2018年09月17日

Etna1975 〜 安室ちゃん引退 下積み時代 〜

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安室奈美恵1995


今日の1曲
 Etna 1975
 安室奈美恵 a walk in the park 1996
 安室奈美恵 Hero 2016
 安室奈美恵 Paradise Train 1994


Flea1972 〜 L’uovo di Colombo1973 〜 Etna1975 

 前回のブログでL’uovo di Colomboが思いがけずカッコよかったので調べたら、BassはジャズロックEtnaのメンバーでした。1972年のFleaの4人がそのまま1975年にEtnaに発展。その過程でBassだけが、ELP調のL’uovo di Colomboに一時期参加していたようでした。

L'UOVO DI COLOMBO / Anja Coscienza E Vanità
https://www.youtube.com/watch?v=10iN6ffwYa8&index=28&list=PLV4gA_w66N6Gibwnti_Z-0zAfZTxQuDzW

 EtnaはRTFやウェザーリポートを目指していたと思われますが、Areaのような攻撃性があり、ドラムはフリオ・キリコのようで、カッコいい。ラテンの情熱、オリジナリティーが感じられます。ジャズロックの隠れた名盤です。

Etna / Etna  1975
https://www.youtube.com/watch?v=twPhrCLrYcw





ジャズドラムの映画「セッション」
" 2015年度アカデミー賞Rのダークホースが、3冠を獲得!!名門音大に入学したドラマーと伝説の鬼教師の狂気のレッスンの果ての衝撃のセッションとはーー!?[才能]VS[狂気] この衝撃に、息をのむ。"


 
 そこで3年前のFleaを聴くと、ハードロックを複雑な構成にした感じで、これもオリジナリティーがあるのですが、高いテクニックを消化しきれていない感じです。Etnaのようなボーカル抜きのジャズロックに転向して本領を発揮できたと思います。

FLEA - TOPI O UOMINI  1972
https://www.youtube.com/watch?v=dEmKrUL-824



〜 安室ちゃん引退 〜





 安室ちゃんが引退してしまいました。Etnaからなぜつながるかというと、まず、Etnaも安室ちゃんもカッコいい。また、安室ちゃんのおじいさんはイタリア系のアメリカ人らしいのでその点も通じる(山口冨士夫は安室ちゃんのことをどう思っていたのだろうか)。さらに、音楽スタイルを大きく変化させている点も共通しています。

 スーパーモンキーズは、最初モンキーズという名前でアイドルとして売り出しました。
 このころはアイドルは可愛い子がまだ全盛で、安室ちゃんのような歌+本格的ダンスは浮いている感じでした。

スーパーモンキーズ / ミスターUSA 1992
https://www.youtube.com/watch?v=hxsDtyIFG0s
デビューシングル。小学生からの下積みでジャズダンスの基礎を身に着けた。
安室ちゃんも「スーパーマーケットの前で歌って誰も聞いてくれなかった」「いつか振り向かせてみせると思っていた」と回想していた。

安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S/PARADISE TRAIN 1994年7月
https://www.youtube.com/watch?v=sInYP0PH_a4
このテレビ番組で安室ちゃんのファンになった。まだ地方局レベルの人気で、4枚目のPARADISE TRAINはオリコン137位と最悪の結果。ぎりぎりに追い込まれていたのだと思う。昔、男性歌手が渋谷109の前で、「次の4枚目のシングルが売れないと自分は沖縄に帰ることになります」と台の上に乗って叫んでいたのを思い出す。

 
安室奈美恵 / TRY ME 1995年1月
https://www.youtube.com/watch?v=izKHzO1HP7w
ユーロビートのヒット曲に日本語をつけて5枚目でオリコン8位のヒット。
ここから、今までの「アイドル=可愛い子」時代から「ダンス+歌」の時代が始まった。





安室奈美恵 with スーパーモンキーズが歌うTRFのBoy Meets Girl
https://www.youtube.com/watch?v=ramIRyoNMBA
小室哲哉が安室ちゃんを知るきっかけになったテレビ

 小室哲哉は、ダンスマニアが作ったレコード会社Avexでマニアックなハウスをやるつもりでいた。安室奈美恵に歌わせてみようということになったら大ブレイク。
 ダンスは、ジャズダンス+ジャネット・ジャクソン+ハウスへ。

安室奈美恵 a walk in the park 1996
https://www.youtube.com/watch?v=nlLqPWRjkVg
ユーロビートからハウスへ。安室ちゃんwith小室サウンドの頂点。

安室奈美恵「a walk in the park」maxell 1996年 CM
https://www.youtube.com/watch?v=-AW01cuOwu8





 1996年の6月に痔の手術で3週間入院し、退院するときに安室ちゃんのSWEET 19 BLUESの4種類のジャケットで店頭が埋め尽くされていました。安室ちゃんに触発された私は、ダンスを再開するために3か月ジョギングと筋トレをしました。そして東京で1-2軒しかなかったHiphop専門のクラブに初めて行きました。

 2000年以降は、安室ちゃんはHiphop路線でテレビにほとんど出なくなりました。
 私は1回だけ、2006年頃に代々木体育館で安室ちゃんのコンサートを見ました。諦めていたチケットをとることができました。MCがなく、Hiphop路線が中心で、最後の方に昔のヒット曲を歌ったのを覚えています。8〜9割ぐらいは女性ファンだったと思います。

安室奈美恵「Hero」2016
https://www.youtube.com/watch?v=YJt7KRmv2bQ




 先週、安室ちゃんのバックダンサーが、安室ちゃんはプロのダンサーが10日でマスターすることを3時間で覚えられる、神だと言っていました。それを聞いて、やはり安室ちゃんをささえていたのは下積み時代のダンスと歌の訓練だと思いました。
 安室ちゃん、今までありがとうございました。

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ストリートシンガーを見ました。頑張れ、下積み時代。
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2018年09月16日

初秋〜イタリア・レア映像発見 L’uovo di Colombo 希望








今日の1曲
 L’uovo di Colombo 1973

 22度と肌寒くなってきました。37度の日が嘘のようです。
 慌てて長袖を重ね着しています。風邪にお気を付けください。
  久々にイタリアンプログレッシブのレア映像を発見しました。

 L’uovo di Colomboの映像があったことには驚き。新大陸発見の感動です。
 この曲はドラムとベースにグルーブ。かっこいい。シンフォニック系の曲の中で光る。
 ◎◎や●●などを、いつの日か見てみたい。希望がつながりました。


Under 20 -Pop 3
https://www.youtube.com/watch?v=MdkOskxUqc4
7:40からL’uovo di Colombo。「コロンブスの卵」途中からのカメラワークが斬新!

2:15 New Trolls in Atomic System
ラスト Area / Arbeit macht frei

最後のヒマワリ
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2018年08月31日

最強地下アイドル仮面女子@江の島特設ステージ 追悼ジョー山中 山口冨士夫

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今日の1曲
  Alunni del sole – Tarantè 1979

(※訂正 U-1170ではなく、2月に間違えて100を引いたので正しくは1270でした。
 ブログタイトルにしているLe Ormeが来日したのを機にUにしました。
 UはAmon Duulの真似ですが、特に意味はありません)

 極暑の夏、いつ終わるのかと思っていましたが、
 いつのまにか終わりに近づいています。
 年に1度は海に行くので、意を決して江の島に行きました。

 5年前から、騒音問題で江の島の海の家のクラブがなくなり、西浜特設ステージでのライブやクラブイベントも消えました。
 静かですが寂しい海になってしまいました。

江の島が見えました。到着です
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ステージ方向から音が聞こえる!
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 なんと西浜特設ステージからEDM風の大音量が聞こえてきました。
 クラブイベントや1983年8月にはジョー山中のレゲエバイブレーションと山口冨士夫バンドがジョイントライブを行った場所です。

なんだろう?
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仮面女子だ
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 仮面女子という秋葉原の最強地下アイドルと呼ばれるグループでした。
 砂浜を歩くだけのつもりで、まさかライブが見れると思わなかったので、
喜んで応援しました。

仮面女子『本日、猪狩ともか劇場登場!東西ヲタク満足度 結果発表』2018年8月19日
https://www.youtube.com/watch?v=YhU74RuE_vM

【仮面女子】猪狩ともか 車イスで仮面女子カフェ復帰
https://www.youtube.com/watch?v=fTx-R0rE6gE
この中から5人のメンバーが江の島に出演

浜辺を散歩 江の島を見る
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鳥がたくさん飛んでいて喜んでいたのですが、実はとんびが人の食べ物を上から狙っていて、危険とのこと。カモメも来て空がにぎやかです
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ストーンズファンの海の家(右端に遠慮気味にイラスト)
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ボブマーレーの海の家(こちらは堂々たるイラスト)
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看板犬のハナちゃんだ
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 再び、2回目の仮面女子のライブを見れてラッキーな一日でした。アイドルとはいえ、サウンドはEDM、ヘビメタなど本格派。かつてここで演奏したジョー山中、山口冨士夫、青木真一を追悼するつもりで、精一杯仮面女子を応援しました。

仮面女子の放水攻撃に喜ぶ親衛隊(34度ぐらいの暑さ)
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午後4時に「今年の海もあと1時間です」というアナウンスがありました。
人間は海から生まれたと言われています。海水で顔を洗って帰りました。
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Alunni del sole - Tarantè 1979
https://www.youtube.com/watch?v=rMiEi_FogjE
夏の終わりの1曲はナポリの海

Alunni del sole – Tarantè 2009年ライブ
https://www.youtube.com/watch?v=bhTABMI0W9Y
Paolo Morelliが亡くなる前の観客目線の貴重な映像。会場にいる気分になれる。

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posted by カンカン at 23:42| 神奈川 ☁| Comment(0) | 海 オーストラリア日記 Sea & Diary in Australia | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月26日

加納秀人登場 山口冨士夫追悼 @2018福生カニ坂ロックフェスティバル

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今日の1曲
 外道 / 香り
 外道 / 逃げるな



 第35回カニ坂ロックフェスティバルに行ってきました。天気予報は35度なので迷っていたのですが、外道の加納秀人が出るとのことで行くと決断。私が最後に見た山口冨士夫のライブの曲は、2011年の下北沢で外道にゲスト参加した「香り」でした。

 会場に到着するとほとんどの人が日陰に入っているので不思議な雰囲気です。立って聞いていたら熱中症(昔は熱射病?)になりそうで、これはたいへんだとわかりました。
 32度と35度(体感は40度以上?)はずいぶん違う。

 日陰で寝転んでしばらく体力を回復。汗がしばらく止まらない。
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 いよいよ加納秀人がゲストで出るバンドSaybow & the R+X+S がスタート。
 ドラムがジャズっぽくていい感じ。全体にグルーブがあって横浜の雰囲気です。
 「あと1曲です」と言われ「えっ、このギターの人が加納秀人だったのか?」と焦りが。

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外道 / 香り
https://www.youtube.com/watch?v=uHfBhJsqrD8
ベース:青木正行(1983年に山口冨士夫タンブリングスを結成)
加納秀人、青木正行、山口冨士夫は、福生のElectric Uzuにも出演していた。

ついに加納秀人登場
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再結成外道のときのような白い被り物はしていませんでした。
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 加納秀人は若い頃マラソンでオリンピックを目指していて、ギタリストにもなりたかったので、両方やろうとギターを担いで走る練習をしていたという人。猛暑でも、強烈な速弾きで年齢を感じさせない。最後は「ゲッドウ、ゲッドウ」という歌を演奏して終わりました。

プログレ、70年代ジャズロックを感じさせる。軽いシャワーの雨も降ってきた。
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加納秀人の後はサブステージで癒し。暑かったけれど天気でよかった。
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ワンちゃんの顔のような雲の変化を見た後、カンパをして帰りました。
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福生駅北口階段にもキャラクターが登場
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福生チキンシャック 左がバーで右がライブハウス?
1978年に青木真一(元村八分・1983年に山口冨士夫タンブリングスを結成)が出演
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山口冨士夫の事件があった福生駅北口で黙とう
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2018年08月20日

第9回 すみだストリートジャズフェスティバル

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今日の1曲
 Affinity - All Along The Watchtower 1970
 Soft Machine - Bundles (Full Suite) 1974


第9回すみだストリートジャズフェスティバルに行きました。
好天な上にあまり暑くなくてよかったです。
https://sumida-jazz.jp/sj/timetable.html


まず、ハモンドオルガントリオBanana Needle レスリースピーカーだ!
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Affinity - All Along The Watchtower
https://www.youtube.com/watch?v=gt0Ep-dcqG8&list=RDByQYKdSTGeY&index=3
ハモンドオルガンといえばこれ。7:00あたりからE2-E4のように抜け出せなくなる。8:30あたりからハモンド職人芸。最後はエピタフの世界。

次はピアノジャズファンクSANOVA ジャズを演奏する人たちは皆テクニックが凄い。
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米米クラブのジェームス小野田がゲストボーカルのSoul Hawkers。
マイガールなどひたすら1960年代の黒っぽい世界!体調回復のため踊る。
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 ジャズファンク すみだ初出場とのこと
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 ジャズピアニスト高木里代子+クラブDJ牧野雅己のユニット ディスコダンス!
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 ごろ寝して空を眺めて、一休み
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 ソフトマシーンのようなジャズフュージョンStereo Champ
 紹介文には「天才ギタリスト率いる」とあるが、なんども「先輩、先輩」とトランペットの人を立てていて、甲子園球児の先輩後輩のような爽やかさを感じた
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Soft Machine (with Allan Holdsworth) - Bundles (Full Suite)1974
https://www.youtube.com/watch?v=04URH_HA4cE
2:00から4:00ぐらいまでカッコいい

Soft Machine - The Floating World
https://www.youtube.com/watch?v=9CpN8TtFVOE
Bundlesの最後の曲

球児の熱い夏とともにすみだのジャズも熱かった
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2018年08月17日

盆踊り Disco @ Club Citta

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Club Citta通りの入り口


今日の1曲
  D Train / You're The One For Me 1982
 Third World - Try Jah Love 1982


 80年代のディスコのイベントに行きました。
 昔のダンス曲はメロディーがわかりやすい。
 3-4曲に1曲は知っている曲がかかるので、2時間30分ぐらい踊れました。

2013年8月14日に山口冨士夫が亡くなってから徐々に体調がおかしくなり10月31日の仕事が契機で2013年クリスマス頃からダウン。2014年の8月13日に寝たきり状態から意を決してこのClub Cittaのイベントに行って回復しました。

 今年2018年の冒頭は気が沈んでいました。山口冨士夫のことをブログで書いているうちに過去の傷に触るようだったのですが、吹っ切れてきて逆に楽になっていきました。今回のイベントもハイエナジー、ユーロビート、ラテン、パラパラなど楽しく踊れました。

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2階のラウンジ


D Train / You're The One For Me 1982 Extended Version
https://www.youtube.com/watch?v=v6Xqmj5c3hk


Third World - Try Jah Love
https://www.youtube.com/watch?v=0JUsc69dHLY


さいか屋が解体されたため、シネチッタの建物の裏側が見えました。
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2018年08月02日

内田裕也ドキュメンタリー 8月5日14時 後半 ぜひご覧ください

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今日の1曲
 内田裕也とザ・フラワーズ


 極暑が続いております。先日の日曜日午後2時に内田裕也のドキュメンタリーを見てかんどうしました。かんどうしました。5日に後半がありますので、興味のある方はぜひご覧ください。すごく勇気づけられました。

 山口冨士夫とシティロードのことを書いていて、内田裕也が1970年代から1980年に入っても元ダイナマイツのメンバーと屋根裏などライブハウスで、パンク世代になってもライブ活動を続けていたことに感銘を受けました。

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 1969年のフラワーズのライブがみつかりました。
 ジョー山中のフラワートラベリンバンドに移行する前の麻生レミ時代のフラワーズも凄いバンドだとわかりました。

 タイガースにしてもフラワートラベリンバンドにしても、内田裕也(1939生)のような自分たちより5歳以上も上の人が芸能界の世界でロックを牽引してくれたのは、とても重大なことだったのではないかと思います。

内田裕也とザ・フラワーズ "1969ジャズ喫茶ライブ"
https://www.youtube.com/watch?v=20NFM6HiIck
 
「ラストチャンス」ほか/内田裕也とザ・フラワーズ
https://www.youtube.com/watch?v=8JLqajk8DlA&list=RD8JLqajk8DlA

内田裕也政見放送「完全版」51歳 東京都知事選挙
https://www.youtube.com/watch?v=3BLp1IUEkik
フラワーズ結成の経緯についても語っている。
1:25の「るるるー」のところが特に好きだ


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2018年07月30日

暑さを熱さで吹き飛ばす2 TRIANA2

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ちびっ子たちのお祭り太鼓



今日の1曲
  TRIANA - YA ESTÁ BIEN  1977年


 前々回のブログでトリアナの2ndはまあまあ、と書いたのですが、1曲いいのがあったなと思って探してみました。みつけたと思って久々に聞いたところ凄いインパクト。「まあまあ」などと書いて本当に失礼しました。

TRIANA - YA ESTÁ BIEN (Hijos del agobio - 1977)
https://www.youtube.com/watch?v=dnVRL7LNM54
暑さ吹き飛ぶ旧B面の1曲目。2曲目にそのままつながる憎い構成。

 トリアナはフラメンコの情念とプログレが化合して爆発。1977年の2ndまで凄い。
 長年ため込んだプログレを3分に凝縮して爆発させたようなSex Pistolsの1977年の1stに近い感じがします。

TRIANA / SR. TRONCOSO
https://www.youtube.com/watch?v=7FwBRkE7BWk
この曲も2ndLPから。味わいのある曲。





posted by カンカン at 22:11| 神奈川 ☁| Comment(0) | 日記 Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月28日

フジロック生中継

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今日の1曲
 フジロック生中継


 37度の猛暑の次は台風がこれから来襲します。もう年なのでフジロックなど遠くに行くのははしんどいなと思っていたら、Youtubeで生中継。
 ラッキーです。1972年の村八分のチャー坊のダンス・歌と山口冨士夫のギターが掛け合うような華のあるバンドが出てこないかなあ。


FUJI ROCK FESTIVAL '18 LIVE Saturday Channel 2 
https://www.youtube.com/watch?v=38tnaY8BKUw

 晴れ舞台なのでどのバンドも気合が入っています。 
 Carla Thomasが楽しみですが、そのころは、台風がきついかも。。。
 過去では、Iggy Pop, Magma, ゴールデンカップス、加山雄三などを見たかった。


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posted by カンカン at 11:57| 神奈川 ☔| Comment(0) | 日記 Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月25日

暑さを熱さで吹き飛ばす Triana

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スペインで買ったトリアナのカセット(上はセミの抜け殻とミニトマト)


今日の1曲
  Triana Abre la puerta 1975年
  Triana Recuerdos de una noche 1975年


 酷暑が続いております。慣れというのは不思議なもので、37度を体験すると35度の日は楽に感じます。とはいえ、夜の10時になっても32度で、夜中も暑くて起きてしまいます。暑さを吹き飛ばすための音楽を探してみました。

 今回は、歌あり、フラメンコギターあり、メロトロンあり、ムーグあり、の情熱のスパニッシュロック! 1975年のTrianaの1stアルバムは、1974年の山口冨士夫「ひまつぶし」と同格の良曲占有率の高い名盤です。

Triana "Abre la puerta" LPヴァージョン
https://www.youtube.com/watch?v=pUcjaGfgdPM
4:37のボーカルが終わった後のギターの切れがいい。6:10のコーラスはMellotron400?

Triana "Abre la puerta" Live
https://www.youtube.com/watch?v=qcwbsedgkx0
1:37、1:41 のコードがレコードと違うのが新鮮
Vo・Keyboardの人が夭折して解散

 1975年までのフランコ政権独裁への反動か1975年にスペインから良いバンドが出ました。Trianaは1stで長年貯めた良曲を出してしまったので、2ndはまあまあ、3rdは特徴のない普通のバンドになりましたが、スペインでは成功してスターでした。 

Triana  Recuerdos de una noche
https://www.youtube.com/watch?v=FOPgpsTrdVw
ギターソロが最高。



posted by カンカン at 12:35| 神奈川 ☁| Comment(0) | ユーロピアンロック&ポップス European Rock & Pops | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月23日

山口冨士夫と情報誌「シティロード」P 1976年から1984年を振り返って

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一番見に行った1983年〜1984年ごろの山口冨士夫バンド(タンブリングス)


今日の1曲
 山口冨士夫バンド(タンブリングス) / Dear Prudence
                     1984年3月3日 
 Sex Pistols - Holidays In The Sun 1977年
 村八分 / Money  1979年
 裸のラリーズ / 造花の原野 1980年8月14日
 Michael Jackson - Wanna Be Startin' Somethin'1983年





 猛暑が続いており、ゆで卵の前の半熟卵のような気分です。夜になっても32.7度! 経済的節約もありますが、クーラーはなるべく使わず、体に水をかけて扇風機であおる(かなり気持ちいい)など、さらなる温暖化が進まないように少しばかりでも助力したいと思います。

 1983年の山口冨士夫のライブの思い出を振り返るだけの予定だった「山口冨士夫とシティロード」は、4カ月15回の長期になりました。1976年から1984年までの雑誌を読み返す中で、日本でロックを継続することが困難であり、山口冨士夫が偉大なミュージシャンであることを改めて知りました。そこで、もういちど1976年から1984年のころのことをまとめて振り返ってみました。


◆1976年

 1976年を思い出すと、レコード店で買いたいレコードが消えてゆき、1977年になると天国だったレコード店が砂漠のように思えました。ベトナム終戦後、世界的にみてもロックは存在意義を失って停滞し、魅力を失っていました。

 1976年はまだ歌謡曲、演歌が主流。沢田研二(とPYG)が歌謡曲をロックにより近づけていきました。そこへ、吉田拓郎、井上陽水などフォーク、ユーミンなどのニューミュージックが台頭、キャロル出身の矢沢永吉が初めてロックで商業的に成功しました。

 このような1976年に山口冨士夫はリゾートを結成。桃源郷、ロックの理想は、ルイズルイス加部との音楽性の違いから短命に終わります。東京のライブハウスも、屋根裏とロフトしかなく、ロックが非常に困難だったことがわかります。

リゾート 1976年
https://www.youtube.com/watch?v=RQFcGvd9Quc
ルイズルイス加部もギターのWギター編成




◆1977年

 1977年12月にセックスピストルズが日本で発売。パンクの衝動で多くの新しいバンドが生まれましたが、プログレに影響を受けていたセックスピストルズの音楽性は旧世代のやる気も呼び起こしました。

Sex Pistols - Holidays In The Sun
https://www.youtube.com/watch?v=2Ah1JM9mf60


◆1978年

 山口冨士夫は福生などでヒッピーなどアマチュアとセッション活動、曲づくり。ブライアンイーノにも関心を持っていたようです。このころに元トゥーマッチ、外道の青木正行に出会いセッションをしています。 

 このころライブハウスでロックを続けている人は、グループサウンズ世代では実力派と言われたダイナマイツ、ゴールデンカップス、ビーバーズ、パワーハウスなど米軍のクラブで鍛えられた人が多いのがわかります。

 パンクロックにすぐに呼応したのは村八分脱退以後、活動歴がなかった青木真一で、スピードを結成しライブでも「Punk」と明言。ジョー山中の人間の証明の主題歌がヒットし武道館でライブ。ジョニー・ルイス&チャーで、ルイズルイス加部も本格的に再始動。

人間の証明
https://www.youtube.com/watch?v=-wQ0ik_wZG4

   
◆1979年 

 セックスピストルズに触発されたと思われるチャー坊が村八分を再結成。その際に山口冨士夫はパンク活動をする青木真一に会って刺激を受けたと言っています。村八分ではビートルズの曲が多数演奏され、ビートルズの影響の大きさを感じました。

村八分 / Money  1979年
https://www.youtube.com/watch?v=HtvO9Zsreec
歌:山口冨士夫 Beatlesへの回帰

 このころ、クロコダイル、ライブインなど渋谷を中心にロックのライブハウスが新たに出店。元村八分の恒田義見は四人囃子2名、安全ばんどというニューロック世代のメンバーとテクノポップバンド「ペグモ」を結成。時代はニューウェイブに移行していました。





◆1980年 

 再結成した村八分が解散した後、山口冨士夫は裸のラリーズに参加し、ラリーズのサウンドに大きな変化を与えます。命懸けだったというラリーズの活動がその後の山口冨士夫に影響を与えます。RCサクセション、サザンオールスターズ、シーナ&ロケットなど屋根裏、ロフトなどで活動していたバンドがブレイク。
  
裸のラリーズ / 造花の原野 1980年8月14日
https://www.youtube.com/watch?v=HOUqOAL-utM 
今年聞いた曲の中では一番感銘を受けた。


◆1981年
 
 山口冨士夫は、3月の裸のラリーズのライブを最後に脱退し、ギターを燃やして音楽活動を停止。元村八分の上原裕はロックへ移行した沢田研二のエキゾチックスのドラマーになりテレビに頻出。山口冨士夫が影響を受け、自伝のタイトルにもしたマイルスデイビスが9月に新宿で復活ライブを行います。

沢田研二&エキゾチックス / ストリッパー
https://www.youtube.com/watch?v=0LEXckET_fQ


◆1982年 

 11月22日のフールズのライブのゲストとして山口冨士夫の名が本人の承諾なく「シティロード」に記載。これをきっかけに山口冨士夫が音楽活動に復帰。このライブから「シティロード」が山口冨士夫の活動をほとんどフォローし支援するようになります。
 11月にはマイケルジャクソンがポールマッカートニーとGirl is mineを発表し、黒人初のスーパースターとなります。


