2025年06月26日

追悼 RIPエディ藩Eddie Ban・「音楽の力」ゴールデン・カップスGolden Cups〜山口冨士夫と情報誌「シティロード」S 特別編V 〜1967年Golden Cups・ダイナマイツデビュー 〜 1968年 Cupsと裸のラリーズの共演 〜1970年「2人のロックフェスの王者 エディ藩と山口冨士夫」〜1971年日比谷野音のCups・村八分デビュー 〜 1974年 2人の名盤 〜 1982年 2人の復活 〜 2003年Cups初体験 〜2014年笑顔でサイン 〜ありがとうエディ藩さん

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A flyer from London club ”Camden Palace” (where the Rolling Stones、Jimi Hendrix played) in February 1985 and the Golden Cups / Love is my life that was played by DJ at the "Wed. Twist &Shout". Eddie Ban's signature is on the bottom right of the jacket. 「銀色のグラス」がかかったときのCamden Palaceのフライヤーとエディ藩さんのサイン

 Golden Cupsのエディ藩さんが5月10日に77歳で亡くなりました。ミッキー吉野さんとのライブも7月に予定されていました。
 
 おかげさまで本ブログも6月で17年目に入りました。ありがとうございます。今回も下手な長い文章で恐縮ですが、エディ藩さんとGolden Cupsへの長年の感謝を込めて、日本のロック黎明期の1970年前後のロックフェスで、エディ藩さんと並んで「ギターの王者」と呼ばれた山口冨士夫さんとの関係と共に振り返ってみたいと思います。

 英語が堪能だったエディ藩さんに対してお恥ずかしいですが、外国の人にもゴールデン・カップスGolden Cupsを知って頂けたらと思い、Google翻訳をたよりにして英文でも紹介させていただきました。

The Golden Cups - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Golden_Cups

Eddie Ban, guitarist of the Golden Cups, a true pioneer of rock music in Japan, passed away on May 10th at the age of 77. Night after night in the first half of 1967, the Golden Cups played earnestly for the nervous and angry soldiers at the Golden Cup, a club near the US military base during the Vietnam War.
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Their playing technique was outstanding in Japan in the 1960s and is highly regarded worldwide. Eddie Ban copied the Ventures in 1960, and traveled to the US for six months in 1966 (overseas travel was very rare at the time), experiencing live performances by the Yardbirds (Jeff Beck), Led Zeppelin, Them, and blues clubs. During the "New Rock" period around 1970, Eddie Ban and Fujio Yamaguchi (The Dynamites ) were regarded as the best guitarists in Japan.

Please listen to the original songs by the Golden Cups below.

Trailer for the movie "Golden Cups One More Time" 映画 トレイラー1
https://www.youtube.com/watch?v=NJw8jGK2YW8
Song:The Golden Cups/This Bad Girl 1968
Film director Takeshi Kitano states in the film that when he was still a poor and unknown young man, he "admired the Golden Cups, but was too scared to enter the Golden Cup club."

The Golden Cups/銀色のグラス Love Is My Life Nov.1967
https://www.youtube.com/watch?v=cyZRRMr85s4
Please take your headphone and listen to the Bass & Guitar running at full volume.

The world's first overseas-produced, American-released Japanese 1960's garage「GS」compilation LP from 1987. Includes songs such as "Love Is My Life" by the Golden Cups and "Tunnel to Heaven" by the Dynamites.
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The Dynamites / Tunnel To Heaven (トンネル天国) 1968 LP version
https://www.youtube.com/watch?v=SWera-kdCvw&list=RDSWera-kdCvw&start_radio=1

The Golden Cups was the first band in Japan to play many UK and US New Rock songs. They perfectly copied the latest songs by Them, Cream, Jimi Hendrix, James Brown, Led Zeppelin, Paul Butterfield, The Band, and others, but with their own unique interpretations that were different from the originals.

The Golden Cups /Gloria (Them cover) Live April 1969
https://www.youtube.com/watch?v=Sq6npRBOn6g&list=OLAK5uy_nzFaCPHvVkhNtixYbWhbiyzHDzF5b_B8k&index=6

The Golden Cups /Hey Joe 1968
https://www.youtube.com/watch?v=AFDOLBP9JVQ&list=RDAFDOLBP9JVQ&start_radio=1

The Golden Cups / I'm So Glad(Cream Cover)Live on TV 1968
https://www.youtube.com/watch?v=oo79E0KKFFY

Eddie Ban continued to play as one of Japan's leading blues guitarists. He was scheduled to perform live in July of this year. I saw the Golden Cups live in 2003, 2011 and got an autograph from Eddie Ban in 2014.
In 2017, Golden Cups performed at Japan's largest festival, Fuji Rock Festival. Also in 1974, Les Rallizes Dénudés, who have recently gained worldwide acclaim, respectfully invited the Golden Cups as a guest for their 10th anniversary live.



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今日の1曲
★The Golden Cups/銀色のグラス Love Is My Life Nov.1967
★The Golden Cups/This Bad Girl 1968
The Golden Cups /Hey Joe 1968
★The Dynamites / Tunnel To Heaven (トンネル天国) 1968 LP version
The Dynamites / Tunnel To Heaven (トンネル天国) 1967 single version
The Dynamites / 恋は? (クエッション) 1968
★The Dynamites / 恋はもうたくさん 1968 LP version
The Golden Cups / 愛する君に Live TV 1968
The Golden Cups/愛する君に My Love Only For You 1968
★The Golden Cups / I'm So Glad(Cream Cover)Live on TV 1968
★The Golden Cups/過ぎ去りし恋 Goodbye My Love  1968年
The Golden Cups / 午前三時のハプニング Happening At 3 O'clock A.M. 1968
The Golden Cups / I Can't Keep From Cryin'(Blues Project cover)1969
★The Golden Cups / Got My Mojo Workin  Live April 1969
★The Golden Cups /Gloria (Them cover) Live April 1969
The Golden Cups/にがい涙(Bitter Tears) 1970
Beatles / I Want To Hold Your Hand 1964
加山雄三 / ブラック・サンド・ビーチ 1965
タイガース / 海の広さを知った時 1970
Food Brain / That Will Do 1970
★The Golden Cups / V.D. (Vernard's Going Doomed Again)1971
The Golden Cups / Hijack 1971
★村八分 / あっ!! from 『村八分 / くたびれて』1971
★Rolling Stones / Jumpin' Jack Flash (Get Yer Ya-Ya's Out! Live) 1969
New Trolls / Concerto Grosso Adagio 1971
Ash Ra Tempel / Amboss 1971
The Golden Cups / Joy To The World Live 1971
★Golden Cups / たった一度の青春・人生は気まぐれ Live 1971
ディーブ平尾(デイブ平尾) / 僕たちの夜明け1972
ディーブ平尾(デイブ平尾) / 一人  I Stand Alone
★村八分 / あやつり人形 (from 三田祭 1972) 2000年CD
Flower Travellin' Band / Make Up 1973
Flower Travellin' Band / Broken Strings 1973
村八分 / 馬の骨 from 『村八分 ライブ』1973
村八分 / あッ!! from 『村八分 ライブ』1973
モップスMops/朝まで待てないAsamade Matenai ~Remake version (1973年)
★山口冨士夫 / おさらば from ひまつぶし 1974
★山口冨士夫 / からかわないで from ひまつぶし 1974
★エディ藩とオリエント・エクスプレス/オリエント・エクスプレス
★エディ藩とオリエント・エクスプレス / 9 O'Clock 英語version
エディ藩とオリエント・エクスプレス / 9 O'Clock 日本語version
Focus / Hamburger Concerto 1974
Il Volo / Sonno 1974
裸のラリーズ / Last One「75・花まつりコンサート」1975年4月20日
★Eddie Ban And Super Session Band / Back To China 1976
Eddie Ban And Super Session Band / I'VE BEEN LOVIN' YOU 1976
リゾート(山口冨士夫&加部正義) / One more time (Them cover)  live 1976
★松田優作+エディ藩グループ / Yokohama Honky Tonk Blues Live 1980
★Les Rallizes Dénudés裸のラリーズ with 山口冨士夫 / 造花の原野 屋根裏Yaneura 14 Oct. 1980
デイブ平尾 (Golden Cups) / 長い髪の少女 1981
NHK「ふるさとからこんばんは 本牧」エディ藩主演ドキュメンタリー
エディ藩Eddie Ban / Nights In White Satin 1982
★エディ藩Eddie Ban / Yokohama Honky Tonk Blues1982
エディ藩EDDIE BAN / HIDE AWAY 1982
山口冨士夫 / ロックミー 1983
★山口冨士夫 Tumblings / Dear Prudence (Beatles Cover)  Live 1983
山口冨士夫 / Fun In The Sun(Bass:ルイズルイス加部)1992
クイックジャパン連載<チャー坊(“村八分”)の生と死>1996-1998
山崎洋子著・ゴールデン・カップス「天使はブルースを歌う」
★エディ藩 / 丘の上のエンジェル 1997
映画『ザ・ゴールデン・カップス・ワンモアタイム』2004
★山口冨士夫 / 捨てきれっこないさ Live 2011
Beatles / Rock And Roll Music 1964
Beatles / No Reply 1964
エディー藩 / 長い髪の少女 2016
ザ・ゴールデン・カップス / Hold On 2017
★Golden Cups / Got My Mojo Workin Live 2017 Fuji Rock Festival
エディ潘 / 一人 (デイブ平尾カバー) 2022
ザ・ゴールデン・カップス「4グラムの砂」2022
ザ・ゴールデン・カップス feat PANTA 「Stand By Me」2022
★ザ・ゴールデン・カップス「もう一度人生を」2022



ゴールデン・カップスGolden Cups Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%97%E3%82%B9

エディ藩Eddie Ban - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%87%E3%82%A3%E8%97%A9

日本ロック名鑑 エディ藩の経歴
http://www.studio-g3.com/whoswho/02-eddieban.htm

エディ藩さん死去 77歳、感染性心内膜炎 「ゴールデンカップス」ギタリスト(スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/8ed05828cce0f69fae2374cc291d091b79b1f2f8


= 1974年7月 Music Life エディ藩さんとの最初の出会い =

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 最初にエディ藩さんの名前を知ったのは、Music Lifeの1974年7月号の日本の音楽の新譜コーナーでした。「エディ藩とオリエント・エクスプレス」という名前も宇宙的な列車のジャケットもかっこいいLPが、高評価で紹介されていました。

 いつか聴きたかった、エディ藩とオリエント・エクスプレスのレコードは一度も実物を見たことがなく、50年近く後に初めてYoutubeで聞くことができて感動しました。

 Music Life1974年7月号では、FocusのHamburger Concertoが高評価で、最初のヨーロッパのロックを買う決心ができたのが最大の収穫でした。また日本のロックで、スモーキー・メディスンが大きく取り上げられて印象的でした。

Focus / Hamburger Concerto 1974
https://www.youtube.com/watch?v=ZX6t9rZ701g&list=RDZX6t9rZ701g&start_radio=1
18:15 最後のChorus MellotronがFocusの最後の輝き。最近初めて聴いたエディ藩とオリエント・エクスプレスの「9 O'Clock」もMellotronが素晴らしかった。FocusのJan Akkermanは、イギリスで10年間ギタリスト部門で人気1位だったEric Claptonを1973年に初めて抜いた。

 そして1979年ごろ、ラジオで「グループサウンズベスト100」という人気投票で、初めてゴールデンカップスを知り、銀色のグラスのルイズルイス加部さんのベースに驚愕しました。

 銀色のグラスでは、最後の1:42のところで、エディ藩さんの高速ギターが、加部さんの高速ベースを一瞬で抜き去ります。1970年代は既にAl Di Meolaの時代でしたが、「長い髪の少女」のイントロのエディ藩さんの速弾きも含め、1967年〜1968年頃では、Eric Clapton、Jimi Hendrix以上の速さではと思いました。

 Golden Cupsによって、日本のロックへの関心が一気に高まりました。日本のロックの発端は、エディ藩さんとデイブ平尾さんの1966年の渡米だということもわかりました。1983年以降、山口冨士夫さんのファンになれたのもGolden Cupsのおかげといえます。

= 2014年 ゴールデン・カップスの時代展 エディ藩さんのサイン  =

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 私がエディ藩さんからサインを頂いたのは2014年8月20日でした。2013年8月14日に山口富士夫さんが亡くなったショックで体調が悪化、10月31日に病気が再発。年末から寝たきりで地獄のように苦しみ、2014年には遺書を書くまでに至りました。

 2014年8月に横浜高島屋で「ゴールデンカップスの時代展」が開催中と知って驚き、2月のフジコ・ヘミングさんのコンサート以来半年ぶりに、エディ藩さんのライブのある日に生きる希望を求めるように外出できました。

横浜高島屋で「ザ・ゴールデン・カップスの時代展」−60年代の横浜・本牧を再現 - ヨコハマ経済新聞
https://www.hamakei.com/headline/8985/

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初日に行われたテープカット。左からPowerhouseのCHIBOWさん、Golden Cupsのミッキー吉野さん、ルイズルイス加部さん、デイブ平尾さんの姉の平尾富子さん、キャシー中島さん、エディ藩さん、マモル・マヌーさん、ナポレオン党小金丸峰夫さん、Golden Cups店長上西四郎さん。

 会場に行く前に、高島屋のフロアでエディ藩さんに偶然遭遇してサインを頂きました。あのLP「Golden Cups / スーパー・ライヴ・セッション」を作った日本で最高のギタリストと思うと、私は驚き震えました。しかし、エディ藩さんは「他のみんなもいればよかったのにね」と、子供の頃に遊んでくれた親戚の優しいおじさんのような感じで接してくれて感動しました。

 外付けディスクが壊れて今は見れないのですが、「ザ・ゴールデン・カップスの時代展」ではたくさん写真を撮りました。エディ藩さんのライブでは、2曲のBeatlesや10年封印していたという重要作「丘の上のエンジェル」の再演 (途中でエディ藩さんが感極まって中断) に感動しました。

 会場では、エディ藩さんの友人で、ルイズルイス加部さん、ミッキー吉野さんらと伝説のバンドMidnight Expressを作ったPowerhouseのチーボーさんが若い人たちに明るく人生訓を伝えている姿も目撃できました。

 そしてフリーチャチャという本牧がオリジナルのダンスステップを知ってダンスの練習を再開し、体調が良くなり、外に出て活動できるようになりました。

ベトナム戦争のとき、ゴールデン・カップスと同じ本牧で生まれたフリーチャチャの創始者小山さんのダンス
https://www.youtube.com/watch?v=kqwuPNwPOKE&list=PLzQmu-BEv5L1JF0woPbiNL5zYWe8T0z5R
1967年が起源。

フリーチャチャの基本ステップ 
https://www.youtube.com/watch?v=OjTrtCKFmn8
11:00からフリーチャチャの基本ステップでマスターできた。

 このエディ藩さんとの出会いにより、私は10月から仕事にも復帰できました。最初の仕事で会った人が山口富士夫さんがSuperviserの「村八分 / 1972年三田祭Live」を持っていたのも縁でした

 あの苦しかった2014年の頃を振り返ってみて、エディ藩さんに救われたことに改めて感謝しています。山口冨士夫さんにはお会いできませんでしたが、エディ藩さんと話せたことは、山口冨士夫さんの分も含めて、一生の宝です。


= 「山口冨士夫と情報誌シティーロードS 特別編V」として =

 鮎川誠さん、Pantaさんに続いて、エディ藩さんの追悼も「山口冨士夫と情報誌シティーロード特別編」として、山口冨士夫さんと共に振り返ってみたいと思います。

 その理由は、エディ藩さん、山口冨士夫さんが、2人とも1970年前後において、日本で最高のギタリストと評価されていたことです。

 村八分の初代ドラマー恒田義見さんは、1970年当時20歳の山口冨士夫は日本の「スーパーギタリスト」であり、「当時の10円コンサートやロックコンサートでエディ藩、山口冨士夫といえばギターの王者だった」と発言しています。

(奥) 1970年1月6・7日「第2回 日本ロックフェスティバル」のパンフレット 
山口冨士夫のダイナマイツ (解散のため欠場)とエディ藩グループが掲載。
(手前) 1970年5月「第3回 日本ロックフェスティバル」のパンフレット
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 1960年代の最初の日本の有名なロックギタリストは、寺内タケシ、三根信宏、加山雄三、成毛滋、スパイダースなどでした。

 しかし、エディ藩も認めていたブルーコメッツ、スパイダースが逆に本牧Golden Cupに通うようになり、加山雄三はエディ藩に「これからは君たちの音の時代だよ」と直接語りました。
 
 そのエディ藩、成毛滋が、1960年代に「山口冨士夫は天才だ」と発言していました。スパイダースのかまやつひろしも、山口冨士夫を見に立川に来ました。

 他方で、山口冨士夫も1960年代末のニューロック期において「ゴールデン・カップス、Powerhouseは仲間だと思っていた」と発言しています。
  
 エディ藩、山口冨士夫が突出した理由は、米軍基地での体験と言えます。明日戦争で死ぬかもしれない兵士からのリクエストにこたえるために、膨大な曲を短時間にマスターする経験をし、かつそれができる実力を備えていたのはGolden Cupsやダイナマイツ、沖縄の紫など数少ないバンドだけだったと思います。 

 山口冨士夫がバンドを組もうとした石間英機 も、Flower Travellin' Bandで1970年の大阪万博のときから始めたラーガ奏法で世界的な評価を得ました。しかし、1971年に日本のロックはフォークブームの陰で衰退し、Golden Cupsは1972年、Flower Travellin' Bandも1973年に解散。

 ロックシーンがまだ継続した京都では1972年に村八分はピークを迎え、1973年5月5日の村八分のライブを見た人は、Jeff Beckも影が薄くなるほどの出来だったと述べています。

 しかし、村八分も1973年に解散し、ロックが一つの峠を越した1974年に、エディ藩、山口冨士夫は共に、新しい可能性を示す象徴的な名盤「エディ藩とオリエント・エクスプレス」「ひまつぶし」を発表します。

 その後も、山口冨士夫さんは、1960年代から「仲間だと思っていた」横浜のGolden Cups (ルイズルイス加部) 、Powerhouse、ジョー山中さんなどと関わりながら、1980年代以降も音楽活動を続けていきます。

 エディ藩さんと山口冨士夫さんは、両雄並び立たずで、一緒に演奏した記録はありません。しかし、今回振り返ってみて、二人は50年間、見えないところで常に支え合っていたと思いました。

 例えば1981年3月に山口富士夫さんが音楽活動から引退した後、 1982年2月と10月にエディ藩さんが東芝の石坂敬一さんのProduceで二枚もソロアルバムを出したことは、 1982年11月の山口富士夫さんの音楽活動の復活への大きな勇気づけになったのではないかと想像します。

 私は1983年4月から山口冨士夫さんのライブを知って通うようになり、救われました。山口冨士夫さんの復活がエディ藩さんの力にもよるとすれば、私はエディ藩さんにも救われたことになります。

 1980年か1981年に、エディ藩さんが主人公の横浜・中華街などのドキュメント番組NHK「ふるさとからこんばんは 本牧」を見ました。ちょうどGolden Cupsに関心を持ったときだったため、見られて運がよかったと思います。長い間、雰囲気が似た「関東甲信越 小さな旅」の一つだと記憶していたのですが、「小さな旅」は1983年からの放送だったので違っていました。 

 この番組でエディ藩さんの横浜ホンキートンクブルースを見た東芝の石坂敬一さんが、エディ藩さんに連絡して1982年の2枚のソロアルバムをProduceしたことがわかりました。石坂敬一さんは、1989年にも山口冨士夫さんのTeardropsをProduceしました。

 元はベーシストの石坂敬一さんも、エディ藩さんと山口冨士夫さんを高く評価していたのだと思います。石坂敬一さんは1972年に村八分にショックを受け、Pink FloydのHarvestを通じてイギリスでリリースしようとしたものの、東芝のあくまで洋楽の担当だったため諦めた経緯がありました。

 そして、このドキュメント番組で覚えているのが、エディ藩さんが黒人音楽のブルースを演奏する理由について「僕もいじめられて、黒人の気持ちがわかるから」と語ったことです。そこで、エディ藩さんは、1960年代のダイナマイツ時代から2013年に亡くなるまで山口冨士夫さんに強い思いを持っていたのではないかと思います。
  
 2013年8月14日の山口冨士夫さんの逝去から、ちょうど1年後の2014年8月20日に「ゴールデン・カップスの時代展」で、エディ藩さんは10年間封印してきたというGIベビーのための追悼歌「丘の上のエンジェル」を歌いました。この歌こそ、エディ藩さんが山口冨士夫さんのために作った歌だったのではないかと思います。
        
 それでは、エディ藩さん、Golden Cups、横浜本牧のロック、そして山口冨士夫さんたちが作ったロックが「音楽の力」を持った時代をもう一度振り返ってみたいと思います。エディ藩さんに対する恩返しとして、エディ藩さんの音楽を少しでも多くの方に聴いていただけるきっかけになれれば幸いです。

【日比谷野音】
1969年9月22日の日本初のロックフェス「10円コンサート」から、Golden Cups、エディ藩グループ、山口冨士夫グループ、Flower Travellin' Band、頭脳警察、Speed, Glue & Shinki、村八分、裸のラリーズLes Rallizes Dénudés、PFMなどが演奏した
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Japan's oldest open-air music hall, Hibiya, Tokyo. Inspired by the Woodstock Festival, Japan's first rock festival was held here on 22 September 1969, with the Golden Cups as headliners.

= エディ藩、Golden Cups + ニュー・ロック期のミュージシャンの生年 =
        ★= 横浜のロック

1938 鈴木邦彦 (作曲:★Golden Cups / 銀色のグラス、もう一度人生を etc、ダイナマイツ / トンネル天国)
1940 John Lennon Mina
1941 Bob Dylan Charlie Watts
1942 Jimi Hendrix Paul McCartney
1943 福沢幸雄 (スパイダースの頭脳)  Mick Jagger Jack Bruce Janis Joplin Mike Bloomfield Jim Morrison Mike Ratledge Lucio Battisti
1944 ★デイブ平尾 石間英機 Jeff Beck Jimmy Page Keith Emerson Edgar Froese (Tangerine Dream)  Aldo Tagliapietra (Le Orme)
1945 ★ジョニー野村 (ザ・ファナティックス、ゴダイゴのプロデューサー)  村井邦彦 (★Golden Cups 編曲: 愛する君に 作編曲: クールな恋 本牧ブルース 4グラムの砂)  石坂敬一 Eric Clapton Ritchie Blackmore Ian Gillan
1946 ★ケネス伊東 ★ジョー山中 (491、Flower Travellin' Band) 鈴木ヒロミツ (モップス) 松崎由治 (テンプターズ) &瞳みのる (タイガース) = エディ藩の親友  岡林信康 Robert Fripp Jan Akkerman (Focus)  Elio D’Anna (Osanna)
1947 ★エディ藩  ★竹村栄司 (チーボー:Powerhouse)  瀬川洋 (ダイナマイツ)  加橋かつみ 細野晴臣 若林盛亮 (Les Rallizes Dénudés)  Klaus Schulze (Tangerine Dream、Ash Ra Tempel)   Chris Karrer (Amon Düül, Amon Düül II)  Franco Mussida (PFM)  Nico Di Palo (New Trolls)
1948 ★ルイズルイス加部 ★林恵文 ★柳譲治 ★陳信輝(Powerhouse) 水谷孝 (Les Rallizes Dénudés)  沢田研二  Robert Plant Chris Squire Peter Hammill Jürgen Dollase (Wallenstein)
1949 ★マモル・マヌー 山口冨士夫 松田優作 矢沢永吉 Danilo Lustici
1950 ★ジョン山崎 萩原健一 チャー坊  Peter Gabriel  Damo Suzuki (Can:神奈川県出身)
1951 ★ミッキー吉野 ★アイ高野 Vittorio Nocenzi (Banco)  


〜 エディ藩・Golden Cupsと山口冨士夫・村八分のロック史 〜

◆ → エディ藩・Golden Cups、横浜のロックに関連すること
◇ → 山口冨士夫、村八分に関連すること

【主な資料】
Golden Cupsの評伝「Golden Cupsのすべて」2005年河出書房
山口冨士夫の自伝「So What」1990年JICC出版

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◆1947年6月22日 エディ藩 (本名:潘 廣源) 生

◇1949年8月10日 山口冨士夫生


= 1960年

◆エディ藩、関東学院中学校に入学。

 ギターに興味を持ち、米軍のセコハンのレコードの山から「ベンチャーズ」を探して聴く。香港で高価なギター (車1台分の価格のFender)、 機材を買い揃え、音楽仲間が増えた。

= 1961年
 
◆エディ藩、中学2年のとき、2歳上のジョニー野村(ゴダイゴのマネージャー)と出会う。

(Music Magazine 1983年3月号) : 
 喫茶店でジョニー野村がドラムスティックで机を叩いていた時、エディ藩がギターでベンチャーズを弾き、ジョニー野村が「ベンチャーズ、知ってる?」と尋ねた。2人は「バンド作らなくちゃ!」と思った。
 ジョニー野村は、国際基督教大学在学中の1967年夏に「その後の大学紛争を予感させるような闘争」を体験する。

= 1962年

※ 5月 ヴェンチャーズ初来日。まだ日本では話題にならず。

◆陳信輝 (Powerhouse、Speed, Glue & Shinki) 談「中華中学の学園祭で、鴻昌(横浜中華街の中華料理店)の廣ちゃん(潘廣源=エディ藩)と萬珍樓(同じく横浜中華街の中華料理店)の息子のバンドを見てギターをやりたいなと思ったのが13歳の時」

スピード・グルー&シンキは終わらない。陳信輝と李世福が語る60〜70年代横浜ロック史 | Mikiki by TOWER RECORDS
https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/29826

= 1963年

左:中華中学学園祭と思われるエディ藩 右:中学時代の山口冨士夫
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◆エディ藩、関東学院高等学校に入学。
 ジョニー野村らとザ・ファナティックスを結成して注目を集める。このバンドには一時期、デイヴ平尾も在籍していた。

 デイブ平尾談「エディ藩なんか、香港でどっさり、サーフィン前のギラギラしたベンチャーズをたくさん買って持っていた。あいつの感覚は特別だった。」

= 1964年 日本でBeatles旋風

※ 2月5日 Beatles「抱きしめたい」で日本デビュー。ブームが起こる。
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Beatles / I Want To Hold Your Hand 1964
https://www.youtube.com/watch?v=v1HDt1tknTc

◇山口冨士夫、中学生でBeatlesに感動。2歳年上の瀬川洋の家で、ドーナツ盤レコードを聴き、バンドを始める。山口冨士夫は阿佐ヶ谷からスパイダースを見に行くために、新宿などへ歩いて通った。
 吉田博 (ダイナマイツ)談:山口冨士夫ほどギターの練習をする人を見たことがない。

= 1965年 横浜のロックの誕生

※ 1月 ヴェンチャーズの2回目の来日で、エレキブームが起こる。

◆エディ藩のファナティックス、デイブ平尾のスフィンクス(後にマモル・マヌー在籍)が横浜の2大バンドとなる。

◆6月23日 『勝ち抜きエレキ合戦』放送開始。翌1966年9月28日までフジテレビ系列局で放映し、ルイズルイス加部、エディ藩が別のバンドで出場する。これを見たケネス伊東がルイズルイス加部をバンドに誘う。
 サベージなどが優勝し、グランドチャンピオン大会で成毛滋のフィンガーズが優勝する。

※ 7月〜8月 ヴェンチャーズと加山雄三が何度かテレビで共演。加山雄三がエレキのオリジナル曲、ブラック・サンド・ビーチを作る。

加山雄三 / ブラック・サンド・ビーチ
https://www.youtube.com/watch?v=gr-YuK2oJDg

= 1966年 Golden Cups (グループ&アイ) 、ダイナマイツ (モンスターズ)が  米軍基地でライブ活動開始

◆4月 エディ藩、関東学院大学に入学。
 関東学院大学は、1884年に横浜山手に創設された横浜バプテスト神学校を源流にもち、当時は関東における左翼運動過激派の拠点だった。
 2年後の1968年にPantaが入学し、次第に学生運動に共感。政治集会と知らずに誘われたライブでの体験をきっかけに、頭脳警察の方向性を決める。

 すでにザ・ファナティックスは解散し、学校は学生運動で休講が多かったため、エディ藩は渡米して音楽的知識を吸収し、技術を磨くことを決断する。

エディ藩 アメリカでのレズリーウエストとの出会いと「ザ・ゴールデン・カップス」結成を語る!!
https://www.youtube.com/watch?v=sBtYlvYMVMY
Jeff BeckのYardbirdsを見て衝撃を受け、Fazz boxを現地で買う。

エディ藩がブルースの泣きやタメの極意を語り実演する!!
https://www.youtube.com/watch?v=eSCmIE7yNRA

※ 6月30日〜 7月2日 Beatlesが武道館で公演。加山雄三が単独で会見。
 タイガースは全員で、村八分の初代ドラマー恒田義見もBeatlesを見た。

◆エディ藩は、7月3日から渡米中のデイブ平尾に偶然現地のThemのライブで出会う。

◆1966年、竹村栄司 (CHIBO)は、ルイズルイス加部、陳信輝、ミッキー吉野、林恵文とヤードバーズなどをレパートリーにしたガレージ・ロック・バンド、Midnight Expressを結成し、馬車道の中川三郎ディスコティックなどに出演。

 Midnight Expressは、柳ジョージ、野木信一の「ムー」と出会い、ミッキー吉野、ルイズルイス加部の脱退後、「ムー」と合体してBebesとなる。

◆11月 デイブ平尾が帰国。

◆12月3日 デイブ平尾はスフィンクスのマモル・マヌー、ケネス伊東に加え、元ファナティックスのエディ藩、元Midnight Expressのルイズルイス加部を加えて、平尾時宗とグループ・アンド・アイ(後のザ・ゴールデン・カップス)を結成。「ゴールデン・カップ」に出演開始。

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ザ・ゴールデン・カップスGolden Cups - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%97%E3%82%B9

◆12月10日  「ゴールデン・カップ」に来店していた「ナポレオン党」(カミナリ族、暴走族のはしり)を取材していたTBSの撮影スタッフの目にとまり、Golden Cupsが『ヤング720』でテレビに初出演し、反響を呼ぶ。

◇山口冨士夫のダイナマイツ (モンスターズ)も、府中、立川などの米軍基地でライブを行う。

= 1967年 Golden Cups、ダイナマイツ デビュー

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◆1967年の前半は、連夜のようにゴールデン・カップスはGolden Cupで演奏した。

デイブ平尾談:
 Golden Cupsでのライブは「GIやネイビーが客だったよ。喧嘩なんかしょっちゅうでね。何がきっかけか誰にもわからない。乱闘が始まる。奴らは何にだって苛立っていたみたいだよ。夜が来て、朝が来るってことにさえむしゃくしゃしてたんだろうよ。そいつにこっちは音をぶつけなきゃならないんだ。甘い音なんか出したら負けちまうよ」 (Music Magazine 1983年3月号)

◆エディ藩はスパイダースを認めていたが、立場が逆転し、Golden Cupsを見るために、スパイダース、ブルーコメッツ、タイガース、石原裕次郎、勝新太郎などがGolden Cupを訪れる。
 
 最初にGolden Cupsをプロに誘ったのはスパイダースの井上堯之だった。

◆6月15日Golden Cups / いとしのジザベルでデビュー 
 公称18万枚のヒット。わかりやすくするため、ゴールデン・カップスに改名。

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◆7月21日 Golden Cups新宿ラ・セーヌで東京初公演。
 横浜のバンド491 (ジョー山中在籍) と共演

◆8月20日 Golden Cups、テンプターズと初共演 池袋ドラム    
 萩原健一談 「自由に音楽ができるGolden Cupsがうらやましかった」
 山口冨士夫もテンプターズの松崎由治のギターを高く評価していた。

 「神様お願い」の大ヒットの前だったため、その後も、Golden Cupsとテンプターズのライブ喫茶での共演は多い。他方、すでに1967年にブレイクしていたタイガースとGolden Cupsのライブ喫茶での共演はない。

 近田春夫著「グループサウンズ」は興味深い内容の本。エディ藩、瞳みのるとの対談が組まれ、エディ藩、松崎由治、瞳みのるは特に仲が良く、Golden Cupsとタイガースは音楽性は違うが、麻雀仲間として仲がよかった。

◆8月26日 Golden Cups、第31回日劇ウエスタンカーニバルに初出場。新人賞を獲得。

◆9月12日 Golden Cups、新宿ACBで初のワンマンライブ
 当時新宿ACBでたくさんのGSを聞いた人の話:「実力ではGolden Cupsがダントツで、体に刺さるような音楽だった。当時、横浜は別格だった。続いて、ダイナマイツ、モップス、ビーバーズの3つが実力があった」「タイガース、テンプターズもデビュー前から見たが、沢田研二、萩原健一は輝いていた」

◆11月15日 Golden Cups 銀色のグラス発売.。ルイズルイス加部のベースが衝撃を与える。

The Golden Cups/銀色のグラス Love Is My Life 1967
https://www.youtube.com/watch?v=cyZRRMr85s4

◇11月 ダイナマイツ / トンネル天国でデビュー

◇11月 京都で水谷孝が裸のラリーズを結成。

= 1968年 Golden Cups、ダイナマイツ 初共演

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◆3月10日 Golden Cups、1stアルバム『ザ・ゴールデン・カップス・アルバム』を発売。Hey Joeの解釈が世界的に評価されている。

Golden Cups / Hey Joe (Cover)
https://www.youtube.com/watch?v=AFDOLBP9JVQ

◆4月1日、3rdシングル『長い髪の少女』が発売。オリコン14位、35万枚のセールスを記録し、一躍人気グループの仲間入りをする。

【昭和ロックを語る時が来た!】エディ藩 ザ・ゴールデン・カップスに海外デビュー打診も断ったワケ | 東スポWEB
https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/60048
これは初耳! エディ藩が語る『長い髪の少女』発売秘話。A面は「巨人の星」に使われた「♪アイラブアイラブ〜」の「クールな恋」の予定だったが、エディ藩の意見で『長い髪の少女』に変更になった。

◇ダイナマイツ / 1stアルバム 発売

★ダイナマイツ / トンネル天国 1968年LP version
https://www.youtube.com/watch?v=8FGJMUxnr78
ボーカル:山口冨士夫

ダイナマイツ / トンネル天国 1967年single version
https://www.youtube.com/watch?v=WopOeuStjMU&list=OLAK5uy_kK2dk05FUlKNvROIV6i-zPF-Vn5Mp9EqU&index=20
1:12からのギターソロをLP versionと聴き比べると、数か月後で、山口冨士夫のギターのGroove感が圧倒的に磨かれたことがわかる。

◆◇4月21日 ゴールデン・カップス、ダイナマイツが新宿「ポップ」で初共演。

◆7月8日、ビザの関係で伊東が一時活動休止(10月21日復帰し、一時6人編成になる)。ミッキー吉野が加入。

◆◇8月26日〜9月2日 第36回日劇ウエスタンカーニバルで、ゴールデン・カップス、ダイナマイツが共演。

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ダイナマイツ / 恋は? (クエッション) 1968
https://www.youtube.com/watch?v=fpZV8Sf9Slc&list=OLAK5uy_kK2dk05FUlKNvROIV6i-zPF-Vn5Mp9EqU&index=15
山口冨士夫のFazzのイントロが印象的。Saxophoneを取り入れたSoulの意欲作。
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9月10日発売「Golden Cups第2集」にも収録された「過ぎ去りし恋」「午前3時のハプニング」

ザ・ゴールデン・カップス The Golden Cups/過ぎ去りし恋 Goodbye My Love  1968年
https://www.youtube.com/watch?v=trXOzZgbzSw&list=RDtrXOzZgbzSw&start_radio=1
ストリングスも美しいエディ藩作曲のバラードの名曲

The Golden Cups / 午前三時のハプニング [Happening At 3 O'clock A.M. ] 1968
https://www.youtube.com/watch?v=d0IKGzD_zdk&list=RDd0IKGzD_zdk&start_radio=1
ルイズルイス加部の唯一のサイケデリックな作品・歌

 第36回日劇ウエスタンカーニバルでは、ビーバーズ (石間英機) 、タックスマン (上月淳) 、フラワーズ (和田ジョージ) という後のFlower Travellin’ Bandの母体も揃っていた。

 山口冨士夫 (ダイナマイツ)、水谷公生 (アダムス)、石間英機 (ビーバーズ) 、上月淳 (タックスマン)のセッションによる「レディ・マドンナ」も演奏。

 この時にプロのバンドの間で最も話題になったのは、内田裕也がヨーロッパから帰国後に作ったフラワーズのサイケデリックなステージで、スパイダースの頭脳と言われた福沢幸雄も最前列で見ていた。

◇瀬川洋 (ダイナマイツ) 談 (山口冨士夫 / So Whatより)
 :日本で初のチョーキングをしたのは、赤坂のクラブで「マイク」から教わった山口冨士夫だった。「だけど、そのフジオのギターを見て、当時のプロのミュージシャンはびっくりだったな。成毛 (滋)から、カップスのギター (エディ藩) から、みんなが、フジオは天才だって言いだしたんだよ」
「もちろん村八分も良かったけれど、フジオの絶頂期はダイナマイツだったよ」

第36回日劇ウエスタンカーニバル | POPな日々
https://ameblo.jp/kiyo3pops/entry-12799802776.html

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◆9月1日 Golden Cups、4thシングル『愛する君に』が発売、オリコン13位。

Golden Cups / 愛する君に Live TV 1968
https://www.youtube.com/watch?v=uueqX1Owrfk

The Golden Cups/愛する君に My Love Only For You シングル 1968年
https://www.youtube.com/watch?v=lPreo8o8ubc&list=RDlPreo8o8ubc&start_radio=1

◆9月10日 「ザ・ゴールデン・カップス・アルバム第2集」発売

◆◇10月2日 ゴールデン・カップス「R&B天国」テレビ収録 共演:ダイナマイツ、ビーバーズ

The Golden Cups / I'm So Glad(Cream Cover)Live on TV 1968
https://www.youtube.com/watch?v=oo79E0KKFFY
「R&B天国」で残っていた貴重映像。1966年の「Fresh Cream」versionのカバー。

★The Dynamites / 恋はもうたくさん 1968 LP version
https://www.youtube.com/watch?v=1EMbLFRNht0&list=OLAK5uy_kK2dk05FUlKNvROIV6i-zPF-Vn5Mp9EqU&index=4
ダイナマイツのトンネル天国と並ぶ名曲。1:12のようなR&BをマスターしたGrooveのギターソロは、1968年の日本では山口冨士夫とエディ藩の音源でしか聴けない。

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◆◇11月2日 Golden Cups、裸のラリーズLes Rallizes Dénudésと京都で共演。

1969年6月同志社大学 右が水谷孝。この時点では、若林盛亮は政治活動のため水谷孝の了解を得て友好的に脱退していた。
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 同志社大学学園祭でゴールデン・カップスが学生会館ホールで公演をした際に、裸のラリーズが前座として出演。

 エディ藩、Pantaの関東学院に対し、同志社は関西の左翼運動過激派の拠点だった。同志社の前身である同志社英学校の教育理念は関東学院と同様にキリスト教主義に基づく。岡林信康は父を継いで牧師になるために神学部に入学したが、キリスト教に疑問を持ち、1968年に中退した。
 
 「ゴールデン・カップスのすべて」 (2005年) では、Golden Cupsの京都公演は1968年2月25日に続く2回目で、11月2日については「詳細不明」とある。

 「山口冨士夫 天国のひまつぶし」 (2014年) で、若林盛亮(裸のラリーズのオリジナルメンバーで、よど号ハイジャック事件の実行犯)による以下の山口冨士夫への追悼文から、同志社大学学園祭にGolden Cupsが出演し、前座として、同志社大学の元軽音楽部の水谷孝の裸のラリーズが出演したことがわかった。久保田麻琴も軽音楽部に所属していた。同志社大学の学園祭は11月の第1土曜・日曜に行われており、1968年11月2日も土曜日だった。 

 若林盛亮談 (「山口冨士夫 天国のひまつぶし」より) :
 1968年秋の同志社学園祭の時に、「ゴールデンカップス (たしか)にゲバルトをかけよう」との水谷君の招集に応じ、その前座に登場、私もハーモニカを武器に参戦、サングラスをかけた某(久保田麻琴?)が琵琶を持ってきたことを鮮明に覚えている。それが水谷君等との裸のラリーズの最初で最後のステージになった。

 裸のラリーズの過激な演奏スタイルは、GS(グループサウンズ)で商業的に人気だったGolden Cupsへの「ゲバルト(激しい攻撃)」として一種の対抗姿勢を示した。

 しかし、エディ藩、ルイズルイス加部は、1968年当時の日本では、This Bad Girl、午前3時のハプニングなど最も攻撃的な音を出しており、裸のラリーズの即興演奏に関心を持っても不思議ではない。リーダーの水谷孝、久保田麻琴等と、Golden Cupsとの間に会話があった可能性もある。

 この裸のラリーズとの共演は、1970年3月の若林盛亮によるよど号ハイジャック事件の後、Golden Cupsが1970年10月にエディ藩作曲のインスト「ハイジャック」を録音したこと、1974年9月の裸のラリーズのライブに「同じ10年選手」という理由でGolden Cupsがゲスト出演したことにも繋がると思われる。

 裸のラリーズLes Rallizes Dénudés / 67-69 Studio et Liveに収録されたSmokin’ Cigarette Bluesは、この学園祭のときのLiveであり、裸のラリーズの2回目のLiveとされる。
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The improvisation "Smokin' Cigarette Blues" by the legendary band Les Rallizes Dénudés, featured on 67-69 Studio et Live, was recorded while they were opening for the Golden Cups on November 2, 1968.

裸のラリーズLes Rallizes Dénudés / Smokin’ Cigarette Blues 1968
https://www.youtube.com/watch?v=TfPreGYgTZ4&list=RDTfPreGYgTZ4&start_radio=1
ミュンヘンのAmon Düül が1969年に出した2枚のアルバムの音に類似している。

◆12月5日 Golden Cups シングル「過ぎ去りし恋」発売 作詞:ケネス伊東 作曲:エディ藩


= 1969年 Golden Cups / 最高作「スーパー・ライヴ・セッション」、ダイナマイツ解散、ニューロックへの変動期
                                             
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◆◇1月3日 「ゴールデン・カップス ファンの集い」 共演:ダイナマイツ 大久保 三福会館

※ 3月 タイガースから加橋かつみが脱退し、GSブームが終息に向かう。

◆3月10日 ブルース・メッセージ/ザ・ゴールデン・カップス・アルバム第3集発売

The Golden Cups / I Can't Keep From Cryin'(Blues Project cover)1969
https://www.youtube.com/watch?v=RRTkpbEomJA&list=RDRRTkpbEomJA&start_radio=1
11分を超える当時の日本では最長の熱演。

◆3月25日 Golden Cups、パワーハウスと初共演 新宿ACB

◆4月1日 Powerhouse / ブルースの新星 東芝から発売
  メンバー:チーボー、柳ジョージ、陳信輝、野木信一 (2002年の◇山口冨士夫、ルイズルイス加部の関西ツアーのドラマー)

◆4月10、11、21日 Golden Cups横浜Zenで最高作「スーパー・ライヴ・セッション」録音。Powerhouseから、陳信輝、柳ジョージが参加。

The Golden Cups / Got My Mojo Working (Live) 1969
https://www.youtube.com/watch?v=xRhtPWC3kEQ&list=OLAK5uy_nzFaCPHvVkhNtixYbWhbiyzHDzF5b_B8k

◆4月25日、Golden Cups、藩と伊東がエディ藩グループ結成のため脱退。
 ルイズルイス加部がギターにコンバートし、元Midnight Expressの林恵文がベースとして加入。
 エディ藩はニューポートジャズFestivalを見るためにアメリカへ。

エディ藩グループ
http://www.studio-g3.com/whoswho/02-eddiebangroup.htm

 エディ藩グループには、ザ・カーナビーツ解散後、すぐにアイ高野が参加。アイ高野は「音楽は自分にとって水や空気と同じで、音楽を辞めることは死ぬことと同じ」と語るほど、音楽を愛していたという。

 アイ高野は1972年のゴールデン・カップス解散直後はソロ活動、再びエディ藩グループ、ママリンゴ(ニュー・ゴールデン・カップス)、ミッキー吉野グループ、レコードデビュー以前のゴダイゴの初期メンバーにも加わる。松田優作の歌手活動(1981年)やエディ藩のソロ活動(1982年)をクリエーションのメンバーらと共にサポートした。

◇5月 チャー坊が渡米。チャー坊は帰国後、裸のラリーズにベースで参加することを水谷孝と約束していたが、12月6日 カリフォルニア州オルタモントでRolling Stonesを見て、音楽的方向性を変えた。

◆5月15日 Golden Cups 銀座ACB エディ藩が飛び入り

◆7月20日 Golden Cups、渋谷公会堂で2周年リサイタル

◆8月1日 Golden Cups / スーパー・ライヴ・セッション発売

◆◇8月15日 Golden Cups 、ダイナマイツが銀座ACBで共演。
  Golden Cupsのギターはルイズルイス加部で、1976年の山口冨士夫とのダブルギターによるリゾートにもつながる。

※8月15日〜17日 『ウッドストック・フェスティバル』
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◆9月22日 『10円コンサート』 日比谷野音
 出演:Golden Cups、エディ藩グループ、Powerhouse、成毛滋、ザ・エム、田畑貞一

日比谷公園に鳴り響いた日本ロックの新たな産声『10円コンサート』
http://music-calendar.jp/2015092201

 1968年6月のスパイダース等のGSイベントを除いて、ロック・バンドの日比谷野音での演奏はこの『10円コンサート』が初めてで、日本初の本格的ロック・イベントだった。

 主催者成毛滋は『ウッドストック』を現地で体験し、日本のロック状況との違いに唖然とする。GSブーム終息後、成毛はバンドや所属会社を超えた<ニューロック>の技術向上と一般への啓蒙を目的にイベントを発案、ミッキー吉野と共に動き出した。まだ事務所の異なる者のセッションなどない時代だった。

◆9月28日「第1回日本ロックフェスティバル」厚生年金ホール
※エディ藩が日本のトップギタリストと評価されたことを示すパンフレットの写真。ジャズの増尾好秋、スパイダースの井上堯之と。
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『第1回 日本ロック・フェスティバル』 出演者:Golden Cups、エディ藩グループ(エディ藩、柳田ヒロ、ケネス伊東、デ・スーナーズのエディ・フォルトゥーノ)、Powerhouse、内田裕也とフラワーズ、ブルース・クリエイション、井上堯之、増尾好秋、田畑貞一など。

 『10円コンサート』のわずか6日後、2400人のホールは満杯で、4時間のステージのラストは「I’m So Glad」の合同演奏。「Goodby Cream」のversionが目標とされたと思われる。主催は4月に創刊されたばかりの『ニュー・ミュージック・マガジン』で、創刊号では最初の日本のバンドとしてPowerhouseの特集が組まれた。

 会場アンケートによると、観客の平均年齢は18.5歳。
 最も人気が高かったのは、エディ藩グループが圧倒的だった。

46年前の<日本近代ロック黎明期>に開催された『第一回日本ロック・フェスティバル』
http://music-calendar.jp/2015092801

◆10月10日 ザ・ゴールデン・カップス・リサイタル発売

◆◇10月17日 新宿ニューACB「これがゴールデン・カップスだ」に、ダイナマイツ、Powerhouseが共演

◇10月 ダイナマイツ「The Dynamites! – Live At The "Go Go ACB" 1969」を録音。CD1998年6月15日発売。山口冨士夫もCDの解説で、これがダイナマイツの本当の姿としている。

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The Dynamites! – Live At The "Go Go ACB" 1969 – CD (Album) | Discogs
https://www.discogs.com/ja/release/1263414-The-Dynamites-Live-At-The-Go-Go-ACB-1969

◆12月28日 ゴールデン・カップスから、ルイズルイス加部と林がジョン山崎とルームを結成するため脱退。

◆◇12月28日 マモル・マヌーもソロ歌手になるため、ゴールデン・カップスを脱退する。
 以前から山口冨士夫と新バンド結成のために、成毛滋の家で練習していたが流れたため、歌手に専念することになった。

◇◆ 白夜書房の「日本のロック体系」のインタビューによれば、山口冨士夫は1969年頃にゴールデン・カップス、パワーハウスが「仲間だと思っていました」と述べている。山口冨士夫は「So What」によれば、加橋かつみ、陳信輝ともセッションをしていた。

 ダイナマイツ / Live At The "Go Go ACBには、The 59th Street Bridge Song (Golden Cupsも録音) 、Spoonful (Powerhouseも録音) が収録されている。

◇12月31日 ダイナマイツ解散。新宿西口のビルの8階にあった大きなディスコが最後のステージ。

 「日本のロック体系」によれば、山口冨士夫は、ダイナマイツの最終シングル「バラと悪魔」の存在さえ知らず、瀬川洋とオーケストラだけで作られた。1969年に瀬川洋が3か月外国に滞在している間に、山口冨士夫の残ったダイナマイツはディスコでのR&Bの演奏に力を入れていた。


= 1970年 「ギターの王者:エディ藩と山口冨士夫」 
Golden Cups成熟期  山口冨士夫は京都へ

 1969年9月からウッドストックの影響で始まった日本のロックフェスは、 1970年に最初のピークを迎える。現在隆盛のフジロックなどのロックフェスの最初のメインアクトが、Golden Cups、エディ藩グループ、山口冨士夫だったことは改めて特筆に値する。

◆1月1日、ゴールデン・カップスはエディ藩グループと合併し、藩と伊東が復帰。伊東はベースを担当。マモルの後任は、エディ藩グループのアイ高野で、マモルが使っていたパールのドラムセットが譲られた。

◆◇1月6日・7日 『第2回日本ロック・フェスティバル』
二日間に亘り、第1回と同じく東京厚生年金会館大ホールで開催。

【パンフレットの記載と変更】

【出演予定 (記載) 】:麻生レミ・オールスターズ、デイブ平尾・ミッキー吉野グループ、ダイナマイツ、エディ藩グループ、フラワーズ、岸部おさみグループ、成毛滋グループ、パワーハウスほか

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【変更】「ダイナマイツ」の欠場 → 出演予定だったダイナマイツが12月31日に解散したため、欠場の説明紙が当日パンフレットに封入 → 書いたのは福田一郎

【変更】「エディ藩グループ」と「デイブ平尾+ミッキー吉野グループ」の合併 → 1月1日に合体したGolden Cupsの初ステージになった。

◆2月 Flower Travellin’ Band、フラワーズから改名。内田裕也はプロデュースを担当し、日本コロムビアから日野皓正・クインテットとシングル「Crash」を発表後、10月にアルバム『Anywhere』を発表。同年大阪万国博覧会の出演中に知り合ったカナダのロックバンド、ライトハウスに見出されメンバーはカナダへ渡る。

◇2月28日 京都会館第2ホールイベント「Too Much」に山口冨士夫がセッションで出演し(メンバー不明)、木村英輝と出会う。共演:ヘルプフルソウル、Flower Travellin’ Band 

◆Golden Cupsは、Music Life人気投票 (3月号に最終結果) で日本のグループ部門で、1969年、1970年と2年続けて1位。1971年は4位 (1位はMops)
        
◇3月 東京で山口冨士夫が帰国したチャー坊と出会い、新バンド結成を決意。

◇3月31日 裸のラリーズのオリジナルメンバーで、1968年11月2日にGolden Cupsとも共演した若林盛亮が、よど号ハイジャック事件を起こす。
 
※4月10日 Paul McCartneyがBeatles脱退を発表

◆5月5日 ゴールデン・カップス シングル「にがい涙」発売

ザ・ゴールデンカップス The Golden Cups/にがい涙(Bitter Tears)
https://www.youtube.com/watch?v=3QnzNBjg63k

