2018年04月25日

山口冨士夫と情報誌「シティロード」F 1980年8月〜9月号 

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山口冨士夫が初参加した1980年8月14日屋根裏・裸のラリーズの告知


今日の1曲
 Les Rallizes Dénudés (裸のラリーズ) 造花の原野
                             1980年 Double heads
 Harold Budd / Brian Eno – The Pearl 1984年
 Uno / Uno nel Tutto 1974年

 特集・山口冨士夫と情報誌「シティロード」の第7回目は、前回の1984年後半(11月〜12月号)から4年遡って、裸のラリーズに参加した1980年の8〜9月号の頃を振り返ってみます。


★「シティロード」1980年8月号 

 ・1980年8月14日 屋根裏 裸のラリーズ 
                   → 山口冨士夫が裸のラリーズに参加した最初のライブ



 
 山口冨士夫は1979年京都での村八分の再結成の後に、1980年に裸のラリーズに参加。1990年に「So What」を読み、1970年に「村八分」がバンド名のないころは「裸のラリーズ」と名乗っていたことを知って驚き、繋がりがわかりました。 

 ”きたな!”ってオレは思ったよ。
 ”村八分のあとはラリーズか”ってね
 「相手にとって不足はないという感じだったな」(So whatより)
 
 1980年のシティロードの「アーティストIndex」は、1982年の「3分の1」の量しかなく、8月号の「は」行を見ても裸のラリーズはありません。ネット検索もない時代、シティロードやぴあで屋根裏の「裸のラリーズ」の1行を探すのが貴重な情報源でした。

 また、1980年8月号には、「あの村八分の山口冨士夫が裸のラリーズに参加」といった1983年のような記述はありません。昔からのファンの口コミでしか、山口冨士夫が裸のラリーズに参加したことを知る手段はなかったと思われます。

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シティロード1980年8月号と9月号

 1991年の裸のラリーズの公式CDリリース以降、最近やっと山口冨士夫が参加した1980年の幻の音源が聞けるようになりました。「So what」で山口冨士夫は、自分がいたころのラリーズが、「一番ポップだったんじゃないかな」と言っています。

 そのため、ずっと「明るい」裸のラリーズという先入観がありました。しかし、Double HeadsのライブCDの音源を聞いて驚きました。山口冨士夫がダイナマイツ時代に培ったポップさが、逆に裸のラリーズの重さを引き出しているように思えます。

 1980年の「造花の原野」を聞くと、「ギターはサイドだ」と言った山口冨士夫の唸るようなリズムギターとリフ、ときに水谷孝とダブルリードギターになるところなど筆舌に尽くしがたい。すごみだけでなく、美しさがあります。

 この「造花の原野」は短期間で作れるものではないでしょう。
 「3か月ぐらいはスタジオに閉じこもった」
 「ラリーズは建築物のようでもあった」と言っていた意味がわかります。

Les Rallizes Dénudés (裸のラリーズ) 造花の原野
https://www.youtube.com/watch?v=HOUqOAL-utM
7分間の中にあらゆるギターの可能性が詰め込まれている。
1980年8月14日の屋根裏の1曲目か。

裸のラリーズ Double heads

 

 また、「So What」新版を読んでいて、旧版と違うなと思ったので比べてみました。言葉使いが柔らかくなっていたり、旧版ではここは言いすぎかなと思えていた部分が削られているなど、山口冨士夫が細かい部分に気を使っていたことがわかりました。

 裸のラリーズについて、山口冨士夫は、「時代は80年代はじめだぜ!世間の動きはニュー・ウェイブ真っ盛りさ! 正直言ってワクワクしたよ」と、ニューウェーブにも目を向けていたことがわかります。

 シティロード1980年8月号では、山口冨士夫が関心を持っていたというブライアン・イーノのAmbient2など新譜が2枚紹介されています。イーノの「環境音楽」シリーズという分野が軌道に乗ってきたころでした。
 
Harold Budd / Brian Eno
https://www.youtube.com/watch?v=6-Zj4LvNvqo&list=PL5CC786FE9C94E2A0
イーノ関係では1984年のこの作品が一番聴きやすいと思う。


Harold Budd / Brian Eno -



 1980年8月号では平岡正明による桑田佳祐のロングインタビュー。お道化でなく鋭い目をしている。サザンが屋根裏の常連だったころ裸のラリーズを見たかもしれない。山下達郎より少し下の世代の桑田佳祐は村八分や山口冨士夫をどう思っているのだろうか。
 
 あの最も苦しかった1980年の夏、イタリアの1974年のUnoが、同年の山口冨士夫「ひまつぶし」のようにいいLPで、よく頭の中で鳴っていました。Osannaと村八分は、活動年代や顔へのメイク、1973年の分裂と1979年の再結成など共通点がありました。

