A flyer from London club ”Camden Palace” (where the Rolling Stones、Jimi Hendrix played) in February 1985 and the Golden Cups / Love is my life that was played by DJ at the "Wed. Twist &Shout". Eddie Ban's signature is on the bottom right of the jacket. 「銀色のグラス」がかかったときのCamden Palaceのフライヤーとエディ藩さんのサイン
Golden Cupsのエディ藩さんが5月10日に77歳で亡くなりました。ミッキー吉野さんとのライブも7月に予定されていました。
おかげさまで本ブログも6月で17年目に入りました。ありがとうございます。今回も下手な長い文章で恐縮ですが、エディ藩さんとGolden Cupsへの長年の感謝を込めて、日本のロック黎明期の1970年前後のロックフェスで、エディ藩さんと並んで「ギターの王者」と呼ばれた山口冨士夫さんとの関係と共に振り返ってみたいと思います。
英語が堪能だったエディ藩さんに対してお恥ずかしいですが、外国の人にもゴールデン・カップスGolden Cupsを知って頂けたらと思い、Google翻訳をたよりにして英文でも紹介させていただきました。
The Golden Cups - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Golden_Cups
Eddie Ban, guitarist of the Golden Cups, a true pioneer of rock music in Japan, passed away on May 10th at the age of 77. Night after night in the first half of 1967, the Golden Cups played earnestly for the nervous and angry soldiers at the Golden Cup, a club near the US military base during the Vietnam War.
Their playing technique was outstanding in Japan in the 1960s and is highly regarded worldwide. Eddie Ban copied the Ventures in 1960, and traveled to the US for six months in 1966 (overseas travel was very rare at the time), experiencing live performances by the Yardbirds (Jeff Beck), Led Zeppelin, Them, and blues clubs. During the "New Rock" period around 1970, Eddie Ban and Fujio Yamaguchi (The Dynamites ) were regarded as the best guitarists in Japan.
Please listen to the original songs by the Golden Cups below.
Trailer for the movie "Golden Cups One More Time" 映画 トレイラー1
https://www.youtube.com/watch?v=NJw8jGK2YW8
Song:The Golden Cups/This Bad Girl 1968
Film director Takeshi Kitano states in the film that when he was still a poor and unknown young man, he "admired the Golden Cups, but was too scared to enter the Golden Cup club."
The Golden Cups/銀色のグラス Love Is My Life Nov.1967
https://www.youtube.com/watch?v=cyZRRMr85s4
Please take your headphone and listen to the Bass & Guitar running at full volume.
The world's first overseas-produced, American-released Japanese 1960's garage「GS」compilation LP from 1987. Includes songs such as "Love Is My Life" by the Golden Cups and "Tunnel to Heaven" by the Dynamites.
The Dynamites / Tunnel To Heaven (トンネル天国) 1968 LP version
https://www.youtube.com/watch?v=SWera-kdCvw&list=RDSWera-kdCvw&start_radio=1
The Golden Cups was the first band in Japan to play many UK and US New Rock songs. They perfectly copied the latest songs by Them, Cream, Jimi Hendrix, James Brown, Led Zeppelin, Paul Butterfield, The Band, and others, but with their own unique interpretations that were different from the originals.
The Golden Cups /Gloria (Them cover) Live April 1969
https://www.youtube.com/watch?v=Sq6npRBOn6g&list=OLAK5uy_nzFaCPHvVkhNtixYbWhbiyzHDzF5b_B8k&index=6
The Golden Cups /Hey Joe 1968
https://www.youtube.com/watch?v=AFDOLBP9JVQ&list=RDAFDOLBP9JVQ&start_radio=1
The Golden Cups / I'm So Glad(Cream Cover)Live on TV 1968
https://www.youtube.com/watch?v=oo79E0KKFFY
Eddie Ban continued to play as one of Japan's leading blues guitarists. He was scheduled to perform live in July of this year. I saw the Golden Cups live in 2003, 2011 and got an autograph from Eddie Ban in 2014.
In 2017, Golden Cups performed at Japan's largest festival, Fuji Rock Festival. Also in 1974, Les Rallizes Dénudés, who have recently gained worldwide acclaim, respectfully invited the Golden Cups as a guest for their 10th anniversary live.
今日の1曲
ゴールデン・カップスGolden Cups Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%97%E3%82%B9
エディ藩Eddie Ban - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%87%E3%82%A3%E8%97%A9
日本ロック名鑑 エディ藩の経歴
http://www.studio-g3.com/whoswho/02-eddieban.htm
エディ藩さん死去 77歳、感染性心内膜炎 「ゴールデンカップス」ギタリスト(スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/8ed05828cce0f69fae2374cc291d091b79b1f2f8
= 1974年7月 Music Life エディ藩さんとの最初の出会い =
最初にエディ藩さんの名前を知ったのは、Music Lifeの1974年7月号の日本の音楽の新譜コーナーでした。「エディ藩とオリエント・エクスプレス」という名前も宇宙的な列車のジャケットもかっこいいLPが、高評価で紹介されていました。
いつか聴きたかった、エディ藩とオリエント・エクスプレスのレコードは一度も実物を見たことがなく、50年近く後に初めてYoutubeで聞くことができて感動しました。
Music Life1974年7月号では、FocusのHamburger Concertoが高評価で、最初のヨーロッパのロックを買う決心ができたのが最大の収穫でした。また日本のロックで、スモーキー・メディスンが大きく取り上げられて印象的でした。
Focus / Hamburger Concerto 1974
https://www.youtube.com/watch?v=ZX6t9rZ701g&list=RDZX6t9rZ701g&start_radio=1
18:15 最後のChorus MellotronがFocusの最後の輝き。最近初めて聴いたエディ藩とオリエント・エクスプレスの「9 O'Clock」もMellotronが素晴らしかった。FocusのJan Akkermanは、イギリスで10年間ギタリスト部門で人気1位だったEric Claptonを1973年に初めて抜いた。
そして1979年ごろ、ラジオで「グループサウンズベスト100」という人気投票で、初めてゴールデンカップスを知り、銀色のグラスのルイズルイス加部さんのベースに驚愕しました。
銀色のグラスでは、最後の1:42のところで、エディ藩さんの高速ギターが、加部さんの高速ベースを一瞬で抜き去ります。1970年代は既にAl Di Meolaの時代でしたが、「長い髪の少女」のイントロのエディ藩さんの速弾きも含め、1967年〜1968年頃では、Eric Clapton、Jimi Hendrix以上の速さではと思いました。
Golden Cupsによって、日本のロックへの関心が一気に高まりました。日本のロックの発端は、エディ藩さんとデイブ平尾さんの1966年の渡米だということもわかりました。1983年以降、山口冨士夫さんのファンになれたのもGolden Cupsのおかげといえます。
= 2014年 ゴールデン・カップスの時代展 エディ藩さんのサイン =
私がエディ藩さんからサインを頂いたのは2014年8月20日でした。2013年8月14日に山口富士夫さんが亡くなったショックで体調が悪化、10月31日に病気が再発。年末から寝たきりで地獄のように苦しみ、2014年には遺書を書くまでに至りました。
2014年8月に横浜高島屋で「ゴールデンカップスの時代展」が開催中と知って驚き、2月のフジコ・ヘミングさんのコンサート以来半年ぶりに、エディ藩さんのライブのある日に生きる希望を求めるように外出できました。
横浜高島屋で「ザ・ゴールデン・カップスの時代展」−60年代の横浜・本牧を再現 - ヨコハマ経済新聞
https://www.hamakei.com/headline/8985/
初日に行われたテープカット。左からPowerhouseのCHIBOWさん、Golden Cupsのミッキー吉野さん、ルイズルイス加部さん、デイブ平尾さんの姉の平尾富子さん、キャシー中島さん、エディ藩さん、マモル・マヌーさん、ナポレオン党小金丸峰夫さん、Golden Cups店長上西四郎さん。
会場に行く前に、高島屋のフロアでエディ藩さんに偶然遭遇してサインを頂きました。あのLP「Golden Cups / スーパー・ライヴ・セッション」を作った日本で最高のギタリストと思うと、私は驚き震えました。しかし、エディ藩さんは「他のみんなもいればよかったのにね」と、子供の頃に遊んでくれた親戚の優しいおじさんのような感じで接してくれて感動しました。
外付けディスクが壊れて今は見れないのですが、「ザ・ゴールデン・カップスの時代展」ではたくさん写真を撮りました。エディ藩さんのライブでは、2曲のBeatlesや10年封印していたという重要作「丘の上のエンジェル」の再演 (途中でエディ藩さんが感極まって中断) に感動しました。
会場では、エディ藩さんの友人で、ルイズルイス加部さん、ミッキー吉野さんらと伝説のバンドMidnight Expressを作ったPowerhouseのチーボーさんが若い人たちに明るく人生訓を伝えている姿も目撃できました。
そしてフリーチャチャという本牧がオリジナルのダンスステップを知ってダンスの練習を再開し、体調が良くなり、外に出て活動できるようになりました。
ベトナム戦争のとき、ゴールデン・カップスと同じ本牧で生まれたフリーチャチャの創始者小山さんのダンス
https://www.youtube.com/watch?v=kqwuPNwPOKE&list=PLzQmu-BEv5L1JF0woPbiNL5zYWe8T0z5R
1967年が起源。
フリーチャチャの基本ステップ
https://www.youtube.com/watch?v=OjTrtCKFmn8
11:00からフリーチャチャの基本ステップでマスターできた。
このエディ藩さんとの出会いにより、私は10月から仕事にも復帰できました。最初の仕事で会った人が山口富士夫さんがSuperviserの「村八分 / 1972年三田祭Live」を持っていたのも縁でした
あの苦しかった2014年の頃を振り返ってみて、エディ藩さんに救われたことに改めて感謝しています。山口冨士夫さんにはお会いできませんでしたが、エディ藩さんと話せたことは、山口冨士夫さんの分も含めて、一生の宝です。
= 「山口冨士夫と情報誌シティーロードS 特別編V」として =
鮎川誠さん、Pantaさんに続いて、エディ藩さんの追悼も「山口冨士夫と情報誌シティーロード特別編」として、山口冨士夫さんと共に振り返ってみたいと思います。
その理由は、エディ藩さん、山口冨士夫さんが、2人とも1970年前後において、日本で最高のギタリストと評価されていたことです。
村八分の初代ドラマー恒田義見さんは、1970年当時20歳の山口冨士夫は日本の「スーパーギタリスト」であり、「当時の10円コンサートやロックコンサートでエディ藩、山口冨士夫といえばギターの王者だった」と発言しています。
(奥) 1970年1月6・7日「第2回 日本ロックフェスティバル」のパンフレット
山口冨士夫のダイナマイツ (解散のため欠場)とエディ藩グループが掲載。
(手前) 1970年5月「第3回 日本ロックフェスティバル」のパンフレット
1960年代の最初の日本の有名なロックギタリストは、寺内タケシ、三根信宏、加山雄三、成毛滋、スパイダースなどでした。
しかし、エディ藩も認めていたブルーコメッツ、スパイダースが逆に本牧Golden Cupに通うようになり、加山雄三はエディ藩に「これからは君たちの音の時代だよ」と直接語りました。
そのエディ藩、成毛滋が、1960年代に「山口冨士夫は天才だ」と発言していました。スパイダースのかまやつひろしも、山口冨士夫を見に立川に来ました。
他方で、山口冨士夫も1960年代末のニューロック期において「ゴールデン・カップス、Powerhouseは仲間だと思っていた」と発言しています。
エディ藩、山口冨士夫が突出した理由は、米軍基地での体験と言えます。明日戦争で死ぬかもしれない兵士からのリクエストにこたえるために、膨大な曲を短時間にマスターする経験をし、かつそれができる実力を備えていたのはGolden Cupsやダイナマイツ、沖縄の紫など数少ないバンドだけだったと思います。
山口冨士夫がバンドを組もうとした石間英機 も、Flower Travellin' Bandで1970年の大阪万博のときから始めたラーガ奏法で世界的な評価を得ました。しかし、1971年に日本のロックはフォークブームの陰で衰退し、Golden Cupsは1972年、Flower Travellin' Bandも1973年に解散。
ロックシーンがまだ継続した京都では1972年に村八分はピークを迎え、1973年5月5日の村八分のライブを見た人は、Jeff Beckも影が薄くなるほどの出来だったと述べています。
しかし、村八分も1973年に解散し、ロックが一つの峠を越した1974年に、エディ藩、山口冨士夫は共に、新しい可能性を示す象徴的な名盤「エディ藩とオリエント・エクスプレス」「ひまつぶし」を発表します。
その後も、山口冨士夫さんは、1960年代から「仲間だと思っていた」横浜のGolden Cups (ルイズルイス加部) 、Powerhouse、ジョー山中さんなどと関わりながら、1980年代以降も音楽活動を続けていきます。
エディ藩さんと山口冨士夫さんは、両雄並び立たずで、一緒に演奏した記録はありません。しかし、今回振り返ってみて、二人は50年間、見えないところで常に支え合っていたと思いました。
例えば1981年3月に山口富士夫さんが音楽活動から引退した後、 1982年2月と10月にエディ藩さんが東芝の石坂敬一さんのProduceで二枚もソロアルバムを出したことは、 1982年11月の山口富士夫さんの音楽活動の復活への大きな勇気づけになったのではないかと想像します。
私は1983年4月から山口冨士夫さんのライブを知って通うようになり、救われました。山口冨士夫さんの復活がエディ藩さんの力にもよるとすれば、私はエディ藩さんにも救われたことになります。
1980年か1981年に、エディ藩さんが主人公の横浜・中華街などのドキュメント番組NHK「ふるさとからこんばんは 本牧」を見ました。ちょうどGolden Cupsに関心を持ったときだったため、見られて運がよかったと思います。長い間、雰囲気が似た「関東甲信越 小さな旅」の一つだと記憶していたのですが、「小さな旅」は1983年からの放送だったので違っていました。
この番組でエディ藩さんの横浜ホンキートンクブルースを見た東芝の石坂敬一さんが、エディ藩さんに連絡して1982年の2枚のソロアルバムをProduceしたことがわかりました。石坂敬一さんは、1989年にも山口冨士夫さんのTeardropsをProduceしました。
元はベーシストの石坂敬一さんも、エディ藩さんと山口冨士夫さんを高く評価していたのだと思います。石坂敬一さんは1972年に村八分にショックを受け、Pink FloydのHarvestを通じてイギリスでリリースしようとしたものの、東芝のあくまで洋楽の担当だったため諦めた経緯がありました。
そして、このドキュメント番組で覚えているのが、エディ藩さんが黒人音楽のブルースを演奏する理由について「僕もいじめられて、黒人の気持ちがわかるから」と語ったことです。そこで、エディ藩さんは、1960年代のダイナマイツ時代から2013年に亡くなるまで山口冨士夫さんに強い思いを持っていたのではないかと思います。
2013年8月14日の山口冨士夫さんの逝去から、ちょうど1年後の2014年8月20日に「ゴールデン・カップスの時代展」で、エディ藩さんは10年間封印してきたというGIベビーのための追悼歌「丘の上のエンジェル」を歌いました。この歌こそ、エディ藩さんが山口冨士夫さんのために作った歌だったのではないかと思います。
それでは、エディ藩さん、Golden Cups、横浜本牧のロック、そして山口冨士夫さんたちが作ったロックが「音楽の力」を持った時代をもう一度振り返ってみたいと思います。エディ藩さんに対する恩返しとして、エディ藩さんの音楽を少しでも多くの方に聴いていただけるきっかけになれれば幸いです。
【日比谷野音】
1969年9月22日の日本初のロックフェス「10円コンサート」から、Golden Cups、エディ藩グループ、山口冨士夫グループ、Flower Travellin' Band、頭脳警察、Speed, Glue & Shinki、村八分、裸のラリーズLes Rallizes Dénudés、PFMなどが演奏した
Japan's oldest open-air music hall, Hibiya, Tokyo. Inspired by the Woodstock Festival, Japan's first rock festival was held here on 22 September 1969, with the Golden Cups as headliners.