出場者のトップに記載されたGolden Cups
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◆◇5月5日〜10日 「第3回日本ロックフェスティバル」
出演 :
5日(東京サンケイホール):Flower Travellin’ Band、モップス、ゴールデン・カップス、ハプニングス・フォー等。
6日(横浜公園野外音楽堂):ブラインド・バード、FTB、モップス、ゴールデン・カップス、ハプニングス・フォー、ルイズルイス加部グループ (当日追加出演) 等。
8日(大阪厚生年金ホール):ヘルプフル・ソウル、FTB、モップス、ゴールデン・カップス等。
9日(日比谷野音):ブラインド・バード、FTB、エム、ヘルプフル・ソウル、モップス、等。
10日(日比谷野音):フード・ブレイン、山口富士夫グループ(成毛滋がキーボードで参加)、FTB、モップス(亀渕友香がゲスト)、ゴールデン・カップス、ハプニングス・フォー等

◆海外からのSpiritは欠場したため、Golden Cupsが9日以外は連日トップに記載。次いで、Happenings Four、Mops、Flower Travellin’ Bandの順に記載

◆◇5月10日  フェス最終日の「セッショングループ」のパンフレット記載のメンバーは、写真のある成毛滋、陳信輝、山口富士夫、角田ヒロ、その他にヒロ柳田、ルイズルイス加部の名前が挙がっていた。

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【セッショングループ】:パンフレットには、セッショングループ、スーパーセッションの説明と、第1回日本ロックフェスではエディ藩が、第2回日本ロックフェスでは陳信輝が中心になったとの記述がある。第3回日本ロックフェスでは山口冨士夫が、最終日5月10日のメインアクトになったと思われる。

 5月10日当日に実際に出た2つのセッションバンド:
「Foodbrain (◆陳信輝/◆ルイズルイス加部/ヒロ柳田/角田ヒロ) 」
「山口冨士夫グループ」

「山口冨士夫グループ」のメンバー:◇山口冨士夫、成毛滋 (キーボード) 、石川恵(ベース:ファーラウト)、つのだひろ(ドラムス:ジャックス)。
 初ステージのチャー坊は踊りだけで参加し、成毛滋に「あんた、いえてへんわ」と言ったとされる。

 成毛滋が、ギタリストとして、かつリーダー格として、山口冨士夫にトップの座を譲った。ダイナマイツは、トンネル天国以外は、レコードのセールスなど商業的には振るわなかったが、実力の面において山口冨士夫が日本で最も高く評価されていたことがわかる。

Food Brain / That Will Do (1970)
https://www.youtube.com/watch?v=XCs_JjFQQjc&list=RDXCs_JjFQQjc&start_radio=1
5月10日のライブでは、角田ヒロは、Foodbrainと山口冨士夫グループの両方でドラムを叩いた。しかし、山口冨士夫は、その後、オーディションで恒田義見を採用して京都で村八分を結成した。

第3回日本ロック・フェスティバル - 飛龍のロック雑記帳
http://rock70s.music.coocan.jp/kosenjyo/hibiya03.html

◇5月ごろ 山口冨士夫、恒田義見をオーディションで新グループ (村八分)に誘う

恒田義見 伝説のバンド村八分結成秘話!山口冨士夫との出会い!
https://www.youtube.com/watch?v=xwCbnPn7Bi8
0:20 恒田義見の高校の後輩の高橋幸宏 (山口冨士夫の大ファンで追っかけだった) の紹介で、先輩の細野晴臣による新バンド(ヴァレンタイン・ブルー、はっぴいえんど)のドラムのオーディションを渋谷の天井桟敷館で受けた。
3:20 東京キッドブラザースの団員の紹介で、山口冨士夫と六本木アマンドで会い、新宿のディスコでオーディションを受け、採用される。
5:45 「(山口冨士夫は)20歳ですごい貫禄ですね」
「だってスーパーギタリストだもん。・・・当時10円コンサート、ロックコンサートで、エディ潘、山口冨士夫っていえばギターの王者みたいなとこがあったじゃん」

◇5月ごろ 山口冨士夫が京都で村八分を結成。当初は「ななしのごんべ」「山口冨士夫グループ」「裸のラリーズ」等を名乗る。

 山口冨士夫は1969年のニューロック期に、ダイナマイツ時代から、Golden Cupsとの共演や、ディスコ、ライブ喫茶でのライブ、ロックフェスやプライベートでのセッションを通して、ギタリストの腕を磨きながら、方向性を模索していた。

 結論として、エディ藩と並び日本でトップギタリストと評価されながら、山口冨士夫は、感性の柔らかい素人のチャー坊や青木真一をメンバーにする。そして、日本にはなかったRolling StonesのようなリフとGroove感をメインとする新バンドを京都で実現した。

◇7月26日 「ロックイン・ハイランド」(富士急ハイランド)
 村八分が水谷孝を加えた6名で「裸のラリーズ」名義で出演。
   共演:◆Flower Travellin’ Band、モップスなど。

◆8月31日 ゴールデン・カップス、伊東が完全に脱退。9月1日、柳ジョージが加入。

◇9月13日 京都円山オデッセイに、水谷孝を除く「山口冨士夫グループ」として村八分が出演。共演:◆Flower Travellin' Band
 山口冨士夫「So What」によれば、チャー坊主導と水谷孝主導の2つの「裸のラリーズ」が出た。

◇秋 水谷は東京に移り、「東京版ラリーズ」を編成。
  →1974年に裸のラリーズは、◆Golden Cupsをゲストに青山で10周年ライブ

◇9月4日 山口冨士夫、チャー坊が目標としたRolling StonesのGet Yer Ya-Ya's Out! のLiveがリリース。

Rolling Stones / Jumpin' Jack Flash (Live) 1969年11月27日 – 28日録音
https://www.youtube.com/watch?v=yvzpNnjFNk4&list=RDyvzpNnjFNk4&start_radio=1
2:12〜 1971年録音の「村八分 / 草臥れて」の「 あっ!!」の原型と思われるGrooveが素晴らしい。

◆10月23日 Golden Cups、エディ藩作曲のインスト「ハイジャック」録音 → 翌1971年1月「Golden Cups / フィフス・ジェネレーション」で発売。
 1970年3月31日の元裸のラリーズの若林盛亮による「よど号ハイジャック事件」からの影響といえる。
 フォークではなく、ロックバンドが政治的メッセージを示唆したレアなケース。

 ドイツのAmon Düül IIも音楽的志向から、政治的なAmon Düülから1968年に分離したが、1974年にアルバム「Hijack」をリリース。内容的には、普通のPop Rockだった。

タイガース:エディ藩作曲「海の広さを知った時」収録のラストアルバム
Foodbrain:第3回ロックフェスの5月10日「セッショングループ」から誕生した名盤
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◆11月6日 慶應三田祭で、ルイズルイス加部 (ベーシスト交替の可能性あり) 、陳信輝のFoodbrainが出演     

◆12月15日 タイガース、エディ藩作曲・安井かずみ作詞のバラード「海の広さを知った時」をリリース。

タイガース / 海の広さを知った時 1970
https://www.youtube.com/watch?v=9I2RJv7SoTw


= 1971年「日比谷野音」 エディ藩・Golden Cupsライブアルバム録音  山口冨士夫・村八分の衝撃的デビュー

 1969年〜1970年に日本の「ギタリストの王者」の一人とされたエディ藩は、Golden Cupsの音楽性を成熟させ、後の自身の名盤「エディ藩とオリエント・エクスプレス」、ミッキー吉野のゴダイゴ、柳ジョージとレイニーウッドなど日本のロックの発展に貢献していく。

 他方、もう一人の「ギタリストの王者」山口冨士夫は、京都のチャー坊とともに、一説にはSex Pistolsの音楽性にも影響を与えたとされる (村八分2代目ドラマー、上原ユカリ談) 衝撃的な「村八分」のサウンドを作り上げていく。
   
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◆1月10日 The Golden Cups / フィフス・ジェネレーションReturn Of The Golden Cups発売

 エディ藩は「本当にやりたかったことができた」と述べ、またこのアルバムがゴダイゴのサウンドの原型となったとされる。

 Hi Jackはエディ藩作曲のインストで、飛行機のジェット音の効果音が入っており「よど号ハイジャック事件」にインスパイアされたと思われる。1968年9月の同志社大学学園祭でGolden Cupsの前座をした裸のラリーズに対する、エディ藩からの回答ともとれる。
 エディ藩作詞作曲のFeel This Wayは美しいバラード。

The Golden Cups: V.D. (Vernard's Going Doomed Again) 
https://www.youtube.com/watch?v=MvaA8NkT2wc&t=24s
B面3曲目。本作中、最もProgressive Rockに近づいた実験作。ハモンドオルガンが美しい。

◆Music Life3月号 Golden Cupsが、1970年度人気投票最終結果で、2年連続で国内部門で1位 (15000票超) 。3位はPowerhouse (10000票超) 。
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◇3月20日 京大西部講堂「Mojo West」で、山口冨士夫「村八分」名義でのステージデビュー。共演:PYG(沢田研二、萩原健一)
 平凡パンチで大きく取り上げられた。

◆3月31日 Golden Cups「ガッツ・イン・コンサートvol.1」 草月会館
 ケネス伊東を除くGolden Cupsの歴代メンバー全員参加によるゴールデン・カップスの歴史を辿る意欲的なコンサート。

◇4月11日 日比谷野音で「村八分」の東京デビュー 共演:トゥーマッチ

◇4月30日 村八分 / 草臥れて 大阪のスタジオで録音。山口冨士夫は2006年頃の「日本のギタリスト」という著書で「草臥れて」を生涯で「1番気に入っているプレイ」として挙げている。

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◆4月 Flower Travellin’ Band / Satori カナダ、日本で発売。カナダでチャートイン。

◇5月25日 Music Life 6月号に山口冨士夫のインタビューを掲載。「世界で一番すごいのはRolling Stonesと村八分だ」と発言。

村八分 / あっ!! from 『村八分 / くたびれて』1971年4月30日
https://www.youtube.com/watch?v=O8SuvuaVqfU&list=RDO8SuvuaVqfU&start_radio=1
2:20〜 日本の1971年のロックのピーク。 1984年12月24日 (山口冨士夫が欠場) に法政大学ホールで大音量で流されたときの音は重低音が強調されたため、もっと凄かった。BassのGrooveが際立っており、山口冨士夫が青木真一に1日中ベースを教えた成果、「世界で一番すごいのはRolling Stonesと村八分だ」と語った理由がわかる。

New Trolls / Concerto Grosso Adagio 1971 イタリア 1971年5月4日マスタリング
https://www.youtube.com/watch?v=DCgvp6IfE7w&list=RDDCgvp6IfE7w&start_radio=1
2:10〜 イタリアの1971年のロックのピーク。LPチャート最高位2位。キリスト教 (バロック)とユダヤ (Luis Enríquez Bacalov) の融合の到達点。

Ash Ra Tempel / Amboss 1971 ドイツ 1971年5月発売
https://www.youtube.com/watch?v=iTZeaAIDvTo&list=RDiTZeaAIDvTo&start_radio=1
7:30〜8:00 ドイツの1971年のロックのピーク。世界で最も過激だったBerlinの学生運動から生まれた音。Popol VuhのFlorian FrickeがLed ZeppelinWより上位に評価。

◇6月27日 日比谷野音で村八分主催のコンサート。これを見た一風堂の土屋昌巳は「音楽によって世界が変わると確信した」と述べている。

村八分BOX -LIMITED EDITION Trailer
https://www.youtube.com/watch?v=G9EqrB0ISaw
1:37まで、1971年の日比谷野音での映像が見られる。

◆7月3日・4日 日比谷野音 Golden Cups 共演:はっぴいえんど 陳信輝

 1971年はゴールデン・カップスの野外ライブは、7月に日比谷野音で行われた2回しかない。

◆7月30日 Golden Cups「ガッツ・イン・コンサートvol.2」 日比谷野音 
  出演:Golden Cups、ルーム (ルイズルイス加部、林恵文)、エディ藩グループwith柳ジョージ

 「ライヴ!! ザ・ゴールデン・カップス」を録音。キーボードはジョン山崎。

 Golden Cupsの成熟した実力が最大に発揮され、3人のリードボーカル(デイブ平尾、エディ藩、柳ジョージ)を擁する強力なアルバムとなった。

 1971年の日比谷野音では、エディ藩(Golden Cups)と山口冨士夫(村八分)の共演はなかった。

 東京ではフォークが盛んになり、ロックが急速に衰え、年内にGolden Cupsは解散を決める。柳ジョージの著書「敗者復活戦」によれば、Golden Cupsのメンバーは皆、当時情熱を失っていったとされる。

◆10月5日 ライヴ!! ザ・ゴールデン・カップス 発売。

The Golden Cups / Live Album ライヴ!! ザ・ゴールデン・カップス- 1971 - (Full Album)
https://www.youtube.com/watch?v=fo1ug4f2q50&t=3s
1曲目はJoy To The World

◆11月5日 Golden Cups ラストシングル 人生は気まぐれ 発売
http://www.studio-g3.com/goldencups/03-sg-jinseihakimagure.htm

Golden Cups ライブ / たった一度の青春・人生は気まぐれ (場所は不明)  
https://www.youtube.com/watch?v=dAvKs07kbss&list=RDdAvKs07kbss&start_radio=1
エディ藩のDrivingギターが聴ける貴重音源。司会のすぎやまこういち、湯川れいこもGolden Cupsを評価しているのがわかる。

◇11月6日 村八分が慶應大学三田祭をキャンセル。
 この日、頭脳警察がはっぴいえんどの演奏時間をジャックしたことで知られる。
 裸のラリーズ、吉田拓郎が出演。東京のロックが衰退する中で、裸のラリーズは日比谷野音などで活動を続け、OZなどで高い支持を得る。
 吉田拓郎はフォークブームにより全国でブレイクする。吉田拓郎はロックファンであり、ライブではJeff Beckグループのような音を目指していた。

= 1972年 Golden Cups解散 村八分 全盛期

◆1月1日、ゴールデン・カップスとして最後の仕事となった沖縄のディスコで、『長い髪の少女』を演奏中、会場内で火災が発生し、柳のベースを除く機材をすべて焼失。1月2日付でザ・ゴールデン・カップスが正式に解散。

◆3月 Flower Travellin’ Bandの帰国後、篠原信彦(キーボード、ex.ハプニングス・フォー)がサポートメンバーとしてバンドに参加。全国縦断凱旋コンサートを行う。しかし日本でのロックの人気は低迷していた。

※8月 
 GS出身の立川直樹が「日本のロックは、いまどこに… フォークの波にのまれたのか ロック・アーチストの哀しい眼差しが気になる ROCK in JAPAN」というタイトルで『guts』1972年8月号に寄稿し、当時の日本に於けるロックの状況を嘆いている。「昨年(1971年)、あれほどまでに盛んに行われたロック・コンサートが、今年はあまり開かれないという。さらに1971年秋頃から、一時のGSブームを思わせるスピードで抬頭してきたフォークソング・ブームに押され、重要な資金源(?)であった夏のコンサートが、昨年夏に比べると、ずっと少なくなってしまった。

◇8月27日 村八分「No.1 コンサート」京都円山公園音楽堂 
 東京に対し、京都のロックシーンは村八分によって活況を呈し、8月のライブでは全国からファンが訪れ、大音量のライブで衝撃を与えた。

 Music Lifeの1972年度の人気投票 (1973年3月最終結果) では、村八分はレコードを出していないにもかかわらず、日本のバンド部門で14位にランクされた。

◆10月5日 デイブ平尾が初のソロシングル『僕達の夜明け/一人』を発売。

ディーブ平尾(デイブ平尾) / 僕たちの夜明け(Dawn of our)/
https://www.youtube.com/watch?v=nZCDeGCnzus

◇11月23日 村八分 / 三田祭Live

 このライブを見て衝撃を受けた石坂敬一 (後の日本レコード協会会長) は、自身が東芝でプロモートしていたPink FloydのHarvestなどを通して、村八分を世界にリリースすることを決意する。しかし、洋楽担当だった石坂敬一は計画をとん挫する。 

村八分 / あやつり人形 (from 三田祭 1972)
https://www.youtube.com/watch?v=wrHrsF_g0ZU&list=RDwrHrsF_g0ZU&start_radio=1
3:30から4:45が日本のロックの頂点だと思う。できれば2000年モノラル盤CDをヘッドホン・フルボリュームで。Sex Pistols / Anarchy in the UKと同格の衝撃、日本の音階による山口冨士夫の完成されたギターソロ。

= 1973年 村八分、Flower Travellin' Band解散

◆1月 Flower Travellin’ Band、来日するローリング・ストーンズの前座の予定だったが、来日は中止になり大きなチャンスを逸す。2月、アルバム『Make Up』を発表。3万枚はロックとしては好セールスだがフォークにははるかに及ばず。4月、京都円山公園音楽堂で行われたコンサートを最後に解散。

Flower Travellin' Band / Make Up 1973
https://www.youtube.com/watch?v=WW-Ba9BI3AM&list=PLrRNJEB_vQPQ3_haTIkKd1i94qmQUbShv&index=2
後にCMでもリバイバルヒットした名曲

Flower Travellin' Band / Broken Strings 1973
https://www.youtube.com/watch?v=de-1SS7_ghM&list=PLrRNJEB_vQPQ3_haTIkKd1i94qmQUbShv&index=6
BeyonceがSamplingした美しいバラード

◇New Music Magazine2月号 山口冨士夫の特集が異例の10ページ掲載される。 (うち8ページは鋤田正義の写真)

◆春頃、デイブ平尾が断続的・流動的にママリンゴというバンド(メンバーは平尾、加部、柳など)を開始。

ママリンゴの唄
https://www.youtube.com/watch?v=xV5x6VFMyIQ

◇5月5日 村八分 / 京大西部講堂でLive 解散

村八分 / 馬の骨 from 『村八分 ライブ』1973
https://www.youtube.com/watch?v=kmNLNF54Cm8&list=RDkmNLNF54Cm8&start_radio=1
ライブはJeff Beckも影を潜めるほどの出来だったと、New Music Magazineのライターは述べている。

村八分 / あッ!! from 『村八分 ライブ』1973
https://www.youtube.com/watch?v=M4qicGFRsjA&list=RDM4qicGFRsjA&start_radio=1
John Lydonは、1970年代の最愛聴盤がCanのTago Magoで、日本人Damo Suzukiに代わって自分がCanのVocalになりたいと思っていた。「あっ」の冒頭の「うるさい」のチャー坊の叫びも含め、Sex Pistolsが『村八分 ライブ』を聴いて影響を受けたという噂にも十分信憑性がある。

◇6月5日 モップスMops/朝まで待てないAsamade Matenai のLP version をリリース

 1967年のビクター時代からダイナマイツの山口冨士夫とは盟友だったMopsは、吉田拓郎、井上陽水などフォークシーンと関わりながら、1970年代を活動。朝まで待てないのリメイク版は、村八分 / 操り人形の三田祭ヴァージョンと並ぶ、日本のロックの金字塔。

モップスMops/朝まで待てないAsamade Matenai ~Remake version (1973年)
https://www.youtube.com/watch?v=ipC9uqFMMT8&list=RDipC9uqFMMT8&start_radio=1

◆12月頃 ママリンゴが「デイブ平尾とゴールデン・カップス」に改名し活動を開始。

「ママリンゴ」 → 「デイブ平尾&ゴールデンカップス」に改名
・デイブ平尾(ボーカル)【元・ゴールデンカップス】
・柳譲治(ギター)【元・パワーハウス、ジプシーアイズ、ゴールデンカップス、柳譲治と不確定性原理とルイス加部】
 → 柳ジョージとレイニーウッド
・加部正義(ベース)【元・ゴールデンカップス、ルーム、フードブレイン、スピード・グルー&シンキ、柳譲治と不確定性原理とルイス加部】
 → フーアウイ、リゾート、ジョニー・ルイス&チャー、ピンククラウド

◇12月 山口冨士夫が「ひまつぶし」をELECレコードで録音。

= 1974年 2つの名盤「エディ藩とオリエント・エクスプレス」「山口冨士夫 / ひまつぶし」 Golden Cupsが裸のラリーズにゲスト出演
 
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 日比谷野音も、京都の村八分のロックシーンも終焉した後、エディ藩と山口冨士夫は、新しい感性に基づいた名作をリリース。

 エディ藩は渡米の際に感動したTower Of Powerに影響を受けたホーンセクションに、MellotronのEuropean Progressive Rockの抒情性も加味した「オリエント・エクスプレス」をリリース。

 山口冨士夫は、過去の作曲ストックからと思われるポップスやフォークなど、Kevin Ayersの『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』のような良質のメロディーの作品集「ひまつぶし」をリリース。

 1974年は、Philadelphia Soul、Virginレーベルや、イタリアのIl Volo、Le Orme / Maggio、Tangerine Dream / Phaedraなどの新しい感性に基づく良作が生まれた年だった。

Il Volo / Sonno 1974
https://www.youtube.com/watch?v=YNfXQqSu52w&list=RDYNfXQqSu52w&start_radio=1
1974年の新しい時代の感性を象徴する曲。「エディ藩とオリエント・エクスプレス」のSoulとEuro Progの感性、「山口冨士夫 / ひまつぶし」の良曲、Philadelphia Soulなどを想起させる。
これに対して、1974年のFocus / Hamburger ConcertoのB面は一つの時代の完成と終焉だった。
 
◇Music Life3月号 人気投票最終結果。日本のギタリスト部門で山口冨士夫が8位、グループ部門で村八分が7位。

◆3月31日 西武劇場 「ママリンゴ」名義で、デイブ平尾とゴールデン・カップスが出演

◇4月10日 フジオ(山口冨士夫) / ひまつぶし 発売

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山口冨士夫 / おさらば from ひまつぶし 1974
https://www.youtube.com/watch?v=t7llGN9fSsE

山口冨士夫 / からかわないで from ひまつぶし 1974
https://www.youtube.com/watch?v=JwdwWa9_yVw&list=RDJwdwWa9_yVw&start_radio=1
後にライブの定番になる日本のロックの最高楽曲の一つ

 山口冨士夫は、4月20日に愛知・名古屋市公会堂で、3曲のみ演奏しステージを去った。
 その後、6月頃、山口冨士夫は「ZOON」結成。メンバーはティナ(Vo)フジオ(G)高沢(B)ビショップ(Ds)

◆エディ藩とオリエント・エクスプレス
http://www.studio-g3.com/whoswho/02-eddiebang6-orient.htm

 日本コロムビアの担当役員が、会社史上最高のサウンドの音楽と絶賛した名盤。

◆7月1日発売 
LP:エディ藩とオリエント・エクスプレス/その1 日本コロムビア 
シングル:エディ藩とオリエント・エクスプレス/9O‘clock

エディ藩とオリエント・エクスプレス/オリエント・エクスプレス
https://www.youtube.com/watch?v=uSWyUc9Mj4M&t=33s
詞曲:エディ藩  Mellotron:大野克夫

エディ藩の作曲の最高作とも思う抒情的な名曲 9 O'Clock
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エディ藩とオリエント・エクスプレス / 9 O'Clock 日本語version
https://www.youtube.com/watch?v=kGMIpKa7VjY
Mellotron:大野克夫

 「9 O'Clock 」は、日本語versionも良いが、英語も話せるエディ藩自身の作詞による英語versionの方が、心地よいと思う。

Eddie Ban And Orient Express エディ潘とオリエント・エクスプレス / その1 全曲+ボーナストラック
https://www.youtube.com/watch?v=9hnyZw70xZs
39:34 「9 O'Clock 」英語version 詞曲:エディ藩

(ブログ) 癒しのメロトロン・日本におけるメロトロン使用曲・名曲選U Mellotron in JapanU 「9 O'Clock 」
http://soleluna.seesaa.net/article/474800760.html

◇8月4日 Zoon (山口冨士夫) とPantaが、郡山ワンステップ・フェスティバルに対抗する「Two Step Concert」を日比谷野音で実行。
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◆8月5日 エディ藩とオリエント・エクスプレス、郡山ワンステップ・フェスティバルに出演 ライブCD 2019年4月発売

名演とされたエディ藩とオリエント・エクスプレスのライブは後にCD化された
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◆8月9日 デイブ平尾とゴールデン・カップス、郡山ワンステップ・フェスティバルに出演

◆8月11日 横浜Day Dream Festival Bebe (Powerhouse) 主催 
 出演:ニュー・ゴールデン・カップス、エディ藩とオリエント・エクスプレス、パワーハウス・ブルースバンド、ミッキー吉野グループ
悪魔のはらわたブギウギ・バンド=加部正義、ジョン山崎のバンド
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◇◆9月6日 裸のラリーズLes Rallizes Dénudésが、ゲストにGolden Cupsを迎え、青山タワーホールでライブ。
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当時の裸のラリーズのメンバー

 「お互いに10年選手だから」という理由での共演。デイブ平尾、ルイズルイス加部、柳ジョージが出演し、エディ藩は出ていないと思われる。「ゴールデン・カップスのすべて」の本には、この9月6日の記録はない。
 
 「お互いに10年選手」という言葉からは互いへの敬意が見て取れる。水谷孝がデイブ平尾、エディ藩、ルイズルイス加部の誰かと旧知にあった可能性もある。

 「OZ Days」以外にレコードもない裸のラリーズのオファーにGolden Cupsがなぜ応じたのかは昔から謎だった。しかし、1968年11月2日に、Golden Cupsの同志社大学でのライブに裸のラリーズが前座として出演していたことがわかった。

 1974年前後、裸のラリーズはライブハウス「OZ」のスタッフの協力を得てライブの企画運営を行っており、「OZ」の関係者を通してGolden Cupsをゲストに招いたとも考えられる。

 「ヤング・ギター」1973年11月号の“空を駈ける裸のラリーズ”での水谷孝のインタビューには、「時代は変わってしまった。重く感じてた事? 安保とかーいっぱいあるでしょ。」とある。1960年代に京都で政治闘争やデモに参加した水谷孝と、ベトナム戦争を経験したデイブ平尾、エディ藩などGolden Cupsとの間に共感があったとも思われる。エディ藩もゴールデン・カップスとベトナム戦争は切り離せないと語っていた。

 青山タワーホールでは、1972年にRCサクセション、井上陽水、1973年にシュガー・ベイブなどのライブがあり、OZや大学などで主に活動していた水谷孝にとって「音楽活動10周年」の特別な意味があったと思われる。「10年選手」という言葉から、水谷孝が音楽を始めたのは1964年であり、ヴェンチャーズ、ビートルズの影響を受けたことも推測できる。

 当日のライブの音源やレポートはないが、大音量の裸のラリーズとの共演によって京都の天井桟敷とも言われた現代劇場が解散したように、デイブ平尾とGolden Cupsがショックを受けたことは想像できる。

 山口冨士夫も裸のラリーズに1980年から1981年まで在籍したが、「So What」の中で「ラリーズにいたことを誇りに思っている。一生忘れられない何かを芽生えさせてくれたバンドだから」と述べている。裸のラリーズが、デイブ平尾が1975年に一度引退したことや、ルイズルイス加部や柳ジョージのその後の音楽活動にも影響を与えたことも想像できる。 

 1983年と1984年の年末に、音楽性の異なる裸のラリーズと山口冨士夫が法政大学で共演した理由がずっと謎だったが、それは「お互いに20年選手」 (1984年の時点で) ということへの敬意にあったのではないかと気づいた。以前ライブハウスの経営者の方と話したとき、この業界ではたとえ無名でも20年以上継続したバンドは無条件で尊敬されると聞いた。

 その後1994年に「30年選手」となる裸のラリーズは、チャー坊追悼の公演を京大西部講堂行い、1997年に活動を停止した。

 山口冨士夫は1964年を起点とすると、亡くなった2014年に「50年選手」だった。

 Golden Cupsは、2022年の「55th ANNIVERSARY THE GOLDEN CUPS AT LAST」まで続いた。1964年を起点とすると「58年選手」だった。

裸のラリーズ / Last One「75・花まつりコンサート」1975年4月20日 御殿場・日本山妙法寺
https://www.youtube.com/watch?v=AITgGWOcLZ8&list=RDAITgGWOcLZ8&start_radio=1&t=3023s
49:30から、裸のラリーズ / Last One 1974年9月6日のゴールデン・カップスとの共演の日と同じメンバーによる演奏。
54:13から、久保田麻琴 (元裸のラリーズ)と夕焼け楽団

◆10月27日 日比谷野音 出演:デイブ平尾とゴールデン・カップス、エディ藩とオリエント・エクスプレス、大木トオル

 → その後、エディ藩とオリエント・エクスプレスは解散

◆12月31日 西武劇場 出演:デイブ平尾とゴールデン・カップス (最後のライブ) 、陳信輝グループ

= 1975年 エディ藩、ゴールデン・カップス、山口冨士夫 活動休止期

◆デイブ平尾が俳優業を本格化、ゴールデン・カップスは解散。

 ベトナム戦争の終結によって、世界的に反体制としてのRockは終わりを告げ、ベルリンの学生運動の中から生まれたTangerine Dream、反戦ミュージカルHairのバックバンドからスタートしたFocus、ELPなどはその使命を果たしたと言える。頭脳警察も解散した。

◆3月29日 TV萩原健一主演「傷だらけの天使」の最終回のラストシーンで、デイブ平尾 / 一人が使用される。

ディーブ平尾(デイブ平尾) / 一人 I Stand Alone
https://www.youtube.com/watch?v=yvvMbJiqBSc

= 1976年 2人の復活「エディ藩とスーパー・セッション・バンド」「リゾート (山口冨士夫&ルイズルイス加部)」

 エディ藩、山口冨士夫は、ミッキー吉野グループ、ルイズルイス加部といういずれも元Golden Cupsのサポートで活動を再開。

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◆10月発売 エディ藩とスーパー・セッション・バンド/ベイサイド・スウィンガー 日本コロムビア 

エディ潘とスーパー・セッション・バンド – Bayside Swinger = ベイサイド・スウィンガー – CD (Paper Jacket,Obi, Album, Limited Edition + 2 more), 2006 [r8974090] | Discogs

Eddie Ban And Super Session Band / Back To China
https://www.youtube.com/watch?v=XsrSzOBT19E
ミッキー吉野、ゴダイゴがサポートした軽やかな音楽

Eddie Ban And Super Session Band / I'VE BEEN LOVIN' YOU
https://www.youtube.com/watch?v=VEUe83faFBM
Barclayに留学した世界レベルにあるミッキー吉野のエレピが素晴らしい。

◇◆山口冨士夫、ルイズルイス加部とのダブルギターによるリゾートを結成。
 横浜の方でセッティングされ、山口冨士夫が呼ばれる形だった。
 ダイナマイツは、1969年にルイズルイス加部がギターにコンバートした時のGolden Cupsとも2回、共演していた。

◇◆10月16日 日比谷野音 出演:リゾート、裸のラリーズ、カルメンマキOZ、外道

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 リゾート「live 1976」CDは、2017年に発売。 ※1976年渋谷パレス座、新宿ロフトでのライブを2枚組に収録。

リゾート(山口冨士夫&加部正義) / One more time (Them cover)  live 1976
https://www.youtube.com/watch?v=LhzznWdoQRw

= 1977年〜1978年 エディ藩・山口冨士夫 2人の休息期

 エディ藩は中華料理店に専念し、山口冨士夫はアマチュアのヒッピーたちと音楽を続けていたとされる時期。

◆ゴールデン・カップスのベスト盤「GS Original Stock」が、久々に東芝から発売。
 他に、Mops (朝まで待てない・リメイク版収録) 、Happenings 4 (レア音源・最高作:おまえの世界へ Live 収録)

 当時はGSを聴ける機会はほとんどなく、貸しレコード店で聴いて、感銘を受けた。

= 1979年 5年ぶりのGolden Cups、6年ぶりの村八分の再結成

◆ラジオで「グループサウンズベスト100」という人気投票。
 子供のころ好きだったのが、タイガースとテンプターズとオックス。このラジオで初めてゴールデンカップスを知り、「銀色のグラス」に驚く。

◇◆5月6日 村八分が再結成され、京大西部講堂のジョー山中グループのコンサートに飛び入りで参加。

◇6月7日 村八分、大阪でテレビ「11pm」に出演
◇7月15日 村八分、京大西部講堂でライブ。その後、解散。

◆8月28日 Golden Cups 日本青年館での『デイヴ平尾と仲間たち』に、エディ藩、加部、マモル、吉野、高野、柳が出演。
 5年ぶりに、同窓会のような雰囲気の中で往年のゴールデン・カップス・ナンバーを披露、当日のみの再結成が実現。

= 1980年 異能の人との出会い 「エディ藩と松田優作」「山口冨士夫と裸のラリーズ水谷孝」

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左:松田優作「TOUCH」 (演奏:エディ藩とクリエイション)  
右:Les Rallizes Dénudés裸のラリーズ with 山口冨士夫 / 屋根裏Yaneura Oct. ‘80

◇村八分が再び解散した後、裸のラリーズの水谷孝が山口冨士夫に電話をかけ、裸のラリーズのレコーディングに参加。

◆ジョー山中が、松田優作を連れて突然エディ藩を訪れる。松田優作が毎日、エディ藩に懇願し、レコーディングを実現。

◆5月1日 松田優作「TOUCH」をVictor Invitationから発売。35万枚のヒット
 エディ藩作「横浜ホンキートンクブルース」を収録。

松田優作+エディ藩グループ / Yokohama Honky Tonk Blues Live 1980
https://www.youtube.com/watch?v=QVP3kynBvo4
夜のヒットスタジオ出演
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◆1980年か1981年 NHK「ふるさとからこんばんは 本牧」(正確な放送時期不明)

 エディ藩主演のテレビドキュメンタリー、NHK「ふるさとからこんばんは 本牧」で、エディ藩の「横浜ホンキートンクブルース」が演奏される。この番組を見た東芝の石坂敬一が声をかけ、エディ藩は1982年に2枚のソロアルバムを発売。

◇8月14日 山口冨士夫、裸のラリーズで渋谷屋根裏で初ライブ。翌年3月まで、月1回のペースでライブを行う。

裸のラリーズ(Les Rallizes Dénudés) LIVE 14 Aug. 1980 with山口冨士夫(Fujio Yamaguchi) at渋谷屋根裏(Yaneura, Shibuya)
https://www.youtube.com/watch?v=5ZFQG-2v-w0&list=RD5ZFQG-2v-w0&start_radio=1&t=208s
1曲目が造花の原野 2:09〜3:49の水谷孝と山口冨士夫のダブルリードギターが素晴らしい。

= 1981年 山口冨士夫が音楽を停止 エディ藩が活動を復活

◆1月22日 「さよなら日劇ウエスタン・カーニバル」

デイブ平尾 (Golden Cups) / 長い髪の少女 1981
https://www.youtube.com/watch?v=LI7O54atFvs&list=RDLI7O54atFvs&start_radio=1
 
◇3月23日 山口冨士夫が屋根裏のライブを最後に裸のラリーズを脱退。
 ギターを燃やして音楽活動を停止。「オレはもう、ダメ、だった」「オレは音楽をやめる」(自伝So Whatより)
 山口冨士夫は、裸のラリーズにいたことを「誇りに思う」とも述べている。

 山口冨士夫は、翌1982年11月まで音楽活動から離れ、海の近くで生活していた。

◆Golden Cupsの5枚のLP (1,2,3,「リサイタル」「ライブ!」) が1981年に復刻される。
 シングルジャケットだったが、この時代に希少なGSが5枚も復刻されるのは初めてで、画期的なことだった。

◆12月5日 Golden Cups、横浜シェルガーデンのオープン記念
 『ゴールデン・カップス・ワンナイト・セッション』で、当日のみの再結成(メンバーは、平尾、藩、加部、吉野、高野)。

The Golden Cups / Opening〜愛しのジザベル / Live 1981.12.5 Shell Garden Yokohama
https://www.youtube.com/watch?v=1oAcHowYR4Y&t=369s

ザ・ゴールデンカップス / 横浜ホンキートンクブルース Live 1981.12.5 / Shell Garden Yokohama
https://www.youtube.com/watch?v=aDIPFwia1Nk&t=18s


= 1982年 エディ藩・東芝から2枚のLPを続けて発売  山口冨士夫が音楽活動を復活

 裸のラリーズとの轟音の共演によって燃え尽きた山口冨士夫だったが、かつて日比谷野音での「ギターの王者」のライバルであり仲間でもあったエディ藩が、村八分を世界に出そうとした東芝の石坂敬一のサポートで1982年に二枚もソロアルバムを出したことは、 復活に向けて励みになったことが想像できる。

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Eddie Ban Discography: Vinyl, CDs, & More | Discogs
https://www.discogs.com/ja/artist/1066305-Eddie-Ban

エディ藩 Discography
http://www.studio-g3.com/goldencups/03-eddiedisc.htm

◆2月 エディ藩 / ブルー・ジェイド 東芝EMIから発売 Producer:石坂敬一
 横浜ホンキートンクブルースを収録

エディ藩Eddie Ban / サテンの夜 Nights In White Satin (Cover)
https://www.youtube.com/watch?v=-M1NXHrRmhQ&t=3s
エディ藩は、King Crimsonの1st、MellotronなどProgressive Rockにも関心を持っていた。

エディ藩Eddie Ban / Yokohama Honky Tonk Blues
https://www.youtube.com/watch?v=NLqzTCGUbV0&t=6s

◆7月20日 Golden Cups 横浜市民ホールのソロ・コンサート『エディ藩と仲間達』に、平尾、加部、吉野、高野が出演、当日のみのゴールデン・カップスの再結成が実現。

◆7月21日 エディ藩 / 横浜ホンキートンクブルース 英語版 (B面) シングル発売

◆第9回 横浜音楽祭 地域特別賞を「ヨコハマ・ホンキートンク・ブルース」で受賞。

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◇◆8月 横浜のバンド491出身で、1970年5月10日に日比谷野音でGolden Cups、山口冨士夫グループと共演したFlower Travellin' Bandのジョー山中は、ウェイラーズとともにレゲエに転向し、アルバムをリリース。シティーロードでも好評価。

◆8月29日 第2回本牧ジャズ祭にミッキー吉野が出演。ゴールデン・カップス関係では最初と思われる。

本牧ジャズ祭の歴史・出演者
https://honmoku-jazz.com/?page_id=160

◆10月 エディ藩 / ネオン・シティ 東芝EMIから発売 Producer:石坂敬一

エディ藩EDDIE BAN / HIDE AWAY - 1982
https://www.youtube.com/watch?v=y_025k3X13g&t=1s
素晴らしいファンク

エディ藩 / ネオン・シティ データ
http://www.studio-g3.com/goldencups/03-eddie-neoncity.htm
前作がクリエイションのバックアップだったのに対し、本作は、陳信輝、アイ高野など横浜の人脈による。

◆デイブ平尾が六本木にライブ・バー「ゴールデン・カップ」をオープン。

◇11月22日 山口冨士夫が法政大学のFoolsのライブでゲストとして音楽活動を復活

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「シティロード」1982年11月号 山口冨士夫が知らずにされたという告知

= 1983年 山口冨士夫音楽活動を本格化              

「Music Magazine」 3月号  初めて明かされたGolden Cupsとベトナム戦争、エディ藩・ジョニー野村の生い立ちなど
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◇1月1日 山口冨士夫がダイナマイツの大木啓造とのキズで、渋谷クロコダイルでのライブ。

◆「Music Magazine」 3月号 「横浜のロック デイブ平尾、エディ藩の近況」の10ページの特集が組まれる
 
 デイブ平尾、エディ藩、ジョニー野村などのインタビュー。
 ゴールデン・カップスの音楽的な分析ではなく、生い立ち、ベトナム戦争、GIなどの音楽的背景、内情の方に初めて深く迫る内容だった。 

 山口冨士夫の特集が10ページも組まれた「New Music Magazine」1973年2月号から10年。
 このデイブ平尾、エディ藩、Golden Cupsの記事を山口冨士夫も読んだと思われる。

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◇「シティロード」4月号 ライブハウス情報に「あの山口冨士夫が本格的に始動」の記事が登場。

◇4月26日 山口冨士夫のライブを初めて屋根裏で見る。
 山口冨士夫の第一声:「 1960年代後半から1970年代の雰囲気で。。。だってほら、みんな、表面ばっかり舐めてきただろ? もっと深く行こうぜ」

◇5月 山口冨士夫が4曲入りEP「Ride On!」発売。

山口冨士夫 / ロックミー
https://www.youtube.com/watch?v=bJOrUp-Py8I&list=RDbJOrUp-Py8I&start_radio=1

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ついにライブハウス情報に「あの山口冨士夫が本格的に始動」の記事が登場

◆6月 加部正義名義のソロアルバム「MOON LIKE A MOON」発売。ベースでなくギターを弾いていたが、ピンクフロイド的な音もある素晴らしいアルバムだった。

◆8.28 第3回YOKOHAMA本牧ジャズ祭に、Golden Cupsからエディ藩が出演。 

 山口冨士夫の復活に対し、1982年に2枚もソロアルバムを出したエディ藩は、1980年代中盤〜1990年代中盤は、「鴻昌」の経営に注力して音楽活動を控えるようになっていったが、1990年代後半から音楽活動を再開した。

◇12月23日 山口冨士夫が法政大学に出演し、1982年復活以降の最高のライブとなる。今までに見たコンサートの中でも最も印象に残るライブの一つだった。翌24日、裸のラリーズが出演し、客席前列に山口冨士夫がいたのも忘れ難い。

山口冨士夫 Tumblings / Dear Prudence (Beatles Cover)  Live 1983
https://www.youtube.com/watch?v=r7N9tcSwXK8&list=RDr7N9tcSwXK8&start_radio=1

= 1984年

◇◆1月1日 ニューイヤーロックフェス1983〜1984にジョー山中、山口冨士夫出演

ニュー・イヤー・ロック・フェスティバル 1983-1984
https://www.youtube.com/watch?v=pSJgaff_R4g

◇◆8月4日 山口冨士夫とジョー山中が、江の島で共演。

◆8月26日 第4回YOKOHAMA本牧ジャズ祭に「Pink Cloud with ミッキー吉野、エディ藩」が出演。
  Golden Cups関連の出演は3年連続。

◆夏、「ゴールデンカップ」など本牧を訪ねる。本牧の住宅街にあったクーラーのない小さな図書館で休んだのが懐かしい。

◆1984年の終わりごろ、Golden Cupsの「スーパーライブセッション」を横浜関内で入手し、LPの1曲目「モージョワーキン」のジャズのようなランニングベースに驚く。

The Golden Cups / Got my mojo working live 1969
https://www.youtube.com/watch?v=UuDrdz86bVQ

◇12月24日 山口冨士夫 法政大学での鮎川誠との共演ライブの日に欠席。シーナ&ロケッツと、山口冨士夫のいないタンブリングスが出演。
  翌日の25日は裸のラリーズが出演。

= 1985年

◆このころ、六本木のGolden Cupに行き、デイブ平尾に握手して頂く。
◆ミッキー吉野に路上で出会い、道案内をしながら、サインを頂く。
◆ピンククラウド (ルイズルイス加部) のライブを浅草で見る。

= 1986年

◇ 2月 山口冨士夫、鮎川誠のライブにゲスト出演し、その後、シーナ&ロケッツ / ギャザードの録音に参加。
◇5月 山口冨士夫と鮎川誠のライブを渋谷ライブインで見る。

= 1987年

◇山口冨士夫、Teardropsを結成。

= 1988年

◇山口冨士夫、RCサクセションの「Covers」に参加。

= 1989年 ゴールデン・カップス再結成・大ホールでライブ  山口冨士夫メジャー再デビュー

◆1月16日 松田優作死去

◆4月5日 ゴールデン・カップス、大阪城ホール『タイガース・メモリアル・クラブ・バンド』にて、当日のみの再結成(平尾、マモル、吉野、高野)。

◇5月12日 山口冨士夫、Teardrops / 2nd.アルバム『らくガキ』で東芝からメジャーデビュー

 1982年のエディ藩の2枚のソロアルバムと同様、東芝の石坂敬一から1988年の秋に誘いがあった。
 石坂敬一は、1972年に村八分を世界的にリリースしようとして挫折した経緯があった。

 山口冨士夫「So What」より:「インディーズじゃ、流通に限りがあるから東芝でやることにしたんだ。それに石坂氏という強い味方がいたからね」

◆6月10日 ゴールデン・カップス、横浜アリーナ『タイガース・メモリアル・クラブ・バンド』にて、当日のみの再結成(平尾、藩、マモル、加部、吉野、高野)。

◇◆8.27 第9回YOKOHAMA本牧ジャズ祭に山口冨士夫のTEARDROPSが出演。
 共演:渡辺香津美、山岸潤史、Dr梅津,他  司会:平岡 正明(音楽評論家)

 山口冨士夫がGolden Cupsの本拠地、本牧に出演したのは、これが最初ではないかと思われる。

= 1990年

◇2月14日 Rolling Stonesが初来日。チャー坊は、数回ライブを見る。

◇山口冨士夫、自らの半生を語った自叙伝『So What 山口冨士夫』を刊行。
 1970年に「裸のラリーズ」として富士急ハイランドでライブをしたことが驚きだった。

= 1992年           

◇◆3/25、5/13 山口冨士夫が『ATMOSPHERE-I』『ATMOSPHERE-II』2枚を連続リリース。
 メンバー:◆ルイズルイス加部、テンプターズの大口広司、ハプニングス・フォー、フラワートラベリンバンドの篠原信彦、山口冨士夫

ルイズルイス加部、元テンプターズの大口広司、山口冨士夫
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◇◆4月12日 川崎クラブチッタでATMOSPHEREライブを見る。

山口冨士夫 / Fun In The Sun (Bass:ルイズルイス加部)1992
https://www.youtube.com/watch?v=vYKwnmHhqGQ

= 1993年
横浜寿町フリーコンサート
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◇◆8月14日 山口冨士夫、横浜寿町のフリーコンサートに出演
 ◆パワーハウスのチーボー、陳信輝、Golden Cups、ピンククラウドのルイズルイス加部、ジョニー吉長によるバンドMojosのライブを見る。最後の曲はクリームのクロスロード。

 Mojosの後に、山口冨士夫が遅れてアコーティックギターだけで出演。
 横浜の主催者からの、10年来の呼びかけが実っての出演だった。1983年の山口冨士夫「Ride On」のときから、横浜のPowerhouseが山口冨士夫に注目していたことがわかる。山口冨士夫も1960年代に「Golden Cups、Powerhouseは仲間と思っていた」と発言している。

= 1994年 村八分・チャー坊の死

◇4月25日「村八分」時代の山口冨士夫の盟友、ボーカルの「チャー坊」こと柴田和志がドラッグのオーバードースにより死去。

◆◇10月25日 黒沢進著「日本ロック紀・GS編」刊行 Golden Cupsとダイナマイツのレコードの全貌が明らかになる。
 裸のラリーズとニューロックのレコードに関する情報も貴重だった。 

= 1996年 <チャー坊(“村八分”)の生と死>の連載開始 

◇1996年4月〜1998年8月 クイックジャパンに<チャー坊(“村八分”)の生と死>が9回連載
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 村八分の音楽のみならず、チャー坊の背景、山口冨士夫自身についても「So What」以上に深く、時として鬼気迫る衝撃的な内容だった。

 1970年5月10日に日比谷野音で、2人の「ギターの王者」と呼ばれたエディ藩と山口冨士夫の分岐点は、1970年3月に山口冨士夫がチャー坊に出会い、京都に向かったことだったとわかる。

 東京の日比谷野音を中心としたロックシーンは、ウッドストックの「Love &Peace」思想に基づくものだった。これに対して、村八分は、加えてチャー坊の個人的な世界観が強く反映している。

 <チャー坊(“村八分”)の生と死>で、「あやつり人形」は死産したチャー坊の子供のための歌で、この詞を見たときに山口冨士夫が本気になったこと、「あっ」は幼少期のチャー坊自身のことであることが明らかにされた。

<チャー坊(“村八分”)の生と死> pdf
https://kazuo1947.livedoor.blog/archives/cat_110427.html

= 1997年 「エディ藩・丘の上のエンジェル」リリース 

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◆3月2日 Golden Cupsのケネス伊東が死去。特にデイブ平尾が哀しんでいたとされる。

◆8.31 第17回YOKOHAMA本牧ジャズ祭にVODKA COLLINS(アラン・メリル,大口ひろし,ムッシュかまやつ,◆加部正義)が出演。共演:渡辺香津美・本多俊之。 
 翌、1998年8月30日、第18回YOKOHAMA本牧ジャズ祭では、加部正義は、ぞくぞくかぞくで再び出演。

◆9月 エディ藩 / 丘の上のエンジェル リリース

エディ藩 / 丘の上のエンジェル
https://www.youtube.com/watch?v=ePdmyyDfO5s&list=RDePdmyyDfO5s&start_radio=1

エディ藩が歌った知られざる名曲「丘の上のエンジェル」〜アメリカ軍兵士と日本人女性の間に生まれた赤ちゃんたちに捧げる鎮魂の歌
https://www.tapthepop.net/song/73966
1997年に発表したにもかかわらず、人前では歌うことなく”封印”していたという歌がある。
エディ藩: 歌わない、「丘の上のエンジェル」は。なんかね、ぐっと涙ぐんじゃって歌えなくなっちゃうんだよね。いろんなこと思い出してさ。だから未だに封印している。

= 1999年 山崎洋子著・ゴールデン・カップス「天使はブルースを歌う」刊行

 <チャー坊(“村八分”)の生と死>のように、山崎洋子著「天使はブルースを歌う」は、ゴールデン・カップスについて、音楽以上にその背景に深く迫るものだった。音楽、特に日本のロックで、この2つほど深いものは読んだことがない。

 1996年から数年間は、これらの文章を通して、エディ藩や山口冨士夫の本当の姿を知った。そのため、2000年の「村八分 / ライブ三田祭1972」の衝撃、2004年の映画「Golden Cups ワンモアタイム」の感銘が大きかったと思う。 

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◆9月30日 山崎洋子著・「天使はブルースを歌う」刊行
 山崎洋子は、平岡 正明から「あなたの文章にはブルースが足りない」と、エディ藩を聴くように勧められる。 
 山崎洋子は、1947年生で同い年のエディ藩に会い、亡くなったGIベビーの追悼歌「丘の上のエンジェル」の作曲と演奏を依頼し、チャリティーCDを制作する。

 P200で「丘の上のエンジェル」について、ルイズルイス加部は「俺がつくらなきゃいけなかった」と述べている。
 P207で、ミッキー吉野は、エディ藩について「ブルースっていう暗いイメージがあるけれど、すごくやさしい」と述べ、また「ゴールデン・カップスは単なる音楽グループじゃなく、一つの生き方だった」と、山口冨士夫の「So What」での「ロックは生き方なんだ」と同じことを述べている。

 デイブ平尾は「丘の上のエンジェル」のGolden Cupsでの演奏を言下に断ったが、それも一つの判断と思える。

 P221〜222がこの本の核心と思われ、山崎洋子は、エディ藩について「私などより重たすぎるものをぎっしり抱え込んでいるのかもしれない」と述べている。
 P260 エディ藩は、このころは「丘の上のエンジェル」をストーミーマンデーで毎回歌っていた。

 山崎洋子著「天使はブルースを歌う」は、Golden Cupsのメンバーの精神的な結束を深め、他方で、ゴールデン・カップスを音楽史のみならず、一つの歴史的な社会的遺産として位置づけ、価値を高めた。このことが、2003年以降のGolden Cupsの再結成、映画化につながったと思われる。

ふるさと本牧 フェンスの向こう
https://www.youtube.com/watch?v=S1_b69y-DJ8
昔の本牧の映像

= 2000年 CD「村八分・1972年三田祭Live」「あやつり人形」の衝撃

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◇CD「村八分・1972年三田祭Live」がリリースされる。
 1973年5月5日の「ライブ村八分」に対して、昔から、村八分の実力はこんなものではないと言われてきたが、CD「村八分・1972年三田祭Live」の「あやつり人形」はまさにそれを証明するものだった。