◆1983年
 
 1月1日にダイナマイツ解散後も内田裕也のバンドなどで活動していた大木啓三とKIZUでクロコダイルに出演。3月に山口冨士夫がフロントに立ち、1978年からパンクムーブメントにいた青木真一と1971年からトゥーマッチ、外道というニューロック世代の青木正行、小林秀弥が参加。日本のロックシーンで10年以上続けてきた人たちのライブを見れたのは非常に幸運だったと思います。ビートルズのラブ・ミー・ドゥをレゲエにしたり、ソウル、ブルースなどあらゆる要素が詰め込まれていました。  
 1971年ころのトゥーマッチという深大寺のイベントでチャー坊が観客として映っていたとのこと。

 Michael Jackson - Beat Itはソウルの曲の中でエディー・ヴァン・ヘイレンがギターソロをとるという画期的な曲。この頃から「ソウル」という呼称がなくなっていきました。 

Michael Jackson - Wanna Be Startin' Somethin'
https://www.youtube.com/watch?v=3ibDF4MLIqo

 
◆1984年

 このころの山口冨士夫バンド(タンブリングス)の映像がみつかりました。今までの人生でライブで一番感動した一つのビートルズのDear Prudenceなど古い曲や新曲など、当時のベストといえるパフォーマンスだと思います。

 
1984年3月3日 新丸子リンディスファーン
https://www.youtube.com/watch?v=xkIDT7adu54&t=603s
 前期タンブリングスの活動が完成されるとともに停滞。





 山口冨士夫がライブで欠席し、1984年12月のライブでも会場に現れず、再び活動を停止。1983年から1984年にかけて、私は山口冨士夫のライブに5〜6回、裸のラリーズは3〜4回行きました。他のライブはほとんど行っていませんでした。

 1983年のころ、アルバイトで「自分も昔ブルースバンドでギターを弾いていた」という人に会いました。その人に山口冨士夫のライブのテープを聞いてもらったところ、「よかったよ」と言った後に「執念だな・・」とぽつりとつぶやいたのが今でも印象に残っています。

 山口冨士夫は「ロックは生き方なんだ」と言っていますが、1976年から1984年の山口冨士夫の活動もまさにその言葉どおりだと思いました。そして、山口冨士夫という才能のある人に多くの人たちが集まっていったことがわかりました。

 1985年以降の「情報誌シティロードと山口冨士夫」については、しばらくお休みします。
 いつ再開するか未定ですが、右列「1960年代後半、1970年代前半の日本のロック、山口冨士夫」のカテゴリーをご覧ください。


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2018年07月16日

山口冨士夫と情報誌「シティロード」O INDEX 第1回〜第15回の分(1976年〜1984年)




 猛暑が続いております。水害の日にカメラを落として壊してしまい、頭が真っ白になりました。カメラ一つでもこれだけのショックだと思うと、被災地の水害を受けられた方に心よりお見舞い申し上げます。

 3月から始めた「山口冨士夫と情報誌シティロード」も4か月になります。今までを振り返ろうと思ったのですが、時系列の順番が入り組んでしまいましたので、今回はまずINDEXを作ってみようと思いました。



第1回(3月17日) 1983年1月号〜6月号  
   → 山口冨士夫バンド復活  
                                
第2回(3月21日) 1983年7月号〜12月号 
   → 山口冨士夫バンド好調

第3回(3月28日) 1984年1月号〜6月号 
   → タンブリングダウンに改名(5月)

第4回(4月5日) 1984年7月・8月号 
   → タンブリングダイスに改名

第5回(4月11日) 1984年9月・10月号 
   → タンブリングスに改名

第6回(4月17日) 1984年11月・12月号 
   → 活動停止

第7回(4月25日) 1980年8月・9月号  
   → 裸のラリーズでライブを再開

第8回(5月2日) 1980年10月号〜1981年3月号 
   → 裸のラリーズを脱退

第9回(5月11日) 1976年と1977年の「ぴあ」 
   → リゾート(ルイズルイス加部)

第10回(5月16日) 1978年の「ぴあ」
   → セッション活動(福生)
       +1974年の「Music Life」 

第11回(5月25日) 1979年の「ぴあ」 
   → 村八分再結成(京都)
       +1971年・1973年の「ニューミュージックマガジン」

第12回(6月4日) 1981年4月号〜12月号
   → 活動停止期(裸のラリーズ脱退後)

第13回(6月13日) 1982年1月号〜6月号
   → 活動停止期

第14回(6月20日) 1982年7月号〜12月号
   → 活動再開(11月から)

第15回(6月28日)「ぴあ」1980年1月号〜7月号
   → 裸のラリーズでセッション



 【時系列で並べ直すと以下のようになります】



第9回 (5月11日)  → 1976年 リゾート
第10回(5月16日)  →   セッション活動(福生)
第11回(5月25日)  → 1979年 村八分再結成(京都)
第15回(6月28日)  → 1980年 裸のラリーズ加入
第7回 (4月25日)  →   裸のラリーズでライブ
第8回 (5月2日)   → 1981年 裸のラリーズ脱退
第12回(6月4日)  →   活動停止期
第13回(6月13日)  →   活動停止期
第14回(6月20日)  → 1982年11月から活動再開
第1回 (3月17日)  → 1983年山口冨士夫バンド復活
第2回 (3月21日)  →   山口冨士夫バンド好調
第3回 (3月28日)  →   タンブリングダウンに改名
第4回 (4月5日)   →   タンブリングダイスに改名
第5回 (4月11日)  →   タンブリングスに改名
第6回 (4月17日)  → 1984年12月から活動停止


 
 次回は、4か月間「シティロード」「ぴあ」「ニューミュージックマガジン」「Music Life」などの資料を読み返し、1976年から1984年までの山口冨士夫の活動について感じたことを書こうと思います。


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2018年06月28日

山口冨士夫と情報誌「シティロード」N「ぴあ」1980年1月18日号〜7月18日号

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「ぴあ」1980年1月18日号〜7月18日号にも山口冨士夫の名前はみつからない。
「シティロード」8月号(「ぴあ」8月15日号)の8月14日屋根裏の裸のラリーズで復活。


今日の1曲

 Paul McCartney & Wings - My Love 1973年
 Maxophone - I heard a butterfly 1975年
 The Ramones - Blitzkrieg Bop  1976年 

 いよいよ暑くなってきました。PCが壊れる寸前です。山口冨士夫と情報誌「シティロード」の15回目は、ないと思った「ぴあ」の1980年1月号から7月号を発見しました。「1971年〜1984年の振り返り」の予定でしたが、変更します。

 1979年7月の京都での村八分の再結成ライブの後、秋に解散し山口冨士夫は東京に戻ります。そして1980年に裸のラリーズに加入し、その最初のライブは8月14日に屋根裏で行われていますが、「シティロード」に山口冨士夫の名前は出ていません。

 したがって今回も山口冨士夫は出てきませんので、山口冨士夫や村八分に関わったミュージシャンについて振り返ってみます。このころはバイトに明け暮れていたので個人的な思い出もほとんどありません。「ぴあ」はこの頃隔週刊になっています。

 
☆1月18日号

 ・1月7日  新宿ロフト 自殺
 ・1月14日 新宿ロフト シーナ&ロケット
 ・1月16日 屋根裏 裸のラリーズ
 ・1月18日〜24日 日劇 沢田研二
 ・1月19日〜22日 RCサクセション

 元村八分青木真一のスピードと活動した自殺やサイズがロフトや屋根裏でライブ。青木真一と元自殺、サイズの佐瀬浩平と中島一徳が1981年にフールズを作り、1982年11月22日ライブの山口冨士夫ゲスト出演を機に1987年にTeardropsを結成。


☆2月1日号

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ロックのライブハウスが東京にはロフトと屋根裏しかなかった時代の出演者はユニーク。

 ・1月19日〜22日 屋根裏 RCサクセション
 ・1月21日〜2月2日 ポールマッカートニー&ウイングス 武道館(中止)
 ・1月22日 新宿ロフト サイズ
 ・1月26日 屋根裏 自殺
 ・1月27日 屋根裏 シーナ&ロケット
 ・1月31日 屋根裏 春日博文とThe Uppers(メンバー:忌野清志郎、三上寛)
 ・2月1日  屋根裏 SYZE

 2月1日号の屋根裏の出演者は、2週間のうち8日間が、後に山口冨士夫と共演するメンバーがいるバンド。1966年のビートルズ以来のポールマッカートニー公演は、1973年のローリングストーンズのように中止。

Paul McCartney & Wings - My Love
https://www.youtube.com/watch?v=vx5QxoWCG-I





☆2月15日号
 ・2月9日  屋根裏 シーナ&ロケット
 ・2月11日 新宿ロフト シーナ&ロケット
 ・2月13日 新宿ロフト スマイラー


☆2月29日号
 ・2月18日 屋根裏 連続射殺魔(from京都)
 ・2月28日 新宿ロフト 自殺
 ・2月22日 屋根裏 内田裕也&スマイラー
 ・2月25日 屋根裏 スピード

 1983年に山口冨士夫(後のタンブリングス)のミニアルバム「Ride On」リリースに関わる和田哲郎の連続射殺魔がライブ。元ダイナマイツで1983年元旦に山口冨士夫とKIZUでライブを行う大木啓三のスマイラーは内田裕也とライブ。

☆3月14日号  
 ・3月6日 屋根裏 だててんりゅう

 1979年7月に村八分と共演した京都のだててんりゅうが東京でライブ。
 人気投票「ぴあテン」のコンサート部門でRCサクセションが48位。
 レコード部門の1位は久保田早紀の夢語り(投票者の平均年齢18歳)。

☆3月28日号
 ・3月19日 新宿ロフト フリクション
 ・3月23日 屋根裏 サイズ
 ・3月24日 屋根裏 裸のラリーズ
 ・3月28日 屋根裏 内田裕也 スマイラー

「So What」によると山口冨士夫は裸のラリーズに加入してから3か月ぐらいはスタジオにこもっていたとあります。3月24日以降、裸のラリーズの次のライブは山口冨士夫が加入した8月14日の屋根裏のライブになります。

☆4月11日号
 ・4月1日〜3日 屋根裏 シーナ&ロケット
 ・4月12日 クロコダイル ジョー山中(予定)800円

 この号から、渋谷に屋根裏に続くロックのライブハウスとしてクロコダイルが登場。
このころは、まだ、東京にはロフト、屋根裏ぐらいしかロックのライブハウスはありませんでした。

☆4月25日号
 ・4月26日 クロコダイル ジョー山中スペシャル 4800円

☆5月9日号 
 ・4月30日 新宿ロフト 自殺

☆5月23日号
 ・5月24日 横浜スタジアム 沢田研二
 ・5月16日 新宿ロフト 自殺
 ・5月14日 屋根裏 内田裕也スマイラー

☆6月6日号
 ・6月5日 新宿ロフト 自殺
 ・6月8日 クロコダイル スマイラー
         屋根裏 自殺

☆7月4日号
 ・6月27日〜29日 西武劇場 ラモーンズVSシーナ&ロケット
 ・7月5日 日比谷野音 単独RCサクセション

 ラモーンズの初来日は初演からシーナ&ロケットとの共演。
 ラッテエミエーレの「受難劇」も放送したFM東京の「スペースフュージョン」は6月28日が最終回。先日逝去したSergio Lattuadaのマクソフォンがラスト。合掌。

The Ramones - Blitzkrieg Bop
https://www.youtube.com/watch?v=TYh1lRR1m6Y
ラモーンズも村八分のようにオリジナルメンバーの4人が亡くなった。

Maxophone - I heard a butterfly 1975
https://www.youtube.com/watch?v=ZmXt1_N2-dk  





☆7月18日号
 ・7月4日 福生Electric Uzu 外道レコード発売記念ライブ
 ・7月22日 渋谷公会堂 萩原健一

 1978年頃にElectric Uzuで山口冨士夫とセッションした元トゥーマッチの青木正行が加納秀人と再結成した外道のニューアルバム。1982年に再び解散。1983年に青木正行は山口冨士夫バンドを結成。加納秀人は2011年に山口冨士夫と「香り」を演奏。


★「シティロード」8月号(※ 山口冨士夫と情報誌「シティロード」の7回目参照)
 ・8月14日 屋根裏 裸のラリーズ [山口冨士夫参加]


 次回、山口冨士夫と情報誌「シティロード」の16回目は、第1回から15回の「1976年(1971年)〜1984年まで」を順番を整理して、まとめて振り返る予定です。


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2018年06月20日

山口冨士夫と情報誌「シティロード」M1982年7月号〜12月号

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「シティロード」1982年11月号 山口冨士夫が知らずにされたという告知
これをきっかけに18か月ぶりに山口冨士夫が音楽活動を再開


今日の1曲
 Jimi Hendrix / Foxy Lady Jimi Hndrix Concerts 1968年 
 ジャックス / マリアンヌ 1968年
 タイガース(Vo加橋かつみ) / 花の首飾り1968年
 Can / Mother Sky / Deadlock 1970年
 Il Balletto Di Bronzo / Secondo Incontro 1972年
 村八分 / あやつり人形 1972年
 Latte e Miele / Getzemani 1972年
 Iggy & The Stooges / Search And Destroy 1973年
 後藤啓子 / Il tempo di impazzire 1980年
 ABC / ルックオブラブ1982年
 裸のラリーズ / 造花の原野 1982年10月
 Michael Jackson (Ft. Paul McCartney) The Girl Is Mine 1982
 大貫妙子 / 風の道 1982年
 Joe Yamanaka and The Wailers / Reggae Vibrations 1982年
 前野曜子/ コブラCOBRA 1982年


 今回、山口冨士夫と情報誌「シティロード」第14回は、前回L1982年1月号〜6月号に続いて、7月号〜12月号を振り返ってみます。11月号で山口冨士夫が音楽活動をついに再開し、タンブリングス、Teardropsに繋がっていきます。



☆1982年7月号

 ・7月19日 新宿ロフト 外道(青木正行 → 山口冨士夫バンド)
 ・7月27日 渋谷ライブイン’82 ジョー山中&レゲエバイブレーション
                     LP発売記念ライブ

 インタビューは6月25日にLPを発売したスターリンの遠藤みちろう。チャー坊と同じ1950年生まれ。「客からの嫌悪感や憎悪の方が、ヨカッタ、ヨカッタという日常的な弱い部分で結びつくより確かだった」と語っています。

 「ライブ村八分」の「うるさい!」「文句あるんだったら、ここへ来たら」からの影響も感じられます。渋谷陽一のラジオ「サウンドストリート」で、遠藤ミチロウが当時幻だったジャックスのマリアンヌをかけ、録音できたのは衝撃的で貴重でした。 

ジャックス / マリアンヌ
https://www.youtube.com/watch?v=7-fO14G4Rg0
山口冨士夫「So What」でも裸のラリーズのところで「そういえば、ジャックスっていうのもいたな」と語っている。

 7月16日に加橋かつみ「ファーストコンサート」を厚生年金会館で見る。ダイナマイツの「ゆめがほしい」を作曲したすぎやまこういちがゲストで登場。山口冨士夫は、加橋かつみ、陳信輝とセッションをして加橋かつみから「フジオちゃーん」と言われたとのこと。

 加橋かつみ著「日盛りの街に出て」によると、高校の体育の教師の黒人のハーフの同級生への侮辱的な言葉に怒り、教師を殴って退学になる。定時制高校ではオートバイに凝り、オートバイが故障した瞳みのるに声をかけたのが、タイガースの始まりだった。

 このころ目標を失いディスコに通いました。六本木に行くきっかけになったLP「パリ1969」の加橋かつみと道で遭遇。「あっ」と緊張して固まり「頑張ってください」と言ったら笑っていました。ダンスはこれ以上速いステップを踏めないと思い行かなくなりました。

タイガース / 花の首飾り
https://www.youtube.com/watch?v=4ZjUNRTXUnI
加橋かつみがリードボーカルのGS最大のヒット。オリコン8週間1位





☆1982年8月号

 インタビューは1990年に山口冨士夫が参加するRCサクセション。屋根裏からスタートし、8月7日にはヨコハマスタジアムでライブ。山口冨士夫はRCサクセションについて、「村八分からあくを抜いて広めてくれたのが清志郎だ」と語っていました。

 Canのホルガーシューカイのインタビューも掲載。村八分も1972年後半ごろからCanのような曲も演奏していた。1969年にヨーロッパに渡ったヒッピーのダモ鈴木と、アメリカに渡ったチャー坊には共通するものが感じられます。

Can - Mother Sky / Deadlock - Live in Soest, Winter 1970
https://www.youtube.com/watch?v=6w0UnQ2mMQw
村八分が結成された1970年

 8月31日に渋谷TAKE OFF7で久保田早紀のライブを見る。異邦人と1stアルバムの後、会社の方針で明るいポップス路線に変更したが、ヒットが出ず本人もかなり悩んでいた。渋谷「ラ・ママ」も開店し、シャンソン、コント、フュージョンなど幅広いジャンル。

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 レコードレビューでは、元村八分の恒田義見のペグモを「日本の10t」として紹介。ジョー山中+ウェイラーズをボクサー時代のジョー山中がモデルになった「矢吹丈」風のイラスト付きで紹介。パンタのポップ路線には違和感があると評価。


☆1982年9月号

・9月12日 田島ヶ原フリーコンサート ペグモ(ex村八分、四人囃子、安全バンド)  
・9月27日 渋谷Eggman ジョー山中

 ABC / ルックオブラブの一面広告を掲載。ドイツのCan、Kraftwerk、Neu! からの影響はイギリスのSex Pistols、Ultravox、JohnFoxxへと受け継がれ、米国ソウル、Beatlesの伝統と結びついてダンスミュージックへ進化して大きな潮流になる。

ABCルックオブラブ
https://www.youtube.com/watch?v=sW4ytGQiaUc

 もう出尽くしたと言われていたJimi Hndrix のライブ音源2枚組LP Concertsが発売。ものすごい音圧でMixされ、初めてジミヘンに大衝撃を受ける。山口冨士夫は「日本のギタリスト」などでジミヘンは弾けると語っているが音源を聞いたことがない。

Jimi Hendrix – Foxy Lady Jimi Hndrix Concerts live 1982年
https://www.youtube.com/watch?v=M5RieWR63_k

Fire/Jimi Hendrix
https://www.youtube.com/watch?v=DHB5PnUGBDs


☆1982年10月号

・10月2日 慶應大学日吉 裸のラリーズ
 
 慶應大学日吉で裸のラリーズのライブ。
 聴き比べると、1980年の山口冨士夫の参加によって、同じ曲の「造花の原野」のサウンドが変化していったことがわかります。

裸のラリーズ 造花の原野 1973年 OZ Days liveより
https://www.youtube.com/watch?v=uQFV_2dXpVk&t=309s

裸のラリーズ 造花の原野 1980年8月14日
https://www.youtube.com/watch?v=HOUqOAL-utM
山口冨士夫参加

裸のラリーズ 造花の原野 1982年10月2日
https://www.youtube.com/watch?v=aQ51XRWDnQY&t=140s





 10月25日〜30日にクロコダイルで、1992年に山口冨士夫と京大西部講堂でライブを行う山内テツが、ジャズの近藤等則らとフリージャズのセッション。ライブハウスニュースで、「聴くというよりは「体験」といったほうがよさそう」と紹介。

 10月にPolydorから4月のFaust、Velvet Undergroundに続いてイタリアンプログレッシブコレクションを再発。前例のないリーフレット付きの完全復刻は1985年の「ライブ村八分」の復刻にも影響を与えたと思われます。

Il Balletto Di Bronzo - Secondo Incontro 1972
https://www.youtube.com/watch?v=l_PcallDgdI
2:00〜 1972年の村八分「ライブ三田祭」あやつり人形に通じる緊張感

Latte e Miele Getzemani 1972
https://www.youtube.com/watch?v=7mXLh-fjkv8&index=4&list=PL94gOvpr5yt1o55J1HRIcTYgkGtdSihfW
1972年のヒッピーの聖地京都のような空気を感じさせる映像





 10月に『Thriller』の先行シングルとして、マイケルジャクソンがポール・マッカートニーとのデュエット「The Girl Is Mine」を発表。黒人初のスーパースターと昔からのヒーローBeatlesのポールの共演は、山口冨士夫に刺激を与えたと思います。

The Girl Is Mine - Michael Jackson (Ft. Paul McCartney)
マイケル・ジャクソン&ポール・マッカートニー
https://www.youtube.com/watch?v=Ol-8OaLFME8
ミュージックTVの登場とともにMJの人気が爆発した。


★1982年11月号

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山口冨士夫が復活する11月号の表紙はStevie Wonder。
黒人スターが躍進しフロントに出る時代が始まる。

 ・10月31日 上智大学 外道
 ・11月3日  復活神大ロックフェス Pinkcloud
 ・11月20日 法政大学特設ステージ 前夜祭 シーナ&ロケッツ
 ・11月22日 法政大学ホール 人呼んでオールナイト1300円
         出演:The FOOLS+山口冨士夫
 ・11月28日 屋根裏 Tokyo Raw Power フールズ 

 山口冨士夫「So What」や「天国のひまつぶし」でも書かれている11月22日の法政大学ホールのオールナイトライブ。山口冨士夫が「The FOOLS+山口冨士夫」として「シティロード」に告知され、1年8か月ぶりに音楽活動を再開します。

 これは山口冨士夫が知らないところで「シティロード」に掲載されたとのことですが、フールズも当日まで知らなかったという情報もあります。元村八分の青木真一が、山口冨士夫と一緒に活動したいと思って計画したのではないかとも想像しています。

 村八分は1970年に山口冨士夫と青木真一の東京での出会いから始まり、1971年に青木真一が村八分を脱退して京都から東京に帰る。
 2人が共演するのは実に11年ぶりということになります。

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 11月号の「コンサートピックアップ」欄には「元裸のラリーズのギタリスト、山口冨士夫を迎えたフールズ」と記載。ポピュラークラシック合わせて2ページのindex「や」行にも山口冨士夫が登場。1983年からの「シティロード」の山口冨士夫支援の発端に。
 
 1976年の新宿ロフトに「リゾート・フューチャリング山口冨士夫・ルイズルイス加部」の告知後、私が断続的に持っている「ぴあ」の1977年8月号から1979年12月21日号まで見た範囲では、「山口冨士夫」の名はみつかりませんでした。
 
 また、1980年から裸のラリーズに参加した際も「山口冨士夫」の記載はなし。NMM1973年1月号の小さな「村八分公演決定」の告知から「シティロード」1982年11月号まで、1976年のリゾート以外は「山口冨士夫」の名前は見当たりません。

 したがって約10年間、東京の情報誌に山口冨士夫の情報はほとんどなかったといえます。1983年1月号以降の「シティロード」が、熱い表現で「あの」村八分の「山口冨士夫」と何度も紹介したのは、そのような長い空白期間があったからと思います。

 青木真一のフールズもまた、16か月ぶりの「シティロード」への登場。
 屋根裏で、続けて28日にもIggy & The StoogesのLPタイトルの「Raw Power」というライブをしています。

Iggy & The Stooges - Search And Destroy 1973年
https://www.youtube.com/watch?v=0vnwSVTOnqQ

Iggy & The Stooges - Search And Destroy (Bowie Mix)
https://www.youtube.com/watch?v=LC9km8qnbOY





 1982年秋の学園祭特集で最も出演したバンドは、ピンククラウド6回、カシオペア5回、 シーナ&ロケッツ5回になっています。シーナ&ロケッツは1984年12月21日の法政大学ホールで山口冨士夫(欠席)と共演。

 再結成外道の最後と思われる上智大学でのライブ。ベースの青木正行は、1978年ごろに福生で山口冨士夫とセッションしPyramidで活動。1979年に福生でもライブをした青木真一と結びついて、翌1983年に3者が山口冨士夫グループを結成します。

 この月に、村八分の2代目ドラマー上原裕のいたシュガーベイブ出身の大貫妙子がLP「クリシェ」を発表し、CMで話題になりヒットします。このLPも半分ぐらいの曲が良曲で、山口冨士夫「ひまつぶし」のような傑作でした。

大貫妙子 / 風の道
https://www.youtube.com/watch?v=5dMVRtz2TcU

 銀巴里では、前年の5月に新宿ロフトで青木真一のフールズと共演した保坂夏子が、共演者を厳選する美輪明宏と11月22日に共演。11月16日は、故村上進、故後藤啓子、階見ルイジが共演。後藤啓子が亡くなっていたことを先日知りました。合掌。

後藤啓子 / Il tempo di impazzire
https://www.youtube.com/watch?v=Xc6EXHUyjX8
ライブハウスに霧がかかるような幻想的な声だった。

 1982年に加橋かつみや銀巴里でたくさんの歌手を見れたこと、1983年から1984年に山口冨士夫とタンブリングスを見れたことは、自分にとって一生の心の財産になりました。感謝しかありません。過去を振り返った時、その思いはますます強くなりました。


☆1982年12月号

・12月25日 クロコダイル  Xmasレゲエナイト
         ジョー山中&レゲエバイブレーション

Joe Yamanaka and The Wailers - Reggae Vibrations 1982年
https://www.youtube.com/watch?v=cT3Hahsw4GI

ジョー山中&鮎川誠 / Hiroshima
https://www.youtube.com/watch?v=skD8ZRgiE8o
石間秀機が被爆者の著書に感銘を受けて作ったというフラワートラベリンバンドがアンコールで演奏していた曲。

 12月14日に後に裸のラリーズが出演する鹿鳴館で、ペドロ&カプリシャスの初代ボーカル前野曜子のライブ。チャー坊と同様に40代で夭折した伝説のシンガー。この年、名曲アニメソング「コブラ」をリリースしていた。合掌。