Uno / Uno nel Tutto (1974)
https://www.youtube.com/watch?v=SMCPVjfo1DM&list=PLn6IUYFGu6PJzXjqO7muvREpv58yHNu5Y&index=6
Osannaから分裂しインターナショナルな成功を目指したUno。一人はドラッグで廃人になってしまったという。Goodbye friendでは「ピンクフロイド / 狂気」の女性シンガーLiza Strikeが参加。


Uno / Uno



村八分(1972年)とOsanna(1971年)のメイク
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★「シティロード」1980年9月号

 ・1980年9月11日 屋根裏 裸のラリーズ 
                       → 山口冨士夫参加           
 ・1980年9月16日 屋根裏 シーナ&ロケット 1000円 前売りあり
 ・1980年9月29日 屋根裏 フールズ(元サイズ+スピード)
                       → 青木真一G. (ex 村八分)初ライブ

 ※1980年9月 Mars Studio(レコーディング) 裸のラリーズ 山口冨士夫参加


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右から2列の途中までが「屋根裏」(3回クリックしていくと拡大します)
11日裸のラリーズ、16日シーナ&ロケット、29日フールズ


 1980年9月の屋根裏のスケジュールを見ると、山口冨士夫が裸のラリーズを脱退した後に、一緒に演奏するフールズ、シーナ&ロケットが出演していた。 
 彼らは、すでに山口冨士夫の近いところにいて待っていたように見えます。

 裸のラリーズへの参加の誘いを断ったという元村八分、スピードの青木真一は、フールズを結成し、29日の屋根裏が初ライブ。伊藤耕以外の3名は、後に山口冨士夫のTeardropsのメンバーになります。

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久保田真琴(ex裸のラリーズ)のサンセッツと屋根裏でのシーナ&ロケットの告知

 鮎川誠と特にシーナはダイナマイツの熱狂的ファンで、家出してまで東京までGSを見に行ったそうです。ロケットがバンドで上京したときも、周りから山口冨士夫のことを聞かされていたとのこと。

 夏に武道館公演をしたシーナ&ロケットが、屋根裏に16日に初出演しています。
 このときに「11日」に出演した「裸のラリーズ」に山口冨士夫が出演していたことを彼らは知っていたのか気になるところです。  

 久保田真琴は、1970年代初期に裸のラリーズに参加していましたが、並行して夕焼け楽団のような音楽を作り、1984年にサンディー&サンセッツとしてヒットしました。1990年に山口冨士夫のTeardropsのMixin Loveをプロデュース。

 裸のラリーズは、Mars Studioで9月4日から9日に録音したものの、レコードでリリースされませんでした。CD「Mars Studio」は「Double Heads」ライブのような轟音ではなく、穏やかな曲調のものも多く裸のラリーズの別の側面がわかります。

Mars Studio




(追記) Music Life 1973年11月号
              → 裸のラリーズ参加 「エレクトリックピュアランド」コンサート評

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Music Life1973年11月号 裸のラリーズ 
4ページしかない日本のRock Popsの記事の中に、荒井由実の1st、矢沢永吉インタビュー、内田裕也with沢田研二・ジョー山中、頭脳警察などが詰め込まれている。
11月号の月間ベストアルバムは、PFM / 幻の映像
 
 Music Life1973年11月号は、最初に買った思い出深い雑誌。「エレクトリックピュアランド」のコンサート評で、裸のラリーズについて、「LP『オズデイズ』とは違って聞こえた。やはりレコードという平面ではラリーズは真価を発揮できないかもしれない」とあります。

 しかし、今は裸のラリーズのCDもデジタル化で立体感のある音になり、動画でヘッドホンで大音量で聞けばライブに近い体験ができるようになりました。
 海外からも、これが40年前の音かと絶賛されています。

 Music Lifeの矢沢永吉のインタビューでは、タイガースが残したものは大きいと言っているのが印象的です。キャロル側からキャンセルしたという「ロックンロール・タイトルマッチ キャロル対村八分」という幻のライブが、1973年には予定されていました。





 シティロード1980年9月号に戻ると、萩原健一のインタビューがいい。「So What」によるとダイナマイツ時代は山口冨士夫とよく喧嘩していたとのこと。GS世代は「一夜にして人気がなくなったり、1回挫折した人間が多いからわかりあえる」と語っています。 

 ショーケンも沢田研二とのPYGのときに、京都大学西部講堂で村八分と共演。
 テンプターズもデビュー前は中川三郎ディスコテック専属で、モンスターズのような本格的バンドでした。ショーケンは芸能界の色に変えられてしまったと嘆いていました。

 ダイナマイツから村八分に移った山口冨士夫を西部講堂で見て、ショーケンも影響を受けたのではないだろうか。
 「傷だらけの天使」の再放送のショーケンを見て、ふとそう思いました。

 ショーケンは、ジョー山中が癌になったときのクロコダイルでの支援ライブで初めて見ました。かっこよかったです。亡くなったお姉さんなどのためにお遍路参りをしているというショーケンは、山口冨士夫の死をどのように感じたのでしょうか。

