遠ざかるのですが、このときの山口冨士夫の叫びは、自分自身に対するだけでなく、「おまえも何か行動しろ」という最後の突き放す言葉のように受け取れました。
 
 1983年に山口冨士夫は音楽の灯台のように思えたのですが、この日の山口冨士夫の自分が傷つきながらメッセージを投げかける姿に、音楽だけではない「自分の力で生きろ」という生涯影響を受けるような哲学的なものを受けとった気がしました。
 それは今も続いています。 


山口冨士夫「So What」 2008年新版と1990年旧版
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次回は、山口冨士夫と情報誌「シティロード」第6回、1984年11月号と12月号です。


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