= エディ藩、Golden Cups + ニュー・ロック期のミュージシャンの生年 =
★= 横浜のロック
1938 鈴木邦彦 (作曲:★Golden Cups / 銀色のグラス、もう一度人生を etc、ダイナマイツ / トンネル天国)
1940 John Lennon Mina
1941 Bob Dylan Charlie Watts
1942 Jimi Hendrix Paul McCartney
1943 福沢幸雄 (スパイダースの頭脳) Mick Jagger Jack Bruce Janis Joplin Mike Bloomfield Jim Morrison Mike Ratledge Lucio Battisti
1944 ★デイブ平尾 石間英機 Jeff Beck Jimmy Page Keith Emerson Edgar Froese (Tangerine Dream) Aldo Tagliapietra (Le Orme)
1945 ★ジョニー野村 (ザ・ファナティックス、ゴダイゴのプロデューサー) 村井邦彦 (★Golden Cups 編曲: 愛する君に 作編曲: クールな恋 本牧ブルース 4グラムの砂) 石坂敬一 Eric Clapton Ritchie Blackmore Ian Gillan
1946 ★ケネス伊東 ★ジョー山中 (491、Flower Travellin' Band) 鈴木ヒロミツ (モップス) 松崎由治 (テンプターズ) &瞳みのる (タイガース) = エディ藩の親友 岡林信康 Robert Fripp Jan Akkerman (Focus) Elio D’Anna (Osanna)
1947 ★エディ藩 ★竹村栄司 (チーボー:Powerhouse) 瀬川洋 (ダイナマイツ) 加橋かつみ 細野晴臣 若林盛亮 (Les Rallizes Dénudés) Klaus Schulze (Tangerine Dream、Ash Ra Tempel) Chris Karrer (Amon Düül, Amon Düül II) Franco Mussida (PFM) Nico Di Palo (New Trolls)
1948 ★ルイズルイス加部 ★林恵文 ★柳譲治 ★陳信輝(Powerhouse) 水谷孝 (Les Rallizes Dénudés) 沢田研二 Robert Plant Chris Squire Peter Hammill Jürgen Dollase (Wallenstein)
1949 ★マモル・マヌー 山口冨士夫 松田優作 矢沢永吉 Danilo Lustici
1950 ★ジョン山崎 萩原健一 チャー坊 Peter Gabriel Damo Suzuki (Can:神奈川県出身)
1951 ★ミッキー吉野 ★アイ高野 Vittorio Nocenzi (Banco)
〜 エディ藩・Golden Cupsと山口冨士夫・村八分のロック史 〜
◆ → エディ藩・Golden Cups、横浜のロックに関連すること
◇ → 山口冨士夫、村八分に関連すること
【主な資料】
Golden Cupsの評伝「Golden Cupsのすべて」2005年河出書房
山口冨士夫の自伝「So What」1990年JICC出版
◆1947年6月22日 エディ藩 (本名:潘 廣源) 生
◇1949年8月10日 山口冨士夫生
= 1960年
◆エディ藩、関東学院中学校に入学。
ギターに興味を持ち、米軍のセコハンのレコードの山から「ベンチャーズ」を探して聴く。香港で高価なギター (車1台分の価格のFender)、 機材を買い揃え、音楽仲間が増えた。
= 1961年
◆エディ藩、中学2年のとき、2歳上のジョニー野村(ゴダイゴのマネージャー)と出会う。
(Music Magazine 1983年3月号) :
喫茶店でジョニー野村がドラムスティックで机を叩いていた時、エディ藩がギターでベンチャーズを弾き、ジョニー野村が「ベンチャーズ、知ってる?」と尋ねた。2人は「バンド作らなくちゃ!」と思った。
ジョニー野村は、国際基督教大学在学中の1967年夏に「その後の大学紛争を予感させるような闘争」を体験する。
= 1962年
※ 5月 ヴェンチャーズ初来日。まだ日本では話題にならず。
◆陳信輝 (Powerhouse、Speed, Glue & Shinki) 談「中華中学の学園祭で、鴻昌(横浜中華街の中華料理店)の廣ちゃん(潘廣源=エディ藩)と萬珍樓(同じく横浜中華街の中華料理店)の息子のバンドを見てギターをやりたいなと思ったのが13歳の時」
スピード・グルー&シンキは終わらない。陳信輝と李世福が語る60〜70年代横浜ロック史 | Mikiki by TOWER RECORDS
https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/29826
= 1963年
左:中華中学学園祭と思われるエディ藩 右:中学時代の山口冨士夫
◆エディ藩、関東学院高等学校に入学。
ジョニー野村らとザ・ファナティックスを結成して注目を集める。このバンドには一時期、デイヴ平尾も在籍していた。
デイブ平尾談「エディ藩なんか、香港でどっさり、サーフィン前のギラギラしたベンチャーズをたくさん買って持っていた。あいつの感覚は特別だった。」
= 1964年 日本でBeatles旋風
※ 2月5日 Beatles「抱きしめたい」で日本デビュー。ブームが起こる。
Beatles / I Want To Hold Your Hand 1964
https://www.youtube.com/watch?v=v1HDt1tknTc
◇山口冨士夫、中学生でBeatlesに感動。2歳年上の瀬川洋の家で、ドーナツ盤レコードを聴き、バンドを始める。山口冨士夫は阿佐ヶ谷からスパイダースを見に行くために、新宿などへ歩いて通った。
吉田博 (ダイナマイツ)談:山口冨士夫ほどギターの練習をする人を見たことがない。
= 1965年 横浜のロックの誕生
※ 1月 ヴェンチャーズの2回目の来日で、エレキブームが起こる。
◆エディ藩のファナティックス、デイブ平尾のスフィンクス(後にマモル・マヌー在籍)が横浜の2大バンドとなる。
◆6月23日 『勝ち抜きエレキ合戦』放送開始。翌1966年9月28日までフジテレビ系列局で放映し、ルイズルイス加部、エディ藩が別のバンドで出場する。これを見たケネス伊東がルイズルイス加部をバンドに誘う。
サベージなどが優勝し、グランドチャンピオン大会で成毛滋のフィンガーズが優勝する。
※ 7月〜8月 ヴェンチャーズと加山雄三が何度かテレビで共演。加山雄三がエレキのオリジナル曲、ブラック・サンド・ビーチを作る。
加山雄三 / ブラック・サンド・ビーチ
https://www.youtube.com/watch?v=gr-YuK2oJDg
= 1966年 Golden Cups (グループ&アイ) 、ダイナマイツ (モンスターズ)が 米軍基地でライブ活動開始
◆4月 エディ藩、関東学院大学に入学。
関東学院大学は、1884年に横浜山手に創設された横浜バプテスト神学校を源流にもち、当時は関東における左翼運動過激派の拠点だった。
2年後の1968年にPantaが入学し、次第に学生運動に共感。政治集会と知らずに誘われたライブでの体験をきっかけに、頭脳警察の方向性を決める。
すでにザ・ファナティックスは解散し、学校は学生運動で休講が多かったため、エディ藩は渡米して音楽的知識を吸収し、技術を磨くことを決断する。
エディ藩 アメリカでのレズリーウエストとの出会いと「ザ・ゴールデン・カップス」結成を語る!!
https://www.youtube.com/watch?v=sBtYlvYMVMY
Jeff BeckのYardbirdsを見て衝撃を受け、Fazz boxを現地で買う。
エディ藩がブルースの泣きやタメの極意を語り実演する!!
https://www.youtube.com/watch?v=eSCmIE7yNRA
※ 6月30日〜 7月2日 Beatlesが武道館で公演。加山雄三が単独で会見。
タイガースは全員で、村八分の初代ドラマー恒田義見もBeatlesを見た。
◆エディ藩は、7月3日から渡米中のデイブ平尾に偶然現地のThemのライブで出会う。
◆1966年、竹村栄司 (CHIBO)は、ルイズルイス加部、陳信輝、ミッキー吉野、林恵文とヤードバーズなどをレパートリーにしたガレージ・ロック・バンド、Midnight Expressを結成し、馬車道の中川三郎ディスコティックなどに出演。
Midnight Expressは、柳ジョージ、野木信一の「ムー」と出会い、ミッキー吉野、ルイズルイス加部の脱退後、「ムー」と合体してBebesとなる。
◆11月 デイブ平尾が帰国。
◆12月3日 デイブ平尾はスフィンクスのマモル・マヌー、ケネス伊東に加え、元ファナティックスのエディ藩、元Midnight Expressのルイズルイス加部を加えて、平尾時宗とグループ・アンド・アイ(後のザ・ゴールデン・カップス)を結成。「ゴールデン・カップ」に出演開始。
ザ・ゴールデン・カップスGolden Cups - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%97%E3%82%B9
◆12月10日 「ゴールデン・カップ」に来店していた「ナポレオン党」(カミナリ族、暴走族のはしり)を取材していたTBSの撮影スタッフの目にとまり、Golden Cupsが『ヤング720』でテレビに初出演し、反響を呼ぶ。
◇山口冨士夫のダイナマイツ (モンスターズ)も、府中、立川などの米軍基地でライブを行う。
= 1967年 Golden Cups、ダイナマイツ デビュー
◆1967年の前半は、連夜のようにゴールデン・カップスはGolden Cupで演奏した。
デイブ平尾談:
Golden Cupsでのライブは「GIやネイビーが客だったよ。喧嘩なんかしょっちゅうでね。何がきっかけか誰にもわからない。乱闘が始まる。奴らは何にだって苛立っていたみたいだよ。夜が来て、朝が来るってことにさえむしゃくしゃしてたんだろうよ。そいつにこっちは音をぶつけなきゃならないんだ。甘い音なんか出したら負けちまうよ」 (Music Magazine 1983年3月号)
◆エディ藩はスパイダースを認めていたが、立場が逆転し、Golden Cupsを見るために、スパイダース、ブルーコメッツ、タイガース、石原裕次郎、勝新太郎などがGolden Cupを訪れる。
最初にGolden Cupsをプロに誘ったのはスパイダースの井上堯之だった。
◆6月15日Golden Cups / いとしのジザベルでデビュー
公称18万枚のヒット。わかりやすくするため、ゴールデン・カップスに改名。
◆7月21日 Golden Cups新宿ラ・セーヌで東京初公演。
横浜のバンド491 (ジョー山中在籍) と共演
◆8月20日 Golden Cups、テンプターズと初共演 池袋ドラム
萩原健一談 「自由に音楽ができるGolden Cupsがうらやましかった」
山口冨士夫もテンプターズの松崎由治のギターを高く評価していた。
「神様お願い」の大ヒットの前だったため、その後も、Golden Cupsとテンプターズのライブ喫茶での共演は多い。他方、すでに1967年にブレイクしていたタイガースとGolden Cupsのライブ喫茶での共演はない。
近田春夫著「グループサウンズ」は興味深い内容の本。エディ藩、瞳みのるとの対談が組まれ、エディ藩、松崎由治、瞳みのるは特に仲が良く、Golden Cupsとタイガースは音楽性は違うが、麻雀仲間として仲がよかった。
◆8月26日 Golden Cups、第31回日劇ウエスタンカーニバルに初出場。新人賞を獲得。
◆9月12日 Golden Cups、新宿ACBで初のワンマンライブ
当時新宿ACBでたくさんのGSを聞いた人の話:「実力ではGolden Cupsがダントツで、体に刺さるような音楽だった。当時、横浜は別格だった。続いて、ダイナマイツ、モップス、ビーバーズの3つが実力があった」「タイガース、テンプターズもデビュー前から見たが、沢田研二、萩原健一は輝いていた」
◆11月15日 Golden Cups 銀色のグラス発売.。ルイズルイス加部のベースが衝撃を与える。
The Golden Cups/銀色のグラス Love Is My Life 1967
https://www.youtube.com/watch?v=cyZRRMr85s4
◇11月 ダイナマイツ / トンネル天国でデビュー
◇11月 京都で水谷孝が裸のラリーズを結成。
= 1968年 Golden Cups、ダイナマイツ 初共演
◆3月10日 Golden Cups、1stアルバム『ザ・ゴールデン・カップス・アルバム』を発売。Hey Joeの解釈が世界的に評価されている。
Golden Cups / Hey Joe (Cover)
https://www.youtube.com/watch?v=AFDOLBP9JVQ
◆4月1日、3rdシングル『長い髪の少女』が発売。オリコン14位、35万枚のセールスを記録し、一躍人気グループの仲間入りをする。
【昭和ロックを語る時が来た!】エディ藩 ザ・ゴールデン・カップスに海外デビュー打診も断ったワケ | 東スポWEB
https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/60048
これは初耳! エディ藩が語る『長い髪の少女』発売秘話。A面は「巨人の星」に使われた「♪アイラブアイラブ〜」の「クールな恋」の予定だったが、エディ藩の意見で『長い髪の少女』に変更になった。
◇ダイナマイツ / 1stアルバム 発売
★ダイナマイツ / トンネル天国 1968年LP version
https://www.youtube.com/watch?v=8FGJMUxnr78
ボーカル:山口冨士夫
ダイナマイツ / トンネル天国 1967年single version
https://www.youtube.com/watch?v=WopOeuStjMU&list=OLAK5uy_kK2dk05FUlKNvROIV6i-zPF-Vn5Mp9EqU&index=20
1:12からのギターソロをLP versionと聴き比べると、数か月後で、山口冨士夫のギターのGroove感が圧倒的に磨かれたことがわかる。
◆◇4月21日 ゴールデン・カップス、ダイナマイツが新宿「ポップ」で初共演。
◆7月8日、ビザの関係で伊東が一時活動休止(10月21日復帰し、一時6人編成になる)。ミッキー吉野が加入。
◆◇8月26日〜9月2日 第36回日劇ウエスタンカーニバルで、ゴールデン・カップス、ダイナマイツが共演。
ダイナマイツ / 恋は? (クエッション) 1968
https://www.youtube.com/watch?v=fpZV8Sf9Slc&list=OLAK5uy_kK2dk05FUlKNvROIV6i-zPF-Vn5Mp9EqU&index=15
山口冨士夫のFazzのイントロが印象的。Saxophoneを取り入れたSoulの意欲作。