前野曜子 コブラCOBRA 1982年
https://www.youtube.com/watch?v=ryAsyyZfAc8





 次回の15回目の山口冨士夫と情報誌「シティロード」は、時系列が混乱してしまった今までの14回(1970年〜1984年)を整理して振り返りたいと思います。
 1985年以降については、しばらくこの特集はお休みにしようと思っています。


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2018年06月13日

山口冨士夫と情報誌「シティロード」L1982年1月号〜6月号

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村八分の唯一のシングルレコード「Recorded live」@TVリブヤング1973年2月4日
A面:鼻からちょうちん B面:にげろ


今日の1曲
 ザ・ダイナマイツ / ユメがほしい1968年
 ザ・タイガース / シー・シー・シー 1968年
 Faust / Krautrock 1973年
 村八分 / 鼻からちょうちん 1973年
 Rufus & Chaka Khan - Once You Get Started 1974年
 THIRD WORLD - Try Jah Love 1982年
 ボーイズ・タウン・ギャング/君の瞳に恋してる 1982年
 大瀧詠一 / カナリア諸島  1982年
 Tatsuro Yamashita / Sparkle 1982年



 山口冨士夫と情報誌「シティロード」の13回目は、1982年の1月号から6月号です。

 山口冨士夫「So What」によれば、山口冨士夫は1981年春にギターを燃やして1982年秋までは音楽活動を停止しています。そこで「シティロード」を見ながら山口冨士夫、村八分に関連する人の1982年の動向や思い出について書こうと思います。

 このブログも11年目に入ります。一昨日も明け方が涼しくて風邪をひきそうになったのでお気を付けください。慌てて厚着をして体調を整えました。これからも無理をせず頑張ろうと思います。お時間がありましたらお立ち寄りください。


☆1982年1月号

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 ・1981年12月31日〜1982年1月1日 
      ニューイヤーロックフェスティバル
      出演:沢田研二とExisotics(上原裕Dr元村八分)、ジョー山中など
 
 ・1月23日 クロコダイル ジョー山中&ザ・ジェイ・カンパニー
 ・1月27日 屋根裏 ペグモ(恒田義見ex村八分)

 1979年に京大西部講堂で村八分と共演したジョー山中は、ザ・ジェイ・カンパニーというバンドでクロコダイルに出演。
 ボブ・マーレーの影響でレゲエに移行する直前と思われます。

 1月号は毒舌で人気絶頂のビートたけしのインタビュー。
 後にジョー山中の2006年の自伝本「証」の帯に、ビートたけしは「本物は哀しみを知っている」と献辞を書いていました。

 新宿ロフトではこのころから「暴威」が定期的に出演し、クロコダイルにも登場。5月からBOφWYと改名し、1980年代後半からの第2次バンドブームの先駆け的存在になります。山口冨士夫のTeardropsもその波の中で1989年にメジャーデビューします。


☆1982年2月号

 ・2月14日 屋根裏 外道 (B.青木正行→1983年山口冨士夫バンド)
 ・2月22日 新宿ロフト 外道
 
 1979年に再結成した外道がライブ。翌年ベースの青木正行は山口冨士夫バンド結成に参加。2月号インタビューは、1984年元日のニューイヤーロックフェスティバルに山口冨士夫を招いた内田裕也。ヒット曲がなくてもロックはできると語っています。 

 2月号には、ポリドールがFaustやVelvet Undergroundなどを再発する情報を掲載。1979年からのキングのNew Trollsなどのユーロピアンロックコレクションのシリーズが予想以上のセールスだったため各社が動き出したとのこと。

 これらの動きが1960年代後半から70年代前半のアーカイブの発掘の運動になり、1985年の「ライブ村八分」1973年、山口冨士夫「ひまつぶし」1974年の再発に至ったといえます。2000年には村八分の「鼻からちょうちん」のアナログシングルも出ました。

村八分 / はなからちょうちん  CD「ぶっつぶせ」1971年より
https://www.youtube.com/watch?v=ZGp6GkYkZvk

 1980年代も音楽の商業主義が続く中で、1960、70年代への機運が生まれたと思います。山口冨士夫が1983年4月に復活したときに「60年代後半から70年代の雰囲気で。だってほらみんな表面ばかり舐めてきただろ。もっと深くいこうぜ」と言っていました。

 Faustは、村八分の唯一のシングル「鼻からちょうちん/にげろ」をフジテレビ「リブヤング」で録音した1973年2月4日の翌月にFaust Tapesを49ペンスでVirginから発売。Sex PistolsのジョンライドンもFaust Tapesを買って聞いていました。

Faust / Krautrock 1973年
https://www.youtube.com/watch?v=cBpqeEC8BMY
VirginのFaustWより。山口冨士夫在籍時の裸のラリーズに通じるサウンド。


1973年2月4日村八分「鼻からちょうちん」ライブ収録


 
 2月新譜では、シュガーベイブ時代に元村八分の上原裕と組んだ山下達郎の「For You」をトップで掲載。SparkleがCMで毎日のように流れていました。野音で石を投げられたというシュガーベイブのころから長きを経て遂にシティーポップとしてブレイク。

Tatsuro Yamashita – Sparkle 1982年
https://www.youtube.com/watch?v=gQ9pmFMc5oM

山下達郎 Sparkle ライブ映像
https://www.youtube.com/watch?v=irpmZpj0Ez4
山下達郎は最高のサイドギタリストの一人とも呼ばれる。山口冨士夫はCharに「ギターはサイドだよ」と言っていた。


☆1982年3月号

 ・3月1日  屋根裏 ペグモ(恒田義見ex村八分)
 ・3月8日  渋谷Eggman 鮎川誠
 ・3月17日 日本武道館 タイガース 同窓会コンサート
 ・3月21日 大瀧詠一「ロングバケーション」発売

 ライブハウスニュースでは、超目玉として鮎川誠のソロ活動KOOL SOLO LIVEを紹介。エッグマン、シェルガーデン、ルイードの3カ所。このような鮎川誠のソロ活動が1986年の山口冨士夫とのライブインでの共演ライブにつながったと思います。

 ライブインは渋谷初の500人クラスの中箱。「ライブイン‘82」という店名で3月に開店。3月12日のオープンは、野音でかつて山口冨士夫と共演したファンクのつのだひろ。3月15,16日と20日〜22日にはチャカ・カーン。日本でも黒人ファンクが台頭してきた。

Rufus & Chaka Khan - Once You Get Started 1974年
https://www.youtube.com/watch?v=7fgKhuqNtxw

 3月17日には日本武道館で、タイガースの準再結成「同窓会」コンサート。1971年4月に京大西部講堂で村八分と共演したPYGにも在籍した岸部修三も参加。GSの王者タイガースの11年ぶりの復活は大きな話題になり、テレビやCMに多く出演しました。 

ザ・タイガース / シー・シー・シー 1968年7月15日発売
https://www.youtube.com/watch?v=rsZELNxcZFs&index=8&list=RDab_kJtZ6OxY
この6枚目のシングルで初めてA面の作曲がすぎやまこういちから加瀬邦彦へ。

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タイガースのデビューからの5連作を作った「橋本淳作詞、すぎやまこういち作曲」

 ダイナマイツの2枚目のシングル「ユメがほしい」はビクターから1968年3月5日に発売されています。タイガース最大のヒット「花の首飾り/銀河のロマンス」(3月25日発売)と同じく、すぎやまこういちが作曲しました。
 
ダイナマイツ / ユメがほしい 
https://www.youtube.com/watch?v=2Cbf_OwLJTo
 
 「ユメがほしい」はヒットに至らなかったものの良曲で、当時のダイナマイツへの期待がわかります。山口冨士夫がセンターのジャケットもGOOD。「ユメがほしい」は、映画「ケメコの唄」での出演や遊園地でのプロモーション映像があります。 

 3月21日発売の大瀧詠一のLP「ロングバケーション」(はっぴいえんどの松本隆の作詞)が突然大ブレイク。ほとんど無名だった人の音楽が、どこのレコード店でも流れ陳列されているのには驚きました。良い曲が多く内容も良かったです。

 「So What」では、村八分時代に山口冨士夫は青木真一と海ではっぴいえんどを聞いたとあり、「はっぴいえんどの大瀧詠一さんみたいに日本語をはっきり打ち出すのではなく、村八分では言葉を音として捉えようとした」とも言っています。





 1982年は音楽が町や生活に流れていた時代で、活動停止中の山口冨士夫も当時の音楽に全く無縁ではなく、タイガース、沢田研二、上原裕、大瀧詠一の活動を見ていたと思います。1983年の「酔いどれ天使」には「今にみてろよ」という歌詞があります。


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「シティロード」1982年1月号〜6月号にも山口冨士夫の名前はなかった


☆1982年4月号

 「シネマ最前線」で「爆裂都市」を特集。ロッカーズ、ルースターズ主演のパンク的映像の「パワーが凄い」と評価。1979年からのパンクは、過激に進むもの、シンセサイザー、ファンク系などに分かれ、ロッカーズはこの年の12月に解散し、役者に転向します。
 
 1981年3月以降に山口冨士夫の名前が消えたのと同様に、青木真一(元村八分)のフールズも、1981年5月の新宿ロフトでのシャンソンとの共演以後、1982年11月号まで「シティロード」に名前が見当たりません。

 1979年にSpeedで最初期のパンクバンドを始めた青木真一も、このころが転機だったようにも思えます。山下達郎は、3コードのロックンロールの衝動こそ最高の音楽と言いつつも、それだけではいつか行き詰ると述べています。

 1982年11月22日の法政大学ホールのライブで、青木真一がフールズの「ゲスト」として「山口冨士夫」に本人に秘密で「シティロード」に告知したのも、1960年代後半から70年代の村八分の原点に互いに戻りたいという思いがあったのではとも思います。

 新譜情報の黒人音楽のトップでは、黒人ファンクの最高傑作の一つであるKickin backを収録したLTDのラブマジックを紹介。サタデーナイトフィーバーのディスコブーム以降、黒人系ダンスが台頭し、年末にマイケルジャクソンで爆発します。

L T D - Kickin' Back
https://www.youtube.com/watch?v=5QT0GkSHD1A
山口冨士夫のトンネル天国、恋のビート、Ride On!のようにソウルフルな歌


☆1982年5月号

 インタビューは、山口冨士夫「So What」旧版の寄せ書きで「山口冨士夫? そりゃ興味あるわな。村八分のころから。同じエレックレコードだったし」と書いていた泉谷しげる。普段は実験的音楽を聴くという勝新太郎の歌手宣言も印象的で「浮遊の夏」を発表。

 元山口冨士夫リゾートのルイズルイス加部のJL&Cがピンククラウドと改名。
 「シティロード」に「バンドの名前が欲しかった」という広告で、6月5日渋谷公会堂など5カ所のツアーを告知。

 新譜情報の黒人音楽のトップで、サードワールド / ラブアイランドを紹介。最上のレゲエバンドとStevie Wonderの才能が結合。この年の夏に初めてディスコに行き、黒人のように踊りたいと思った私にとって最高の曲の一つでした。

サードワールド / ラブアイランドTHIRD WORLD - Try Jah Love
https://www.youtube.com/watch?v=RPwPQyjOBUs


☆1982年6月号

 ・6月29日 新宿ロフト 外道

 「ライブハウスロッカーズ」では、ファンクの方向を目指す暗黒大陸じゃがたらを紹介。「So What」によれば、じゃがたらの江戸アケミは11月22日に法政大学ホールで楽器を持たずに来た山口冨士夫にギターを貸しています。

 インタビューは今は亡き夏目雅子。渋谷ライブインでは、キングクリムゾンのロバートフリップから「日本の音楽を作れ」と言われ「えんやとっと」というダンス音楽を始めた岡林信康の3daysライブを開催。 

 このころ福生のライブハウスには、1979年のころのように山口冨士夫に関連する青木真一や青木正行などのバンドの名前は出ていません。
 ElectricUZUは、SunshineUZUに改名しています。

 このころ、ボーイズ・タウン・ギャング/君の瞳に恋してるがヒット。今もディスコ音楽の定番ソングのトップになっています。1967年のライチャス・ブラザースのリメイクであり、山口冨士夫も耳にしたと思われます。

ボーイズ・タウン・ギャング/君の瞳に恋してるCan't Take My Eyes off you
https://www.youtube.com/watch?v=TJVvTgEj0VI

 次回は、山口冨士夫と情報誌「シティロード」14回目。
 山口冨士夫が11月に活動を再開する1982年7月号〜12月号の「シティロード」を見たいと思います。


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2018年06月04日

ブログ10周年「あしあと」「あしあとU」〜 山口冨士夫と情報誌「シティロード」K 1981年4月号〜12月号


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山口冨士夫の残した作品、楽曲、演奏は世界レベルでみても素晴らしい。


 今年の3月からスタートした特集・山口冨士夫と情報誌「シティロード」は、時系列の順序が入り組んでしまいました。
 当初「山口冨士夫を偲んでU」として1983年のライブの思い出だけ書く予定でした。

 しかし、「シティロード」を振り返るうちに、山口冨士夫が若い頃の自分に与えた影響の大きさや、2013年の山口冨士夫の死で受けたダメージが深かった理由もわかりました。そこでブログの10周年に向け、山口冨士夫をテーマに書いていこうと思いました。

 書いていて山口冨士夫という稀有のミュージシャン、ロックヒーローに出会えたこと、「シティロード」や「ぴあ」への感謝を感じました。過去の心の古傷に触る作業でもありましたが、何かを残したいという意味での前向きな遺書と思うと幸せな気がしました。

 「天国のひまつぶし」でCharが、山口冨士夫のことを生前に認められなかった天才ミュージシャンの一人と語っていますが、日本では山口冨士夫こそ世界レベルでみても最高のロックのミュージシャン、作曲家ではないかという思いを強くしています。


= 山口冨士夫と情報誌「シティロード」K1981年4月号〜12月号 =


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「シティロード」1981年4月号〜12月号


今日の1曲
 Speed, Glue & Shinki(ルイズルイス加部) Run And Hide 1972年
 村上進(元スパイダース)/「カルーソ」Caruso (Lucio Dalla)
 ペグモ(恒田義見ex村八分)/ リトルラブ 1981年
 マイルス・デイビス / ライブ @新宿西口広場 1981年10月4日
 Miles Davis - So What 1959年
 Kraftwerk / Kling Klang 1971年
John Foxx / Systems of Romance 1981年
 沢田研二 / ス・ト・リ・ッ・パ・ー 1981年
             (ドラム:上原裕 ex村八分)
 瀬川洋 & Travelin' Ocean Bluebirds 武蔵野はらっぱ祭り   
           瀬川洋(元ダイナマイツ)上原裕(ドラム)2016年 
 Il Volo / Come una zanzara in Africa 1974年

 山口冨士夫著「So What」によれば、1981年3月23日の屋根裏でのライブを最後に裸のラリーズを脱退した山口冨士夫は、ギターなどを燃やし、一切の音楽活動を停止してしまいます。「オレは、・・・ダメ、だった」と言っています。

 したがって、「シティロード」の1981年4月号から音楽活動を再開する1982年の11月号まで、山口冨士夫の名前は一切みつかりません。今回は1981年4月号から12月号の山口冨士夫周辺の情報や思い出などを振り返りたいと思います。

 山口冨士夫は、裸のラリーズは命がけのアプローチだったと語っています。今回初めて1980年の裸のラリーズの「造花の原野」のライブを聞いたのですが、これほどの集中力で音楽を作ったら一度は燃え尽きてしまうのではないかと思いました。

 山口冨士夫はダイナマイツ時代から海が好きだったと言っており、このころは海によく行っていたようです。1983年8月に江の島で行われたというジョー山中レゲエバイブレーションとの共演ライブは見たかったです。

 

☆1981年4月号

 ・4月8日  新宿ロフト Fool’s day  出演 :Fool’s
 ・4月24日〜26日 Electric Uzuバースデイパーティ 出演:外道
 ・4月3日  平塚レイン チーボー&ベーサイドストリートバンド
 ・4月15日 平塚レイン 陳シンキバンド

 青木真一(元村八分)が、Speedの後にFool’sを結成し、新宿ロフトに出演。
 青木正行も加納秀人と再結成した外道でElectric Uzuに出演。
 青木真一、青木正行は1983年に山口冨士夫バンドを結成。

 60年代から活動する横浜の元パワーハウス(柳ジョージがB.)のVo.チーボーとG.陳信輝が平塚レインで定期的にライブをしています。チーボーはパワーハウスの前に、ルイズルイス加部と「ミッドナイトエクスプレス」を結成していました。

 陳信輝は山口冨士夫とセッションをしたり、スピード・グルー&シンキでは野音で村八分とも共演。1993年の寿町ライブでは、チーボー、陳信輝、ルイズルイス加部、ジョニー吉長が、山口冨士夫の出演の前にMojosとして演奏しました。

Speed, Glue & Shinki - Run And Hide
https://www.youtube.com/watch?v=kwOXVTn7mJc
陳信輝G、ルイズルイス加部B、ジョーイ・スミスVo D

 4月号では、山口冨士夫が1983年4月のライブで「もう死んじゃった奴だけど俺が大好きだった…」と言って「マリアンヌ」をカバーした「フィルモア」のマイク・ブルームフィールドが2月15日に37歳で亡くなったという訃報を掲載しています。

 マイク・ブルームフィールドは、死ぬ直前ほとんど観客のない状態で一人で歌い、大木トオルに「君はイエローで俺はJewだ。俺たちはソウルブラザーだよ」と語り、一緒にレコードを作る予定だったとのこと。(大木トオル「伝説のイエローブルース」より)


☆1981年5月号

 ・5月13日 新宿ロフト フールズvs保坂夏子  
 ・5月14日 新宿ロフト フールズvsブルース

 青木真一のフールズが、新宿ロフトで当時銀巴里専属のシャンソン歌手だった保坂夏子やブルースと共演。シャンソン・カンツォーネとパンクの対バンの告知は見たことがありません。このような企画もロフトの村八分への関心の表れとも思えます。

 私が1982年に銀巴里でウェイターをしたときは保坂夏子は若手で、しますえよしおや村上進などの実力者と共演した普通の印象の歌手でした。ジャニスジョプリンのファンとのことで、どこかで青木真一とつながりがあったのかもしれません。

村上進 /「カルーソ」Caruso (Lucio Dalla)
https://www.youtube.com/watch?v=U40CsMVAtLg
村上進は40代で亡くなったイタリアンポップス(カンツォーネ)の第一人者。
山口冨士夫が中学時代に憧れたスパイダースの初期のボーカルでもあった。
人格者でお兄さんが亡くなった日も力強く歌っていたのを思い出す。

 沢田研二がバックバンドとしてエキゾチックスを結成。
 元村八分、シュガーベイブの上原裕がドラムで参加。
 5月1日に「渚のラブレター」をリリースし、オリコン8位。

☆1981年8月号

 ・8月2日  屋根裏 カルメンマキ&5X
 ・8月13日 屋根裏 ペグモ(恒田義見ex村八分)
 ・8月16日 鹿鳴館 「ロックスペシャル・ザ・ヨコハマ」ルイズルイス加部、Char
        エディ藩(ゴールデンカップス)、野木信一(元パワーハウスd.)
 ・8月18日 屋根裏 裸のラリーズ

 シーナ&ロケットの記事が印象的。
 鮎川誠は、「頭」でビートを作るYMOとの作業で方向性を明確にできなかったために、体の「ビート」の充電のためにブルースセッションなどの単独行動に出ていたそうです。

 レポートによれば、鮎川誠の行動が6月27日の久保講堂での「九州ビート集結コンサート」で充実した結果になってあらわれていたとのことでした。雌伏期にアマチュアなどともセッションをした山口冨士夫に通じるものがあります。

 「ライブハウスニュース」では、8月16日鹿鳴館での「ロックスペシャル・ザ・ヨコハマ」を紹介。山口冨士夫とのリゾートの解散後、ルイズルイス加部はCharとJL&Cで成功していましたが、やはりセッション活動を大事にしていたことがわかります。

 屋根裏では、山口冨士夫が3月に脱退した裸のラリーズがライブを再開。恒田義見(元村八分)の新バンド「ペグモ」は、岡井大二・坂下秀美というニューロックを代表した四人囃子のメンバーも加わり、シンセポップへの時代の変化を感じさせます。

 OZを解散した後のカルメンマキも、この5Xのころが一番方向性が苦しかったとのことです。屋根裏の昼の部では、ELPの影響を受けた小室哲哉&STAYが定期的にライブを開始しています。

ペグモ(恒田義見ex村八分、岡井大二・坂下秀美ex四人囃子)/ リトルラブ
https://www.youtube.com/watch?v=x_alQWvdOUc
実力者たちによる深い味わいの美しいシンセポップ。和的要素もある。
この後、恒田義見は和太鼓の世界へ


☆1981年9月号

 クラフトワークのインタビューを掲載。彼らが10年前トマトをぶつけられて演奏したシンセサイザーを今は中学生が演奏。「YMOのようなバンドが人気を得るということは僕たちのしてきたことが認められたということでもあり、自信がついた」と語っています。
 
Kraftwerk / Kling Klang 1971年
https://www.youtube.com/watch?v=MXnjC3w6v60
村八分が「くたびれて」の後、カントにドラムが変わったころの録音。Kraftwerkは「我々は音響上のバーダー・マインホフ・グループ(過激政治組織)だ」と言っていた。

 山口冨士夫もブライアン・イーノに関心をもっていました。特に東芝からメジャーデビュー後のTeardropsが、時代のサウンドに対応して若い世代に受け入れられたのも山口冨士夫のシンセポップ等に対する理解があったからではないかと思います。

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元村八分出身では最もテレビに出演した上原裕が在籍したEXOTICS

 9月21日に沢田研二が、「JULIE & EXOTICS」として自ら作曲した「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」をリリースします。レコードジャケットにも元村八分の上原裕などのメンバーを出しロックバンド指向を打ち出しました。

沢田研二 ス・ト・リ・ッ・パ・ー 1981年ライブ
https://www.youtube.com/watch?v=0LEXckET_fQ
日本テレビ「歌のベストテン」6位。上原裕のドラムとともに圧倒的なパフォーマンス。
元ライバル堺正章(exスパイダース)もバンドサウンドに敬服しているように見える。


☆1981年10月号

 ・10月2日〜4日 新宿西口広場 マイルス・デイビス
 ・10月14日 屋根裏 ペグモ(恒田義見)

 山口冨士夫が著書「So What」のタイトルにも使った復活マイルス・デイビスの来日公演が行われました。伝説的なパフォーマンスは賛否両論の的に。
 山口冨士夫の1982年の復活にも大きな影響を与えたと思われます。

Miles Davis - So What
https://www.youtube.com/watch?v=zqNTltOGh5c
1991年11月号のニューミュージックマガジンで、裸のラリーズの水谷孝もマイルス・デイビスやジョンコルトレーンから影響を受けたと語っている。

マイルス・デイビス 新宿西口広場 1981年10月4日
Miles Davis - Live in Tokyo, October 4, 1981 
https://www.youtube.com/watch?v=q5pTORxHcr8
レーザー光線も使った伝説のライブ

 1981年には、1974年のイタリアのIL VOLOの1stがキングから再発。これも1974年の山口冨士夫「ひまつぶし」のように捨て曲のない名盤。村八分がイギリス進出を目指したようにIl Voloも世界進出を目指して結成された。

IL VOLO / Come una zanzara in Africa 1974
https://www.youtube.com/watch?v=5CtFlLsSqsI&list=PLC6447C3BDA2D4CA7
1974年当時世界最高レベルのバンドの一つ


☆1981年11月号

 ・11月17日 屋根裏 ペグモ(恒田義見)

 11月号ではジョンフォックスの1面インタビュー。ジョンフォックスの作ったUltravoxは時代に早すぎたため、皮肉にも彼が脱退した後にブレイクする。ソロアルバムThe Gardenは、山口冨士夫「ひまつぶし」のように捨て曲がなくバラエティーに富む名盤。

John Foxx - Europe After The Rain
https://www.youtube.com/watch?v=DFjkOWigb-M

John Foxx / Systems of Romance 
https://www.youtube.com/watch?v=I7e2tsabigs
1972年村八分「ライブ三田祭」のあやつり人形をElectricにしたような印象を受ける

 
☆1981年12月号

 ・12月16日 クロコダイル Fen-Child(瀬川洋 元ダイナマイツリーダー)
 ・12月17日 クロコダイル Chibo(元パワーハウス) 
 ・12月21日 クロコダイル スマイラー(大木啓三 元ダイナマイツ)
 ・12月23日 クロコダイル Rockers vsバトルズ(ルースターズ)
 ・12月21日 クロコダイル Joe山中 One nite stand
 ・12月19日 屋根裏 裸のラリーズ
 ・12月30日 屋根裏 外道(青木正行 → 山口冨士夫タンブリングス)
 ・12月31日 渋谷ハチ公前 10時
         「大道芸人渋谷街頭興行 ストリート・ライブ・イン渋谷」
          出演:ヒカシュー、裸のラリーズ、山海塾他

 1978年のSex Pistols以降、パンクによってライブハウスが増えます。中でも、山口冨士夫が1983年以後に拠点とするクロコダイルのブッキングの充実が目立ちます。山口冨士夫が在籍したダイナマイツからは瀬川洋、大木啓三が出演。

 大木啓三は、1983年元日にクロコダイルで山口冨士夫とKIZUを結成。
 鮎川誠のシーナ&ロケッツが先達となった「九州めんたいビート」の「ロッカーズ対ルースターズ」のライブ企画も行われています。

瀬川洋 & Travelin' Ocean Bluebirds 武蔵野はらっぱ祭り 2016-11-05
https://www.youtube.com/watch?v=ETtkNUh5Dzo&t=530s
山口冨士夫が、彼ほど歌が上手い人はいないと言った瀬川洋、上原裕の演奏はいまだに衰えない。安心して聴けて元気が出てくる。