 「村八分・1972年三田祭Live」には、Superviser:山口冨士夫だけでなく、Words:チャー坊、Producer:浅田哲、Director:加藤義明、Special thanks:村瀬茂人のライブ当日のメンバー全ての名も入っており、総力を上げた復刻といえる。メンバーへの取材にも及んだ<チャー坊(“村八分”)の生と死>によって、結束は固まったのではないだろうか。

 「あやつり人形」は、<チャー坊(“村八分”)の生と死>を読んでいたことで、その衝撃は深まった。
 レコード化されていなかったにも関わらず、当時音楽誌で話題になり、掲載されたという「あやつり人形」の歌詞「神を殺して」は、「丘の上のエンジェル」のように、死産で亡くなったチャー坊の子供への追悼歌だった。
 
 この後、山口冨士夫は、再び、ソロやスリーピース編成などでライブハウスを中心に活動。


= 2002年 映画『ザ・ゴールデン・カップス・ワンモアタイム』の製作が決定。山口冨士夫関西ツアー

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◇◆山口冨士夫の関西ツアーに、ルイズルイス加部、元Bebes、Powerhouseの野木信一がドラムでサポート。山口冨士夫とゴールデン・カップスなど横浜のロックが30年経っても繋がっていたことがわかる。

◇◆5月 山口冨士夫、ルイズルイス加部、コッペ、高橋清のメンバーで、リゾート再結成の話
◇◆7月20日 日比谷野音でライヴ。
◇◆11月4日 大阪ハードレインで、山口冨士夫&加部でライヴ。ドラムをパワーハウスの野木信一が担当し、中島らもも飛び入り参加。
   14日の大阪ウォーターでは、加部が欠席。

◇7月12日  山口冨士夫、京都HATI HATIでライブ。
 これは、京都だけのライブ。山口冨士夫のギターに、79年の村八分再編成時のドラマー榊原敬吉と、70年代初期に活動したバンド TOO MUCHのギタリスト小川勉のふたりがサポートした。 TOO MUCHのベース、ドラムスの2人は、1983年に山口冨士夫タンブリングスを結成した。
Fujio Yamaguchi – Groovy Night In Kyoto 2002 | Releases | Discogshttps://www.discogs.com/ja/master/2885134-Fujio-Yamaguchi-Groovy-Night-In-Kyoto-2002

◆12月、Golden Cups、本格的な再結成と映画『ザ・ゴールデン・カップス・ワンモアタイム』の製作が決定。

= 2003年 ザ・ゴールデン・カップス再結成 初めてライブを見る

◆ザ・ゴールデン・カップス再結成。その後、音楽番組への出演やライブハウスでの演奏を続ける。

◆5月4日、5月6日、横浜club Matrixにて映画撮影用ライブ『THE GOLDEN CUPS MAXIMUM R&B LIVE 2003』を行う

◆8月10日 横浜 ゴールデン・カップスのライブを初めて見る。他にもGSを初めてたくさん見て感動した。
 後期Golden Cupsに参加したアイ高野 のドラムスが、鞭のように鋭くしなっているのが印象的だった。
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= 2004年 映画『ザ・ゴールデン・カップス・ワンモアタイム』公開

◆11月20日 映画『ザ・ゴールデン・カップス・ワンモアタイム』公開
Movie ”Golden Cups One More Time"
https://www.youtube.com/watch?v=5ZwtGejmO1I&list=RD5ZwtGejmO1I&start_radio=1&t=2892s

◆11月20日 エディ藩とRoxvox、「Another Better Day」発売

◆◇11月20日 マモル・マヌーさんから、テアトル新宿の休憩時間中の臨時サイン会でサインを頂く。
 「山口冨士夫さんとバンドを組む計画があったのは本当ですか?」と尋ねたところ、「本当ですよ」と笑顔で答えて頂いた。 
  
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= 2005年 Golden Cups各種書籍刊行、村八分BOXリリース、山口冨士夫「So What」復刊  

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◆◇1月30日 「ゴールデン・カップスのすべて」出版
 マモル・マヌーのインタビューで、山口冨士夫、成毛滋とのバンドの構想があったことが明らかにされた。

◇9月17日 山口冨士夫、スリーピースバンド『フジオ、チコヒゲ&レイ』を東京タワー芝公園スタジオで録音。                                           

◇秋 村八分BOX発売。日本のバンドのBOXセットとしては、2003年の10枚組Golden Cups BOXセットに次ぐ画期的なものだった。
                                           
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The Golden Cups – The Golden Cups – Box Set 10 x CD, 2003 [r3727995] | Discogs
https://www.discogs.com/ja/release/3727995-The-Golden-Cups-The-Golden-Cups

= 2006年 エディ藩、本格的に音楽活動を再開

エディ藩の「鴻昌」に行くのが夢だったが閉店してしまった。
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◆4月1日、アイ高野が急性心不全のため都内の病院で死去。没年55歳。告別式には、ザ・ゴールデン・カップスのメンバー3人、ジョー山中、安岡力也、真木ひでと、鈴木ヒロミツ、加橋かつみ、渡辺茂樹、岡本信、ザ・カーナビーツの越川ヒロシ、喜多村次郎、岡忠夫、ポール岡田らが参列した。

◆6月25日「鴻昌」は閉店し、エディは本格的に音楽活動を再開。

中華街大通りの老舗「鴻昌」が閉店 - 中華街ランチ探偵団「酔華」
https://blog.goo.ne.jp/chuka-champ/e/8e5f8c9ee6d39f7ffcb5326dbe28024b

◆8月27日 
 第26回YOKOHAMA本牧ジャズ祭(坂田明などが出演)に初めて行く。
 運営ボランティアをしている知人から誘われたのがきっかけ。

= 2007年

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◆6月22日 エディ藩の還暦とデビュー40周年を記念してライヴ「60-40 Special」を横浜ブリッツで行い、柳ジョージやミッキー吉野らを迎え、大成功を収める。3年振りのアルバム「60-40スペシャル」をリリース。

◆エディ藩 「60-40 Special」 ライブレポート
https://blog.goo.ne.jp/freespirit1979/e/ac4aa55a180000af6add8983c8d59eb4?fm=entry_awp_sleep
CD「60-40 Special」曲目
01. Lucky's Juke Box
02. So Sad
03. I'm a Believer
04. Close Your Eyes
05. ふられた気持
06. You've Got to Hide Your Love Away
07. Driving Cat
08. 60-40 Boogie
09. Back to China Town

◆8月26日 第27回YOKOHAMA本牧ジャズ祭 (小沼ようすけトリオなど) に行く。小雨だった。
 その後に、本牧Golden Cup店内を初めて訪問。 
 Golden Cupでは、ちょうどGolden Cupsとも親交のあるキャロル山崎のジャズボーカルのライブの日だった。

本牧のレジェンド! 伝説のライブハウス「ゴールデンカップ」とは?
https://www.walkerplus.com/trend/matome/article/133607/

= 2008年 Golden Cupsリーダー デイブ平尾逝去

◆11月10日 デイブ平尾、心不全により死去 享年63歳

◇11月 山口冨士夫、音楽活動再開。2007年から体調を崩して一切の活動を停止していたが、2008年11月に原宿クロコダイルでライブ活動を再開。

= 2009年

◆1月25日 Golden Cups「デイブ平尾追悼ライブ」
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◆ゴールデン・カップス、BS放送に出演。GSの番組でよく出演するようになった。

Golden Cups / 「This Bad Girl」「銀色のグラス」「愛する君に」「長い髪の少女」 
https://www.youtube.com/watch?v=iqqatu_1jCY

= 2010年 ジョー山中支援コンサートで、Golden Cupsを目の前で見る

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◆8月12日 クロコダイル「Get Well ジョー山中支援」ライブにGolden Cupsが出演。

(ブログ) がんばれジョー!U 〜 終戦記念日WAR CHILD 〜 
http://soleluna.seesaa.net/article/159509997.html
(ブログより):
 ついにメンバーが登場。1曲目はルシール、ミッキーさんは、横を向いて鍵盤を弾いている。すごい人だなあ。
  続いて・・・出たあ! 銀色のグラスのイントロ。至近距離2メートルのルイズルイス加部のベースだけをみつめる。この目で記憶するのだ。ルイズルイス加部は、レコードのようなベースラインは弾かなかった。
  レコードでは間奏で、エディーさんの早弾きソロが一瞬、ベースのスピードを超すところがある。エディーさんの早弾きはなかったが、一音一音に思いを込めているように見えた。

 続いて、CreamのWHITE ROOM、絶望の人生、エディ藩の横浜ホンキートンクブルースと続く。
 BeatlesのGET BACKでは皆が「Get back、Joe!」と叫ぶ。
 最後は、十八番のThemのGLORIAで締めでした。
 ジョーと同じ横浜出身のGOLDEN CUPSの熱いメッセージが伝わるライブでした。

= 2011年 山口冨士夫の最後のライブを最前列で見る

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◇6月9日=ロックの日 山口冨士夫が外道と共に、下北沢でライブ

 山口冨士夫は、1曲目でThe Beatles / Rock and Roll Musicを日本語で演奏!

Beatles / Rock And Roll Music 1964
https://www.youtube.com/watch?v=IRF6nmqcbxo&list=RDIRF6nmqcbxo&start_radio=1

山口冨士夫 / 捨てきれっこないさ 6/9下北沢GARDEN
https://www.youtube.com/watch?v=RrLYbBxEzEY
最後に見た山口冨士夫。自分も一緒に少し映っているのが思い出。


= 2013年 山口冨士夫 逝去

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◇8月14日 山口冨士夫 逝去

 2013年7月14日、東京の福生駅前のタクシー乗り場で、アメリカ人の男が別の男性を一方的に殴る現場に遭遇し、止めに入ったところ突き飛ばされて後頭部を打った。それにより急性硬膜下血腫を起こし、都内の病院に入院していたが、8月14日21時半に脳挫傷のため死去]。64歳没。8月15日、元ザ・ダイナマイツの吉田博によって死去が報告された。

= 2014年 横浜高島屋で「ザ・ゴールデン・カップスの時代展」

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◆8月20日(水)午後2時「ザ・ゴールデン・カップスの時代展」エディ藩トークイベント「ファンからみた横浜のブルース」に行く。

 ダメもとでサインをもらおうと思ってレコードを持っていったら、エディ藩にデパートのフロアーで遭遇して驚き、サインを頂いた。

横浜高島屋で「ザ・ゴールデン・カップスの時代展」−60年代の横浜・本牧を再現 - ヨコハマ経済新聞
https://www.hamakei.com/headline/8985/
初日に行われたテープカット。左からCHIBOWさん、ミッキー吉野さん、ルイズルイス加部さん、デイブ平尾さんの姉の平尾富子さん、キャシー中島さん、エディ藩さん、マモル・マヌーさん、小金丸峰夫さん、上西四郎さん

大好評開催中!!『ヨコハマ グラフィティ ザ・ゴールデン・カップスの時代展』
http://altamira.jp/archives/5600

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 2011年6月9日に、山口冨士夫が、1曲目でThe Beatles / Rock and Roll Musicを日本語で演奏したのに対し、イベントのライブで、エディ藩は、同じく「Beatles For Sale」からNo Reply、A Hard Day's Nightをアコースティックで演奏して嬉しかった。
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Beatles / No Reply 1964
https://www.youtube.com/watch?v=YgFo9STa70E&list=RDYgFo9STa70E&start_radio=1

 エディ藩は、「この曲を歌うと泣いてしまうので10年封印していた」というGIベビーの追悼歌、丘の上のエンジェルを10年ぶりに演奏したが、途中で「ああ、だめだ」と言って中断した。

60年代の本牧が蘇る!?高島屋で開催 “Yokohama Graffiti” | パインバレー
https://yokohama-pinevalley.com/honmoku/arc/1543/

ヨコハマ グラフティ ザ・ゴールデン・カップスの時代展 @ 横浜タカシマヤ
https://ameblo.jp/x-cinnamon/entry-11909772692.html


◇8月 山口冨士夫の晩年のライブ等を記録したドキュメンタリー映画「山口冨士夫/皆殺しのバラード」(川口潤監督)が公開された。
 山口冨士夫の母は3歳の時に、阿佐ヶ谷の聖ホームにGIベビーの山口冨士夫を預けて失踪した。「母は結局わからなかった」と映画で語っている。

= 2016年

◆エディ藩 横浜・大岡川祭りでライブ

エディー藩 / 長い髪の少女
https://www.youtube.com/watch?v=lLH7bJHZb1c

= 2017年 Golden Cups、Fuji Rock Festivalに出演

◆3月3日 ザ・ゴールデン・カップス / Hold On 50周年特別映像 赤坂Blitz
https://www.youtube.com/watch?v=ty8VTBkTM68&list=PLFEkR7BV4rVNkZlRVd9CRLVsxywHpRJZO

◆7月29日 【フジロック'17】に、50周年を迎えるGolden Cupsが出演。

Golden Cups / Got My Mojo Workin Live 2017 Fuji Rock Festival
https://www.youtube.com/watch?v=WwJxYNzERAM

THE GOLDEN CUPS FRF'17 DAY2 INTERVIEW
https://www.youtube.com/watch?v=JvpdziqkgTg
BSでご健在ぶりを見られて嬉しかった。

= 2022年

◆6月28日 エディ藩、横浜でライブ

エディ潘 / 一人
https://www.youtube.com/watch?v=kbAR7DP-NYM
デイブ平尾の名曲をカバー

◆9月25日 恵比寿ザガーデンホールで、夕刊フジ・ロックフェスティバル「55th ANNIVERSARY THE GOLDEN CUPS AT LAST」
共演:エディ藩、ミッキー吉野、Panta

ザ・ゴールデン・カップス「4グラムの砂」 @夕刊フジ・ロックフェス
https://www.youtube.com/watch?v=oc5N0Wx59Pw

ザ・ゴールデン・カップス feat PANTA 「Stand By Me」@夕刊フジ・ロックフェス
https://www.youtube.com/watch?v=XwX8j4g8P9k

ザ・ゴールデン・カップス「もう一度人生を」 @夕刊フジ・ロックフェス
https://www.youtube.com/watch?v=IevcrDUyx6c

= 2025年

◆5月10日 エディ藩、感染性心内膜炎のため横浜市内の病院で死去。77歳没。
 これによってザ・ゴールデン・カップスの結成メンバー全員がこの世を去ることとなりました。

ケネス伊東さんは1997年3月2日 死去(死因不明) 享年51歳
アイ高野さんは2006年4月1日 急性心不全により死去 享年55歳
デイブ平尾さんは2008年11月10日 心不全より死去 享年63歳
柳 ジョージさんは2011年10月10日 腎不全により死去 享年63歳
マモル・マヌーさんは2020年9月01日 心筋梗塞により死去 享年71歳
ルイズルイス加部さんは2020年9月26日 多臓器不全により死去 享年71歳
エディ藩さんは2025年05月10日 感染性心内膜炎により死去 享年77歳

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 エディ藩さんの「丘の上のエンジェル」で歌われた根岸の外国人墓地には、2020年には、横須賀の米兵たちが起造したと言われる白い十字架がたくさんまだ残っていましたが、2025年には公園は綺麗に整備されていたものの、GIベイビーたちの思い出を伝える十字架は全て撤去されていたとのことでした。

 もう一度、ゴールデン・カップスの皆さんのご冥福をお祈りしたいと思います。
 今まで、素晴らしい音楽をありがとうございました。RIP

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2025年05月25日

RIP感謝 Luigi Lopez 哀愁と美の作曲家「音楽の夢 2人のLuigi」Italian Symphonic Progressive Popsの系譜 〜1970年Showmen(Osanna)〜 1974年美の頂点Ornella Vanoni批評家賞 〜 1977年Riccardo Fogli ・ Mia Martini世界歌謡祭と1990年Sanremo 〜 1980年樫の木モック主題歌 〜 RIP感謝 Progの源流 Luigi TencoとGian Franco Reverberi


1977年第8回世界歌謡祭来日・地下鉄銀座駅のCarla VistariniとLuigi Lopez
Mia Martini succeeded in the 8th World Popular Song Festival in Tokyo 
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Italian composer Luigi Lopez passed away on May 6th at the age of 77. In Italy, in the mid-1970s, many songs were born that could be called "Italian Symphonic Prog Pop", a fusion of "Canzone", which was popular in the 1960s, and "Italian Progressive Rock", which was popular in the early 1970s. Luigi Lopez, who was active at the Piper Club in Rome, the center of Italian music culture, became one of the central figures of "Italian Symphonic Prog Pop".

In Japan, since the 1980s, "Italian Symphonic Prog Pop" from the early 1970s, such as "I Pooh from the string orchestra era 1971〜1975", has been classified as a Symphonic "Progressive Rock" category like New Trolls' "Concerto Grosso" and highly regarded. So in 2012, I Pooh, the most popular band in Italian history, performed a miraculous three-day concert in a small club with a capacity of 600 people as part of the “Italian Progressive Rock Festival” in Japan.
For that reason, ex – I Pooh, Riccardo Fogli's 1976 and 1977 LPs have been re-released on CD only in Japan. If you are a fan of Beatles’ symphonic ballads or Symphonic Progressive Rock, please listen to : Ornella Vanoni / La Voglia Di Sognare, Riccardo Fogli / Ricordati, Panda / Tardi etc, composed by Luigi Lopez.

★Ornella Vanoni / La voglia di sognare 1974
https://www.youtube.com/watch?v=WJdUGmkIYM0

Luigi Tenco, who committed suicide at the Sanremo Music Festival in 1967, composed Wilma Goich's first hit song, and Luigi Lopez also composed for Wilma Goich, such as experimental prog pop in 1971, anime song hit (Vianella) etc. Both Luigi Tenco and Luigi Lopez composed Ornella Vanoni's best works. Mina, who admired Luigi Tenco and Italian & German Progressive Rock also asked Luigi Lopez to compose a progressive song.
Luigi Lopez also led Mia Martini to success at the 8th World Popular Song Festival at Budokan in Tokyo in 1977 and the Sanremo Music Festival in 1990. Luigi Lopez is the only composer in the world to have won three awards at the World Popular Song Festival. He also had success with music for 4 Japanese animation.

武道館 Luigi Lopez, Carla Vistarini and Mia Martini at Budokan 1977
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今日の1曲
★Dick Ventuno(Luigi Tenco) / Quando 1960 version
       Arranger:Gian Piero Reverberi
★Luigi Tenco / Quando 1961 version
       Arranger:Gian Franco Reverberi
★Billie Holiday / I'm a Fool to Want You 1958
       Arranger:Ray Ellis
 ★Billie Holiday / For Heaven's Sake 1958
 Gino Paoli / Gli Innamorati Sono Sempre Soli 1961
 Luciano Tajoli / Al di la'  1961 Sanremo
 Robertino / Non ti scordar di me 1962
 John Coltrane & Eric Dolphy / My Favorite Things Live 1961
 ★Luigi Tenco / Mi sono innamorato di te 1962
  Ornella Vanoni / Mi sono innamorata di te 1968
 ★Wilma Goich / Ho capito che ti amo (Luigi Tenco) 1964
 Milva / Ho capito che ti amo 1967
 Wilma Goich / Le colline sono in fiore 1965 Sanremo
 Luigi Tenco / Incontro con Luigi Tenco 1966
      Quando、Mi sono innamorata di te Live 
      with Lucio Dalla、Ornella Vanoni、I Rokes / E' La Pioggia Che Va
 ★Luigi Tenco / Vedrai Vedrai Live
 ★Dalida / Ciao Amore Ciao (Luigi Tenco) 1967 Sanremo
       Arranger:Paolo Dossena
 ★Luigi Tenco / Ciao Amore Ciao 1967
       Arranger:Gian Piero Reverberi
  Beatles / A Day In The Life 1967
 Le Orme / Felona e Sorona - Ritorno Al Nulla 1973
        Producer:Gian Piero Reverberi
 Klaus Schulze / Timewind - Bayreuth Return 1975
 布施明 Akira Fuse / 君に涙とほほえみを Se Piangi Se Ridi 1965
 Mina / 君に涙とほほえみを Se Piangi Se Ridi (in Giapponese) 1965
 Wilma Goich / 夜の想い Se Stasera Sono Qui (Luigi Tenco) 1967
 Luigi Tenco / 夜の想い Se Stasera Sono Qui 1967
 テンプターズ Tempters
/ エメラルドの伝説 The Legend Of Emerald (Kunihiko Murai)1968
 タイガース Tigers / 廃墟の鳩 White Dove (Kunihiko Murai)
 Patty Pravo / Se perdo te (The time has come) - Stasera Patty Pravo 1968
 Patty Pravo / Il Paradiso (Lucio Battisti) 1970
 Dino / E' Un Giramondo (Luigi Lopez) 1969
 ★Wilma Goich / Che giorno è (Luigi Lopez) 1970
 Angela Bini / Tu felicità (Carla Vistarini, Luigi Lopez) 1970
 ★Daniela Modigliani / C'è lui 1970
 ★The Showmen / Mi Sei Entrata Nel Cuore 1970
 Osanna / L'Uomo 1971 
 Uno / Right Place 1974
 Napoli Centrale / Campagna 1975
 ★Milva canta Edith Piaf / Mon Dieu 1970
       Director, Arranger:Gian Piero Reverberi
 Lucio Battisti / Emozioni 1970
 Il Balletto di Bronzo / Meditazione 1970
 I Pooh / Tanta voglia di lei 1971
       Arranger:Franco Monaldi
 New Trolls / Concerto Grosso Adagio 1971
       Composer, Arranger:Luis Enríquez Bacalov
 Patty Pravo / Morire... Dormire... Forse Sognare...1971
(Concerto Grosso Adagio - Cover) Arranger:Gian Piero Reverberi
 ★Wilma Goich / L'Uomo Ferito 1972
 ★Caterina Caselli / Ci sei tu 1972
  Caterina Caselli / Primavera 1974
 Riccardo Fogli / Due Regali 1973
 ★Riccardo Fogli / Oh Mary 1973
  The Cyan / Oh Marie 1973
 ★ Riccardo Fogli / E io poeta 1973
 ★Sylvie Vartan / Noi Ieri Noi Oggi 1973
        (Paolo Dossena, Luigi Lopez)
 ★Gilda Giuliani / Compagni Di Viaggio 1977
        (Carla Vistarini, Luigi Lopez)
 Gilda Giuliani / Parigi a volte cosa fa 1973
 ★Riccardo Fogli / Complici 1974
 Riccardo Fogli / Una stanza bianca 1974
 ★Mita Medici / Per Una Volta 1974
 Le Orme / Mita Mita 1969
 Panda / Addormentata 1974
 Arti E Mestieri / Strips 1974
 ★Cico / Notte 1974 full album
 ★Ornella Vanoni / La Voglia Di Sognare 1974
       Arranger:Gianfranco Lombardi
 Peppino di Capri / Un piccolo ricordo 1975
 ★Patty Pravo / Questo amore sbagliato 1975
  Golf Lima Lima (GLL, Luigi Lopez) / Leslie 1975
 Golf Lima Lima / Adesso musica 1976 
 Il Volo / Essere 1975
 ★Umberto Balsamo / Natali 1975
       Arranger:Gian Piero Reverberi
 西城秀樹 Hideki Saijo / Natali (in Giapponese) Live1978
 ★Riccardo Fogli / Mondo 1976
      Arranger:Danilo Vaona
 ★Alice / Piccola Anima 1975
 Alice / Un'isola 1977
 Alice / Kyrie (Popol Vuh cover)
 Popol Vuh / Kyrie 1974 PDU
 ★Alice Visconti / Io Voglio Vivere 1975 
 ★Mina / Ancora dolcemente 1976 PDU
  Klaus Schulze / Timewind - Wahnfried 1883  1975
  Klaus Schulze&Cosmic Jokers(Walter Wegmüller)
/ Tarot - Der Magier 1976 PDU
  Klaus Schulze&Ash Ra Tempel / Jenseits 1976 PDU
 ★Mina / Vedrai Vedrai Live 1971 PDU
 ★Giulia Del Buono / ...Io la sera 1976
 ★Riccardo Fogli / Ricordati 1977
 Riccardo Fogli / Piccola buonanotte 1977
 ★Fantasy / Cantando 1977
 ★Panda / Voglia Di Morirei 1977
 ★Panda / Tardi 1977
 ★Mia Martini / Un Ritratto Di Donna 1977
 ★Mia Martini / Un Ritratto Di Donna Live
"World Popular Song Festival" Tokyo, 1977
 Mia Martini / Da Capo 1977
 Mia Martini / Per Amarti 1977
 Umberto Balsamo
/ Una Rosa Profumata (inc. L’Angelo Azzurro) 1977
 Alunni Del Sole / Pagliaccio 1976
 Le Orme / Storia O Leggenda 1977
 La Bottega Dell'Arte / L'Ultima Storia 1977
 Locanda Delle Fate / New York 1978
  I Vianella / Cybernella 1979
 ★I Vianella / Con Te Bambino 1979
 I Vianella / Devo Amarti 1979 Live World Popular Song Festival - Tokyo
 ★Luigi Lopez / Pinocchio Perchè No? 1980
 Luigi Lopez / Goal “Arrivano i Superboys” sigla iniziale 赤き血のイレブン 1980
 Anne Bertucci / Where Did We Go Wrong 1982 World Popular Song Festival, Tokyo
 John Rowles / Holiday In Mexico 1982
 ★Mina / Mi Piace Tanto La Gente 1982
 ★La fantastica Mimì - sigla completa 1983
 アタックNo.1 / テーマソング + 第1話
“Mimì e la nazionale di pallavolo“ Sigla in Giapponese 1969
 ★Rosanna Fratello / Sola (Italo-Disco) 1984
 Myrian / Change It (Italo-Disco) 1984
 ★Mia Martini / Almeno Tu Nell'Universo 1989 Sanremo
 Mia Martini / Dove il cielo va a finire 1973
 ★Mia Martini / La nevicata del '56 1990 Sanremo
 ★Mia Martini / S.O.S. Verso Il Blu 1996
 「樫の木モック」主題歌
”Le nuove avventure di Pinocchio” Sigla in Giapponese 1972


 イタリアの美しい哀愁の旋律の作曲家Luigi Lopezさんが5月に77歳で亡くなりました。出会いは1985年、VeniceでRiccardo FogliのRCAのベスト盤カセットを買って、移動中の電車内などで聴きました。

 1974年にItalian Progressive Rockは、石油ショックと過激な政治組織による妨害でコンサートが困難になり、衰退しました (日本でも1970年の日比谷野音でFlower Travellin’ Bandへの襲撃事件)。また、ベトナム反戦という目標がなくなり、世界的にもProgressive Rockの創造性は失われていきました。

 しかし、イタリアではヒットソングの分野で、1977年頃までItalian Symphonic Progressive Popsとも呼ぶべき名作群が生まれました。Arti e MestieriのBeppe Crovellaさんも「音楽史のハイライト」といえる1970年代の美しいイタリア音楽は、1974年以後も1977年頃まで続いたと述べています。それこそがItalian Symphonic Prog Popであり、その中心の一人がLuigi Lopezさんでした。 

 1980年代に1970年代前半の主なProg Rockが発掘し尽くされたときに、1990年代以降、私が最も救われた音楽が、James BrownとDance Club Music、1960年代Jazz、そしてLuigi TencoとGian Piero Reverberiの兄弟が源流と思うItalian Symphonic Prog Popでした。

 前回のブログのFruuppは音楽的な影響を最も受ける14歳の時に聴いた作品でした。しかし、 感性の鈍った30歳を過ぎても初めて聴いて感動できた曲では、Luigi Lopezさんの作品が一番多かったと思います。

 Luigi LopezさんのMelodieは哀愁があり、先の見えなかった30代、体調を壊した40代・50代の時にたいへん癒されました。思えば14歳の時にFruuppの優しいMelodieに感化されたからこそ、 年老いてもLuigi Lopezさんのような曲に感動出来たのかもしれません。 

 Luigi Lopezさんは、東京武道館での世界歌謡祭で3曲も成功した世界で唯一の作曲家でもあり、アニメ「アタックNo.1」のイタリア版の主題歌も作曲し、日本にもなじみの深い人でした。

 そこで、Italian Symphonic Prog Popの開祖と考えるLuigi Tencoさんや2024年1月に亡くなったGian Franco Reverberiさんと共に、Italian Symphonic Prog Pop全盛期の1970年代を支えたLuigi Lopezさんがイタリア初の女性作詞家Carla Vistariniさんと作ったMia Martiniさんなどへの作品を中心に、長くなりますが、感謝を込めて振り返ってみたいと思います


Luigi Lopez, è morto il cantautore e compositore: "Lasci un grande vuoto" - imusicfun
https://www.imusicfun.it/news/luigi-lopez-e-morto-il-cantautore-e-compositore-lasci-un-grande-vuoto/

Luigi Lopez - Wikipedia
https://it.wikipedia.org/wiki/Luigi_Lopez

Luigi Lopez Discography: Vinyl, CDs, & More | Discogs
https://www.discogs.com/ja/artist/531382-Luigi-Lopez?superFilter=Credits



= Luigi Lopez と”Italian Symphonic Progressive Pop”の時代 =
         夢を創った人たちの「30年」 
    1960年 Quandoから 1989年 Almeno tu nell'universo、
     そして 1996年 S.O.S. Verso Il Bluまで
                        

 まず、最初に私がItalian Symphonic Prog Popを創ったと考える方たちの生年を列挙したいと思います。

 最初にItalian Symphonic Prog Popを意識したのは1978年に亡きAさんからお借りしたFormula3 / Cara Giovannaです。後半は極限に美しいSynthesizerでありながら、比重が歌にあることにYesやELPとは異なる感銘を受けました。そして、I Pooh / Noi Due Nel Mondo E Nell'Anima、 1980年1月に衝撃を受けたRiccardo Cocciante / Concerto Per Margherita、1982年にKingから発売されたCico / Notte、Umberto Balsamo / Mai Piuによって歌を重視したItalian Symphonic Prog Popの魅力を知り、1990年代以降、Luigi Lopezさんなどを発見して救われ、現在に至りました。

 イタリアにはItalian Symphonic Prog Popで、Popsの側からProgにアプローチした作品、逆にProgからPopsに接近した作品は無限のようにあります。ここに全てのお名前をあげられないことを申し訳ないと思います。

There are an infinite number of great "Italian Symphonic Prog Pop" songs in Italy, works that approach Prog from Pop side, and conversely, works that approach Pop from Prog. I'm sorry that I can't name them all here.

       ★=Luigi Lopez、Luigi Tencoに関連する人

1926年生まれ George Martin (Yesterday, In My Life 1:28, Eleanor Rigby, Good Night)
1928年生まれ Ennio Morricone (Milva / La Califfa, Riccardo Cocciante / Lucia, Renzo Zenobi / E Ancora Le Dirai Ti Voglio Bene 3:40~)  Domenico Modugno
1930年生まれ Franco Monaldi (I Pooh / A un minuto dall'amore 2:54~)
1933年生まれ Luis Enríquez Bacalov (New Trolls / Concerto Grosso Adagio, Osanna / There Will Be Time - Canzona, RDM / La Mia Musica - Lost Myself Today)  Dalida (Avec Le Temps - Col Tempo)
1934年生まれ ★Gian Franco Reverberi : Arranger ★Ornella Vanoni Gino Paoli 
1938年生まれ ★Luigi Tenco Adriano Celentano
1939年生まれ ★Gian Piero Reverberi : Arranger Milva (Canzone, Mon Deau, Desiderato Sogno)
1940年生まれ John Lennon (Beatles / Good Night)  Mina (RIFI- L’immensita..., PDU - La Mente Torna, Ancora dolcemente…)
1941年生まれ Gianfranco Lombardi :Arranger (Ornella Vanoni / La Voglia Di Sognare, New Trolls / Là nella casa dell'angelo 2:21~)
1942年生まれ Paul McCartney Umberto Balsamo (Arranger - Gian Piero Reverberi : Natali, Pace, Paul Buckmaster : Pianeti 3:25~, Gianfranco Lombardi : Quando Ci Si Lascia)  Gabriele Lorenzi (Formula3 / Cara Giovanna 3:25~)  Paolo Dossena (Dalida / Ciao Amore Ciao, Patty Pravo / Limpidi Pensieri)
1943年生まれ Lucio Battisti (I giardini di marzo)  Vangelis (Riccardo Cocciante / Quando si vuole bene)
1944年生まれ Roby Facchinetti (I Pooh / La nostra età difficile 〜 Noi due nel mondo e nell'anima)  Sylvie Vartan (Irrésistiblement, Noi Ieri Noi Oggi) Florian Fricke (Popol Vuh - Mina PDU) Edgar Froese (Tangerine Dream - PDU)
1945年生まれ ★Wilma Goich Aldo Tagliapietra (Le Orme / Breve Immagine)   Raffaele Cascone (DJ, founder of Il Balletto di Bronzo / Meditazione) 村井邦彦 Kunihiko Murai (エメラルドの伝説、廃墟の鳩、花の世界)
1946年生まれ Caterina Caselli (Insieme a te non ci sto più, Primavera) Riccardo Cocciante (1973~1976, Sulla terra io e lei)  Antonio Cripezzi (Camaleonti)  Vince Tempera (Il Volo / Come Una Zanzara 1:05~)  Tony Pagliuca (Lyrics : Le Orme / Sguardo verso il cielo, Maggio)  Elio D'Anna (Uno / Right Place)
1947年生まれ ★Luigi Lopez ★Riccardo Fogli  ★Mia Martini 
Nico Di Palo (New Trolls / Una nuvola bianca)  Franco Mussida (PFM / Dolcissima Maria)  Ciro Dammicco (Soleado)  Paolo Morelli (Gian Piero Reverberi Alunni Del Sole) Francesco Di Giacomo (Banco / Leave Me Alone)  Klaus Schulze (PDU)  布施明Akira Fuse (Se Piangi Se Ridi )
1948年生まれ ★Carla Vistarini ★Patty Pravo (Concerto Grosso Adagio cove:Arranger Gian Piero Reverberi)  ★Giancarlo Lucariello : Producer 
Dario Baldan Bembo (Ciro Dammicco / Mittente : Mellotron Arranger, Mia Martini / Minuetto)  Bernardo Lanzetti (Acqua Fragile / Coffee Song 3:18~) Mario Lavezzi (Il Volo / Essere 2:05~)
1949年生まれ Tony Cicco (Il fiore rosa 2:45~, Il prete e il semplice 2:40~ ) Vittorio De Scalzi (Riccardo Fogli / Una Stanza Bianca) Flavio Premoli (PFM / Il banchetto)  Filiberto Ricciardi (Gens / Anche un fiore lo sa)  
1950年生まれ Piero Calabrese (La Bottega Dell’Arte / Dentro)  Renato Zero (Il Cielo) Mita Medici 
1951年生まれ ★Danilo Vaona: Arranger (Alice / Io Voglio Vivere)  Claudio Baglioni (Fratello sole sorella luna, E tu)  Vittorio Nocenzi (Banco / Grande Joe)  Oliviero Lacagnina (Latte e Miele / Tanto amore)   Luigi Venegoni (Arti e Mestieri)  Ryuichi Sakamoto
1952年生まれ Maurizio Fabrizio (Mia Martini / Dove il cielo va a finire 4:03~, Almeno tu nell'universo)  Manuel Göttsching (Ash Ra Tempel-PDU Mina)


= 1960年〜1961年「Quando」Luigi TencoとReverberi兄弟による“Italian Symphonic Prog Pop”の誕生
      CanzoneとClassic OrchestraとJazz の融合

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Lucio Battisti (Emozioni...) / Luigi Tenco – Canzone Best Library 1979 Japan LP
https://www.discogs.com/ja/release/6689484-Lucio-Battisti-Luigi-Tenco-Canzone-Best-Library
 
 最初のItalian Symphonic Prog Popの原型は1960年〜1961年に、Luigi TencoのQuandoにおいて、Gian Franco Reverberi、Gian Piero ReverberiのArrangerの兄弟によって創られたと考えます。

 Gian Franco Reverberiも、Genova派の中でLuigi Tencoの才能が最も秀でていたと述べています。Luigi Tencoは、作詞・作曲・歌だけでなく、Classical Pianoの素養に加え、当時最先端だったJazzのSaxophoneも演奏していたため、Be-Bop、John ColtraneなどのRhythm・GrooveやBlue Note Scale・Jazz理論などにも精通していたと思われます。 

 もし、Luigi Tencoが10年遅く生まれていたらOsannaのようなProgressive Rockを演奏したと思われます。Luigi Tencoの精神は、Gian Piero Reverberiを通して、1970年代のItalian Progressive Rockに継承されていきます。

 Luigi Tencoの最初の成功曲Quandoは、美しいイタリアのClassical Stringsと歌曲の2つの伝統を対等に、当時最新のRhythmで融合したものです。

 この曲はLuigi Tencoが当初Giorgio Gaberのために作ったものを本人が歌うことになりました。驚くべきことに、この曲は1960年にはGian Piero ReverberiのアレンジでLuigi Tencoが変名でジャケットなしで発売し、翌1961年に兄のGian Franco Reverberiが再アレンジしました。

 Symphonic Orchestraと歌を対等とするアレンジは共通するものの、前者は静謐で詩的であるのに対し、後者はよりダイナミックで1962年に10週間チャートインし、最高位3位の大ヒットとなりました。

 経緯は不明ですが、兄弟の異なるアレンジの試みは、当時Genovaでいかにこの曲が革新的で高く評価されたかの証左であり、後年の演奏に比重を置いたGian Piero ReverberiのNew Trolls、Le OrmeのProduceにも重大な影響を与えたといえます。

 この2つのQuandoこそが、後の”Italian Symphonic Prog Rock”(New Trolls / Concerto Grosso Adagio)と、”Italian Symphonic Prog Pop”(I Poohなど)両者の源流だと思います。 

★Dick Ventuno(Luigi Tenco) / Quando 1960 version
https://www.youtube.com/watch?v=usK8eWQC-ys
Arranger:Gian Piero Reverberi

★Luigi Tenco / Quando 1961 version
https://www.youtube.com/watch?v=ncUlokxEcA8
Arranger:Gian Franco Reverberi

 同時期のGino PaoliのSenza FineはGenova派で最も有名ですが、両A面扱いで発売された1961年のGli Innamorati Sono Sempre Soliは、Quandoと同じ構造を持つGian Franco ReverberiのArrangeによる名曲です。

Gino Paoli / Gli Innamorati Sono Sempre Soli 1961
https://www.youtube.com/watch?v=OCDX5PXPV2A

 1960年の音楽を振り返ると、イタリアではミーナMinaの「月影のナポリ」Tintarella di lunaが大ヒットし、日本でも森山加代子がカバーして50万枚を売り上げ年間ランキング2位となり、ロカビリーブームとなりました。アメリカではDianaが大ヒット、フランスからはEdith Piafの従来型のシャンソンHymne à l'amourが世界的なヒットになります。

 このような時代におけるLuigi Tenco、Gino Paoli、Reverberi兄弟の”Italian Symphonic Prog Pop”のStrings Orchestraの革新性は、従来型のカンツォーネの”Italian Symphonic Pops”の名曲と聞き比べるとわかりやすいと思います。

Luciano Tajoli / Al di la' Sanremo 1961年優勝曲
https://www.youtube.com/watch?v=jAooPFd--HA

Robertino / Non ti scordar di me 1962
https://www.youtube.com/watch?v=VJG2j4dr008

 1962年にはLuigi Tencoは最高作ともされるMi Sono Innamorato Di Te (B面 Angela)をリリース。これは後にOrnella VanoniのLP
Ai Miei Amici Cantautoriでの名唱でも知られ、Gino Paoli作のSenza Fine、Luigi Lopez作のLa Voglia Di Sognareと並ぶVanoniの代表作となります。

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★Luigi Tenco / Mi sono innamorato di te 1962
https://www.youtube.com/watch?v=cHMRMlDWrc8

Ornella Vanoni / Mi sono innamorata di te Live
https://www.youtube.com/watch?v=5Dx1gvdlmGc

 1966年と思われるLuigi Tencoの30分のテレビ番組が残されており、そこでギター、Piano、Saxophoneを演奏し、Lucio Dalla、Ornella Vanoni、イタリアバンドブームを作ったI Rokesと共演。Luigi Tencoの多彩な才能がいかに注目されていたかがわかります。

Luigi Tenco / Incontro con Luigi Tenco 1966
https://www.youtube.com/watch?v=3nWaFtxgW2k&t=97s
4:01 Quando Live
4:51 Mi sono innamorato di te Live 
9:48 Lucio Dalla
15:25 Ornella Vanoni Luigi Tenco plays Saxophone
24:29 I Rokes / E' La Pioggia Che Va


= Luigi Tenco、Reverberi兄弟へのJazzの影響 
      Billie HolidayとJohn Coltrane  =

Dick Ventuno(Luigi Tenco) / Quando 1960, Arranger:Gian Piero Reverberi, Luigi Tenco / Quando 1961, Ar. : Gian Franco Reverberi,
Billie Holiday / Lady in Satin 1958 Ar.:Ray Ellis
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 Luigi Tenco、Reverberi兄弟へのJazzの影響で忘れてはならないのは、 1958年発売のBillie HolidayのLady in Satinです。これは黒人音楽をルーツとするJazzではなく、Billie Holidayが憧れたであろう自分に流れるヨーロッパの白人音楽をルーツとするStrings Orchestraによる音楽です。

 American Jazzに憧れるLuigi Tencoが、自分と同様に不幸な生い立ちを持つBillie Holidayの音楽に深く共感したことは想像できます。Luigi Tencoはショーケンのように実父を知らず、出生は複雑で養子になっていました。

 Lady in Satinも、Luigi Tenco、Gian Piero ReverberiのQuandoを通して、Italian Symphonic Prog Popや、Luis Enríquez BacalovのNew Trolls / Concerto Grosso AdagioなどItalian Symphonic Progressive Rockの源流の一つといえると思います。

By October 1957, Billie Holiday contacted Columbia producer Irving Townsend (Miles Davis / Kind Of Blue) and expressed interest in recording with bandleader Ray Ellis. When Holiday came to Townsend about the album, he was surprised :
It would be like Ella Fitzgerald saying that she wanted to record with Ray Conniff. But she said she wanted a pretty album, something delicate. She said this over and over. She thought it would be beautiful. She wasn't interested in some wild swinging jam session...

★Billie Holiday / I'm a Fool to Want You 1958
https://www.youtube.com/watch?v=qA4BXkF8Dfo&list=OLAK5uy_lLNP0UrVdi0CEHnqZwzFYqoHdVTUYp1m0

★Billie Holiday / For Heaven's Sake 1958
https://www.youtube.com/watch?v=_N3TOMh-lR4&list=OLAK5uy_lLNP0UrVdi0CEHnqZwzFYqoHdVTUYp1m0&index=2
Luigi Tenco、Gian Franco Reverberi、Gian Piero ReverberiのQuandoへの影響が最も感じられる曲。

 1961年にはJohn ColtraneがEric Dolphyとヨーロッパツアーを行っており、イタリアのLuigi Tencoたちでも話題になったと思われます。より実験的なEric Dolphyが実質的に主導したと評価されるJazz史上最も優れた貴重な映像と音源が残されています。

John Coltrane & Eric Dolphy / My Favorite Things Live 1961
https://www.youtube.com/watch?v=zH3JpqhpkXg

John Coltrane & Eric Dolphy / Impressions Live 1961
https://www.youtube.com/watch?v=Qxo6UqL1ijw&t=4s

 日本で、John ColtraneとLuigi Tencoで想起したのが、アルファレコードから荒井由実やYMOを世に出した村井邦彦が、1968年のエメラルドの伝説から1971年までに作曲した奇跡の作品群です。

 村井邦彦はクリスチャンで教会音楽に親しみ、大学時代にはジャズピアノとJohn Coltraneの奏法を研究し、ラジオでColtraneの追悼番組を任されています。

 Classic、JazzというLuigi Tencoと共通の背景から、村井邦彦は日本で最もItalian Symphonic Prog Popに近く、 Quandoとタイガース / 廃墟の鳩、加橋かつみ / 花の世界などは似た構造だと思います。

 村井邦彦は「窓に明かりがともる時」で、Luigi Lopezも2回参加した世界歌謡祭に第2回の1971年に参加しています。友人でスパイダースの頭脳とも言われたレーサー福沢幸雄の死をきっかけに、川添象郎とともにアルファレコード設立など音楽業界に影響を与えていきます。

ザ・テンプターズ The Tempters / エメラルドの伝説 The Legend Of Emerald(Kunihiko Murai)1968
https://www.youtube.com/watch?v=DfSzKWWWgZM
Japan's first ”Symphonic Prog Pop", which reached number one for two weeks in 1968. It was also the first hit song in Japan to use the "dissonant Sus4" chord. Composer Kunihiko Murai was a Christian, a pianist, and a saxophonist who played John Coltrane's songs.

タイガース Tigers / 廃墟の鳩 White Dove (Kunihiko Murai)
https://www.youtube.com/watch?v=XAurvAW_zHs
This is the first anti-war song to be sung in front of the Hiroshima Atomic Bomb Dome in Japan. It reached number 4 on the hit charts.

赤い鳥ー山本潤子(歌唱)/窓に明かりがともる時/村井邦彦 Kunihiko Murai (曲:Kb)1971
https://www.youtube.com/watch?v=Ed_-fzeSDcI
1971年10月3日の合歓ポピュラーフェスティバルで参加作曲賞を受賞し、11月25日〜27日の第二回世界歌謡祭出場曲に選出。作詞:山上路夫


= 1964年 Luigi TencoがWilma Goichに最初の成功作を提供

Ho capito che ti amo / Luigi Tenco, Wilma Goich(in Italian & Japanese)
Wilma Goich / Le colline sono in fiore(in Italian & Japanese)
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 Wilma Goichが1964年にデビューし、バルセロナでの地中海フェスティヴァルに、Luigi Tenco作の「Ho capito che ti amo 愛のめざめ」で参加、優勝しました。

 Wilma Goichはクロアチア民族の血を引き、1967年にはLuigi Tencoの遺作「Se stasera sono qui 夜の想い」でも「夏のディスク・フェスティヴァル」で第3位となりました。Milva、Minaもカバーする代表曲を2つも提供したことから、Tencoと7歳年下のGoichとの間の深い絆が推測されます。

★Wilma Goich / Ho capito che ti amo (Luigi Tenco) 1964
https://www.youtube.com/watch?v=cPGj29ICn30

Milva / Ho capito che ti amo 1967
https://www.youtube.com/watch?v=dLj3XvJ2Jjg
Luigi Tencoの死後、1967年のアルバムに収録されたMilvaのカバー。

 Wilma Goichは1965年からSanremo音楽祭に参加し、優勝候補だったItalian Symphonic Popの傑作「Le colline sono in fiore 花咲く丘に涙して」で入賞。1966年の入賞曲「In un fiore 花のささやき」は日本でもヒットしてカンツォーネ・ブームを担いました。

Wilma Goich / Le colline sono in fiore 1965
https://www.youtube.com/watch?v=czaR0U5A-Qc
1960年代Sanremoを象徴する名曲


= 1967年  Luigi Tencoの死 〜 作曲家Luigi Lopezへの継承

Dalida / Ciao Amore Ciao (Luigi Tenco) Arranger:Paolo Dossena, Beatles / SGT, Luigi Tenco 1st LP (inc. Ciao Amore Ciao) in Japan 1972, Wilma Goich / Se Stasera Sono Qui, CD Luigi Tenco / Se Stasera Sono Qui 1990
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 1967年、Luigi Tencoはフランス最大のスターでイタリア系フランス人のDalidaをパートナーに、自作曲Ciao Amore CiaoでSanremoに参加。反戦歌だった歌詞を変え、優勝まで狙ったと思われます。特にDalidaのヴァージョンは完成度が高く、先進的な音にItalian Symphonic Prog の萌芽も感じられます。 

★Dalida / Ciao Amore Ciao (Luigi Tenco) 1967 Sanremo
https://www.youtube.com/watch?v=WZ6vZEIA0rs
Paolo DossenaがHarpshicordやStringsにエフェクターをかけ、Synthesizerのような音にしている。Dieter DierksによるWallenstein・BlitzkriegのLuneticを思わせる。後にDossenaはThe CyanでLuigi Lopezと共作。

Luigi Tenco / Ciao Amore Ciao 1967
https://www.youtube.com/watch?v=TB-9jtUH4hE
Arranger:Gian Piero Reverberi

Luigi Tenco / Vedrai Vedrai Live
https://www.youtube.com/watch?v=9vLw6JIcZpc
貴重なPianoの弾き語りの映像

 しかし1月26日にLuigi Tencoは予選落選に抗議してピストル自殺をし、Sgt. を録音中のBeatlesのメンバーも衝撃を受けました。1966年のSanremoにはなんとYardbirdsが出場し、イタリアでは1967年にNew TrollsとLe Ormeがデビュー。Beatles・UKとSanremo・Italiaは相互に絶大な影響を与え合っていました。
 
 Luigi Tencoの事件は、 A Day In The Life、特にエンディングの最大音の1拍に影響を与えたと想像しています。

Beatles / A Day In The Life 1967
https://www.youtube.com/watch?v=YSGHER4BWME
事件は1月26日、A Day In The Lifeのオーケストラ部分は2月10日、エンディングの最大音の1拍は2月22日に録音。

 このA Day In The Lifeの最大音の手法は、Ciao amore ciaoのLuigi Tenco盤のArranger、指揮者だったGian Piero Reverberiが、1973年にLe Orme / Felona e Soronaの最終部分で踏襲しました。

Le Orme / Felona e Sorona - Ritorno Al Nulla (Gian Piero Reverberi : Producer)1973
https://www.youtube.com/watch?v=qGyVJVKwH4o

 また、Klaus Schulzeがフランスで1975年のGrand Prix du Disque International from l'Académie Charles Cros、年間ディスク大賞を受けたTimewindのA面Bayreuth Return の最後のカタストロフ (間章) でも、最大音の手法がとられています。

Académie Charles-Cros Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Acad%C3%A9mie_Charles_Cros

Klaus Schulze / Timewind - Bayreuth Return 1975
https://www.youtube.com/watch?v=Mu8RO0KUB6s

 フランスでは、数多くあったイタリアの音楽フェスティバルでSanremoだけが生き残ったのはLuigi Tencoの功績であると評価されています。イタリアでもLuigi Tencoの名前を冠したいくつかの音楽賞や式典が作られました。


 この時Luigi Lopezは19歳。同じ名前を持つLuigi Tencoの死と、Beatles / SGTの革命的な音楽に多大な影響を受けたことが想像できます。
 
 デビュー曲「君に涙とほほえみを Se Piangi Se Ridi」がイタリア曲だった布施明が、30年以上前に1時間のイタリア音楽番組の司会をし、Luigi Tencoが審査に抗議して自殺したことに対して「ここまで歌に賭ける人がいたほど、当時のイタリアは凄かった」と話していました。

Akira Fuse, formerly the husband of actress Olivia Hussey, is regularly rated among the top five male singers in the history of Japanese music. Thirty years ago, he hosted a program introducing Italian music on the Japanese national broadcaster NHK, where he expressed his admiration for Luigi Tenco. His debut song was Se Piangi Se Ridi, sung in Japanese by Mina. He also participated in the experimental Progressive Rock in 1971.