次回の山口冨士夫と情報誌「シティロード」8回目は、1980年10月号以降になります。

 



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2018年04月17日

山口冨士夫と情報誌「シティロード」E 1984年後半(11月号〜12月号)

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「おさらば」の歌詞のようについに1984年末、山口冨士夫の活動が一度停止してしまう


山口冨士夫 / おさらば (LP「ひまつぶし」で唯一、山口冨士夫が作詞もした曲)

  「やっと ここともおさらばします」
  「色んな奴らに 出逢ったけれど」
  「やっぱり こことも おさらば」


今日の1曲
 山口冨士夫 / おさらば 1974年
 山口冨士夫 / 泣きたい時には 1974年
 加部正義 / ムーン・ライク・ア・ムーン 1983年
 ゴールデンカップス / 銀色のグラス 1967年
 村八分 / あっ 1971年 
           from 『村八分 / くたびれて (2018 remaster)』
 The Rolling Stones
         / Jumpin' Jack Flash (Get Yer Ya-Ya's Out!)1969年
 ジョー山中 / 人間の証明 1978年
 浅川マキライブ 池袋文学座ル・ピリエ 1984年
 裸のラリーズ / The last one 1984年


 特集・山口冨士夫と情報誌「シティロード」の第6回目は、前回の1984年後半(9月〜10月号)に続いて、今回は1984年の11号と12月号の頃を振り返ってみます。
山口冨士夫と同世代の尊敬するアーティストの1984年の活動にも触れました。


★「シティロード」1984年11月号


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Foolsレコード発売記念ライブで「ゲスト山口冨士夫 必殺のラインナップだ」と紹介


 ・11月3日  屋根裏 タンブリングス(山口冨士夫バンド)
 ・11月17日 ライブイン Foolsレコード発売記念 ゲスト「山口冨士夫Band」
 ・11月24日 オールナイト 法政大学ホール( 山口冨士夫出演可能性あり )

 
 青木真一が結成・在籍し、1982年11月の山口冨士夫の復活の切っ掛けを作って以来、山口冨士夫と行動を共にしてきたFools。
 そのFoolsの11月17日のレコード発売記念ライブは、シティロードでも「ゲスト山口冨士夫 必殺のラインナップだ」と紹介。Foolsの伊藤耕も最近亡くなりました。





 11月24日の法政大学ホールの山口冨士夫の出演については確かではありません。
 しかし出演者が、フールズ、少年ナイフ、ローザ・ルクセンブルグ 「他」とあり、
 また、山口冨士夫「So What」に「秋の法政大学を最後に一人旅に出た」とあります。

 さらに、翌12月の法政大学ホールのライブに山口冨士夫は欠席しています。
 以上からすると、この11月24日に山口冨士夫が出演したものと推測されます。シティロード11月号は学園祭特集で、「今年もロックの硬派は法政だ」と書かれています。

 11月1日明治大学は「チャボvsチャー」の企画でピンククラウドとチャボバンドが出演。
 山口冨士夫と1976年にリゾートを組んだルイズルイス加部は1978年から1994年までピンククラウドで活動、1980年代は毎月大きな会場でライブがありました。

 私もこのころ本多劇場の下北沢音楽祭でピンククラウドを見ました。山口冨士夫も加部正義を意識したと思います。1979年に村八分の再結成に山口冨士夫が「おれは賭けた」というのは、「ジョニー、ルイス&チャー」に触発されたのではないかとも思います。

resort(山口冨士夫&加部正義) trailer
https://www.youtube.com/watch?v=RQFcGvd9Quc


ついに世に出た伝説のバンド「リゾート」の1976年のライブ



 ピンククラウド関係の中でも、山口冨士夫のEP「ライドオン!」の直後の1983年7月に発売された加部正義のソロLP「ムーン・ライク・ア・ムーン」は傑作でした。
 本来はギタリストの加部正義が書き溜めていたと思われる名曲、名リフが多い。

 このLPは「ひまつぶし」のようによく聞きました。Gentle Giant / In a glass houseのようにガラスの割れる音から始まる。「ムーン・ライク・ア・ムーン」はPink Floydのように音が広がるインストロックでした。

 このLPの音や銀色のグラスなどのゴールデンカップスに憧れて、横浜の本牧に一人旅をしたのもこのころでした。伝説のクラブ「ゴールデンカップ」も見ました。いろいろなことを思い起こすと、懐かしく感傷に浸ってしまいます。
 
MASAYOSHI KABE - ONLY THE YOUNG
https://www.youtube.com/watch?v=cCIOYpRN0DA
アルバム最後のリラックスした名曲。EmtidiのSaatと同じコード進行。青春の終わり。


1983年5月の山口冨士夫のEP「ライドオン!」の後、1983年7月に発売



 11月23日には、1971年に頭脳警察、1972年に村八分が出演した慶應大学三田祭で、PANTAのライブがありました。PANTAは、レコーディング中に病によって倒れてしまったという問題作「16人格」を8月に発表したばかりでした。