9月10日発売「Golden Cups第2集」にも収録された「過ぎ去りし恋」「午前3時のハプニング」
ザ・ゴールデン・カップス The Golden Cups/過ぎ去りし恋 Goodbye My Love 1968年
https://www.youtube.com/watch?v=trXOzZgbzSw&list=RDtrXOzZgbzSw&start_radio=1
ストリングスも美しいエディ藩作曲のバラードの名曲
The Golden Cups / 午前三時のハプニング [Happening At 3 O'clock A.M. ] 1968
https://www.youtube.com/watch?v=d0IKGzD_zdk&list=RDd0IKGzD_zdk&start_radio=1
ルイズルイス加部の唯一のサイケデリックな作品・歌
第36回日劇ウエスタンカーニバルでは、ビーバーズ (石間英機) 、タックスマン (上月淳) 、フラワーズ (和田ジョージ) という後のFlower Travellin’ Bandの母体も揃っていた。
山口冨士夫 (ダイナマイツ)、水谷公生 (アダムス)、石間英機 (ビーバーズ) 、上月淳 (タックスマン)のセッションによる「レディ・マドンナ」も演奏。
この時にプロのバンドの間で最も話題になったのは、内田裕也がヨーロッパから帰国後に作ったフラワーズのサイケデリックなステージで、スパイダースの頭脳と言われた福沢幸雄も最前列で見ていた。
◇瀬川洋 (ダイナマイツ) 談 (山口冨士夫 / So Whatより)
:日本で初のチョーキングをしたのは、赤坂のクラブで「マイク」から教わった山口冨士夫だった。「だけど、そのフジオのギターを見て、当時のプロのミュージシャンはびっくりだったな。成毛 (滋)から、カップスのギター (エディ藩) から、みんなが、フジオは天才だって言いだしたんだよ」
「もちろん村八分も良かったけれど、フジオの絶頂期はダイナマイツだったよ」
第36回日劇ウエスタンカーニバル | POPな日々
https://ameblo.jp/kiyo3pops/entry-12799802776.html
◆9月1日 Golden Cups、4thシングル『愛する君に』が発売、オリコン13位。
Golden Cups / 愛する君に Live TV 1968
https://www.youtube.com/watch?v=uueqX1Owrfk
The Golden Cups/愛する君に My Love Only For You シングル 1968年
https://www.youtube.com/watch?v=lPreo8o8ubc&list=RDlPreo8o8ubc&start_radio=1
◆9月10日 「ザ・ゴールデン・カップス・アルバム第2集」発売
◆◇10月2日 ゴールデン・カップス「R&B天国」テレビ収録 共演:ダイナマイツ、ビーバーズ
The Golden Cups / I'm So Glad(Cream Cover)Live on TV 1968
https://www.youtube.com/watch?v=oo79E0KKFFY
「R&B天国」で残っていた貴重映像。1966年の「Fresh Cream」versionのカバー。
★The Dynamites / 恋はもうたくさん 1968 LP version
https://www.youtube.com/watch?v=1EMbLFRNht0&list=OLAK5uy_kK2dk05FUlKNvROIV6i-zPF-Vn5Mp9EqU&index=4
ダイナマイツのトンネル天国と並ぶ名曲。1:12のようなR&BをマスターしたGrooveのギターソロは、1968年の日本では山口冨士夫とエディ藩の音源でしか聴けない。
◆◇11月2日 Golden Cups、裸のラリーズLes Rallizes Dénudésと京都で共演。
1969年6月同志社大学 右が水谷孝。この時点では、若林盛亮は政治活動のため水谷孝の了解を得て友好的に脱退していた。
同志社大学学園祭でゴールデン・カップスが学生会館ホールで公演をした際に、裸のラリーズが前座として出演。
エディ藩、Pantaの関東学院に対し、同志社は関西の左翼運動過激派の拠点だった。同志社の前身である同志社英学校の教育理念は関東学院と同様にキリスト教主義に基づく。岡林信康は父を継いで牧師になるために神学部に入学したが、キリスト教に疑問を持ち、1968年に中退した。
「ゴールデン・カップスのすべて」 (2005年) では、Golden Cupsの京都公演は1968年2月25日に続く2回目で、11月2日については「詳細不明」とある。
「山口冨士夫 天国のひまつぶし」 (2014年) で、若林盛亮(裸のラリーズのオリジナルメンバーで、よど号ハイジャック事件の実行犯)による以下の山口冨士夫への追悼文から、同志社大学学園祭にGolden Cupsが出演し、前座として、同志社大学の元軽音楽部の水谷孝の裸のラリーズが出演したことがわかった。久保田麻琴も軽音楽部に所属していた。同志社大学の学園祭は11月の第1土曜・日曜に行われており、1968年11月2日も土曜日だった。
若林盛亮談 (「山口冨士夫 天国のひまつぶし」より) :
1968年秋の同志社学園祭の時に、「ゴールデンカップス (たしか)にゲバルトをかけよう」との水谷君の招集に応じ、その前座に登場、私もハーモニカを武器に参戦、サングラスをかけた某(久保田麻琴?)が琵琶を持ってきたことを鮮明に覚えている。それが水谷君等との裸のラリーズの最初で最後のステージになった。
裸のラリーズの過激な演奏スタイルは、GS(グループサウンズ)で商業的に人気だったGolden Cupsへの「ゲバルト(激しい攻撃)」として一種の対抗姿勢を示した。
しかし、エディ藩、ルイズルイス加部は、1968年当時の日本では、This Bad Girl、午前3時のハプニングなど最も攻撃的な音を出しており、裸のラリーズの即興演奏に関心を持っても不思議ではない。リーダーの水谷孝、久保田麻琴等と、Golden Cupsとの間に会話があった可能性もある。
この裸のラリーズとの共演は、1970年3月の若林盛亮によるよど号ハイジャック事件の後、Golden Cupsが1970年10月にエディ藩作曲のインスト「ハイジャック」を録音したこと、1974年9月の裸のラリーズのライブに「同じ10年選手」という理由でGolden Cupsがゲスト出演したことにも繋がると思われる。
裸のラリーズLes Rallizes Dénudés / 67-69 Studio et Liveに収録されたSmokin’ Cigarette Bluesは、この学園祭のときのLiveであり、裸のラリーズの2回目のLiveとされる。
The improvisation "Smokin' Cigarette Blues" by the legendary band Les Rallizes Dénudés, featured on 67-69 Studio et Live, was recorded while they were opening for the Golden Cups on November 2, 1968.
裸のラリーズLes Rallizes Dénudés / Smokin’ Cigarette Blues 1968
https://www.youtube.com/watch?v=TfPreGYgTZ4&list=RDTfPreGYgTZ4&start_radio=1
ミュンヘンのAmon Düül が1969年に出した2枚のアルバムの音に類似している。
◆12月5日 Golden Cups シングル「過ぎ去りし恋」発売 作詞:ケネス伊東 作曲:エディ藩
= 1969年 Golden Cups / 最高作「スーパー・ライヴ・セッション」、ダイナマイツ解散、ニューロックへの変動期
◆◇1月3日 「ゴールデン・カップス ファンの集い」 共演:ダイナマイツ 大久保 三福会館
※ 3月 タイガースから加橋かつみが脱退し、GSブームが終息に向かう。
◆3月10日 ブルース・メッセージ/ザ・ゴールデン・カップス・アルバム第3集発売
The Golden Cups / I Can't Keep From Cryin'(Blues Project cover)1969
https://www.youtube.com/watch?v=RRTkpbEomJA&list=RDRRTkpbEomJA&start_radio=1
11分を超える当時の日本では最長の熱演。
◆3月25日 Golden Cups、パワーハウスと初共演 新宿ACB
◆4月1日 Powerhouse / ブルースの新星 東芝から発売
メンバー:チーボー、柳ジョージ、陳信輝、野木信一 (2002年の◇山口冨士夫、ルイズルイス加部の関西ツアーのドラマー)
◆4月10、11、21日 Golden Cups横浜Zenで最高作「スーパー・ライヴ・セッション」録音。Powerhouseから、陳信輝、柳ジョージが参加。
The Golden Cups / Got My Mojo Working (Live) 1969
https://www.youtube.com/watch?v=xRhtPWC3kEQ&list=OLAK5uy_nzFaCPHvVkhNtixYbWhbiyzHDzF5b_B8k
◆4月25日、Golden Cups、藩と伊東がエディ藩グループ結成のため脱退。
ルイズルイス加部がギターにコンバートし、元Midnight Expressの林恵文がベースとして加入。
エディ藩はニューポートジャズFestivalを見るためにアメリカへ。
エディ藩グループ
http://www.studio-g3.com/whoswho/02-eddiebangroup.htm
エディ藩グループには、ザ・カーナビーツ解散後、すぐにアイ高野が参加。アイ高野は「音楽は自分にとって水や空気と同じで、音楽を辞めることは死ぬことと同じ」と語るほど、音楽を愛していたという。
アイ高野は1972年のゴールデン・カップス解散直後はソロ活動、再びエディ藩グループ、ママリンゴ(ニュー・ゴールデン・カップス)、ミッキー吉野グループ、レコードデビュー以前のゴダイゴの初期メンバーにも加わる。松田優作の歌手活動(1981年)やエディ藩のソロ活動(1982年)をクリエーションのメンバーらと共にサポートした。
◇5月 チャー坊が渡米。チャー坊は帰国後、裸のラリーズにベースで参加することを水谷孝と約束していたが、12月6日 カリフォルニア州オルタモントでRolling Stonesを見て、音楽的方向性を変えた。
◆5月15日 Golden Cups 銀座ACB エディ藩が飛び入り
◆7月20日 Golden Cups、渋谷公会堂で2周年リサイタル
◆8月1日 Golden Cups / スーパー・ライヴ・セッション発売
◆◇8月15日 Golden Cups 、ダイナマイツが銀座ACBで共演。
Golden Cupsのギターはルイズルイス加部で、1976年の山口冨士夫とのダブルギターによるリゾートにもつながる。
※8月15日〜17日 『ウッドストック・フェスティバル』
◆9月22日 『10円コンサート』 日比谷野音
出演:Golden Cups、エディ藩グループ、Powerhouse、成毛滋、ザ・エム、田畑貞一
日比谷公園に鳴り響いた日本ロックの新たな産声『10円コンサート』
http://music-calendar.jp/2015092201
1968年6月のスパイダース等のGSイベントを除いて、ロック・バンドの日比谷野音での演奏はこの『10円コンサート』が初めてで、日本初の本格的ロック・イベントだった。
主催者成毛滋は『ウッドストック』を現地で体験し、日本のロック状況との違いに唖然とする。GSブーム終息後、成毛はバンドや所属会社を超えた<ニューロック>の技術向上と一般への啓蒙を目的にイベントを発案、ミッキー吉野と共に動き出した。まだ事務所の異なる者のセッションなどない時代だった。
◆9月28日「第1回日本ロックフェスティバル」厚生年金ホール
※エディ藩が日本のトップギタリストと評価されたことを示すパンフレットの写真。ジャズの増尾好秋、スパイダースの井上堯之と。
『第1回 日本ロック・フェスティバル』 出演者:Golden Cups、エディ藩グループ(エディ藩、柳田ヒロ、ケネス伊東、デ・スーナーズのエディ・フォルトゥーノ)、Powerhouse、内田裕也とフラワーズ、ブルース・クリエイション、井上堯之、増尾好秋、田畑貞一など。
『10円コンサート』のわずか6日後、2400人のホールは満杯で、4時間のステージのラストは「I’m So Glad」の合同演奏。「Goodby Cream」のversionが目標とされたと思われる。主催は4月に創刊されたばかりの『ニュー・ミュージック・マガジン』で、創刊号では最初の日本のバンドとしてPowerhouseの特集が組まれた。
会場アンケートによると、観客の平均年齢は18.5歳。
最も人気が高かったのは、エディ藩グループが圧倒的だった。
46年前の<日本近代ロック黎明期>に開催された『第一回日本ロック・フェスティバル』
http://music-calendar.jp/2015092801
◆10月10日 ザ・ゴールデン・カップス・リサイタル発売
◆◇10月17日 新宿ニューACB「これがゴールデン・カップスだ」に、ダイナマイツ、Powerhouseが共演
◇10月 ダイナマイツ「The Dynamites! – Live At The "Go Go ACB" 1969」を録音。CD1998年6月15日発売。山口冨士夫もCDの解説で、これがダイナマイツの本当の姿としている。
The Dynamites! – Live At The "Go Go ACB" 1969 – CD (Album) | Discogs
https://www.discogs.com/ja/release/1263414-The-Dynamites-Live-At-The-Go-Go-ACB-1969
◆12月28日 ゴールデン・カップスから、ルイズルイス加部と林がジョン山崎とルームを結成するため脱退。
◆◇12月28日 マモル・マヌーもソロ歌手になるため、ゴールデン・カップスを脱退する。
以前から山口冨士夫と新バンド結成のために、成毛滋の家で練習していたが流れたため、歌手に専念することになった。
◇◆ 白夜書房の「日本のロック体系」のインタビューによれば、山口冨士夫は1969年頃にゴールデン・カップス、パワーハウスが「仲間だと思っていました」と述べている。山口冨士夫は「So What」によれば、加橋かつみ、陳信輝ともセッションをしていた。
ダイナマイツ / Live At The "Go Go ACBには、The 59th Street Bridge Song (Golden Cupsも録音) 、Spoonful (Powerhouseも録音) が収録されている。
◇12月31日 ダイナマイツ解散。新宿西口のビルの8階にあった大きなディスコが最後のステージ。