布施明 Akira Fuse / 君に涙とほほえみを Se Piangi Se Ridi 1965
https://www.youtube.com/watch?v=FHaDnS53Qeo&list=PLD_0D8HQDHsXIRHPiUf5BjrKlwtWMKKsF&index=1

Mina / Se Piangi Se Ridi (in Giapponese) 1965
https://www.youtube.com/watch?v=kuvYUWBt3mA

Love Live Life + One (Akira Fuse) / Love Will Make A Better You 1971
https://www.youtube.com/watch?v=zEzRgfRHxKA
Rare BirdなどProgファンでもあった布施明が唯一参加したKing Crimson / Larks' Tongues In Aspicのような実験作。Luigi Tencoからの影響とも思われる。

Love Live Life + One (Akira Fuse) / Love Will Make A Better You Live 1971
https://www.youtube.com/watch?v=n5rw3enqfSI

 イタリアで知る限りLuigiという名はLuigi LopezとArti e MestieriのGigi (Luigi) Venegoniだけです。日本人の布施明が多大な影響を受けたのですから、Luigi LopezやCiao Amore CiaoのArrangerだったGian Piero Reverberiは、宿命的なものを背負いながら創作活動を続けたのではないかと思います。

 シンガーソングライターLuigi Tencoの死は、十代からバンド活動ですでに人気を得ていたLuigi Lopezがバンドをやめて、作曲活動に専念ことを決意させたと思います。

 また、Lopezはスペイン系の名前であり、同じように異民族の血を引くWilma Goichへの共感があったと想像します。Luigi Tencoが育て、SanremoのスターだったWilma Goichに、1970年代からLuigi Lopezも関わるようになります。

 1970年に初めてLuigi LopezがWilma Goichの曲を担当し、1971年にCarla Vistariniと共作でItalian Progの影響を受けた曲、1972年にデュオVianellaの曲、そして1979年にVianellaのアニメソングが成功。おそらく、Luigi Lopezは2歳年上のWilma Goichを通してLuigi Tencoの精神と作曲に関する情報を受け継いだものと思われます。

Wilma Goich / 夜の想い Se Stasera Sono Qui (Luigi Tenco) 1967
https://www.youtube.com/watch?v=yLWv6jkfwuo
1967年「夏のディスク・フェスティヴァル」で第3位

Luigi Tenco / 夜の想い Se Stasera Sono Qui 1967
https://www.youtube.com/watch?v=PEwXqlm4dj4
Luigi Tencoの遺作。後にMinaもカバー。1990年に日本でCMソングに使用され、イタリア盤にこの曲を追加して初めてCDが発売された。


= 1968年  RomaのPiper Clubの仲間Patty Pravoが大スターに

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 女優Mita Medici (Le OrmeがMita Mitaという歌を作った) の姉Carla Vistariniは、高校生の頃からRomaのPiper ClubでPatty Pravo, Loredana Bertè, Renato Zeroと友達で”Piperini”と呼ばれたグループでした。そこでCarla VistariniはLuigi Lopezとも知り合いになりました。

 そして、Piper Clubの仲間から最初にスターになったのはPatty Pravoでした。Patty PravoはLucio Battistiなど超一流のスタッフによって大スターの仲間になります。

Patty Pravo / Se perdo te (The time has come) - Stasera Patty Pravo 1968
https://www.youtube.com/watch?v=MKJj_l5Nj8k

Patty Pravo / Il Paradiso (Lucio Battisti) 1970
https://www.youtube.com/watch?v=Q7KeeTG8WAY
Piper Clubで鍛えたダンス・Groove感は世界的にもDalidaと並んでNo.1といえる。


= 1969年 Luigi Lopez作曲家デビュー

Piper Clubで出会った若き日のCarla VistariniとLuigi Lopez
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 Luigi LopezがDinoのロック調の曲で作曲家としてデビューします。Luigi Lopezが長くギターバンドをしてきたことで、新しい時代の音楽に適応できたのだと思います。

Dino / E' Un Giramondo 1969
https://www.youtube.com/watch?v=OP1MVAfAOkY
B面だがA面にしてもよい佳曲。これで当時最大手のレコード会社RCAからも期待されたと思われる。

= 1970年 Wilma Goichに初の提供 〜 作詞家Carla Vistariniとの共作開始 〜 The Showmen (Osanna) のヒット曲

 
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ShowmenのElio D'Annaは1971年にOsannaに参加。Vietnam反戦イベントBe-Inを1973年に主催した

 Luigi Lopezは、かつてLuigi Tencoが育てたWilma Goichに、初めてRockでありながらMy Wayのようなドラマティックな展開の意欲作を提供します。Wilma Goichの夫Edoardo Vianelloが設立したRCA傘下のApollo Recordsから発売されました。

 Wilma Goichは、Luigi Tencoと同じ名の2歳年下の新人作曲家に出会うことで、2人の間でアドバイスやLuigi Tencoに関する深い意見の交換や絆ができたものと想像します。

★Wilma Goich / Che giorno è 1970
https://www.youtube.com/watch?v=LEEYTLVSzGI
Luigi Tencoの精神をWilma Goichを通して継承するB面とは思えない力作。同年のLe Ormeの転換点となったGian Piero Reverberi初のProduceシングルProfumo Delle Violeをも想起させる。

 そして、Luigi Lopezはイタリア初の女性作詞家Carla Vistariniとの共作をスタートします。まだエレベーターもない4階のビルの上の階の部屋で、無名だった2人の創作活動の青春が始まりました。

Angela Bini / Tu felicità 1970
https://www.youtube.com/watch?v=fo1rr9bztuA
初のCarla Vistariniとの共作。「夏のディスク」に参加したヒット性のある意欲作。

 今回、2人の初期の作品を初めてYoutubeで探しましたが、 1970年5月は山口冨士夫とチャー坊が出会い、2人でオリジナル曲を作り始めた時代と同時期であり、夢の時代を追体験するようで、新しい曲が見つかるたびにワクワクしました。Daniela Modigliani のC'è lui も大発見。
 
★Daniela Modigliani / C'è lui 1970
https://www.youtube.com/watch?v=bkzBJLIlMbA
共作の2作目で、感動的なItalian Symphonic Prog Popの傑作。 Detto Marianoの見事なOrchestra Arrange。Apollo Records。4万円のプレミアがついている。

 そして、後のOsannaのElio Danna、Napoli CentraleのJames SeneseのDouble Saxを擁したPop Band、The Showmenに提供した曲が大ヒットになります。2人は、Italian Progressive Rockの発展に貢献したことにもなります。

The Showmen / Mi Sei Entrata Nel Cuore
https://www.youtube.com/watch?v=9jyOp5fIlSE
100万回の再生を超える名曲。

★The Showmen / Mi Sei Entrata Nel Cuore Colorカラー!
https://www.youtube.com/watch?v=tYbAzF-HxH4

 Elio D'Annaは、Osannaの後もUno、NovaでPhil Collinsと共演するなど英米で活躍し、その後は会社経営者として成功してイタリアで尊敬を受けています。

Elio D'Anna Wikipedia
https://it.wikipedia.org/wiki/Elio_D%27Anna

Osanna / L' Uomo 1971 
https://www.youtube.com/watch?v=pilrnypzWgU

Osanna / Oro Caldo - Adesso Musica 1973 • Clip girato a Pozzuoli
https://www.youtube.com/watch?v=nxyMejBCH3Q
Palepoliから、Mellotron入りの貴重映像クリップ

Uno / Right Place 1974
https://www.youtube.com/watch?v=McxUvlOeE6E
イギリス進出を目指したItalian Symphonic Prog Popの佳曲。

Elio D'Anna "The World is as you Dream it"
https://elio-danna.com/

 James Seneseは黒人の父を持ち、後にPino Danieleのバンドでも活躍してイタリアのJazz FunkのSaxophoneの第一人者となり、ジョー山中や山口冨士夫のように困難な人生を克服した人としてイタリアで尊敬を受けています

Napoli Centrale / Campagna 1975
https://www.youtube.com/watch?v=W00i_MBlKXI

 
 1970年は、Italian Symphonic Pop、Italian Symphonic Prog Rockにおいても重要な転換点となりました。

★Milva canta Edith Piaf / Mon Dieu 1970
https://www.youtube.com/watch?v=Nfht1u5iMsA
Gian Piero Reverberiが、MilvaとともにLuigi Tencoの精神を開花させたイタリア初のトータル・コンセプト・トリビュートアルバム。

Lucio Battisti / Emozioni (A casa di Ornella - completo) 1970
https://www.youtube.com/watch?v=x5KJrJwhSMY
Arranger:Gian Piero Reverberi

Il Balletto di Bronzo / Meditazione 1970
https://www.youtube.com/watch?v=c358efxhat8
New Trolls / Concerto Grosso、Le Orme / Collageよりも1年早くStrings、Harpshicordを導入したItalian Symphonic Progの先駆的な曲。


= 1971年  Italian Progの誕生・Italian Symphonic Prog Popの躍進 〜 1972年 イタリア「音楽史のハイライト」CanzonissimaとPiper ClubのProgの祭典「Controcanzonissima」   
         Wilma Goich、Caterina CaselliにProg Popを提供

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 1971年は、Luigi Tencoの精神を受け継いだGian Piero ReverberiのArrangeによって、Italian Symphonic Prog Popが本格化。Mina / Amor Mio (7週1位) 、Lucio Battisti / Pensieri e Parole (5週1位)など。Beat GroupだったI Poohが象徴的に変貌し、Tanta voglia di leiで7週1位になります。

I Pooh / Tanta voglia di lei 1971
https://www.youtube.com/watch?v=IxpiXeUcVQc

 そしてItalian Symphonic Progも、Gian Piero ReverberiのProduceによるLe Orme / Sguardo verso il cielo (シングル17位) 、Luis Enríquez BacalovによるNew Trolls / Concerto Grosso (LP最高位2位) などで開花します。

New Trolls / Concerto Grosso Adagio
https://www.youtube.com/watch?v=W21Lq1xdVAI

Patty Pravo / Morire... Dormire... Forse Sognare...
(Concerto Grosso Adagio - Cover)
https://www.youtube.com/watch?v=-DN8bAyZqt8
Producer:Patty Pravo
Arranger:Gian Piero Reverberi

 Luigi Lopez、Carla VistariniもItalian Progの影響を受けたWilma Goichのシングルを制作。イントロのストリングスからロック調ギター、深い情感のボーカルの大曲の意欲作。Wilma GoichもLuigi LopezにかつてのLuigi Tencoの進取の精神を見たのではないかと思います。

★Wilma Goich / L'Uomo Ferito
https://www.youtube.com/watch?v=Dh9krjoq1jg


 Luigi Lopez、Carla Vistarini、Patty Pravoが通っていたPiper Clubは、Dance、Soul Musicだけではなく、1972年1月、1973年2月には、イタリアの紅白歌合戦「Canzonissima」に対抗するItalian Progressive Rock Festivalの祭典「Controcanzonissima」の舞台ともなりました。

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 おそらくPiper Clubの人脈で、Luigi Lopez、Carla VistariniはCaterina Caselliの1972年のアルバム「Caterina Caselli」のB面ラストの大役を担います。これは1974年のトータルアルバム、Italian Symphonic Prog Popの傑作Caterina Caselli / Primaveraに繋がります。

 初代Piper Girlで、1966年にイタリア初の女性ロックンロールスターになったCaterina Caselliも、Piper ClubでControcanzonissimaなどを見て、自分が本当にやりたいのはProgressive Rockだと感じたのではないかと思います。

★Caterina Caselli / Ci sei tu 1972
https://www.youtube.com/watch?v=0dTNJqIjkNg
滑らかにサビにつながり盛り上がる。

Caterina Caselli / Primavera 1974
https://www.youtube.com/watch?v=G2m7a8Cf0D0
I PoohのGiancarlo Lucariello、Danilo Vaonaのチームによる桃源郷のようなSymphonic Strings。


= 1973年  Sylvie Vartanへの名曲の提供  Riccardo Fogliのソロデビュー 

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 フランスのDalidaに次ぐ大スターSylvie Vartanのためのイタリア語シングル Noi Ieri Noi Oggi が4月にRCAから発売されました。Luigi Lopez、Carla Vistariniにとっては大仕事といえます。名曲です。

 これは1967年Sanremo音楽祭のDalidaのCiao Amore CiaoのArranger、Paolo Dossenaとの共作です。Paolo Dossenaは、4歳年上の作曲者Luigi Tencoと何度も入賞を目指して打ち合わせをし、作曲の技法を学んだと思います。Paolo Dossenaは1973年にPatty PravoのPazza Ideaを大ヒットさせます。 

 Paolo Dossenaは、今度はLuigi Tencoと同じ名前を持つLuigi Lopezに対して、Italian Symphonic Prog Popを作り上げる編曲家のStrings Orchestraに関する知識を徹底的に伝授し、この経験が1974年のOrnella VanoniのLa Voglia Di Sognareの成功に繋がったと思われます。

 LPでは、この曲は、なぜか日本の編集盤「Sylvie Vartan – L'amour Au Diapason = 恋人を探せ」にだけ収録されました。ライナーで「いかにもカンツォーネらしいスケールの大きなダイナミックなナンバー。ダリダ顔負けの感動的な熱唱。シングルとしてもヒットしそうです。本アルバム中の白眉の一つ」と絶賛されています。

 この日本がオリジナルのLPは、驚くべきことに2024年にフランスで再発されており、何かDJなどに評価が高い曲が含まれていると思われますが、その曲がNoi Ieri Noi Oggiである可能性もあります。 

★Sylvie Vartan / Noi Ieri Noi Oggi 昨日も今日も 1973
https://www.youtube.com/watch?v=HC2N3SizHhc
Luigi Tencoの精神をPaolo Dossenaを介して継承させる力作。

 1977年には、1973年の第4回世界歌謡祭で優勝した実力派Gilda Giulianiが、Carla Vistariniによる別の歌詞とタイトルで、Luis Enríquez BacalovがArrangerで再録音しています。Luigi Lopez自身も高く評価していた曲でした。

★Gilda Giuliani / Compagni Di Viaggio 1977
https://www.youtube.com/watch?v=0JmMi8qo9mE
繰り返し聴きたくなる美しい佳曲。歌の抑揚が見事。

Gilda Giuliani /パリは不思議 Parigi a volte cosa fa 1973
https://www.youtube.com/watch?v=yu_9Vivwh_0
聴衆を圧倒した伝説の第4回世界歌謡祭"World Popular Song Festival" で、小坂明子「あなた」と並んでグランプリ、最優秀歌唱賞もW受賞。

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 1972年にRiccardo FogliがI Poohを脱退しました。Sylvie Vartanに続くRCAからの最大の任務としてRiccardo Fogliソロデビューの準備にLuigi Lopez、Carla Vistariniが参加し、Luigi Lopezが1973年10月発売のシングル盤の両面を作曲しました。Piperの古くからの友人だったPatty Pravoからの強い依頼もあったと思われます。

 Luigi Lopezにはたいへんな期待とプレッシャーがかかっていたと思います。シングル盤はB面Oh Maryも名曲で、こちらをA面にしてThe Cyanによって英語ヴァージョンも発売されました。

Riccardo Fogli / Due Regali 1973
https://www.youtube.com/watch?v=lHtXFqWWbNs
Riccardo Fogliが作詞したA面。

★Riccardo Fogli / Oh Mary 1973
https://www.youtube.com/watch?v=Mg384wdAEOc

The Cyan / Oh Marie 1973
https://www.youtube.com/watch?v=62nwHytexGM
Paolo DossenaがArranged, Producer

 LPの中では、Luigi Lopez、Carla Vistarini、Riccardo Fogliの共作によるE io poetaが白眉の出来だと思います。

★ Riccardo Fogli / E io poeta 1973
https://www.youtube.com/watch?v=ynNuG-iUW-M

★Riccardo Fogli / La Prima Notte Senza Lei (part 2) 1973
https://www.youtube.com/watch?v=9r0_6fPQlGA
アルバムラストの曲。part1, part2がありトータルアルバム色がある。Italian Progへの接近。

 Riccardo Fogliは1974年に入ると、さらにNew TrollsのVittorio De ScalziとProgressive Rockを突き詰めていきます。1972年と1973年にItalian Progはイタリア国内で絶頂期を迎えますが、 1973年にはPFMが世界的に成功したために、 1974年には世界進出も視野に入れたItalian Progの傑作群が生れます。

 Riccardo Fogliも、かつてI Pooh、Quelli時代に同じBeat BandだったPFMのPhotos Of Ghostsが、Beatlesの国で成功したことに衝撃を受けたと思います。しかし、Italian Progへの挑戦はItalian Symphonic Prog Popとしてはあまりに実験的で、商業的には成功しませんでした。

Riccardo Fogli / Una stanza bianca 1974
https://www.youtube.com/watch?v=XA0aiNR20vQ
名曲だが当時としてはあまりに早すぎたSynthesizer。おそらくシングル発売はお蔵入りになり (他国ではスペイン語ヴァージョンで発売) 、1982年のRCAベスト盤で陽の目を見た。ベニスで買ったカセットで感動した。

 特に、Amico Sei Un Giganteは、Tangerine Dream / Ultima Thule Part 1、Latte e Miele / Tanto Amore、Gens /Anche Un Fiore Lo Sa等と並ぶ、Progに限らず 世界でもTop 5のRockのLP未収録シングルだと思います。

Riccardo Fogli / Amico Sei Un Gigantei
https://www.youtube.com/watch?v=SJPT2QlFQxM

 Riccardo FogliはGiancarlo LucarielloとさらにProgressiveなトータルコンセプトアルバム「Matteo」を1975年に制作しましたが、お蔵入りになっています。


= 1974年 Riccardo FogliのSanremo参加曲 〜 Mita MediciのLPを全曲作曲

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 Riccardo FogliのSanremo参加曲Compliciは、Luigi Lopez、Carla Vistariniの力作で、1974年の参加曲では最もMelodieが美しい佳曲だと思います。

★Riccardo Fogli / Complici
https://www.youtube.com/watch?v=xNCB_00fDGQ

 Luigi Lopezは、Carla Vistariniの妹のMita Medici のアルバム「Per Una Volta」全曲をCarla Vistariniと制作します。Mita Medici は、1965年にPiper Girlとして映画デビューし、Le Ormeが1969年に1stアルバムAd GloriamでMita Mitaを捧げたほどの人気を博します。

★Mita Medici / Per Una Volta 1974 full album
https://www.youtube.com/watch?v=WoS7QmpebS8

Le Orme / Mita Mita 1969
https://www.youtube.com/watch?v=SBT0u7S_8_0

 また、Carla Vistariniは、Formula3解散後ソロ歌手に転じたCicoが全曲作曲、Carla Vistarini全作詞によるItalian Symphonic Prog Popの金字塔「Notte」を制作します。「Notte」「Per Una Volta」ともに、ジャケットイラストもCarla Vistariniが描いています。最も創造的な時代だったといえます。

★Cico / Notte 1974 full album
https://www.youtube.com/watch?v=SIGSx84bZ9E&list=PLtHx5lEMfxPZUC0Lw8_2TzlnGcwRgBWWN
Rock寄り、Pop寄りのバラエティーに富んだ奇跡のようなItalian Symphonic Prog Popの名曲が並ぶ。

 Luigi Lopez、Carla Vistariniコンビは、I Poohの影響でItalian Progからラブロックに転向したと思われるI Pandaにデビュー曲を提供し、ヒットさせます。

I Panda / Addormentata 1974
https://www.youtube.com/watch?v=aAO_1-5Ni_I

 Arti e Mestieriの1974年のTiltは、Italia Rolling Stone誌でイタリアのJazz Rockベスト10アルバムの1位に選出されました。その特徴は美しい旋律にあります。ほとんどの曲を作曲したLuigi (Gigi) Venegoniにも、同じ名前のLuigi Tencoが大きな影響を与えたと思います。

I 10 migliori dischi di jazz-rock italiano - Rolling Stone Italia
https://www.rollingstone.it/musica/classifiche-liste-musica/i-10-migliori-dischi-di-jazz-rock-italiano/539986/
6位 Nova / Vimana (1976)、4位 Napoli Centrale (1975)と、Luigi Lopezが作曲したShowmenのElio D'Anna、James SeneseのBandが続く。5位“Sconcerto” Il Baricentro (1976)はFesta Mobileの発展形。

Arti E Mestieri / Strips 1974
https://www.youtube.com/watch?v=jNtL8h6913I&list=PLn6IUYFGu6PLR-pwk5O60I6izTOsoUzGv&index=2
Mellotronも使用したItalian Symphonic Prog Pop。TiltはA面の5曲全てが美しい旋律を持って繋がる組曲という、Jazz Rockでは世界的にも稀有のアルバム。


= 1975年  Ornella Vanoniのラジオ主題歌がイタリア批評家賞を受賞 〜 Patty Pravoに提供 〜 Prog Instの発売

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 Mina、Milvaと並ぶイタリア3大女性歌手の一人Ornella Vanoniが歌うラジオ番組Gran Varietà主題曲La Voglia Di Sognareを1974年にLuigi Lopez・Carla Vistariniが作曲し、1975年にイタリア批評家賞 "Premio della Critica Discografica Italiana"を受賞。

 この賞はOsannaが1971年にL'uomoで、1978年にSuddanceで受賞しています。Ornella VanoniはSanremoで1968年に2位、1970年に4位になり、優勝は逃しましたが、この批評家賞には今でも誇りを持っているようです。

 Ornella VanoniはLuigi Tencoと尊敬しあっていたので、同じ名前のLuigi Lopezとも、La Voglia Di Sognareにおいて綿密な打ち合わせがあったと思われます。

 この曲はこの10年間において初めて発見した曲の中で、最も感動した曲の一つでした。Ornella Vanoni自身や大編曲家Gianfranco Lombardiにとっても最高作の一つといえるSymphonic Popの大傑作で、New Trolls / Concerto Grosso - Adagioのような完成度です。

 この曲のYoutube映像に残されたOrnella Vanoniの演劇を学んだPerformanceはどれも素晴らしいです。

★Ornella Vanoni / La Voglia Di Sognare 1974
https://www.youtube.com/watch?v=dwlkMObAx_o

Ornella Vanoni / La Voglia Di Sognare Color カラー 1975
https://www.youtube.com/watch?v=DLxeqvwk91o


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 Ornella Vanoniの成功で、大スターへの仕事が入ります。十代の頃からのPiper Clubの仲間Patty PravoのアルバムIncontroに、Luigi Lopez・Carla Vistariniが1曲提供します。

★Patty Pravo / Questo amore sbagliato
https://www.youtube.com/watch?v=74rIVjiCDiE
エレピとギターの情感のバラード

 大スターPeppino di Capri のシングルのA面にも起用されます。Italian Symphonic Popsの名曲です。

Peppino di Capri / Un piccolo ricordo 1975 Live Senza Rete
https://www.youtube.com/watch?v=v3nmL7fzgec 
  
 そしてLuigi LopezのキーボードによるItalian Progのインスト曲も発売されました。

Golf Lima Lima (GLL) / Leslie
https://www.youtube.com/watch?v=0ONayHZxAOY
1975年2月発売。1973年に作ったSylvie Vartanの歌のMelodieも感じられる。

Golf Lima Lima / Adesso musica 1976
https://www.youtube.com/watch?v=xMDisAyXpW8
Mini Moogを強調したテレビ主題曲。

 1974年から、コンサートへの政治組織による妨害によってItalian Progressive Rockが国内で活動ができなくなりました。そのエネルギーは、Uno、RDM、Le Orme / Beyond Leng (アメリカ盤)、 Ibis / Sun Supreme、Latte e Miele / Papillon (英語盤、未発表) など、海外進出に向けられました。

 他方、イタリア国内における1975年のItalian Progの苦しみは、MogolとIl Volo のラストアルバム、Essere O Non Essere? Essere, Essere, Essere!に象徴的に顕れています。

Il Volo / Essere 1975
https://www.youtube.com/watch?v=HAfjBkN4cbM
2:05から美しく羽ばたくItalian Symphonic Prog Popの傑作。

 そして、イタリア国内で行き詰ったItalian Prog Rockのエネルギーは、Luigi LopezなどのItalian Symphonic Prog Popに向けられ、アーティストたちとレコード会社の情熱によって、”1977年”まで「美しいイタリアの音楽」は続いたのではないかと思います。

 1975年にはベトナム戦争が終結し、Le OrmeもLos Angelesに渡り、ギターロックに転換しました。Le OrmeのProducer、Gian Piero Reverberiは、Umberto BalsamoのNataliでConcerto GrossoのようなItalian Symphonic Prog Popを体現しました。このStringsの音量は1975年のAlice / Io Voglio Vivere、1977年のRiccardo Fogli / Ricordatiと並ぶ、Stringsの壁とも言えるものです。

Umberto Balsamo / Natali 1975
https://www.youtube.com/watch?v=wqCNGWWTgeI
Luigi TencoのQuandoとCiao Amore CiaoのArrangerであるGian Piero Reverberiの作品の中で、最もStringsの音量が大きい。

 そして驚くべきことに、西城秀樹が1976年と1978年に2回、合計3回もNataliをライブ盤で録音しています。1975年に入手困難なイタリアの輸入盤のNataliを買って感動する探究心に敬服します。西城秀樹はKing CrimsonのEpitaphのカバーが有名ですが、 1967年のDio Come Ti Amoもカバーしており、Italian Symphonic Prog Popのファンだったことを嬉しく思います。

西城秀樹 Hideki Saijo / Natali (Cover in Giapponese) Live with 40000 fans "BIGGAME 1978 KORAKUEN STADIUM", Tokyo
https://www.youtube.com/watch?v=5SWp7hlubYw&t=1257s
17:12〜20:57:Natali。Sylvie Vartanも熱狂的ファンだったという西城秀樹の素晴らしいパフォーマンス。
Hideki Saijo, who is considered one of the top five male singers in the history of Japanese music, has recorded Umberto Balsamo's Natali live three times. Sylvie Vartan and Ali MacGraw, star of the movie Love Story, are also big fans of Hideki Saijo.

西城秀樹 Wikipedia 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9F%8E%E7%A7%80%E6%A8%B9

Hideki Saijo Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Hideki_Saijo


= 1976年  Riccardo FogliとAliceの成功 〜 Minaが最もGerman Cosmic Progに近づいた時代


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 CBSに移籍したRiccardo Fogliに転機が訪れます。I Poohの音楽性の転換で、I PoohのSymphonic路線のProducer・Giancarlo LucarielloがCaterina Caselli / PrimavellaのArranger・Danilo Vaonaとともに、Riccardo Fogli・Luigi Lopez・Carla Vistariniに合体しました。

 Luigi Lopezの曲とGiancarlo LucarielloのProduceで、Riccardo Fogliを成功に導きました。Mondoは最高位4位、20週チャートインする大ヒットで、Riccardo Fogliは再び全国的なスターになります。

 Mondoを含む1976年のLPのうち、Mai Mai、Gardenia、Mondo、最後のFinitoの4曲がLuigi Lopez、Carla Vistariniの作品です。このLPは日本でだけ2回もCD化されており、1975年までのSymphonic Progressive RockのI Poohが日本で人気が高いことが影響して評価が特に高い作品です。

★Riccardo Fogli / Mondo
https://www.youtube.com/watch?v=eJinvSciNTU&list=PLW_BnWigAcNVjzKXOf1OKvibWmAg3fxPK&index=8
日本盤CDより

 そしてイタリア女性シンガーで最もProg崇拝者と思われるAliceにもLuigi Lopezは関わります。Aliceは、Minaが1974年にイタリアPDUから発売したPopol Vuh / Hosianna MantraのKyrieをライブで歌っており、本当にやりたい音楽は Progressive Rockとわかります。

Alice / Kyrie (Popol Vuh cover)
https://www.youtube.com/watch?v=n8uOvF3u-FY

Popol Vuh / Kyrie 1973
https://www.youtube.com/watch?v=9q19C220Vvo

 まず、I PoohのチームとGiancarlo Lucarielloは、1975年にAlice Viscontiとして再デビューさせ、特にIo Voglio Vivere のStrings OrchestraはItalian Symphonic Prog Popの極致ともいえます。

★Alice Visconti / Io Voglio Vivere 1975
https://www.youtube.com/watch?v=EbIfOZ-77sw
AliceのPianoを弾く姿からはPopol Vuh、Florian Frickeへの憧憬が見られる。Popol Vuh / Aguirreの世界初発売は1975年のMinaのPDUで、Aliceも買ったと思われるが、AguirreのMellotronサウンドからの影響も感じられる。

 そして、 Giancarlo Lucarielloは、Luigi Lopez、Carla Vistariniと組み、1976年にAliceと名前を変えてシングルPiccola Animaを制作します。

★Alice / Piccola Anima 1976
https://www.youtube.com/watch?v=Jn_HcA7_uQ4
Pianoを強調し、やはりFlorian Frickeからの影響が感じられる。

Alice / Un'isola 1977
https://www.youtube.com/watch?v=BJDEAMluCpk
歌よりPianoの比重が重く、Hosianna Mantraの影響が濃厚。
 

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Mina released German Cosmic Music by Klaus Schulze and others with different jackets on her PDU label.

 Ornella Vanoni、Patty Pravoに続いて、ついに女王Minaからオファーが訪れます。1961年にMilvaに敗れたサンレモの審査に抗議してから1962年以降Sanremo出場を拒否し続けてきたMinaにとって、命がけで審査に抗議したLuigi Tencoと同じ名のLuigi Lopezは特別な存在だったのではないかと思います。

 1971年に、半年に渡ってLPチャートで合計11週間1位になったPDU初のMinaのベスト盤Del Mio Meglioには、2曲もLuigi Tenco (Vedrai, Vedrai、Se Stasera Sono Qui) が収録されています。 

Mina / Vedrai, Vedrai 1971 Live 
https://www.youtube.com/watch?v=6mr5ZOgPpH0

Mina / Vedrai, Vedrai 1972 Live Teatro 10
https://www.youtube.com/shorts/wbUvpHCrdkU

 MinaもAlice以上のProgressive Rock崇拝者といえます。1970年からLucio Battistiの曲 (スタジオミュージシャンはPFM) を多数大ヒットさせ、1972年10月のTeatro10ではPFMのMini MoogとDeliriumのMellotronを同じステージで共演させ、1974年からはWallenstein / Cosmic Century、Popol Vuh / Hosianna Mantra、Ash Ra Tempel / Inventions For Electric Guitar (別ジャケット) などのGerman Cosmic Musicを自身のPDUレーベルからリリースするというイタリア最大のポピュラー歌手とは思えない行動を起こしていました。

 Klaus Schulzeは、フランスでTimewindが1975年の年間ディスク大賞、Grand Prix du Disque International from l'Académie Charles Crosを受け、世界的評価を得ました。AliceのHeroはFlorian Fricke、MinaのHeroはKlaus Schulzeだったと思われます。 

 そこで、1976年にMinaはPDUから、Klaus Schulzeを中心にCosmic Jokers、Tarot、シングルTangerine Dream / Ultima Thuleの別ジャケット、Popol Vuh、Ash Ra Tempelの独自編集盤など最も積極的なリリースを行います。

 1975年は、Mina自身もLa Mina、Minacantalucioという最高傑作とも評価されるLPを2枚も出し、Uappa、I Giardini Di Marzoなど、La Mente Torna以降、最もItalian Progressive Rockに近づいた時期でした。

 1976年にMinaがLuigi Lopezに依頼したAncora dolcementeは、あくまでポピュラーソングの範疇の限界内で、Mina史上最もProgressiveな内容を持ち、SpacyなMixingによるSynthesizerのようなStringsが映えるMina版German Cosmic Musicともいえるものになっています。

 MinaのLP「Singorale」の中でもB面1曲目に収められた白眉の内容であり、その後も、英語や他国語でも再録されています。 

★Mina / Ancora dolcemente
https://www.youtube.com/watch?v=7TjM_ZPIE6w
2:47からのStringsは、Klaus SchulzeのSpace Synthesizerを意識していると思われる。

Klaus Schulze&Cosmic Jokers(Walter Wegmüller) / Tarot - Der Magier 1973
https://www.youtube.com/watch?v=3sFASJ6KNu8&list=OLAK5uy_mK2tTYWP8rE7TV0qKAGqelbB0lUuFACds
1:59からのKlaus SchulzeのSynthesizerとWalter WegmüllerのVoiceこそ、1976年のMinaが憧憬した新時代の音楽と思われる。

Klaus Schulze&Ash Ra Tempel / Jenseits 1973
https://www.youtube.com/watch?v=er42yNASEQw
Ash Ra Tempel / Join Innの本国ドイツ盤ではKlaus Schulzeはゲスト扱いだったが、MinaはKlaus Schulzeを上に冠してイタリアで発売した。

 MinaのProgressiveな精神に感化されたのか、ベネチア金のゴンドラコンテストの新人歌手Giulia Del Buonoのために、Luigi Lopez自身がArrangeも行い、Progの名盤LPの組曲の最後を締めくくるような荘厳なItalian Symphonic Prog Popを制作しています。

★Giulia Del Buono / ...Io la sera
https://www.youtube.com/watch?v=Pccka8RaxSo
1:14のSynthesizerはPopsで使う音ではない。Progressive Rockの隠れた傑作。


= 1977年  最もItalian Progに接近した”Italian Symphonic Prog Pop”の黄金期


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 Riccardo Fogliの1977年のアルバム「Il Sole L'Aria La Luce Il Cielo」では、半数をLuigi Lopez・Carla Vistariniコンビで担当しました。このアルバムも世界で日本でのみ1回だけCDが再発されています。

 Danilo VaonaのLPへの担当楽器のクレジットは、Organ [Eminent], Piano, Electric Harpsichord [Hohner], Bells, Mellotron, Synth [Mini Moog, Sixstro, Poly Moog], Vibraphone, Celestaと、まるでYes時代のRick WakemanなどのProg Rockへの憧れのようです。 

★Riccardo Fogli / Ricordati
https://www.youtube.com/watch?v=vZwhqwGT4Fw

Riccardo Fogli / Piccola buonanotte
https://www.youtube.com/watch?v=FDColYqp9UI


 Riccardo Fogliで勢いに乗ったLuigi Lopez・Carla Vistariniのチームは、Pandaの両面がA面扱いと思われる傑作シングルVoglia Di Morirei / TardiをVangelisの弟、Niko PapathanassiouをProducerに迎えて制作しました。

 続くPandaの1977年の次作シングルNotturno / Dimenticareでは兄のVangelisもArrangerとして参加。

★Panda / Voglia Di Morirei 1977
https://www.youtube.com/watch?v=VmB2HL85Obk

★Panda / Tardi 1977
https://www.youtube.com/watch?v=OyePAkdWU3o

Osvaldo Pizzoli dei Panda / Tardi 2012
https://www.youtube.com/watch?v=LRRrUegiyps
2012年11月のテレビ出演でTardiが放映されたことから、やはり両面ともA面扱いの重要な曲だったことがわかる。

 イタリアの頂点を走るItalian Symphonic Prog Popのチームは、ついにCarla Vistarini, Tony Cicco, Giancarlo Lucariello Luigi Lopez, Danilo Vaona,
Viola Valentinoというメンバーで、Fantasyというバンドでアルバムをリリースしました。

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47年前、I PoohのNoi Due Nel Mondo E Nell'Animaを聴いたときから、このようなClassicの素養のあるProducerやArrangerは、もっと年配だと思っていたので、この写真を見たときは驚いた。

★Fantasy / Cantando
https://www.youtube.com/watch?v=1MZHmQWVOfg
 
 Arti e MestieriのBeppe Crovellaは、音楽史のハイライトともいえる1970年代の「美しいイタリア音楽」は、Progが停滞した1974年以後も1977年頃まで続いたと述べています。”1977年”は、ProgとPopの融合したItalian Symphonic Prog Popの最後の輝いた年だと思います。

 1960年にLuigi Tenco / Quandoにおいて、Italian Symphonic Prog PopとProg Rockの2つの源流を創ったGian Piero Reverberiは、1967年のLuigi Tencoの死後も戦ってきました。1970年代後半も、Le Orme、Alunni Del Sole、Umberto Balsamoと素晴らしい作品を残しました。

Umberto Balsamo / Una Rosa Profumata (inc. L’Angelo Azzurro) 1977
https://www.youtube.com/watch?v=l6DrsCbBzRM
L’Angelo AzzurroはMinaが歌う予定だったとの逸話がある。1978年のCrepuscolo D'AmoreのGian Piero Reverberiのアレンジも素晴らしい。

Le Orme / Storia O Leggenda 1977
https://www.youtube.com/watch?v=gUey09_ZiC4
この後、Classic路線、Electric路線へと変化するLe OrmeのProg Rock期の最後の佳作。

 Alunni Del Soleは、Pagliaccioを含む1976年のLe Maschere InfuocateのGian Piero Reverberiの染みるようなアレンジが一番好きでした。

Alunni Del Sole / Scusa 1977
https://www.youtube.com/watch?v=Pj0o-J8v5rg
シングルのB面でありながら、美しい”1977年”を感じさせる。1980年のTaranteのGian Piero Reverberiのアレンジも素晴らしい。

 長年、Italian Progressive Rockの最後の輝きと呼ばれたLocanda Delle FateのLPも”1977年”でした。その翌1978年にPop寄りになってリリースされたProg PopのシングルNew Yorkも素晴らしい曲です。

Locanda Delle Fate / New York 1978
https://www.youtube.com/watch?v=2BpdjxYMeLw

 そして、美しい”1977年”の最後の輝きを象徴するItalian Symphonic Prog Popの1枚がLa Bottega Dell'Arte / Dentroだと思います。

La Bottega Dell'Arte / L'Ultima Storia 1977
https://www.youtube.com/watch?v=cuZvI0JP3RQ&list=PLkRKApyF5AD5NGp_wXXOG1nolKs6GMYYP&index=10
2:56 ~ Prog Popの傑作Dentroのフィナーレを飾る曲。

 最近、イタリアで1970年代には、政治的あるいは社会的な内容を持たないラブソングは、Alunni Del Soleのような優れた詩人の素晴らしい楽曲でも軽んじて見られていたということを知りました。

 しかし、現在はイタリアでも1970年代のLa Bottega Dell'Arte / Dentroのような Prog Popの評価が高まっているという記事を読んで嬉しく思います。


= 1977年11月  Luigi Lopezと日本の出会い 〜 Mia Martiniの東京・世界歌謡祭での成功

日本武道館での世界歌謡祭の授賞式 World Popular Song Festival Tokyo
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 予選1977年11月11日、12日、本選13日、司会坂本九、ジュディ・オングの第8回世界歌謡祭World Popular Song Festivalでイタリア代表のMia Martini / A Ritratto di donnaが最優秀歌唱賞を受賞し、2000ドルを獲得しました。

 作者のLuigi Lopez、Carla Vistariniにとってもキャリアの頂点の一つになりました。

世界歌謡祭 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%AD%8C%E8%AC%A1%E7%A5%AD

World Popular Song Festival - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/World_Popular_Song_Festival

Mia Martini / Un Ritratto Di Donna 1977
https://www.youtube.com/watch?v=m2OE3shTq7Y

Mia Martini / Un Ritratto Di Donna Live (vincitrice del "World Popular Song Festival" - Tokyo, 1977)
https://www.youtube.com/watch?v=agrogEipN54

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 Un Ritratto Di Donna、Riccardo Cocciante作のDa Capoなどを含む、Mia Martini / Per Amartiは、Italian Symphonic Prog Popの傑作であり、イタリアと日本では別のジャケットで発売されました。

 Riccardo Cocciante、Maurizio FabrizioもLuigi Tenco、Luigi LopezとともにItalian Symphonic Prog Popを築いた人たちでした。

Mia Martini canta Riccardo Cocciante - Da capo1977
https://www.youtube.com/watch?v=PPxgbvAm3yI

Mia Martini / Per Amarti 1977
https://www.youtube.com/watch?v=btoiFbi3M5Q


 1978年以降、「イタリアの美しい音楽」は、 Beppe Crovellaによれば音楽の傾向がメロディよりも詞の内容を重視するようになったことで影を潜めていきました。

 それは、サタデーナイトフィーバーのDiscoブームとPunk Rockの登場で、単調なビートがItalian Symphonic Prog Popの静から動への抑揚のあるメロディに合わなくなったことが大きな原因でもありました。


= 1979年 日本の子供アニメ番組主題歌の世界に進出 〜 Italian Symphonic Prog Popの次の出会い

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 1977年、東京の世界歌謡祭で頂点の一つを極めたLuigi Lopezは、Carla Vistariniと日本の子供向けテレビ番組の世界に入りました。

 その第一歩は、やはりLuigi Tenco時代の昔からLuigi Lopezと縁のあるWilma GoichのI Vianellaのために作曲したCon Te Bambinoと「Cybernella」でした。

★I Vianella / Con Te Bambino 1979
https://www.youtube.com/watch?v=yEjCPP1SC20
Dalla serie televisiva "10 Storie Di Bambini" di Edoardo Mulargia.
心から癒される歌。

Cybernella - Wikipedia
https://it.wikipedia.org/wiki/Cybernella

ミラクル少女リミットちゃん - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%AB%E5%B0%91%E5%A5%B3%E3%83%AA%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93

I Vianella / Cybernella
https://www.youtube.com/watch?v=nY_tTKd74ss

 1979年にI Vianellaは、Luigi Lopezの曲ではありませんが素晴らしいItalian Symphonic Prog Popで、世界歌謡祭に出場しています。

I Vianella / Devo Amarti 1979 Live World Popular Song Festival - Tokyo
https://www.youtube.com/watch?v=UO4QH26OoWE


 1980年にLuigi Lopezは、自らアニメ『ピノキオの新冒険 Le nuove avventure di Pinocchio』のテーマソング「ピノキオ・ペルケ・ノー?」を歌い、収録したアルバムも100万枚以上を売り上げ、現在でも子供向けのヒットチャートに入っています。

★Luigi Lopez / Pinocchio Perchè No? 1980
https://www.youtube.com/watch?v=I1fHOFbZvsw
 
 また、Luigi Lopezは、1970年に日本で放送した「赤き血のイレブン」が1980年にイタリアでArrivano i Superboysとして放送された時のテーマソングも歌っていて驚きです。

Arrivano i Superboys「赤き血のイレブン」 Wikipedia
https://it.wikipedia.org/wiki/Arrivano_i_Superboys
 
Luigi Lopez / Goal “Arrivano i Superboys” sigla iniziale 赤き血のイレブン 1980
https://www.youtube.com/watch?v=N1dHDvXzjK0


= 1982年  再び東京世界歌謡祭に2曲で参加し、優勝

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 Luigi Lopezは、再び第13回世界歌謡祭 World Popular Song Festival in Tokyo '82に作曲で参加しました。まず、アン・ベルトゥッチAnne Bertucciが歌ったWhere Did We Go Wrongがアメリカ合衆国を代表し、優勝しました。

Anne Bertucci / Where Did We Go Wrong (孤独の扉)1982 World Popular Song Festival, Tokyo
https://www.youtube.com/watch?v=CFHjtc8_9aw

 そしてニュージーランド代表のJohn Rowles / Holiday In Mexicoも作曲して、入賞しました。Luigi Lopezは通算で3回も世界歌謡祭で入賞した作曲家になりました。
 
John Rowles / Holiday In Mexico 1982
https://www.youtube.com/watch?v=jdHPSkY7_0A

 また、1982年に再びMinaのCarla Vistariniとの5:35の大曲、Mi Piace Tanto La Genteを作りました。

★Mina / Mi Piace Tanto La Gente 1982
https://www.youtube.com/watch?v=a-Wm_qpXRD0
やはり、German Electric RockをリリースしたMinaだけあって、Cosmic Jokersのような広がりのあるサウンド

= 1983年 イタリア版アニメ「アタックNo.1 La Fantastica Mimì」の大ヒット 〜 Disco Musicへの進出

 
 イタリア初の女子が主人公のアニメ「アタックNo.1 La Fantastica Mimì」が、Carla Vistariniとのテーマ曲「La Fantastica Mimì」とともに大ヒットします。

★La fantastica Mimì - sigla completa 1983
https://www.youtube.com/watch?v=dGdF5Y5i9rU
100万回再生超えの人気曲。

Mimì e la nazionale di pallavolo - Wikipedia
https://it.wikipedia.org/wiki/Mim%C3%AC_e_la_nazionale_di_pallavolo

アタックNo.1 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%BF%E3%83%83%E3%82%AFNo.1

アタックNo.1 / テーマソング + 第1話
“Mimì e la nazionale di pallavolo“ Sigla in Giapponese 1969 
https://www.youtube.com/watch?v=g5qHZHNiBCM
女子スポ根バレーボール漫画の金字塔をアニメ化

 また、1983年Hollywood Recordsから、Luigi LopezはItalo Disco Musicへの進出も図ります。
 1984年には、Arranger、Alberto RadiusとともにFolkシンガー、Rosanna FratelloのDisco Songをリリース。

 1969年のItalian Progressive Rockの先駆者Formula3のAlberto Radiusと、Luigi Tencoの精神を継ぐItalian Symphonic Prog PopのLuigi Lopezの2人の新しい音楽への情熱が感じられます。

★Rosanna Fratello / Sola (Italo-Disco) 1984
https://www.youtube.com/watch?v=3R7lfSNNiX4
美人で知られた民謡系Folkシンガーの変貌に驚いた。

Rosanna Fratello – La Carovana – Vinyl (7", 45 RPM), 1984 [r2425117] | Discogs
https://www.discogs.com/ja/release/2425117-Rosanna-Fratello-La-Carovana

Myrian / Change It (Italo-Disco) 1984
https://www.youtube.com/watch?v=FQpTdHoHPnw
Luigi Lopez作の1曲

Flavio De Salve - Flavio De Salve (FULL ALBUM)
https://www.youtube.com/watch?v=ayxvzNSNLTA
Hollywood Recordsから。Luigi Lopez作ではないが、高額がついているので、DJ推薦曲があるのだろうか。


= 1990年  再びMia Martiniのためにサンレモ音楽祭で批評家賞

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Mia Martini Wikipedia
https://it.wikipedia.org/wiki/Mia_Martini

 1989年SanremoでMaurizio Fabrizioは、1972年にMia Martiniのために書いた未発表曲Almeno Tu Nell'Universoを提供し、批評家賞を受賞しました。これは、1970年代のItalian Symphonic Prog Popの栄光の時代に復帰するものでした。

★Mia Martini / Almeno Tu Nell'Universo 1989年 Sanremo
https://www.youtube.com/watch?v=UolZ-QHjnFg

Almeno Tu Nell'Universoに対する論評「ジャンルを超えた感情分析」
"Tu nell'universo" di Mia Martini: un'analisi emozionale oltre i confini del genere
https://athosenrile.blogspot.com/2025/04/tu-nelluniverso-di-mia-martini.html

Mia Martini / Dove il cielo va a finire 1973
https://www.youtube.com/watch?v=F6JmOYEmQNg

 1990年、Mia Martiniのために、Italo Discoを作っていたLuigi Lopezは再びCarla VistariniとともにItalian Symphonic Prog Popの名曲「La nevicata del '56」を作曲し、1990年のSanremo音楽祭で2年続けて批評家賞を受賞しました。

★Mia Martini / La nevicata del '56 1990年 Sanremo
https://www.youtube.com/watch?v=VVLnnHJ0p4k
 

= 1996年 Mia Martiniの未発表曲、栄光のItalian Symphonic Prog Pop

 1995年5月12日、Mia Martiniは不慮の最後を遂げました。
 Sanremoでは、以後、批評家賞はMia Martini賞と名前が変更されました。

 Luigi Lopez、Carla Vistariniが1990年に作ったMia Martiniの未発表のItalian Symphonic Prog Popの名曲、S.O.S. Verso Il Bluが1996年に発表され、CDの冒頭に収録されました。

★Mia Martini / S.O.S. Verso Il Blu
https://www.youtube.com/watch?v=pK_4v6myBeA

 その後、Luigi Lopezの創作活動も少なくなりました。


= 2025年 Luigi Lopezさんが最後に夢見たのは子供の音楽「樫の木モック」

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Luigi Lopez / PINOCCHIO PERCHE' NO? 2023 single Red vinyl
樫の木モック シングル single in Giapponese 1972年


 近年のLuigi Lopezさんは体調を崩されていたようです。2023年ごろ、自作曲のGilda Giuliani / Compagni Di Viaggioにいいねをつけられていたのが印象に残りました。
 
★Gilda Giuliani / Compagni Di Viaggio 1977
https://www.youtube.com/watch?v=0JmMi8qo9mE
Luis Enríquez BacalovがArranger。1973年のSylvie Vartanのための曲を詞を変えて再録したもの。

Luigi Lopezさんが最後に見ていたイタリアの2025年アニメCD チャートで、数か月2位をキープ
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 2025年に入って、Luigi Lopezさんは、PINOCCHIO PERCHE' NO? が、イタリアのアニメCDのヒットチャートで2位になっていることを3回ほど続けて報告されていました。それが最後のお知らせでした。
 そしてCarla VistariniさんからLuigi Lopezさんの訃報の報告がありました。

 ブログを書いていて最後の最後に、PINOCCHIO PERCHE' NO?が主題歌のイタリアの「ピノキオの新冒険 Le nuove avventure di Pinocchio」とは、1972年放送の「樫の木モック」だったことが分かりました 。

Le nuove avventure di Pinocchio Wikipedia
https://it.wikipedia.org/wiki/Le_nuove_avventure_di_Pinocchio

樫の木モック Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AB%E3%81%AE%E6%9C%A8%E3%83%A2%E3%83%83%E3%82%AF

樫の木モック 最終回 Kashi no ki Mokku
https://www.youtube.com/watch?v=tk976LlA_WY
Le nuove avventure di Pinocchio Last Episode in Giapponese

樫の木モック 主題歌
https://www.youtube.com/watch?v=ajgCHqV5QqE
Le nuove avventure di Pinocchio Sigla originale in Giapponese
 

 今回振り返ってみて、
@ 1960年にLuigi TencoさんやGian Franco Reverberiさんなどが”Italian Symphonic Prog Pop”とも呼べる新しい音楽を、旧来のCanzoneとSymphonic Classic、Jazz、American Popsを融合して創ったこと、
A それが1967年のLuigi Tencoさんの死によって、1970年代のItalian Progに発展したこと、
B 1974年に政治問題でItalian Progが途絶えたときに、Luigi Lopezさんなどによる”Italian Symphonic Prog Pop”が1970年代後半まで、イタリア音楽の美を継承したこと、
C これらによって自分が音楽で救われたこと、を再確認、実感しました。

 改めて「音楽の夢」を作って頂いた方達、Luigi Tencoさん、Gian Franco Reverberiさん、Luigi LopezさんそしてMia Martiniさんに感謝したいと思います。素晴らしい音楽をありがとうございました RIP

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2025年04月23日

RIP追悼 感謝 Peter Farrelly ・FruuppのVocal・Bassist 〜 1974年 世界初の「Fantastic Rock Opera」"太陽の王子The Prince Of Heaven’s Eyes“ 〜 最も音楽的影響を受ける年齢14歳で出会ったFruupp 〜 “Perfect Wish”に込められた「アイルランドに平和を」とベトナム反戦 ・FruuppとTaï PhongそしてGeorge Murasaki 〜

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Peter Farrelly, Stephen Houston, Martin Foye, Vincent McCusker

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Peter Farrelly, the brilliant lead singer and bassist of the Northern Irish 1970s progressive rock band Fruupp, has died at the age of 76. Peter Farrelly also illustrated the covers of Fruupp's first and second albums.
From 1970 to 1972, an explosion of political violence occurred in Northern Ireland.
Fruupp released four albums in just two years, between October 1973 and November 1975. In the UK, they opened for bands such as Genesis, Queen and King Crimson.
In the 1970s, Fruupp's LPs were only released in Japan outside of the UK, and has since been reissued on CD three times in Japan. Fruupp's 1974 third album, The Prince of Heaven's Eyes, was a Japanese made record with a lyric sheet enclosed in a UK jacket. In Japan, this LP was released with the advertising slogan "Fantastic Rock Opera" written on the obi. I think this slogan is a world first. 
14 years old is said to be the age when people are most influenced by music. I bought it when I was 14, and the beautiful melodies were moving. If you are a fan of Symphonic Progressive Rock, please listen to the final track, "Perfect Wish". After recording this album in September 1974, Stephen Houston, who composed "Perfect Wish" and other songs, left the group in January 1975 and became a clergyman.
Fruupp's fourth and final album, Modern Masquerade, was produced by Ian McDonald of King Crimson's ”1969” album. And the Vietnam War ended in 1975