 次回は、山口冨士夫と情報誌「シティロード」13回目。
 山口冨士夫が活動を再開する1982年の「シティロード」を見たいと思います。


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〜 ブログ10周年「あしあと」「あしあとU」 〜

 ご覧いただきありがとうございます。
 おかげさまで、6月4日をもちまして、ブログ「あしあと」「あしあとU」は10周年を迎えました。 記事の数は665件なります。 

 2008年6月4日は雨。祖母が死んだ2006年5月ごろから初めて体調が悪化し、遺書代わりとも思いブログをスタート。その後体調回復。5周年の2013年8月の山口冨士夫の死の頃から再び体調悪化。苦しさに耐え切れず2014年1月に本当の遺書を書く。

 2014年8月ごろから徐々に体調回復。祖母、父、親友、キース・エマーソンの死など2015年、2016年と下降線をたどりつつもなんとか体調を維持。
 ブログは、前半の5年に比べ、後半の5年はあっという間だった気がします。

 体調を回復できたのはダンスの力が大きかったです。しかし、もうあの地獄のような状態に戻りたくありません。今までの経験から、体調の維持のために一番大事だと気づいたのは、プラス思考、深呼吸と体幹・柔軟性をつくる運動です。

 過大なストレスやショックがあると精神的に落ち込み、体を動かさなくなります。
 すると、呼吸が浅く、体も硬くなり、酸素や血液の循環が停滞し、猫背になると特に首に集中している神経が長時間圧迫されます。

 それらの結果、体の各所に澱んだ部分ができ、体調が崩れ病気になるのだと思います。精神的に苦しい時こそプラス思考をとり深呼吸や柔軟運動ができるようにすることが大事だと思います。あたりまえのようで、平常時から意識しないと難しいと思います。

 先日も、スキージャンプのレジェンド葛西選手が、ジャンプ前の深呼吸や、日頃から体幹を作り疲れない体を作ることを紹介していて、なるほどと思いました。特にブログを書いているときは意識しようと思っています。

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2018年05月25日

山口冨士夫と情報誌「シティロード」J1979年の「ぴあ」+1971年・1973年のニューミュージックマガジン

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ニューミュージックマガジン(NMM)1973年2月号 
鋤田正義「山口冨士夫フォトセッション」、村八分の公演やディスコガロ出演情報を掲載


今日の1曲
 村八分 / Twist and shout 1979年5月
 村八分 / マネー 1979年7月
 村八分 / 操り人形 1971年4月
 New Trolls / Concerto Grosso Adagio 1971年3月
 Speed / BOYS I LOVE YOU 1979年
The Stooges / Down On The Street 1970年
 村八分 / ぶっつぶせ 1971年
 Beatles / I saw her standing there 1963年
 山口冨士夫 Tumblings /んっ(村八分)1983年
 カシオペア / タイムリミット 1979年
 YMO / Technopolis 1979年
 久保田早紀 / 星空の少年 1979年


 山口冨士夫と情報誌「シティロード」11回目は、前回の1978年に続いて、1979年に購読した情報誌「ぴあ」を見てみました。1979年は山口冨士夫が村八分を再結成した年ですが、東京の「ぴあ」には、山口冨士夫の名前はみつかりませんでした。

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「ぴあ」1979年4月号から1980年1月4日号。
有名な表紙を書いた及川正通もミュージシャンだった。

 そこで、前回に続いて山口冨士夫著「So what」「村八分」等をてがかりに、1979年を振り返ってみたいと思います。ニューミュージックマガジン1971年12月号、1973年2月号も見てみます。「ぴあ」の1979年1月号は所持していませんでした。

 1月21日に元村八分の青木真一は8年ぶりにSpeedとして録音。春に山口冨士夫は村八分再結成のために京都へ。山口冨士夫は著書「村八分」で、高円寺でパンクの活動をする青木真一に会い、再起へのポジティブな気持ちになったと語っています。


☆「ぴあ」1979年2月号

 ・2月5日  屋根裏 「パンクナイト」スピード 自殺 サイズ
 ・2月11日 屋根裏 RCサクセション
 ・2月12日 屋根裏 Pyramid
 ・2月26日 屋根裏 カシオペア 
 ・2月27日 屋根裏 裸のラリーズ 

 渋谷「屋根裏」の2月5日「パンクナイト」は、青木真一のスピード、自殺、サイズという1987年に山口冨士夫Teardropsを結成するメンバーが在籍したバンドが集結。2月11日には1990年に山口冨士夫が参加するRCサクセションが出演。

 続く12日には、1983年に山口冨士夫タンブリングスを結成する青木正行のPyramid、27日には1980年に山口冨士夫が参加する裸のラリーズが並ぶ。当時日本のロックの中核だった「屋根裏」と山口冨士夫がつながっていたことがわかる。
 

☆「ぴあ」1979年4月号

 ・4月3日 屋根裏 恒田義見&高木英一 セッション
 ・4月7日 池袋City 恒田義見(元ハルヲフォン)佐藤満(四人囃子)
 ・4月15日 屋根裏 「パンクナイト」 Speed
 ・4月24日 福生Electric UZU 「UZU3周年」 Pyramid
 ・4月25日 屋根裏 裸のラリーズ
 ・4月28日 福生Electric UZU Speed (Punk)

 元第1期村八分(裸のラリーズ)の恒田義見がセッション活動を開始。ハルヲフォンの前にはオムニバスLP「ロック・エイジ・コンサート」に1曲だけ残す伝説的バンド「ブラインドバード」にも在籍した。この後、ポップロックバンド「ペグモ」を経て和太鼓の世界へ。

BLIND BIRD /KICK THE WORLD ブラインド・バード
https://www.youtube.com/watch?v=P9L91Mxfpgg
この時点では恒田義見は参加していない。

 恒田義見は、ブログで村八分という日本のロック史に残るバンドにいたことは誇りと述べている。2017年12月31日の内田裕也主宰のワールドロックフェスティバルでは「近田春夫×恒田義見×高木英一」としてシーナ&ザ・ロケッツ等と共演、健在ぶりを示す。

恒田義見著「ロックンロールマイウェイ」
http://uuuupsbooks.com/?pid=121924690

 4月28日のElectric UZUに初出演したSpeedは、告知にずばり「Punk」という呼称を使用。過去の「ぴあ」「シティロード」を振り返ってみて、青木真一こそが「パンクの元祖」村八分というイメージを作ったのではないかと思えるようになりました。

 山口冨士夫はGS時代からプロで「So What」でも自分はパンクではないと言う。チャー坊も中学からフォークギターを弾き、渡米から帰国後に裸のラリーズのベースになる予定だった。他も楽器経験者で、本当にゼロから始めたのは青木真一だけだった。

青木真一参加の1971年「くたびれて」旧第2版のジャケット



 1983年から見たタンブリングスのライブでは、MCはすべて山口冨士夫が表に立ち、青木真一は控えめな存在でした。1984年12月に山口冨士夫が欠席したときに、1回だけ青木真一が「俺たちだけで楽しもうぜ」と言ったことだけ覚えています。

★ニューミュージックマガジン(NMM)1971年12月号

 1983年に国会図書館でNMMのバックナンバーを探し、山口冨士夫著「村八分」の表紙になった写真が掲載されたNMM1971年12月号を読みました。写真と村八分の異様で圧倒的な存在感を伝える内容の文章に衝撃を受けたのを覚えています。

ニューミュージックマガジン(NMM)1971年12月号で掲載された写真
同じように横向きに縦1面で印刷されていた



 征木高司のインタビューに対して村八分は黙ったままほとんど応えず、チャー坊がこの写真を指して「夢」とつぶやき、1996年の「クイックジャパン」でも3代目ドラマーのカントが「かわいそうになるほどつっけんどんに対応した」と回想しています。 
 
 インタビューでメンバーがしゃべらない中、青木真一(記事では青木真と記載)だけが「俺たちの演奏を聴ける奴がどこにいる。いないじゃないか」と強い言葉を発しているのが、非常に印象に残っていました。

NMM1971年12月号より 「村八分」青木真一の発言
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 青木真一のスピードは、ストゥージズ等に影響を受けた日本で最初期のパンクバンド。最近初めて、Speedのライブ映像と青木真一が話す姿を見た。剣道部の主将だったという青木真一の「今のガキに目を覚ましてほしい」という言葉に意志の強さを感じる。

Speed / BOYS I LOVE YOU 記録映画「ROCKERS」1979年
https://www.youtube.com/watch?v=IrvBKxOrZpw
38:00からSpeed。青木真一は「昔いたバンドとは?」という質問に「村八分」と回答。

 映像で、青木真一はスピードへの参加を拒んだ元村八分上原裕のことを暗に批判しています。しかし、上原裕もまた1981年から1984年まで沢田研二とニューウェーブを追求し、1986年に燃え尽きたように一度音楽から引退します。

青木真一(元村八分ベース、Fools、山口冨士夫タンブリングス、Teardrops)1979年
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The Stooges - Down On The Street 1970年
https://www.youtube.com/watch?v=85RSPV9Q-3s
The Stoogesの活動期間は村八分と重なっている。

村八分 / ぶっつぶせ 1971年
https://www.youtube.com/watch?v=TvvVefeljdQ

青木真一がベースで参加した1971年のライブ「ぶっつぶせ」



☆「ぴあ」1979年5月号

 ・5月5日 屋根裏 ジョー山中 前売りあり(1500円)

 ・5月6日 京大西部講堂「狂騒ロックコンサート」 ジョー山中グループ 
           → 村八分が、飛び入りで参加
                      (→ 「ぴあ」には記載なし)

 ・5月6日 屋根裏 RCサクセション
 ・5月12日 関内 ファーイースト 
           ルイズルイス加部(g) 野木信一(dr)&Family
 ・5月12日 福生Electric UZU  Speed (Punk)
 ・5月26日 福生Electric UZU Pyramid

 5月6日に京大西部講堂「狂騒ロックコンサート」のジョー山中グループに飛び入り的に村八分が参加。村八分BOX収録の6曲で、チャー坊の歌には長期の療養生活によるダメージが感じられるが、「くたびれて」ではそれが深い情感になっていると思います。

 関西で最高のギタリストだったという松田幹夫(ミッキー)のボーカルによるTwist and shoutは、まさに村八分のメンバーたちが、ビートルズから受けた衝撃をダイレクトに伝える熱狂的な演奏になっています。

1979年5月6日のライブを収録した村八分BOX



 元リゾート(山口冨士夫)のルイズルイス加部(g)が、元パワーハウスの野木信一(dr)&Familyでライブ。1978年9月に合歓の里で合宿を開始し、12月のデビューライブが中止になった「JOHNNY, LOUIS & CHAR」の再始動に向けてのものと思われます。 

 青木正行、中野良一のピラミッドは、スピードとともに福生Electric UZUへ出演。この月が最後の出演で、加納秀人と外道を再結成。UZUで青木正行と青木真一とのつながりができたと思われ、後の1983年山口冨士夫タンブリングス結成に至ります。

 1983年からの山口冨士夫Tumblingsでの「んっ(村八分)」や「酔いどれ天使」では、ニューロック出身の青木正行と、パンク出身の青木真一のコンビネーションでバラエティーに富んだアレンジが毎回なされ、それが深い魅力になっていたと思います。

 このころキングから1971年3月23日〜27日に録音されたNew Trolls / Concerto Grossoが再発。「日本のギタリスト」でのインタビューによれば、山口冨士夫自身の選ぶベストプレイは、1971年4月30日録音の村八分「くたびれて」だという。

New Trolls / Concerto Grosso Adagio
https://www.youtube.com/watch?v=DCgvp6IfE7w
3:48のギターソロ。1971年には、日本でもイタリアでも強い磁力が働いていた。





☆「ぴあ」1979年6月号

 ・6月7日 村八分 日本テレビ「11pm」出演      
               (→ 「ぴあ」には記載なし)
 ・6月13日 屋根裏 裸のラリーズ
 ・6月27日 関内 ファーイースト ルイズルイス加部(g)野木信一(dr)&Family
 ・6月28日 屋根裏 恒田義見&フレンズ
 
 6月7日に村八分は、1973年2月4日の「リブヤング」以来の日本テレビ「11pm」に出演。オリジナル曲の予定を覆し、本番でビートルズの「ロールオーバーベートーベン」
「I saw her standing there」を演奏。村八分のビートルズへのこだわりがわかる。

The Beatles - I Saw Her Standing There 2009 Stereo Remastered
https://www.youtube.com/watch?v=Rq8u0tnyDGI





☆「ぴあ」1979年7月号

 ・7月14日 日比谷野音「JOHNNY, LOUIS & CHAR」『Free Spirit』

 ・7月15日 京大西部講堂 村八分
              (→ 「ぴあ」には記載なし)

 7月14日にルイズルイス加部の「JOHNNY, LOUIS & CHAR」が再始動.
 日比谷野音のフリーコンサートで野音の動員記録を樹立。
 君が代も演奏した。

JOHNNY, LOUIS & CHAR / Natural Vibration
https://www.youtube.com/watch?v=6GPcMNVI8RM
以前からのチャーの女性ファンたちは、ロックへの変貌で泣いていたという。





 翌7月15日に山口冨士夫の村八分は西部講堂でライブを行う。「日本ロック体系」によれば昔からの同窓会的な人が集まったようでしたが、「でも音はよかったですね」と山口冨士夫は述べています。ここでは山口冨士夫がビートルズのマネーを歌っています。

村八分再結成 Underground Tapes 1979年7月15日


 チャー坊が山口冨士夫を東京にまで迎えにきて再始動した村八分は、11月の慶應大学三田祭に向けて準備していましたが秋に解散。チャー坊は「ブルーダイヤモンズ」(青い死の門)の名で活動予定でした。

 新曲が少なく村八分の評価を決定的にした「あっ」「あやつり人形」などが詞の問題で封印され、チャー坊の体調やメンバーの入院などが重なりました。「村八分」の中で山口冨士夫は「音楽は楽しいからやる」というポリシーがチャー坊と違ったといいます。

 再結成した村八分の活動で顕著だったのが、山口冨士夫のビートルズへの思い。
 山口冨士夫は「So what」で、中学1年生の時、イギリス軍人の父の国で階級社会から成功したビートルズに対して「本気で憧れた」と語っています。

 1979年の5月から7月まで村八分が公の場で演奏した14曲のうちビートルズが5曲。
 山口冨士夫は1983年でも1stシングルLove me doをレゲエにアレンジし、同年のクリスマスには、1曲目でDear Prudenceをほぼ原曲に忠実に演奏しました。

 また、「クイックジャパン」によると、1996年に福生UZUで若いミュージシャンがビートルズを演奏し大合唱する中へ、山口冨士夫は思わず入っていってギターでセッションをしたとのことです。


★ニューミュージックマガジン(以下NMM)1973年2月号

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NMM1973年2月号
「村八分公演決定!」(5月5日京大西部講堂と思われる)東京新宿のロック喫茶の広告
関西でのライブがこのように広告の一部として告知されるのは異例

 NMM1973年2月号は、鋤田正義の8ページにわたる山口冨士夫のフォトセッション写真で話題になりました。最後の山口冨士夫が墓地に立つ写真が印象的でした。
 この2月号には、さらに村八分についての情報が2つ掲載されています。

 1つめの情報は、「村八分公演決定!」告知がある新宿のロック喫茶(ライブハウス?)MAGAGINEの広告。おそらく1973年5月5日の京大西部講堂のライブと思われますが、日程も不明の段階で村八分がいかに注目されていたかがわかります。
 
 国会図書館で読んだ1971年から1973年のNMMには、村八分が数回掲載されていました。1979年のNMMに7月京都の村八分のライブ告知があったかは不明ですが「ぴあ」には出ていません。「ぴあ」「シティロード」では関西のライブ情報は出ません。

 「クイックジャパン」「ヤングギター」の記事(フラワートラベリンバンドの有名なSATORIのイラストレーター石丸忍のレポート)によると、1972年8月の村八分の円山公園でのライブの際は、東京からヒッチハイクをして見に行った人もいました。

 2つめの情報は、「RANDOM NOTES」で村八分の京都のディスコ「ガロ」への出演を紹介。村八分自身は「ガロ」への出演を公にしておらず、ハコバンの情報まで雑誌に掲載するのは珍しい。「ガロ」でのライブ音源は「村八分BOX」に収録されました。

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☆「ぴあ」1979年8月号

 ・8月20日 屋根裏 シーナロケット 
 
 YMOの援助を受けた鮎川誠のシーナロケットが、「真空パック」でアルファから再デビュー。1960年代から暗黒舞踏を続ける1978年に会った麿赤児のインタビューが印象的。時代への迷いも感じたが、この後Dance Butoとして海外から評価を得る。

☆「ぴあ」1979年10月12日号
 
 ・9月26日 屋根裏 スマイラー(大木啓三 元ダイナマイツ)
 ・10月1日 サンシャインシティ10階 南正人with ルイズルイス加部
 ・10月7日 日比谷野音 南正人with ルイズルイス加部 RCサクセション
 ・10月27日 法政大学ホール 裸のラリーズ

 ルイズルイス加部が南正人と共演し「スーパーレザリウムとバンドのジョイントコンサート」を行う。外道の加納秀人も参加。南正人は「ロックの旗手」として新譜を発売。ソロ、裸のラリーズ、浅川マキジャズセッション、ビリーバンバンなど多くの分野と共演。

 アルファレコードから、「テクノポリス」でYMOの人気を決定的にした「ソリッドステイトサバイバー」、カシオペアの1stアルバムが、1面広告で掲載されています。私は、道玄坂YAMAHAでデビュー前のカシオペアを最前列の目の前で見てギターを諦めました。

カシオペア / タイムリミット 1979年ライブ
https://www.youtube.com/watch?v=yX0_fze8FJU
3:40から、MC「次は、めちゃめちゃハードな曲でタイムリミット」

YMO - Technopolis
https://www.youtube.com/watch?v=Y2lOyCxRp5s

 このころ、FM東京「スペース・フュージョン」で土曜深夜3-5時にプログレッシブロックの輸入盤を放送。1970年代初期のLPが中心で、村八分の全盛期と重なる。村八分も1973年に「むらさき」などでCanのようなアプローチを始めていた。

むらさき、天までとどけを収録



☆「ぴあ」1979年11月9日号
  
 アルファレコードから、シーナ&ロケット「真空パック」発売の広告。
 「YMOとロックンロールの劇的な出合い!」という宣伝文句。
 村井邦彦のアルファレコードが時代の半歩先を走っていました。





☆「ぴあ」1979年12月7日号
 
 ・12月4日 屋根裏 裸のラリーズ


☆「ぴあ」1979年12月21日号

 ・12月22日 屋根裏 Speed ゲスト シーナ&ロケッツ

 Speedが、シーナ&ロケッツをゲストとして登場。1984年12月21日の法政大学ホールでのタンブリングス(山口冨士夫欠席)との共演以前に鮎川誠と青木真一が会っていたことと、シーナ&ロケッツもパンクに対して好意的だったことがわかります。

☆「ぴあ」1980年1月4日号

 「79年と80年の間に」というサブタイトルで、浅川マキの年末連続公演が始まる。
 久保田早紀のファーストアルバム「夢がたり」の1面広告。
 JAシーザーが12月23日、24日に原宿ラフォーレで、馬淵晴子の演出でコンサート。

久保田早紀のファーストアルバム「夢がたり」
山口冨士夫「ひまつぶし」のようにほとんど捨て曲がなく良曲が揃っている


 
 このころ青木真一が裸のラリーズへの加入を断る。
 1980年に山口冨士夫が裸のラリーズに参加。 
 山口冨士夫の参加した裸のラリーズの最初のライブは1980年8月13日の屋根裏。

 順番が逆になってしまいましたが、「シティロード」1980年から1981年3月までの山口冨士夫が裸のラリーズに参加した時期については、山口冨士夫と情報誌「シティロード」FGをご覧ください。


 次回の山口冨士夫と情報誌「シティロード」12回目は、山口冨士夫が裸のラリーズを脱退した1981年4月以降から、フールズのゲストから再復活した1982年12月までの「シティロード」を見ていく予定です。
 
 

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2018年05月16日

山口冨士夫と情報誌「シティロード」I 1978年の「ぴあ」+ 1974年の「Music Life」ミュージックライフ

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Music Life1974年3月号 人気投票のギタリスト部門で山口冨士夫が8位
 村八分は1973年に解散していたが、LP「ライブ村八分」の反響がわかる。

 山口冨士夫がスパイダース時代に憧れ、1971年に「日本ではPYGがいい」と言った井上堯之が1位。ボーカルはソロになった沢田研二が1位で、演奏はPYGがサポート。ドラム部門の1位は1970年野音の山口冨士夫グループにも参加した角田ヒロ。


今日の1曲
 ザ・ダイナマイツ/恋はもうたくさん LPヴァージョン 1968年
 ザ・ダイナマイツ/恋はもうたくさん シングルヴァージョン 1967年
 ザ・ダイナマイツ / トンネル天国 1968年
 Murasaki (紫) - Mother Natures Plight 1978年
 タイフーン / シスタージェーン 1975年
 外道 / 香り 1974年
 森田童子 / みんな夢でありました 1980年
 村八分 / にげろ ライブ テレビ「リブヤング」1973年2月4日
 村八分 / にげろ 「村八分ライブ」1973年5月5日




1973年の「ライブ村八分」は外道やその後の日本のロックに影響を与えた



 山口冨士夫と情報誌「シティロード」は、前回の1976年、1977年に続いて、1978年に購読した情報誌「ぴあ」のころを振り返ってみました。この年の「ぴあ」にも、山口冨士夫の名前はみつかりませんでした。

 1978年はセックスピストルズの影響でロックが活性化し、1979年の村八分の再結成や山口冨士夫にも影響を及ぼしたと思います。1983年に山口冨士夫と組む元外道の青木正行、元村八分の青木真一の活動も1978年に活発になります。

☆「ぴあ」1978年1月号

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1978年1月の屋根裏(左列)  3日瀬川洋(元ダイナマイツ)、14日ジョン山崎(元ゴールデンカップス)、15日アイ高野(元カーナビーツ、ゴールデンカップス)、16日トランザム(石間秀機・元ビーバーズ、フラワートラベリンバンド。チト河内元ハプニングスフォー)と元実力派系GS出身者が活躍。右列は、新宿タロー(ジャズ)

 ・1月3日 屋根裏 瀬川洋&ハッピージョー・テンプル
                  (元ダイナマイツ)
 ・1月9日〜12日 Electric UZU Tune up day
 ・1月13日 屋根裏 近田春夫とハルヲフォン
                 (ドラム恒田義見、元村八分)
 ・1月18日 屋根裏 RCサクセション
            (1990年に山口冨士夫が「カバーズ」に参加)

 山口冨士夫は1978年に入っても表立った活動が見当たりませんが、1月9日〜12日の福生Electric UZUのTune up dayなどにも出演可能性があります。

 1月3日には、屋根裏でダイナマイツのリーダーだった瀬川洋&ハッピージョー・テンプルがライブをしています。三が日に出演していることから、ダイナマイツがゴールデンカップスなどと並んで重要なバンドとみなされていたことがわかります。

ザ・ダイナマイツThe Dynamites/恋はもうたくさん (album Version1968年)
https://www.youtube.com/watch?v=_EtkDkRFGKA
今のバンドと比べても飛びぬけている山口冨士夫のギターソロとサイドギター 

 瀬川洋は「So What」で村八分もいいが、山口冨士夫はダイナマイツ時代がベストと証言。「天国のひまつぶし」でダイナマイツのベースの吉田博が、山口冨士夫ほど練習する人を見たことがないと言っており、改めて山口冨士夫のギターの凄さがわかります。

ザ・ダイナマイツ 恋はもうたくさん 1967年シングルヴァージョン
https://www.youtube.com/watch?v=h0dyLWHtU7c
ストリングスが入るとGS風に趣が変わる


トンネル天国などが海外でも評価の高いダイナマイツ



 1977年12月29日に渋谷の東横劇場で紫のライブ。日本のバンドでルックスで初めて凄みを感じた。ベトナム戦争時代に沖縄コザでもロックが全盛。ベトナム戦争の影響は立川基地のダイナマイツ、横浜本牧のGolden Cups、福生UZUなどにも及んだ。
 
Murasaki (紫) - Mother Natures Plight
https://www.youtube.com/watch?v=4PV1vM7anPw
1979年のミュージックライフの人気投票では、国内グループ部門で紫が1位になる。

 1979年にYAMAHA池袋でジョージ紫のトークライブに行った。寡黙な彼がピアノでタイフーンのシスタージェーンを弾いたので、質問コーナーで緊張しながらなぜ弾いたのですかと尋ねたところ、サングラスをかけたジョージ紫が無言だったのを思い出す。

Tai Phong - Sister Jane 1975年
https://www.youtube.com/watch?v=b0ry-4Z6clw
ジョージ紫は日系米人。タイフーンはベトナム人が2人いた。利根川 裕著「喜屋武マリーの青春」によれば、人を殺したくないと思ったジョージ紫は祖国の沖縄に戻ったという。

ベトナム戦争の問題が深かった沖縄の紫が日本のハードロックの頂点に



 1月20日には渋谷ジャンジャンで、GS時代に山口冨士夫とも交流があった「加橋かつみの透明な世界」のライブ。加橋かつみもタイガースの後は反戦ミュージカルヘアーの主演、ソロアルバムでユーミンの最初の曲を録音したり、演歌にも転向した。

 1月27日に、渋谷エピキュラスのKeyboard Junctionに行く。バッハレボルーションと共演した稲田保雄に30年後に会い、1974年の幻のLP「感覚思考」の話題になった際、彼が昔の日本のロックバンドの中で真っ先に名を上げたのが村八分だった。