 1960年代に山口冨士夫にブルースバンド結成を持ちかけたPANTA。彼もソロの時代はラブソング集に以前のファンから批判を受けたり、山口冨士夫と同様、方向性に苦しんだ時期があったと「団塊の世代」特集のインタビューで語っていました。





★「シティロード」1984年12月号
 

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12月21日 「タンブリングス+ゲスト:鮎川誠」 山口冨士夫が再び欠席してしまう。
1983年5月にルイードで山口冨士夫と対バンだった安全地帯がブレイク

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12月22日は裸のラリーズ
2年続いた山口冨士夫、裸のラリーズの法政大学ホールでのクリスマス連日ライブ。


 ・12月8日 東福生 SUNSHINE UZU
             タンブリングス(山口冨士夫 青木真一 青木正行 小林秀弥)
 ・12月21日(金)法政大学ホール  タンブリングス ゲスト:鮎川誠 
                             山口冨士夫欠席 
 ・12月22日(土)法政大学ホール  裸のラリーズ
 ・12月29日 0:30am 新宿ミッドナイトスペシャル  山口フジオ+エミリー+アキオ

 ・12月31日 クロコダイル In the midnight special 84’
            タンブリングス(山口冨士夫G) 鮎川誠&シーナ(予定)
              ← この日については、シティロード1985年1月号に告知


 ・12月6日  クロコダイル    ジョー山中 Reggae Vibration
 ・12月末  文学座ル・ピリエ  浅川マキ 


 1983年のクリスマスに2日間素晴らしいライブを見た山口冨士夫のタンブリングスと裸のラリーズが再び、法政大学ホールで12月にライブを連日行うとの告知。
 ゲストが鮎川誠ということで、たいへんな期待を持って会場に向かいました。

 12月21日に、「ゲスト鮎川誠」がどういう形で参加するのか不明でしたが、シーナ&ロケットとして出演しました。500円のカンパで見れたのはラッキーでした。
 翌1985年1月24日にシーナ&ロケットは渋谷公会堂で単独ライブをしています。


 


 しかし、シーナ&ロケットの演奏終了後、なかなか山口冨士夫が現れません。
 その間、ホールに大きな音でライブの音が流れました。私は、直感的に「これは村八分の伝説の最盛期のライブ音源ではないか、、、」と思いました。
 
 会場で流れた「あっ」は、1971年4月録音の村八分の「草臥れて」でした。ホールのエコーがかかった状態で大音量で聞きました。イコライザーでベースを思い切り上げて、全体にリバーブをかけたような音でした。


あっ!! from 『村八分 / くたびれて (2018 remaster)』
https://www.youtube.com/watch?v=O8SuvuaVqfU
ベースなどの音圧が上がり凄いサウンドにremasterされた。


4回目のリリースとなる「くたびれて」 



 この「あっ」では青木真一のベースのグルーブが中心。山口冨士夫が「So What」で「テッチャンのリズムギターは、バンドのビートを唸らせていた」と語る浅田哲のリフ、上原裕の跳ねるビートが台風の目のように渦を巻き、それをチャー坊の叫びが扇動する。

 小学校の頃に、Rolling Stones / Jumpin' Jack Flashをラジオで録音したものが、シングルヴァージョンと違って音が太く、グルーブして何度も聴いた。5年前にやっとそれがGet Yer Ya-Ya's Out!のライブとわかりました。

The Rolling Stones / Jumpin' Jack Flash (Get Yer Ya-Ya's Out!)
https://www.youtube.com/watch?v=2O8U2skkqyY


全盛期のストーンズと村八分のイメージが重なるライブ盤


 法政大学ホールで聞いたエコーのかかった「あっ」は、まさにストーンズの感じだった。

 「くたびれて」の「あっ」、慶應三田祭CDの「あやつり人形」を聴くと、山口冨士夫がMusic Life1971年6月号で「世界で一番すごいのはストーンズと村八分だ」「チャー坊の方がミックジャガーより上。持っているものが違う」と言ったことが理解できる。 
 
村八分1971〜1972年の映像
https://www.youtube.com/watch?v=G9EqrB0ISaw
3:17〜「音楽にダンスを融合させるロックシンガー」チャー坊と山口冨士夫の頂点
「天国のひまつぶし」で村瀬シゲトが「二人は1+1=2ではなく、4,5になった」と言うのがわかる





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タンブリングスのライブ


 ホールで、村八分「草臥れて」からの「あっ」「どらねこ」などが流れた後に、ついに会場に「山口冨士夫は出ません」というアナウンスがありました。
 青木真一が「おれたちだけで楽しもうぜ!」と言ってライブが始まりました。

 あの会場にいた青木真一は、自分の村八分時代の演奏を聴いてどう思ったのか。
 もしかしたら、山口冨士夫の欠席を見越して、青木真一か誰かが村八分の音源を用意していたのかとも思いました。