★Fruupp / Perfect Wish 1974
https://www.youtube.com/watch?v=0TkPjRhM-rs

L:Japanese Edition  R:UK Edition
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今日の1曲
「Fantastic Rock Opera」 Fruupp / 太陽の王子
   The Prince Of Heaven’s Eyes – It`s All Up Now 1974
 Fruupp / Knowing You 1974
 Fruupp / Seaward Sunset 1974
★Fruupp / Perfect Wish 1974
★Fruupp / Faced With Shekinah 1974
Tito Schipa Jr. with Bill Conti
      / Orfeo 9 – Tre Note (Ouverture) 1973
Genesis / The Lamb Lies Down on Broadway 1974
★Taï Phong / Fields of Gold 1975
Murasaki (紫) / Mother Natures Plight 1975
Can / Paperhouse (Live) 1971
Wallenstein / Mother Universe 1972
Le Orme / Maggio 1974
Wings / アイルランドに平和を
         Give Ireland Back To The Irish 1972
The Who / Quadrophenia - Love, Reign O’er Me 1973

フループ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97

Fruupp - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Fruupp

Fruupp vocalist, flautist and bassist Peter Farrelly has died, aged 76 | Louder
https://www.loudersound.com/news/fruupp-vocalist-flautist-and-bassist-peter-farrelly-has-died-aged-76


 北アイルランドの1970年代のProgressive Rockバンド、Fruuppの素晴らしい歌手、ベーシストであるPeter Farrellyさんが76歳で亡くなりました。

 FruuppはイギリスのDawn以外では、なぜか日本のテイチクでのみ発売されました。テイチクはドイツのPilzとBrainも発売し、発売直前に閉鎖したPilzからPopol Vuh / のHosianna Mantraも発売予定でした。

 Pilzは当時の日本では、Damo Suzukiも間章も評価していたWallensteinのBlitzkriegと、フランスで月間ベストアルバムになり「天国への階段」的な曲展開で印象深いMother Universeの2枚を出すべきだったと思います。

Wallenstein / Mother Universe 1972
https://www.youtube.com/watch?v=KgZzGsgX2T4

 しかし、テイチクは、当時ブリティッシュロックが全盛期だったため、Dawnについては今見てもたいへん力を入れていたと思います。Fruupp4枚とJonesy3枚は全て、Comus、Heron、古くはSteve HackettのQuiet World / The Road、 Titus Groanまで発売。

テイチクのDawnの広告ではFruuppが1番大きく掲載。
石丸電気ではJonesyの1stも買えた。
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 私は1976年2月の冬、14歳の時に神田の石丸電気レコードセンターのProgressive Rockのコーナーで、Fruuppの1974年の3rdアルバム「太陽の王子The Prince Of Heaven’s Eyes」 を買いました。イギリス製ジャケットに日本製レコードと歌詞カードをつけた初めてのものでした。

 ジャケットの「王子」は、王子とは名ばかりの頼りない雰囲気でした。
 1974年作のProgressive Rockのジャケットといえば、「King Crimsonは死んだ」で有名なRedのRobert Frippの真剣な目、世界制覇を目指したIl Voloの1st、Tangerine Dreamの幻想的なPhaedraなど、特に強い意志が感じられるものが多かったです。この違いは何なのか? 当時は疑問でした。

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 14歳は男性が人生で音楽的影響を最も受ける年齢とされています。太陽の王子は14歳になったばかりの頃に買ったレコードでしたので、人生で最も影響を受けた音楽のひとつと言えます。


Wings / Give Ireland Back To The Irish Japan Red Vinyl single
In Japan, it was released under the title "Peace to Ireland."
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 しかし、今回、 レコードを買ってから49年目にして初めて、「太陽の王子The Prince Of Heaven's Eyes」 の背景にあった、14歳の頃にはわからなかった重たい北アイルランド紛争の実態を知りました。自分の無知を恥じるとともに、もう一度「太陽の王子」を聴きなおそうと思いました。

Wings / Give Ireland Back To The Irish
https://www.youtube.com/watch?v=r0zGVVcsbPg
Paul McCartneyもJohn Lennonもアイルランド出身だった。

 Fruuppが、なぜ世界初のファンタジーロックオペラFantastic Rock Operaを作ったのか、もうレコードも持ってなくてライナー解説が読めず残念ですが、またDiscogsの画像とYoutubeの力を借りて、他のRock Operaとともに振り返ってみたいと思います。


= Fruupp 太陽の王子The Prince Of Heaven’s Eyes を聴く =

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 太陽の王子The Prince Of Heaven’s Eyes は、音楽的にも他のProgressive Rockより音が軽かったのですが、その分、当時買ったJRRトールキンの「指輪物語」の世界を思わせるファンタジーの世界が充満していました。ジャケットのひょうきんな表側のイラストと、内側の神秘的な湖の写真の印象のギャップが、それを上手く引き立たせていました。

 純真な心を表現しているという印象で、前回ブログのKevin Ayersの『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』に通じる感動がありました。その素晴らしさを言葉でうまく表現できないので、YoutubeとDiscogsの力を借りてもう一度あの時に見た夢を再現してみたいと思います。

 解説文を読むと、主人公のフラニガン青年がさまざまな人と出会いながら虹の果てを目指す冒険を描いた物語でした。帯に銘打たれた「ファンタジーロックオペラFantastic Rock Opera」の名の通り、Progだけではなく、ストーリーに沿って様々なタイプの曲が入っています。

 Symphonic Progressive Rockのファンの方は最後の曲「Perfect Wish」だけでも聴いてみてください。Peter FarrellyのVocalも説得力、表現力が素晴らしいと思います。


 まず、オープニングナンバーIt`s All Up Nowの吸い込まれるようなSynthesizer、美しいPianoは、 それまで13歳の頃までに聞いたYes、Focus、PFM、ELP、Tangerine Dream / Alpha Centauri、Amon Düül II / Wolf Cityなどでは聴かれなかった別の世界の「軽やかな」音色でした。

A1 Fruupp / It`s All Up Now
https://www.youtube.com/watch?v=wJzczIaZKoI

B1 Fruupp / Knowing You
https://www.youtube.com/watch?v=5y2Ktqw19Vk
Peter FarrellyのVocalの説得力、表現力が素晴らしい。

B3 Fruupp / Seaward Sunset
https://www.youtube.com/watch?v=ROYzukw3Rvs
まさにファンタジーの世界の小曲。Kevin Ayersの『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』の Girl On A Swingを想起させる。

B4 ★Fruupp / Perfect Wish
https://www.youtube.com/watch?v=0TkPjRhM-rs
最後の曲。European Symphonic Progの最高楽曲の一つ。冒頭から2:34までのギター、★6:38のギターからラストまでが特に素晴らしい。

 昔から、Stephen HoustonのルックスはCanのMichael Caroliに似ていると思っていたのですが、Perfect WishのVincent McCuskerのギターの音色からは、CanのBeat ClubでのPaperhouseのギターに通じる何かを感じました。

Can / Paperhouse (Live 1971 Beat Club)
https://www.youtube.com/watch?v=LPjF4ZHuIko
5:40のMichael Caroliのギターの音は、Vincent McCuskerを思わせる。

世界初のFantastic Rock Opera「太陽の王子The Prince Of Heaven's Eyes 」にはStory Bookが付されていた。復刻CDの付録。
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 太陽の王子The Prince Of Heaven’s Eyes のファンタジーは、イギリス盤では、予告編ともいえる先行LP未収録シングルと、LPにはブックレットの物語も付いた完結したものでした。英国で、太陽の王子The Prince Of Heaven’s Eyes は英国でFruupp史上最高の評価となり、74年の年末ツアーなどFruuppにとって最盛期となりました。

 太陽の王子The Prince Of Heaven’s Eyes の主な曲を作曲したStephen Houstonは、燃え尽きたようにこのアルバムを最後に1975年1月にバンドを脱退し、キリスト教の牧師となりました。

 Fruuppの1974年のセカンドアルバムSeven Secretsの一曲目Faced With Shekinahも素晴らしいSpace Symphonic Progressive Rockでした。

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 そこでは、有名なヘンデルHandelの「水上の音楽Water Music〜Suite in D major (HWV 349) アラ・ホーンパイプAlla Hornpipe」と、パーセルHenry Purcellの「アブデラザールAbdelazer ロンドRondeau」の有名なメロディが大々的に引用されています。

 この曲は、FruuppのMelodie宣言ともいえるもので、次作「太陽の王子The Prince Of Heaven’s Eyes 」への予告編とも言えると思います。

★Fruupp / Faced With Shekinah 1974
https://www.youtube.com/watch?v=ZYRc751Wrh4&list=PLcq1zJsibOkIMoZPErEpkPmUiJgq8xEJW
6:15からのSpace Symphonic Progressive Rockが素晴らしい。

 なお、1st、2ndアルバムの素晴らしいイラストはPeter Farrellyさんの作品でした。

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= 世界初「ファンタジーロックオペラ Fantastic Rock Opera」の意義=

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 14歳の時、石丸電気でFruuppを買おうか迷ったとき、LPの帯が威力を発揮しました。「ビューティフルでファンタスティックなひとときを今、あなたに! フループのファンタジーロックオペラ、ここに完結!」という言葉に、偽りではない良質の音楽への担当者からの熱意が伝わりました。そこで、買うことにしました。

 部屋でジャケットを開くと、頼りない王子の表ジャケットに対比して、内側のその後1976年12月に買ったPopol Vuh / Affenstundeにも通じる湖の写真は、まさにファンタジーロックオペラ、Fantastic Rock Operaの世界でした。

 そして、A面の1曲目の分厚く吸い込まれるようなStrings Synthesizer もまさにFantastic Rock Operaで、大変幸福な気持になりました。3か月前の1975年10月に買ったPFM、Amon Düül II / Wolf City、Triumviratなどのように美しいメロディは感動的でした。

 その後、2曲目以降はProgressive Rockとは違う曲想が並ぶのですが、「ファンタジーロックオペラ Rock Opera」という帯の文句があったので、「こういう曲もストーリーの中にあっていいだろう」と理解できたので、不満や違和感を感じることはありませんでした。

 以下、Rock Operaとして有名なものを列挙します。

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ロック・オペラ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%9A%E3%83%A9

Rock opera
https://en.wikipedia.org/wiki/Rock_opera

1969年 The Who / Tommy 初のRock Operaの成功作

1969年  “Hair” 初のRock Musical。UKではSonja Kristina、ドイツではDamo Suzuki、Donna Summer、日本では加橋かつみ、Fumio Miyashita (Far East Family Band) が出演。オランダではFocusが演奏。

1970年 ”Jesus Christ Superstar” Ian Gillan主演 

1970年 Tito Schipa Jr. / Orfeo 9  イタリアで世界初のProgressive Rock Operaの初演 (Record化は1973年)

Tito Schipa Jr. / Orfeo 9 – Tre Note (Ouverture)
https://www.youtube.com/watch?v=1fWxYUTVCts
無名時代のBill Contiが登場する貴重なレコーディングシーン

1973年 The Who / Quadrophenia

The Who / Love, Reign O’er Me (Lyric Video)
https://www.youtube.com/watch?v=DhLsC2FpDZk
2枚組LPの最後に使われたRock Operaの最高楽曲の一つ

Movie「Quadropheniaさらば青春の光1978」語り:福田好/文:宮本尚子
https://www.youtube.com/watch?v=uz_tk-TEK3s
都内の図書館で無料上映会で初めて見て感動した。「四重人格」という邦題だったら興味を持たずに見なかったと思う。


Pete Townshend was nervous and trembling when he asked John Lydon to star in the movie "Quadrophenia,1978" but Lydon, who admired The Who, politely declined. In Japan, the movie "Quadrophenia" was released with the catchy title "Farewell to the Light of Youth," so it touched the hearts of many young people who are not music fans as well.
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1973年 Lou Reed, 'Berlin'

1974年  Genesis / The Lamb Lies Down on Broadway

Genesis / The Lamb Lies Down On Broadway (Official Audio)
https://www.youtube.com/watch?v=hioAbdhfN_w&list=OLAK5uy_lJCA3U2TL11PYx7z3L41Ifqem9fThVAkc
こちらは2枚組LPの冒頭に登場するRock Operaの最高楽曲の一つ

1974年 世界初の「Fantastic Rock Opera」 Fruupp / 太陽の王子The Prince Of Heaven’s Eyes

1979年 Pink Floyd / Wall Rock Opera最高のセールス記録


 こうして見ると、「太陽の王子The Prince Of Heaven's Eyes 」以外はどのRock Operaも、主人公が葛藤と混乱の果てに自分を発見するというテーマです。Yoko OnoがJohn Lennonをサポートして作らせたMotherやLoveのように、ミュージシャンには内面に苦しみを抱えた人が多いことがわかります。

 これに対して、「Fantastic Rock Opera」 太陽の王子The Prince Of Heaven’s Eyes は、ジャケットの王子のイラストもライナーにも書かれていたストーリーもハッピーエンディングな内容でした。

 太陽の王子が、どうしてここまで明るいのかずっと不思議でした。しかし、今回初めて北アイルランド紛争の実態を知り、ファンタジーロックオペラを作ったFruuppの理想を理解することができました

Rock Opera「太陽の王子The Prince Of Heaven's Eyes 」の後、最後の4thアルバムはKing CrimsonのIan McDonaldがProduceした。
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= “Perfect Wish”に込められた「アイルランドに平和を」とベトナム反戦 =

FruuppとTaï PhongそしてGeorge Murasaki

 太陽の王子The Prince Of Heaven's Eyes の録音された1974年はベトナム戦争が終戦に向かう年で、それは音楽にも希望となって現れました。イタリアでは、1971年の人類の贖罪的な内容のSguardo verso il cieloでItalian Progの開祖とされ、1973年のFelona e Soronaで核戦争による世界の終末を予言したLe Ormeが、1974年には人間賛歌ともいえるMaggioを歌いました。

Le Orme / Maggio 1974
https://www.youtube.com/watch?v=545vO52c6L4
2:19 7:47 Le Ormeが初めて、太陽の王子The Prince Of Heaven's Eyes のように希望に満ちたSynthesizerを使った。

 ベトナム戦争を体現してきたRobert Frippは、逆説的な「King Crimsonは死んだ」という言葉で1974年にその任務を終え、ベトナム反戦ミュージカルHairのバックバンドから出発したFocusも、Hamburger ConcertoのWell Done〜One for the roadで1974年にその任務を終えました。
 
評判の高かったというFruuppのLiveの珍しい写真。Live録音は残念ながら残っていない。
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北アイルランド問題 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E5%95%8F%E9%A1%8C

The Troubles
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Troubles

 しかし、北アイルランド紛争は1972年に死者が最大の500人(一般市民が半数)となり、その後も継続していました。 

 1972年までの北アイルランド紛争があまりにも壮絶だったため、Fruuppがレコード会社と契約してレコーディングする段階に至らなかったのではないかと想像します。そして73年からFruuppは極めて短期間に音楽的変遷をしながら4枚のLPのリリースを実現します。

 14歳の時、太陽の王子The Prince Of Heaven's Eyes のジャケットと音楽を聞いて、他のProgressive Rockと比べて、なんでここまでファンタジーの世界なのだろうかと思いました。しかし、約50年目にしてやっと、その背景にアイルランド紛争でFruuppのベルファストでもたくさんの市民が亡くなっていたという事実を知りました。

 自分に対するセラピーをテーマにした他のRock Operaには少なからず、狂気や暴力的なものも介在していました。
 しかし、太陽の王子The Prince Of Heaven's Eyes は、自分たちに対するセラピーと同時に、遠い異国のベトナムのみならず、自分が居住する北アイルランドの平和のための癒しの表現でもあったといえます。

 だから、太陽の王子The Prince Of Heaven's Eyes では、暴力的な表現や狂気が消し去られています。そこには美しいものと理想しか残されていない。それが、世界初のFantastic Rock Operaが生まれた理由ではないかと思います。

 1974年8月録音の太陽の王子The Prince Of Heaven’s Eyes の中で” Perfect Wish”は、遠い異国で終焉に向かうベトナム戦争への希望と、その希望を自国の北アイルランド紛争でも実現したいという2つの願いに向けたファンタジーの集大成でした。

 太陽の王子The Prince Of Heaven’s Eyesの主要曲を作曲、録音したStephen Houstonさんは、1975年1月にFruuppを脱退して牧師になりました。これは、彼の中で音楽という表現によるアイルランドとベトナムへの平和の希求は、Perfect Wishによって達成したからだと思われます。


 Fruuppの北アイルランド問題を知った時、思い浮かべたのがベトナム戦争の当事国出身者による唯一のProgressive RockだったTaï Phongです。Taï PhongのFantasticなSynthesizerの美しさはFruuppと共通することに気が付きました。

Top :The world's only Vietnamese progressive rock band, Taï Phong.
Bottom :The only Okinawan progressive rock band, Murasaki. In Okinawa, one in four civilians died in battle during World War II.
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 Taï Phongの1stは、Fruuppの太陽の王子The Prince Of Heaven’s Eyes に繋がるファンタジーの世界で、Fields of GoldのSynthesizerは美の結晶のような音でした。初めてラジオでこの曲を聴いたとき、なぜここまで美しくなければならないのかという印象さえ持ちました。

 Taï Phongは、当時雑誌でProgressive Rockとしてはサウンドが甘すぎると批判されたこともありました。しかし、ベトナム戦争の当事国の人が作る音楽は、やはりFruuppと同様にそこには美しいものと平和への理想しかなく、暴力的な表現や狂気は消し去られたのではないかと思いました。 

★Taï Phong / Fields of Gold 1975
https://www.youtube.com/watch?v=pwA9V4fS4NY
3:10★からVietnam戦争の当事国の人による史上最も美しいProgressive Rockの一つ。「Peace、Freedom」という言葉が重い。ユダヤ人とキリスト教の両者の歴史を背負ったNew Trolls / Concerto Grosso Adagioに匹敵する。

 2023年のTaï PhongのLive映像で、Khanh Maïさんは紫のジョージ紫George Murasakiさんにそっくりだと気がつきました。 George Murasakiさんはベトナムで人を殺したくないという理由でアメリカから沖縄に戻り、紫を結成しました。

 1978年か1979年に池袋YAMAHAのトークイベントの質問コーナーで、George Murasakiさんが突然ピアノでTaï PhongのSister Janeを弾きました。そこで私が緊張しながら「なぜTaï Phongを弾いたのですか」と質問したときに、 George Murasakiさんがうつむいたまま無言だったのを思い出します。

Taï Phong / Fields of Gold (Live 2023)
https://www.youtube.com/watch?v=owCt3al_RdI
3:04からSynthesizerのFantasticな世界。今のKhanh MaïさんとGeorge Murasaki さんは似ている。

Murasaki (紫) / Mother Natures Plight 1975
https://www.youtube.com/watch?v=4PV1vM7anPw
4:00から紫の作品中、最もProgressiveなPart。5:14からGeorge Murasaki が愛した楽器Synthesizerによる最も美しく太陽の王子The Prince Of Heaven's Eyes のようにFantasticなPart。

Fields of Gold Lyrics 1975
https://paroles2chansons.lemonde.fr/paroles-tai-phong/paroles-fields-of-gold.html

You know what I mean?
You must know what I mean

Gracious, it's coming nearer
Don't worry take your time
Wait for the darkness
You will see the light

Freedom, freedom
Peace, peace


Fruupp / Perfect Wish Lyrics 1974
https://genius.com/Fruupp-the-perfect-wish-lyrics


Wish upon a rainbow,
And all your dreams will come true,
Waste not your time,
'Cause time won't wait for you,
Sing a joyful song,
Then you can't go wrong,
When you wish upon a rainbow,
Then all your dreams will come true,
To you and you.


 北アイルランド問題のような背景があったからこそ、「太陽の王子The Prince Of Heaven’s Eyes」 は十代のころの私の現実の苦しみを忘れさせてくれるレコードになったのだと思います。

 素晴らしい音楽をありがとうございました。Peter Farrellyさんのご冥福をお祈りいたします。RIP

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 最後にPeter Farrellyさんの実力がわかるFruuppのギタリストVincent McCuskerさんによる弔文を掲載させて頂きます。

 Vincent McCuskerさんは1971年まではYesのChris Squireさんが最高のベーシストと思っていましたが、Peter Farrellyさんがグループに加入し、その素晴らしい才能に感銘を受けました。

 Fruuppの1stから4thのLPは、たった2年で急速にサウンドが変化しています。世界的に見ても4枚のLPを1973年10月から1975年11月のわずか2年で出すというバンドは見当たりません。4枚の音楽的変遷をYesに例えると、3rd、Fragile、Close To The Edge、Tales From Topographic Oceansに似ています。

 Chris Squireさんのように優れたベーシストで、歌も同時にできたPeter Farrellyさんの力量があったからこそ、わずか2年で4枚もの異なる音楽性のLPを制作できたのだと思います。

Until 1971, Chris Squire of Yes was my favourite bassist ( by a long shot). The early Zeppelin, Deep Purple and free influenced Fruupp had disbanded and I had decided to reform the band performing all original music. Stephen, Martin and myself but without a bassist. Eoghan Kearns, a close friend of the band brought along his mate to one of our jam sessions. This guy was an excellent guitarist in the vein of early English folk guitarists Bert Jansch and John Renbourne. I was taken aback, this guy was so good I felt a little uneasy but he was calm, unassuming and got on great with the rest of us.
He had never played bass before but when he lifted it to play, it sounded like he had been born with it. It was Peter of course. We were all reasonably talented. Stephen was classically trained so he certainly knew his stuff. Martin had worked in a circus band amongst others and you definitely need to know your stuff in a circus band. I had practiced my backside off to become a half decent guitarist but Peter was different.
Besides the obvious musical talent, this guy was special. He had the mojo, some people call it charisma. He attracted people ( and I don’t just mean the ladies)
I asked him if he would be interested in playing bass in the band and in his casual way he said “yeah, why not”
As the band developed, things happened. The lead singer left but Peter just happened to be an excellent vocalist. We needed artwork for the albums, Peter just happened to be a very good artist. HE was a wonderful guy, always thinking on a different plain. Creativity just seemed to ooze through him. I am incredibly honoured to have been a member of a band with Peter Farrelly in it. We are incredibly sad at his passing but Stephen Martin Paul and myself will always remember, love and never forget Peter.
RIP Peter🙏🙏🙏

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posted by カンカン at 05:28| 神奈川 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ユーロピアンロック&ポップス European Rock & Pops | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年03月19日

追悼 RIP Kevin Ayers Soft Machine 1969年 『おもちゃの歓び / Joy Of A Toy』 〜 世界初・avant-gardeから癒し系へ・Melodie重視のPrivate solo albumによる創造領域の拡大とその影響 〜 1971年Peter Hammill/Fool’s Mate、Pilgrims 〜 Mike Oldfield/Ommadawn 〜 Soft Machine/Bundles 〜 加橋かつみ/1969 Paris、山口冨士夫/ひまつぶし

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"Joy Of A Toy" is the only Kevin Ayers record I bought when I was young. It features soothing symphonic progressive pop, a departure from the avant-garde of Soft Machine in 1968. In my opinion, his musical transformation in "1969" was a profound influence on later artists like Peter Hammill and Mike Oldfield, and even on Mike Ratledge in 1975 with Soft Machine/Bundles.

今日の1曲

Soft Machine / Joy Of A Toy 1968
Kevin Ayers / Joy Of A Toy Continued 1969
★Kevin Ayers / Town Feeling 1969
Kevin Ayers / The Clarietta Rag 1969
★Kevin Ayers / Girl on a Swing1969
★Kevin Ayers / Song for Insane Times 1969
★Kevin Ayers / Eleanor's Cake (Which Ate Her) 1969
★Peter Hammill / Vision 1971
Peter Hammill / Re-Awakening 1971
Peter Hammill / Gog Magog (In Bromine Chambers) 1974
Caravan / The Show Of Our Lives 1975
★Soft Machine
       / Medley Bundles〜Land of the Bag Snake 1975
Mike Oldfield / Tubular Bells Part1 1973
★Mike Oldfield / Ommadawn Pt.2 / On Horseback 1975
加橋かつみ / パリ1969 - ★愛の言葉
山口冨士夫 / ひまつぶし - ★おさらば 1974
★Walter Wegmüller / Tarot - Der Weise 1972
★Van Der Graaf Generator / Pilgrims 1976
Van Der Graaf Generator
       / Childlike Faith In Childhood's End 1976

『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』を収録したSoft Machine / 1st
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 Soft MachineのMike Ratledgeさんも亡くなられショックですが、今回は2013年2月に亡くなったKevin Ayersさんの追悼と感謝を込めて、1969年のソロデビュー作『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』 について書きたいと思います。

 体調を壊し、経済的にも苦しく、大事だったブログにも載せた思い出のレコードもいつのまにかほとんど手放してしまった寂しい状況です。ありがたいことに今はYoutubeで聴いたり、Discogsなどでブログ用にレコードの写真や資料を容易に集めることができ、思い出を再現できて感謝しております。

 Kevin Ayersの『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』も苦しかった若い頃に救われた音楽のひとつです。もう一度YoutubeとDiscogsの力を借りて振り返ってみたいと思います。そして多くの人にKevin Ayers『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』 を聞いて頂くきっかけになれば少しでも恩返しができると思います。

ケヴィン・エアーズ(Kevin Ayers、1944年8月16日 - 2013年2月18日)
https://en.wikipedia.org/wiki/Kevin_Ayers

All This Crazy Gift Of Time: The Recordings 1969-1973 - 9CD Box Set with Blu-Ray
amazon販売 https://amzn.to/3FCv5aC 昨年発売の『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』を含むHarvest時代の10枚組集大成。
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 『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』 はジャケットに惹かれて買ったKevin Ayersの唯一のレコードでした。 

 『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』 は、まず、1968年のSoft Machineの中の1曲として発表されたことをずっと後になって知りました。
 これはMike Ratledgeとの共作の実験的インスト曲です。

Soft Machine / Joy Of A Toy 
https://www.youtube.com/watch?v=5MGLQCceVCI
Soft Machineの1stは最近になってYoutubeで初めて聴くことができた。

『Joy of a Toy』がB面のシングル盤
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 Soft Machineの『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』 という曲のタイトルをきっかけとしてソロアルバムを作り、新しい癒し系音楽を展開するという手法は、実は非常に計算された優れた手法だったのではないかとも思いました。

 Soft Machineのように、当時Pink Floyd以上に世界で最も前衛的なバンドと評価されていたメンバーが、自分が本当に表現したいものを世に出す方法としてこのような手段をとったことは、のちに後述のPeter Hammillなど様々なアーティストにも道を開いたと思います。

Soft Machineが先鋭的だったことを示す1969年のシングル盤の解説文
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 LP『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』 において、Kevin Ayersはおそらくユーミンの「ひこうき雲」のように、純粋な十代の頃から書き溜めていた歌物の良曲をすべて出すことができたのではないかと思います。

 Soft MachineのAvant-gardeのバンドサウンドから癒し系へという、Melodie重視のPrivate solo albumによる創造領域の拡大という手法は、1969年では世界的に見ても最初ではないでしょうか。Beatlesの1968年のWhite Albumもメンバーのソロ作品の集合ともいえる内容でしたが、名義はBeatlesというバンドでした。

 では改めて傑作ソロ・アルバム『おもちゃの歓び』 を聴いてみたいと思います。

 Beatles / Ballads 20というベスト盤がありましたが、Beatlesに匹敵する素晴らしい楽曲があると思います。ビートルズの癒し系の曲といえば、Here There and Everywhere、Good Nightなどが挙げられると思います。Rolling Stonesで言えば、As tears go byがそれにあたるでしょう。

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 まず、A面の1曲目のマーチソング Joy of a Toy Continuedが、Soft Machineの1stのJoy of a Toyの延長であることを明らかにしています。King Crimsonの1stを生んだ1969年のベトナム戦争の悲惨な状況において、この明るい曲調は逆説的な意味や理想を含んでいると思います。

A1 Joy of a Toy Continued
https://www.youtube.com/watch?v=yBXtGDSQ1uo&list=PLCIVQjOLLGl4KoptSugyULmUKrw4N4zyN
Peter Hammill / Fool’s Mate、Walter Wegmüller / Tarot、山口冨士夫 / ひまつぶし、などの1曲目にも影響を与えたと思われる。

 2曲目は、Beatles / RevolverのA面におけるEleanor Rigbyへの展開を想起させる弦楽器によるクラシカルポップの傑作です。

A2 ★Town Feeling
https://www.youtube.com/watch?v=lL4TVFL653c&list=PLCIVQjOLLGl4KoptSugyULmUKrw4N4zyN&index=3

 3曲目は、Beatles / SGTの世界を思わせるアップテンポな曲展開。Mellotronも独自の奏法です。

A3 The Clarietta Rag
https://www.youtube.com/watch?v=S_J4lK97vrQ&list=PLCIVQjOLLGl4KoptSugyULmUKrw4N4zyN&index=3

 4曲目Girl on a SwingはBeatles代表曲レベルの作品と言い切っていいのではないでしょうか。個人的にはSoft Machine / BundlesのB面の1〜2曲目のメドレー、Caravan / Cunning Stantsの The Dabsong Conshirtoeのラスト1分と並んで、カンタベリーシーンの最高楽曲の1つです。

A4 ★Girl on a Swing (邦題 ぶらんこの少女)
https://www.youtube.com/watch?v=s-TNsqqOvPY&list=PLCIVQjOLLGl4KoptSugyULmUKrw4N4zyN&index=4
間奏部分も含め、Beatles / Fool On The Hillを思わせる癒しの名曲。

Caravan / The Show Of Our Lives 1975
https://www.youtube.com/watch?v=zJ0ab4JmblM&list=PLky8Mxrvk-58fntytYfi6asp2Aa3dV-hD
Cunning StantsのA面冒頭の曲。4:45のメロディーがB面 The Dabsong Conshirtoeの最後に再び現れる構成。

 5曲目はMike Ratledgeなどが全面参加した実質Soft Machineの作品で、傑作Hatfield&North / Rotters Clubの原型とも思える美しい歌物ジャズです。

A5 ★Song for Insane Times
https://www.youtube.com/watch?v=GEGNfw-jd_M&list=PLCIVQjOLLGl4KoptSugyULmUKrw4N4zyN&index=5

 以上、楽曲の良さ、バラエティーの豊富さ、曲展開など改めて素晴らしいA面だと思います。

 B面に入ると、2曲目のEleanor's Cake (Which Ate Her) は、SpirogyraのBells, Boots and Shamblesに組み入れても遜色ないほど美しく、Kevin Ayersの心温まる低音の声と癒しの歌詞が素晴らしいフォークソングの傑作です。

B2 ★Eleanor's Cake (Which Ate Her)
https://www.youtube.com/watch?v=uCMJf4P3ePY&list=PLCIVQjOLLGl4KoptSugyULmUKrw4N4zyN&index=7

My oh my oh my
Do you really have to cry?
Crying like a summer rain
Lady let me ease your pain.
Why oh why oh why
Don't you spread your winds and fly?
Flying like an autumn wind
Lady did you lose a friend?
Don't be sad and down
Take another look around
Maybe what you've lost you've found.
Don't be sad and down
Take another look around
Maybe what you've lost you've found

 A面の癒し系と異なり、B面はSoft Machineや、その後のKevin Ayersのソロアルバムのような実験作で固められています。


= イギリスでの『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』 の影響 =
  Peter HammillとMike Oldfield、そしてSoft Machine / Bundles 

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 『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』 の影響を見ていきたいと思います。

= Peter Hammillへの影響 =

 イギリスでは、1971年にVDGGのPeter HammillがFool’s Mateという1stソロアルバムを発表しました。その中でVDGGにふさわしくないと思われたアウトテイクの曲をすべて出したとされています。

 このFool’s Mateのアイディアは、1969年の『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』 の手法にヒントを得たのではないかと想像しました。Avant-gardeからMelodie重視の癒し系へ変化した4歳年上のSoft MachineのKevin Ayersの勇気とアイディアによって道が開かれたのではないかと思います。

 Fool’s Mate以降、Peter Hammillはメロディの分かりやすい骨格を持った曲を積極的に作るようになり、 1976年にVDGGの最高楽曲の一つとされるPilgrimsに至ったと思います。Parn Heartsで初期のVDGGを極めたPeter Hammillに、『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』が新しい道を開いたと思います。

 では、Peter Hammill『フールズ・メイト』(Fool's Mate)を聴いてみたいと思います。

Fool’s Mateフールズメイト (アルバム) - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Fool%27s_Mate_(album)

 1曲目のImperial Zeppelinは、Joy of a Toy Continuedのような今までのVDGGとは考え付かない明るいアップテンポな曲です。Robert Frippの参加やLed Zeppelinへの意識がわかり、Peter HammillにとってSoft Machineの存在も大きかったことを想像させます。

A1 Imperial Zeppelin
https://www.youtube.com/watch?v=jbyujmhdd4I&list=PLD6A921DA7ABFF1B9

 2曲目のCandleは、やはり『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』 の構成のようにシングルカットできそうなメロディアスな曲に展開します。

A2 Candle
https://www.youtube.com/watch?v=d_k5wSESR7M&list=PLD6A921DA7ABFF1B9&index=3

 そして短い歌物が続き、5曲目がPeter Hammillの最高作の一つとされるVisionです。これはLP『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』 におけるGirl on a Swingと同じ位置付けにあります。

 Visionはイタリアでも高く評価され、後にアメリカではPeter Hammillのベスト盤のタイトルにもなっています。そしてPeter Hammillが後に、The Lie (Bernini's Saint Theresa)、Faint-Heart And The Sermon、 Gog Magog、Pilgrimsという美しいMelodieの曲を生み出すことを可能にしたと言えます。

A5 ★Vision
https://www.youtube.com/watch?v=TqbZRsIko9g&list=PLD6A921DA7ABFF1B9&index=5

 A面の最後の曲はアップテンポな良曲で、やはり『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』 のSong for Insane Timesを想起させます。

A6 Re-Awakening
https://www.youtube.com/watch?v=YWbVOQK87D8&list=PLD6A921DA7ABFF1B9&index=7

 Fool's MateのB面の2曲目のギターの弾き語りによるChildも、タイトルから『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』の影響が感じられます。

B2 Peter Hammill / Child
https://www.youtube.com/watch?v=fmP6cVvHjNo&list=PLD6A921DA7ABFF1B9&index=8

 3rdソロアルバムThe Silent Corner And The Empty StageのThe Lieでは、VDGGが最も人気のあったItalian Progressive Rockからの影響が見られます。

Peter Hammill / The Lie (Bernini's Saint Theresa) 1974
https://www.youtube.com/watch?v=xgTTf69S8D8
3:45からのVocal、Organ、Pianoが美しい。

 日本では最高作とされる4thアルバムIn Cameraでは、『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』、Fool's Mateから始まった内面の表出が、Peter Hammillが英語盤の作詞をしたLe Orme / Felona & SoronaのGian Piero ReverberiのProduceによるSymphonic Progressive Rockからの影響を受けたサウンドと結合して極限に達することになります。

Peter Hammill / Faint Heart And The Sermom 1974
https://www.youtube.com/watch?v=8Ta-kT9GTso&list=OLAK5uy_m8rrtQDAMtZpNv4AfHfWltxtgFbfozjdQ
5:10からのVocal、Mellotronが美しい。

Peter Hammill / Gog Magog (In Bromine Chambers) 1974
https://www.youtube.com/watch?v=y6VmoloQs68&list=OLAK5uy_m8rrtQDAMtZpNv4AfHfWltxtgFbfozjdQ&index=7
冒頭から6:00まで、Peter Hammill、VDGGの全作品中最もSymphonicなProgressive Rockが聴かれる。

★Van Der Graaf Generator / Pilgrims 1976
https://www.youtube.com/watch?v=CqoXU4wGKqI

Van Der Graaf Generator / Childlike Faith In Childhood's End 1976
https://www.youtube.com/watch?v=8sdFByvxVBI&list=OLAK5uy_mAU8vCnZ-MbyvQlA_V31iJ5qcHdiQuS-Q
Pawn Heartsからここにたどり着いた発端は『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』ではないかと思える。


= Mike Oldfieldへの影響 =

 また、Kevin Ayersの最大の功績の一つは、『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』 以降のソロアルバム2作で、まだ十代だったMike Oldfieldの才能を開花させたことです。

Kevin AyersとMike Oldfield (Kevin Ayers And The Whole World)
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Mike Oldfieldマイク・オールドフィールド - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Mike_Oldfield


Mike Oldfield / Tubular Bells (Pt. I)
https://www.youtube.com/watch?v=Bnb-v9fmmCA
23:23からTubular Bells

 Mike Oldfieldの最大の成功作は1973年のTubular Bells Part1ですが、1975年のOmmadawnが最高傑作であることは、Mike Oldfieldの引退前の最終作が『Return to Ommadawn』であることからも明らかと思います。

 Ommadawnの制作中にお母さんが亡くなっています。Ommadawn part2における子供たちのコーラスの導入は、まさに『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』のGirl on a Swingの影響と言えると思います。

★Mike Oldfield / Ommadawn Pt.2 / On Horseback
https://www.youtube.com/watch?v=ICqMjrwHDhs
13:50からOn Horseback

Mike Oldfield - Boxed - 4th LP "Collaborations" (1976)
https://www.youtube.com/watch?v=PEv_OcTCcWE
4枚組Boxが未収録曲を含んでいたことを49年目に知ってびっくり。1974年〜1976年ごろのPopol Vuhの雰囲気がある。


= Soft Machine / Bundles、Mike Ratledgeへの影響 =

 そして、1975年にSoft Machineの最高傑作であるBundles、Mike Ratledgeの最終作Softsを生み出したのも、1968年のSoft Machineから1969年のKevin Ayers『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』へ変貌を遂げたときの寛容な精神ではないかと想像します。

それは、Soft Machine / 『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』がKevin Ayers、Mike Ratledgeの共作だったことや、Bundlesのジャケットデザイン、バラエティーに富んだMelodie重視の曲展開と構成に顕れていると思います。

 Kevin Ayersの初のソロアルバム『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』はHarvestから出ましたが、BundlesはSoft MachineのHarvest移籍後の第1作でもありました。

『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』と同じHarvestに移籍したSoft Machine / Bundlesにはジャケットからも癒しが溢れていた
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Soft Machine / Bundles 全曲
https://www.youtube.com/watch?v=EJE_YnIz_wE&t=1591s

★Soft Machine / Medley Bundles〜Land of the Bag Snake 1975
https://www.youtube.com/watch?v=dRa_ZHi5TTU&list=PLP0IenmeCOtz6D8fatkoebQyS0jSKcnqF&index=7


= 日本やドイツへの影響 =

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 日本では『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』と同じ1969年にタイガースを脱退した加橋かつみが「パリ1969」というソロアルバムを出したことを想起させます。まだ『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』の国内盤は出てなかったので影響はないと思いますが、加橋かつみがバンドで出せなかったプライベートな美しい楽曲からは、『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』と同じ精神を感じさせます。

加橋かつみ / パリ1969 
https://www.youtube.com/watch?v=_sCJst2Vh7g
1969年12月20日発売。特にお勧めの曲「花の世界 (0:00) 」「太陽の眼の女の子 (11:10) 」「★愛の言葉 (24:38) 」「水の輪 (30:02) 」

 『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』 は1971年に東芝から国内盤が出ており、ジャケットを含め、楽曲、曲展開など1974年の山口冨士夫 / ひまつぶしに影響を与えたと思います。 

 チャー坊「遺稿集」には、好きな音楽として、Beatles Allレコード、Rolling Stones Allレコード以外にPink Floyd Allレコード、King Crimson Allレコード (King Crimsonだけは2回も名前が出てくる)とあり、Progressive Rockにも関心があり、京都の文化のシンボルとも言われた村八分の支持者から東芝の『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』、Canなどのレコードが入手できた可能性も高いと思います。

 1974年の山口富士夫のひまつぶしも、まさに村八分時代に出せなかったタイプのポップスやフォーク風の曲も含んだパーソナルアルバムの代表例だと思います。名曲「おさらば」「泣きたい時には」は『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』のGirl on a Swingを思わせます。

 1972年8月、11月に村八分のライブに衝撃を受けた東芝の石坂敬一は、村八分を世界に伝えるため、Kevin AyersやPink Floydと同じHarvestレーベルからリリースしようとも計画しました。

★山口冨士夫 / おさらば from ひまつぶし -
https://www.youtube.com/watch?v=t7llGN9fSsE
山口冨士夫と加橋かつみは、加橋かつみが「フジオちゃーん」と呼んでセッションをしたほど仲が良かった。 


 また1972年のドイツでは、Tangerine Dream / Zeit、Klaus Schulze / Irrlichtなど世界初のダークアンビエントや、Ash Ra Tempel / Flowers Must Dieなど時代の閉そく感を極めた後に、12月にドイツで初めてWalter Wegmüller / Tarotいう遊び心を持ったレコードが制作されました。

 ドイツでは、Pink Floydと並んでSoft Machineの人気が高かったので、『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』はTarotにも影響を与えたと思います。

Walter Wegmüller / Tarot Medley Der Narr〜Der Magier
https://www.youtube.com/watch?v=eyqefTTEuDo&list=OLAK5uy_mK2tTYWP8rE7TV0qKAGqelbB0lUuFACds
Tarotの1曲目〜2曲目は、『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』の1曲目 Joy Of A Toy Continued から2曲目 Town Feelingの繋がりを想起させる。

 Der Weiseでは、ダークアンビエントIrrlichtを作った人とは思えないKlaus SchulzeのWallensteinのJürgen Dollaseの癒しのピアノをバックにした詩の朗読が聴かれます。

★Walter Wegmüller / Der Weise
https://www.youtube.com/watch?v=j7sV9byAAjY&list=OLAK5uy_mK2tTYWP8rE7TV0qKAGqelbB0lUuFACds&index=10
『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』のGirl on a Swingを思わせる佳曲。


『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』との出会いはProgのランドマークだった東芝音工の広告 (Tangerine DreamのElectronic Meditation)
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 思えば1969年はベトナム戦争の惨状を見た衝撃でKing Crimsonの1stが生まれ、Gimme Shelterを含むLet It Bleedを発表したRolling StonesのMick Jaggerも「あの時はベトナム戦争の完全な影響下にあった」と述べ、その年にブライアンジョーンズも亡くなっています。

 このような1969年に『おもちゃの歓び / Joy of a Toy』 という癒しの名盤を作ってくれたKevin Ayersに感謝したいと思います。RIP

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posted by カンカン at 07:32| 神奈川 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | イギリスのロック British Rock & Pops  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年02月20日

RIP追悼 Jamie Muir・King Crimson 〜 Larks’ Tongues In Aspic part1 Live at Bremen October 17 1972 〜 Symphonic Progに初めてFree Jazzを融合 〜 King Crimson脱退後、僧侶から画家へ 〜 1988年「音楽の夢」VHSビデオ 「Beat Club」 発売

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Beat Club Bremen収録時のKing Crimson 1972年10月17日
Jamie Muirは30歳。Robert Frippが26歳、他の3人は23歳で、精神的支柱の役割を果たし、Bill BrufordやYesの新作Tales from Topographic Oceansにも多大な影響を与えた。

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Jamie Muir of King Crimson passed away at the age of 82. He left King Crimson after recording "Larks' Tongues In Aspic" in February 1973, and spent seven years in a Buddhist monastery. He stopped music around 1990 and became a painter, drawing pictures of atomic and hydrogen bombs to appeal for peace. The live performance of King Crimson's "Beat Club" on October 17, 1972, featuring Jamie Muir, was released in Japan in 1988. It is one of the best music videos of my life. Jamie Muir was three years older than Robert Fripp and had knowledge of not only avant-garde but also classical piano and the French horn, which enabled King Crimson to beautifully fuse avant-garde with their previous symphonic prog.

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1988「Beat Club vol.7 Frontiers Of Progressive Rock」ELP、Nice、Soft Machine、King Crimson、Yes、Kraftwerk

今日の1曲
★King Crimson / Larks’ Tongues In Aspic part 1 Live
     Beat Club Bremen October 17 1972
King Crimson / Larks’ Tongues In Aspic part 1 1973
King Crimson / Larks’ Tongues In Aspic part 2 1973

 King Crimsonの名作Larks’ Tongues In Aspic期に数か月参加した伝説のJamie Muirさんが2月17日に82歳で亡くなりました。

ジェイミー・ミューア - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%A2

Jamie Muir - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Jamie_Muir

King Crimson Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/King_Crimson

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In Japan, "Larks' Tongues In Aspic" was released under the title "Sun and Terror 太陽と戦慄", which was a very clear and memorable title that matched the cover art, leading to sales success.

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When it was released in 1973, EG Management advertised it as "King Crimson's first album."

 King Crimsonは1stやRedの印象が強かったです。そのため、1974年の中学生のときに初めてLarks’ Tongues In Aspic 太陽と戦慄を聴いた頃、ラジオでも友達の間でも話題になる曲は、リフのMelodieの残るLarks’ Tongues In Aspic part 2だけでした。

その後、1988年にドイツBeat ClubのProgressive Rock特集のVHSビデオが発売され、King CrimsonのLarks’ Tongues In Aspic part 1におけるJamie Muirのライブ映像に驚愕しました。当時発売されたVHSでは、TAMI showにおけるJames BrownのOut Of Sightと並ぶ感銘を受けました。

 Beat Clubでは、Can / Paperhouse、Rare Bird / Beautiful Scarlet、ELP / Knife Edge、Deep Purple / Highway Starと並ぶ個人的にはTop5の名演、熱演だと思います。

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 特に、Jamie Muirがavant-gardeな即興演奏だけでなく、Bill Brufordに合わせてきちっとしたリズムに切り替わるときのかっこよさ、また、Pete Sinfieldの叙情性から離れたRobert Frippが、Jamie Muirの即興から影響を受けて新境地に至っていることも感じられました。一人の演奏家がグループの触媒となっている点で、Beat ClubのCan / PaperhouseにおけるDamo Suzukiと同じような役割を果たしていると思いました。

★King Crimson / Larks' Tongues in Aspic part1 Live (1972)
https://www.youtube.com/watch?v=WhudDa3JAyc
Beat Club Bremen October 17 1972

 Beat Clubこそが新生King Crimsonの初めてのライブであり、翌1973年1月、2月になってLarks’ Tongues In Aspicのレコーディングがされました。

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King Crimson - Larks' Tongues In Aspic, Part One
https://www.youtube.com/watch?v=VtxFAA0xlg8&list=PLXhfRoiJBIitfeySfg3M2JpsHofCulKv9

King Crimson - Larks' Tongues In Aspic, Part Two
https://www.youtube.com/watch?v=jX0caf1HvNs&list=PLXhfRoiJBIitfeySfg3M2JpsHofCulKv9&index=6

 年上のJamie Muirの参加は新生King Crimsonの精神的支柱となり、これは日本でも村八分に年上のドラマーが加入したことを想起させます。 1971年にはアーティスティックな方向を目指すために、カントという年上のドラム経験のない芸術家を参加させました。

 1972年には、やはり年上でドラム経験のないオリンピック強化選手だった村瀬重人を参加させました。村瀬重人はチャー坊がアメリカでヒッピーをしていた時に命を助けたという経験があり、勇気がある人ということでチャー坊が説得して村八分に加入させ、山口冨士夫がドラムスを教えました。
 これらもJamie MuirのKing Crimsonへの加入と同様に、村八分の激動期に年上の人を精神的な支柱とするために加入させたものとも考えられます。


Jamie Muir | Discogs 参加作品
https://www.discogs.com/ja/artist/252062-Jamie-Muir?superFilter=Credits

Jamie Muir, percussioni surreali alla corte dei King Crimson - Il Tamburo Parlante.it
https://iltamburoparlante.it/tamburi-solisti/jamie-muir-percussioni-king-crimson/

 Jamie MuirはLarks’ Tongues In Aspicの録音の数日後、Rainbow Concertの前に脱退し、仏教修行のため、厳格な原則に従って生活様式を追求するために修道院に入りました。

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 1980年に音楽を再開しましたが、1990年頃、音楽を引退して画家に転身しました。
 King Crimsonの1stはベトナム戦争の悲惨な映像を見たことがきっかけとされていますが、Jamie Muirさんも原水爆の絵を描くなど、仏教僧時代を通じて平和への希求が常に根底にあったのではないかと思います。

 1988年のVHSビデオ Beat Club のLarks' Tongues In Aspic part 1は、苦しかった時代の最大の「音楽の夢」の一つでした。
 ありがとうございました。Jamie Muirさんのご冥福をお祈りいたします。RIP

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 最後に、David Crossさんの素晴らしい追悼文を紹介します。

David Cross

I was saddened to hear that Jamie Muir has passed away this week.
We met in In the summer of 1972 when I went with Robert Fripp to Jamie Muir’s house near Highbury corner in North London. We were planning to record a largely improvised, trio album (perhaps loosely based on ragas) and this was our first session together. On the surface, Jamie was the perfect gentleman, polite and accommodating but there was always a playful twinkle in his eye and he was insatiably curious, searching for good things in the people he met.
His music reflected that curiosity as he constantly experimented with new timbres, textures, melodies and rhythms. He was unconstrained by geography or style and relentlessly pursued new ways of being in the musical world. He was an original thinker and he made the clearest distinction I’ve ever witnessed between rehearsal and performance. He was a highly disciplined and focused musician but as he put on his bear jacket in the dressing room he added a whole new layer, becoming Jamie the warrior-performer. In this mode he magnetised the audience (and the band) as he embarked on his nightly primal journey, reacting to everything he heard and felt with music, movement and drama. He fell from the stage, he spat blood and he battled furiously with the front of house speakers. He was the real deal, authentic and engaged in his art and his life.
I met up with Jamie a couple of times a few years later. At one time he was writing pop songs and had become an ardent advocate of clubbing which he (highly) recommended to me. After leaving King Crimson we heard that he had joined a Tibetan monastery in Scotland. Avant-garde musician, monastic meditator, ardent clubber - Jamie inhabited a bigger world than most of us can imagine.
He lived his life both inside and outside the box, always present in the moment but never constrained by the realities of others. He may have passed on, but those he touched will always remember him, as I do, with love and wonder. Farewell, Jamie.

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posted by カンカン at 09:00| 神奈川 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | イギリスのロック British Rock & Pops  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年01月30日

RIP追悼 Gianni Bianco  Circus 2000のBassist・作詞家 〜 世界初「ギタートリオ+女性Vo」による「Space Rock」 〜 1970年イタリア初の全曲英語詞のLP 〜 1971年人気番組「Teatro10」のテーマ曲 〜 1972年2つのRock Festivalで優勝 〜 Jazzの街Torinoと黒人ビート 〜 RIFI時代のMinaのイタリア初「Space Rock」からの影響 〜 German「Space Rock」Ohr Cosmic Musicとの共通性

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Circus 2000 / Gianni Bianco、Silvana Aliotta。参加40バンド中、Bancoと共に同率で1位になった「第2回 Festival di musica d'avanguardia e di nuove tendenze (June 1972)」の決勝戦。「Space Rock」の絶頂期。 


Gianni Bianco, bassist of Circus 2000, has passed away. Circus 2000 was Italian psychedelic / progressive rock group. They were born out of the Turin beat scene circa 1969 and featured outstanding female singer Silvana Aliotta. Gianni Bianco was influenced by Jaco Pastorius, and Silvana Aliotta was influenced by Caterina Valente, James Brown, Aretha Franklin, etc.
Their mix was unique in Italian rock, and even in the world, ranging from psychedelia to experimental “Space Rock”. I think their “Space Rock” has a strong influence not only from jazz but also from Mina's RIFI days in the 1960s. I also feel a commonality with the German “Space Rock” (Tangerine Dream, Ash Ra Tempel, Cosmic Jokers / Tarot, etc.) that Mina released on her own PDU in the 1970s.