 1973年に解散した村八分の影響は1974年にも及び、Music Life1974年3月号の人気投票で、グループ部門で村八分が7位、ギタリスト部門では山口冨士夫(村八分)が8位。前年の1973年で、まだレコードを出していない村八分が15位にランク。

1974年7位。前年1973年(1972年10月〜1973年3月の集計)15位。ライブの評価がいかに高かったがわかる。
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村八分、山口冨士夫がランクインしたMusic Life1974年1月号、3月号(最終結果)
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☆「ぴあ」1978年2月号

 ・2月19日 福生Chicken SchackUチキンシャック 染谷青&シゲセッションバンド

 2月19日に福生Chicken SchackUで、初代村八分ギタリストの染谷青のセッション。福生なので、山口冨士夫と交流があったかもしれません。1月号では「はみだし情報」として欄外に出ていたChicken SchackUが2月号からElectric UZUと並ぶ。

 この1978年のころ、「チャー坊 遺稿集」によると京都のチャー坊は療養中。
 このときの医師が村八分のことを知っていたため信頼関係ができて回復方向に向かい、これが1979年の村八分の再結成につながったようです。
  
 2月19日に渋谷アピアで「ギリヤーク尼ケ崎 津軽三味線に舞う大道芸人」を見て衝撃を受ける。1972年のチャー坊のダンスにも似た妖気があった。また、無名時代の坂本龍一が現代音楽で「坂本龍一個展」のタイトルにインパクト。その後忌野清志郎と共演。


☆「ぴあ」1978年3月号

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1983年から山口冨士夫タンブリングスに参加する元外道の青木正行が福生でライブ

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山口冨士夫タンブリングスに参加する元村八分の青木真一もスピードで福生でライブ

 ・3月3日 福生Electric UZU  青木正行セッションバンド(リョウ)
          ※ 山口冨士夫の参加可能性あり
               → B. 青木正行(外道・解散中)
                  1983年に山口冨士夫・タンブリングスに参加
               →「リョウ」はDr.中野良一(外道・解散中)

 ・3月12日 福生Chicken SchackU スピード
               → G. 青木真一(元村八分・ベース)
                  1983年に山口冨士夫・タンブリングスに参加

 山口冨士夫がセッションをしていた福生で、Electric UZUに1983年に山口冨士夫とタンブリングスを結成する元外道の青木正行、Chicken SchackUに元村八分の青木真一(スピード)が時期を同じくして「ぴあ」に初登場。2店は700m程の距離。

 山口冨士夫は「So What」で、リゾートの後の時期にこう語っています。

 「ちょうどそのころ、外道のリズムセクションだったマサと中野と出会った」
 「ワクワクするような音が聞こえてきて」「思わずウズの中に入っていった」
 「一度だけセッションをした」「外道のライブにも行った」

 そこで、3月3日のElectric UZU「青木正行セッションバンド」に山口冨士夫が参加した可能性があります。その後、青木正行は、山口冨士夫とやったら他とはできないと語り、1987年のタンブリングス解散後は主だった活動はしていないようです。

 青木正行(ベース)は、トゥーマッチの後、1973年に加納秀人(ギター)中野良一(ドラム)と外道を結成。外道は、1974年にはハワイで10万人のフェス、郡山ワンステップロックフェスでも一番受け、ジェフベックとの共演でも勝ったと言われたバンドでした。

 山口冨士夫は、2010年に下北沢で外道(加納秀人)とも共演し、最後に外道の「香り」を一緒に演奏。これが私が最後に見た山口冨士夫のライブでした。外道には、村八分の「逃げろ」に影響を受けたと思われる「逃げるな」という曲もあります。
 
 外道 / 香り
https://www.youtube.com/watch?v=uHfBhJsqrD8

後に山口冨士夫と活動をする外道のメンバー



 3月18日にビートたけしがジャズ喫茶で共に働いた永山則夫の映画「裸の19歳」、3月22日に渋谷ジャンジャンで高橋竹山の津軽三味線を見る。共に貧困の問題があった。3月31日渋谷YAMAHAでカシオペアの無料ライブ。野呂一生は速弾きの極限を追求。


1978年の「ぴあ」にも「山口冨士夫」の名前はみつからなかった
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☆「ぴあ」1978年4月号

 ・4月7日〜9日 Electric UZU ピラミッド(中野良一 青木正行) 
                      UZU Family Band
 ・4月30日 Electric UZU Special day  Magical Power Mako


 Electric UZUに元外道の中野良一、青木正行が結成したピラミッドが出演。外道は1976年に解散後、1979年の加納秀人のソロ『エレクトリック・ウズ』を機に再結成。山口冨士夫が外道を見たのはそのときと思われます。1982年に外道は再び解散。

 
☆「ぴあ」1978年5月号

 ・5月3日 福生Chicken SchackU ROCKERS(スピード、ミラーズ、Mr.カイト)
 ・5月3日、5日 JAPAN ROCK FESTIVAL 日比谷野外音楽堂
     内田裕也with Smiler (大木啓三exダイナマイツ 1983年傷 山口冨士夫)
     近田春夫とハルヲフォン(恒田義見 村八分初代ドラマー)
    デイブ平尾(元ゴールデンカップス ルイズルイス加部)
     陳信輝(元ベベズ、パワーハウス、フードブレイン、スピード・グルー&シンキ)
 ・5月12日 Electric UZU ピラミッド(元外道)
 ・5月24日 屋根裏 ピラミッド 中野良 青木正行
 ・5月26日27日 屋根裏 近田春夫とハルヲフォン
 ・5月30日 日本武道館 ジョー山中 Never give up新しい世界へ


 5月3日と5日に当時は最大規模のJAPAN ROCK FESTIVALが日比谷野外音楽堂であり、内田裕也with Smilerには大木啓三(ダイナマイツのサイドギター、1983年1月1日に山口冨士夫をゲストに傷を結成)が参加。

 ルイズルイス加部と縁の深い横浜の元ゴールデンカップスのリーダーデイブ平尾は自分のライブハウスを経営。陳信輝もライブハウスの経営に乗り出し、これ以後主だった活動は見られない。

トンネル天国 ザ・ダイナマイツ
https://www.youtube.com/watch?v=txyLqyztYXA
ダイナマイツ時代の大木啓三

 5月30日には日本武道館で「人間の証明」がヒットした元フラワートラベリンバンドのジョー山中が単独ライブを行い成功。
 翌1979年5月にジョー山中は、京大西部講堂で再結成した村八分と共演しています。


ジョー山中ライブ。翌年、村八分と共演。




☆「ぴあ」1978年6月号

 ・6月7日 福生 Chicken SchackU スピード(青木真一)
 ・6月3日、10日、18日 Electric UZU Special Guest day 
                   10日は、OZの春日博文がゲストと明記

 6月16日の初台騒ではサタデーナイトに伝説のフリージャズ奏者阿部薫が出演。1970年代後半もフリージャズは盛んだった。阿部薫の死を追うようにジャズ評論家の間章も夭折。山口冨士夫も1992年に山内テツと一度だけフリージャズ的なライブを行う。

 「ぴあ」6月号の表紙はディスコブームに火をつけた「サタデーナイトフィーバー」。ロックも明るいポップスやAORが主流に。高校生、中学生もディスコに行き、新宿歌舞伎町には体育館のようなディスコがいくつもできました。


☆「ぴあ」1978年7月号

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7月1日 福生Chicken SchackU 染谷青(村八分初代ギタリスト)

 ・7月1日 福生Chicken SchackU 染谷青
 ・7月16日 Electric UZU Speed
 ・7月23日 S-KENスタジオ Tokyo Rockers 1978
                   フリクション スピード 

 7月1日に元村八分で山口冨士夫「プライベートカセット」に参加した染谷青が単独ライブ。7月16日には、青木真一のスピードが初めてElectric UZUに出演。7月23日は、後に山口冨士夫に関わるチコヒゲがドラムのフリクションと、スピードが共演。

 7月15日に神奈川県民ホールで、1971年に村八分とPYGで共演し、1975年に音楽活動を再開した萩原健一のファースト全国ツアー。萩原健一+PYGのシングル「戻らない日々」、「ブルージンの子守歌」以降俳優に専念していた。

 7月29日森田童子が聖マリア大聖堂でライブ録音。「ぴあ」では森田童子の新譜の広告がいつも大きかった。平野悠著「ロフト青春記」には、学生運動で挫折した者にとって森田童子は特別な存在だったとある。

森田童子 / みんな夢でありました
https://www.youtube.com/watch?v=uiXDF4jcZXM


山口冨士夫が活動を再開する1983年に新宿ロフトで活動を停止した森田童子



☆「ぴあ」1978年8月号

 ・Electric UZU 「今月はライブをお休みします」の告知

 ・8月6日  S-KENスタジオ フリクション(チコヒゲ) 
 ・8月13日 S-KENスタジオ スピード (青木真一)
 ・8月27日 九段会館 ローリングストーンズ1万人集会 3回フィルムコンサート
 ・8月27日 屋根裏 RCサクセション
 ・8月28日 後楽園球場 矢沢永吉コンサートGoldRush’78 
 ・8月31日 田園コロシアム 沢田研二 ジュリーロックンツアー78

その後山口冨士夫に関わる青木真一(スピード)とチコヒゲ(フリクション)
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 8月27日にまだブレイク前のRCサクセション(1990年に山口冨士夫と共演)が屋根裏でライブ。1971年に山口冨士夫が「世界で一番すごいのはストーンズと村八分だ」と言ったローリングストーンズは1973年の来日中止の後も来日の目途がつかず。

 かつて村八分と「ロックンロールタイトルマッチ」という共演も予定されたキャロル出身の矢沢永吉が後楽園球場でライブ。村八分の唯一のテレビ出演「リブヤング」がキャロルの翌週で、チャー坊はキャロルを意識し村八分のメジャー進出を考えていたようです。


村八分「リブヤング」での「にげろ」「鼻からちょうちん」


 
 村八分と1971年にPYGで共演した沢田研二もまたロック色を強めていき、1980年にPYG時代からの共同制作者井上堯之と別れ、1981年のエキゾチックスではドラムに元村八分の上原ユカリ裕を迎えて、ニューウェーブに突き進んでいきます。


村八分との共演も予定されたキャロル出身の矢沢永吉



☆「ぴあ」1978年11月号 (※ 追加)

1978年11月 屋根裏 スケジュール 豪華ラインナップ
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☆「ぴあ」1978年12月号

   
 ・12月21日 屋根裏 裸のラリーズ
 ・12月24日 沢田研二 Julie in 武道館
 ・12月28日 中野サンプラザ「ウルトラコンサート」ジョニー・ルイス&チャー
             デビューコンサート → 中止
 ・12月29日 Electric UZU Special Guest day
 ・12月31日 浅草ニューイヤーロックフェスティバル 
         内田裕也スマイラー(大木啓三 元ダイナマイツ)
         加納秀人(外道は解散中)

12月28日中野サンプラザ「ウルトラコンサート」ジョニー・ルイス&チャー 
山口冨士夫とのリゾート解散後2年、ルイズルイス加部の活動も本格化
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 パンクに触発されてか、日本でもチャーが歌謡曲路線から脱却し、山口冨士夫のリゾート解散後のルイズルイス加部とジョニー・ルイス&チャーを結成。グループサウンズ、ニューロックの後、フォーク、歌謡曲に押されたロックが再び活動活発に。

 セックスピストルズは、パンクの仮面をつけたプログレファンで、クリストーマスはピンクフロイドのプロデューサー。古い世代にも火をつけ、キングクリムゾンのロバートフリップも活動再開。チャー坊はキングクリムゾンの全LPのファンだった。 

 ※山口冨士夫も初期パンクについて「ピストルズなんかは別だけど」と述べている(「So What」新版P132)

 「So What」で、山口冨士夫はこのころについて
「しばらくバンドはやりたくなかった」
「山奥で音作りをしていた」と言っています。

 1979年春にチャー坊が山口冨士夫に電話で「バンドやろうけ」と村八分の再結成を持ちかけたのも、山口冨士夫が「もう一度やってみようと思った」というのも、1978年の内外のロックの動きの影響があったのではないかと思います。

 次回山口冨士夫と情報誌「シティロード」11回目は、1979年の「ぴあ」を見てみます。

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2018年05月11日

山口冨士夫と情報誌「シティロード」H 1976年と1977年の「ぴあ」など

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「ぴあ」1977年12月号 1975年にできたロックライブハウスの福生Electric UZU
山口冨士夫の出演可能性があるElectric Specialなどのセッションの告知


今日の1曲
 リゾート(山口冨士夫&加部正義)
                 / One more time (Them cover)1976年
 シュガーベイブ(村八分2代目ドラマー上原裕)
                      / ダウンタウン1976年3月31日 
 サンハウス(鮎川誠) / LP有頂天 1975年
 近田春夫とハルヲフォン(村八分初代ドラマー恒田義見)
                      / ファンキーダッコNo.1  1975年
 The Sex Pistols - Anarchy In The U.K 1977年


左から「ぴあ」1977年12月号、10月号、8月号
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 山口冨士夫と情報誌「シティロード」は、前回の1980年からさらに遡って、1977年8月号から1980年12月21日号まで断続的に購読した情報誌「ぴあ」を見てみました。
 このころの「ぴあ」には、山口冨士夫の名前はみつかりませんでした。

 そこで、山口冨士夫著「So what」等をてがかりに、山口冨士夫や村八分に関連するミュージシャンについて振り返ってみたいと思います。今回の第9回目は、山口冨士夫が加部正義とリゾートを組んだ1976年から1977年までです。


★1976年 (「ぴあ」「シティロード」)

・1976年8月27日 渋谷エピキュラス リゾート(山口冨士夫、加部正義)
・1976年8月30日 渋谷パレス座 リゾート(山口冨士夫、加部正義)
・1976年12月11日 新宿ロフト 
     「リゾートFuturingフューチャリング山口冨士夫・ルイズルイス加部」

 山口冨士夫は、1974年に発売した「ひまつぶし」とZOONというバンド活動のあと、1976年に元ゴールデンカップス、フードブレイン、スピード・グルー&シンキのルイズルイス加部とリゾートという伝説のバンドを作ります。

リゾート(山口冨士夫&加部正義) / One more time (Them cover)
https://www.youtube.com/watch?v=LhzznWdoQRw
from live 1976。 ゴールデンカップスのドキュメンタリー映画のタイトル曲でもあった
 
 白夜書房「日本ロック史」の山口冨士夫インタビューによると、リゾートは「ひまつぶし」にも入っていないオリジナル曲を演奏し、ライブをした渋谷パレス座は屋根裏の近くの映画館だったそうです(西武百貨店B館並び。現在閉館)。

 リゾートは8月27日に渋谷エピキュラスでライブをしています。エピキュラスには1度だけシンセサイザーのライブに行きました。坂を上った所にあり、クラブチッタやOn Airのような雰囲気もある近代的なライブハウスだったと記憶しています。


伝説のリゾートの1976年ライブCD 



 1977年8月まで、私はまだ「ぴあ」も「シティロード」も買っていませんでしたが、渋谷エピキュラス、ロフト、屋根裏のリゾートのスケジュールについては、1976年の「ぴあ」「シティロード」のいずれにも掲載されていたと思われます。

 平野悠著「ライブハウス ロフト青春記」が非常に貴重な資料になります。「ロフト青春記」では、1944年生で学生運動出身のジャズファンだった著者が1970年代前半からロックに関心を持ち、いかにライブハウスを作りあげたかが語られています。

 「新宿ロフト」では、1976年12月11日の「リゾートフューチャリング山口冨士夫・ルイズルイス加部」の告知があり、当時のスケジュール表も「ロフト青春記」掲載されています。屋根裏の常連だったリゾートを著者の強い決断でロフトに招聘したとのこと。

現在の「新宿ロフト」のスケジュール
http://www.loft-prj.co.jp/LOFT/index.html
1976年のリゾートが出た12月は、たった11組しか出演していないが、Char、オフコース、サディスティックスなど後にビッグネームになる人ばかり。

1976年12月の「リゾート」掲載のスケジュール表あり



・1976年3月31日 荻窪ロフト シュガーベイブ ラストライブ
         (ドラム : 村八分の2代目ドラマー上原ユカリ裕)

 1976年3月31日に「荻窪ロフト」でシュガーベイブのラストライブが行われています。
このときのドラムが村八分のCD「くたびれて」「ぶっつぶせ」のときの2代目ドラマーだった上原ユカリ裕でした。シュガーベイブでも2代目のドラマーでした。

 1977年7月31日にも「下北沢ロフト」で、Special Jamとして上原裕は、山岸潤史(G)、山下達郎(G)とライブをしています。上原裕はその後、沢田研二のエキゾチックスなど、日本人で彼のドラムを聞いたことがない人はいないと言われるほど活躍します。

左から、山下達郎、大貫妙子、上原ユカリ裕(元村八分)
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 山下達郎はシュガーベイブ時代に、硬派なロックファンから野音で石を投げられたそうです。しかし、山下達郎は、自分の歌を批判した雑誌編集部に抗議に行ったり、大貫妙子にも村八分のチャー坊のような佇まいの写真があり、強い意志を感じます。    

シュガーベイブ / ダウンタウン 
https://www.youtube.com/watch?v=a9fRcNeMMAo&index=3&list=RDCHZSXMZneMs
1976年3月31日 ラストライブ 荻窪ロフト


シュガーベイブ 大瀧詠一(福生在住)のナイアガラレーベルから発売
 


・1976年8月13日「荻窪ロフト」サンハウス

 1976年8月13日には、山口冨士夫のファンで1986年に共演する鮎川誠のサンハウスが上京し「荻窪ロフト」でライブ。鮎川誠は、村八分、ひまつぶしも聴いていたそうです。この時点では、山口冨士夫と加部正義のリゾートを知らなかったようです。

サンハウス - ロックンロールの真最中・レモンティー
https://www.youtube.com/watch?v=LY6jXuBAlDI
全盛期の貴重ライブ映像 1975年8月22日 兵庫県・阪神競馬場


サンハウスの1stアルバム有頂天



 「ロフト青春記」によると、「ぴあ」は1971年に創刊され、「いつどこで何が行われるか」を重視していたのに対し、「シティロード」は1972年に創刊され、批評性を重視していたと書かれています。しかし、「ぴあ」においても映画に対しては強い批評性がありました。

 私は1982年8月号から「ぴあ」は月刊でなく隔週刊になっていたため、1か月先の予定がわかる「シティロード」に変えました。1983年から山口冨士夫を推していた「シティロード」を読んでいなかったら、山口冨士夫のことは一生わからなかったかもしれません。

 ロフトが発行していた月刊誌「ルーフトップ」の1983年5月号は、5月1日と2日に連日ライブ「酔いどれ天使たちへ。大物ゲスト多数」を行う山口冨士夫を表紙にしています。1983年4月の山口冨士夫の「Ride On」発売時のフライヤーと同じ顔のデザインです。

 「ロフト青春記」を読むと「シティロード」「屋根裏」だけでなく、「ロフト」が、特別な思いで1976年のリゾートのときから1983年まで、山口冨士夫を注目、支援していたことがわかります。


☆「ぴあ」1977年8月号

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福生のElectric UZUで8月27日と28日「スペシャルデイ」
山口冨士夫出演の可能性がある

・1977年8月27日28日 福生Electric UZU スペシャルデイ

・1977年8月13日14日 夕焼け祭りVol.4 裸のラリーズ
・1977年8月20日21日 ロックグライド富士野外音楽堂 裸のラリーズ
・1977年8月20日 渋谷エピキュラス 「ロックンロールパーティ」
             近田春夫とハルヲフォン(ドラム : 村八分初代ドラマー恒田義見)

 私は「ぴあ」を1977年8月号から買いました。8月号を探すと、8月27日と28日に福生のElectric UZUで「スペシャルデイ」とあります。出演者の名前は出ていませんが、山口冨士夫の出演の可能性があると思います。

福生UZUのHistory
http://uzu69.com/history/

山口冨士夫は「So What」で、リゾートを解散した後に、以下のように言っています。

 「福生のライブハウス『エレクトリックウズ』に3-4回出た」
 「アマチュアにもすごいシンガーやギタリストがたくさんがいたから、そういった人たちとちゃんと練習して出ていたんだ。はたから見ればセッションに見えたかもしれないけれど、人前でやるからには、ある程度ちゃんとしたことをやりたかったからね」

 また、1986年に山口冨士夫の「プライベートカセット」に参加し、Teardropsのレコーディングやライブにも関わったチコ・ヒゲも「So what」で、1977年にウズで山口冨士夫と3曲だけセッションをしたと言っています。白夜書房の山口冨士夫のインタビューによると、そのときは夜中の12時に始めたため3曲で警官が来て止められたそうです。


1986年山口冨士夫の「プライベートカセット」
 


 あの頃、「ぴあ」の中でも福生のElectric UZUは私には特殊な世界に思えました。1976年の芥川賞受賞作の村上龍の「限りなく透明に近いブルー」や、1976年頃にテレビで見たマジカルパワーマコの不思議なイメージがあったからだと思います。

 1970年の村八分の母体で、1980年に山口冨士夫が参加した裸のラリーズは、1977年8月13日14日の「夕焼け祭りVol.4」と1977年8月20日21日の「ロックグライド富士野外音楽堂」に2週続けてオールナイトライブに参加しています。

1977年8月13日14日「夕焼け祭りVol.4」  泉谷しげるも裸のラリーズを見たとのこと
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 8月20日には、前年にリゾートがライブを行った渋谷エピキュラスで、「ロックンロールパーティ」のイベントに、村八分の初代ドラマーの恒田義見がいた近田春夫とハルヲフォンが出演しています。

 恒田義見は、1970年に富士急ハイランドに出演し、村八分がまだ裸のラリーズを名乗っていた頃のドラマーで、1971年まで1年半在籍しました。1975年のハルヲフォン最初期のファンク時代のLIVE映像では素晴らしいグルーブ感を出しています。

ハルヲフォン / ファンキーダッコNo.1 ドラムス恒田義見 1975年貴重映像
https://www.youtube.com/watch?v=VvEP6OQyRbM
和製リン・コリンズ&JBsとも言える素晴らしいグルーブ感


1970年8月「裸のラリーズ」(水谷孝、チャー坊、山口冨士夫、恒田義見)の写真が掲載



 恒田義見は、現在和太鼓の名手として活躍しています。
 ブログでは、山口冨士夫追悼イベントへの出演や村八分2代目ドラマー上原ユカリ、
4代目村瀬シゲトとの出会いについて語っています。

恒田義見ブログ 「俺達は、....ドラマー達は元気にしているよ」
https://blog.goo.ne.jp/cohan2005/e/ef08ce5ec53a914420987fc7110de8a7


ハルヲフォン1975年-1977年ライブ ドラム恒田義見



 1977年8月号のころは、ニューミュージックが台頭し、チャー、矢沢永吉などロックが商業的に成功。77・8・8Rock Dayでは紫が登場して、8月13日にもコンディショングリーンが中野サンプラザでライブを行い、沖縄ロックのインパクトは最強でした。

 「ぴあ」でも、当時はアングラ(アンダーグラウンド)系がまだ根強く、映画ではルイ・マルの「鬼火」の大きな広告がインパクトがあり見に行きました。暗黒舞踏、小劇場(状況劇場、天井桟敷、黒テント)、自主制作映画が盛んでした。


☆「ぴあ」1977年10月号

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・1977年10月22日 下北沢ロフト「ダイナマイトセッション」
                       ゲスト:ルイズルイス加部

 山口冨士夫とのリゾートの解散後、ルイズルイス加部もピンククラウド(JL&C)加入前には、いろいろな人たちとセッションを組んでいたようです。
 おそらく横浜ではもっと活動していたのでしょう。

 このころの「ぴあ」のMusic Spotのスケジュールのコーナーを見るとロックのライブハウスの少なさに驚かされます。100軒位のライブスポットで、大音量で演奏をするロックライブ専門は、屋根裏、ロフトぐらい。あとロックが出ているのは、UZUなど10軒程度。

 このころは、フォーク弾き語り、歌謡ポップス、ジャズ、シャンソン、カントリーなどが主流で、当時ロックがいかにマイナーだったかがわかります。屋根裏、ロフトのスケジュールを見ると、サザンなど今でも活躍する人たちが500円〜800円で見れた。

 サザンなども店でバイトをしながら、ライブではお客さんがほとんど入らなかったといいます。当時ロックをやっていたのは本当に音楽が好きな少数の人たちだったようです。1960年代後半のグループサウンズブームがいかに大きかったかがわかります。 


☆「ぴあ」1977年12月号

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「ぴあ」1977年12月号「屋根裏」「ロフト」(荻窪→サザン出演、新宿、下北沢)
「ジャンジャン」など。40年前はロックがまだマイナーなジャンルだったことがわかる。

 ・1977年12月27日〜30日 福生Electric UZU Electric Special
 ・1977年12月31日 Electric UZU Special all night

 ・1977年12月2日 屋根裏 サンハウス(鮎川誠)→翌1978年3月25日解散
 ・1977年12月21日 屋根裏 裸のラリーズ
 ・1977年12月26日 労音会館 「アルファルファ・ロックフェスティバルvol.4」
            出演:染谷青&ジョイ (染谷青は、村八分の初代ギタリスト)


 12月27日〜30日にも福生Electric UZUで出演者の記載のない「Electric Special」という匿名性の高いライブがあり、山口冨士夫の出演の可能性があります。
 31日にも「Special all night」が企画されています。

 白夜書房「日本ロック史」のインタビューで山口冨士夫は、こう語っています。

 「バンド活動がメインじゃなくて、いろんな奴といろんな付き合いをしながらって状態でしたね」 「福生とかで。」
 「本当はね、いいミュージシャンとか本当のシンガーとかって隠れてるんですよ」
 「ヒッピーにもすっごいポリシー持ってやってる人たちとか、本当多いんですよね。
 で、そういう人たちとやってました」