「日本のロック体系」によれば、山口冨士夫は、ダイナマイツの最終シングル「バラと悪魔」の存在さえ知らず、瀬川洋とオーケストラだけで作られた。1969年に瀬川洋が3か月外国に滞在している間に、山口冨士夫の残ったダイナマイツはディスコでのR&Bの演奏に力を入れていた。
= 1970年 「ギターの王者:エディ藩と山口冨士夫」
Golden Cups成熟期 山口冨士夫は京都へ
1969年9月からウッドストックの影響で始まった日本のロックフェスは、 1970年に最初のピークを迎える。現在隆盛のフジロックなどのロックフェスの最初のメインアクトが、Golden Cups、エディ藩グループ、山口冨士夫だったことは改めて特筆に値する。
◆1月1日、ゴールデン・カップスはエディ藩グループと合併し、藩と伊東が復帰。伊東はベースを担当。マモルの後任は、エディ藩グループのアイ高野で、マモルが使っていたパールのドラムセットが譲られた。
◆◇1月6日・7日 『第2回日本ロック・フェスティバル』
二日間に亘り、第1回と同じく東京厚生年金会館大ホールで開催。
【パンフレットの記載と変更】
【出演予定 (記載) 】:麻生レミ・オールスターズ、デイブ平尾・ミッキー吉野グループ、ダイナマイツ、エディ藩グループ、フラワーズ、岸部おさみグループ、成毛滋グループ、パワーハウスほか
【変更】「ダイナマイツ」の欠場 → 出演予定だったダイナマイツが12月31日に解散したため、欠場の説明紙が当日パンフレットに封入 → 書いたのは福田一郎
【変更】「エディ藩グループ」と「デイブ平尾+ミッキー吉野グループ」の合併 → 1月1日に合体したGolden Cupsの初ステージになった。
◆2月 Flower Travellin’ Band、フラワーズから改名。内田裕也はプロデュースを担当し、日本コロムビアから日野皓正・クインテットとシングル「Crash」を発表後、10月にアルバム『Anywhere』を発表。同年大阪万国博覧会の出演中に知り合ったカナダのロックバンド、ライトハウスに見出されメンバーはカナダへ渡る。
◇2月28日 京都会館第2ホールイベント「Too Much」に山口冨士夫がセッションで出演し(メンバー不明)、木村英輝と出会う。共演:ヘルプフルソウル、Flower Travellin’ Band
◆Golden Cupsは、Music Life人気投票 (3月号に最終結果) で日本のグループ部門で、1969年、1970年と2年続けて1位。1971年は4位 (1位はMops)
◇3月 東京で山口冨士夫が帰国したチャー坊と出会い、新バンド結成を決意。
◇3月31日 裸のラリーズのオリジナルメンバーで、1968年11月2日にGolden Cupsとも共演した若林盛亮が、よど号ハイジャック事件を起こす。
※4月10日 Paul McCartneyがBeatles脱退を発表
◆5月5日 ゴールデン・カップス シングル「にがい涙」発売
ザ・ゴールデンカップス The Golden Cups/にがい涙(Bitter Tears)
https://www.youtube.com/watch?v=3QnzNBjg63k
出場者のトップに記載されたGolden Cups
◆◇5月5日〜10日 「第3回日本ロックフェスティバル」
出演 :
5日(東京サンケイホール):Flower Travellin’ Band、モップス、ゴールデン・カップス、ハプニングス・フォー等。
6日(横浜公園野外音楽堂):ブラインド・バード、FTB、モップス、ゴールデン・カップス、ハプニングス・フォー、ルイズルイス加部グループ (当日追加出演) 等。
8日(大阪厚生年金ホール):ヘルプフル・ソウル、FTB、モップス、ゴールデン・カップス等。
9日(日比谷野音):ブラインド・バード、FTB、エム、ヘルプフル・ソウル、モップス、等。
10日(日比谷野音):フード・ブレイン、山口富士夫グループ(成毛滋がキーボードで参加)、FTB、モップス(亀渕友香がゲスト)、ゴールデン・カップス、ハプニングス・フォー等
◆海外からのSpiritは欠場したため、Golden Cupsが9日以外は連日トップに記載。次いで、Happenings Four、Mops、Flower Travellin’ Bandの順に記載
◆◇5月10日 フェス最終日の「セッショングループ」のパンフレット記載のメンバーは、写真のある成毛滋、陳信輝、山口富士夫、角田ヒロ、その他にヒロ柳田、ルイズルイス加部の名前が挙がっていた。
【セッショングループ】:パンフレットには、セッショングループ、スーパーセッションの説明と、第1回日本ロックフェスではエディ藩が、第2回日本ロックフェスでは陳信輝が中心になったとの記述がある。第3回日本ロックフェスでは山口冨士夫が、最終日5月10日のメインアクトになったと思われる。
5月10日当日に実際に出た2つのセッションバンド:
「Foodbrain (◆陳信輝/◆ルイズルイス加部/ヒロ柳田/角田ヒロ) 」
「山口冨士夫グループ」
「山口冨士夫グループ」のメンバー:◇山口冨士夫、成毛滋 (キーボード) 、石川恵(ベース:ファーラウト)、つのだひろ(ドラムス:ジャックス)。
初ステージのチャー坊は踊りだけで参加し、成毛滋に「あんた、いえてへんわ」と言ったとされる。
成毛滋が、ギタリストとして、かつリーダー格として、山口冨士夫にトップの座を譲った。ダイナマイツは、トンネル天国以外は、レコードのセールスなど商業的には振るわなかったが、実力の面において山口冨士夫が日本で最も高く評価されていたことがわかる。
Food Brain / That Will Do (1970)
https://www.youtube.com/watch?v=XCs_JjFQQjc&list=RDXCs_JjFQQjc&start_radio=1
5月10日のライブでは、角田ヒロは、Foodbrainと山口冨士夫グループの両方でドラムを叩いた。しかし、山口冨士夫は、その後、オーディションで恒田義見を採用して京都で村八分を結成した。
第3回日本ロック・フェスティバル - 飛龍のロック雑記帳
http://rock70s.music.coocan.jp/kosenjyo/hibiya03.html
◇5月ごろ 山口冨士夫、恒田義見をオーディションで新グループ (村八分)に誘う
恒田義見 伝説のバンド村八分結成秘話!山口冨士夫との出会い!
https://www.youtube.com/watch?v=xwCbnPn7Bi8
0:20 恒田義見の高校の後輩の高橋幸宏 (山口冨士夫の大ファンで追っかけだった) の紹介で、先輩の細野晴臣による新バンド(ヴァレンタイン・ブルー、はっぴいえんど)のドラムのオーディションを渋谷の天井桟敷館で受けた。
3:20 東京キッドブラザースの団員の紹介で、山口冨士夫と六本木アマンドで会い、新宿のディスコでオーディションを受け、採用される。
5:45 「(山口冨士夫は)20歳ですごい貫禄ですね」
「だってスーパーギタリストだもん。・・・当時10円コンサート、ロックコンサートで、エディ潘、山口冨士夫っていえばギターの王者みたいなとこがあったじゃん」
◇5月ごろ 山口冨士夫が京都で村八分を結成。当初は「ななしのごんべ」「山口冨士夫グループ」「裸のラリーズ」等を名乗る。
山口冨士夫は1969年のニューロック期に、ダイナマイツ時代から、Golden Cupsとの共演や、ディスコ、ライブ喫茶でのライブ、ロックフェスやプライベートでのセッションを通して、ギタリストの腕を磨きながら、方向性を模索していた。
結論として、エディ藩と並び日本でトップギタリストと評価されながら、山口冨士夫は、感性の柔らかい素人のチャー坊や青木真一をメンバーにする。そして、日本にはなかったRolling StonesのようなリフとGroove感をメインとする新バンドを京都で実現した。
◇7月26日 「ロックイン・ハイランド」(富士急ハイランド)
村八分が水谷孝を加えた6名で「裸のラリーズ」名義で出演。
共演:◆Flower Travellin’ Band、モップスなど。
◆8月31日 ゴールデン・カップス、伊東が完全に脱退。9月1日、柳ジョージが加入。
◇9月13日 京都円山オデッセイに、水谷孝を除く「山口冨士夫グループ」として村八分が出演。共演:◆Flower Travellin' Band
山口冨士夫「So What」によれば、チャー坊主導と水谷孝主導の2つの「裸のラリーズ」が出た。
◇秋 水谷は東京に移り、「東京版ラリーズ」を編成。
→1974年に裸のラリーズは、◆Golden Cupsをゲストに青山で10周年ライブ
◇9月4日 山口冨士夫、チャー坊が目標としたRolling StonesのGet Yer Ya-Ya's Out! のLiveがリリース。
Rolling Stones / Jumpin' Jack Flash (Live) 1969年11月27日 – 28日録音
https://www.youtube.com/watch?v=yvzpNnjFNk4&list=RDyvzpNnjFNk4&start_radio=1
2:12〜 1971年録音の「村八分 / 草臥れて」の「 あっ!!」の原型と思われるGrooveが素晴らしい。
◆10月23日 Golden Cups、エディ藩作曲のインスト「ハイジャック」録音 → 翌1971年1月「Golden Cups / フィフス・ジェネレーション」で発売。
1970年3月31日の元裸のラリーズの若林盛亮による「よど号ハイジャック事件」からの影響といえる。
フォークではなく、ロックバンドが政治的メッセージを示唆したレアなケース。
ドイツのAmon Düül IIも音楽的志向から、政治的なAmon Düülから1968年に分離したが、1974年にアルバム「Hijack」をリリース。内容的には、普通のPop Rockだった。
タイガース:エディ藩作曲「海の広さを知った時」収録のラストアルバム
Foodbrain:第3回ロックフェスの5月10日「セッショングループ」から誕生した名盤
◆11月6日 慶應三田祭で、ルイズルイス加部 (ベーシスト交替の可能性あり) 、陳信輝のFoodbrainが出演
◆12月15日 タイガース、エディ藩作曲・安井かずみ作詞のバラード「海の広さを知った時」をリリース。
タイガース / 海の広さを知った時 1970
https://www.youtube.com/watch?v=9I2RJv7SoTw
= 1971年「日比谷野音」 エディ藩・Golden Cupsライブアルバム録音 山口冨士夫・村八分の衝撃的デビュー
1969年〜1970年に日本の「ギタリストの王者」の一人とされたエディ藩は、Golden Cupsの音楽性を成熟させ、後の自身の名盤「エディ藩とオリエント・エクスプレス」、ミッキー吉野のゴダイゴ、柳ジョージとレイニーウッドなど日本のロックの発展に貢献していく。
他方、もう一人の「ギタリストの王者」山口冨士夫は、京都のチャー坊とともに、一説にはSex Pistolsの音楽性にも影響を与えたとされる (村八分2代目ドラマー、上原ユカリ談) 衝撃的な「村八分」のサウンドを作り上げていく。
◆1月10日 The Golden Cups / フィフス・ジェネレーションReturn Of The Golden Cups発売
エディ藩は「本当にやりたかったことができた」と述べ、またこのアルバムがゴダイゴのサウンドの原型となったとされる。
Hi Jackはエディ藩作曲のインストで、飛行機のジェット音の効果音が入っており「よど号ハイジャック事件」にインスパイアされたと思われる。1968年9月の同志社大学学園祭でGolden Cupsの前座をした裸のラリーズに対する、エディ藩からの回答ともとれる。
エディ藩作詞作曲のFeel This Wayは美しいバラード。
The Golden Cups: V.D. (Vernard's Going Doomed Again)
https://www.youtube.com/watch?v=MvaA8NkT2wc&t=24s
B面3曲目。本作中、最もProgressive Rockに近づいた実験作。ハモンドオルガンが美しい。
◆Music Life3月号 Golden Cupsが、1970年度人気投票最終結果で、2年連続で国内部門で1位 (15000票超) 。3位はPowerhouse (10000票超) 。
◇3月20日 京大西部講堂「Mojo West」で、山口冨士夫「村八分」名義でのステージデビュー。共演:PYG(沢田研二、萩原健一)
平凡パンチで大きく取り上げられた。
◆3月31日 Golden Cups「ガッツ・イン・コンサートvol.1」 草月会館
ケネス伊東を除くGolden Cupsの歴代メンバー全員参加によるゴールデン・カップスの歴史を辿る意欲的なコンサート。
◇4月11日 日比谷野音で「村八分」の東京デビュー 共演:トゥーマッチ
◇4月30日 村八分 / 草臥れて 大阪のスタジオで録音。山口冨士夫は2006年頃の「日本のギタリスト」という著書で「草臥れて」を生涯で「1番気に入っているプレイ」として挙げている。
◆4月 Flower Travellin’ Band / Satori カナダ、日本で発売。カナダでチャートイン。
◇5月25日 Music Life 6月号に山口冨士夫のインタビューを掲載。「世界で一番すごいのはRolling Stonesと村八分だ」と発言。
村八分 / あっ!! from 『村八分 / くたびれて』1971年4月30日
https://www.youtube.com/watch?v=O8SuvuaVqfU&list=RDO8SuvuaVqfU&start_radio=1
2:20〜 日本の1971年のロックのピーク。 1984年12月24日 (山口冨士夫が欠場) に法政大学ホールで大音量で流されたときの音は重低音が強調されたため、もっと凄かった。BassのGrooveが際立っており、山口冨士夫が青木真一に1日中ベースを教えた成果、「世界で一番すごいのはRolling Stonesと村八分だ」と語った理由がわかる。
New Trolls / Concerto Grosso Adagio 1971 イタリア 1971年5月4日マスタリング
https://www.youtube.com/watch?v=DCgvp6IfE7w&list=RDDCgvp6IfE7w&start_radio=1
2:10〜 イタリアの1971年のロックのピーク。LPチャート最高位2位。キリスト教 (バロック)とユダヤ (Luis Enríquez Bacalov) の融合の到達点。
Ash Ra Tempel / Amboss 1971 ドイツ 1971年5月発売
https://www.youtube.com/watch?v=iTZeaAIDvTo&list=RDiTZeaAIDvTo&start_radio=1
7:30〜8:00 ドイツの1971年のロックのピーク。世界で最も過激だったBerlinの学生運動から生まれた音。Popol VuhのFlorian FrickeがLed ZeppelinWより上位に評価。
◇6月27日 日比谷野音で村八分主催のコンサート。これを見た一風堂の土屋昌巳は「音楽によって世界が変わると確信した」と述べている。