Circus 2000 - Wikipedia
https://it.wikipedia.org/wiki/Circus_2000


今日の1曲
★Circus 2000 / Regalami un sabato sera
       - Live at Teatro 10 1971
★Circus 2000 / Need - Live 1972
-U Festival di musica d'avanguardia e di nuove tendenze
★Circus 2000 / Hey Man - Live at Cantagiro 1972
Circus 2000 / Circus 2000 LP 1970
Circus 2000 / An Escape From A Box LP 1972
Silvana (Silvana Aliotta) / Manie 1974
    'Long Train Running'(Doobie Brothers) Cover   
Silva Grissi (Silvana Aliotta)
       / Γιατι "Albinoni's Adagio" 1968
Mina / Addio 1965
Mina / Se telefonando 1966
Mina / Se tu non fossi qui 1966
Walter Wegmüller & Cosmic Jokers
      / Tarot- Der Magier 1973
Yuya Uchida & the Flowers / Piece Of My Heart Live 1969


 1970年にRIFIからデビューしたItalian Progressive Rockの最初期のバンドの1つCircus 2000のBassist、Gianni Biancoさんが亡くなりました。

 Italian Progressive Rockの1970年までのLPは、1967年のLe Stelle di Mario Schifano、1968年のNew Trolls、1969年の Le Orme / Ad Gloriam、Fabio Celi / Infermieri、1970年のIl Balletto di Bronzo, Gleemen, Formula Tre、Trip、Circus 2000 です。

 さらにSingleでは1970年のLeoni / Ogni Notteなどが挙げられます。また、Minaの1965年から1966年のRIFI時代の多くはItalian Progressive Rockの先駆的なサウンドを有し、さらにMilvaの1968年のCanzone、1970年のLP Milva / Canzoni di Edith PiafはSymphonic Prog Popのトータルアルバムの最初の作品といえます。

 それらの中で、Circus 2000は、女性Vo+ギタートリオの編成で、Keyboard・Synthesizer不在にも関わらず、「Space Rock」と称される音楽を創れた世界で唯一のバンドと言えます。

 その「Space Rock」と呼ばれたGroove感あるサウンドの広がりは、レコードやCDでは十分には伝わらず、躍動する演奏を捉えたライブ映像の視覚と共に体感する必要があります。それは、やはりCDだけでは真価が伝わらない裸のラリーズLes Rallizes Dénudésのライブ体験にも共通するものがあります。

 Circus 2000については、2000年代に入って初めてYoutube映像を見て初めてその真価と魅力がわかりました。

 今回は、Italian Progressive Rockの中でも異色といえるCircus 2000の「Space Rock」が生まれた背景を、Gianni Biancoのインタビューなどからも探ってみたいと思います。

 そして、Circus 2000と同じRIFIレーベルのMinaからの影響や、Minaが自身のPDUからイタリアでリリースした「Space Rock」を代表するGerman Cosmic Musicとの比較、Jazzの街Torinoなどについてもみていきたいと思います。

RIFI - Wikipedia
https://it.wikipedia.org/wiki/Ri-Fi

上:RIFIのCircus 2000の最初の「Space Rock」シングル「Regalami un sabato sera」1970年代前半を代表する音楽番組「Teatro 10」のテーマ曲 
下:Mina /2 RIFIからのMinaの作品群に「Space Rock」の萌芽が見られる
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 1964年から1967年のRIFIはMinaのためのレーベルだったと言えます。わずか4年弱のRIFIにおけるMinaの革新的・Progressive な傑作群は、空間的なアレンジが広がり、まさに「Space Rock」の萌芽と呼べる、イタリア音楽史上、最も重要な作品群の一つといえます。

 後にMinaがドイツの「Space Rock」に関心をもつだけにとどまらず、1974年にPopol Vuh / Hosianna Mantra、Ash Ra Tempel / Join Inn、Wallenstein / Cosmic Centuryなどを自身のPDUからリリースし、1975年に倒産したOhr、PilzをRolf Ulrich Kaiserから引き継いでジャケ違いのCosmic Jokers / Tarot、Tangerine Dream / Ultima Thuleまで出した謎の理由が見えてきます。

= Minaの聴覚・視覚のいずれにおいてもSpace Rock感覚を有する先駆的なRIFIの作品群の一部=

Mina / Addio (1965)
https://www.youtube.com/watch?v=cbZo3kiDI18
Minaの「voice」としての歌が生み出す空間は、Cosmic JokersにおけるKlaus SchulzeのSynthesizerと同じ役割を果たしている。

Mina / Se telefonando (1966)
https://www.youtube.com/watch?v=pTJSn8Mijbw
Ennio Morriconeによるまさに1966年では世界でも類を見ない先駆的な「Space Rock」。1973年にDieter Dierksが、Wallenstein / Cosmic CenturyでMother UniverseのSymphonic ProgをCosmic Soundに拡大、Produceしたことを想起させる。

Mina / Se tu non fossi qui (1966)
https://www.youtube.com/watch?v=E13wScXixwg
1972年のPopol Vuh / Hosianna Mantraの内宇宙の静謐さに通じるCosmic Sound。Sanremoが世界的な注目を受ける中で、1961年の審査に抗議して以来Sanremo出場を拒否したMinaは独自の内省的な音楽を創造していた。

 RIFIと契約して1970年から1972年にリリースしたCircus 2000には、特にSilvana Aliottaに対してMinaを継ぐRIFIの女性ボーカルとしての期待があったと思われます。

Silvana Aliotta - Wikipedia
https://it.wikipedia.org/wiki/Silvana_Aliotta

 Silvana Aliottaは9歳でステージに立ち、すでに1965年から7枚ものシングルをリリースしたプロシンガーで、ギリシャでは1位にもなっていました。

Silva Grissi (Silvana Aliotta) / Γιατι 1968
https://www.youtube.com/watch?v=9_iE5p11mfA
ギリシャで1位。Nico PapathanassiouのProduce。原曲はアルビノーニのアダージョ


 Circus 2000の誕生は、日本においては、1967年11月結成の日本初の女性ロックボーカリスト麻生レミのVocalを擁した内田裕也のFlowersが、1970年春にFlower Travellin’ Bandに発展したことを想起させます。

内田裕也とザ・フラワーズ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%94%B0%E8%A3%95%E4%B9%9F%E3%81%A8%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%BA

麻生レミ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E7%94%9F%E3%83%AC%E3%83%9F

Yuya Uchida & the Flowers 内田裕也とザ・フラワーズ/ Piece Of My Heart Live 1969
https://www.youtube.com/watch?v=20NFM6HiIck
5:35〜 Janis Joplin Cover Japan's first female rock vocal, 1969


〜 Circus 2000の3つのLIVE映像を体感する 〜


 Circus 2000の真価を知るには、まずLIVE映像を見るべきだと思います。

@ 1971年 RAI「Teatro10」のテーマ曲を演奏

 1971年にCircus 2000は、Minaも司会を務めた国営放送RAIの1970年代を代表する音楽娯楽番組「Teatro10」のテーマ曲を演奏した。

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Teatro 10 - Wikipedia
https://it.wikipedia.org/wiki/Teatro_10

 Teatro10は1971年4月13日が第1回放送で、Ike & Tina Turner、男性人気1位のAdriano Celentano、BoxingのSuper Star、Nino Benvenutiらが出演した。

 Circus 2000のエンディングでのライブ演奏は、Ike & Tina TurnerとAdriano Celentanoを合わせた以上の圧倒的なGroove感がある。Teatro10では、1971年4月25日のJames Brown、MinaのLa Mente Tornaと並ぶ最高の名演と言える。

 これによりCircus 2000の名前は全国に広がった。

★Circus 2000 / Regalami un sabato sera Teatro 10, edizione 1971, pre-sigla e titoli di chiusura
https://www.youtube.com/watch?v=5ILdGPh2v7k
1:29からCircus 2000。

Teatro10のGianni Bianco (Bass) とpercussionを叩きながら歌うSilvana Aliottaによる圧倒的なGroove感
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 1972年5月14日のTeatro10の最終回では、司会Minaで Delirium / Dolce Acqua with Mellotron、Premiata Forneria Marconi with Mini Moogを実演した。

Circus 2000 – Regalami un sabato sera (Single version)
https://www.youtube.com/watch?v=QwvW5-jtTqM
Teatro10のヴァージョンの方がGroove感が優れていることがわかる。



A 1972年6月「II Festival di musica d'avanguardia e di nuove tendenze – 1972」で優勝

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 Circus 2000は1972年6月1日から4日までRomaのVilla Pamphiliで開催された「Seconda edizione del Festival di musica d'avanguardia e di nuove tendenze―第2回前衛音楽と新潮流のフェスティバル」に参加し、Banco Del Mutuo Soccorsoバンコ・デル・ムトゥオ・ソッコルソと同率で第1位を獲得した。

Festival di musica d'avanguardia e di nuove tendenze - Wikipedia
https://it.wikipedia.org/wiki/Festival_di_musica_d%27avanguardia_e_di_nuove_tendenze
1971年から1974年の4年間で、主なItalian Progressive Rockはほぼ全て出演している。

 Circus 2000は決勝戦で、Silvana Aliottaの要望で急遽予定のHey ManからNeedに曲目を変更し、その判断が成功につながる。Banco Del Mutuo SoccorsoのようにSynthesizerやKeyboardがないにも関わらず、4人のアンサンブルによるGroove感によって広がりのある「Space Rock」を創り出している。演奏中、観衆は静かだったが、演奏後に大喝采が起きた。Silvana Aliottaは、このときのことが人生最高の思い出と回想している。

 Circus 2000の圧倒的なGroove感に基づく「Space Rock」は、黒人の後ろ乗りのアフタービートによって作り出されている。これはイタリア最大のJazzの街Torinoの「Swing Club」でのメンバー全員の体験からの影響であり、他のイタリアのバンドにはできない。
 ちょうど1970年〜1971年の村八分の初期において、山口冨士夫がリズム陣に対して「ジャストより少し後にずらす」ことを徹底したことを想起させる。

★CIRCUS 2000, ALAN SORRENTI, OSANNA - Festival Avanguardia e Nuove Tendenze, Roma 1972 pt. 1
https://www.youtube.com/watch?v=qrraXbPkjU4
2:05から Circus 2000 / Need。
6:20 Alan Sorrenti。1stアルバムAriaから。
9:07 Osanna。後にPalepoliのB面Animale senza respiroに収録される曲。11:18、ARP2600とMellotron?

Banco Mutuo Soccorso - R.I.P ( Live 1972)
https://www.youtube.com/watch?v=_C8fE7Eb6rA
Circus 2000と同率で1位になった決勝戦と思われる映像。こちらはCircus 2000とは対照的にダブルキーボード。

Circus 2000 – Need (Official Audio)
https://www.youtube.com/watch?v=8M6eTuaPh6U&list=OLAK5uy_nwCJmyXhXaLzouF-lHAsteYkwid4L89FM&index=4


B 1972年6月22日「Cantagiro1972」に出演

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★Circus 2000 / Hey Man - Live Cantagiro1972
https://www.youtube.com/watch?v=GaJ85vcsl54
Gianni BiancoのBassを始め、4人の全員が当時のイタリアでは飛びぬけたGroove感を有していたことがわかる演奏シーン。

Cantagiro 1972 Setlists | setlist.fm
https://www.setlist.fm/festival/1972/cantagiro-1972-43d71f27.html
当日は、Single曲ではないRDM / Io come io、Trip / Analisiも披露された。 

Circus 2000 / Hey man (Official audio) single version
https://www.youtube.com/watch?v=GcacBQbOe2g&list=OLAK5uy_nwCJmyXhXaLzouF-lHAsteYkwid4L89FM


〜 Circus 2000のSpace Rockの源流を探る 〜
  Gianni Biancoのインタビューを中心に


= 1970年 =


Circus 2000 LPとSingle
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“Circus 2000 di prossima pubblicazione dei piu forte compresso del mondo. 世界最強のバンドCircus 2000がまもなく発売”。
Canzoni per la vostra fantasia e la vostra anima. あなたの想像力と魂のための歌。”

 Intervista a Gianni Bianco dei CIRCUS 2000 | John's Classic Rock
https://classikrock.blogspot.com/2010/09/intervista-gianni-bianco-dei-circus.html

Gianni Bianco談 「 (1960年代に) 私はトリノの歴史的なグループI Kobraで演奏し、市のコンクールや地域のDavoliコンクールで優勝し、一定の人気を獲得しました。私たちはJimi Hendrix、Otis Redding、Cream、BS&Tまであらゆる音楽を演奏しましたが、ある時点で本格的に演奏する時が来たと決心しました。私は、以前歌声を聞いて忘れられなかったSilvana Aliottaのことを思い出しました。
 興行主がオーディションを通じて私たちをRiFi に紹介してくれました。」

 1970年のデビューLP「Circus 2000」では全曲が英語で、RIFIはメンバーの名前を一切記載せず、多くの人がメンバーがカリフォルニア人だと信じた。作家のヴァーノン・ジョンソンは1988年の『フラッシュバック』の中で、彼らをアメリカのサイケデリック・グループの中にさえ挙げた。

CIRCUS 2000 - SELFTITLED FULL ALBUM - 1970
https://www.youtube.com/watch?v=bZA0WufbNes

 さらに最初のLPからイタリア語版SingleのIo La Strega (I Am The Witch) / Pioggia Sottile (I Can't Believe)が発売された。

Circus 2000 / Io, la strega (Official audio)
https://www.youtube.com/watch?v=2pMCj_9SowY

 Circus 2000のGrooveは全体的に内省的で、それまでイタリアで聴かれたものとは全く異なった。ギターは時折Jimi Hendrix風、ベースは洞窟のように響き、声は若々しく活気に満ち、Try to liveではMinaのシンコペーションと弾むような声を思い起こさせた。

 サウンドは首尾一貫し、調和した雰囲気の中で、田園的・アイルランド的な音、様々な実験性、Beatles、It's a Beautiful Day、Jefferson、Grateful Deadの影響がみられる。

 まだ独創性は少ないが、勇気と斬新さを持った「Circus 2000」1stAlbumは、2年後に爆発的に高まるItalian Progressive Rockの先駆けであり、現代イタリア音楽の最高傑作のひとつといえる。

Gianni Bianco談「当時Rockのレコードはほとんどなく、ほとんどがR&BかJazzでした... それに、時間が空いた夜はTorinoの「Swing Club」で、素晴らしいJazzミュージシャンから学び、そこを通過しました。」

 Gianni BiancoとSilvana Aliottaが出会ったのも「Swing Club」だった。Torinoはイタリアでも有数のJazzの盛んな街であり、Arti e MestieriもTorinoの出身である。Arti e MestieriのArtulo Vitaleは、Torinoで伝説的なChet Bakerとも共演した。Silvana AliottaはArti e MestieriのBeppe Crovellaとも共演している。

TorinoでChet Bakerと共演したArti e MestieriのArtulo Vitale
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 近年、Torinoで国際 Jazz Festivalが開始された。

Torino Jazz Festival - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Torino_Jazz_Festival

Torino Jazz Story – Torino Jazz Festival
https://www.torinojazzfestival.it/torino-jazz-story/
Arti e Mestieri Artulo Vitale


Gianni Bianco「一つ確かにいえることは、当時のPsycho 世代はテレパシーで連絡を取りあっていたかのようだったことです。Circus 2000の新しい音楽への希求は「計画的」なものではなく「自発的に逸脱」したものでした。私たちは、PopではなくPsycho Progに属しました」


= 1971年 =
 

 Circus 2000はViareggio Pop 1971で観客を魅了し、「Regalami un sabato sera」がRAIの14回にわたった人気番組「Teatro 10」のエンディングテーマ曲として使用され、全国的に人気を高めた。

Circus 2000のエンディング曲は、共演したTina Turner、Adriano Celentanoをも超えるGroove感とクオリティーがあった。
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Ike & Tina Turner Live 13 / 3 / 1971 Teatro 10
https://www.youtube.com/watch?v=AAMJt6QQaME

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Adriano Celentano Live 13 / 3 / 1971 Teatro 10
https://www.youtube.com/watch?v=UUqvAf5tP0Y&t=450s

 Circus 2000の最後のテーマソングは、Ike & Tina Turnerの黒人音楽のGrooveとAdriano Celentanoのイタリアのカンツォーネの要素をブレンドしたものだったといえる。

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★Circus 2000 / Regalami un sabato sera Teatro 10, edizione 1971, pre-sigla e titoli di chiusura
https://www.youtube.com/watch?v=5ILdGPh2v7k
1:29からCircus 2000。


 1971年にCircus 2000は、RIFIでの2nd Album「An Escape From A Box」の制作にとりかかる。

Gianni Bianco「最初の LP では、ドラマーがI am the witchを作曲し、残りはマルチェロが作曲しました。「Try to live」の歌詞は私が書いたものです。「An escape...」の全歌詞と「Hey man」の曲も私が書いたものです。他の曲はすべてマルチェロによるもので、いくつかはスタジオで即興で作られたものです。全員が想像力を働かせて積極的にアレンジに参加しました。」


= 1972年 =


Circus 2000 / An Escape From A Box (1972)
 Japan CD 上1995年 下1991年
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内ジャケットから『2001年宇宙の旅(2001: A Space Odyssey)』 (1968年) からの影響が明らか。Tangerine DreamのEdgar FroeseもAlpha Centauri以降のSpace Rock化の際に最も影響を受けたのが「2001: A Space Odyssey」のLigetiの音楽と述べている。

 Circus 2000の2作目『An Escape From A Box』は再びRIFIからリリースされ、素晴らしいエネルギー、豊かな構成、そして目立つボーカルパートなど、当時の音楽動向にさらに合致したItalian Progressive Rockの作品となった。
 サウンドは、当時まったく新しいジャンルを形作っていたUK Progのマトリックスに沿って、より洗練され、作品は小曲による断片化が少なくなり、よりトータルな雰囲気を生み出した。


Gianni Bianco「2nd Albumが「Prog」に変わったきっかけは、ただ空気の中にあったんです…自然な進化です。Pink Floydの「Ummagumma」を聴いたことがありますか?それは 1969 年の作品でしたが、もし私たちが 1969 年または 1970 年にイタリアで同様の提案をしていたなら、レコード会社は私たちとの契約を破棄したでしょう。いずれにせよ、すべてを危険にさらしても、そのスペースを取らなければなりませんでした。そして私たちは実行しました。」

 以前イタリアで「あなたが離島に持っていくレコードBest100」のアンケートで、Pink Floydの「Ummagumma」が2位のIn the Court OF Crimson Kingを抑えて1位になっており、イタリアでの評価が高かった。

 1972年にドイツの音楽誌でも「最も好きなレコード」に、Space Rockを代表するTangerine DreamのEdgar Froeseは4位、Ash Ra TempelのHartmut Enkeは2位にPink Floydの「Ummagumma」をあげており、ここにGerman Cosmic MusicとCircus 2000の共通性が見られる。

 1960年代にRIFIでSpace Rockの萌芽を作ったMinaは、自身のレーベルPDUからドイツのSpace Rockを発売。Ohrのドイツ本国での倒産後の1976年には、Walter Wegmüller(=Cosmic Jokers) / Tarot、Cosmic Jokers / Planeten Sit-In、Tangerine Dream / Ultima Thule等のDiff Jacket、Ash Ra Tempel、Popol Vuhの独自ベスト盤、世界初となるPopol Vuh / Aguirre、Yogaまで発売した。

MinaがPDUからリリースしたSpace Rock、Tarot (下段はオリジナルOhr) 、Planeten Sit-In
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Walter Wegmüller & Cosmic Jokers / Tarot- Der Magier
https://www.youtube.com/watch?v=zluyGaTqf_A&list=OLAK5uy_mK2tTYWP8rE7TV0qKAGqelbB0lUuFACds&index=2
1:59〜 Circus 2000と異なり、このドイツの1972年12月録音のTarotでは、Space Rockを創るためにKlaus SchulzeのSynthesizerが必要だった。

Cosmic Jokers / Galactic Supermarket 2
https://www.youtube.com/watch?v=jb17f9wW4Wo&list=OLAK5uy_lJnF7aqsX4JMrX9n7PQ-Y1oV7FblP94yY&index=5
この1973年録音の曲でも3:30以降のKlaus SchulzeのSynthesizerがなければ、Space Rockにはならない。これに対し、1971年5月録音のAsh Ra Tempel / AmbossではJazz出身のKlaus SchulzeがDrumsを担当したため、ギタートリオでもSpace Rockを創れた。


 Gianni Bianco「この1972年以降の「第 2 フェーズ」は、1970年の「第 1 フェーズ」と比べて ドラマーを何度も変えたことで多少の困難は生じたものの、幸運なことに彼らは皆とても優秀で感受性が豊かで、私の成長を助けてくれました。」
 
 Gianni Bianco「幸運なことに、TV、Cantagiro、「第2回Festival delle nuove tende」と「Controcanzonissima '72」での優勝により、私たちは多くの人気と尊敬を得ることができました。」

Circus 2000がBanco Del Mutuo Soccorsoと同率で1位になった第2回Festival di musica d'avanguardia e di nuove tendenze
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Gianni Bianco「Festivalでは、体調を整えて、全身全霊でプレーする必要がありました。Festivalの雰囲気はこうでした。「私たち全員がここにいるのはただ一つの願い、平和に過ごし、美しく忘れられない一日を過ごすため」全員を一度に抱きしめることができたらいいのに。彼らがどこにいようとも、イタリアのさまざまなFestivalで足跡とたくさんの良い思い出を残してくれたことに感謝したいと思います。」



Gianni Bianco「他のグループについては、 音楽的にはTorinoのグループ (Trip, Arti e Mestieri, Processionなどがある) とだけ付き合い、心から敬意をもっています。しかし、私たちは多くのイタリアのグループ、その中でも特にAreaにも大きな敬意を抱いていました。しかし、政治的にはそうではありません。私はかつてある知識人にこう言いました。「音楽が政治的なものなので、ミュージシャンは政治化する必要はありません。」


 1972年と1973年に隆盛を極めたItalian Progressive Rockは、1974年の石油ショックと、左翼運動がRock Festivalを妨害したこと (1970年にFlower Travellin' Bandが日比谷野音で襲撃された事件を想起させる) で壊滅してしまう。

Gianni Bianco「多くの人が言うように当時は「素晴らしい時代」だったということに同意します。しかし「誰か」があらゆるレベルで全てを台無しにしようと働き、最終的にそうなってしまったのは残念です。
 結局、その波は東側も西側も幸せにすることはなかった...
 ...愛だけが世界を救うのです!」


= 1973年以降 =


 Circus 2000の解散後、Silvana Aliottaは再びソロシンガーとなり、Doobie Brothers / Long Train Runningをカバー。また1976年にはイタリアで最初期のDiscoユニットとしても活動。Circus 2000のGroove感を形成したSpace Rockの源流がSilvana Aliottaのリズム感にもあることを証明した。

Silvana / Manie (1974)
https://www.youtube.com/watch?v=2D_pIxX4rYM
Doobie Brothers / Long Train Running (Cover)

 ドラマーFranco Lo Previteは、 Duello Madreに参加。1975年には、Osanna解散後にUno、Novaを結成したElio Danna、 Danilo Rustici、Corrado RusticとNova / Blinkで合流。Circus 2000のGroove感が実力者に支えられていたことを証明した。

NOVA / Blink (1975) FULL ALBUM - Prog Rock, Fusion
https://www.youtube.com/watch?v=nkTmTT5F2nU

 Gianni Biancoさんは「Circus 2000 がイタリア音楽において果たした役割は?」という問いに対して、「たとえ、その後に氷が再び氷結されたとしても、砕氷船のそれと同じです。」と話されています。Circus 2000は、イタリアのバンドによる初の全曲英語詞による LP であり、また、数々のFestivalでのLiveでの活躍は、まさに砕氷船のようでした。

 Gianni Biancoさんが全て手掛けた英語の作詞も、Gianni BiancoさんとCircus 2000の世界に対するメッセージだったと言えます。


= Circus 2000 / Need (1972) Lyrics by Gianni Bianco =

Don't you need some sunshine as we do
Some sunshine yeah
Don't you need some friendship as we do
Some friendship yeah

Can you see the hurry here
How the people worry here
Mothers children crying all the day

Don't you need some fire as we do
Some fire yeah
Don't you need some water as we do
Some water yeah

Can you see them running there
Fighting children everywhere
Mothers drowning in their bloody tears

Gianni Biancoさんのご冥福をお祈りします。 RIP

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2024年12月31日

追悼 RIP 冬木透 ウルトラセブン Ultraseven 1967年

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ウルトラセブン Ultra Seven 最終回に使われたシューマンのピアノ協奏曲

Toru Fuyuki, composer of the second "Ultraman" series, "Ultraseven "(1967) has passed away at the age of 89.
"Ultraman" is a drama series aimed at children. However, only “Ultraseven” is an extremely philosophical drama with an inherent theme of the anti-war movement (WWII, Vietnam War), and is one of the greatest works in the history of Japanese television.
The music of “Ultraseven”, which makes extensive use of beautiful and sophisticated dissonances, is also the undeniable pinnacle of Japanese classical music and is on a different level. In my opinion, Toru Fuyuki can be called the only Japanese composer in the field of classical music who was able to create memorable melodies like those of Beethoven or Chopin. I would recommend his music to foreigners, especially Symphonic Progressive Rock fans.
Also, in the most important scene of the final episode of "Ultra Seven", Toru Fuyuki chose Robert Schumann Piano Concerto, Dinu Lipatti & Karajan (1948) as the background music.
Dinu Lipatti Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Dinu_Lipatti

今日の1曲
ウルトラセブン Ultraseven ★哀惜のバラード Ballad of Sorrow 1967
ウルトラセブン Ultraseven 平和 Peace 1967
ウルトラセブン Ultraseven ★主題歌 Opening Theme 1967
ウルトラセブン Ultraseven ★最終回 final episode BGM song 1967 / Robert Schumann Piano Concerto Allegro Affetuoso
ウルトラセブン Ultraseven ★最終回 final episode Ending 1967
交響詩「ウルトラセブン Ultra Seven」Concerto conducted by Toru Fuyuki 2020


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 ウルトラセブンの作曲家、冬木透さんが亡くなりました。1967年に開始したウルトラセブン Ultra Sevenはテレビ史上の傑作と呼べる内容で、音楽も後に交響曲として再編されるほど高度なものでした。

 作曲家の冬木透さん死去、89歳…「ウルトラセブン」「帰ってきたウルトラマン」の音楽手掛ける : 読売新聞
https://www.yomiuri.co.jp/culture/music/20241230-OYT1T50091/

冬木透(蒔田尚昊) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%94%E7%94%B0%E5%B0%9A%E6%98%8A

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ウルトラセブン - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%BB%E3%83%96%E3%83%B3

Ultraseven - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Ultraseven

Ultraseven (serie televisiva) - Wikipedia
https://it.wikipedia.org/wiki/Ultraseven_(serie_televisiva)

 私にとってウルトラセブンは、タイガースなどのGSと並んで音楽の原体験でした。日本のクラシックの作曲家の最高峰だと思います。素晴らしい音楽を振り返ってみたいと思います。

★ウルトラセブン Ultra Seven哀惜のバラードBallad of Sorrow 
https://www.youtube.com/watch?v=n-z4SRiytOs
盗まれたウルトラ・アイより

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ウルトラセブン 「盗まれたウルトラアイ」より
https://www.youtube.com/watch?v=pumqRP6Oioc
0:29のディスコでpsychedelicな演奏をするのは尾崎紀世彦の在籍したワンダースWonders。「盗まれたウルトラアイ」は1968年6月16日放送。ワンダースは歌謡曲とテレビ主題歌を主にシングルで発売したが、レコードデビューしたGSの中では唯一の3人編成であるのが昔から不思議だった。実はJimi Hendrix Experienceの影響を受けたGuru Guruのような日本では稀有のパワートリオだったことも想像できる。それを証明する貴重な映像。

ノンマルトの使者. The scene where a boy who is a messenger of Nonmalt appeals to Ultraseven to stop fighting.
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ウルトラセブン Ultraseven 平和 Peace(ダーク・ゾーン)
https://www.youtube.com/watch?v=1fXuHkFl7dQ

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★ウルトラセブン Ultraseven 主題歌 Opening Theme
https://www.youtube.com/watch?v=iCuz2D7br78

ウルトラセブン Ultraseven BGM Jazz Chorus【ワンツースリフォ・ワンツースリフォ】
https://www.youtube.com/watch?v=jCDTCurD_w4

ウルトラセブン Ultraseven BGM Prog Bolero【ホーク1号発進せよ】
https://www.youtube.com/watch?v=VM5DRSUzPTQ
2:30から


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★ウルトラセブン 最終回 Ultraseven final episode BGM song
/ Robert Schumann Piano Concerto Allegro Affetuoso
https://www.youtube.com/watch?v=uzmsDLb8MhU
使用されたシューマンのピアノの協奏曲

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★Ultraseven ウルトラセブン 最終回 final episode Ending
https://www.youtube.com/watch?v=J0OL2bO8Fgc
最終回、シューマンのピアノの協奏曲の後のシーン

 The legendary music of Ultra Seven was reconstructed as a symphonic poem and performed under the direction of Toru Fuyuki in 2020.

交響詩「ウルトラセブン Ultra Seven」Concerto conducted by Toru Fuyuki
https://www.youtube.com/watch?v=I7xBu-IqlLQ


 素晴らしい音楽をありがとうございました。
冬木透さんのご冥福をお祈り申し上げます RIP

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posted by カンカン at 15:26| 神奈川 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | クラシック Classic Music | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年12月10日

追悼 RIP アナウンサー小倉智昭 〜 Emerson, Lake and Palmerの大ファン 〜 1972年 ELP後楽園ライブ ELP's legendary Tokyo concert with 40,000 fans〜 2008年 自身の番組でKeith EmersonバンドによるELP再現ライブを実現

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ELP appeared on the popular TV show "Live Young!" in 1972
小倉智昭さんも後楽園ライブを見た1972年ELP来日時の「リブヤング」出演
翌1973年2月の「リブヤング」にキャロル、村八分が初出演した

今日の1曲
ELP / Live in Tokyo 1972
Emerson, Lake and Palmer
      / The Endless Enigma, Pt. 1 1972
Keith Emerson "The Land Of Rising Sun" 2011
Return of Emerson, Lake and Palmer 2023
Rick Wakeman Plays Trilogy
      -- Tribute to Keith Emerson 2017
Keith Emerson played ELP on TV show in Japan 2008


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ELPの熱狂的ファンでKeith Emersonのソロアルバムも全て持っていた


 明るいキャラクターとわかりやすい解説でよくテレビを見た小倉智昭さんが亡くなりました。

小倉智昭 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%80%89%E6%99%BA%E6%98%AD

 小倉智昭さんも学生時代にバンドでベースとボーカルを担当していました。また幼い頃から吃音症に悩まされ、田中角栄さんのように吃音を克服することでアナウンサーとして成功されたようでした。

 小倉智昭さんはELPの熱狂的なファンで、2008年には朝の番組に来日したKeith Emersonバンドを生出演させ、ELPの数曲のライブを実現させました。

Keith Emerson live on TV show in Japan 2008 Invited by announcer Tomoaki Ogura, big fan of ELP
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Keith Emerson played ELP medley on TV in Japan 2008
https://www.youtube.com/watch?v=Y-8oZvglkLM
Pictures At An Exhibition / Promenade 〜 Tarkus / Eruption 〜 From the Beginning 〜 Nutrocker

 小倉智昭さんは大興奮で「1972年の後楽園のELPのライブにも行きました」「ELPもソロアルバムも全部持ってます」とコレクションのCDを見せ、Keith Emersonさんも大喜びでした。

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後楽園ライブ ELP's legendary 1972 Tokyo concert with 40,000 fans
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ELP Live in Tokyo 1972
https://www.youtube.com/watch?v=rHpKEm0z3mE&t=118s
00:51 Hoedown (incomplete)
03:51 TARKUS:
----------04:15 Eruption
----------06:20 The Stones of Years
----------09:25 Iconoclast
----------10:32 Mass
----------14:27 Manticore
----------16:10 Battlefield
----------20:57 Aquatarkus
27:00 Take a Pebble Pt 1
30:55 Lucky Man
34:22 Take a Pebble Pt 2
41:25 PICTURES AT AN EXHIBITION - Pt 1
---------41:26 Promenade
---------42:49 The Gnome (Until halfway through)
44:50 〜44:58 時間切れでいったんテレビ番組を終了
    「現在20:55」、「22:35から、続きの放送をする予告」
 The TV broadcast ended due to time running out, and a rebroadcast of Part 2 was announced.
「Currently 20:55」「Rebroadcast announcement from 22:35」

(Part 2 aired late at night) (深夜に放送した第2部)
45:00 Rondo (Encore)
49:42 The end of the concert

50:05 PICTURES AT AN EXHIBITION - Pt 2 (Rebroadcast of the complete version)
----------50:10 Promenade
----------51:21 The Hut of Baba Yaga
----------59:00 The Great Gates of Kiev (with Keith's organ rape spectacle and Greg's phenomenal voice)
    1:06:24 End

 This unusual broadcast of the complete version on TV proves just how popular ELP was in Japan. Pictures At An Exhibition rose to No. 2 on the Japanese LP charts.

ELP Interview Japan 1972
https://www.youtube.com/watch?v=5_3Z0gVio24

Bottom: Korakuen Baseball Stadium (1936~1987): ELP (1972), Madonna (1987), etc. The last concert was Michael Jackson's "Bad Tour 1987 (first venue in the world)."
Top: Tokyo Dome (1988~) The first concert was Mick Jagger's "Japan Tour 1988" on March 22nd and 23rd, which I also attended.
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1972年来日記念盤Trilogy

Emerson, Lake and Palmer / The Endless Enigma, Pt. 1
https://www.youtube.com/watch?v=3O35mcfY7nE&list=PL3A3evZtalOch8JPlGg04_2oRjoYAQF9d&index=1
来日記念盤トリロジーの1曲目。

Rick Wakeman Plays Trilogy -- Tribute to Keith Emerson 2017
https://www.youtube.com/watch?v=UjlIEqLASGg

 Keith Emersonさんは2016年の来日直前に亡くなりました。東日本大震災に対してメッセージを作られました。

KEITH EMERSON "The Land Of Rising Sun" v.2「日出ずる国へ」日本語訳版 2011
https://www.youtube.com/watch?v=ABOdm2-rLlw

Keith Emerson Band Message for Billboard Live Tour 2016
https://www.youtube.com/watch?v=kcbf8qkAIfY

 Carl Palmerさんは、Keith Emersonさん、Greg Lakeさんの意志を継いで、現在もEmerson, Lake and Palmerを演奏しています。

Carl Palmerが“ELP”として来日! 最新テクノロジーで伝説のバンドが蘇る!! | ドラマガWeb
https://drumsmagazine.jp/news/elp-japan-tour/

Return of Emerson, Lake and Palmer 2023 Promo
https://www.youtube.com/watch?v=rYP7avT0aRA&t=1s

 小倉智昭さん、そして改めてKeith Emersonさん、Greg Lakeさんのご冥福をお祈りします。RIP

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posted by カンカン at 05:27| 神奈川 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | イギリスのロック British Rock & Pops  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年12月07日

追悼 RIP 中山美穂 〜 1991年7月16日発売 Rosa 〜 1985年から1990年代後半の日本のDance Pop Musicを先導

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今日の1曲

中山美穂 / Rosa 1991年7月
Azúcar Moreno / !Torero! 1991年5月

 中山美穂さんが12月6日に急逝されました。

中山美穂さん急死 前夜は午前2時半にメール「打ち上げどこにする?」の連絡も 関係者ショック(スポニチ) | 毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20241207/spp/sp0/006/030000c
≪5日にインスタ更新 美術鑑賞で「心がえぐられ…」≫
中山美穂さんは5日にインスタグラムを更新していた。東京・六本木の森美術館で開催中の「ルイーズ・ブルジョワ展」を訪れたことを報告し「2、3日心がえぐられて、一緒に行った友としか会話ができなかった。

中山美穂 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E7%BE%8E%E7%A9%82

 Wikipediaで、中山美穂さんも先月亡くなったPete Sinfieldさんと同じように幼少の頃、実のお父さんと会っていないことを知りました。

 1985年のデビューから1990年代後半まで、中山美穂さんのヒット曲の多さにはあらためて驚かされます。
 安室奈美恵さんがブレイクするまでは、中山美穂さんが日本の最先端のDance Popsを先導していたと思います。

 特に1991年、平成3年7月発売のRosaにはハッとするようなものがあり、CDシングルを買いました。しんどかった頃なので印象が深いです。
 当時世界でヒットした世界初のFlamenco House、Azúcar Morenoの影響を受けた世界最先端の音だったと思います。

 ジュリアナ東京が1991年(平成3年)5月15日に開店し、1994年(平成6年)8月31日に閉店した時代でした。

中山美穂 / Rosa歌詞付き 1991年7月リリース
https://www.youtube.com/watch?v=4ZLVyGilmwo

中山美穂 / Rosa Live(1991年9月5日)
https://www.youtube.com/watch?v=LMmGV1E--8k

Azúcar Moreno / !Torero! 1991年5月リリース
https://www.youtube.com/watch?v=zb2TdhS4sOI

バブル時代の聖地?!ジュリアナ東京跡地に行ってみた!!
https://www.youtube.com/watch?v=gpEO7Pb_lcE
4:50からが、ジュリアナ東京のエントランスがあった場所

中森明菜 中山美穂 デビュー前82年組を語る
https://www.youtube.com/watch?v=dIJBQtsAixk
6:00 中山美穂は中森明菜の大ファンだった

 2000年からは、歌から移行された俳優としての業績が素晴らしかったです。
 中山美穂さんのご冥福をお祈りします。RIP


2024年11月17日

RIP追悼・感謝 Pete Sinfield・Mellotronと詩の完全なる融合 〜 1969年 King Crimson 「Epitaph」〜 1973年 PFM 「River Of Life」

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Pete Sinfield、PFMのManticore国内盤

今日の1曲
★PFM / River Of Life 1973
Giles, Giles and Fripp / I Talk to the Wind 1968
King Crimson / I Talk to the Wind 1969
Judy Dyble / I Talk to the Wind 2006
★King Crimson / Epitaph 1969
(Including "March For No Reason" and "Tomorrow And Tomorrow")
King Crimson / Epitaph (Live at Hyde Park) 1969
★King Crimson / The Court Of The Crimson King 1969
Rolling Stones / Gimme Shelter 1969
★King Crimson / In The Wake Of Poseidon 1970
King Crimson / Lizard 1970
Tangerine Dream / Ultima Thule Part 1 1971
Tangerine Dream
/ Mysterious Semblance At The Strand Of Nightmares 1974
Focus / Le Clochard & Focus 2 1971
★King Crimson / Sailors Tale 1971
King Crimson
   / Larks' Tongues in Aspic (Beat Club Live) 1972
村八分 / あやつり人形 (三田祭 Live) 1972
PFM / Appena un po' 1972
Genesis / Watcher of the Skies Live October 1973
★PFM / Celebration 1973
★PFM / Photos Of Ghosts 1973
PFM / Il banchetto 1973
PFM / Promenade The Puzzle 1973
Pete Sinfield / Song of the Sea Goat 1973
Pete Sinfield / Under the Sky 1973
★Pete Sinfield / Still 1973
PFM / The World Became the World 1974
PFM / Just Look Away 1974
★PFM / Have Your Cake and Beat It
       望むものすべては得られない 1974


1973  PFMとPete Sinfield
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 Pete Sinfieldさんが亡くなりました。Pete Sinfieldさんが作詞、Produceした1973年のPFM / Photos Of Ghostsも人生を救われたLPの1枚です。
 もちろん、King Crimsonも何度も聴きました。

 Pete Sinfieldさんの歌詞の内容、音韻こそ、Mellotronとの完全な融合だと思います。特にPFMのAlbum「Photos Of Ghosts」は、音楽性の相違からKing Crimsonを離れた後、Pete Sinfieldさんが求めた抒情性の完成形といえます。

King Crimsonの代名詞になったMellotron MK2
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 感謝を込めてPete Sinfieldさんの作品を振り返ってみたいと思います。

※ マーク → Pete Sinfieldの担当

【1968年まで】

 1943年12月27日、Pete Sinfieldはイギリスとアイルランドの混血の祖先と自由奔放な活動家の母親に生まれる。父親とは会わず、父が早逝した松尾芭蕉と似た生い立ちだった。8歳までドイツ人家政婦に育てられ、家庭教師の指導で言葉とその使用と意味への愛を発見、あらゆる種類の文学、特に詩を読み始めた。16歳で学校を辞め旅行代理店で働き、これにより「世界を見ることができる」と信じていた。1960年代半ばからドノヴァンの影響で詩を書き始め、モロッコとスペインを漂流して数年を過ごし、1967年ザ・クリエーションを結成。メンバーの一人、Ian McDonaldはPete Sinfieldを説得し、作詞家に転向させた。

 1968年、Ian McDonaldはFairport Conventionの Judy Dyble とGiles, Giles and Frippに加入。Ian McDonaldとPete Sinfieldの曲「I Talk to the Wind」の初期バージョンを録音。Pete Sinfieldは最も好きな歌詞と述べている。

 Greg LakeがJudy Dybleの後任となり、Pete Sinfieldもほぼ同時期に加入した。

Judy Dyble / I Talk to the Wind
https://www.youtube.com/watch?v=eMQtmsKVvU4
Album " Judy Dyble /The Whorl" 2006より

Judy Dybleさんは2020年に亡くなりました。RIP


【1969年】

Pete Sinfieldが在籍した時期のKing Crimsonの国内盤
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 Pete SinfieldがKing Crimsonという名前を思いつき、トレードマークとなった幻想的な歌詞、ライトショー、アートワークやアルバムデザインなど、詳細についてアドバイスをした。バンドでのパフォーマンスは、時折のEMS VCS 3・Synthesizerの演奏に限定された。

The Story Of King Crimson (1969) 希少写真多数の映像
https://www.youtube.com/watch?v=-3O0rKb9YHs

7月5日 Rolling StonesのハイドパークコンサートにKing Crimson出演。

King Crimson / Epitaph (Live at Hyde Park 1969)
https://www.youtube.com/watch?v=-73501rlVLI

・King Crimsonキング・クリムゾン / 『クリムゾン・キングの宮殿』 In the Court of the Crimson King  ※ 歌詞、照明効果、プロデュース担当

 『クリムゾン・キングの宮殿』はロック史上の名盤。BeatlesのAbbey Roadを首位から下ろしたことが、昔は常に話題になっていた。
 Ian McDonaldがベトナム戦争の映像を見た惨状の衝撃から作られたというAlbum。1969年7月録音開始。Mick JaggerもRolling StonesのAlbum「Let It Bleed」はそのようなベトナム戦争の状況に支配されていたと述べている。

 10月10日 In the Court of the Crimson Kingリリース。

King Crimson / Epitaph (Including "March For No Reason" and "Tomorrow And Tomorrow")
https://www.youtube.com/watch?v=vXrpFxHfppI
★冒頭〜Mellotron、★1:39〜2:39最も有名な "Confusion will be my epitaph"の歌詞とMellotron

King Crimson / The Court Of The Crimson King
https://www.youtube.com/watch?v=ukgraQ-xkp4

Rolling Stones / Gimme Shelter 1969
https://www.youtube.com/watch?v=QeglgSWKSIY

1st Albumの5人 左がPete Sinfield
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【1970年】

 Ian McDonaldがKing Crimsonから脱退。Robert FrippはKing Crimsonはあなたのバンドだと言って引き留めようとした。
 In the Wake of Poseidon から、Robert FrippがMellotronを演奏。 

・King Crimson『ポセイドンのめざめ』 In the Wake of Poseidon ※歌詞、プロデュース担当

King Crimson / In The Wake Of Poseidon
https://www.youtube.com/watch?v=J1JjOpXsJ7A
★冒頭〜Epitaphをもしのぎ、Mellotron史上1位にも評価される美しいMellotron。0:41〜Greg Lakeの印象的なVocalと歌詞

 Tangerine DreamのEdgar Froeseも「In the Wake of Poseidon」を高く評価し、ドイツSounds誌でFavorite Albumの5位にしている。1971年2月にUltima Thule Part 1で初めてMellotronを使用。

Tangerine Dream / Ultima Thule Part 1 1971
https://www.youtube.com/watch?v=5N1fsblUb9U
★0:34からMellotron。同時期に録音されたAlpha Centauriでは使用されていない。

Tangerine Dream / Mysterious Semblance At The Strand Of Nightmares 1974
https://www.youtube.com/watch?v=pqHChUdb1zg&list=PLVoHLI_LXfjgQ91HU0Ik8BzF6kf8swL_h
PFM、Focusと並び、ヨーロッパのロックを世界に広めた「Phaedra」の中のSynthesizerリズムのないMellotronの曲。


・King Crimson / 『リザード』 Lizard ※歌詞、VCS3、イラスト、プロデュース担当

King Crimson / Lizard
https://www.youtube.com/watch?v=SUc8luH-I6c&list=PLXhfRoiJBIivF7WWLowP0hkPDypPtqInQ&index=5
3:17〜本アルバムで最も美しいMellotron

King CrimsonがIslands から使用したと思われるMellotron M400
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【1971年】

Islandsのアメリカツアーと思われる写真
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・King Crimson『アイランズ』Islands (1971年) ※歌詞、音響、プロデュース担当

King Crimson / Sailors Tale
https://www.youtube.com/watch?v=tWZPJTNPXQU
★4:33からMellotronの最高のサウンドが聴ける。Robert Frippの攻撃性が顕れ、次作Larks' Tongues in Aspicに繋がる。

「アイランズ」発売時の日本のKing Crimson紹介のフライヤー
左がPete Sinfield
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・2017年発売「Sailors' Tales 1970-1972」 ※ Pete Sinfield 歌詞、音響、プロデュース、ライブ・サウンド・ミックス担当。

 4月〜5月 Focus、King Crimson / 1stと並ぶMellotron史上の名盤Focus 2 (Moving Waves)を録音。Focusは、反戦ミュージカルHairのバックバンドが母体。

Focus / Le Clochard 1971
https://www.youtube.com/watch?v=IeY8ToZz0KE

Focus / Focus 2 1971
https://www.youtube.com/watch?v=ike5HEWMrX8
2:30〜Mellotron

【1972年】

最後は意見が対立したPete SinfieldとRobert Fripp
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 1月1日 Pete SinfieldがKing Crimsonを脱退。抒情的な方向を目指したPete Sinfieldは、Robert Fripp と対立するようになり、アメリカツアーの後、Robert Frippの依頼により脱退することになる。

 Robert Frippはより攻撃的な方向を目指す。

 8月 Genesis、Tony BanksがRobert Frippから購入したMellotron MK2により、Mellotron屈指の曲、Watcher of the Skiesを録音。当初、Robert Frippは売却を断ったが、Peter Gabrielが抗議して入手したもの

Genesis / Watcher of the Skies Live October 1973
https://www.youtube.com/watch?v=z5NOV0-EH0c

 10月17日 King Crimson、ドイツBeat Clubに出演しLive

King Crimson / Larks' Tongues in Aspic (Beat Club Live 1972)
https://www.youtube.com/watch?v=WhudDa3JAyc
攻撃的になったKing CrimsonにPete Sinfieldが入る隙間はなかった。

 11月23日、村八分、三田祭でLive

村八分 / あやつり人形 (三田祭 1972)
https://www.youtube.com/watch?v=wrHrsF_g0ZU
Larks' Tongues in Aspicと同時期に類似した攻撃性が感じられる。チャー坊もPete Sinfield同様、複雑な生い立ちで10代のころ最初は詩人を目指し、道路で自作の詩集を売っていたところ、有名な詩人に声をかけられて高額で購入された。
チャー坊はメモ帳で「好きなレコード」に「King Crimson全て」と記していた。

 11月、PFM、イタリアでPer Un Amicoをリリース。1月発売の1stAlbumに続いて1位になる。

1972年2月、イタリアのテレビでMellotron MK2 (上段)、Mini Moog (下段)を演奏するFlavio Premoli
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PFM / Appena un po'
https://www.youtube.com/watch?v=V852GxkYCQY&list=OLAK5uy_nGjLtSDQkUaw0YriIWeS-t6J9pf91B8to
River Of Lifeの原型。初めて聴いたときイントロの長さに驚いた。

【1973年】 

 ELPと同行していたPete SinfieldがイタリアツアーでPFMを発見し、Manticoreとの契約を結ぶ。PFMこそ、King Crimsonを離れたPete Sinfieldが目指していた抒情性を体現するバンドだったといえる。

PFMとPete Sinfieldの合同ツアー。Manticoreレーベル初回発売
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・PFM: 『幻の映像』 Photos of Ghosts (1973年) ※プロデュース、歌詞担当

 1975年10月に Photos of Ghostsを買う。1曲目River Of Lifeから完全に引き込まれた。Pete Sinfieldは、オリジナル「Per Un Amico」の音源を素材に、King Crimsonの1stのように全く独自の歌詞と音韻による世界を自由に作っていた。そのため、英語の意味がわからなくても音韻の響き、River Of Life、Celebrationというタイトルだけでも感動が伝わった。Franz Di Cioccioもオリジナルよりもよいと述べている。

 これに対し、イタリア初の英語盤がPeter Hammillの作詞によって制作されたLe Ormeの「Felona & Sorona」は、2つの「Felona e Sorona」の惑星の終焉というトータルコンセプトアルバムの制約があり、直訳に近かったため音韻まで余裕がなかったと思われる。

 また、PFM、Pete Sinfieldともう一人のProducer、Claudio Fabiの存在が大きい。Claudio Fabiは1966年、RCAのクラシック音楽部門の責任者になり、1971年にLucio Battistiが設立したレーベルNumero Unoのディレクターに就任した。PFMの前身のKrelと比較すると、Claudio Fabiのクラシックの素養がPFMのMellotronのアレンジに与えた影響は大きいと思われる。

Music Life 1973年11月号 これがPFMとの出会い 
『幻の映像』 Photos of Ghosts は11月のベストアルバム (5つ星)
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PFM / River Of Life 1973
https://www.youtube.com/watch?v=8fu7YYCtlzg
★冒頭のギター。★1:33〜急展開、
★2:06 Pete Sinfieldを最も象徴する印象的な「River Of Life」の歌詞、
★3:07〜Mellotron+Moog、★5:32〜再びMellotron+Moog

PFM / Celebration
https://www.youtube.com/watch?v=fh4zgWxQ5QM
★2:06〜美しい「Celebration」の歌詞の響きとMellotron

PFM / Photos Of Ghosts
https://www.youtube.com/watch?v=6SmBXRNKCFo
★5:04〜最も美しいBass line

PFM / Il banchetto
https://www.youtube.com/watch?v=4o8qImZy3NI&list=OLAK5uy_kxJWpy-7luIxfsrnhE5Y1w16dsjVCMMT0&index=5
★3:26〜HarpからMellotron+Moog、
4:53〜管楽器からMellotron+Moog、7:13から冒頭に展開

PFM / Promenade The Puzzle
https://www.youtube.com/watch?v=UinS-7ZE0ng&list=OLAK5uy_kxJWpy-7luIxfsrnhE5Y1w16dsjVCMMT0&index=7
3:36〜2011年の来日公演でFranz Di Cioccioがステージで踊るように演奏していた印象的なメロディー

イタリアの音楽誌で表紙になったPete SinfieldとFlavio Premoli (PFM)
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 ELPが1973年に設立したManticoreレーベルの初回発売は、PFMと並んで、Pete SinfieldのソロアルバムStillだった。イギリスでは、PFMとPete Sinfieldが合同でツアーを行う。
 ELPはPFMとBancoの実力を恐れて、共演を避けた。