 12月26日に労音会館のライブで、「染谷青&ジョイ」が出演。染谷青は1970年の村八分結成時の初代ギタリスト。山口冨士夫が「So what」でも高く評価していたブルースギタリストで、山口冨士夫「プライベートカセット」でも20分の「ストーン」で共演。

「ぴあ」12月号 (イギリスの村八分?)セックスピストルズ「勝手にしやがれ」の広告
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  「ぴあ」12月号にセックスピストルズ「勝手にしやがれ」全世界同時発売の広告が出ています。セックスピストルズを初めて聞いたとき、チャー坊が「あっ、村八分だ」、Charが「これって村八分じゃん」と言った話があります。

 時系列でみると、Sex Pistols が村八分再結成の大きな要因の一つに思えます。
 「So What」でも、1979年に村八分を再結成したときに、山口冨士夫はチャー坊と「面白い奴らが出てきたなあ」と話していたとあります。

The Sex Pistols - Anarchy In The U.K
https://www.youtube.com/watch?v=cBojbjoMttI





 1977年には異端だったロックのライブハウスが、パンクブームと1980年代後半のバンドブームで活気づいたことがわかります。この波の中で山口冨士夫が、村八分、裸のラリーズ、タンブリングス、Teardropsと変遷したのはとても深いことだと思います。


 次回の山口冨士夫と情報誌「シティロード」10回目は、1978年と1979年の「ぴあ」を見てみます。

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2018年05月02日

山口冨士夫と情報誌「シティロード」G 1980年10月号〜1981年3月号 

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左:神奈川大学1980年11月7日裸のラリーズ 右:学園祭出演時の山口冨士夫

今日の1曲
 裸のラリーズLes Rallizes Denudes "White Waking" 1980年
 Popol Vuh - Letzte Tage, Letzte Nachte 1976年
 シーナ&ロケッツ レモンティー 

 
 特集・山口冨士夫と情報誌「シティロード」の第8回目は、前回の1980年8〜9月号に続いて、10月〜12月号、そして1981年1月〜3月号の山口冨士夫が裸のラリーズに参加した時期を振り返ってみます。


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1981年3月で、山口冨士夫は約1年参加した裸のラリーズを脱退する


★「シティロード」1980年10月号

 ・1980年10月29日 屋根裏 裸のラリーズ 山口冨士夫参加

 ・1980年10月3日 シーナ&ロケッツ 海老名文化会館


 渋谷屋根裏において、8月、9月に続いて10月29日に山口冨士夫が参加した裸のラリーズ 3回目のライブがありました。月1回ですので早いペースです。このころは、私は山口冨士夫を知りませんでした。
 
裸のラリーズLes Rallizes Denudes "White Waking"
https://www.youtube.com/watch?v=JavSBbVpwok
1980年8月14日

 このころの裸のラリーズの2人のギターサウンドは、やはりダブルギターだった1970年頃のドイツのAmon DuulUや、一人でダブルギターを多重録音していた1976年頃のPopol Vuhを思い起こさせます。

Popol Vuh - Letzte Tage, Letzte Nachte 1976年
https://www.youtube.com/watch?v=i2JnTD4rooc





 10月3日には、シーナ&ロケッツの海老名文化会館でのライブがありました。おそらく、私がシーナ&ロケッツを見たのはこの日です。1982年のタイガースや1983年4月の山口冨士夫の前に見ていたことに今回気づきました。
 
 非常に思い出の深いライブでした。
 2階席の隅で聞いていたときに、鮎川さんが「もっと前においで」と手招きされたことに感動しました。

シーナ&ロケッツ レモンティー
https://www.youtube.com/watch?v=bzWOPaFX1so
https://www.youtube.com/watch?v=fhuGM5MuYY0

 10月号は、シーナ&ロケットのインタビュー。鮎川誠は「バディーホリーを聞いたら驚くことばかり。ロックンロールは古くならん、ほんとにいいもんならね」「新しいもんはゾクゾクするね。でも3日経ったら古くなる。その中から残る。」と熱く語っています。


1980年は「ユーメイドリーム」がヒット



★「シティロード」1980年11月号

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11月23日法政大学オールナイトライブの告知


 ・1980年11月7-8日 神奈川大学「100時間劇場」オールナイト
                      裸のラリーズ(山口冨士夫参加) シーナ&ロケット
 ・1980年11月23-24日 法政大学ホール オールナイト
                「Imaginative Garage for ストリート シンジケート」
                      裸のラリーズ(山口冨士夫参加)

 11月は2つの学園祭のオールナイトのライブに裸のラリーズは出演しています。「So what」によると、「屋根裏のライブは満員で、特に法政大学での動員数はすごかった」とあります。

 神奈川大学では、裸のラリーズの出演した翌日にシーナ&ロケットやパンタ&HALが出演しています。このときは、鮎川誠も山口冨士夫の裸のラリーズへの参加を知って意識していたでしょう。

 11月30日には九段会館でもシーナ&ロケットはライブをしています。
 さらに11月15日にも神奈川大学でオールナイトのライブがあり、青木真一(元村八分、後にタンブリングス)のフールズが出演しています。

神奈川大学での裸のラリーズのライブ



★「シティロード」1980年12月号

 ・1980年12月23日 屋根裏 裸のラリーズ(山口冨士夫参加)

 1980年12月23日に再び屋根裏で、4回目の山口冨士夫が参加した裸のラリーズのライブが行われています。
 このあと、しばらくライブが途絶えます。  


★「シティロード」1981年1月号 

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※1980年12月31日 裸のラリーズ(予)との告知 

 ・1980年12月31日 新宿ニューヨークシアター 「Last of Tokyo’80」
                  「裸のラリーズ(予)」と告知
                                → 出演せず

 1980年12月31日に新宿ACB会館のニューヨークシアターで「Last of Tokyo’80」というオールナイトイベントがありました。出演する12バンドのうち、裸のラリーズだけ「(予)」という告知でしたが、結局出演はなかったようです。
 
☆「シティロード」1981年2月号 
                   → 裸のラリーズ(山口冨士夫参加)告知なし

★「シティロード」1981年3月号

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1981年3月23日 屋根裏「未定」と記載 裸のラリーズ(山口冨士夫)の最後のライブ     


 ・1981年3月23日 屋根裏 裸のラリーズ(山口冨士夫参加)
     「シティロード」3月号では、「未定」と記載
      
 ・1981年3月5日〜6日 屋根裏 シーナ&ロケット


 1981年3月23日の屋根裏を最後に山口富士夫は裸のラリーズを脱退します。
 「シティロード」でも1982年の11月号に「フールズ ゲスト山口冨士夫」が出るまで告知がなくなります。

 
※RCサクセションが1位 1980年「シティロード」読者選出ベストテンアルバム部門
1988年に山口冨士夫は、RCサクセションの「カバーズ」に参加。
忌野清志郎もダイナマイツ時代からの山口冨士夫のファンだったのだろう。
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次回は、山口冨士夫と情報誌「シティロード」9回目。
 1980年からさらに遡って、当時購読していた1977年から1979年の「ぴあ」の頃を見てみたいと思います。

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2018年04月25日

山口冨士夫と情報誌「シティロード」F 1980年8月〜9月号 

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山口冨士夫が初参加した1980年8月14日屋根裏・裸のラリーズの告知


今日の1曲
 Les Rallizes Dénudés (裸のラリーズ) 造花の原野
                             1980年 Double heads
 Harold Budd / Brian Eno – The Pearl 1984年
 Uno / Uno nel Tutto 1974年

 特集・山口冨士夫と情報誌「シティロード」の第7回目は、前回の1984年後半(11月〜12月号)から4年遡って、裸のラリーズに参加した1980年の8〜9月号の頃を振り返ってみます。


★「シティロード」1980年8月号 

 ・1980年8月14日 屋根裏 裸のラリーズ 
                   → 山口冨士夫が裸のラリーズに参加した最初のライブ



 
 山口冨士夫は1979年京都での村八分の再結成の後に、1980年に裸のラリーズに参加。1990年に「So What」を読み、1970年に「村八分」がバンド名のないころは「裸のラリーズ」と名乗っていたことを知って驚き、繋がりがわかりました。 

 ”きたな!”ってオレは思ったよ。
 ”村八分のあとはラリーズか”ってね
 「相手にとって不足はないという感じだったな」(So whatより)
 
 1980年のシティロードの「アーティストIndex」は、1982年の「3分の1」の量しかなく、8月号の「は」行を見ても裸のラリーズはありません。ネット検索もない時代、シティロードやぴあで屋根裏の「裸のラリーズ」の1行を探すのが貴重な情報源でした。

 また、1980年8月号には、「あの村八分の山口冨士夫が裸のラリーズに参加」といった1983年のような記述はありません。昔からのファンの口コミでしか、山口冨士夫が裸のラリーズに参加したことを知る手段はなかったと思われます。

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シティロード1980年8月号と9月号

 1991年の裸のラリーズの公式CDリリース以降、最近やっと山口冨士夫が参加した1980年の幻の音源が聞けるようになりました。「So what」で山口冨士夫は、自分がいたころのラリーズが、「一番ポップだったんじゃないかな」と言っています。

 そのため、ずっと「明るい」裸のラリーズという先入観がありました。しかし、Double HeadsのライブCDの音源を聞いて驚きました。山口冨士夫がダイナマイツ時代に培ったポップさが、逆に裸のラリーズの重さを引き出しているように思えます。

 1980年の「造花の原野」を聞くと、「ギターはサイドだ」と言った山口冨士夫の唸るようなリズムギターとリフ、ときに水谷孝とダブルリードギターになるところなど筆舌に尽くしがたい。すごみだけでなく、美しさがあります。

 この「造花の原野」は短期間で作れるものではないでしょう。
 「3か月ぐらいはスタジオに閉じこもった」
 「ラリーズは建築物のようでもあった」と言っていた意味がわかります。

Les Rallizes Dénudés (裸のラリーズ) 造花の原野
https://www.youtube.com/watch?v=HOUqOAL-utM
7分間の中にあらゆるギターの可能性が詰め込まれている。
1980年8月14日の屋根裏の1曲目か。

裸のラリーズ Double heads

 

 また、「So What」新版を読んでいて、旧版と違うなと思ったので比べてみました。言葉使いが柔らかくなっていたり、旧版ではここは言いすぎかなと思えていた部分が削られているなど、山口冨士夫が細かい部分に気を使っていたことがわかりました。

 裸のラリーズについて、山口冨士夫は、「時代は80年代はじめだぜ!世間の動きはニュー・ウェイブ真っ盛りさ! 正直言ってワクワクしたよ」と、ニューウェーブにも目を向けていたことがわかります。

 シティロード1980年8月号では、山口冨士夫が関心を持っていたというブライアン・イーノのAmbient2など新譜が2枚紹介されています。イーノの「環境音楽」シリーズという分野が軌道に乗ってきたころでした。
 
Harold Budd / Brian Eno
https://www.youtube.com/watch?v=6-Zj4LvNvqo&list=PL5CC786FE9C94E2A0
イーノ関係では1984年のこの作品が一番聴きやすいと思う。


Harold Budd / Brian Eno -



 1980年8月号では平岡正明による桑田佳祐のロングインタビュー。お道化でなく鋭い目をしている。サザンが屋根裏の常連だったころ裸のラリーズを見たかもしれない。山下達郎より少し下の世代の桑田佳祐は村八分や山口冨士夫をどう思っているのだろうか。
 
 あの最も苦しかった1980年の夏、イタリアの1974年のUnoが、同年の山口冨士夫「ひまつぶし」のようにいいLPで、よく頭の中で鳴っていました。Osannaと村八分は、活動年代や顔へのメイク、1973年の分裂と1979年の再結成など共通点がありました。

Uno / Uno nel Tutto (1974)
https://www.youtube.com/watch?v=SMCPVjfo1DM&list=PLn6IUYFGu6PJzXjqO7muvREpv58yHNu5Y&index=6
Osannaから分裂しインターナショナルな成功を目指したUno。一人はドラッグで廃人になってしまったという。Goodbye friendでは「ピンクフロイド / 狂気」の女性シンガーLiza Strikeが参加。


Uno / Uno



村八分(1972年)とOsanna(1971年)のメイク
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★「シティロード」1980年9月号

 ・1980年9月11日 屋根裏 裸のラリーズ 
                       → 山口冨士夫参加           
 ・1980年9月16日 屋根裏 シーナ&ロケット 1000円 前売りあり
 ・1980年9月29日 屋根裏 フールズ(元サイズ+スピード)
                       → 青木真一G. (ex 村八分)初ライブ

 ※1980年9月 Mars Studio(レコーディング) 裸のラリーズ 山口冨士夫参加


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右から2列の途中までが「屋根裏」(3回クリックしていくと拡大します)
11日裸のラリーズ、16日シーナ&ロケット、29日フールズ


 1980年9月の屋根裏のスケジュールを見ると、山口冨士夫が裸のラリーズを脱退した後に、一緒に演奏するフールズ、シーナ&ロケットが出演していた。 
 彼らは、すでに山口冨士夫の近いところにいて待っていたように見えます。

 裸のラリーズへの参加の誘いを断ったという元村八分、スピードの青木真一は、フールズを結成し、29日の屋根裏が初ライブ。伊藤耕以外の3名は、後に山口冨士夫のTeardropsのメンバーになります。

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久保田真琴(ex裸のラリーズ)のサンセッツと屋根裏でのシーナ&ロケットの告知

 鮎川誠と特にシーナはダイナマイツの熱狂的ファンで、家出してまで東京までGSを見に行ったそうです。ロケットがバンドで上京したときも、周りから山口冨士夫のことを聞かされていたとのこと。

 夏に武道館公演をしたシーナ&ロケットが、屋根裏に16日に初出演しています。
 このときに「11日」に出演した「裸のラリーズ」に山口冨士夫が出演していたことを彼らは知っていたのか気になるところです。  

 久保田真琴は、1970年代初期に裸のラリーズに参加していましたが、並行して夕焼け楽団のような音楽を作り、1984年にサンディー&サンセッツとしてヒットしました。1990年に山口冨士夫のTeardropsのMixin Loveをプロデュース。

 裸のラリーズは、Mars Studioで9月4日から9日に録音したものの、レコードでリリースされませんでした。CD「Mars Studio」は「Double Heads」ライブのような轟音ではなく、穏やかな曲調のものも多く裸のラリーズの別の側面がわかります。

Mars Studio




(追記) Music Life 1973年11月号
              → 裸のラリーズ参加 「エレクトリックピュアランド」コンサート評

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Music Life1973年11月号 裸のラリーズ 
4ページしかない日本のRock Popsの記事の中に、荒井由実の1st、矢沢永吉インタビュー、内田裕也with沢田研二・ジョー山中、頭脳警察などが詰め込まれている。
11月号の月間ベストアルバムは、PFM / 幻の映像
 
 Music Life1973年11月号は、最初に買った思い出深い雑誌。「エレクトリックピュアランド」のコンサート評で、裸のラリーズについて、「LP『オズデイズ』とは違って聞こえた。やはりレコードという平面ではラリーズは真価を発揮できないかもしれない」とあります。

 しかし、今は裸のラリーズのCDもデジタル化で立体感のある音になり、動画でヘッドホンで大音量で聞けばライブに近い体験ができるようになりました。
 海外からも、これが40年前の音かと絶賛されています。

 Music Lifeの矢沢永吉のインタビューでは、タイガースが残したものは大きいと言っているのが印象的です。キャロル側からキャンセルしたという「ロックンロール・タイトルマッチ キャロル対村八分」という幻のライブが、1973年には予定されていました。





 シティロード1980年9月号に戻ると、萩原健一のインタビューがいい。「So What」によるとダイナマイツ時代は山口冨士夫とよく喧嘩していたとのこと。GS世代は「一夜にして人気がなくなったり、1回挫折した人間が多いからわかりあえる」と語っています。 

 ショーケンも沢田研二とのPYGのときに、京都大学西部講堂で村八分と共演。
 テンプターズもデビュー前は中川三郎ディスコテック専属で、モンスターズのような本格的バンドでした。ショーケンは芸能界の色に変えられてしまったと嘆いていました。

 ダイナマイツから村八分に移った山口冨士夫を西部講堂で見て、ショーケンも影響を受けたのではないだろうか。
 「傷だらけの天使」の再放送のショーケンを見て、ふとそう思いました。

 ショーケンは、ジョー山中が癌になったときのクロコダイルでの支援ライブで初めて見ました。かっこよかったです。亡くなったお姉さんなどのためにお遍路参りをしているというショーケンは、山口冨士夫の死をどのように感じたのでしょうか。

次回の山口冨士夫と情報誌「シティロード」8回目は、1980年10月号以降になります。

 



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2018年04月17日

山口冨士夫と情報誌「シティロード」E 1984年後半(11月号〜12月号)

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「おさらば」の歌詞のようについに1984年末、山口冨士夫の活動が一度停止してしまう


山口冨士夫 / おさらば (LP「ひまつぶし」で唯一、山口冨士夫が作詞もした曲)

  「やっと ここともおさらばします」
  「色んな奴らに 出逢ったけれど」
  「やっぱり こことも おさらば」


今日の1曲
 山口冨士夫 / おさらば 1974年
 山口冨士夫 / 泣きたい時には 1974年
 加部正義 / ムーン・ライク・ア・ムーン 1983年
 ゴールデンカップス / 銀色のグラス 1967年
 村八分 / あっ 1971年 
           from 『村八分 / くたびれて (2018 remaster)』
 The Rolling Stones
         / Jumpin' Jack Flash (Get Yer Ya-Ya's Out!)1969年
 ジョー山中 / 人間の証明 1978年
 浅川マキライブ 池袋文学座ル・ピリエ 1984年
 裸のラリーズ / The last one 1984年


 特集・山口冨士夫と情報誌「シティロード」の第6回目は、前回の1984年後半(9月〜10月号)に続いて、今回は1984年の11号と12月号の頃を振り返ってみます。
山口冨士夫と同世代の尊敬するアーティストの1984年の活動にも触れました。


★「シティロード」1984年11月号


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Foolsレコード発売記念ライブで「ゲスト山口冨士夫 必殺のラインナップだ」と紹介


 ・11月3日  屋根裏 タンブリングス(山口冨士夫バンド)
 ・11月17日 ライブイン Foolsレコード発売記念 ゲスト「山口冨士夫Band」
 ・11月24日 オールナイト 法政大学ホール( 山口冨士夫出演可能性あり )

 
 青木真一が結成・在籍し、1982年11月の山口冨士夫の復活の切っ掛けを作って以来、山口冨士夫と行動を共にしてきたFools。
 そのFoolsの11月17日のレコード発売記念ライブは、シティロードでも「ゲスト山口冨士夫 必殺のラインナップだ」と紹介。Foolsの伊藤耕も最近亡くなりました。





 11月24日の法政大学ホールの山口冨士夫の出演については確かではありません。
 しかし出演者が、フールズ、少年ナイフ、ローザ・ルクセンブルグ 「他」とあり、
 また、山口冨士夫「So What」に「秋の法政大学を最後に一人旅に出た」とあります。

 さらに、翌12月の法政大学ホールのライブに山口冨士夫は欠席しています。
 以上からすると、この11月24日に山口冨士夫が出演したものと推測されます。シティロード11月号は学園祭特集で、「今年もロックの硬派は法政だ」と書かれています。

 11月1日明治大学は「チャボvsチャー」の企画でピンククラウドとチャボバンドが出演。
 山口冨士夫と1976年にリゾートを組んだルイズルイス加部は1978年から1994年までピンククラウドで活動、1980年代は毎月大きな会場でライブがありました。

 私もこのころ本多劇場の下北沢音楽祭でピンククラウドを見ました。山口冨士夫も加部正義を意識したと思います。1979年に村八分の再結成に山口冨士夫が「おれは賭けた」というのは、「ジョニー、ルイス&チャー」に触発されたのではないかとも思います。

resort(山口冨士夫&加部正義) trailer
https://www.youtube.com/watch?v=RQFcGvd9Quc


ついに世に出た伝説のバンド「リゾート」の1976年のライブ



 ピンククラウド関係の中でも、山口冨士夫のEP「ライドオン!」の直後の1983年7月に発売された加部正義のソロLP「ムーン・ライク・ア・ムーン」は傑作でした。
 本来はギタリストの加部正義が書き溜めていたと思われる名曲、名リフが多い。

 このLPは「ひまつぶし」のようによく聞きました。Gentle Giant / In a glass houseのようにガラスの割れる音から始まる。「ムーン・ライク・ア・ムーン」はPink Floydのように音が広がるインストロックでした。

 このLPの音や銀色のグラスなどのゴールデンカップスに憧れて、横浜の本牧に一人旅をしたのもこのころでした。伝説のクラブ「ゴールデンカップ」も見ました。いろいろなことを思い起こすと、懐かしく感傷に浸ってしまいます。
 
MASAYOSHI KABE - ONLY THE YOUNG
https://www.youtube.com/watch?v=cCIOYpRN0DA
アルバム最後のリラックスした名曲。EmtidiのSaatと同じコード進行。青春の終わり。


1983年5月の山口冨士夫のEP「ライドオン!」の後、1983年7月に発売



 11月23日には、1971年に頭脳警察、1972年に村八分が出演した慶應大学三田祭で、PANTAのライブがありました。PANTAは、レコーディング中に病によって倒れてしまったという問題作「16人格」を8月に発表したばかりでした。

 1960年代に山口冨士夫にブルースバンド結成を持ちかけたPANTA。彼もソロの時代はラブソング集に以前のファンから批判を受けたり、山口冨士夫と同様、方向性に苦しんだ時期があったと「団塊の世代」特集のインタビューで語っていました。





★「シティロード」1984年12月号
 

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12月21日 「タンブリングス+ゲスト:鮎川誠」 山口冨士夫が再び欠席してしまう。
1983年5月にルイードで山口冨士夫と対バンだった安全地帯がブレイク

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12月22日は裸のラリーズ
2年続いた山口冨士夫、裸のラリーズの法政大学ホールでのクリスマス連日ライブ。


 ・12月8日 東福生 SUNSHINE UZU
             タンブリングス(山口冨士夫 青木真一 青木正行 小林秀弥)
 ・12月21日(金)法政大学ホール  タンブリングス ゲスト:鮎川誠 
                             山口冨士夫欠席 
 ・12月22日(土)法政大学ホール  裸のラリーズ
 ・12月29日 0:30am 新宿ミッドナイトスペシャル  山口フジオ+エミリー+アキオ

 ・12月31日 クロコダイル In the midnight special 84’
            タンブリングス(山口冨士夫G) 鮎川誠&シーナ(予定)
              ← この日については、シティロード1985年1月号に告知


 ・12月6日  クロコダイル    ジョー山中 Reggae Vibration
 ・12月末  文学座ル・ピリエ  浅川マキ 


 1983年のクリスマスに2日間素晴らしいライブを見た山口冨士夫のタンブリングスと裸のラリーズが再び、法政大学ホールで12月にライブを連日行うとの告知。
 ゲストが鮎川誠ということで、たいへんな期待を持って会場に向かいました。

 12月21日に、「ゲスト鮎川誠」がどういう形で参加するのか不明でしたが、シーナ&ロケットとして出演しました。500円のカンパで見れたのはラッキーでした。
 翌1985年1月24日にシーナ&ロケットは渋谷公会堂で単独ライブをしています。


 


 しかし、シーナ&ロケットの演奏終了後、なかなか山口冨士夫が現れません。
 その間、ホールに大きな音でライブの音が流れました。私は、直感的に「これは村八分の伝説の最盛期のライブ音源ではないか、、、」と思いました。
 
 会場で流れた「あっ」は、1971年4月録音の村八分の「草臥れて」でした。ホールのエコーがかかった状態で大音量で聞きました。イコライザーでベースを思い切り上げて、全体にリバーブをかけたような音でした。


あっ!! from 『村八分 / くたびれて (2018 remaster)』
https://www.youtube.com/watch?v=O8SuvuaVqfU
ベースなどの音圧が上がり凄いサウンドにremasterされた。


4回目のリリースとなる「くたびれて」 



 この「あっ」では青木真一のベースのグルーブが中心。山口冨士夫が「So What」で「テッチャンのリズムギターは、バンドのビートを唸らせていた」と語る浅田哲のリフ、上原裕の跳ねるビートが台風の目のように渦を巻き、それをチャー坊の叫びが扇動する。

 小学校の頃に、Rolling Stones / Jumpin' Jack Flashをラジオで録音したものが、シングルヴァージョンと違って音が太く、グルーブして何度も聴いた。5年前にやっとそれがGet Yer Ya-Ya's Out!のライブとわかりました。

The Rolling Stones / Jumpin' Jack Flash (Get Yer Ya-Ya's Out!)
https://www.youtube.com/watch?v=2O8U2skkqyY


全盛期のストーンズと村八分のイメージが重なるライブ盤


 法政大学ホールで聞いたエコーのかかった「あっ」は、まさにストーンズの感じだった。

 「くたびれて」の「あっ」、慶應三田祭CDの「あやつり人形」を聴くと、山口冨士夫がMusic Life1971年6月号で「世界で一番すごいのはストーンズと村八分だ」「チャー坊の方がミックジャガーより上。持っているものが違う」と言ったことが理解できる。 
 
村八分1971〜1972年の映像
https://www.youtube.com/watch?v=G9EqrB0ISaw
3:17〜「音楽にダンスを融合させるロックシンガー」チャー坊と山口冨士夫の頂点
「天国のひまつぶし」で村瀬シゲトが「二人は1+1=2ではなく、4,5になった」と言うのがわかる