村八分BOX -LIMITED EDITION Trailer
https://www.youtube.com/watch?v=G9EqrB0ISaw
1:37まで、1971年の日比谷野音での映像が見られる。
◆7月3日・4日 日比谷野音 Golden Cups 共演:はっぴいえんど 陳信輝
1971年はゴールデン・カップスの野外ライブは、7月に日比谷野音で行われた2回しかない。
◆7月30日 Golden Cups「ガッツ・イン・コンサートvol.2」 日比谷野音
出演:Golden Cups、ルーム (ルイズルイス加部、林恵文)、エディ藩グループwith柳ジョージ
「ライヴ!! ザ・ゴールデン・カップス」を録音。キーボードはジョン山崎。
Golden Cupsの成熟した実力が最大に発揮され、3人のリードボーカル(デイブ平尾、エディ藩、柳ジョージ)を擁する強力なアルバムとなった。
1971年の日比谷野音では、エディ藩(Golden Cups)と山口冨士夫(村八分)の共演はなかった。
東京ではフォークが盛んになり、ロックが急速に衰え、年内にGolden Cupsは解散を決める。柳ジョージの著書「敗者復活戦」によれば、Golden Cupsのメンバーは皆、当時情熱を失っていったとされる。
◆10月5日 ライヴ!! ザ・ゴールデン・カップス 発売。
The Golden Cups / Live Album ライヴ!! ザ・ゴールデン・カップス- 1971 - (Full Album)
https://www.youtube.com/watch?v=fo1ug4f2q50&t=3s
1曲目はJoy To The World
◆11月5日 Golden Cups ラストシングル 人生は気まぐれ 発売
http://www.studio-g3.com/goldencups/03-sg-jinseihakimagure.htm
Golden Cups ライブ / たった一度の青春・人生は気まぐれ (場所は不明)
https://www.youtube.com/watch?v=dAvKs07kbss&list=RDdAvKs07kbss&start_radio=1
エディ藩のDrivingギターが聴ける貴重音源。司会のすぎやまこういち、湯川れいこもGolden Cupsを評価しているのがわかる。
◇11月6日 村八分が慶應大学三田祭をキャンセル。
この日、頭脳警察がはっぴいえんどの演奏時間をジャックしたことで知られる。
裸のラリーズ、吉田拓郎が出演。東京のロックが衰退する中で、裸のラリーズは日比谷野音などで活動を続け、OZなどで高い支持を得る。
吉田拓郎はフォークブームにより全国でブレイクする。吉田拓郎はロックファンであり、ライブではJeff Beckグループのような音を目指していた。
= 1972年 Golden Cups解散 村八分 全盛期
◆1月1日、ゴールデン・カップスとして最後の仕事となった沖縄のディスコで、『長い髪の少女』を演奏中、会場内で火災が発生し、柳のベースを除く機材をすべて焼失。1月2日付でザ・ゴールデン・カップスが正式に解散。
◆3月 Flower Travellin’ Bandの帰国後、篠原信彦(キーボード、ex.ハプニングス・フォー)がサポートメンバーとしてバンドに参加。全国縦断凱旋コンサートを行う。しかし日本でのロックの人気は低迷していた。
※8月
GS出身の立川直樹が「日本のロックは、いまどこに… フォークの波にのまれたのか ロック・アーチストの哀しい眼差しが気になる ROCK in JAPAN」というタイトルで『guts』1972年8月号に寄稿し、当時の日本に於けるロックの状況を嘆いている。「昨年(1971年)、あれほどまでに盛んに行われたロック・コンサートが、今年はあまり開かれないという。さらに1971年秋頃から、一時のGSブームを思わせるスピードで抬頭してきたフォークソング・ブームに押され、重要な資金源(?)であった夏のコンサートが、昨年夏に比べると、ずっと少なくなってしまった。
◇8月27日 村八分「No.1 コンサート」京都円山公園音楽堂
東京に対し、京都のロックシーンは村八分によって活況を呈し、8月のライブでは全国からファンが訪れ、大音量のライブで衝撃を与えた。
Music Lifeの1972年度の人気投票 (1973年3月最終結果) では、村八分はレコードを出していないにもかかわらず、日本のバンド部門で14位にランクされた。
◆10月5日 デイブ平尾が初のソロシングル『僕達の夜明け/一人』を発売。
ディーブ平尾(デイブ平尾) / 僕たちの夜明け(Dawn of our)/
https://www.youtube.com/watch?v=nZCDeGCnzus
◇11月23日 村八分 / 三田祭Live
このライブを見て衝撃を受けた石坂敬一 (後の日本レコード協会会長) は、自身が東芝でプロモートしていたPink FloydのHarvestなどを通して、村八分を世界にリリースすることを決意する。しかし、洋楽担当だった石坂敬一は計画をとん挫する。
村八分 / あやつり人形 (from 三田祭 1972)
https://www.youtube.com/watch?v=wrHrsF_g0ZU&list=RDwrHrsF_g0ZU&start_radio=1
3:30から4:45が日本のロックの頂点だと思う。できれば2000年モノラル盤CDをヘッドホン・フルボリュームで。Sex Pistols / Anarchy in the UKと同格の衝撃、日本の音階による山口冨士夫の完成されたギターソロ。
= 1973年 村八分、Flower Travellin' Band解散
◆1月 Flower Travellin’ Band、来日するローリング・ストーンズの前座の予定だったが、来日は中止になり大きなチャンスを逸す。2月、アルバム『Make Up』を発表。3万枚はロックとしては好セールスだがフォークにははるかに及ばず。4月、京都円山公園音楽堂で行われたコンサートを最後に解散。
Flower Travellin' Band / Make Up 1973
https://www.youtube.com/watch?v=WW-Ba9BI3AM&list=PLrRNJEB_vQPQ3_haTIkKd1i94qmQUbShv&index=2
後にCMでもリバイバルヒットした名曲
Flower Travellin' Band / Broken Strings 1973
https://www.youtube.com/watch?v=de-1SS7_ghM&list=PLrRNJEB_vQPQ3_haTIkKd1i94qmQUbShv&index=6
BeyonceがSamplingした美しいバラード
◇New Music Magazine2月号 山口冨士夫の特集が異例の10ページ掲載される。 (うち8ページは鋤田正義の写真)
◆春頃、デイブ平尾が断続的・流動的にママリンゴというバンド(メンバーは平尾、加部、柳など)を開始。
ママリンゴの唄
https://www.youtube.com/watch?v=xV5x6VFMyIQ
◇5月5日 村八分 / 京大西部講堂でLive 解散
村八分 / 馬の骨 from 『村八分 ライブ』1973
https://www.youtube.com/watch?v=kmNLNF54Cm8&list=RDkmNLNF54Cm8&start_radio=1
ライブはJeff Beckも影を潜めるほどの出来だったと、New Music Magazineのライターは述べている。
村八分 / あッ!! from 『村八分 ライブ』1973
https://www.youtube.com/watch?v=M4qicGFRsjA&list=RDM4qicGFRsjA&start_radio=1
John Lydonは、1970年代の最愛聴盤がCanのTago Magoで、日本人Damo Suzukiに代わって自分がCanのVocalになりたいと思っていた。「あっ」の冒頭の「うるさい」のチャー坊の叫びも含め、Sex Pistolsが『村八分 ライブ』を聴いて影響を受けたという噂にも十分信憑性がある。
◇6月5日 モップスMops/朝まで待てないAsamade Matenai のLP version をリリース
1967年のビクター時代からダイナマイツの山口冨士夫とは盟友だったMopsは、吉田拓郎、井上陽水などフォークシーンと関わりながら、1970年代を活動。朝まで待てないのリメイク版は、村八分 / 操り人形の三田祭ヴァージョンと並ぶ、日本のロックの金字塔。
モップスMops/朝まで待てないAsamade Matenai ~Remake version (1973年)
https://www.youtube.com/watch?v=ipC9uqFMMT8&list=RDipC9uqFMMT8&start_radio=1
◆12月頃 ママリンゴが「デイブ平尾とゴールデン・カップス」に改名し活動を開始。
「ママリンゴ」 → 「デイブ平尾&ゴールデンカップス」に改名
・デイブ平尾(ボーカル)【元・ゴールデンカップス】
・柳譲治(ギター)【元・パワーハウス、ジプシーアイズ、ゴールデンカップス、柳譲治と不確定性原理とルイス加部】
→ 柳ジョージとレイニーウッド
・加部正義(ベース)【元・ゴールデンカップス、ルーム、フードブレイン、スピード・グルー&シンキ、柳譲治と不確定性原理とルイス加部】
→ フーアウイ、リゾート、ジョニー・ルイス&チャー、ピンククラウド
◇12月 山口冨士夫が「ひまつぶし」をELECレコードで録音。
= 1974年 2つの名盤「エディ藩とオリエント・エクスプレス」「山口冨士夫 / ひまつぶし」 Golden Cupsが裸のラリーズにゲスト出演
日比谷野音も、京都の村八分のロックシーンも終焉した後、エディ藩と山口冨士夫は、新しい感性に基づいた名作をリリース。
エディ藩は渡米の際に感動したTower Of Powerに影響を受けたホーンセクションに、MellotronのEuropean Progressive Rockの抒情性も加味した「オリエント・エクスプレス」をリリース。
山口冨士夫は、過去の作曲ストックからと思われるポップスやフォークなど、Kevin Ayersの『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』のような良質のメロディーの作品集「ひまつぶし」をリリース。
1974年は、Philadelphia Soul、Virginレーベルや、イタリアのIl Volo、Le Orme / Maggio、Tangerine Dream / Phaedraなどの新しい感性に基づく良作が生まれた年だった。
Il Volo / Sonno 1974
https://www.youtube.com/watch?v=YNfXQqSu52w&list=RDYNfXQqSu52w&start_radio=1
1974年の新しい時代の感性を象徴する曲。「エディ藩とオリエント・エクスプレス」のSoulとEuro Progの感性、「山口冨士夫 / ひまつぶし」の良曲、Philadelphia Soulなどを想起させる。
これに対して、1974年のFocus / Hamburger ConcertoのB面は一つの時代の完成と終焉だった。
◇Music Life3月号 人気投票最終結果。日本のギタリスト部門で山口冨士夫が8位、グループ部門で村八分が7位。
◆3月31日 西武劇場 「ママリンゴ」名義で、デイブ平尾とゴールデン・カップスが出演
◇4月10日 フジオ(山口冨士夫) / ひまつぶし 発売
山口冨士夫 / おさらば from ひまつぶし 1974
https://www.youtube.com/watch?v=t7llGN9fSsE
山口冨士夫 / からかわないで from ひまつぶし 1974
https://www.youtube.com/watch?v=JwdwWa9_yVw&list=RDJwdwWa9_yVw&start_radio=1
後にライブの定番になる日本のロックの最高楽曲の一つ
山口冨士夫は、4月20日に愛知・名古屋市公会堂で、3曲のみ演奏しステージを去った。
その後、6月頃、山口冨士夫は「ZOON」結成。メンバーはティナ(Vo)フジオ(G)高沢(B)ビショップ(Ds)
◆エディ藩とオリエント・エクスプレス
http://www.studio-g3.com/whoswho/02-eddiebang6-orient.htm
日本コロムビアの担当役員が、会社史上最高のサウンドの音楽と絶賛した名盤。
◆7月1日発売
LP:エディ藩とオリエント・エクスプレス/その1 日本コロムビア
シングル:エディ藩とオリエント・エクスプレス/9O‘clock
エディ藩とオリエント・エクスプレス/オリエント・エクスプレス
https://www.youtube.com/watch?v=uSWyUc9Mj4M&t=33s
詞曲:エディ藩 Mellotron:大野克夫
エディ藩の作曲の最高作とも思う抒情的な名曲 9 O'Clock
エディ藩とオリエント・エクスプレス / 9 O'Clock 日本語version
https://www.youtube.com/watch?v=kGMIpKa7VjY
Mellotron:大野克夫
「9 O'Clock 」は、日本語versionも良いが、英語も話せるエディ藩自身の作詞による英語versionの方が、心地よいと思う。
Eddie Ban And Orient Express エディ潘とオリエント・エクスプレス / その1 全曲+ボーナストラック
https://www.youtube.com/watch?v=9hnyZw70xZs
39:34 「9 O'Clock 」英語version 詞曲:エディ藩
(ブログ) 癒しのメロトロン・日本におけるメロトロン使用曲・名曲選U Mellotron in JapanU 「9 O'Clock 」
http://soleluna.seesaa.net/article/474800760.html
◇8月4日 Zoon (山口冨士夫) とPantaが、郡山ワンステップ・フェスティバルに対抗する「Two Step Concert」を日比谷野音で実行。
◆8月5日 エディ藩とオリエント・エクスプレス、郡山ワンステップ・フェスティバルに出演 ライブCD 2019年4月発売
名演とされたエディ藩とオリエント・エクスプレスのライブは後にCD化された
◆8月9日 デイブ平尾とゴールデン・カップス、郡山ワンステップ・フェスティバルに出演
◆8月11日 横浜Day Dream Festival Bebe (Powerhouse) 主催
出演:ニュー・ゴールデン・カップス、エディ藩とオリエント・エクスプレス、パワーハウス・ブルースバンド、ミッキー吉野グループ
悪魔のはらわたブギウギ・バンド=加部正義、ジョン山崎のバンド
◇◆9月6日 裸のラリーズLes Rallizes Dénudésが、ゲストにGolden Cupsを迎え、青山タワーホールでライブ。