PFMとの合同ツアーでPete Sinfieldのライブに出演したGreg Lake
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・Pete Sinfieldソロ・アルバム『スティル』 Still  ※ボーカル、12弦ギター、シンセサイザー、プロデュース、カバー・デザイン担当。Greg LakeがVocalで参加。

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Pete Sinfield / Song of the Sea Goat
https://www.youtube.com/watch?v=2AEvZPqwF_E&list=OLAK5uy_mIU-3ITDlST6NF6m6REFoxNb4tZl5OLwE&index=1
Synthesizerが美しい抒情曲。

Pete Sinfield / Under the Sky
https://www.youtube.com/watch?v=tW6jjhmdFHQ
後にPete Sinfieldの単行本のタイトルにもなった。

Pete Sinfield / Still
https://www.youtube.com/watch?v=4wLkS_TjZeo&list=OLAK5uy_mIU-3ITDlST6NF6m6REFoxNb4tZl5OLwE
1:15〜「Still」という歌詞からGreg Lakeに完全にVocalが移行される。4:01最も印象的だった「Beatles&Bolans」の歌詞

ELPエマーソン・レイク・アンド・パーマーの1973年〜1978年 ※歌詞担当
『恐怖の頭脳改革』 - Brain Salad Surgery (1973年) 『ELP四部作』 - Works Volume I (1977年) 『作品第2番』 - Works Volume II (1977年) 『ラヴ・ビーチ』 - Love Beach (1978年)


【1974年】

・PFM: 『甦る世界(英語盤)』 The World Became the World  ※プロデュース、歌詞担当

PFM / The World Became the World
https://www.youtube.com/watch?v=fZ8nIuq6Uak
1:20 最も印象的な歌詞とMellotron

PFM / Just Look Away
https://www.youtube.com/watch?v=GC3oOrmSLhA&list=OLAK5uy_n6qLAKWDgkh8u9VeW-b-gsJKmSJdovtuA&index=2
★3:46 Mellotronによる美しいエンディング

PFM / Have Your Cake and Beat It 望むものすべては得られない1974
https://www.youtube.com/watch?v=Al1YaFoc2Ho&list=OLAK5uy_n6qLAKWDgkh8u9VeW-b-gsJKmSJdovtuA&index=6
★4:32〜PFMの叙情派としての最後の輝き。ベトナム戦争の終結により、Pete SinfieldもMellotronも、King Crimson、PFM、Focus、Tangerine Dreamも、反戦メッセージという最初の音楽的使命を果たしたといえる。

 素晴らしい音楽をありがとうございました。
 Pete Sinfieldさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。RIP

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posted by カンカン at 09:39| 神奈川 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | イギリスのロック British Rock & Pops  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年10月25日

RIP西田敏行 〜 2003年 James Brown関連映画『ゲロッパ!Get Up!』に主演・James Brownとの共通点 = 生い立ちと反戦平和主義 〜 James Brown: 1968年 The Concert That Saved Boston ボストンを救った夜・1971年 Love Power Peace, Olympia Paris, Teatro10 Roma 〜 1981年 もしもピアノが弾けたなら 〜 虚血性心疾患の激増 = 糖尿病・糖質過剰の深刻化 〜

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James Brown : The Concert That Saved Boston 1968
西田敏行は映画『ゲロッパ!』(Get Up!)でJames Brownのダンスを演じた


今日の1曲
西田敏行 / もしもピアノが弾けたなら
      オリコン最高位週間4位 1981年度年間25位
James Brown : Love Power Peace,
     Live at the Olympia Paris March 8, 1971 1992年CD発売
James Brown : Live at Teatro 10, Roma April 24,1971
James Brown : The Concert That Saved Boston
      ボストンを救った夜 April 5, 1968

映画『ゲロッパ!』でJames Brownのステップを披露する西田敏行
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西田敏行 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%94%B0%E6%95%8F%E8%A1%8C

 俳優の西田敏行さんが亡くなりました。2003年に西田敏行さん主演の映画『ゲロッパ!』(Get Up!)をJames Brownに関連する映画とのことで興味を持って見ました。映画では、西田敏行さんがマッシュポテトなどのJames Brownのステップで踊るシーンがありました。

 映画で西田敏行さんがJames Brownの生い立ちを知って涙ぐむシーンがあったのが印象的だったのですが、WikipediaやNHKのファミリーヒストリーで、西田敏行さん自身も5歳で両親の手から離れ、James Brownと同様の生い立ちだったことを知りました。

 また、James Brownは1968年に非暴力運動のキング牧師が暗殺されたとき、テレビでメッセージとライブを放映することでアメリカでBostonだけは暴動が起きなかったという「ボストンを救った夜」のコンサートなど、音楽を通じた社会運動、反戦平和運動を行っていました。

 西田敏行さんもまた、戦争の悲惨さを体験したお母さんの話や、養子に出された叔母さんからの強い影響で、戦争を二度と起こさない反戦平和運動を行っており、ここにも西田敏行さんとJames Brownに共通点があったと知りました。
 西田敏行さんの反戦平和運動に対し、中国外務省からも追悼の意が表明されました。

James Brown: The Concert That Saved Boston ボストンを救った夜1968
https://www.youtube.com/watch?v=CbzWbcwwOwI&t=1s

Kevin White - Speech (Live at the Boston Garden, April 5th 1968)
https://www.youtube.com/watch?v=Jmrha0Kvzcs
ボストン市長のスピーチ

 そして、1968年のBostonやApollo Theaterのライブに続いてJames Brownが絶頂を極めるのが、Michael JacksonもJames Brownの最高作とする1971年のLive at the Olympia Parisです。

 それは1992年になって初めて「Love Power Peace」として発表され、衝撃を受けました。西田敏行さん追悼のために、1971年のJames Brownのライブを振り返ってみたいと思います。

= James Brown : Love Power Peace, Live at the Olympia Paris March 8, 1971 =

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1971年 James Brown / Love Power Peace, Live at the Olympia Paris
 
James Brownジェームス・ブラウン / パリParis 1971 最強のLIVE!
https://www.youtube.com/watch?v=jrh3vlc9M78
0:00 Intro
0:23 Brother Rapp
3:43 Ain't It Funky Now
7:21 Bootsy Collins Bass solo
8:24 James Brown Organ solo

James Brown / Sunny ( Live in Paris )
https://www.youtube.com/watch?v=UmoMRoqD0LI
本Liveの中でも名演の一つ。3:43のステップが最速

James Brown - Super Bad, Get Involved, Soul Power, Finale (Paris '71)
https://www.youtube.com/watch?v=otYYynR4Fao
5:50 Get Up, Get Into It, Get Involved
9:48 Soul Power 怒涛のフィナーレ

 1992年に発売されたCDの音源は、映像に残されたものとは異なっています。いずれも3月8日とされていることから、おそらく同日に午後と夜の2回の公演があったものと思われます。James Brownはコンサートの前、当日中にコンサート丸1本の激しいリハーサルをしていました。

 James Brownの自伝によると、1964年のTAMI ShowでトリのRolling StonesのMick Jaggerは、James Brownのリハーサルを見ておののき、出演の順番を変えようとしたとされています。実際にJames Brownの後、観客の興奮のためRolling Stonesはしばらく出演ができませんでした。
 Mick Jaggerは、映画『ローリングROLLING 63-89』でRolling Stonesの活動初期にJames Brownのステージアクトを徹底的に研究したと発言し、その後2014年に2本のJames Brownの伝記映画を制作しました。

James Brown / Soul Power (Live At The Olympia, Paris March 8, 1971)
https://www.youtube.com/watch?v=bvP34zW8p10&t=37s
こちらは、映像とは別の1992年にCDとして発売された音源。DVDはいまだに未発売

James Brownのテレビ放送でのライブでは世界最高傑作とも呼べるTeatro 10
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= James Brown : Live at Teatro 10, Roma April 24, 1971 =

 Parisのライブの前、James Brownはイタリアでも公演。
 特にRomaではMinaの人気音楽番組Teatro10に出演して番組史上最大の盛り上がりとなり、翌日はイタリア全土で子供たちがJames Brownの真似をしていたとの伝説があります。
 このTeatro 10は、4月24日に放映され、3月2日に収録されたと思われます。

JAMES BROWN Live at Teatro 10,Rome April 24, 1971
https://www.youtube.com/watch?v=JQ4ztL7dBKE
0:00 Give It Up Or Turn it A Loose ~ Sex Machine 
7:09 It's A Man's Man's Man's World
10:20 Soul Power
12:53 Get Up, Get Into It, Get Involved (Finale)


〜 虚血性心疾患 糖尿病・糖質過剰の問題 〜


10月8日 西田敏行さん、最後の“蛭間重勝”に寂しさにじませメッセージ『劇場版ドクターX』完成報告会見
https://www.youtube.com/watch?v=Ad84NanN_To

 10月17日の西田敏行さんの死因は虚血性心疾患でした。西田敏行さんは10月8日の映画公開の挨拶のときもお元気で、17日も仕事が入っていました。
 また、西田敏行さんは、2003年にも自宅で心筋梗塞のため倒れ緊急入院したことがありました。虚血性心疾患も心筋梗塞も大きな原因は、糖質過剰によって心臓の血管がダメージを受けるためとされています。虚血性心疾患は、世界的にも急激に数が増加しています。

虚血性心疾患 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%9A%E8%A1%80%E6%80%A7%E5%BF%83%E7%96%BE%E6%82%A3

「日本の原因疾患別死亡者数の割合と順位では、虚血性心疾患は
1954年は5位、
1955年から1957年まで4位、
1958年から1984年まで3位、
1985年から1994年まで2位、
1995年から1996年まで3位、
1997年から2018年まで2位であり、2018年度は死亡者数136万2470人のうち、虚血性心疾患による死者数は20万8221人であり[14]、死亡者総数に対する割合は15.3%である。」

 さらに、西田敏行さんは2016年に急性胆嚢炎を発症し、その大きな原因の一つは過剰なコレステロールとされています。

 フジコ・ヘミングさんもすい臓ガンで亡くなりましたが、その原因も糖尿病に関連しています。やはり、糖尿病、糖質過剰、食生活の問題は深刻になっていると言わざるをえません。

 西田敏行さんは身長166 cm、公称体重75 kgで、以前はもっと体重がありました。『池中玄太80キロ』に代表されるように、俳優としての役作りのため職業上やせることができず、糖質過剰になっていたと思われます。
 西田敏行さんの反戦平和運動などのことを思うと、本当に惜しい方を亡くしてしまったと思います。

予想しなかったヒットでAB面が逆転した「もしもピアノが弾けたなら」
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 最後に1981年の西田敏行さんの「もしもピアノが弾けたなら」です。俳優の方は普段から腹式呼吸で訓練されているので、多くの方が歌が上手だそうです。

西田敏行 / もしもピアノが弾けたなら
https://www.youtube.com/watch?v=LJQ8iLPepG8
第32回NHK紅白歌合戦(昭和56年)

 西田敏行さんのご冥福をお祈り申し上げます。


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2024年10月14日

RIP  川添象郎 Shoro Kawazoe Producer「音楽の夢 音楽の力」〜 1982年 命を救われた傑作LP「加橋かつみ / 1969パリ」と福沢幸雄 〜 1979年の奇跡「時代の最先端アルファレコード」CasiopeaとYMO 〜 2008年 ギネス記録「青山テルマ / そばにいるね」 〜 2010年「ミュージカル ヘアー HAIR 1969 TOKYO」再演で会う 〜 後藤象二郎の末裔、川添象郎さんありがとうございました

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YMO 1979 / Left to Right on B/W picture:Ryuichi Sakamoto, Yukihiro Takahashi, Shoro Kawazoe, Haruomi Hosono

Shoro Kawazoe, producer of YMO, has passed away. YMO / Behind The Mask was coverd by Eric Clapton and Michael Jackson. Shoro Kawazoe became successful as a flamenco guitarist in musical theatre in Greenwich Village and around the world in 1963. In 1969, he produced the Japanese version of the musical "Hair" in Japan. In 1970, he established Mushroom Records, Japan's first rock label. In 1979, he debuted the Japanese fusion jazz group Casiopea. Casiopea toured the world. His mother, Chieko Hara was the first Japanese classical pianist to compete in the Chopin Competition in 1937. The judging result was "Distinctions". The audience was outraged by this result, and it caused such a commotion that the police were called in. The situation was finally resolved by giving her the "Special Audience Award" as an exception. This exception has only happened once in the entire history of the Chopin Competition.


YMO(Yellow Magic Orchestra) / Technopolis(Promo Video Short ver.)1979
https://www.youtube.com/watch?v=28f6znYxFfM

Yellow Magic Orchestra - Technopolis (1979)
https://www.youtube.com/watch?v=zFADf3CW8zI

Chieko Hara / Debussy The Children's corner, Suite
https://www.youtube.com/watch?v=kH6y5l-YNiA&list=PLymfOktHPbuTdFgmqe1WXWU-EgTCl1xr3&index=5


今日の1曲
「加橋かつみ / 1969パリ」LP
YMO(Yellow Magic Orchestra) / Technopolis 1979
Chieko Hara / Debussy The Children's corner, Suite 
ザ・タイガース / モナリザの微笑 1967
加橋かつみ / 花の世界 1969
加橋かつみ / 雨上がりと僕 1969
Far East Family Band / Kokoro 1976
I Pooh / La nostra età difficile 1972
ザ・タイガース / 廃墟の鳩 1968
加橋かつみ Katsumi Kahashi / 愛は突然に… 1971
赤い鳥 / 忘れていた朝 1971
赤い鳥 / 翼をください 1971
GARO
     / 青い目のジュディSuite Judy Blue Eyes(CS&N cover)1972
GARO / 美しすぎて 1972
荒井由実 / 空と海の輝きに向けて 1972
荒井由実 / 雨の街を 1973
荒井由実 / 海を見ていた午後 1974
荒井 由実+ハイ・ファイ・セット / 卒業写真1975
小坂忠 / ほうろう1975
テンプターズ Tempters / おかあさん 1968
YMO / BEHIND THE MASK Live at GREEK THEATRE in 1979
カシオペアCasiopea / タイム・リミットTime Limit 1979
Casiopea / スペース・ロード Space Road 1979
Casiopea / Take Me 1979
Casiopea / 朝焼け (Asayake) 1979
青山テルマ feat.SoulJa / そばにいるね 2008
Spirogyra / An Everyday Consumption Song 1973 
サーカス / ミスターサマータイム 1978
Musical theatre " HAIR 1969 TOKYO LIVE " Dec. 2010


 日本の音楽の変革者の一人といえる川添象郎さんが9月8日に亡くなりました。フジコ・ヘミングさんのときと同様、たいへんなショックでしたが、心の傷も癒えてきました。

 川添象郎さんのプロデュースした加橋かつみ「パリ1969」はBeatles / Let It Beなどと並んで自分を救ってくれたレコードの1枚でした。川添象郎さんの残された作品を振り返ってみたいと思います。


= 1982年 川添象郎さんとの出会い =
  〜 命を救われた傑作LP「加橋かつみ / 1969パリ」のプロデューサー 〜


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 1979年ごろからGSに関心を持ち、タイガースの全シングルやLPヒューマン・ルネッサンスなどを聴く中で、特に加橋かつみさんとミュージカル「ヘアー」に関心を持ちました。

ザ・タイガース / 廃墟の鳩 1968
https://www.youtube.com/watch?v=AkPn7hBmU8E

ザ・タイガース / 廃墟の鳩 Live 新宿ニューACB 1969年1月26日
https://www.youtube.com/watch?v=4qb7PCIZnIc

 そして、加橋かつみさんのソロアルバムを知りましたが、ネットの無い時代に探すのは困難でした。やっと西荻窪の2階にあった店で「1969 パリParis」を5500円で発見することができました。

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CD 加橋かつみ「パリ1969」amazon通販 https://amzn.to/3BFRIsx

 聴いてみるとそれは素晴らしいSymphonic Popsでした。後に映画音楽で成功するJean-Claude Petit編曲のオーケストラでパリで録音されており、それまでの日本の音楽では聴いたことのない広がりのある音は、I PoohのAlessandraを思わせました。

I Pooh / La nostra età difficile 1972
https://www.youtube.com/watch?v=gvQU-sUGxIs

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Jean-Claude Petit - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Jean-Claude_Petit

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 このような素晴らしいLPをProduceしたのが「川添象郎 Shoro Kawazoe」という人物で、六本木のキャンティというレストランの人脈であること、加橋かつみとミュージカルヘアーを実現したこと、「廃墟の鳩」「エメラルドの伝説」の作曲者村井邦彦さんと共同でアルファレコードを設立したこと、レーサーの福沢幸雄さんとも知り合いだったことなどがわかりました。

 「1969 パリParis」の影響で私は初めて六本木に行きたいと思い、一人でDiscoで踊りながら音に集中することで、音楽人生が変わりました。その真夏に六本木の現在ドンキのある通りで加橋かつみさんと遭遇し、緊張して挨拶したのが記憶に焼き付いています。踊ったのは2か月ぐらいで六本木に行かなくなりましたが、2年後に私が六本木で一世を風靡した幻のダンサーと言われていると聞きました。
 
 1982年にはタイガースが再結成し、1983年には加橋かつみさんのコンサートにも行きました。1983年4月からは山口冨士夫さんのライブの追っかけになりました。ずっと後に、山口冨士夫さんの自伝で、加橋かつみさんとセッションをしていたことを知りました。

 1979年にデビュー前のカシオペアの無料ライブを目の前で見て衝撃を受けたのですが、川添象郎さんの力でカシオペアがアルファレコードからデビューできたことも最近わかり、感銘を受けています。

 川添象郎さんは2022年に自伝「象の記憶」を書かれ、たいへんな評判になっています。私も読ませていただきました。

 
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象の記憶 日本のポップ音楽で世界に衝撃を与えたプロデューサー | 川添象郎 |本 | 通販 | Amazon https://amzn.to/4dZWaRt

 書評「YMOで社会現象を巻き起こし、ユーミン、吉田美奈子、ハイ・ファイ・セット、佐藤博など、いま、世界でシティポップとして評価される音楽をプロデュースしてきた著者がはじめて語る、破天荒な人生。
 革命的なこと、前衛的なこと――
 曾祖父後藤象二郎は幕末の土佐、父川添浩史は1930年代のパリ、そして、末裔の象郎は1960年代の グリニッジ・ヴィレッジと、1980年代バブルと平成の日本を駆け抜けた。」

本の表紙装画 : 木村英輝 (1970年代に京都でMojo Westを主宰、村八分・山口冨士夫の最大の支援者。1971年に川添象郎、村井邦彦とマッシュルームレコードを設立)

Amazon.co.jp: CD 象の音楽 〜世界に衝撃を与えた川添象郎プロデュース作品集〜: ミュージック / 通販
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 川添象郎さんが関わった福沢幸雄、タイガース、加橋かつみ「1969パリ」、ミュージカル「ヘアー」、荒井由実 / ひこうき雲、YMO、カシオペア、、、

 今回、思い起こすと、改めて川添象郎さん、そして川添ファミリーと呼ばれた人たちに自分は救われてきたことがわかりました。

 特に命を救われたと思うほどの人生の転換のきっかけになった傑作LP「加橋かつみ / 1969パリ」のプロデューサーとして、川添象郎さんに対する感謝の念は絶えません。

 時系列に沿って川添象郎さんの音楽歴の中で思い出に残るものを振り返ってみたいと思います。


= 1838年 =
後藤象二郎 (川添象郎の曽祖父) 、土佐で生まれる。10歳で父を亡くす。
英語、航海術、海外貿易を研究し、坂本龍馬と深く交わる。
坂本龍馬談「彼は才物である。真に才物である。我は、彼の才を利用して、吾党の志望を達せん」

= 1867年 =
後藤象二郎が大政奉還建白書を提出。大政奉還。

= 1937年 =
川添象郎の母のピアニスト原智恵子が日本人で初めてショパンコンクールに出場。落選した際に警官隊が出動するほどの観衆の大混乱が起き、「特別賞」の授与で騒動が収まる。

原智恵子 Chieko Hara - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%99%BA%E6%81%B5%E5%AD%90

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= 1941年 =
川添象郎生まれる
 (父:川添浩史 本名・紫郎、旧姓・後藤。川添家の養子となる。)
 (祖父:後藤猛太郎:日活の前身・日本活動フィルムの初代社長)

= 1943年 =
福沢幸雄生まれる (曽祖父福沢諭吉)

= 1944年 =
村井邦彦生まれる。学生時代はSaxを演奏し、John Coltraneの奏法に傾倒していた。

= 1947年 =
加橋かつみ生まれる。中学時代から反核など社会運動に参加。高校時代に京都でファニーズ(タイガース前身)を結成。
細野晴臣生まれる。

= 1950年代 =
 川添象郎は、後にレーサーになりスパイダースの8人目のメンバーと言われたほど音楽通だった福沢幸雄と親交を深める。川添象郎は高校時代に両親の離婚と母原智恵子のイタリアでの再婚をニュースで知り、「僕はどうなるの」と衝撃を受ける。父川添浩史の判断で転校を繰り返す。

福沢幸雄と川添象郎
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= 1959年 =

 フラメンコギターの魅力に取りつかれた川添象郎は、舞台芸術研究のためにまだ渡航自由化の前だったアメリカに渡米。ラスベガスで働き、1960年にはニューヨークに移り、フラメンコギタリストとして過ごす。

川添象郎がプロデュースした雪村いづみ、YMO、自身のフラメンコのLP
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 外国に多くの人脈を持つ文化人だった父の川添浩史の紹介と、川添象郎の当時の(現在でも)日本人としては考えられないような行動力で、川添象郎は音楽で成功を収める。

 1964年には当時前衛芸術の拠点であった草月会館で帰国公演を行い、スペインへ渡り、フラメンコの舞踏団を結成。日本人として初のフラメンコのLPも発売。当時は川添象多郎と名乗る。

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 川添象郎の1969年以前の活動は「象の記憶」で初めて明らかにされ、本の前半の半分を占める。他でも書かれていたが、外国で芸術活動などを志す人にとっては手本となる素晴らしい本といえる。

 川添象郎自身の海外体験が、後にYMOやカシオペアの海外での成功を可能にしたことがよくわかる。

= 1967年 =

 川添浩史は、タンタンと呼ばれた有名な文化人でイタリアにも留学した川添梶子と1959年に再婚。二人は1960年に六本木にレストラン「キャンティ」を開店し、三島由紀夫など日本や世界の文化人が集う伝説的な場所となる。

 「キャンティ」は有名な作家などのみならず、Tigers、Temptersなど若い世代も集まり、川添梶子は1967年からタイガースの衣装も手掛ける。特に川添浩史と同様に母子家庭だった加橋かつみが実の父のように親しんだ。

「キャンティ」と川添梶子制作の1967年「タイガース / モナリザのほほえみ」の衣装
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ザ・タイガース / モナリザの微笑 (カラー版)
https://www.youtube.com/watch?v=dOeCpT16G4k

 ショーケンは福沢幸雄と「キャンティ」で友人になり、一緒にテスト走行を見学した際、レーサーが事故死する場面に遭遇。その時に、福沢幸雄がショーケンに「自分はもうこの仕事をやめられなくなったよ」と語り、ショーケンは背筋が凍ったと「ショーケン最終章」で回想している。

テンプターズ Tempters / おかあさん 1968
https://www.youtube.com/watch?v=0xX2qXDRFjw


= 1969年 =

 2月12日の福沢幸雄のテスト走行中の事故死をきっかけに、福沢幸雄の周りの人たちは真剣に人生を模索し始める。福沢幸雄とバンドを組む計画もあった加橋かつみは、3月5日にタイガースを失踪する事件を起こす。

福沢幸雄の葬儀に出席した川添象郎
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 その後、加橋かつみと川添象郎はフランスのパリに渡り、DalidaのBarclayレコードでLP「1969 Paris」を制作。川添浩史が若い頃パリへ遊学し、写真家ロバート・キャパとの交友などフランスに人脈があったため、Barclayと繋がりがあった。

 LP「1969 Paris」は日本初の外国で制作、録音されたレコードといえる。全曲捨て曲がない最初の日本のオリジナルアルバムとも評価できる。山口冨士夫「ひまつぶし」のような名盤。続いてその年に、TemptersもショーケンがアメリカでLP「Tempters in Memphis」を録音し、発売。

川添象郎と加橋かつみ
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 川添象郎、加橋かつみの友人村井邦彦もパリに同行し、音楽出版社アルファミュージック(初代)を設立して有名な「My Way」の権利などを買い付ける。「1969 Paris」からシングルカットされた「花の世界」「つばさ」はいずれも、加橋かつみ作詞、村井邦彦作曲。

上:村井邦彦と川添梶子 下:村井邦彦と川添象郎
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加橋かつみ / 雨上がりと僕
https://www.youtube.com/watch?v=5ejsfEM690Q&list=PLNVxSWpp1SbAi-RTjIgXI78tP4y9oC7w1&index=11
加橋かつみ作詞、かまやつひろし作曲

花の世界 Cover (加橋かつみ 1969) / Echoir (2013.3.23)
https://www.youtube.com/watch?v=EIq3p0v1Sjg

花の世界 Cover (加橋かつみ 1969) / 原田寛治ドラムス
https://www.youtube.com/watch?v=4TnyrLMea8w

 さらに、川添象郎と加橋かつみはヨーロッパ滞在中、ダリに会い、ミュージカル「ヘアー」を日本で行うことを決意して版権をとる。1969年12月に渋谷東横劇場で公演が開催。

 ヘアーには、後にGAROを結成するボーカルとマークの2人、Far East Family Bandの宮下文夫なども出演。

Far East Family Band / Kokoro 1976
https://www.youtube.com/watch?v=eyGW9y2Hmlk&list=RDEMMlnfgswwDQKLezgr-s0eDA&start_radio=1
Produced by Klaus Schulze

ブログ Le OrmeU 2010年03月27日 渋谷CamelotZ 〜 ヘアーHair 1969渋谷東横劇場 
http://soleluna.seesaa.net/article/144819440.html


= 1970年 =

 1970年、村井邦彦が川添象郎、ミッキー・カーチス、内田裕也、京都の木村英樹とともに「マッシュルーム・レコード」を設立。URCはフォークだが、こちらは日本初のロックのレーベルと言える。

 はっぴいえんどを高く評価していた川添象郎、村井邦彦が最初に力を入れた一人が小坂忠だった。細野晴臣も川添象郎を「しょうちゃん」と呼ぶほど親交を深め、荒井由実のプロジェクトにも参加。

左から細野晴臣。小坂忠 右が川添象郎
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= 1971年 =

 加橋かつみが、まだ高校生だった荒井由実の作曲したデモテープに詞を付けて、「愛は突然に」として発売。
 村井邦彦が荒井由実の才能に驚いて「作家」として契約し、拘束はせずに自由な創作活動をさせて育てる方針をとる。

加橋かつみ Katsumi Kahashi / 愛は突然に… Suddenly Our Love... (1971)
https://www.youtube.com/watch?v=MwXicEz190I

= 1972年 =

 川添象郎、村井邦彦が、アルファ&アソシエイツを設立。東芝音楽工業のリバティ・レーベルに販売を委託した赤い鳥や荒井由実、ハイ・ファイ・セット、日本コロムビアのデノン・レーベルに販売を委託したGARO、小坂忠などのアーティストを送り出す。

 ドイツで同時期に、Ohr、Cosmic CouriersがMetronomeに、PilzがBASFに販売を委託した関係に似ている。

赤い鳥 / 忘れていた朝 1971
https://www.youtube.com/watch?v=ng4mxmAC2c4

赤い鳥 / 翼をください 1971
https://www.youtube.com/watch?v=t9PDg7Rg_Zw

GAROガロ / 青い目のジュディSuite Judy Blue Eyes(CS&N cover)
https://www.youtube.com/watch?v=4jKL7g57VuA
Live 1973

ガロ (GARO) / 美しすぎて 1972年
https://www.youtube.com/watch?v=Ueg2c4hg_rQ
はじめはこの曲がA面だったが、B面の学生街の喫茶店が1973年に7週1位となり、アルファの経営を軌道に乗せる。

 1972年7月5日には、荒井由実のデビューシングル「返事はいらない /空と海の輝きに向けて」がかまやつひろしのプロデュースで発売。

ALFAの文字が入った「ひこうき雲」の初版
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荒井由実 / 空と海の輝きに向けて 1972年 弾き語り
https://www.youtube.com/watch?v=LEcBYns0Qys
荒井由実が最初に作った3曲のうちのひとつ。

= 1973年 =

 1973年11月20日荒井由実「ひこうき雲」が発売。アルファ・ミュージックが総力を上げた金字塔。返事はいらない、空と海の輝きに向けても新たに録音して収録。

荒井由実 / 雨の街を 1973
https://www.youtube.com/watch?v=X1TrMI2P-HQ
前回ブログの同年のSpirogyra / Bells, Boots and Shamblesに通じる幽玄の美も感じられる。

Spirogyra / An Everyday Consumption Song 1973
https://www.youtube.com/watch?v=Wl7Pv_EjpPY
1:18、2:58

 「ひこうき雲」については多く語られているが、ユーミン本人の回想に基づく山内マリコ (著)「すべてのことはメッセージ 小説ユーミン」が夢が感じられて素晴らしい。https://amzn.to/3YkhifH  amazon / 通販

 また、松木 直也 (著) 「アルファの伝説  音楽家 村井邦彦の時代」では「ひこうき雲」制作の過程が詳細に記述され、ユーミンが泣いて落ち込むところなど緊張感ある描写が続く。https://amzn.to/487qZkR amazon / 通販

= 1974年 =

 川添象郎は村井邦彦と共同プロデュースで、荒井由実の2ndアルバムMISSLIMを制作。ジャケット写真は川添浩史の自宅で撮影され、グランドピアノは妻の梶子のもので、ドレスは梶子が用意したイヴ・サン=ローランのものだったが、梶子は1970年に亡くなった浩史を追うように録音直前である1974年5月に他界した。

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荒井由実 / 海を見ていた午後
https://www.youtube.com/watch?v=hb8GK-f3b_s

荒井由実 / 瞳を閉じて
https://www.youtube.com/watch?v=R4DKuZA0Vfc

荒井由実 / やさしさに包まれたなら
https://www.youtube.com/watch?v=N-uCT3jGEMs


= 1975年 =

 川添象郎は村井邦彦と共同プロデュースで、荒井由実の3rdアルバムCOBALT HOURを制作。ルージュの伝言がヒット。名曲卒業写真も収録。

荒井 由実、ハイ・ファイ・セット / 卒業写真(1975年)
https://www.youtube.com/watch?v=6uUAyydCpV4

 小坂忠の最高傑作「ほうろう」が発売。村井邦彦、川添象郎が最も力を入れたアーティストの一人だったが、セールス的な成功は得られなかった。小坂忠が音楽をやめると告げたとき、村井邦彦は食器を落とすほどのショックを受ける。

小坂忠 / ほうろう 1975年
https://www.youtube.com/watch?v=nZwxIFBww44
日本のロックの最高峰の一つともいえるGroove

小坂忠 & ティン・パン・アレー / しらけちまうぜ 1975年 LIVE
https://www.youtube.com/watch?v=aKXF9zPKv8A

= 1977年 =

 川添象郎、村井邦彦がレコード会社アルファレコード(Alfa Records Inc.)を設立。ここからサーカス、カシオペア、YMOの成功で知名度も大きく上昇。Alfaのレーベルマークは、まさに日本の最先端だった。

サーカス / ミスターサマータイム 1978
https://www.youtube.com/watch?v=uGThSkzgPVo

= 1979年 =

 川添象郎は、YMOイエロー・マジック・オーケストラ / ソリッド・ステイト・サヴァイヴァーのエグゼクティブ・プロデューサーとなり、全盛期を支える。

 川添象郎も村井邦彦も当初はYMOの音楽性を理解できなかったが、それでも川添象郎は細野晴臣を信じてプッシュした。川添象郎が、YMOのアメリカでのライブが成功したビデオを日本に逆輸入してNHKで放送させ、日本の聴取者が衝撃を受けるという神業的な演出でYMOは一晩で成功した。

これは川添象郎自身が1960年代に米国や世界で音楽活動をしていた経験と人脈によってできたことであり、川添象郎がいなければYMOが世に知られることはなく、一部のマニアのみが知る音楽で終わっていた。

YMO / BEHIND THE MASK Live at GREEK THEATRE in 1979
https://www.youtube.com/watch?v=kcfJkH2gbcc
NHKで放映された伝説のライブ

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 1979年、カシオペアが川添象郎、村井邦彦の共同プロデュースでアルファレコードからデビュー。

 カシオペアは1978年ごろから情報誌「ぴあ」で話題になっていた。私はカシオペアの無料ライブを渋谷道玄坂にあったYAMAHAで最前列で見てあまりの凄さに衝撃を受け、買ったばかりのギターを弾くのを諦めた。

 カシオペアは、数々のレコード会社から音楽性の大幅な変更を要望されたことで、デビューが難航した。カシオペアへ最後に手を差し伸べたのが当時新興だったアルファレコードだったと最近知った。「音楽性は尊重するが、アルファ・レコードが指定したプロデューサーと専門スタッフの下で新たにレコーディングする」という条件でレコードデビューに漕ぎ着けた。YMOと同様、カシオペアも川添象郎がいたから世に出れたといえる。

 YMOについては川添象郎は音楽性は理解できなかったが、国内外の成功は川添象郎の演出によるものだった。カシオペアについては、川添象郎自身が超絶技巧の日本初のプロのフラメンコギター奏者であり、Led Zeppelinからはっぴいえんど、フュージョンなどのファンだったことから、音楽面でも助言、Produceしたものと思われる。

 カシオペアには、超絶技巧でアクロバティックな演奏スタイルを示した「スリル、スピード、スーパー・テクニック」というキャッチコピーが与えられた。1979年5月、日本におけるフュージョン・ブームの真っ直中、アルバムCASIOPEAでレコードデビューする。

カシオペア / タイム・リミット(Time Limit) 1979
https://www.youtube.com/watch?v=8V2JdqnDSUU
六本木Pit Inn Live

Casiopea / Time Limit
https://www.youtube.com/watch?v=Ir2_L2rNIXk
レコードでは、ホーンセクションを入れたことで、ギターのアドリブパートとの音が明確になっていた。

"Time Limit" by CASIOPEA - MASSIVE CHOPS Big Band (youtube.com)
https://www.youtube.com/watch?v=jYe-Za7Dr5o
ホーンセクションを入れたことがきっかけで、なんとイギリスでカバーされることになった。

Casiopea / スペース・ロード Space Road
https://www.youtube.com/watch?v=-yBIPfSSfik
この曲も一度聴いたら忘れないかっこよさがあった。

1979年。時代の最先端にあったアルファレコードのCasiopeaとYMO
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 続けてカシオペアは、同年1979年にSUPER FLIGHT(川添象郎、村井邦彦の共同プロデュース)を発売。代表曲となるAsayake朝焼けを収録。朝焼けはキーボードスクールで初心者用にアレンジしたものを練習して思い出深い。

Casiopea / Take Me 1979
https://www.youtube.com/watch?v=wuv0_Nx1cFc

Casiopea / 朝焼け (Asayake) 1979
https://www.youtube.com/watch?v=lLroVhaSCWo

= 2008年 =

 青山テルマ feat.SoulJa / そばにいるねが記録的なヒット。川添象郎がプロデュース、アルファレコード出身の佐藤博が編曲およびサウンド・プロデュースを担当。オリコンチャート1位を獲得した。2017年時点で、ダウンロードを含め920万ユニットで「日本で最も売れたシングル」としてギネス世界記録に認定されている。

青山テルマ feat.SoulJa / そばにいるね
https://www.youtube.com/watch?v=M80XXxMKFWw


= 2010年 =

 2010年6月2日、目黒Blues Alleyで40年ぶりとなるミュージカル「ヘアー」の再演を見る。
 開演前に、川添象郎さんが杖をついて客席を回られ、関係者の方たちと話をされていた。とても私などが話しかける勇気はなかったが、初めてお見掛けすることができてよかった。

1969年ヘアーのオリジナルパンフレット
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 ライブでは小学校の頃大ヒットしたGAROのお二人を初めて見れて懐かしかった。加橋かつみさんが最後に感極まって泣かれていたのが印象深かった。

ブログ2010年6月5日
 〜 2周年 〜 目黒Blues Alley 〜 HAIR 1969 LIVE 〜 パリParis Barclay 〜 青春のロックU 〜 Let The Sunshine In 
http://soleluna.seesaa.net/article/152287357.html 

" HAIR 1969 TOKYO LIVE " Dec. 2010 "DIGEST VERSION"
https://www.youtube.com/watch?v=DwBoA1NMeQE&t=148s
同年2010年12月の目黒Blues Alleyでのライブ

" Let The Sunshine In " HAIR 1969 Tokyo Original Cast LIVE in Dec, 2010
https://www.youtube.com/watch?v=xuGw6XZ04O0

 川添象郎さんには、1969年を中心に川添さん関連の作品の写真を送ったところ、その頃のことを「象の記憶」で書いていますとのことで、たいへん喜んで頂きました。
 特に「パリ1969」に出会わなければ、今の自分はなかったと思います。

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 素晴らしい音楽をありがとうございました。
 川添象郎さんのご冥福をお祈り申し上げます。RIP

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2024年10月05日

RIP  Martin Neil Cockerham・Spirogyra 〜 「音楽の夢」幽玄の美 1973年 Bells, Boots and Shambles(Polydor 2310 246)・William Blakeとベトナム戦争和平への静かな希求 〜 Beatles / SGT級の完成度のトータルアルバム・史上最も美しいメロディーの幻の高額レア盤 〜 ドイツBrain Recordsでの発売 / German Cosmic Musicへの影響 〜 アジア宗教への関心・タイでの客死

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音楽の夢 「Polydor 2310 246」Spirogyra / Bells, Boots and Shambles
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今日の1曲
★Spirogyra / Spiggly 1973
★Spirogyra / An Everyday Consumption Song 1973
★Spirogyra / Old Boot Wine 1973
★Spirogyra / Bells, Boots and Shambles全曲1973
Vashti Bunyan / Just Another Diamond Day 1970
Beatles / She's Leaving Home 1967
The Beatles / A Day In The Life 1967
Kestrel / Last Request 1975
Linda Hoyle / Paper Tulips 1972
Museo Rosenbach /Zarathustra 1973
久保田早紀 / 星空の少年1981
La Bottega Dell'Arte / L'Ultima Storia 1977
James Mason / Rhythm Of Life 1977
Jackson Sisters / I Believe In Miracles 1973
Djong Yun (Popol Vuh) / Ave Maria 1972
NEU! / Für Immer ("Forever") 1973
Neu! / Neu! '75
Guru Guru / Immer lustig 1972
Harmonia / Notre Dame 1975
Klaus Schulze / Timewind 1975
Ash Ra Tempel / Day Dream 1973
Ash Ra Tempel / New Age Of Earth 1976
山口冨士夫 / おさらば 1974
Tangerine Dream / Alpha Centauri 1971
Osanna / There Will Be Time 1972
★Popol Vuh / Nicht Hoch Im Himmel 1972


 Spirogyraのマーティン・コッカーハム(Martin Neil Cockerham)さんが2018年4月5日に亡くなっていたことを知ってショックを受けました。1979年に短期間だけ手に取ることができたSpirogyraのBells, Boots and Shamblesは「幽玄の美」を極めた人生で最高のLPの1枚でした。

 1970年代前半には全曲に渡って捨て曲がないアルバムが少なからず存在しました。しかし、そのようなアルバムは1976年のRiccardo Cocciante / Margherita、1977年のLocanda Delle Fate、La Bottega Dell’Arte / Dentroあたりが私にとっては最後になりました。日本では、加橋かつみ / 1969パリ、1974年に山口冨士夫 / ひまつぶしなどがありましたが、最後が1981年の久保田早紀 / 夢語りとなりました。

La Bottega Dell'Arte - L'Ultima Storia 1977
https://www.youtube.com/watch?v=cuZvI0JP3RQ&list=PLkRKApyF5AD5NGp_wXXOG1nolKs6GMYYP&index=10
最終曲の2:58からが幽玄の美

おさらば from 山口冨士夫 / ひまつぶし 1974
https://www.youtube.com/watch?v=t7llGN9fSsE
「泣きたい時には」も幽玄の世界といえる。

久保田早紀 / 星空の少年 1981
https://www.youtube.com/watch?v=oacAiVah8X4
引退コンサートの終演後に流された1stアルバムの最後の曲。日本のプロのアレンジャーが最も認める萩田光雄の編曲によるJ Pop「幽玄の美」の最高作の一つ。
  
 新しい音楽に感動がなくなっていった1970年代後半。そのころに聴いたBells, Boots and Shamblesには、前回のブログのAmon Düül II / Wolf Cityにも通じる感動がありました。

 今回、なぜこれほどショックなのか。それは、Bells, Boots and ShamblesのメロディーとBarbara Gaskinの癒しのVocalに救われたという10代の頃の記憶が甦ってきたのだと思います。それはNew Trolls / Concerto Grosso Adagioと表裏一体のような関係だった気がします。

 このようなBells, Boots and Shambles『ベルズ、ブーツ、アンド・シャンブルズ』が日本ではCDが1回発売されただけと知って驚きです。

 そこで、Martin Cockerhamさんが全曲作詞作曲した畢生の大傑作Bells, Boots and Shamblesの幽玄の美の世界を、同時代の様々な音楽と共に振り返ってみたいと思います。

Spirogyra スパイロジャイラ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%A9

ドイツBrain Recordsだけ見開きで発売された2ndアルバムの内ジャケ
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〜 「音楽の夢」 1973年 Spirogyra / Bells, Boots and Shambles 〜
           「鐘、ブーツ そして無秩序」

 Bells, Boots and Shamblesの音楽性を一言でいうのは難しいですが、マイナー調でないメジャーコードの曲でさえも陰りがある「幽玄の美」を極めた音楽だと思います。

 また、それは「無秩序・ベトナム戦争」の和平への静かな「鐘・希求」であり、それに向かう「ブーツ・あしあと」だったとも思えます。

 その精神は同時期1972年のPopol Vuh / Hosianna MantraやOsanna / There Will Be Timeに通じ、サウンド的には1973年のPopol Vuh / SeligpreisungやAsh Ra Tempel / Starring Rosiに近いと思います。

Popol Vuh / Nicht Hoch Im Himmel 1972
https://www.youtube.com/watch?v=E7lKJFy0DVs

 Bells, Boots and Shamblesは7曲全てが素晴らしく、Barbara Gaskinの高音の透き通る美声と、Martin Cockerhamのハスキーな低音の声の曲が交互で、アルバム全体のアクセントができています。

 しかし、今回はあえて「音楽の夢」として、Barbara Gaskinの歌だけの曲を選曲してみました。

 ご興味のある方は、ぜひBells, Boots and Shambles全曲を1曲目からお聞きください。

 まず、A面最後の4曲目のSpigglyと、B面の1曲目のAn Everyday Consumption Songのメドレーを紹介したいと思います。

Spirogyra / Spiggly 〜 An Everyday Consumption Songメドレー
https://www.youtube.com/watch?v=8e1LmxuU8VY
A面のラストでこの高レベル、しかも小曲。そしてレコードを返してB面の1曲から引き込まれる。45年前、この構成に感銘を受けた。

 そして、昔と異なり、今は歌詞もわかるようになりました。Spigglyは小曲でありながら、そこにはベトナム戦争に対するメッセージ、1969年のKing CrimsonのEpitaphに対する1973年のMartin Cockerhamの返答のような思いが感じられます。

= Spirogyra / Spiggly = Lyrics 対訳

Love so easy
Love so fine
Into our lives
The time we always needed
No more to strange shadow
I feel us make it
Hope we make it over

愛はこんなにも簡単
愛はこんなにも素晴らしい
私たちの人生
私たちがいつも必要としていた時間
奇妙な影はもうない
私たちは乗り越えられると感じている
きっと乗り越えられる

 Bells, Boots and ShamblesのA面の2曲目のタイトルは、2ndアルバムのタイトルであるOld Boot Wineです。これだけでもMartin Cockerhamの本作への自信が感じられます。これはシングルカットもされています。

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Spirogyra / Old Boot Wine
https://www.youtube.com/watch?v=z3a0zt44HYM
詞はWilliam Blakeの詩「無垢の予兆」(Auguries of Innocence)からインスパイアされている。OsannaのThere Will Be TimeとT. S. Eliotの関係を想起させる。

「Auguries of Innocence」
To see a World in a Grain of Sand
And a Heaven in a Wild Flower
Hold Infinity in the palm of your hand
And Eternity in an hour

ウィリアム・ブレイクWilliam Blake「無垢の予兆」の最初の四行の訳について
https://blog.goo.ne.jp/kmomoji1010/e/c06829154604b9ee56e8fdf87166b65e

Old Boot Wine : Lyrics

Don't be scared of shadows
Nasty man who lurk
Lots of rotten bullies
Pushing you around
They will never steal
What it means to feel
The wonders of being without

Where I stand it seems that existence
Is resistance to despair
Now I know my life's not been easy
But at least it has been there
Sometimes there'll be good times
Some folk can be kind
But the wind that blows inside us
Will be blind

For this time I have waited for ages
All my pages have been dry
I've been lost in the swelling of oceans
All my motions have been high
Over every molehill
Under every mile
For the essence of motion is devotion
To the wheel

Osanna / There Will Be Time (karaoke with Lyrics)
https://www.youtube.com/watch?v=8dbXWtgmkFI

Osanna / There Will Be Time (cover with Japanese Lyrics)
https://www.youtube.com/watch?v=a0ao7Ssw2po

Osanna / There Will Be Time
https://www.youtube.com/watch?v=dM5c5Vmed98

 Bells, Boots and Shamblesのメンバーは2人でありながら、旧Spirogyraのメンバーがサポートし、さらにゲストミュージシャンも名手です。さらに管楽器のアレンジを「UKトラッド・フォークの生ける伝説」と呼ばれるShirley Collinsの姉Dolly Collins(1933〜1995年)が担当しています。

Dolly Collins - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Dolly_Collins

Shirley Collins - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Shirley_Collins
シャーリー・コリンズは1935年生まれの89歳。2022年にも復活2作目となるアルバム『Heart's Ease』をリリースした。

 そしてBells, Boots and Shamblesの裏のライナーはShirley Collins の元夫で「イギリスFolkの影の立役者」とされるAustin John Marshallが担当しています。Bells, Boots and Shamblesは、実はUK Folkシーンの重鎮が総力をあげてサポートした作品だったことがわかりました。

Austin John Marshall - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Austin_John_Marshall

 Bells, Boots and Shamblesは、1973年4月にPolydorから発表されたものの売れ行きは良くありませんでした。もし、Polydorが本気で売る気であれば、ジャケットデザインなども売れ線のイラストにしたと思います。
 あえて暗いトーンのジャケットにしたことに、Martin CockerhamとPolydorスタッフ、ミュージシャンの音楽に対する本気度、凄みが伝わってきます。

 Martin Cockerhamが完全に燃え尽きたSpirogyraはこれを最後に解散し、Barbara Gaskin はその後、Hatfield And The Northの2枚のアルバムにバックコーラスで参加し、Dave Stewart & Barbara Gaskinで成功します。

 声による癒しという面において、Bells, Boots and ShamblesのBarbara Gaskinに匹敵するUK Folkは、Vashti Bunyan - Just Another Diamond Dayかと思います。

Vashti Bunyan / Just Another Diamond Day FULL ALBUM 1970 (Proto-freakfolk)
https://www.youtube.com/watch?v=2qzFwk29Q48


〜 Beatles / SGT級か、それ以上の美しさと完成度を持ったトータルアルバム
    ・ 世界史上最も美しいメロディーの幻の高額レア盤 〜

1994年のイギリス「Record Collectors Price Guide」より
Spirogyra / Bells, Boots and Shamblesはすでに275£。現在は10倍以上。
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高額レコードの最高峰の象徴 LP Beatles / Please Please Me - Gold Parlophoneは、1994年にStrereoが900£だが、Monoは175£で、Bells, Boots and Shamblesの方が高かった。
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 音楽的な質の高さで、Bells, Boots and Shamblesは、Beatlesの中期の傑作群に匹敵すると思います。

 特にトータルアルバム的な構成のため、Beatles / SGTに相似性があると思います。
 Bells, Boots and Shamblesは、Prog Rockとしても高く評価されますが、基本的にはFolkのアルバムなので、Spiggly、Old Boot Wineなどが、SGTのShe's Leaving HomeやWhite AlbumのBlack Birdなどを想起させます。

Beatles / She's Leaving Home 1967
https://www.youtube.com/watch?v=VaBPY78D88g

 また、Bells, Boots and ShamblesのラストのIn The Western Worldは4部構成の12分以上の組曲になっていて、A Day In The Lifeを想起させます。

The Beatles / A Day In The Life 1967
https://www.youtube.com/watch?v=usNsCeOV4GM


 Bells, Boots and Shamblesの多様な音楽性は、British Folkの範疇を完全に超えており、一地方の民族音楽ではなく、全世界に普遍性のある美の音楽に到達しています。

 超高額レコードの分類としては、人気アーティストのPromo盤や無名時代の初期盤などがあり、さらに純粋にプレス数が少なく十枚しか現存しないといった希少価値だけが問われるケースがあります。
 
 高額になるレコードの中に、「客観的に見てBeatlesのように音楽的クオリティーが高く、特に普遍性のあるメロディーの美しさが圧倒的でヒットしてもよかったはずなのに、なぜか発売時にほとんど売れなかったレコード」という矛盾したケースがあります。

 私が知る限りで、すぐに思いつくそのようなLPは、イギリスのKestrel、Linda Hoyle / Pieces Of Me、発売直後に回収されたイタリアのMuseo Rosenbach /Zarathustra、アメリカのJames Mason / Rhythm Of Lifeです。その中に、Bells, Boots and Shamblesは5本の指として入ると思います。

 1994年の イギリス「Record Collectors Price Guide」で、Bells, Boots and Shamblesはすでに275£と評価されていました。4ポンド以上のシングル、10ポンド以上のLPの合計85000枚以上のレコードの中で、Beatlesなどの有名バンドの超初期盤、Promo盤などを除けば、音楽的評価によって選ばれた作品としてはベスト5に入る超高額です。

 LPの中の1曲だけが名曲とか、Singleであれば、最初にRare Grooveブームを作ったJackson SistersのLPの“Miracles”など、多くのレコードが現在高額になっています。

Kestrel / Last Request 1975
https://www.youtube.com/watch?v=r6zEVYMH4xw
Bells, Boots and Shamblesに通じる構成の美学。素晴らしいメロディーが続く。

Kestrel - Take It Away 1975
https://www.youtube.com/watch?v=Ip3XdNMivk8
Mellotronなしでも素晴らしいPop Rock Music。2:26からが幽玄の美。奇抜なジャケットで購買意欲が引いてしまったのだろうか。

Linda Hoyle / Paper Tulips 1972
https://www.youtube.com/watch?v=8OBVsEiyFMU
これはBells, Boots and ShamblesのUKの幽玄の美そのもの。年代的にも一致する。Beatlesレベルのバラードで、Karl Jenkinsの最高楽曲の一つ。この曲をA面の1曲目にして、シングルカットしたら印象が変わったかもしれない。

Museo Rosenbach /Zarathustra 1973
https://www.youtube.com/watch?v=uC9hegZIC2g&list=PLn6IUYFGu6PIcMKtOTDXVOY_SoG082g2O
Ricordiの意向だったというジャケットのムッソリーニの写真のコラージュで誤解され、回収されてしまった悲運のLP。1曲目2:50の驚天動地のMellotronが注目されるが、最終曲Dell'eterno ritornoまで隙がない。

James Mason / Rhythm Of Life よりSweet Power of Your Embrace 1977
https://www.youtube.com/watch?v=ck_vDuZ3opQ&list=OLAK5uy_m2tSZZy4mcT6r_Pl95Y1FctFKvzYdWIsE
Funkでこれだけ美メロの多いアルバムは珍しい。1曲目から5曲の繋がりはArti e MestieriのTiltのA面を思わせる。7,9は速い曲。DrumsのNarada Michael Walden は1976年のNova – VimanaにPhil Collinsと共に参加しており、Italian Progressive Rockとも近似性がある。