 山口冨士夫は、前座のシーナ&ロケッツを聴いて自信をなくしたのかとも、そのときは想像しました。シーナ&ロケッツはBOURBONからアルファレコードに移籍し、サウンド面でYMOがサポートして先端の音をロックンロールの形にして演奏していました。

 しかし、これは勘違いで、白夜書房の日本ロック大全のインタビューによると、山口冨士夫はシーナ&ロケッツに対して引け目を感じるようなことは全くなかったようです。
 実際のところ、この日、山口冨士夫は最初から会場に来れなかったようです。





 この12月21日の山口冨士夫の再度の欠席についても、9月の屋根裏のときと同様、全く不満な感情は起きませんでした。山口冨士夫は、10月のクロコダイルで、「お前らも何かしたいけどわからないから俺のところに来てるんだろ?」と客に問いかけました。

 しかし、その山口冨士夫自身もミュージシャンとして「自分は何をすべきか悩んでいるのではないか」と、私は考えるようになりました。
 山口冨士夫とその音楽が自分を代弁してくれる鏡のように思えました。
 
 この日、山口冨士夫の欠席を鮎川誠も心配したのはではないでしょうか。
 この1年後、ダイナマイツ時代から山口冨士夫のファンだったという鮎川誠とシーナのサポートで山口冨士夫は復活します。

  



 翌12月22日の裸のラリーズは、前日の山口冨士夫欠席の不安を消すように1983年12月と同様にぶっ飛んだ演奏でした。1983年12月のときは山口冨士夫も客席で聞いていましたが、このときはみつかりませんでした。
 
 造花の原野のような速いテンポの曲の音の広がりや、The last oneの重厚な締めくくりは素晴らしかったです。 水谷孝は最後にギターを壊して踏みつけたこともありましたが、最後にはマイクに向かって「ありがとう」と言っているのが印象的でした。

 裸のラリーズは、法政大学2回、屋根裏、鹿鳴館1回ずつと4回見ました。絵画展で水谷孝と遭遇したことがあります。ベルギー象徴派展かと思ったのですが、それは1982年12月〜1983年1月だったので時系列で合いません。裸のラリーズについては体に刻まれた爆音に消されて、記憶がいつかわからない感じです。





 12月8日のクロコダイルに赤ペンでマークがついており、この日に8月に江の島で山口冨士夫と共演したというジョー山中のReggae Vibration (石間秀機G 篠原信彦Key)を初めて見たようです。

 ジョー山中については、フラワートラベリンバンドの「メイクアップ」を聞いて日本にもこんな凄いバンドがあったのかと尊敬していました。クロコダイルでジョー山中と目が合ったときは緊張しました。

 ジョー山中もFTBの解散後、人間の証明でヒットしたり、ミュージカルやいろいろな道を模索し、レゲエにたどり着いたようでした。
 このころ、ジョー山中の「魂」のLPジャケットをずっと部屋に飾っていました。


ジョー山中自伝 アフガニスタンの危険地帯にも内田裕也とボランティアに行ったという



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12月29日に告知されていたライブを偶然発見。
カタカナの「フジオ」名義が1974年の「ひまつぶし」を想起させる。


「おさらば」「泣きたい時には」収録



 1984年末に初めて浅川マキを見ました。驚きのライブでした。黒い衣装でシャンソンに近いイメージで一人で歌い出した浅川マキが「〜さん」と一流のジャズミュージシャンを一人ずつ呼びながら、ビリーホリデイのように徐々にジャズのグルーブに乗って歌う姿。

 浅川マキはこの時代でも音楽誌で称賛されていた。心の空虚に引き込まれながら心の空虚を埋めてくれるような声。世の中に音楽の天才は本当にいるのだと思いました。
 山口冨士夫の「泣きたい時には」もいい。これほど歌心が伝わる歌は多くない。

※山口冨士夫も「ひまつぶし」に「浅川マキのような感じの曲が入っている」と述べている。So What」新版P133

「アングラの女王 歌手・浅川マキ」 追悼
https://www.youtube.com/watch?v=964NthnsN_A
2010年にライブ当日に名古屋のホテルで亡くなっていた浅川マキの人生は、
「Rockとは生き方のことなんだ」と言っていた山口冨士夫と重なる

池袋文学座ル・ピリエ(12月27日〜31日)での浅川マキの年末恒例だったライブ
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1984年は、山口冨士夫の活動停止と浅川マキの大晦日ライブで、終わりました。
 山口冨士夫は、予定されていた12月29日と12月31日のライブにも出られなかったのではないかと思います。

 1985年に入ってから、しばらく山口冨士夫に関する情報は全く途絶えてしまいます。
 しかし、1985年から私の人生が苦しい局面に入った時にも常に山口冨士夫の存在が心の支柱でした。
 
 1985年末からの鮎川誠とシーナ&ロケッツのサポート、そして1980年代後半からの空前のバンドブームを経て、山口冨士夫はついに1989年にTeardropsでメジャーの表舞台に出ることになります。