当時の裸のラリーズのメンバー
「お互いに10年選手だから」という理由での共演。デイブ平尾、ルイズルイス加部、柳ジョージが出演し、エディ藩は出ていないと思われる。「ゴールデン・カップスのすべて」の本には、この9月6日の記録はない。
「お互いに10年選手」という言葉からは互いへの敬意が見て取れる。水谷孝がデイブ平尾、エディ藩、ルイズルイス加部の誰かと旧知にあった可能性もある。
「OZ Days」以外にレコードもない裸のラリーズのオファーにGolden Cupsがなぜ応じたのかは昔から謎だった。しかし、1968年11月2日に、Golden Cupsの同志社大学でのライブに裸のラリーズが前座として出演していたことがわかった。
1974年前後、裸のラリーズはライブハウス「OZ」のスタッフの協力を得てライブの企画運営を行っており、「OZ」の関係者を通してGolden Cupsをゲストに招いたとも考えられる。
「ヤング・ギター」1973年11月号の“空を駈ける裸のラリーズ”での水谷孝のインタビューには、「時代は変わってしまった。重く感じてた事? 安保とかーいっぱいあるでしょ。」とある。1960年代に京都で政治闘争やデモに参加した水谷孝と、ベトナム戦争を経験したデイブ平尾、エディ藩などGolden Cupsとの間に共感があったとも思われる。エディ藩もゴールデン・カップスとベトナム戦争は切り離せないと語っていた。
青山タワーホールでは、1972年にRCサクセション、井上陽水、1973年にシュガー・ベイブなどのライブがあり、OZや大学などで主に活動していた水谷孝にとって「音楽活動10周年」の特別な意味があったと思われる。「10年選手」という言葉から、水谷孝が音楽を始めたのは1964年であり、ヴェンチャーズ、ビートルズの影響を受けたことも推測できる。
当日のライブの音源やレポートはないが、大音量の裸のラリーズとの共演によって京都の天井桟敷とも言われた現代劇場が解散したように、デイブ平尾とGolden Cupsがショックを受けたことは想像できる。
山口冨士夫も裸のラリーズに1980年から1981年まで在籍したが、「So What」の中で「ラリーズにいたことを誇りに思っている。一生忘れられない何かを芽生えさせてくれたバンドだから」と述べている。裸のラリーズが、デイブ平尾が1975年に一度引退したことや、ルイズルイス加部や柳ジョージのその後の音楽活動にも影響を与えたことも想像できる。
1983年と1984年の年末に、音楽性の異なる裸のラリーズと山口冨士夫が法政大学で共演した理由がずっと謎だったが、それは「お互いに20年選手」 (1984年の時点で) ということへの敬意にあったのではないかと気づいた。以前ライブハウスの経営者の方と話したとき、この業界ではたとえ無名でも20年以上継続したバンドは無条件で尊敬されると聞いた。
その後1994年に「30年選手」となる裸のラリーズは、チャー坊追悼の公演を京大西部講堂行い、1997年に活動を停止した。
山口冨士夫は1964年を起点とすると、亡くなった2014年に「50年選手」だった。
Golden Cupsは、2022年の「55th ANNIVERSARY THE GOLDEN CUPS AT LAST」まで続いた。1964年を起点とすると「58年選手」だった。
裸のラリーズ / Last One「75・花まつりコンサート」1975年4月20日 御殿場・日本山妙法寺
https://www.youtube.com/watch?v=AITgGWOcLZ8&list=RDAITgGWOcLZ8&start_radio=1&t=3023s
49:30から、裸のラリーズ / Last One 1974年9月6日のゴールデン・カップスとの共演の日と同じメンバーによる演奏。
54:13から、久保田麻琴 (元裸のラリーズ)と夕焼け楽団
◆10月27日 日比谷野音 出演:デイブ平尾とゴールデン・カップス、エディ藩とオリエント・エクスプレス、大木トオル
→ その後、エディ藩とオリエント・エクスプレスは解散
◆12月31日 西武劇場 出演:デイブ平尾とゴールデン・カップス (最後のライブ) 、陳信輝グループ
= 1975年 エディ藩、ゴールデン・カップス、山口冨士夫 活動休止期
◆デイブ平尾が俳優業を本格化、ゴールデン・カップスは解散。
ベトナム戦争の終結によって、世界的に反体制としてのRockは終わりを告げ、ベルリンの学生運動の中から生まれたTangerine Dream、反戦ミュージカルHairのバックバンドからスタートしたFocus、ELPなどはその使命を果たしたと言える。頭脳警察も解散した。
◆3月29日 TV萩原健一主演「傷だらけの天使」の最終回のラストシーンで、デイブ平尾 / 一人が使用される。
ディーブ平尾(デイブ平尾) / 一人 I Stand Alone
https://www.youtube.com/watch?v=yvvMbJiqBSc
= 1976年 2人の復活「エディ藩とスーパー・セッション・バンド」「リゾート (山口冨士夫&ルイズルイス加部)」
エディ藩、山口冨士夫は、ミッキー吉野グループ、ルイズルイス加部といういずれも元Golden Cupsのサポートで活動を再開。
◆10月発売 エディ藩とスーパー・セッション・バンド/ベイサイド・スウィンガー 日本コロムビア
エディ潘とスーパー・セッション・バンド – Bayside Swinger = ベイサイド・スウィンガー – CD (Paper Jacket,Obi, Album, Limited Edition + 2 more), 2006 [r8974090] | Discogs
Eddie Ban And Super Session Band / Back To China
https://www.youtube.com/watch?v=XsrSzOBT19E
ミッキー吉野、ゴダイゴがサポートした軽やかな音楽
Eddie Ban And Super Session Band / I'VE BEEN LOVIN' YOU
https://www.youtube.com/watch?v=VEUe83faFBM
Barclayに留学した世界レベルにあるミッキー吉野のエレピが素晴らしい。
◇◆山口冨士夫、ルイズルイス加部とのダブルギターによるリゾートを結成。
横浜の方でセッティングされ、山口冨士夫が呼ばれる形だった。
ダイナマイツは、1969年にルイズルイス加部がギターにコンバートした時のGolden Cupsとも2回、共演していた。
◇◆10月16日 日比谷野音 出演:リゾート、裸のラリーズ、カルメンマキOZ、外道
リゾート「live 1976」CDは、2017年に発売。 ※1976年渋谷パレス座、新宿ロフトでのライブを2枚組に収録。
リゾート(山口冨士夫&加部正義) / One more time (Them cover) live 1976
https://www.youtube.com/watch?v=LhzznWdoQRw
= 1977年〜1978年 エディ藩・山口冨士夫 2人の休息期
エディ藩は中華料理店に専念し、山口冨士夫はアマチュアのヒッピーたちと音楽を続けていたとされる時期。
◆ゴールデン・カップスのベスト盤「GS Original Stock」が、久々に東芝から発売。
他に、Mops (朝まで待てない・リメイク版収録) 、Happenings 4 (レア音源・最高作:おまえの世界へ Live 収録)
当時はGSを聴ける機会はほとんどなく、貸しレコード店で聴いて、感銘を受けた。
= 1979年 5年ぶりのGolden Cups、6年ぶりの村八分の再結成
◆ラジオで「グループサウンズベスト100」という人気投票。
子供のころ好きだったのが、タイガースとテンプターズとオックス。このラジオで初めてゴールデンカップスを知り、「銀色のグラス」に驚く。
◇◆5月6日 村八分が再結成され、京大西部講堂のジョー山中グループのコンサートに飛び入りで参加。
◇6月7日 村八分、大阪でテレビ「11pm」に出演
◇7月15日 村八分、京大西部講堂でライブ。その後、解散。
◆8月28日 Golden Cups 日本青年館での『デイヴ平尾と仲間たち』に、エディ藩、加部、マモル、吉野、高野、柳が出演。
5年ぶりに、同窓会のような雰囲気の中で往年のゴールデン・カップス・ナンバーを披露、当日のみの再結成が実現。
= 1980年 異能の人との出会い 「エディ藩と松田優作」「山口冨士夫と裸のラリーズ水谷孝」
左:松田優作「TOUCH」 (演奏:エディ藩とクリエイション)
右:Les Rallizes Dénudés裸のラリーズ with 山口冨士夫 / 屋根裏Yaneura Oct. ‘80
◇村八分が再び解散した後、裸のラリーズの水谷孝が山口冨士夫に電話をかけ、裸のラリーズのレコーディングに参加。
◆ジョー山中が、松田優作を連れて突然エディ藩を訪れる。松田優作が毎日、エディ藩に懇願し、レコーディングを実現。
◆5月1日 松田優作「TOUCH」をVictor Invitationから発売。35万枚のヒット
エディ藩作「横浜ホンキートンクブルース」を収録。
松田優作+エディ藩グループ / Yokohama Honky Tonk Blues Live 1980
https://www.youtube.com/watch?v=QVP3kynBvo4
夜のヒットスタジオ出演
◆1980年か1981年 NHK「ふるさとからこんばんは 本牧」(正確な放送時期不明)
エディ藩主演のテレビドキュメンタリー、NHK「ふるさとからこんばんは 本牧」で、エディ藩の「横浜ホンキートンクブルース」が演奏される。この番組を見た東芝の石坂敬一が声をかけ、エディ藩は1982年に2枚のソロアルバムを発売。
◇8月14日 山口冨士夫、裸のラリーズで渋谷屋根裏で初ライブ。翌年3月まで、月1回のペースでライブを行う。
裸のラリーズ(Les Rallizes Dénudés) LIVE 14 Aug. 1980 with山口冨士夫(Fujio Yamaguchi) at渋谷屋根裏(Yaneura, Shibuya)
https://www.youtube.com/watch?v=5ZFQG-2v-w0&list=RD5ZFQG-2v-w0&start_radio=1&t=208s
1曲目が造花の原野 2:09〜3:49の水谷孝と山口冨士夫のダブルリードギターが素晴らしい。
= 1981年 山口冨士夫が音楽を停止 エディ藩が活動を復活
◆1月22日 「さよなら日劇ウエスタン・カーニバル」
デイブ平尾 (Golden Cups) / 長い髪の少女 1981
https://www.youtube.com/watch?v=LI7O54atFvs&list=RDLI7O54atFvs&start_radio=1
◇3月23日 山口冨士夫が屋根裏のライブを最後に裸のラリーズを脱退。
ギターを燃やして音楽活動を停止。「オレはもう、ダメ、だった」「オレは音楽をやめる」(自伝So Whatより)
山口冨士夫は、裸のラリーズにいたことを「誇りに思う」とも述べている。
山口冨士夫は、翌1982年11月まで音楽活動から離れ、海の近くで生活していた。
◆Golden Cupsの5枚のLP (1,2,3,「リサイタル」「ライブ!」) が1981年に復刻される。
シングルジャケットだったが、この時代に希少なGSが5枚も復刻されるのは初めてで、画期的なことだった。
◆12月5日 Golden Cups、横浜シェルガーデンのオープン記念
『ゴールデン・カップス・ワンナイト・セッション』で、当日のみの再結成(メンバーは、平尾、藩、加部、吉野、高野)。
The Golden Cups / Opening〜愛しのジザベル / Live 1981.12.5 Shell Garden Yokohama
https://www.youtube.com/watch?v=1oAcHowYR4Y&t=369s
ザ・ゴールデンカップス / 横浜ホンキートンクブルース Live 1981.12.5 / Shell Garden Yokohama
https://www.youtube.com/watch?v=aDIPFwia1Nk&t=18s
= 1982年 エディ藩・東芝から2枚のLPを続けて発売 山口冨士夫が音楽活動を復活
裸のラリーズとの轟音の共演によって燃え尽きた山口冨士夫だったが、かつて日比谷野音での「ギターの王者」のライバルであり仲間でもあったエディ藩が、村八分を世界に出そうとした東芝の石坂敬一のサポートで1982年に二枚もソロアルバムを出したことは、 復活に向けて励みになったことが想像できる。
Eddie Ban Discography: Vinyl, CDs, & More | Discogs
https://www.discogs.com/ja/artist/1066305-Eddie-Ban
エディ藩 Discography
http://www.studio-g3.com/goldencups/03-eddiedisc.htm
◆2月 エディ藩 / ブルー・ジェイド 東芝EMIから発売 Producer:石坂敬一
横浜ホンキートンクブルースを収録
エディ藩Eddie Ban / サテンの夜 Nights In White Satin (Cover)
https://www.youtube.com/watch?v=-M1NXHrRmhQ&t=3s
エディ藩は、King Crimsonの1st、MellotronなどProgressive Rockにも関心を持っていた。
エディ藩Eddie Ban / Yokohama Honky Tonk Blues
https://www.youtube.com/watch?v=NLqzTCGUbV0&t=6s
◆7月20日 Golden Cups 横浜市民ホールのソロ・コンサート『エディ藩と仲間達』に、平尾、加部、吉野、高野が出演、当日のみのゴールデン・カップスの再結成が実現。
◆7月21日 エディ藩 / 横浜ホンキートンクブルース 英語版 (B面) シングル発売
◆第9回 横浜音楽祭 地域特別賞を「ヨコハマ・ホンキートンク・ブルース」で受賞。
◇◆8月 横浜のバンド491出身で、1970年5月10日に日比谷野音でGolden Cups、山口冨士夫グループと共演したFlower Travellin' Bandのジョー山中は、ウェイラーズとともにレゲエに転向し、アルバムをリリース。シティーロードでも好評価。
◆8月29日 第2回本牧ジャズ祭にミッキー吉野が出演。ゴールデン・カップス関係では最初と思われる。
本牧ジャズ祭の歴史・出演者
https://honmoku-jazz.com/?page_id=160
◆10月 エディ藩 / ネオン・シティ 東芝EMIから発売 Producer:石坂敬一
エディ藩EDDIE BAN / HIDE AWAY - 1982
https://www.youtube.com/watch?v=y_025k3X13g&t=1s
素晴らしいファンク
エディ藩 / ネオン・シティ データ
http://www.studio-g3.com/goldencups/03-eddie-neoncity.htm