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タンブリングスのライブ


 ホールで、村八分「草臥れて」からの「あっ」「どらねこ」などが流れた後に、ついに会場に「山口冨士夫は出ません」というアナウンスがありました。
 青木真一が「おれたちだけで楽しもうぜ!」と言ってライブが始まりました。

 あの会場にいた青木真一は、自分の村八分時代の演奏を聴いてどう思ったのか。
 もしかしたら、山口冨士夫の欠席を見越して、青木真一か誰かが村八分の音源を用意していたのかとも思いました。

 山口冨士夫は、前座のシーナ&ロケッツを聴いて自信をなくしたのかとも、そのときは想像しました。シーナ&ロケッツはBOURBONからアルファレコードに移籍し、サウンド面でYMOがサポートして先端の音をロックンロールの形にして演奏していました。

 しかし、これは勘違いで、白夜書房の日本ロック大全のインタビューによると、山口冨士夫はシーナ&ロケッツに対して引け目を感じるようなことは全くなかったようです。
 実際のところ、この日、山口冨士夫は最初から会場に来れなかったようです。





 この12月21日の山口冨士夫の再度の欠席についても、9月の屋根裏のときと同様、全く不満な感情は起きませんでした。山口冨士夫は、10月のクロコダイルで、「お前らも何かしたいけどわからないから俺のところに来てるんだろ?」と客に問いかけました。

 しかし、その山口冨士夫自身もミュージシャンとして「自分は何をすべきか悩んでいるのではないか」と、私は考えるようになりました。
 山口冨士夫とその音楽が自分を代弁してくれる鏡のように思えました。
 
 この日、山口冨士夫の欠席を鮎川誠も心配したのはではないでしょうか。
 この1年後、ダイナマイツ時代から山口冨士夫のファンだったという鮎川誠とシーナのサポートで山口冨士夫は復活します。

  



 翌12月22日の裸のラリーズは、前日の山口冨士夫欠席の不安を消すように1983年12月と同様にぶっ飛んだ演奏でした。1983年12月のときは山口冨士夫も客席で聞いていましたが、このときはみつかりませんでした。
 
 造花の原野のような速いテンポの曲の音の広がりや、The last oneの重厚な締めくくりは素晴らしかったです。 水谷孝は最後にギターを壊して踏みつけたこともありましたが、最後にはマイクに向かって「ありがとう」と言っているのが印象的でした。

 裸のラリーズは、法政大学2回、屋根裏、鹿鳴館1回ずつと4回見ました。絵画展で水谷孝と遭遇したことがあります。ベルギー象徴派展かと思ったのですが、それは1982年12月〜1983年1月だったので時系列で合いません。裸のラリーズについては体に刻まれた爆音に消されて、記憶がいつかわからない感じです。





 12月8日のクロコダイルに赤ペンでマークがついており、この日に8月に江の島で山口冨士夫と共演したというジョー山中のReggae Vibration (石間秀機G 篠原信彦Key)を初めて見たようです。

 ジョー山中については、フラワートラベリンバンドの「メイクアップ」を聞いて日本にもこんな凄いバンドがあったのかと尊敬していました。クロコダイルでジョー山中と目が合ったときは緊張しました。

 ジョー山中もFTBの解散後、人間の証明でヒットしたり、ミュージカルやいろいろな道を模索し、レゲエにたどり着いたようでした。
 このころ、ジョー山中の「魂」のLPジャケットをずっと部屋に飾っていました。


ジョー山中自伝 アフガニスタンの危険地帯にも内田裕也とボランティアに行ったという



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12月29日に告知されていたライブを偶然発見。
カタカナの「フジオ」名義が1974年の「ひまつぶし」を想起させる。


「おさらば」「泣きたい時には」収録



 1984年末に初めて浅川マキを見ました。驚きのライブでした。黒い衣装でシャンソンに近いイメージで一人で歌い出した浅川マキが「〜さん」と一流のジャズミュージシャンを一人ずつ呼びながら、ビリーホリデイのように徐々にジャズのグルーブに乗って歌う姿。

 浅川マキはこの時代でも音楽誌で称賛されていた。心の空虚に引き込まれながら心の空虚を埋めてくれるような声。世の中に音楽の天才は本当にいるのだと思いました。
 山口冨士夫の「泣きたい時には」もいい。これほど歌心が伝わる歌は多くない。

※山口冨士夫も「ひまつぶし」に「浅川マキのような感じの曲が入っている」と述べている。So What」新版P133

「アングラの女王 歌手・浅川マキ」 追悼
https://www.youtube.com/watch?v=964NthnsN_A
2010年にライブ当日に名古屋のホテルで亡くなっていた浅川マキの人生は、
「Rockとは生き方のことなんだ」と言っていた山口冨士夫と重なる

池袋文学座ル・ピリエ(12月27日〜31日)での浅川マキの年末恒例だったライブ
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1984年は、山口冨士夫の活動停止と浅川マキの大晦日ライブで、終わりました。
 山口冨士夫は、予定されていた12月29日と12月31日のライブにも出られなかったのではないかと思います。

 1985年に入ってから、しばらく山口冨士夫に関する情報は全く途絶えてしまいます。
 しかし、1985年から私の人生が苦しい局面に入った時にも常に山口冨士夫の存在が心の支柱でした。
 
 1985年末からの鮎川誠とシーナ&ロケッツのサポート、そして1980年代後半からの空前のバンドブームを経て、山口冨士夫はついに1989年にTeardropsでメジャーの表舞台に出ることになります。

 
 次回の山口冨士夫と情報誌「シティロード」7回目は、1985年以降に進む前に、1980年に遡ろうと思います。  




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2018年04月11日

山口冨士夫と情報誌「シティロード」D 1984年後半(9月号〜10月号)

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1983年の4曲入りEP「ライドオン!」からの山口冨士夫の活動に陰りが現れる


今日の1曲
 山口冨士夫 / Ocean
 山口冨士夫 / 愛の子
 山口冨士夫 / ムスタングサリー
 高橋竹山 津軽三味線



 特集・山口冨士夫と情報誌「シティロード」の第5回目です。
 前回の1984年後半(7月〜8月号)に続いて、今回は1984年の9月号と10月号を辿ってみます。


★「シティロード」1984年9月号



 ・9月4日 屋根裏 「タンブリングダイス(山口冨士夫band)」1700円 
                                   山口冨士夫が欠席   
 ・9月21日 歌舞伎町Moon stone 「タンブリングダイス(山口冨士夫グループ)」
                                    2000円
 ・8月4日 江の島フリーコンサート(シティロード8月号には告知なし)
      タンブリングダイス  共演:ジョー山中レゲエバイブレーション


 9月4日の屋根裏「タンブリングダイス(山口冨士夫band)」で、初めて山口冨士夫が欠席しました。欠席のことは鮮明に覚えているのですが、その日付については「天国のひまつぶし」の本によればこの日のようです。 





 渋谷屋根裏は、初めて山口冨士夫を見た場所、初めてのライブハウスであり、その日も登場を期待して待っていました。観客もホールに余裕があったので、数十人から100人弱ぐらいだったと思います。


右:1984年9月4日 山口冨士夫が欠席した日の「屋根裏」タンブリングダイスの告知
左:渋谷ジャンジャン 高橋竹山には晩年の山口冨士夫に感じた技術と風格があった 
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 すると、「今日は、山口冨士夫から出られないという連絡が入りました」というアナウンスがありました。病欠ではないようでした。今まで山口冨士夫のライブの深い音楽性に感銘を受けていたので、欠席するのも音楽的な理由と察せられました。
 
 私は「この人はすごい。自分が納得いかないときには出演しないのか。これこそ本物のロックミュージシャンではないのか」と思いました。
 売れることが第一のいわゆる「産業ロック」が主流になった時代でした。

 当時の私は、山口冨士夫の深い悩みにまでは思いが至りませんでした。
 その日は山口冨士夫がいないライブが行われましたが、それでも良いライブでした。
 帰るときにチャージをたしか千円返されましたが、逆に申し訳ない気がしました。

 渋谷屋根裏は、山口冨士夫2回と裸のラリーズ1回の計3回行きました。狭い階段でした。裸のラリーズを見た日は思い出せないのですが、階段で並んでいたら水谷孝が礼儀正しく「失礼」と言いながら上がっていったのが印象的で、影響を受けました。

 「ぴあ」時代から屋根裏の出演者を見ると、サザン、カシオペアなど今も活躍する人たちが多く出ています。「渋谷ジャンジャン」「ロフト」は素晴らしい回想録が出ましたが、「屋根裏」も経営や出演者との人間関係でたいへんだったのではないかと思います。

高橋竹山 津軽三味線
https://www.youtube.com/watch?v=tEjrkHAnzVs
ロックフェスにもよく出演した高橋竹山も山口冨士夫も渋谷で戦っていた





 9月号には歌舞伎町Moon stoneでの9月21日のライブ告知もあります。
 1984年9月5日に開店した大きなホールだったようですが、10月号以降は掲載がなくなっています。


8月4日に江の島でライブがあったとの情報
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 なお、9月号の編集後記に「ジョー山中とタンブリングダイスのフリーコンサート」が8月4日に江の島であったとの驚きの情報があります(8月号にはこのライブは非掲載)。猛暑のために記者は行かなかったとのことでした。

 江の島の鵠沼側ステージは、あるダンスイベントで曇りの日でお客さんが少なくほとんど一人で2時間踊ったことがあるので懐かしい。若い人たちが飲み物を持ってきて応援してくれました。同じステージに山口冨士夫が立ったことがあるとしたら光栄です。

 ジョー山中と山口冨士夫の共演は、1971年のFTBと裸のラリーズで出演したときの富士急ハイランド、1979年村八分再結成時の京都大学西部講堂以来と思います。タンブリングダイスの野外ライブは初めて知りましたが、本当であればぜひ行きたかった。

 
★「シティロード」1984年10月号


10月13日の屋根裏 「タンブリングス」に改名した告知
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 ・10月13日 屋根裏 「タンブリングス(山口冨士夫グループ)」
 ・10月25日 クロコダイル「タンブリングダイス」
 ・10月17日 裸のラリーズ 鹿鳴館


 初めて13日の屋根裏で「タンブリングス」というバンド名に変更。25日のクロコダイルではまだ「タンブリングダイス」。ローリングストーンズそのままだから変えたとのことですが、9月の屋根裏欠席について心機一転もあったのではないかとも思います。


左列:クロコダイル 10月25日に以前の「タンブリングダイス」のバンド名で告知 
右列:Eggman
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 10月13日屋根裏と10月25日クロコダイルのライブの間の10月23日にスタジオ録音された山口冨士夫のOceanという曲があります。初期Kraftwerkや特に1972年のNEU!のライブのような曲で、「ライドオン」とは違う音楽性を模索していたようです。


10分に渡る「Ocean」収録の「Ride on!」デラックス・エディション



 山口冨士夫著「So What」によれば、音楽的な悩みは、9月ではなく1984年に入ったころからすでに始まっていたようです。「So What」の中で「Tumblings」の1984年の記述はたった12行です。その中で、以下のように書かれています。

「すべてが煮詰まり始めていた」
「すべてがマニアックになりつつあるという気がしてた」
「客もいつもと同じさ」

 また、「タンブリングス」の項目で、「学生運動とはいわないが、今の学生にも少しは何か見せてほしいと思うときもあるよ」「『明るいパンク』ってやつをやれば、コブシをあげてくれるのか。オレはまっぴらごめんだな」とも書かれています。





 以前もブログで書いたのですが、クロコダイルでのライブで深く心に刻まれた思い出がありました。「シティロード」や今までの情報を辿っていくと、それはこの1984年10月25日のライブだったのではないかと思います。

 そのライブで、突然山口冨士夫は「イエー」という客に対して、真剣に「お前たちはイエーしか言えないのか?!」と問い正すように言いました。いつも和気あいあいだったライブで、初めて山口冨士夫が怒ったのを見たので驚きました。

 続けて山口冨士夫は、「お前らも何かやりたいんだけど、それがわからないから俺のところへ来てるんだろ?」と言いました。
 私は何もできない自分の心を見透かされたような気がしました。


愛の子収録



 そして、山口冨士夫は、「だったら聞かせてやるぜ! 世紀のあいの子、山口冨士夫!」と叫び、演奏を始めました。その曲は「愛の子」という曲だったようです。
 私は山口冨士夫が自分自身に対して差別用語を使ったことにショックを受けました。

 1983年の4月にも山口冨士夫がそのような言葉を使ったときは、明るく冗談のように話していました。村八分のチャー坊の「おれはカタワ」以上に重く感じました。1996年の「クイックジャパン」連載で初めて「カタワ」とはチャー坊自身の経験だと知りました。

 この後、山口冨士夫はしばらく活動から遠ざかるのですが、このときの山口冨士夫の叫びは、自分自身に対するだけでなく、「おまえも何か行動しろ」という最後の突き放す言葉のように受け取れました。
 
 1983年に山口冨士夫は音楽の灯台のように思えたのですが、この日の山口冨士夫の自分が傷つきながらメッセージを投げかける姿に、音楽だけではない「自分の力で生きろ」という生涯影響を受けるような哲学的なものを受けとった気がしました。
 それは今も続いています。 


山口冨士夫「So What」 2008年新版と1990年旧版
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次回は、山口冨士夫と情報誌「シティロード」第6回、1984年11月号と12月号です。


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2018年04月05日

山口冨士夫と情報誌「シティロード」C 1984年後半(7月号〜8月号)

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山口冨士夫出演の情報誌「シティロード」1984年4月号〜12月号


今日の1曲
 山口冨士夫 / 赤い雲
 山口冨士夫 "Jump So High"
 Rolling Stones / Route 66
 Rolling Stones / Monkey Man
 Prince / Let’s go crazy
 Alphataurus / Croma
 Jimi Hendrix / Wild Thing


 特集・山口冨士夫と情報誌「シティロード」の第4回目は、前回の1984年前半(1月〜6月号)に続いて1984年後半です。9月号以後に大きな重たい変化があるので、まず7月号と8月号まで山口冨士夫の出演を辿ってみます。


★「シティロード」1984年7月号

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7月号index「た」行。バンド名は「タンブリングダウン」から2か月で「タンブリングダイス」に変更。


 ・7月6日 クロコダイル「タンブリングダイス(山口冨士夫グループ)」
 
 このころは、毎月「シティロード」を25日に買い、Indexで「は」行の裸のラリーズと「や」行の山口冨士夫を探すのが最大の生きがいになっていました。ところが「シティロード」1984年7月号には、「山口冨士夫」も「タンブリングダウン」もない。

 「タンブリングダイス」は誤植かとも思いましたが、バンド名が変わったようでした。バンド名がズバリだったので、やはり彼らもRolling Stonesが原点だったのかと感慨深いものがありました。

Rolling Stones / Monkey Man
https://www.youtube.com/watch?v=i3CIhGXnntM





 7月6日のクロコダイルはいい雰囲気のライブでした。
 途中で「マリンバンド」という山口冨士夫+2名によるアコースティックバンドに変わりました。「よっちゃんFrom京都」「昔からのブルース仲間」と聞こえたので、元村八分の人かと思いました。

 メンバーは、加藤義明Vo.Ag、浅田哲Harp、山口冨士夫がG.Vo。マリンバンドは、黒人ブルース、白人系フォーク、日本語のオリジナルを演奏しました。加藤義明がフォークに造詣が深く、浅田哲もはしだのりひこの従弟でしたのでリラックスしたよい演奏でした。

赤い雲 from『山口冨士夫 Jump So High 1983~1986(2CD)』
https://www.youtube.com/watch?v=LlXBwsEWSJc
「ひまつぶし」の中のアコギ+ハーモニカによる名曲





 マリンバンドの最後の曲にドラムが入り、間髪を入れずに始まった「タンブリングダイス」の「ルート66」はバンドが一体となり素晴らしかった。ストーンズの1stアルバムのヴァージョンを思い出させます。
 
 Charは山口冨士夫に「ギターはサイドだ」と言われ、目の前で弾かれて圧倒されたとのことですが、ダイナマイツ時代から山口冨士夫がダブルサイドギターになったときのスピード感は素晴らしい。

Route 66 - The Rolling Stones
https://www.youtube.com/watch?v=Jc8_Qs_y-xs

 「酔いどれ天使」は途中からのリフが、1983年12月はゆっくりでしたが、今回は1.5倍位速いスピードのジャングルビートでした。
 「水たまり」は「ライブ村八分」と同じ感じのイントロでした。

 その後、新曲が3つ続き、「Jump So High」はアイズレ―ブラザースのような切れのいいファンク、続く「死ぬまでドライブ」は「どうせいつかは、くたばってしまうんだろう」という詞が印象的で、「いきなりサンシャイン」のリフは山口冨士夫の定番になりました。

 クロコダイルに行ったのはこの日が最初でした。
 この後、年内にもう一度クロコダイルに山口冨士夫のライブに行き、ジョー山中のライブ(レゲエ期)、ジョー山中の喉頭がん支援ライブにも行きました。

山口冨士夫 "Jump So High" from DVD'Tumblings Live'
https://www.youtube.com/watch?v=rXxHsvTfSs8
凄いファンク


★「シティロード」1984年8月号

1984年8月号「渋谷エリア」のページ。
クロコダイルと屋根裏に「タンブリングダイス」出演の告知。懐かしいバンドも。
渋谷ジャンジャンは、寺山修司特集「蘭妖子コンサート(JAシーザー演奏)」2日間+
天井桟敷幻想映画2日間
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8月4日 クロコダイル 「タンブリングダイス(山口冨士夫グループ)」
8月11日 屋根裏 「タンブリングダイス(山口冨士夫バンド)」
8月13日 鹿鳴館 裸のラリーズ

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 「シティロード」8月号では、プリンスの「パープルレイン」、最初期のHiphop映画「ビートストリート」のサントラ盤の広告に、Michael Jacksonに続く黒人のスターの登場を予感させます。山口冨士夫がHiphopをどう思っていたのかも気になります。

Prince - Let's Go Crazy
https://www.youtube.com/watch?v=aXJhDltzYVQ
ジミヘンをヒーローとするプリンス。山口冨士夫もジミヘンをコピーしていたというが、ライブでは聞いたことがない。

 また、8月号のロングインタビューはピーター・バラカン。彼はイギリスのレコード店でアルバイトをしてブリティッシュロック、ブルース、ソウルに知識がある人です。「どこかに日本的なものがないと、日本のロックが海外に出るのは難しい」とも言っています。

 ピーターバラカンが、村八分の「ひらがなロック」や山口冨士夫から英米にインスパイアされた以上の日本的なものを感じるかも知りたいところです。イギリスの若いミュージシャンがダイナマイツの「トンネル天国」に興奮したと雑誌で読んだことがありました。

 貸しビデオ、DVD、Youtubeなどがない時代は「シティロード」や「ぴあ」を頼りに。「京橋フィルムセンター」など小さな映画館やホールを探して名画やロックフィルムを見ました。ジミヘン、ドアーズ、ジャニス、ストーンズの動く映像は衝撃でした。

Jimi Hendrix Wild Thing モンタレー
https://www.youtube.com/watch?v=_-7toYWFEyk
ギターに火をつけるシーンは本当に驚いた。1:57の女性の目が物語っている。

 1984年の新譜は、プリンスが世界初の映画と音楽の同時戦略でインパクトがありました。旧譜は、再発された1973年のAlphataurusがベトナム戦争のジャケと深い内容で、翌年1月に再発された1973年の「ライブ村八分」同様に印象に残っています。

Alphataurus / Croma
https://www.youtube.com/watch?v=Wj6Mos_K_uU






 次回は、特集・山口冨士夫と情報誌「シティロード」の第5回目です。
 1984年後半の9月号以後の山口冨士夫の出演を辿ってみます。


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2018年03月28日

山口冨士夫と情報誌「シティロード」B 1984年前半(1月号〜6月号)

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「山口冨士夫のタンブリング・ダウン全開!!」 「シティロード」1984年5月号より
1982年末にウェイターをした美輪明宏の本拠地だった「銀巴里」に高野圭吾など懐かしい歌手が並んでいる


今日の1曲
  山口冨士夫 / 水たまり
 山口冨士夫 / No song
 山口冨士夫 / ひとつ
 村八分 / 水たまり
 アンドレ・ナヴァラ / バッハ無伴奏チェロ 第1曲
 レオ・フェレ / 時の流れに


 特集・山口冨士夫と情報誌「シティロード」の第3回目は、前回の1983年後半に続いて、1984年前半です。1月号から6月号まで山口冨士夫の出演を当時を振り返りながら辿ってみます。


★「シティロード」1984年1月号

第10回1983-1984ニューイヤーロックフェスに出演した山口冨士夫
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なお、山口冨士夫の漢字表記について、「シティロード」1983年11月号までは、昔のMusic Life、1973年のLP「ライブ村八分」、1983年4月のフライヤーなども「富士夫」となっていた。しかし、この1984年1月号以降は「冨士夫」の表記になっている。


 ・1984年1月1日 「山口冨士夫」 西武PARCO劇場 
       第10回 1983-1984 ニューイヤーロックフェスティバル 
     「山口冨士夫」としてPart5(1984年元日のam3:20~6:35)に出演。
     
 この年は、ニューイヤーロックフェスの最盛期の一つと思います。12月31日のpm0:30から1月1日のpm1:40まで、7つのpartに約50バンドが出演。日本の各ジャンルのトップクラスのバンドが出演しており、内田裕也の力を感じさせます。

 まだ、山口冨士夫がRide Onだけで、メジャーでレコードを出していない時期でした。
 しかし、テレビでは内田裕也もロックレジェンドの復活を祝し、尊敬を込めて「山口冨士夫!」と紹介したのを覚えています。

山口冨士夫 NOSONG ニューイヤーロックフェス
https://www.youtube.com/watch?v=pd8xMpDI_XU
貴重なテレビ出演映像。

「ライドオン!」は4曲全部いい曲で違うリズムでした。NoSongのギターカッティングからサビの歌に入るところもかっこよかった。「なにかひとつ」という詞は「ひまつぶし」の名曲「ひとつ」の「だけどひとつだけ言える」に繋がっているように思えました。

「レコードを作るにも曲がないから”No Song”にした」、「十分な録音時間がない。だったらこんなのは”ひまつぶし”だ」と言って作った曲やLPレコードが名盤になっているのだから凄い才能の人です。


「ライド・オン!」 内田裕也も聞いたのだろうか



 ・1984年1月21日 クロコダイル「山口冨士夫」共演NAM


 「シティロード」1984年1月号では、マルコム・マクラレン初来日のインタビューが素晴らしい。今までSex Pistolsなどのファッションやイメージ戦略の達人のように思っていたが、真面目な人間で、熱狂的なR&R通だった。

 マルコム・マクラレンの一言、一言が鋭い。「ビートは万国共通のものだ」という信念を持つマルコム・マクラレンに村八分や山口冨士夫の「ひまつぶし」を聞かせたらどんな感想を持っただろうか。


マルコム・マクラレンにも聴いてほしい「からかわないで」



 
★「シティロード」1984年2月号

 ・1984年2月17日 クロコダイル 「山口冨士夫」


 「シティロード」1984年2月号では、長谷川和彦監督のインタビューがトップ記事で強烈な印象です。沢田研二主演の「太陽を盗んだ男」で反核団体に抗議されたとき、自分の被爆手帖を見せて説得したと別の記事で読みました。

 バブル崩壊前の1984年の日本では、映画、音楽とも興行的に成功し「シティロード」も活況を呈していました。しかし、「みんなほら、表面ばかり舐めてきただろ。もっと深くいこうぜ!」とライブで言っていた「山口冨士夫」だけが真実を語っている気がしました。


☆「シティロード」1984年3月号
               → 山口冨士夫出演告知なし

 「シティロード」1984年3月号では、ライブ告知はなし。しかし、年に1回行っていた「読者選出ベストテン」が発表され、なんと山口冨士夫が、ユーミン、サザン、松田聖子など歌手、バンドが居並ぶ中で「いきいきミュージシャン」部門で23位に選出されました。


山口冨士夫「いきいきミュージシャン」で23位選出(2回クリックすると写真拡大します)
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 また、「ベストアルバム(国内盤)」部門では、山口冨士夫の4曲入り20cmLP「ライド・オン!」が25位に選出。これも「シティロード」の山口冨士夫プロジェクトの成功であり、ファンとしても非常に嬉しい結果です。

 なお2月号の「シティロード」に「読者選出ベストテン」投票専用のはがきが付いていました。各部門ごとに合計10点を最低3位まで自由に割り振って投票できたので、パンタ、サンハウスなど熱いファンがいるバンドは「シティロード」では上位可能でした。

 このころ、村八分の曲では、「んっ」と「水たまり」だけを演奏していたようです。JamesBrownファンク系の「んっ」と、チャー坊の詞が純粋で美しい「水たまり」は、山口冨士夫のお気に入りだったのでしょう。「水たまり」は、チャー坊が亡き子供のために作った詞と最近知りました。





山口冨士夫 水たまり @京都大学西部講堂
https://www.youtube.com/watch?v=xKgl4cCAv9c
2010年頃? ライブ映像。語るようなギターソロが素晴らしい。


1983年~1986年の山口冨士夫のライブ「水たまり」収録



「ベストアルバム(国内盤)」部門では、山口冨士夫「ライド・オン!」が25位
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☆「シティロード」1984年4月号
          → 山口冨士夫出演告知なし


 4月3日に東京文化会館小ホールのアンドレ・ナヴァラのチェロの独奏会に行きました。バッハの無伴奏チェロの第1曲が名曲です。最前列で見ましたが、山口冨士夫のように職人肌の孤高の演奏家という印象を受けました。

アンドレ・ナヴァラAndré Navarra "Suite No 1 BWV 1007" J.S.Bach
https://www.youtube.com/watch?v=KXEPv-jMya8


★「シティロード」1984年5月号

   
 ・5月11日 屋根裏「タンブリングダウン」(山口冨士夫G 青木真一G 青木正行B 小林秀弥Dr)
 ・5月26日 クロコダイル「タンブリングダウン」(山口冨士夫グループ)」


 1984年5月号では、Indexの「や」行に山口冨士夫がみつかりませんでした。
 しかし、125ページの欄外に大きく写真入りで特集記事が! 
 山下洋輔と並んで。

 「タンブリング・ダウン全開!! 山口冨士夫グループのバンド名が決定した。その名もタンブリングダウン。ダイナマイツ時代からの生き残りは現役バリバリ全開中!!」
 ここでも「シティロード」の山口冨士夫への支援が熱い!