 
 次回の山口冨士夫と情報誌「シティロード」7回目は、1985年以降に進む前に、1980年に遡ろうと思います。  




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2018年04月11日

山口冨士夫と情報誌「シティロード」D 1984年後半(9月号〜10月号)

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1983年の4曲入りEP「ライドオン!」からの山口冨士夫の活動に陰りが現れる


今日の1曲
 山口冨士夫 / Ocean
 山口冨士夫 / 愛の子
 山口冨士夫 / ムスタングサリー
 高橋竹山 津軽三味線



 特集・山口冨士夫と情報誌「シティロード」の第5回目です。
 前回の1984年後半(7月〜8月号)に続いて、今回は1984年の9月号と10月号を辿ってみます。


★「シティロード」1984年9月号



 ・9月4日 屋根裏 「タンブリングダイス(山口冨士夫band)」1700円 
                                   山口冨士夫が欠席   
 ・9月21日 歌舞伎町Moon stone 「タンブリングダイス(山口冨士夫グループ)」
                                    2000円
 ・8月4日 江の島フリーコンサート(シティロード8月号には告知なし)
      タンブリングダイス  共演:ジョー山中レゲエバイブレーション


 9月4日の屋根裏「タンブリングダイス(山口冨士夫band)」で、初めて山口冨士夫が欠席しました。欠席のことは鮮明に覚えているのですが、その日付については「天国のひまつぶし」の本によればこの日のようです。 





 渋谷屋根裏は、初めて山口冨士夫を見た場所、初めてのライブハウスであり、その日も登場を期待して待っていました。観客もホールに余裕があったので、数十人から100人弱ぐらいだったと思います。


右:1984年9月4日 山口冨士夫が欠席した日の「屋根裏」タンブリングダイスの告知
左:渋谷ジャンジャン 高橋竹山には晩年の山口冨士夫に感じた技術と風格があった 
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 すると、「今日は、山口冨士夫から出られないという連絡が入りました」というアナウンスがありました。病欠ではないようでした。今まで山口冨士夫のライブの深い音楽性に感銘を受けていたので、欠席するのも音楽的な理由と察せられました。
 
 私は「この人はすごい。自分が納得いかないときには出演しないのか。これこそ本物のロックミュージシャンではないのか」と思いました。
 売れることが第一のいわゆる「産業ロック」が主流になった時代でした。

 当時の私は、山口冨士夫の深い悩みにまでは思いが至りませんでした。
 その日は山口冨士夫がいないライブが行われましたが、それでも良いライブでした。
 帰るときにチャージをたしか千円返されましたが、逆に申し訳ない気がしました。

 渋谷屋根裏は、山口冨士夫2回と裸のラリーズ1回の計3回行きました。狭い階段でした。裸のラリーズを見た日は思い出せないのですが、階段で並んでいたら水谷孝が礼儀正しく「失礼」と言いながら上がっていったのが印象的で、影響を受けました。

 「ぴあ」時代から屋根裏の出演者を見ると、サザン、カシオペアなど今も活躍する人たちが多く出ています。「渋谷ジャンジャン」「ロフト」は素晴らしい回想録が出ましたが、「屋根裏」も経営や出演者との人間関係でたいへんだったのではないかと思います。

高橋竹山 津軽三味線
https://www.youtube.com/watch?v=tEjrkHAnzVs
ロックフェスにもよく出演した高橋竹山も山口冨士夫も渋谷で戦っていた





 9月号には歌舞伎町Moon stoneでの9月21日のライブ告知もあります。
 1984年9月5日に開店した大きなホールだったようですが、10月号以降は掲載がなくなっています。


8月4日に江の島でライブがあったとの情報
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 なお、9月号の編集後記に「ジョー山中とタンブリングダイスのフリーコンサート」が8月4日に江の島であったとの驚きの情報があります(8月号にはこのライブは非掲載)。猛暑のために記者は行かなかったとのことでした。

 江の島の鵠沼側ステージは、あるダンスイベントで曇りの日でお客さんが少なくほとんど一人で2時間踊ったことがあるので懐かしい。若い人たちが飲み物を持ってきて応援してくれました。同じステージに山口冨士夫が立ったことがあるとしたら光栄です。

 ジョー山中と山口冨士夫の共演は、1971年のFTBと裸のラリーズで出演したときの富士急ハイランド、1979年村八分再結成時の京都大学西部講堂以来と思います。タンブリングダイスの野外ライブは初めて知りましたが、本当であればぜひ行きたかった。

 
★「シティロード」1984年10月号


10月13日の屋根裏 「タンブリングス」に改名した告知
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 ・10月13日 屋根裏 「タンブリングス(山口冨士夫グループ)」
 ・10月25日 クロコダイル「タンブリングダイス」
 ・10月17日 裸のラリーズ 鹿鳴館