前作がクリエイションのバックアップだったのに対し、本作は、陳信輝、アイ高野など横浜の人脈による。
◆デイブ平尾が六本木にライブ・バー「ゴールデン・カップ」をオープン。
◇11月22日 山口冨士夫が法政大学のFoolsのライブでゲストとして音楽活動を復活
「シティロード」1982年11月号 山口冨士夫が知らずにされたという告知
= 1983年 山口冨士夫音楽活動を本格化
「Music Magazine」 3月号 初めて明かされたGolden Cupsとベトナム戦争、エディ藩・ジョニー野村の生い立ちなど
◇1月1日 山口冨士夫がダイナマイツの大木啓造とのキズで、渋谷クロコダイルでのライブ。
◆「Music Magazine」 3月号 「横浜のロック デイブ平尾、エディ藩の近況」の10ページの特集が組まれる
デイブ平尾、エディ藩、ジョニー野村などのインタビュー。
ゴールデン・カップスの音楽的な分析ではなく、生い立ち、ベトナム戦争、GIなどの音楽的背景、内情の方に初めて深く迫る内容だった。
山口冨士夫の特集が10ページも組まれた「New Music Magazine」1973年2月号から10年。
このデイブ平尾、エディ藩、Golden Cupsの記事を山口冨士夫も読んだと思われる。
◇「シティロード」4月号 ライブハウス情報に「あの山口冨士夫が本格的に始動」の記事が登場。
◇4月26日 山口冨士夫のライブを初めて屋根裏で見る。
山口冨士夫の第一声:「 1960年代後半から1970年代の雰囲気で。。。だってほら、みんな、表面ばっかり舐めてきただろ? もっと深く行こうぜ」
◇5月 山口冨士夫が4曲入りEP「Ride On!」発売。
山口冨士夫 / ロックミー
https://www.youtube.com/watch?v=bJOrUp-Py8I&list=RDbJOrUp-Py8I&start_radio=1
ついにライブハウス情報に「あの山口冨士夫が本格的に始動」の記事が登場
◆6月 加部正義名義のソロアルバム「MOON LIKE A MOON」発売。ベースでなくギターを弾いていたが、ピンクフロイド的な音もある素晴らしいアルバムだった。
◆8.28 第3回YOKOHAMA本牧ジャズ祭に、Golden Cupsからエディ藩が出演。
山口冨士夫の復活に対し、1982年に2枚もソロアルバムを出したエディ藩は、1980年代中盤〜1990年代中盤は、「鴻昌」の経営に注力して音楽活動を控えるようになっていったが、1990年代後半から音楽活動を再開した。
◇12月23日 山口冨士夫が法政大学に出演し、1982年復活以降の最高のライブとなる。今までに見たコンサートの中でも最も印象に残るライブの一つだった。翌24日、裸のラリーズが出演し、客席前列に山口冨士夫がいたのも忘れ難い。
山口冨士夫 Tumblings / Dear Prudence (Beatles Cover) Live 1983
https://www.youtube.com/watch?v=r7N9tcSwXK8&list=RDr7N9tcSwXK8&start_radio=1
= 1984年
◇◆1月1日 ニューイヤーロックフェス1983〜1984にジョー山中、山口冨士夫出演
ニュー・イヤー・ロック・フェスティバル 1983-1984
https://www.youtube.com/watch?v=pSJgaff_R4g
◇◆8月4日 山口冨士夫とジョー山中が、江の島で共演。
◆8月26日 第4回YOKOHAMA本牧ジャズ祭に「Pink Cloud with ミッキー吉野、エディ藩」が出演。
Golden Cups関連の出演は3年連続。
◆夏、「ゴールデンカップ」など本牧を訪ねる。本牧の住宅街にあったクーラーのない小さな図書館で休んだのが懐かしい。
◆1984年の終わりごろ、Golden Cupsの「スーパーライブセッション」を横浜関内で入手し、LPの1曲目「モージョワーキン」のジャズのようなランニングベースに驚く。
The Golden Cups / Got my mojo working live 1969
https://www.youtube.com/watch?v=UuDrdz86bVQ
◇12月24日 山口冨士夫 法政大学での鮎川誠との共演ライブの日に欠席。シーナ&ロケッツと、山口冨士夫のいないタンブリングスが出演。
翌日の25日は裸のラリーズが出演。
= 1985年
◆このころ、六本木のGolden Cupに行き、デイブ平尾に握手して頂く。
◆ミッキー吉野に路上で出会い、道案内をしながら、サインを頂く。
◆ピンククラウド (ルイズルイス加部) のライブを浅草で見る。
= 1986年
◇ 2月 山口冨士夫、鮎川誠のライブにゲスト出演し、その後、シーナ&ロケッツ / ギャザードの録音に参加。
◇5月 山口冨士夫と鮎川誠のライブを渋谷ライブインで見る。
= 1987年
◇山口冨士夫、Teardropsを結成。
= 1988年
◇山口冨士夫、RCサクセションの「Covers」に参加。
= 1989年 ゴールデン・カップス再結成・大ホールでライブ 山口冨士夫メジャー再デビュー
◆1月16日 松田優作死去
◆4月5日 ゴールデン・カップス、大阪城ホール『タイガース・メモリアル・クラブ・バンド』にて、当日のみの再結成(平尾、マモル、吉野、高野)。
◇5月12日 山口冨士夫、Teardrops / 2nd.アルバム『らくガキ』で東芝からメジャーデビュー
1982年のエディ藩の2枚のソロアルバムと同様、東芝の石坂敬一から1988年の秋に誘いがあった。
石坂敬一は、1972年に村八分を世界的にリリースしようとして挫折した経緯があった。
山口冨士夫「So What」より:「インディーズじゃ、流通に限りがあるから東芝でやることにしたんだ。それに石坂氏という強い味方がいたからね」
◆6月10日 ゴールデン・カップス、横浜アリーナ『タイガース・メモリアル・クラブ・バンド』にて、当日のみの再結成(平尾、藩、マモル、加部、吉野、高野)。
◇◆8.27 第9回YOKOHAMA本牧ジャズ祭に山口冨士夫のTEARDROPSが出演。
共演:渡辺香津美、山岸潤史、Dr梅津,他 司会:平岡 正明(音楽評論家)
山口冨士夫がGolden Cupsの本拠地、本牧に出演したのは、これが最初ではないかと思われる。
= 1990年
◇2月14日 Rolling Stonesが初来日。チャー坊は、数回ライブを見る。
◇山口冨士夫、自らの半生を語った自叙伝『So What 山口冨士夫』を刊行。
1970年に「裸のラリーズ」として富士急ハイランドでライブをしたことが驚きだった。
= 1992年
◇◆3/25、5/13 山口冨士夫が『ATMOSPHERE-I』『ATMOSPHERE-II』2枚を連続リリース。
メンバー:◆ルイズルイス加部、テンプターズの大口広司、ハプニングス・フォー、フラワートラベリンバンドの篠原信彦、山口冨士夫
ルイズルイス加部、元テンプターズの大口広司、山口冨士夫
◇◆4月12日 川崎クラブチッタでATMOSPHEREライブを見る。
山口冨士夫 / Fun In The Sun (Bass:ルイズルイス加部)1992
https://www.youtube.com/watch?v=vYKwnmHhqGQ
= 1993年
横浜寿町フリーコンサート
◇◆8月14日 山口冨士夫、横浜寿町のフリーコンサートに出演
◆パワーハウスのチーボー、陳信輝、Golden Cups、ピンククラウドのルイズルイス加部、ジョニー吉長によるバンドMojosのライブを見る。最後の曲はクリームのクロスロード。
Mojosの後に、山口冨士夫が遅れてアコーティックギターだけで出演。
横浜の主催者からの、10年来の呼びかけが実っての出演だった。1983年の山口冨士夫「Ride On」のときから、横浜のPowerhouseが山口冨士夫に注目していたことがわかる。山口冨士夫も1960年代に「Golden Cups、Powerhouseは仲間と思っていた」と発言している。
= 1994年 村八分・チャー坊の死
◇4月25日「村八分」時代の山口冨士夫の盟友、ボーカルの「チャー坊」こと柴田和志がドラッグのオーバードースにより死去。
◆◇10月25日 黒沢進著「日本ロック紀・GS編」刊行 Golden Cupsとダイナマイツのレコードの全貌が明らかになる。
裸のラリーズとニューロックのレコードに関する情報も貴重だった。
= 1996年 <チャー坊(“村八分”)の生と死>の連載開始
◇1996年4月〜1998年8月 クイックジャパンに<チャー坊(“村八分”)の生と死>が9回連載
村八分の音楽のみならず、チャー坊の背景、山口冨士夫自身についても「So What」以上に深く、時として鬼気迫る衝撃的な内容だった。
1970年5月10日に日比谷野音で、2人の「ギターの王者」と呼ばれたエディ藩と山口冨士夫の分岐点は、1970年3月に山口冨士夫がチャー坊に出会い、京都に向かったことだったとわかる。
東京の日比谷野音を中心としたロックシーンは、ウッドストックの「Love &Peace」思想に基づくものだった。これに対して、村八分は、加えてチャー坊の個人的な世界観が強く反映している。
<チャー坊(“村八分”)の生と死>で、「あやつり人形」は死産したチャー坊の子供のための歌で、この詞を見たときに山口冨士夫が本気になったこと、「あっ」は幼少期のチャー坊自身のことであることが明らかにされた。
<チャー坊(“村八分”)の生と死> pdf
https://kazuo1947.livedoor.blog/archives/cat_110427.html
= 1997年 「エディ藩・丘の上のエンジェル」リリース
◆3月2日 Golden Cupsのケネス伊東が死去。特にデイブ平尾が哀しんでいたとされる。
◆8.31 第17回YOKOHAMA本牧ジャズ祭にVODKA COLLINS(アラン・メリル,大口ひろし,ムッシュかまやつ,◆加部正義)が出演。共演:渡辺香津美・本多俊之。
翌、1998年8月30日、第18回YOKOHAMA本牧ジャズ祭では、加部正義は、ぞくぞくかぞくで再び出演。
◆9月 エディ藩 / 丘の上のエンジェル リリース
エディ藩 / 丘の上のエンジェル
https://www.youtube.com/watch?v=ePdmyyDfO5s&list=RDePdmyyDfO5s&start_radio=1
エディ藩が歌った知られざる名曲「丘の上のエンジェル」〜アメリカ軍兵士と日本人女性の間に生まれた赤ちゃんたちに捧げる鎮魂の歌
https://www.tapthepop.net/song/73966
1997年に発表したにもかかわらず、人前では歌うことなく”封印”していたという歌がある。
エディ藩: 歌わない、「丘の上のエンジェル」は。なんかね、ぐっと涙ぐんじゃって歌えなくなっちゃうんだよね。いろんなこと思い出してさ。だから未だに封印している。
= 1999年 山崎洋子著・ゴールデン・カップス「天使はブルースを歌う」刊行
<チャー坊(“村八分”)の生と死>のように、山崎洋子著「天使はブルースを歌う」は、ゴールデン・カップスについて、音楽以上にその背景に深く迫るものだった。音楽、特に日本のロックで、この2つほど深いものは読んだことがない。
1996年から数年間は、これらの文章を通して、エディ藩や山口冨士夫の本当の姿を知った。そのため、2000年の「村八分 / ライブ三田祭1972」の衝撃、2004年の映画「Golden Cups ワンモアタイム」の感銘が大きかったと思う。
◆9月30日 山崎洋子著・「天使はブルースを歌う」刊行
山崎洋子は、平岡 正明から「あなたの文章にはブルースが足りない」と、エディ藩を聴くように勧められる。
山崎洋子は、1947年生で同い年のエディ藩に会い、亡くなったGIベビーの追悼歌「丘の上のエンジェル」の作曲と演奏を依頼し、チャリティーCDを制作する。
P200で「丘の上のエンジェル」について、ルイズルイス加部は「俺がつくらなきゃいけなかった」と述べている。
P207で、ミッキー吉野は、エディ藩について「ブルースっていう暗いイメージがあるけれど、すごくやさしい」と述べ、また「ゴールデン・カップスは単なる音楽グループじゃなく、一つの生き方だった」と、山口冨士夫の「So What」での「ロックは生き方なんだ」と同じことを述べている。
デイブ平尾は「丘の上のエンジェル」のGolden Cupsでの演奏を言下に断ったが、それも一つの判断と思える。
P221〜222がこの本の核心と思われ、山崎洋子は、エディ藩について「私などより重たすぎるものをぎっしり抱え込んでいるのかもしれない」と述べている。
P260 エディ藩は、このころは「丘の上のエンジェル」をストーミーマンデーで毎回歌っていた。
山崎洋子著「天使はブルースを歌う」は、Golden Cupsのメンバーの精神的な結束を深め、他方で、ゴールデン・カップスを音楽史のみならず、一つの歴史的な社会的遺産として位置づけ、価値を高めた。このことが、2003年以降のGolden Cupsの再結成、映画化につながったと思われる。
ふるさと本牧 フェンスの向こう
https://www.youtube.com/watch?v=S1_b69y-DJ8
昔の本牧の映像
= 2000年 CD「村八分・1972年三田祭Live」「あやつり人形」の衝撃
◇CD「村八分・1972年三田祭Live」がリリースされる。
1973年5月5日の「ライブ村八分」に対して、昔から、村八分の実力はこんなものではないと言われてきたが、CD「村八分・1972年三田祭Live」の「あやつり人形」はまさにそれを証明するものだった。
「村八分・1972年三田祭Live」には、Superviser:山口冨士夫だけでなく、Words:チャー坊、Producer:浅田哲、Director:加藤義明、Special thanks:村瀬茂人のライブ当日のメンバー全ての名も入っており、総力を上げた復刻といえる。メンバーへの取材にも及んだ<チャー坊(“村八分”)の生と死>によって、結束は固まったのではないだろうか。
「あやつり人形」は、<チャー坊(“村八分”)の生と死>を読んでいたことで、その衝撃は深まった。
レコード化されていなかったにも関わらず、当時音楽誌で話題になり、掲載されたという「あやつり人形」の歌詞「神を殺して」は、「丘の上のエンジェル」のように、死産で亡くなったチャー坊の子供への追悼歌だった。
この後、山口冨士夫は、再び、ソロやスリーピース編成などでライブハウスを中心に活動。
= 2002年 映画『ザ・ゴールデン・カップス・ワンモアタイム』の製作が決定。山口冨士夫関西ツアー
◇◆山口冨士夫の関西ツアーに、ルイズルイス加部、元Bebes、Powerhouseの野木信一がドラムでサポート。山口冨士夫とゴールデン・カップスなど横浜のロックが30年経っても繋がっていたことがわかる。
◇◆5月 山口冨士夫、ルイズルイス加部、コッペ、高橋清のメンバーで、リゾート再結成の話
◇◆7月20日 日比谷野音でライヴ。
◇◆11月4日 大阪ハードレインで、山口冨士夫&加部でライヴ。ドラムをパワーハウスの野木信一が担当し、中島らもも飛び入り参加。