 「タンブリング・ダウン全開!!」の記事の下に1982年末に3か月ほどバイトをした「銀巴里」の告知があります。私の好きだったシャンソン歌手の歌には心があり、チャー坊の「水たまり」や山口冨士夫の「おさらば」に通じるものがありました。

 山口冨士夫のライブを1983年4月に初めて見て感動して追っかけになったのも、シャンソンからの影響があったのかもしれません。シャンソンは、エディット・ピアフ、バルバラ、美輪明宏など、重い境遇の人が多いです。

レオ・フェレ Léo ferré - 時の流れに Avec le temps
https://www.youtube.com/watch?v=aiXcUTTLud4

バルバラ Barbara - 黒い鷲 L'Aigle Noir
https://www.youtube.com/watch?v=2s-JYoGh6Mg

 「タンブリングダウン」のとき、残念ながら私はライブを見ませんでしたが、2回ほどギターの青木真一が欠席したライブがあったとのこと。このときはジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのようなサウンドだったそうです。

山口冨士夫 "酔いどれ天使" from Tumbling Down "Vintage Vault vol.4"
https://www.youtube.com/watch?v=D-4JpZwhIG4


「タンブリングダウン」青木真一を欠いた 3人編成のときのレアなライブ



☆「シティロード」1984年6月号
             → 山口冨士夫出演告知なし


 次回は、山口冨士夫と情報誌「シティロード」の第4回目。
 今回の1984年前半に続いて、1984年後半、7月号から12月号までです。


村八分「水たまり」収録 チャー坊の歌も山口冨士夫の咽ぶようなギターも最高だ。




2018年03月25日

桜満開 〜 父の3回忌

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今日の1曲
 ミッチミラー合唱団 Mitch Miller / みんなで歌おう Sing Along
 ブラザーズ・フォア / 花はどこへ行ったの


  今日は父の3回忌がありました。4日前は雪で驚きましたが、幸運にも晴天で、お寺、墓地の周辺が桜満開で絶好の花見日和でした。2年前は父の死後体調を崩して真夏でもコートを着るような状態になりましたが、だいぶ回復しました。

 今日は合唱が好きだった父にちなんだ曲を選んでみました。
 古くて懐かしいメロディーですが、一緒に歌って合唱すると、心が澄んだ生まれ変わったような気持ちになれました。

ミッチミラー合唱団 Mitch Miller / みんなで歌おう Sing Along
https://www.youtube.com/watch?v=GibL8BEQ-fY





ブラザーズ・フォアBrothers Four
/ 花はどこへ行ったのWhere Have All The Flowers Gone
https://www.youtube.com/watch?v=Lt69wGAt7h0




posted by カンカン at 18:37| 神奈川 | Comment(0) | アメリカンポップス American Rock & Pops | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月21日

山口冨士夫と情報誌「シティロード」A 1983年後半(7月号〜12月号)

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山口冨士夫ライブの告知が掲載された情報誌「シティーロード」1983年1月号〜1984年3月号


今日の1曲
 The Beatles(White Album)- Dear Prudence 1968
 POPOL VUH Aguirre pt I 1972
 山口冨士夫 / 酔いどれ天使 1983
 裸のラリーズ(with山口冨士夫) / 造花の原野 1980
  I Can't Stay Long - Ultravox! 1977 /Humania
/John Foxx 1983
沢田研二/ストリッパー ドラム:上原裕=元村八分


 前回に続いて、1983年の情報誌「シティロード」で山口冨士夫の出演告知を探しながら、当時の思い出を振り返ってみました。
 今回は、1983年後半の7月号から12月号までです。


★「シティロード」1983年7月号

 ・7月9日 クロコダイル pm8:00「山口冨士夫」として告知。
 ・7月9日〜10日 法政大学ホール All night in Gakkan 山口冨士夫バンド
       (共演)近藤等則、じゃがたら、山岸潤史、Fools etc 
        → クロコダイルのライブの後に出演。凄いスケジュールだ。
 ・7月16日 クロコダイル Cry for love & peaceという15-16日のイベント
       16日のヘッドライナーとして、「山口冨士夫」が出演
         15日には、元The M、ゴダイゴの浅野孝己が出演
    

 「シティロード」7月号のインタビューは山下達郎。彼はGSにも造詣が深く、シュガーベイブの1975年のドラマーは元村八分の上原ユカリでした。山下達郎がダイナマイツ時代から、山口冨士夫の復活をどう思い、今もどう評価しているのか興味深いです。

 また、7月5日に中野サンプラザで来日ライブを見たPILのジョン・ライドンに原宿の竹下通りで会いました。「シティロード」7月号の裏表紙にサインをもらいました。CharがSex Pistolsを初めて聞いたとき「これって村八分じゃん」と言ったという話があります。

 PILは、アンコールで、ジョン・ライドンが、はっぴのようなものを着てAnarchy in the UKを演奏したことだけ覚えています。村八分の1972年のチャー坊+山口冨士夫の映像は、Sex Pistolsの1977年のジョニーロットンに匹敵するインパクトがあります。

 映画では、7月に、Popol Vuhが映画音楽を担当したヘルツォーク監督の「アギーレ神の怒り」「フィッツカラルド」が2つ公開されています。裸のラリーズが、この年の12月のライブの開始前にPopol Vuhの「アギーレ」を流していました。

POPOL VUH "Aguirre pt I, II, III"
https://www.youtube.com/watch?v=zdeIN3sYcfk





★「シティロード」1983年8月号

 ・8月27日クロコダイル 「山口冨士夫」として告知。

 映画では「フラッシュダンス」が大ヒットして話題になっていました。1年前の1982年の夏に六本木のディスコに週2-3回通っていたのですが、もうディスコに戻る意欲はなく、「山口冨士夫」が私にとって人生の灯台のようになっていました。 


☆「シティロード」1983年9月号
               → 山口冨士夫の記載なし

 このころは、10月に千葉でライブがあったように、東京だけにとどまらず、日本中を精力的にライブ活動で回っていたようです。


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★「シティロード」1983年10月号
 
 ・10月1日 クロコダイル 「山口冨士夫」と告知。共演Boogie Baby
 ・10月9日 千葉ダンシングマザーズ 「山口冨士夫グループ」と告知。

 ・10月10日 裸のラリーズ 鹿鳴館

 手元に裸のラリーズのフライヤーがあるのでおそらく、この日が最初に裸のラリーズを見た日のようです。しかし、鹿鳴館で裸のラリーズを見たのは1984年の10月17日だと記憶しています。やはりこの年の12月24日の法政大学ホールでの裸のラリーズのライブがあまりに凄かったため、それが最初の裸のラリーズ体験だと思えています。
 
 「シティロード」10月号のインタビューは、沢田研二が映画「ときめきに死す」に絞って話しています。沢田研二が山口冨士夫をどう評価していたのかも興味のある所です。GS時代にタイガースとダイナマイツは会っているでしょうし、山口冨士夫は、加橋かつみとセッションをして「フジオちゃーん」と言われたと「クイックジャパン」連載にあります。


Music Life 1971年6月号 
フラワートラベリンバンドSatoriの新譜紹介と山口冨士夫のインタビュー
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 また、1971年3月20日に村八分は沢田研二のPYGと京大西部講堂で共演しています。1971年6月号のMusic Lifeのインタビュー「人間訪問」で、山口冨士夫は「世界で一番すごいのは、ストーンズと村八分だ」と述べています。

 さらに、山口冨士夫はMusic Lifeのインタビューで、好きな日本のバンドとしてPYGをあげ「ちゃんとあれだけの客をのせて、音楽的にもいいと思う」とも述べています。西部講堂でPYGは酷いヤジを受けましたが、山口冨士夫はPYGを認めていたのです。

 沢田研二の1983年のExoticsのドラムは、村八分の2代目ドラマー、山下達郎のシュガーベイブを経た上原”ユカリ”裕でした。日本のロック黎明期に関わった上原裕はExotics解散の後、しばらく活動を停止します。

沢田研二/ストリッパー ドラム:上原裕=元村八分
https://www.youtube.com/watch?v=kTljhurK_z8



★「シティロード」1983年11月号

 ・11月4日 横浜Shel Garden 「山口冨士夫(旧村八分)」として告知。
    チャージは1800円で一番高いランク。
    このころ、元パワーハウスのChiboの活動も活発で「シティロード」に頻出。

 11月7日か8日にJohn Foxxを中野サンプラザで見る。ダンスアルバム「Garden」は山口冨士夫の「ひまつぶし」のように良曲ばかりの素晴らしいLPだったが、Golden Sectionは精彩を欠いた。UltravoxのI can’t stay longが聞けたのはよかった。

I Can't Stay Long - Ultravox! 1977 /Humania /John Foxx 1983
https://www.youtube.com/watch?v=OpmNo78xMts


 11月12日に慶應日吉で沢田研二が初めて大学の学園祭に出演しています。また、前年1982年10月に日吉で裸のラリーズのライブがありました。裸のラリーズは、頭脳警察がはっぴいえんどの時間枠をジャックした1971年の慶應三田祭に出演しました。


1983年当時のミニコミ誌での山口冨士夫の記事
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ライブを見た人でも「よかった」「あれは化石だ」という意見があるとのこと。
山口冨士夫「村八分のことは、あの2枚組のLPに全部入っている。ただ、聴くだけでなくてシノギを削ってほしいよ」「バレーボールの選手はストーンズのように続けられないだろ。でも俺たちはまだできるんだよ。やる気だけ。それが絶対条件」


★「シティロード」1983年12月号
  (※12月号はみつからなかったため、他にもライブがあった可能性があります)

 ・12月23日 山口冨士夫 法政大学ホール
 ・12月24日 裸のラリーズ 法政大学ホール

 満を期して、山口冨士夫が登場。
 しかも、クリスマスの23、24日に裸のラリーズと名前が並んでいた。なぜ、山口冨士夫と裸のラリーズが並んでいるのか?という時点で興味深々だった。

・1983年12月23日 山口冨士夫 法政大学ホール
          
 今までの人生で一番感動したライブの一つ。
 ビートルズの「Dear Prudence」のイントロが聞こえたとき、本当に時間が止まって体が動かなくなるような感動があった。数あるビートルズの曲の中で、4人がなぜ「Dear Prudence」を頭にもってきたのか。地味な曲の一つでありながら、実に心に深く響いてくる。演奏しているのは、村八分と外道とトゥーマッチの元メンバーなのだ。本当にすごいバンドに巡り会えてよかったと思った。
 ホールは、音の広がりが素晴らしく、ステージの下からみる山口冨士夫バンドは躍動感に溢れていた。屋根裏のアットホームな感じもよかったが、ここでは神々しく見えた。
 「酔いどれ天使」が途中でリフになるところで、ゆったりしたスピードにアレンジしていた。村八分の「んっ」もやったと思う。Twist and shoutにぶっ飛ばされた記憶がある。
 
 今日はなんと雪が積もり、最近再び体調が苦しくなりがちなのだが、今も山口冨士夫のCDを聞きながらこれを書いていて、あのクリスマスのときのライブのことを思い出すと勇気づけられる。


The Beatles(White Album)- Dear Prudence
https://www.youtube.com/watch?v=AZDw0uu6UO0





・1983年12月24日(土)裸のラリーズ 法政大学ホール

 今までの人生で一番衝撃を受けたライブの一つ。
 まず、開演時間になってもライブが始まらず1時間ぐらい待ったと思う。その間に1960年代前後のジャズが流れていた。当時コルトレーンなどのジャズにも興味を持ち始めていたので、待たされている感じがしなかった。
 なにより驚いたのは、山口冨士夫が自分より2〜3席前の方に座っていて「水谷君が、、、」と話している声が聞こえたことだった。「ブルース系ロックの山口冨士夫と裸のラリーズがなぜ関係があるのか!?」ライブへの期待も膨らんだ。
 SEが最後の方でPopol VuhのAguirreになり、音が途絶えるとついに轟音のギターが始まった。2時間ぐらい続いたが圧倒された。3日間ぐらいは耳鳴りがした。  
 その日以後、山口冨士夫と裸のラリーズの関係については、「So What」の本が出るまで謎で神秘的であり、両者への関心も相乗効果で大きくなった。


Les Rallizes Denudes (with Fujio Yamaguchi) "Field Of Artificial Flowers"造花の原野 1980年
https://www.youtube.com/watch?v=HOUqOAL-utM





 こうして1983年は終わりました。山口冨士夫と裸のラリーズの1年でした。
 インターネットのない時代に「シティロード」には本当に助けられました。
 関係者の方にはお礼を申し上げたいです。

 次回は、1984年の山口冨士夫と「シティロード」です。
 
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2018年03月17日

山口冨士夫と情報誌「シティロード」@ 1983年前半(1月号〜6月号)

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1983年の山口冨士夫と裸のラリーズのフライヤー


今日の1曲
 山口冨士夫 / からかわないで
 山口冨士夫 / Rock me
 Museo Rosenbach - Zarathustra (1973)


山口冨士夫 wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E5%86%A8%E5%A3%AB%E5%A4%AB
山口冨士夫は日本の伝説的ロックギタリスト。
2013年に死去の際には、朝日、毎日(写真付き)、読売等多くの新聞でも報じられた。


 最近、山口冨士夫の遺稿・追悼文集「天国のひまつぶし」を読んで、いろいろな世代の人たちの冨士夫さんに対する思いや、伝説の村八分の存在感を知り、感銘を受けました。また、冨士夫さんのライブ映像に自分が写っているのを発見して感激しました。

 そこで、昔の情報誌「シティロード」を見ながら、冨士夫さんの出演情報を探して、当時のことを回想することにしました。
 今回は、1983年の1月号から6月号までです。


村八分体験、冨士夫体験を聞かせてもらっているような「天国のひまつぶし」



 「シティロード」はインターネットのない時代に「ぴあ」と並ぶ東京の重要な情報誌で、私は1977年から「ぴあ」を、1980年から「シティロード」を購読。主に映画・演劇・絵画を探していましたが、1983年1月号で山口冨士夫を知ったことが大きな転機になりました。

 それまで私は日本のロックに関心がなく、1982年のタイガース再結成と加橋かつみライブに行った程度。1982年暮れに美輪明宏の銀巴里でバイトをして美輪さんの人間的な素晴らしさを知り、歌手を何十人も見ましたが、ロックのライブハウスは未経験でした。


★「シティロード」1983年1月号

 ・1983年1月1日 クロコダイル「新春おめでたデビュー フジオ復活!」KIZU(傷)
    山口冨士夫g.(元村八分)大木啓造vo(元スマイラー)ゲストFools Banzai

「1982年大晦日 サンハウス再結成か」と「1983年元日 山口冨士夫復活“傷”」
ライブ告知。後の山口冨士夫と鮎川誠の共演を予感させる。
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 「シティロード」1983年1月号の「ライブハウス・ニュース」の欄に異様な迫力のある写真(サンハウス)と「サンハウス再結成か」「ギターは当然あの人(鮎川誠のこと)が入り」という記事が目に留まりました。
 
 続いて「あの伝説のグループ村八分の山口冨士夫が元旦にKIZU(傷)を結成し復活ライブ」「村八分LP復刻企画中」いう記事が。「あの」という代名詞が2回も続き、えとせとらレコードで見た高額な「村八分」のLP復刻は、インパクトがありました。

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 この「シティロード」1月号が、山口冨士夫、村八分、サンハウス、ダイナマイツ(大木啓造)、裸のラリーズなどを知るきっかけになりました。


☆「シティロード」1983年2月号
☆「シティロード」1983年3月号
     → いずれも山口冨士夫のライブ告知はなし。


★「シティロード」1983年4月号


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ついにライブハウス情報に「あの山口冨士夫が本格的に始動」の記事が登場

 
 ・1983年4月26日 渋谷屋根裏「山口冨士夫」

 ついに「シティロード」1983年4月号で「山口冨士夫」のライブ告知を発見。初めて山口冨士夫のライブに行きました。ライブを見て、自分が探していたものがここにあったという感銘を受けました。偶然カセットに録音し、何度も繰り返してそれを聞きました。

「1960年代後半から1970年代の乗りで。だってほらみんな、表面ばっかり舐めてきただろ? もっと深くいこうぜ、いっちゃうぞ」  そして 新曲「Rock me」でスタート
「モナ」を大音量で聞いたおかげで、初めて黒人ブルースに興味を持ち、ローリングストーンズは1stアルバムが大好きになりました。
「もう死んじゃった奴だけど、おれが大好きだったマイク・ブルームフィールドをやるから」
「レゲエがやりてえんだ」

 山口冨士夫だけでなくバンド全員が実にマイペースで演奏しながら、音が全然ぶれず、余裕がある佇まい。特に「からかわないで」という曲がよかった。
 それから、山口冨士夫のいわゆる追っかけになっていました。

 手元にある「Ride On発売」ライブツアーのときのフライヤーは、屋根裏でもらったものだと思います。この時点では「山口冨士夫」とだけ記載され、メンバーも紹介されていました。4月は多くのライブハウスを回っています。

 ・1983年4月9日 クロコダイル (スタート)
 ・4月18日 新宿ロフト case of telegraph vol.6 山口冨士夫 ゲスト オートモッド
 ・4月24日 福生UZU 8:30PM開演 (フライヤーのみ。「シティロード」には告知なし)
 ・4月26日 渋谷屋根裏 山口冨士夫
 ・4月30日 横浜シェルガーデン 山口冨士夫(元村八分)

 ライブで「俺、今度レコード出したんだよな。買っても買わなくてもいいけど」と言っていた8インチの4曲入りレコードを五番街で買いました。
 インディーズを買ったのもこれが初めて。

 4曲ともいい曲で、特に「Rock Me」と「酔いどれ天使」(リフはJames BrownのI feel goodか)がいずれも乗りがよく、4月26日の屋根裏でも素晴らしかった。「日本でこんなオリジナル曲を作れるバンドがあるのか!」という驚きで、さらにハマりました。
 

最初に買った20cm4曲入りレコードと同じデザインのCD



★「シティロード」1983年5月号


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5月号は、山口冨士夫のお祭り状態。「ライブハウスロッカーズ53」として山口冨士夫の写真入り記事を掲載。「過剰な期待をしないほうが “聴こえてくるのでは” 」というライターの言葉は的を得ていると思います。

  ・1983年5月4日、5日 新宿ロフト
   「酔いどれ天使たちへ、、、」山口冨士夫Liveパーティ、大物ゲスト続々登場 と告知。

 2日も連続で、その月の「シティロード」のライブハウス情報の中でも、多く字数をとった最もインパクトのある告知のひとつです。


山口冨士夫 Tumblings Live trailer
https://www.youtube.com/watch?v=SHDqto3pjRc
初めて山口冨士夫を見た1983年ごろの屋根裏を思い出す。「んっ」など。


1983年5月5日ロフトでの映像を収録



 ・1983年5月10日 原宿ルイード「山口冨士夫」 安全地帯が対バン!

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 そして、5月10日には、JPOPの殿堂だったルイードで、なんと安全地帯(あんぜんバンドではない)と共演!? 安全地帯もこの年末に「ワインレッドの心」でブレイクするまではたいへんな苦労があったようです。

 ・1983年5月14日 クロコダイル「山口冨士夫」

 ・1983年5月22日 法政大学ホール「山口冨士夫コンサート」14時30分 
          ゲストFools 妹尾隆一郎 500円


 赤ペンで大きく「5月22日 山口冨士夫」と書かれたページがあります。
 ところが、この日のライブの記憶があまりありません。たぶん行ったと思うのですが。。。おそらく、この年の12月23日の同じ法政大学ホールでのライブがあまりに素晴らしかったので、印象が薄いのではないかと思います。

 ・1983年5月28日 屋根裏「山口冨士夫」

 このころの「シティロード」を見直すと、伝説の「村八分」を見たロック世代の人たちが一丸となって、何としてでも山口冨士夫復活を盛り上げようとしていたのがわかりました。

 また、このころ神保町のジャニスで山口冨士夫の「ひまつぶし」を借り、ビートルズの「ラバーソウル」に匹敵するような良い曲がそろっていて驚きました。「ひまつぶし」は私にとって「良い」レコードの代名詞になりました。





  他のメンバーも「外道」「トゥーマッチ」など、日本の伝説のバンドの元メンバーだということもわかりました。本物を目指している人たちだというのが改めて伝わってきました。「シティロード」の出る25日がいつも待ち遠しく楽しみになりました。


★「シティロード」1983年6月号

 ・1983年6月4日福生UZU 「山口冨士夫」の告知(チャージ700円)

 話がそれますが、この6月25日にTangerine Dreamが初来日しているのですが、当時は興味がなく行きませんでした。ELPなど1970年代前半に魅力的だったバンドはほとんど商業的なバンドになり、1982年以降のKing Crimsonもわかりませんでした。
 
 それだけに、1960年代後半から1970年代前半にこだわる山口冨士夫に魅力と希望を感じていたのだと思います。この1983年に日本で世界で最初に再発されたイタリアのバンドMuseo Rosenbachも、村八分と同じく1973年の傑作でした。


Museo Rosenbach - Zarathustra (1973)
https://www.youtube.com/watch?v=hqZZwrc-BNM&t=5s
「ライブ村八分」と同格のインパクトを受けた「ムセオ・ローゼンバッハ」
2:35〜、ラスト2分が強烈


 次回は、1983年後半の山口冨士夫と「シティロード」7月号〜12月号です。


タンブリングス結成の経緯も書かれている本


1月号
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5月号
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2018年03月11日

再発見・NHK「みんなのうた」隠れた名曲 君のいる惑星(ほし)

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今日の1曲
 西田ひかる Hikaru Nishida / 君のいる惑星(ほし)


 30年ぐらい前に偶然ラジオで録音した西田ひかるのいい曲がありました。メロディー、シンセサイザーが当時のイタリアンポップスのようでした。ドラムも弾む感じで、やや不安定な感じの歌が逆に宇宙に浮遊するようで癒され、なんども繰り返し聴いていました。

 曲名が長年疑問でしたが、最近やっと判明。NHK「みんなのうた」の曲で、シングルLittle ChanceのB面だったためわからなかった。作詞は売野雅勇、作曲は林哲司、編曲は新川博と、ビートルズの影響を受けた作家たち。特に林哲司は好きです。

西田ひかる Hikaru Nishida / 君のいる惑星(ほし)1988年
https://www.youtube.com/watch?v=wc2cwx8_Mw4
途中で転調したり難しい歌だが、頑張っているところが初々しい。





 スネアの音は伝説のドラマー青山純だろうか、山下達郎サウンドを軽くしたようでとても気持ちいい。ギターソロも名演。まさに「惑星」。隠れた名曲だと思います。「日本の編曲家」という本でJPOPが輝いていた時代のアレンジのことが詳しく解明されています。





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posted by カンカン at 10:23| 神奈川 ☁| Comment(0) | 日本のポップスとロック Japanese music & Pops  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月08日

再びダンスができる喜び James Brown OUT OF SIGHT

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Smashから出たOut of sightの再発盤LPとシングル盤


今日の1曲
 James Brown "Out of Sight" 1964年ライブ
 James Brown "Out of Sight" 1963年オリジナル


 痔の手術が成功しました。これで再びダンスができます。22年前の手術では3週間も入院しました。今回も不安でしたが、結索手術で1日で終わり、22年前に入院中に一緒に生活した「痔主会」の人たちのことなども思い出して久々に涙が出ました。
 再びダンスができるようになって感謝しています。

 1982年に初めて全くの自己流で踊って周りから騒がれました。自分が世界で一番速くステップを踏んでいると思っていました。2〜3か月で限界を感じ、2年以上ディスコに行かなくなりました。

James Brown "Out of Sight" on the TAMI Show
https://www.youtube.com/watch?v=zieXmNwHGYA
TAMIショーの高速ステップ ♩=150

 1985年にJames Brown のOut of SightをTAMI Showのビデオで初めて見る。
 1988年ごろTAMI ShowのJBのダンスの奥深さや様々なステップに気づき、コマ送りにして必死に真似。ステップやターンができると生きている充実感がありました。



 1996年に1回目の手術で痔が治った後、私はEXILEが練習していた場所の反対側でトレーニングをしていました。昨日、久々にその場所で、今回は初めて足のステップの表を作って練習しました。 

 おそらく10代なら10回で覚えるステップも、自分の年齢では100回練習しても、忘れたり、ミスします。それでも、少しでも前に進めると生きている充実感があるのです。これもJames Brownのビデオに出会ったおかげです。

 JBのOut of Sightは、世界初のFunk Musicと言われています。すべての楽器が打楽器の役割を果たし、微妙なリズムのずれによる空白が無限のグルーブ感を作ります。1963年のオリジナルシングルから1964年のTAMI Showの間でも進化をしています。

James Brown - Out of Sight 1963年
https://www.youtube.com/watch?v=3RC6rvwlDeU
こちらは、レコードのまだ遅いテンポのヴァージョン。♩=126



 


ダンスの神様&パパイヤ鈴木 
https://www.youtube.com/watch?v=sEOKPu0_BgA&t=280s
2003年当時、日本で一番上手いストリートダンサーによる素晴らしいダンス。





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