 初めて13日の屋根裏で「タンブリングス」というバンド名に変更。25日のクロコダイルではまだ「タンブリングダイス」。ローリングストーンズそのままだから変えたとのことですが、9月の屋根裏欠席について心機一転もあったのではないかとも思います。


左列:クロコダイル 10月25日に以前の「タンブリングダイス」のバンド名で告知 
右列:Eggman
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 10月13日屋根裏と10月25日クロコダイルのライブの間の10月23日にスタジオ録音された山口冨士夫のOceanという曲があります。初期Kraftwerkや特に1972年のNEU!のライブのような曲で、「ライドオン」とは違う音楽性を模索していたようです。


10分に渡る「Ocean」収録の「Ride on!」デラックス・エディション



 山口冨士夫著「So What」によれば、音楽的な悩みは、9月ではなく1984年に入ったころからすでに始まっていたようです。「So What」の中で「Tumblings」の1984年の記述はたった12行です。その中で、以下のように書かれています。

「すべてが煮詰まり始めていた」
「すべてがマニアックになりつつあるという気がしてた」
「客もいつもと同じさ」

 また、「タンブリングス」の項目で、「学生運動とはいわないが、今の学生にも少しは何か見せてほしいと思うときもあるよ」「『明るいパンク』ってやつをやれば、コブシをあげてくれるのか。オレはまっぴらごめんだな」とも書かれています。





 以前もブログで書いたのですが、クロコダイルでのライブで深く心に刻まれた思い出がありました。「シティロード」や今までの情報を辿っていくと、それはこの1984年10月25日のライブだったのではないかと思います。

 そのライブで、突然山口冨士夫は「イエー」という客に対して、真剣に「お前たちはイエーしか言えないのか?!」と問い正すように言いました。いつも和気あいあいだったライブで、初めて山口冨士夫が怒ったのを見たので驚きました。

 続けて山口冨士夫は、「お前らも何かやりたいんだけど、それがわからないから俺のところへ来てるんだろ?」と言いました。
 私は何もできない自分の心を見透かされたような気がしました。


愛の子収録



 そして、山口冨士夫は、「だったら聞かせてやるぜ! 世紀のあいの子、山口冨士夫!」と叫び、演奏を始めました。その曲は「愛の子」という曲だったようです。
 私は山口冨士夫が自分自身に対して差別用語を使ったことにショックを受けました。

 1983年の4月にも山口冨士夫がそのような言葉を使ったときは、明るく冗談のように話していました。村八分のチャー坊の「おれはカタワ」以上に重く感じました。1996年の「クイックジャパン」連載で初めて「カタワ」とはチャー坊自身の経験だと知りました。

 この後、山口冨士夫はしばらく活動から遠ざかるのですが、このときの山口冨士夫の叫びは、自分自身に対するだけでなく、「おまえも何か行動しろ」という最後の突き放す言葉のように受け取れました。
 
 1983年に山口冨士夫は音楽の灯台のように思えたのですが、この日の山口冨士夫の自分が傷つきながらメッセージを投げかける姿に、音楽だけではない「自分の力で生きろ」という生涯影響を受けるような哲学的なものを受けとった気がしました。
 それは今も続いています。 


山口冨士夫「So What」 2008年新版と1990年旧版
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次回は、山口冨士夫と情報誌「シティロード」第6回、1984年11月号と12月号です。


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2018年04月05日

山口冨士夫と情報誌「シティロード」C 1984年後半(7月号〜8月号)

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山口冨士夫出演の情報誌「シティロード」1984年4月号〜12月号


今日の1曲
 山口冨士夫 / 赤い雲
 山口冨士夫 "Jump So High"
 Rolling Stones / Route 66
 Rolling Stones / Monkey Man
 Prince / Let’s go crazy
 Alphataurus / Croma
 Jimi Hendrix / Wild Thing


 特集・山口冨士夫と情報誌「シティロード」の第4回目は、前回の1984年前半(1月〜6月号)に続いて1984年後半です。9月号以後に大きな重たい変化があるので、まず7月号と8月号まで山口冨士夫の出演を辿ってみます。


★「シティロード」1984年7月号

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7月号index「た」行。バンド名は「タンブリングダウン」から2か月で「タンブリングダイス」に変更。


 ・7月6日 クロコダイル「タンブリングダイス(山口冨士夫グループ)」
 
 このころは、毎月「シティロード」を25日に買い、Indexで「は」行の裸のラリーズと「や」行の山口冨士夫を探すのが最大の生きがいになっていました。ところが「シティロード」1984年7月号には、「山口冨士夫」も「タンブリングダウン」もない。

 「タンブリングダイス」は誤植かとも思いましたが、バンド名が変わったようでした。バンド名がズバリだったので、やはり彼らもRolling Stonesが原点だったのかと感慨深いものがありました。

Rolling Stones / Monkey Man
https://www.youtube.com/watch?v=i3CIhGXnntM





 7月6日のクロコダイルはいい雰囲気のライブでした。
 途中で「マリンバンド」という山口冨士夫+2名によるアコースティックバンドに変わりました。「よっちゃんFrom京都」「昔からのブルース仲間」と聞こえたので、元村八分の人かと思いました。