14日の大阪ウォーターでは、加部が欠席。
◇7月12日 山口冨士夫、京都HATI HATIでライブ。
これは、京都だけのライブ。山口冨士夫のギターに、79年の村八分再編成時のドラマー榊原敬吉と、70年代初期に活動したバンド TOO MUCHのギタリスト小川勉のふたりがサポートした。 TOO MUCHのベース、ドラムスの2人は、1983年に山口冨士夫タンブリングスを結成した。
Fujio Yamaguchi – Groovy Night In Kyoto 2002 | Releases | Discogshttps://www.discogs.com/ja/master/2885134-Fujio-Yamaguchi-Groovy-Night-In-Kyoto-2002
◆12月、Golden Cups、本格的な再結成と映画『ザ・ゴールデン・カップス・ワンモアタイム』の製作が決定。
= 2003年 ザ・ゴールデン・カップス再結成 初めてライブを見る
◆ザ・ゴールデン・カップス再結成。その後、音楽番組への出演やライブハウスでの演奏を続ける。
◆5月4日、5月6日、横浜club Matrixにて映画撮影用ライブ『THE GOLDEN CUPS MAXIMUM R&B LIVE 2003』を行う
◆8月10日 横浜 ゴールデン・カップスのライブを初めて見る。他にもGSを初めてたくさん見て感動した。
後期Golden Cupsに参加したアイ高野 のドラムスが、鞭のように鋭くしなっているのが印象的だった。
= 2004年 映画『ザ・ゴールデン・カップス・ワンモアタイム』公開
◆11月20日 映画『ザ・ゴールデン・カップス・ワンモアタイム』公開
Movie ”Golden Cups One More Time"
https://www.youtube.com/watch?v=5ZwtGejmO1I&list=RD5ZwtGejmO1I&start_radio=1&t=2892s
◆11月20日 エディ藩とRoxvox、「Another Better Day」発売
◆◇11月20日 マモル・マヌーさんから、テアトル新宿の休憩時間中の臨時サイン会でサインを頂く。
「山口冨士夫さんとバンドを組む計画があったのは本当ですか?」と尋ねたところ、「本当ですよ」と笑顔で答えて頂いた。
= 2005年 Golden Cups各種書籍刊行、村八分BOXリリース、山口冨士夫「So What」復刊
◆◇1月30日 「ゴールデン・カップスのすべて」出版
マモル・マヌーのインタビューで、山口冨士夫、成毛滋とのバンドの構想があったことが明らかにされた。
◇9月17日 山口冨士夫、スリーピースバンド『フジオ、チコヒゲ&レイ』を東京タワー芝公園スタジオで録音。
◇秋 村八分BOX発売。日本のバンドのBOXセットとしては、2003年の10枚組Golden Cups BOXセットに次ぐ画期的なものだった。
The Golden Cups – The Golden Cups – Box Set 10 x CD, 2003 [r3727995] | Discogs
https://www.discogs.com/ja/release/3727995-The-Golden-Cups-The-Golden-Cups
= 2006年 エディ藩、本格的に音楽活動を再開
エディ藩の「鴻昌」に行くのが夢だったが閉店してしまった。
◆4月1日、アイ高野が急性心不全のため都内の病院で死去。没年55歳。告別式には、ザ・ゴールデン・カップスのメンバー3人、ジョー山中、安岡力也、真木ひでと、鈴木ヒロミツ、加橋かつみ、渡辺茂樹、岡本信、ザ・カーナビーツの越川ヒロシ、喜多村次郎、岡忠夫、ポール岡田らが参列した。
◆6月25日「鴻昌」は閉店し、エディは本格的に音楽活動を再開。
中華街大通りの老舗「鴻昌」が閉店 - 中華街ランチ探偵団「酔華」
https://blog.goo.ne.jp/chuka-champ/e/8e5f8c9ee6d39f7ffcb5326dbe28024b
◆8月27日
第26回YOKOHAMA本牧ジャズ祭(坂田明などが出演)に初めて行く。
運営ボランティアをしている知人から誘われたのがきっかけ。
= 2007年
◆6月22日 エディ藩の還暦とデビュー40周年を記念してライヴ「60-40 Special」を横浜ブリッツで行い、柳ジョージやミッキー吉野らを迎え、大成功を収める。3年振りのアルバム「60-40スペシャル」をリリース。
◆エディ藩 「60-40 Special」 ライブレポート
https://blog.goo.ne.jp/freespirit1979/e/ac4aa55a180000af6add8983c8d59eb4?fm=entry_awp_sleep
CD「60-40 Special」曲目
01. Lucky's Juke Box
02. So Sad
03. I'm a Believer
04. Close Your Eyes
05. ふられた気持
06. You've Got to Hide Your Love Away
07. Driving Cat
08. 60-40 Boogie
09. Back to China Town
◆8月26日 第27回YOKOHAMA本牧ジャズ祭 (小沼ようすけトリオなど) に行く。小雨だった。
その後に、本牧Golden Cup店内を初めて訪問。
Golden Cupでは、ちょうどGolden Cupsとも親交のあるキャロル山崎のジャズボーカルのライブの日だった。
本牧のレジェンド! 伝説のライブハウス「ゴールデンカップ」とは?
https://www.walkerplus.com/trend/matome/article/133607/
= 2008年 Golden Cupsリーダー デイブ平尾逝去
◆11月10日 デイブ平尾、心不全により死去 享年63歳
◇11月 山口冨士夫、音楽活動再開。2007年から体調を崩して一切の活動を停止していたが、2008年11月に原宿クロコダイルでライブ活動を再開。
= 2009年
◆1月25日 Golden Cups「デイブ平尾追悼ライブ」
◆ゴールデン・カップス、BS放送に出演。GSの番組でよく出演するようになった。
Golden Cups / 「This Bad Girl」「銀色のグラス」「愛する君に」「長い髪の少女」
https://www.youtube.com/watch?v=iqqatu_1jCY
= 2010年 ジョー山中支援コンサートで、Golden Cupsを目の前で見る
◆8月12日 クロコダイル「Get Well ジョー山中支援」ライブにGolden Cupsが出演。
(ブログ) がんばれジョー!U 〜 終戦記念日WAR CHILD 〜
http://soleluna.seesaa.net/article/159509997.html
(ブログより):
ついにメンバーが登場。1曲目はルシール、ミッキーさんは、横を向いて鍵盤を弾いている。すごい人だなあ。
続いて・・・出たあ! 銀色のグラスのイントロ。至近距離2メートルのルイズルイス加部のベースだけをみつめる。この目で記憶するのだ。ルイズルイス加部は、レコードのようなベースラインは弾かなかった。
レコードでは間奏で、エディーさんの早弾きソロが一瞬、ベースのスピードを超すところがある。エディーさんの早弾きはなかったが、一音一音に思いを込めているように見えた。
続いて、CreamのWHITE ROOM、絶望の人生、エディ藩の横浜ホンキートンクブルースと続く。
BeatlesのGET BACKでは皆が「Get back、Joe!」と叫ぶ。
最後は、十八番のThemのGLORIAで締めでした。
ジョーと同じ横浜出身のGOLDEN CUPSの熱いメッセージが伝わるライブでした。
= 2011年 山口冨士夫の最後のライブを最前列で見る
◇6月9日=ロックの日 山口冨士夫が外道と共に、下北沢でライブ
山口冨士夫は、1曲目でThe Beatles / Rock and Roll Musicを日本語で演奏!
Beatles / Rock And Roll Music 1964
https://www.youtube.com/watch?v=IRF6nmqcbxo&list=RDIRF6nmqcbxo&start_radio=1
山口冨士夫 / 捨てきれっこないさ 6/9下北沢GARDEN
https://www.youtube.com/watch?v=RrLYbBxEzEY
最後に見た山口冨士夫。自分も一緒に少し映っているのが思い出。
= 2013年 山口冨士夫 逝去
◇8月14日 山口冨士夫 逝去
2013年7月14日、東京の福生駅前のタクシー乗り場で、アメリカ人の男が別の男性を一方的に殴る現場に遭遇し、止めに入ったところ突き飛ばされて後頭部を打った。それにより急性硬膜下血腫を起こし、都内の病院に入院していたが、8月14日21時半に脳挫傷のため死去]。64歳没。8月15日、元ザ・ダイナマイツの吉田博によって死去が報告された。
= 2014年 横浜高島屋で「ザ・ゴールデン・カップスの時代展」
◆8月20日(水)午後2時「ザ・ゴールデン・カップスの時代展」エディ藩トークイベント「ファンからみた横浜のブルース」に行く。
ダメもとでサインをもらおうと思ってレコードを持っていったら、エディ藩にデパートのフロアーで遭遇して驚き、サインを頂いた。
横浜高島屋で「ザ・ゴールデン・カップスの時代展」−60年代の横浜・本牧を再現 - ヨコハマ経済新聞
https://www.hamakei.com/headline/8985/
初日に行われたテープカット。左からCHIBOWさん、ミッキー吉野さん、ルイズルイス加部さん、デイブ平尾さんの姉の平尾富子さん、キャシー中島さん、エディ藩さん、マモル・マヌーさん、小金丸峰夫さん、上西四郎さん
大好評開催中!!『ヨコハマ グラフィティ ザ・ゴールデン・カップスの時代展』
http://altamira.jp/archives/5600
2011年6月9日に、山口冨士夫が、1曲目でThe Beatles / Rock and Roll Musicを日本語で演奏したのに対し、イベントのライブで、エディ藩は、同じく「Beatles For Sale」からNo Reply、A Hard Day's Nightをアコースティックで演奏して嬉しかった。
Beatles / No Reply 1964
https://www.youtube.com/watch?v=YgFo9STa70E&list=RDYgFo9STa70E&start_radio=1
エディ藩は、「この曲を歌うと泣いてしまうので10年封印していた」というGIベビーの追悼歌、丘の上のエンジェルを10年ぶりに演奏したが、途中で「ああ、だめだ」と言って中断した。
60年代の本牧が蘇る!?高島屋で開催 “Yokohama Graffiti” | パインバレー
https://yokohama-pinevalley.com/honmoku/arc/1543/
ヨコハマ グラフティ ザ・ゴールデン・カップスの時代展 @ 横浜タカシマヤ
https://ameblo.jp/x-cinnamon/entry-11909772692.html
◇8月 山口冨士夫の晩年のライブ等を記録したドキュメンタリー映画「山口冨士夫/皆殺しのバラード」(川口潤監督)が公開された。
山口冨士夫の母は3歳の時に、阿佐ヶ谷の聖ホームにGIベビーの山口冨士夫を預けて失踪した。「母は結局わからなかった」と映画で語っている。
= 2016年
◆エディ藩 横浜・大岡川祭りでライブ
エディー藩 / 長い髪の少女
https://www.youtube.com/watch?v=lLH7bJHZb1c
= 2017年 Golden Cups、Fuji Rock Festivalに出演
◆3月3日 ザ・ゴールデン・カップス / Hold On 50周年特別映像 赤坂Blitz
https://www.youtube.com/watch?v=ty8VTBkTM68&list=PLFEkR7BV4rVNkZlRVd9CRLVsxywHpRJZO
◆7月29日 【フジロック'17】に、50周年を迎えるGolden Cupsが出演。
Golden Cups / Got My Mojo Workin Live 2017 Fuji Rock Festival
https://www.youtube.com/watch?v=WwJxYNzERAM
THE GOLDEN CUPS FRF'17 DAY2 INTERVIEW
https://www.youtube.com/watch?v=JvpdziqkgTg
BSでご健在ぶりを見られて嬉しかった。
= 2022年
◆6月28日 エディ藩、横浜でライブ
エディ潘 / 一人
https://www.youtube.com/watch?v=kbAR7DP-NYM
デイブ平尾の名曲をカバー
◆9月25日 恵比寿ザガーデンホールで、夕刊フジ・ロックフェスティバル「55th ANNIVERSARY THE GOLDEN CUPS AT LAST」
共演:エディ藩、ミッキー吉野、Panta
ザ・ゴールデン・カップス「4グラムの砂」 @夕刊フジ・ロックフェス
https://www.youtube.com/watch?v=oc5N0Wx59Pw
ザ・ゴールデン・カップス feat PANTA 「Stand By Me」@夕刊フジ・ロックフェス
https://www.youtube.com/watch?v=XwX8j4g8P9k
ザ・ゴールデン・カップス「もう一度人生を」 @夕刊フジ・ロックフェス
https://www.youtube.com/watch?v=IevcrDUyx6c
= 2025年
◆5月10日 エディ藩、感染性心内膜炎のため横浜市内の病院で死去。77歳没。
これによってザ・ゴールデン・カップスの結成メンバー全員がこの世を去ることとなりました。
ケネス伊東さんは1997年3月2日 死去(死因不明) 享年51歳
アイ高野さんは2006年4月1日 急性心不全により死去 享年55歳
デイブ平尾さんは2008年11月10日 心不全より死去 享年63歳
柳 ジョージさんは2011年10月10日 腎不全により死去 享年63歳
マモル・マヌーさんは2020年9月01日 心筋梗塞により死去 享年71歳
ルイズルイス加部さんは2020年9月26日 多臓器不全により死去 享年71歳
エディ藩さんは2025年05月10日 感染性心内膜炎により死去 享年77歳
エディ藩さんの「丘の上のエンジェル」で歌われた根岸の外国人墓地には、2020年には、横須賀の米兵たちが起造したと言われる白い十字架がたくさんまだ残っていましたが、2025年には公園は綺麗に整備されていたものの、GIベイビーたちの思い出を伝える十字架は全て撤去されていたとのことでした。
もう一度、ゴールデン・カップスの皆さんのご冥福をお祈りしたいと思います。
今まで、素晴らしい音楽をありがとうございました。RIP
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