 メンバーは、加藤義明Vo.Ag、浅田哲Harp、山口冨士夫がG.Vo。マリンバンドは、黒人ブルース、白人系フォーク、日本語のオリジナルを演奏しました。加藤義明がフォークに造詣が深く、浅田哲もはしだのりひこの従弟でしたのでリラックスしたよい演奏でした。

赤い雲 from『山口冨士夫 Jump So High 1983~1986(2CD)』
https://www.youtube.com/watch?v=LlXBwsEWSJc
「ひまつぶし」の中のアコギ+ハーモニカによる名曲





 マリンバンドの最後の曲にドラムが入り、間髪を入れずに始まった「タンブリングダイス」の「ルート66」はバンドが一体となり素晴らしかった。ストーンズの1stアルバムのヴァージョンを思い出させます。
 
 Charは山口冨士夫に「ギターはサイドだ」と言われ、目の前で弾かれて圧倒されたとのことですが、ダイナマイツ時代から山口冨士夫がダブルサイドギターになったときのスピード感は素晴らしい。

Route 66 - The Rolling Stones
https://www.youtube.com/watch?v=Jc8_Qs_y-xs

 「酔いどれ天使」は途中からのリフが、1983年12月はゆっくりでしたが、今回は1.5倍位速いスピードのジャングルビートでした。
 「水たまり」は「ライブ村八分」と同じ感じのイントロでした。

 その後、新曲が3つ続き、「Jump So High」はアイズレ―ブラザースのような切れのいいファンク、続く「死ぬまでドライブ」は「どうせいつかは、くたばってしまうんだろう」という詞が印象的で、「いきなりサンシャイン」のリフは山口冨士夫の定番になりました。

 クロコダイルに行ったのはこの日が最初でした。
 この後、年内にもう一度クロコダイルに山口冨士夫のライブに行き、ジョー山中のライブ(レゲエ期)、ジョー山中の喉頭がん支援ライブにも行きました。

山口冨士夫 "Jump So High" from DVD'Tumblings Live'
https://www.youtube.com/watch?v=rXxHsvTfSs8
凄いファンク


★「シティロード」1984年8月号

1984年8月号「渋谷エリア」のページ。
クロコダイルと屋根裏に「タンブリングダイス」出演の告知。懐かしいバンドも。
渋谷ジャンジャンは、寺山修司特集「蘭妖子コンサート(JAシーザー演奏)」2日間+
天井桟敷幻想映画2日間
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8月4日 クロコダイル 「タンブリングダイス(山口冨士夫グループ)」
8月11日 屋根裏 「タンブリングダイス(山口冨士夫バンド)」
8月13日 鹿鳴館 裸のラリーズ

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 「シティロード」8月号では、プリンスの「パープルレイン」、最初期のHiphop映画「ビートストリート」のサントラ盤の広告に、Michael Jacksonに続く黒人のスターの登場を予感させます。山口冨士夫がHiphopをどう思っていたのかも気になります。

Prince - Let's Go Crazy
https://www.youtube.com/watch?v=aXJhDltzYVQ
ジミヘンをヒーローとするプリンス。山口冨士夫もジミヘンをコピーしていたというが、ライブでは聞いたことがない。

 また、8月号のロングインタビューはピーター・バラカン。彼はイギリスのレコード店でアルバイトをしてブリティッシュロック、ブルース、ソウルに知識がある人です。「どこかに日本的なものがないと、日本のロックが海外に出るのは難しい」とも言っています。

 ピーターバラカンが、村八分の「ひらがなロック」や山口冨士夫から英米にインスパイアされた以上の日本的なものを感じるかも知りたいところです。イギリスの若いミュージシャンがダイナマイツの「トンネル天国」に興奮したと雑誌で読んだことがありました。

 貸しビデオ、DVD、Youtubeなどがない時代は「シティロード」や「ぴあ」を頼りに。「京橋フィルムセンター」など小さな映画館やホールを探して名画やロックフィルムを見ました。ジミヘン、ドアーズ、ジャニス、ストーンズの動く映像は衝撃でした。

Jimi Hendrix Wild Thing モンタレー
https://www.youtube.com/watch?v=_-7toYWFEyk
ギターに火をつけるシーンは本当に驚いた。1:57の女性の目が物語っている。

 1984年の新譜は、プリンスが世界初の映画と音楽の同時戦略でインパクトがありました。旧譜は、再発された1973年のAlphataurusがベトナム戦争のジャケと深い内容で、翌年1月に再発された1973年の「ライブ村八分」同様に印象に残っています。

Alphataurus / Croma
https://www.youtube.com/watch?v=Wj6Mos_K_uU






 次回は、特集・山口冨士夫と情報誌「シティロード」の第5回目です。
 1984年後半の9月号以後の山口冨士夫の出演を辿ってみます。


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