Jackson Sisters / I Believe In Miracles 1973
https://www.youtube.com/watch?v=OQup_xXdrfw
0:58からヘッドホン大音量で。Bells, Boots and Shamblesと同じ1973年のGrooveの美。

 UKのSpirogyraは、アメリカの高セールスだったフュージョングループSpiro Gyraとは好対照といえます。


〜 SpirogyraのドイツBrain Recordsでの発売
    ・ German Cosmic Musicへの影響 〜

Brainの1024番として発売されたBells, Boots and Shamblesの裏ジャケ
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 Bells, Boots and ShamblesはWikpediaによれば、Brian Enoの環境音楽の先駆的存在とも評価されています。

 しかし、それ以上に、ほぼリアルタイムでドイツのBrain Recordsから発売されたSpirogyraは、German Electric Rockへの直接的な影響があったと思われます。

 1971年半ば、Rolf Ulrich KaiserのOhrでのマネジメント・スタイルに反対するBruno Wendel、Günter KörberがOhrを去り、自分たちのレコード会社Brain Recordsを設立しました。そして、1番のレコードとしてScorpionsをデビューさせ、OhrからGuru Guruが移籍して名盤Känguruがブレイン初のヒット作となりました。

Guru Guru / Immer lustig 1972
https://www.youtube.com/watch?v=qQI_VKKG4MI
Känguruの2曲目。冒頭でインパクト。6:00から9:30の鳥の効果音までギターによる幽玄の美。Ash Ra TempelのInventions for Electric Guitarの先駆者。

 そして、驚くべきことにBrainは初のUKバンドとしてSpirogyraと契約し、Caravan、Atomic Roosterより先に発売。さらに、レコード会社の異なるSpirogyraの3枚全てのLPを発売しました。

 さらに驚くことに、Spirogyraの1st、2ndアルバムはドイツではイギリスと異なり見開きジャケットでリリース。1stに至っては、既にドイツのPolydorで1971年にシングルジャケで発売していたにもかかわらず、内ジャケにオリジナルのイラストを付して翌1972年に再発しています。

 日本でも同時期に東芝がTangerine Dream / Alpha Centauriにイメージイラストを封入しましたが、ベスト盤以外で、シングルジャケを見開きにして内側にイラストをつけるのは見たことがありません。Brain RecordsとMartin Cockerhamが本気でドイツで売り出そうとしたことが想像できます。

ドイツBrain盤だけ付されたSpirogyra / 1stアルバムの内ジャケのイラスト
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 Brain Recordsの経済事情は悪く、Scorpionsの1stは予算の関係で1週間しかConny Plankのスタジオが使えず、Neu! 2に至っては、Für Immer1曲だけで予算をオーバーしたため、既存のシングル盤の回転速度を変えてLPのB面全部を埋めた有名な話があります。

 Brain RecordsはOhrと異なり、経営安定のためライセンス料が低くて音楽的な質の高いUKのバンドを研究したと思われます。Spirogyraの3枚のアルバムが後世で高く評価されたことからも、Brain Recordsには先見の明があったといえます。

 Spirogyraに対してBrain Recordsのドイツ人のスタッフがこれだけ関心を持っていたことは、当然ドイツのミュージシャンに対する影響も大きかったことが予想されます。

 特にSpirogyra / Bells, Boots and Shamblesの音楽性は、Popol Vuhの同時期の1972年のHosianna Mantra、1973年のSeligpreisungに類似しているといえます。

Djong Yun (Popol Vuh) / Ave Maria 1972年
https://www.youtube.com/watch?v=P2p7LJYT3FY
Hosianna Mantra期に、Popol Vuhの全面参加で制作された幻のシングル。女性ボーカルと管楽器にBells, Boots and Shamblesとの近似性。Martin CockerhamとFlorian Frickeは宗教に関心があり、同じような音楽観があったように思える。

Popol Vuh - Tanz Der Chassidim 
https://www.youtube.com/watch?v=ZOLvFQJ1jB4
Seligpreisung (1973)より。このアルバムも管楽器が活躍。

 逆に、Amon Düül II、Canを発売していたイギリスのUAレーベルは、Brain RecordsからNeu!だけ1本釣りで契約し、3枚のLPを発売。Neu!の1stは3万枚を売り上げ、私もUA盤を買うことができました。

「まだドイツ盤なら手に入る」という1975年の雑誌広告。日本にもSpirogyra / Bells, Boots and Shamblesなど、Brain Recordsのドイツ盤が輸入された。
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= Brain Records Discography =

1001 – Scorpions – Lonesome Crow 1972年
1004 – Neu! – Neu!
1005 – Spirogyra – St. Radigunds – licensed release (UK: B & C, 1042) 
1006 – Cluster – Cluster II
1007 – Guru Guru – Känguru
1010 – Caravan – Waterloo Lily – licensed release (UK: Deram, SDL 8)
1011 – Atomic Rooster – Made in England – licensed release (UK: Dawn, DNLS 3038)
1012 – Spirogyra – Old Boot Wine – licensed release (UK: Pegasus, 13)
1024 – Spirogyra – Bells, Boots and Shambles – licensed release (UK: Polydor, 2310 246)
1025 – Guru Guru – Guru Guru
1028 – Neu! – Neu! 2
1062 – Neu! – Neu 75
1073 – Harmonia – De Luxe
1075 – Klaus Schulze – Time Wind (イギリスではCaroline廉価盤、フランスでは年間ディスク大賞を受賞)
1082 – Tangerine Dream – Alpha Centauri/Atem (2LP) – reissue (Ohr, OMM56012 & OMM556031)

 Neu!、Harmoniaのメンバーや、Ohrから移籍したKlaus Schulze、Novalisなどが、Brainのスタッフを通してSpirogyra / Bells, Boots and Shamblesを聴く機会はあったと思われます。

 SpirogyraはBrain Recordが最初に発売したUKバンドであり、ドイツのバンドに与えたBells, Boots and Shambles等からの影響は大きいと思われます。Brain RecordのGerman Electric Rockの中で、Bells, Boots and Shamblesに比肩しうる「幽玄の美」の作品を振り返ってみたいと思います。

 なおBrain Recordsは、Spirogyraの1st、2ndをダブルジャケットに改変しましたが、Bells, Boots and Shamblesはオリジナルに忠実にシングルジャケットで発売しています。これは、その高い音楽性とジャケットの関連性を尊重して判断した結果と思われます。

Spirogyraからの影響を受けた可能性のあるBrain Recordsの「幽玄の美」を持つ作品群
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NEU! / Für Immer ("Forever") 1973
https://www.youtube.com/watch?v=-tnLLkct-_s
冒頭から3:00までMozartを愛したKlaus DingerとMichael Rotherの幽玄の美。日本の三味線も使用。

Neu! - Neu! '75 (full album)
https://www.youtube.com/watch?v=GT0f1Tw3YXM&t=621s
6曲に渡ってBells, Boots and Shamblesに通じるメロディー重視の音楽性が貫かれている。A面の特に12:00で切れ目なくSeelandから幽玄のLeb' Wohlに続く。B面のKlaus DingerサイドではDavid BowieにHeroesを作らせたと言われるHeroが1曲目。

Harmonia / Notre Dame 1975
https://www.youtube.com/watch?v=mDLRsKh-3o0
Deluxeで最も美しい曲

Klaus Schulze / Timewind 全曲 1975
https://www.youtube.com/watch?v=qBn0Jnf7_3M&t=146s
60分に渡ってBells, Boots and Shamblesのような幽玄の美のメロディーが貫かれている。A面の最後の衝撃的なカタストロフはA Day In The Lifeの影響といえる。

Tangerine Dream / Alpha Centauri 1971
https://www.youtube.com/watch?v=BAuWKOBWNu4
特に16:25の鐘の音からラストまでが幽玄の美といえる

 Bells, Boots and Shamblesは、Barbara GaskinとMartin Cockerhamの2人のアルバムであることを強調し、Spirogyraの旧メンバーはサポートに留めています。

 これは、Ash Ra Tempelの1973年のStarring Rosiや、1976年のNew Age Of Earthの初回フランスIsadora盤でのRosiとManuel Göttschingの写真やサウンドを想起させます。

Ash Ra Tempel / Day dream 1973
https://www.youtube.com/watch?v=J6IC5zHg6Ck&list=PLwtrklfAoEcjGtz1Ayi9ITFVbU1fukCq5&index=2
RosiのVoiceとManuel Göttschingの低音Voiceのデュオは、米国サイケデリックの影響という点でBells, Boots and Shamblesと時期的にも類似性がある。

右:Ash Ra Tempelの1stのA面と並ぶ最高傑作 New Age Of Earthの3rdジャケット。RosiがManuel Göttschingの創造力の源泉だったことが強調された。
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Ash Ra Tempel / New Age Of Earth
https://www.youtube.com/watch?v=spYdojTH25I
特に12:36 Ocean Of Tenderness、21:52 Nightdustは、Bells, Boots and Shamblesの幽玄の美に通じる。中でも37:20〜42:30はKlaus Schulze / Timewindと並ぶGerman Electric Rockの極点の一つと言える。


 Martin Cockerhamさんはアジアの哲学、宗教に関心を持たれ、最後はタイで亡くなられています。
 
Bells, Boots and ShamblesのMartin Cockerhamの最後のメッセージ
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”There is a level of removal which doesn't run away into space.
History is filled with religious, political or social escape movements.
But there is another way and if absorbed completely it can transcend death.”

Spirogyra / Bells, Boots and Shambles 全曲
https://www.youtube.com/watch?v=W0gbhjJNJ9Q
1979年に癒しを与えてくれた救いの思い出の瞬間 3:30  9:11 10:45 13:09 14:45 17:39 19:01 21:25 21:49 27:03 38:02

 混迷のベトナム戦争時代を生きたMartin Cockerhamさんの精神は、Bells, Boots and Shamblesを通して、現代にも受け継がれていると思います。

 Bells, Boots and Shamblesの「Polydor – 2310 246」ナンバーは永遠の憧れといえます。 

 素晴らしい音楽をありがとうございました。Martin Cockerhamさんのご冥福をお祈りいたします。RIP

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posted by カンカン at 15:12| 神奈川 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | イギリスのロック British Rock & Pops  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年09月19日

RIP Olaf Kübler オラフ・キュブラー・「音楽の夢」"UA machine" German Progressive Rock初のProducer 〜1969年 Amon Düül II デビュー 〜 1972年 Amon Düül II / Deutsch Nepalの作者 〜 1975年 Popol Vuh / Einsjäger & SiebenjägerにFluteで参加

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1972年6月London公演 左からRenate Knaup、Olaf Kübler、Chris Karrer


今日の1曲
Amon Düül II / Wolf City 全曲 1972
Popol Vuh / Würfelspiel 1975
Amon Düül II Spielt Phallus Dei 1968
Popul Vuh / Affenstunde 1970
Amon Düül II / Chamsin: The Marilyn Monroe-Meomorial-Church
Utopia(Amon Düül II ) / Alice 1973
Can / Red Hot Indians 1975
Olaf Kübler / Soulin 1967
Amon Düül II / Kanaan 1969
Tangerine Dream / Journey Through a Burning Brain1970
Amon Düül II / Eye Shaking King (1970) Beat Club

 1月のChris Karrerさんに続いて、Amon Düül IIのProducer、オラフ・キュブラーOlaf Küblerさんが87歳で亡くなりました。

Olaf Kübler Biografie
http://www.olafkuebler.de/html/olaf_biografie.htm

 Amon Düül IIのRenate Knaupさんは、追悼文に「Thank you for trust in us」と記されています。その言葉から、1960年代までほとんど不毛だったと言われるドイツの音楽シーンにおいて、1969年に突然、Amon Düül IIのような先進的な音楽をOlaf Küblerさんが世に出したことが、いかに特別なことだったかがわかりました。

 Olaf KüblerさんがいなければAmon Düül IIの成功はなく、それに続く1970年のOhr、1971年のPilz、1972年のBrain、1973年のCosmic CouriersなどGerman Rockの「音楽の夢」も、あと1歩の遅れで世に出なかったバンド、作品が多かったのかもしれません。

 そこでOlaf Küblerさんについて、もう一度振り返ってみたいと思います。


〜  オラフ・キュブラー Olaf Küblerさんとの出会い 〜
   
= 1975年10月購入 = 大傑作 Amon Düül II / Wolf City

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 14歳の時に買った1972年作Amon Düül II / Wolf Cityは全曲が素晴らしく、今までに聴いた最も優れたアルバムの1枚でした。Renate Knaupもバンド自身が認める最高傑作と言っています。

 1972年の作品では、Yes / Close To The Edgeが世界の頂点で、Wolf Cityはそれに次いでトップ5に入るアルバムだと思います。

 1972年の他の傑作には、Deep Purple / Machine Head、Genesis / Foxtrotがありますが、凄い曲とそうでない曲の落差があります。しかし、 Wolf Cityは、Close To The Edge、Popol Vuh / Hosianna Mantra、Le Orme / Uomo Di Pezza、PFM / Per Un Amicoなどのように最後まで良曲が続きます。

 Amon Düül IIは、1972年5月にイタリアのVilla Pamphili Festivalでヘッドライナーとなり、美しい旋律のItalian Progressive Rockとの邂逅で、ドイツクラシックの伝統に目覚め、続く6月のイギリスツアーで成功した後に、Wolf Cityを録音ました。

 German Electric RockとItalian Progressive Rock、British Rockの最良の部分が融合したものがWolf Cityといえます。

 特にWolf CityのGerman Rock全体への影響について、Chris Karrerさんの追悼のときにも詳しく書きましたので、こちらのブログをご覧ください。

2024年1月17日 ブログ 「RIP 追悼 Chris Karrer クリス・カーレル・Amon Düül II アモン・デュールU 〜 1972年 メンバーが認める最高傑作 Wolf City 「狼の町」 http://soleluna.seesaa.net/article/502086577.html

Amon Düül II / Wolf City全曲
Surrounded by the Stars から
https://www.youtube.com/watch?v=scWD73Og0kQ&list=OLAK5uy_l9Y5Hg95UHPT7U3-QrvSY0F9bAhiSd1G8

Wolf City Producer:Olaf Kübler、Amon Düül II
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 特にWolf Cityの中で、Olaf KüblerがProduce以外で参加した曲を振り返ってみたいと思います。

 中近東風のWie Der Wind Am Ende Einer Strasseでは、Olaf Küblerは本業の素晴らしいSoprano Saxで参加しています。

Amon Düül II / Wie Der Wind Am Ende Einer Strasse
https://www.youtube.com/watch?v=sYX2OQtmZbU
Guru GuruのMani Neumeierも来日ライブの時にSEで使用。

 有名なトーキングボイスの曲Deutsch Nepalでは、Lother MeidとともにOlaf Küblerが作者にクレジットされています。Walter Wegmüller / Tarotにも影響を与えたと思われます。

Amon Düül II / Deutsch Nepal
https://www.youtube.com/watch?v=isyIixbKbmI

 またJail-House Frog では、Olaf KüblerがVocalで参加しており、Amon Düül IIとのチームワークを感じさせます。

Amon Düül II / Jail-House Frog
https://www.youtube.com/watch?v=g-6PuzqoNYQ&list=OLAK5uy_l9Y5Hg95UHPT7U3-QrvSY0F9bAhiSd1G8&index=3

 Wolf Cityは7曲とも素晴らしい楽曲ですが、ダモ鈴木も「イギリス寄りになった」と評しています。その中で、B面の中間の2曲Wie Der Wind Am Ende Einer Strasse、Deutsch Nepalはイギリスから離れた強烈なアクセントとなって、全体を引き締めていると思います。

 Producerだけでなく、ミュージシャンでもあったOlaf KüblerがWolf Cityを大傑作にした功績は大きいと言えます。

 また、Amon Düül IIの「U」というバンド名は、間章のTangerine Dream / Phaedraの解説で初めて見たときからたいへんなインパクトがありました。それは、当ブログ名のLe Orme「U」にも影響しています。

 音楽的な志向が強いグループが「U」としてAmon Düül から脱退したというエピソードも強い印象を残しました。その音楽的な志向を支えたのがOlaf Küblerだったと言えます。


= 1976年1月8日購入 = Tangerine Dream / Electronic Meditationの解説文

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 Tangerine Dream / Electronic Meditationをボーリング場のあるビルのスポーツ店の奥にあったレコード店で買いました。当時は、Journey Through A Burning Brainの凄さがわからなかったので、印象はあまりなかったLPでしたが、解説に書かれていたOlaf Küblerの記述で、彼のすごさがわかりました。

Tangerine Dream / Journey Through a Burning Brain 1969年録音。1970年発売。
https://www.youtube.com/watch?v=V6V0PpUR_dA&list=OLAK5uy_nQZZuCKIjf7hp20J1lL-ssUkr6_EanEZg
7:50からKlaus SchulzeとEdgar Froeseが炸裂。ヘッドホン大音量で。

 ドイツでは、1970年にRolf Ulrich KaiserのOhrができる前は、Olaf Kübler等のミュンヘンのUA machineしかProgressive Rockを出していなかったことがわかりました。
 

= 1976年8月3日購入 = 傑作 Popol Vuh / Einsjäger & Siebenjäger
        WürfelspielでのOlaf Küblerの美しいFlute

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 1976年8月2日にWallenstein / Cosmic Centuryに衝撃を受け、翌日5枚のGerman Electric RockのLPを買いました。その中で、最高だったのがPopol Vuh / Einsjäger Und Siebenjägerでした。Cosmic Century同様、全曲捨て曲がない中で、Würfelspiel の1曲だけゲストとしてOlaf Küblerが素晴らしいFluteで参加。

 Olaf Küblerは凄い人だという印象が、さらに深まりました。

 Amon Düül II / Wolf CityのDanielがPopol Vuhに移籍したこともわかり、Amon Düül II、Popol Vuhを中核とするMünchenの音楽シーンの重要性を知りました。

Popol Vuh / Würfelspiel
https://www.youtube.com/watch?v=8ZV5Bf2guJ4&list=OLAK5uy_kl8jHjlGbjZiYkDvFfHzMnoLbINcfpuoI&index=4



〜 Olaf KüblerさんとAmon Düül 、Amon Düül II初期を振り返る 〜


 それでは1967年から1975年まで、Ohr、Pilz、Cosmic Couriers以前のAmon Düül II、UA machineを中心とする初期German Electric Rockを振り返ってみたいと思います。


= 1967年 =

Amon Düül がMünchenミュンヘンを拠点とするアーティストたちの急進的な政治芸術コミューンとして始まる。コミューンは、芸術的能力よりも熱意と態度を重視していたため、バンドのメンバーは流動的だった。

= 1968年 =

German Electric Rockの起点となったInternationale Essener Songtage
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15時 Peter Brotzmann、Amon Düül 、Guru Guru Groove、Tangerine Dreamの名がある
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 1968年、サイケデリック・ムーブメントの波を受けて、西ドイツの各地にクラブが続々とオープンし、アーティストたちを育む土壌となった。

 9月、西ドイツ初のロック・フェスティバル「Internationale Essener Songtageエッセン・ソングターゲ」がRolf Ulrich Kaiserによって開かれ、Amon Düül 、Tangerine Dream、Guru Guruらが出演した。このイベントがGerman Electric Rockが誕生した瞬間であった。

Amon Düül
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Amon Düül II
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「Internationale Essener Songtage」に出演する直前、プロ・ミュージシャン指向のChris KarrerほかがAmon Düül から離脱し、新たに「Amon Düül II」を結成した。ドラマーのピーター・レオポルドの提案により、「Amon Düül」と「Amon Düül II」の2つのグループとして演奏したという情報もある。

ふたつのグループは分裂後も交流を続け、アルバム制作などで協力している。

※ 裸のラリーズLes Rallizes DénudésとAmon Düül の共通・類似性 ※

 裸のラリーズもMünchenのように伝統的かつ先鋭的な文化都市京都で1967年に結成。
 Amon Düül とは逆に、オリジナルメンバーが1968年に政治的活動に専念するため離脱し、1970年2月によど号ハイジャック事件を起こす。
 1970年9月には、音楽性の違いから、一つのイベントに水谷孝の「裸のラリーズ」とチャー坊・山口冨士夫中心の「裸のラリーズ」の2つのグループが出演している。
 水谷孝はAmon Düül II、Canなどのファンで、Les Rallizes Dénudésは後にAmon Düül のアルバムDisasterを事務所名に採用している。
 水谷孝は日本に最初に体系的にGerman Electric Rockを紹介した間章と親交があった。


Amon Düül のアイコン的存在だったモデルのUschi
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 Amon Düül はMetronome Recordと7年間で契約し1968年の秋にセッションを行い、その録音テープをもとに翌1969 年、1stアルバム『サイケデリック・アンダーグラウンド』を発表した。

Amon Düül IIのRenate Knaupの兄は俳優だった
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 他方、Amon Düül IIも1968年にセッションを行い、その映像が2001年にDVDとして発売された。

Amon Düül II Spielt Phallus Dei dates from 1968
https://www.youtube.com/watch?v=vRq4b7KSUXA&list=PLpJ4hSKuh3nWHFq7czx8zkvU-rOeXYcjR


= 1969年 =

Amon Düül II / Phallus Dei 左上から、DVD、インナー、独盤、英盤、英盤再発、日本盤
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 Amon Düül、Amon Düül II、Canがレコード・デビュー。
 1960年代に発売されたGerman Electric Rockは、この3グループの5枚しかなかった。

・Amon Düül / Psychedelic Underground発売
・Amon Düül / Collapsing Singvögel Rückwärts & Co.発売

・Amon Düül II / Phallus Dei 発売 Liberty – LBS 83 279 I  
    Liberty Records GmbH, Munchen

 このOlaf KüblerのProduceしたPhallus Deiがドイツで最初の商業的にも評価されたアルバムとなる。
 Olaf KüblerはAmon Düül IIよりも約10歳年上で、新しい音楽に理解を示すベテランミュージシャンの存在は、Chris Karrerなどにとって大きな支えだったのではないか。

Amon Düül II / Kanaan 1969
https://www.youtube.com/watch?v=TpdDAQDlrr0

・The Can / Monster Movie (Made In A Castle With Better Equipment)
1969年8月にMusic Factoryから発売。
「Any requests? - Write to MUSIC FACTORY 8 MÜNCHEN 23, Heimstättenstrasse 30」とジャケットに記載があり、Münchenが新しい音楽の中心だったことがわかる。

・Canaxis 5  Music Factoryから発売。

・1969年に、Tangerine DreamはElectronic MeditationをBerlinで録音した。

・1969年に、Moog Synthesizerを購入したFlorian FrickeがMünchenでPopol Vuhを結成した。


= 1970年 =


 続いて1970年にMünchenのLiberty(UA)から、Amon Düül II、Popol Vuh、Canの重要作が発売。

「Electric Rock」のシールが貼られた初期Liberty(UA machine)の作品群
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・ The Can / Monster Movie再発売 Liberty – LBS 83342
 前年のMusic Factoryからは500枚しか発売されず、Liberty(UA machine)によって、Canもオーバーグラウンドに浮上した。

・Amon Düül II / Yeti 3月発売 Liberty – LBS 83 359/60 X
  後にRolling Stone誌のProgアルバムBest 100の81位に選出される。
  Beat Clubに初めてドイツのバンドとして出演。

Amon Düül II - Eye Shaking King (1970) Beat Club
https://www.youtube.com/watch?v=1eFLGZ14lek

  日本初のGerman RockのLPとしてYetiが2枚組の内、AB面の1枚だけで発売。

日本で発売されたOlaf KüblerがProducerの6LP
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・Can / Soundtracks 発売 Liberty – LBS 83 437 I
  特にMother Skyがアンダーグラウンドシーンで評価を得る。

・Popol Vuh / Affenstunde発売 Liberty − LBS 83 460 I
8月の月間ベストアルバムに選出される。世界的にも珍しいMoog SynthesizerはTangerine Dream、Klaus Schulze等に多大な影響を及ぼす。

Popul Vuh / Affenstunde
https://www.youtube.com/watch?v=lbwLEedhs8o
Münchenのレコーディングスタジオの貴重映像

・Ohrが設立され、Ohrの4番としてTangerine Dream / Electronic Meditation、続いて5番Guru Guru / UFOが発売。

・Tangerine Dreamから離脱したKlusterが混沌とした電子ノイズのアルバムをリリース。
 Kraftwerkもレコード・デビューし、5万枚のセールスで成功。両者に録音技師として関わったのが名ミキサーのConny Plankで、彼はその後もGerman Electric Rockをさまざまな面で支え、イギリスのニュー・ウェイヴにも大きな影響を与えた。


= 1971年 =

・Amon Düül II / Tanz Der Lemminge発売 Liberty – LBS 83 473 / 74 X
 前作までと異なり、CosmicなTrip musicとなっており、Olaf KüblerのProducerとしての才覚の広さが感じられる。
 イタリアではJourney Into A Dream = Viaggio In Un Sognoのタイトルで発売。翌年のVilla Pamphiliへの招聘に影響したと思われる。Phallus Dei、Yetiはイタリアでは発売されなかった。
 
Amon Düül II / Chamsin: The Marilyn Monroe-Meomorial-Church (Improvisation)
https://www.youtube.com/watch?v=dWazE_P-Dn8&list=OLAK5uy_mMScrnmiYzKOPmYYztK6rOTcr1N2znCUI&index=3
Tangerine DreamのAlpha Centauriからの影響と思われる。逆にCosmic CouriersのCosmic Jokersセッションに影響を与えたと思われる。


= 1972年 =

・Amon Düül II / Wolf City 発売  メンバー自身が最高傑作と評価。

= 1973年 =

・Utopia(Amon Düül II)発売
 Olaf Küblerが中心になって制作され、後のCDでは「Amon Düül II」として再発された。Wolf Cityの兄弟アルバムとも評価されるJazzよりの作品。

Utopia(Amon Düül II ) / Alice (O.P.)
https://www.youtube.com/watch?v=IqrMEQoGpCQ&list=PL1FzxDjw6lYh3A7S4e5QoZIEZBjLy8A8o&index=2
Kevin Ayersのようだとも評されるMellotronの美しい佳曲。

= 1974年 =

 Popol Vuh / Einsjäger & Siebenjägerのレコーディングに、Olaf Küblerが参加。
 MünchenにおけるAmon Düül IIとPopol Vuhの繋がりが明らかになった。

Popol Vuh / Einsjäger & Siebenjäger、Can / Landed、Utopia
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Popol Vuh / Einsjäger & Siebenjäger全曲
https://www.youtube.com/watch?v=KglJfGEMTPg&list=OLAK5uy_kl8jHjlGbjZiYkDvFfHzMnoLbINcfpuoI

= 1975年 =

 CanのVirgin移籍第1作となるLandedに、Olaf KüblerがSaxで参加。
 ジャケットにも大きく名前がクレジットされ、1969年以来のUA machineでのAmon Düül IIとCanの繋がりが、ここで明らかになった。 
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Can / Red Hot Indians
https://www.youtube.com/watch?v=5GL1LUrJwFk

Can / Landed全曲
https://www.youtube.com/watch?v=tY_lgP_vvDc&list=OLAK5uy_lJ6OSsuGvdmmVYxqdMSCNGRGo17mjR59g
Vernal Equinoxのギター、Unfinishedのラストが素晴らしい。Hunters And CollectorsはNHKのFMで放送された記憶がある。


 今回初めて聴きましたが、Olaf Kübler自身のJazzの作品も素晴らしいです。

Olaf Kübler / Soulin
https://www.youtube.com/watch?v=w2sZhM3ckPI
Recorded November 9, 1967 at Trixi Studio Munich
Rother MeidもBassで参加。

 ソロ作品からは、Olaf Küblerさんの温かい人柄が感じられます。
 先覚的な音楽への理解だけでなく、そのような人柄があったからこそ、逆に1969年という時点でGerman Electric Rock、Amon Düül IIの作品を実現化することができたのだと思います。

 Olaf Küblerさんの功績に感謝したいと思います。
ありがとうございました。RIP
 

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2024年09月12日

残暑 〜 元気の出るRolling Stonesの映像集・日本上陸40周年 〜 1964年 衝撃のGroove 「I Wanna Be Your Man」 〜 1966年 Brian Jonesの美学「Lady Jane」 〜 1967年 Mickの頂点「Ed Sullivan Show」 〜 夏バテ対策:扇風機の活用・弱風でも体感温度3度低下・温暖化防止/米対策にも

I Wanna Be Your Man、Rare 1st single of Rolling Stones in Japan.
L : 1st cover 1964           R : 2nd cover 1967
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日本でのデビューシングルI Wanna Be Your Man。稀に見る1stジャケットは1966年の再版が多いらしく、1964年の初版はほとんどない。
右の1967年の2ndジャケットは1度も見たことがない

The Rolling Stones live at Racket NYC highlights
https://www.bing.com/videos/riverview/relatedvideo?q=rolling%20stone%20Italy&mid=B343E57A39B3E1349B8CB343E57A39B3E1349B8C&ajaxhist=0
2023年最新作の頑張っている映像も

今日の1曲
Rolling Stones / I Wanna Be Your Man LIVE 1964
Rolling Stones / It's all over now 1964
Rolling Stones / Around and around 1964
Rolling Stones / The Last Time 1965 The Ed Sullivan Show
Rolling Stones / Paint It Black Ready Steady Go 1966
Rolling Stones / Lady Jane Ed Sullivan Show 1966
James Brown & The Famous Flames The TAMI Show1964
Rolling Stones / Ruby Tuesday 〜
     Let´s spend some time together Ed Sullivan Show 1967


 9月になって34度の猛暑がぶり返しております。もうすぐ秋です。
 今日は、暑さを吹き飛ばす元気の出るRolling Stonesのパフォーマンス映像を集めました。

 まずは、先週初めて見て驚いたI Wanna Be Your Manの強烈なGrooveのLive。今回のブログのきっかけです。デビュー曲Come Onに落胆したというKeithとMickがLennon, McCartneyから「君たちに合うと思う」と言われて提供された会心作。

Rolling Stones / I Wanna Be Your Man / You Better Move On • LIVE 1964
https://www.youtube.com/watch?v=VwWC3EROf5Y
1964年2月7日。当時のライブハウスに入ったような気迫の溢れる衝撃のLive。ヘッドホンで聴くと「静かなStones、Bill、Charlie」の凄さがわかる。身の振りかまわないKeithも初めて見た。一転、You Better Move Onはオリジナル音源が良いと判断したのか、口パクだが素晴らしい映像。


〜 Rolling Stones映像 日本上陸40年 〜

 1981年8月1日にアメリカで始まったMTVで、音楽の新譜は映像がつくようになりました。

 そして、日本に初めて古い全盛期のRockの動く映像がVHSビデオとして入ってきたのは、40年ほど前。

 1983年、秋の吉祥寺で初めてVHSビデオを買いました。Jimi Hendrix、Doors、Janis Joplinと「タイガース / 花の首飾り」を編集してもらい、全盛期の「動く映像」に興奮、感激しました。

 今のようにYoutubeで洪水のように映像が見れる時代からは想像もつかないと思います。世の中に数本しか古いRockの映像がなかったので、それは本当にありがたいものでした。

 2本目に買ったのが、Rolling StonesのEd Sullivan Showでした。日本に最初に輸入されたRockのVHSの5本から10本の一つでした。いかにこの映像が伝説的で切望されていたかがわかる素晴らしい映像でした。

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amazon sale DVD Rolling Stones / All 6 Ed Sullivan Shows
https://amzn.to/3MK8GbK

= Rolling Stones The Ed Sullivan Show 解説 = 
https://www.edsullivan.com/artists/the-rolling-stones/

Rolling Stones / Around and around 1964年10月25日 The Ed Sullivan Show
https://www.youtube.com/watch?v=xh0f2nA4e0g
記念すべきEd Sullivan Showの1曲目。


 1984年に3本目に買ったVHSが1964年10月28日のTAMI Showでした。そこでのJames BrownのOut Of Sight、Night Trainは衝撃的で、いまだに史上最高のライブ映像の一つと言えます。

日本ではTAMI showは「ビートパレード」として封切り。山下達郎も圧倒。
「熱狂!爆発!すごい興奮! ダイナマイトパンチでゆさぶるリズム旋風!」
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amazon 販売 T.A.M.I. Show [DVD] [Import] https://amzn.to/3Tu2tV1 レビュー評でもJames Brownが圧倒的。

 トリだったRolling Stonesは、James Brownのライブの後、観客の興奮が収まらないためしばらく出られなくなり、圧倒されたMickは即席でJames Brownのパフォーマンスを模倣します。その後、James BrownとRolling Stonesは友人となり、MickはJames Brownの死後、伝記映画を2本作りました。

The Rolling Stones / It's All Over Now live1964 TAMI show Colorized
https://www.youtube.com/watch?v=BLmoWl0c16w
2:40  直前に衝撃を受けたJames Brownからの影響でMickが暴れ始める。

James Brown & The Famous Flames The TAMI Show October 28, 1964 (Colored)
https://www.youtube.com/watch?v=_UVOuYW20o0
Out Of Sight、Please, Please, Please、Night Train

Rolling Stones / It's all over now 1964年5月8日アメリカ
https://www.youtube.com/watch?v=j1Wf9uqCDGs
初回渡米の映像。TAMI showでJames Brownから影響を受ける前で、Mickの動きも少ない。Rolling Stones自身が会心作と謳ったChess Studio録音のレコードヴァージョン。

The Last Time L : 1st cover 1965   R : 2nd cover 1968
3rd cover 1970
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 1965年5月2日の2回目のEd Sullivan Show では、CharlieのDrumのGrooveの素晴らしさがわかるThe Last Timeが印象に残りました。Vocal以外の生演奏は、この回が最後となりました。

Rolling Stones / The Last Time 1965 The Ed Sullivan Show Colorized
https://www.youtube.com/watch?v=klEb7Cpmkdo
Rolling Stonesの初めてのEd Sullivan Showでのオリジナル曲。

The Rolling Stones / The Last Time B/W
https://www.youtube.com/watch?v=kvIIM2AZgCA&list=RDUVpFf2DmFSM&start_radio=1
長い間馴染んだ白黒映像。2:43 CharlieのDrumに引き込まれる。

The Rolling Stones - The Last Time (Live - Ireland 1965)
https://www.youtube.com/watch?v=UhRjvYO-WsI&list=RDMM&index=9
また新たにすごいライブを発見。

The Rolling Stones - (I Can't Get No) Satisfaction (Live- Ireland 1965)
https://www.youtube.com/watch?v=KzYWTIHqutA
これもすごい。

The Rolling Stones Live, 08/04/1967, Palalido, Milan, Italy
https://www.youtube.com/watch?v=KsrqiZINpNI&t=6s
これも短時間だが凄い! 観客撮りのカラー映像!  The Last Time 、Paint It Black


 Paint It Blackは、Ready Steady Goの映像がベトナム戦争の影が濃い内容になっています。

Rolling Stones / Paint It Black Ready Steady Go 1966
https://www.youtube.com/watch?v=5wCUlPNlQuA
VocalだけLive。 2:50からのLong Versionがすごい

 1966年2月13日のEd Sullivan Showは初めてのカラー放送で、Satisfaction、As Tears Go Byをライブで演奏。


 1966年9月11日の4回目のEd Sullivan Showは、Brian Jonesの才能と美学を際立たせています。

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Rolling Stones / Paint It Black Ed Sullivan Show 1966
https://www.youtube.com/watch?v=zHOA3DJyd6U
これもVocalだけLiveなのでシタールの音が生きている。1:10のMickのアクション。

Rolling Stones / Lady Jane Ed Sullivan Show 1966
https://www.youtube.com/watch?v=lRDnufYNz8c
これもBrian Jonesのダルシマが素晴らしい


 最後に<今日の1曲U>の3000曲目として、1967年1月15日のEd Sullivan ShowのRuby Tuesday〜Let´s spend some time togetherのメドレーを。

 1967年Ed Sullivan Showこそ、Mickが躍動し、最後の出演となるBrian Jonesの才能が光るRolling Stonesのライブ・パフォーマンスの最高傑作と言えます。1982年のMichael Jackson以前では、一番かっこいいRock映像ではないかと思います。

Rolling Stones / Ruby Tuesday Ed Sullivan Show 1967
https://www.youtube.com/watch?v=NYov9UQ7Ib8
3:05のパントマイムから次のLet´s spend some time togetherに間断なくつながる1967年のEd Sullivan Showの2曲が、Mick+Rolling Stonesの「見せる」Liveパフォーマンスの頂点。

Rolling Stones / Let´s spend some time together Ed Sullivan Show 1967
https://www.youtube.com/watch?v=jtRCuKsvNEE
1:50 Mickの史上最高のテレビパフォーマンス。Mickは1964年のTAMI showのJames Brownを超えようとした。

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Rolling Stones / Let´s spend some time together (out take) Ed Sullivan Show
https://www.youtube.com/watch?v=Lg4VT0x_NMg
後になって発掘されたアウトテイク。2:00のパフォーマンスが異なり、比較するとMickのこだわりがわかる貴重なお蔵入りヴァージョン。


= 追記 夏バテ対策情報 =

 すでにご存じかもしれずたいへん恐縮ですが、今年は夏バテ防止対策で、以前よりも夏を乗り切ることができました。

・ 夏バテ防止食 
 特に大豆系(エネルギーに変換するビタミンB1とタンパク質)、夏野菜。今はネット検索で一瞬で効能がわかるので、以前は好きでなかった野菜も納得して食べられるようになりました。逆に、内臓を急激に冷やして疲労させるアイスクリーム (以前は毎日大量に食べていました) は我慢できるようになりました。

・ 扇風機を活用・エアコンを控えめにして温暖化防止に 
 風速1mで体感温度が1度下がり、弱風でも3度は下がる効果があります。エアコンより自然風の方が夏バテにならないです。
 エアコンを2−3度上げた分、電気代も1か月で3000円以上安くなりました。
 いよいよ米不足など地球温暖化が深刻化しています。エアコン設定温度を1−2度上げ、扇風機を積極的に活用することで、少しでも温暖化の進行に歯止めがかかればと思います。

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posted by カンカン at 15:59| 神奈川 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | イギリスのロック British Rock & Pops  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月11日

追悼RIP フジコ・ヘミングIngrid Fuzjko Hemming A  〜 私的回想とともにフジコさんの人生を辿る 〜 T 渋谷時代・渋谷クロコダイルの山口冨士夫 U Berlinへ留学・1960年代 German Cosmic Music 夜明け前 V ストックホルム移住 / 再びドイツ W 帰国:下北沢の青春 X 憧れのパリ・Juliette Greco / 街角 Y フジコさんと膵臓がん 〜 糖尿病への警鐘

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幼少期Berlin時代のフジコさん

今日の1曲
2024年 魂のピアニスト、逝く 〜フジコ・ヘミング 壮絶な人生
2004年 フジ子・ヘミングの軌跡 プラチナリサイタル
TEARDROPS (山口冨士夫) LIVE AT CROCODILE 1988年
Ash Ra Tempel(Ashra)/ New Age Of Earth 1976年
Beethoven / 交響曲 第6番 田園 Karajanカラヤン指揮
Popol Vuh / Kyrie 1973年
バッハ「マタイ受難曲」 全曲 カール・リヒター 1971年
フジコ・ヘミング / Domenico Scarlatti -Sonata in E Major
Neu! / Isi 1975年
1999年 下北沢のフジコ・ヘミング 
Walter Wegmüller / Die Zerstörung(Tarot)1973年
2001年 翔け!フジ子・ヘミング 35年目の世界初挑戦
Il Balletto di Bronzo / Meditazione 1970年
安室奈美恵「Hero」2016年
Juliette Gréco / Coin de rue 街角 1956年
フジコ・ヘミング / トロイメライ
フジコ・ヘミング / 主よ、人の望みの喜びよ(バッハ)


今秋10月 フジコ・ヘミング新作映画公開
https://fuzjko-film.com/?fbclid=IwY2xjawEnIMlleHRuA2FlbQIxMQABHSEBrBdmPfsxYb1hPc-I_cntIJIJpskoKluvyx2V1qZCPzz9vuD7Jz70Iw_aem_jHAJHG5hzM59VmINcmohfQ
「みんな幸せになってほしい」「人生は苦しいことがある方がうまくいくんじゃないかなあ」

ブログ2024年5月4日:追悼RIP フジコ・ヘミング Ingrid Fuzjko Hemming @  http://soleluna.seesaa.net/article/503209909.html

 4月21日にフジコ・ヘミングさんが亡くなり、5月26日に『NHKスペシャル 魂のピアニスト、逝く〜フジコ・ヘミング その壮絶な人生〜』が放送されました。昨年2023年11月の自宅の階段での転落事故、その後の闘病の映像はとても辛いものでした。

[NHKスペシャル] 92歳で亡くなったピアニストが音楽に込めた想い | 魂のピアニスト、逝く 〜フジコ・ヘミング その壮絶な人生〜
https://www.youtube.com/watch?v=O5xuKwM4z_E
3:00 モーツァルトのソナタ

 そして、人生の最後にフジコさんが病院のグランドピアノで弾いたのは、ショパンやリストではなく、子供のころに練習したモーツァルトのソナタでした。放送後、しばらく悲しくて虚脱状態のようになりました。

 放送から3か月が経ちました。
 フジコさんは生前にコロナにも、ウクライナ問題にも常に前向きでした。フジコさんから学んだことを糧に生きていこうと気持ちを新たにしています。今、ライフワークにしたいことがあり、最近はその計画について朝4時から再考しています。
 
【一分間の豊かな人生の言葉】【フジコ・ヘミング】
https://www.youtube.com/watch?v=Wh4lJTixGD8

永遠のカンパネラ 〜フジコ・ヘミング 愛と魂の200日〜:スペシャルゲスト 美輪明宏
https://www.youtube.com/watch?v=Smhr3lV0re4&t=1440s
57:30 ニューヨーク・ハーレムの養護施設を訪問 1:00:50 アメリカ同時多発テロのために1年間のCDの印税を寄付、ジョー山中のようにアフガン難民も支援

フジコさんの著作集
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 フジコさんには、テレビ、CD、著書、コンサートなど数えきれない思い出があります。今回は、以下のようにフジコさんの人生の時系列に沿って、極私的な思い出と重ねて振り返ってみたいと思います。


T 渋谷時代 〜 渋谷クロコダイルで見た山口冨士夫とジョー山中
U Berlin留学とウイーン 〜 Tangerine Dream・Berlin Schoolの時代 
V ストックホルム / 再びドイツ 〜 Il Balletto di Bronzoも移住 
W 帰国:下北沢 〜 AさんとTarot、Ash Ra Tempel 金子ボクシングジム 
X 憧れのパリ 〜 Juliette Greco
Y フジコ・ヘミングさんとすい臓がん 〜 糖尿病への警鐘


T 渋谷時代のフジコさん
  〜 クロコダイルCROCODILEで見た山口冨士夫とジョー山中 
    Blues Musicとフジコさん

青山学院時代 天才ピアニストと呼ばれたフジコさん
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 フジコさんは、1932年12月5日、ドイツのベルリンで生まれ、5歳で来日して、渋谷区の現在キャットストリート(旧渋谷川遊歩道路)の付近に住んでいました。バラック建ての貧しい生活でした。お父さんは日本になじめず、スウェーデンに一人で帰国。

 フジコさんは青山学院の学生時代によく映画を見て叱られたそうで、私も高校が苦手でよくさぼって映画館に行ったので共感を覚えました。尾崎豊さんは青山学院高校を中退しました。

 キャットストリートの渋谷側の入り口の近くに、思い出のライブハウス・クロコダイルがあります。

赤印がクロコダイル。右の「旧渋谷川遊歩道路」周辺にフジコさんの家があった。
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 クロコダイルでは、フジコさんと同じようにハーフの山口冨士夫さんが、1984年にライブで「お前たちもなにかやりたいんだけれど、それがわからないから俺のところに来てるんだろ? だったらきかせてやるぜ、世紀のあいのこ、山口冨士夫!」と叫んだのが今も印象に残っています。

TEARDROPS (山口冨士夫) LIVE AT CROCODILE 1988
(Johnny Thunders & 清志郎乱入)
https://www.youtube.com/watch?v=3Nm6BBz_Mq8

中学生時代の山口冨士夫 8月14日は命日 3歳の時にお母さんは施設に冨士夫さんを預けて失踪。女性施設長が苗字と名前をつけた。
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 また、クロコダイルでは、1984年にやはりハーフのジョー山中さんのレゲエバイブレーションも見ました。そして2010年には、ガンになったジョー山中さんの支援コンサートで、初めてFlower Travellin’ Band、頭脳警察、ショーケンを目の前で見ることができました。

 山口冨士夫さんもジョー山中さんも、ハーフのフジコさんのことはご存じだったと思います。私は、自己流に解釈するフジコさんのピアノにRobert Johnsonの弾き語りのようなBluesに通じるものを感じました。

 そして、フジコさんは東京藝術大学卒業後、プロとしてNHK毎日音楽コンクールや文化ラジオ放送音楽賞などを受けました。
 私は音大、できれば東京芸大の作曲科に行きたくてアルバイトや期間工で150万円を貯めたのですが、ピアノが弾けなくて諦めました。そのため、ずっとピアノができる人が羨ましかったのですが、フジコさんの著作で幼少からお母さんから厳しいレッスンを受けた話や苦労を知って、音楽でプロになるのは甘くないことを思い知ることができました。

 
「フジ子・ヘミングの軌跡 プラチナリサイタル」 (2004.4.25 OA)
https://www.youtube.com/watch?v=jW-O1LYoZQI
代表曲を網羅。
01. フジ子・ヘミングの軌跡 00:00
02. 幻想即興曲/ショパン 02:04
03. 黒鍵のエチュード OP-10-5/ショパン 07:01
04. ノクターン OP9-2/ショパン 08:53
05. 月の光/ドビッシー 14:59
06. 愛の夢/リスト 21:10
07. ため息/リスト 26:21
08. パカニーニ・エチュード6番/リスト 32:27
09. ラ・カンパネラ/リスト 39:50



〜 U フジコさんのBerlin留学とウイーン 
    1960年代 Berlin School・Cosmic Music夜明け前の時代 
    Tangerine Dream、Klaus SchulzeとAsh Ra Tempelを生んだBerlin  

国立ベルリン音楽大学(現:ベルリン芸術大学)
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 1961年に28歳の時、無国籍だったフジコさんは、彼女のファンだったドイツ大使の助力により生まれ故郷Berlinの国立ベルリン音楽大学(現:ベルリン芸術大学)に難民の立場で念願の留学をしました。

 フジコさんが留学した1960年代のベルリン芸術大学にはほとんどアジア系の人がいないため、差別も受けたそうです。1972年に「この世で最も美しい音楽」とも評されたPopol Vuh / Hosianna MantraにDjong Yunが参加しましたが、これはアジア人女性としては最初のRockバンドのVocalistかもしれません。

 Djong Yun の父のIsang Yunは、1957年ベルリン芸術大学に入学し、1977年から1987年までベルリン芸術大学教授として在職。アジア人の作曲の教授にヨーロッパ人の弟子がついたのは、ドイツ全体でIsang Yunが初めてだそうです。

Popol Vuh / Kyrie 1973
https://www.youtube.com/watch?v=9q19C220Vvo
アジア人女性Vocalistが登場する最初のMVかもしれない。Florian Frickeはレコーディングの前にDjong Yunが丁寧に髪をとかしていたのが印象に残っていると述べている。

フジコさんがいた1969年のBerlinのKlaus Schulze、Edgar Froese。
Berlinで最初のRockのRecordをTangerine Dreamが録音した
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 このころのBerlinは、まだ壁に閉ざされた世界で、1961年は、Edgar Froese17歳 Klaus Schulze14歳 Manuel Göttsching9歳。まさにTangerine Dream、Ash Ra TempelなどBerlin SchoolによるCosmic Musicの夜明け前でした。

 1969年までに発売されたドイツのロックバンドはAmon Düül 、Amon Düül IIとCanの3つだけでした。BerlinのTangerine Dreamは1969年に録音したElectronic Meditationを1970年にOhrから発売し、これが最初のBerlin産のRockのレコードとなりました。 

 フジコさんは私にIsadora Dunkanの住んでいたアパートに住んでいたと教えてくれました。
 そこでFranceのIsadora レーベルが原盤のBerlinのAsh Ra Tempel / New Age Of EarthのCDをファンレターと一緒に送りました。Edgar FroeseもKlaus SchulzeもManuel Göttschingもいずれもクラシックがルーツです。

Ash Ra Tempel(Ashra)/ New Age Of Earth (1976)
https://www.youtube.com/watch?v=8plQdob4JP8
Berlinの壁・有刺鉄線の写ったVirgin盤ジャケット

フジコさんが好きだったIsadora Dunkan Isadora盤New Age Of Earth
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 フジコさんの学生時代は、Berlinフィルで憧れのKarajanのコンサートなどを見たそうです。後にフジコさんはKarajanに直接面会しています。

Beethovenベートーヴェン / 交響曲 第6番 ヘ長調 Op.68《田園》Karajanカラヤン・ベルリンフィル
https://www.youtube.com/watch?v=YC9gEBaz9Iw

ベルリンフィルハーモニーホールでのJuliette Grecoのライブ
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 しかし、ベルリン芸術大学を卒業してもフジコさんは貧困と差別に苦しみました。フジコさんは「この地球上に私の居場所はどこにもない...天国に行けば私の居場所はきっとある。」と自身に言い聞かせていたと話しています。

 そこで1969年にフジコさんは、チャンスを求めてウイーンに移りました。そこでも「リストとショパンを弾くために生まれたピアニスト」と評され、ドイツではテレビ番組に出るなど周囲からの評価は高かったものの、貧困のためにチャンスはありませんでした。そこで、フジコさんはLeonard Bernsteinに直接手紙を書いて、面会し、1969年12月10日に幻のリサイタルの開催にこぎつけました。

Friedrich Guldaの上に貼られたフジコさんのポスター
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 フジコさんのリサイタルのポスターは、フジコさんの憧れだったJuliette Grecoのポスターと並んで街に張り出され、人生の絶頂にいました。しかしコンサートの1週間前に、フジコさんは高熱の発作で聴力を失ってコンサートは失敗し、それ以後、人生のどん底を経験しました。

 1971年5月には、音楽史上の傑作とされるバッハ「マタイ受難曲」のリヒターによる再録音がされています。

バッハ「マタイ受難曲」 全曲 カール・リヒター
https://www.youtube.com/watch?v=P3OcPLf7Kyo

 

V ストックホルムとハンブルク 〜 Il Balletto di BronzoとConny Plank

 ウイーンのコンサートで失敗した失意のフジコさんは、別れたお父さんのいるスウェーデンのストックホルムに移転しました。お父さんからは面会を拒絶され、不憫に思ったおばさんが尽力してフジコさんのためにスウェーデンの国籍を取得させてくれました。

 ほぼ時を同じくして、イタリアのIl Balletto di Bronzoは1973年の解散後、Gianchi Stinga、Marco Cecioni、Lino Ajelloの3人がストックホルムに移住し、Marco Cecioniは画家、Lino Ajelloは音楽スタジオを経営、Gianchi Stingaは技術者になります。なぜIl Balletto di Bronzoがストックホルムに移ったのか、Italian Progressive Rockの謎の一つでもあります。

Gianchi Stinga、Marco Cecioni、Lino AjelloのSIRIO2222
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Il Balletto di Bronzo / Meditazione 1970年
https://www.youtube.com/watch?v=c358efxhat8
ストリングス、チェンバロ入り。Domenico Scarlattiが好きなフジコさんが聴いたらおそらく気に入ったと思われる。

 フジコさんがドイツ時代から好んで演奏したイタリアの作曲家はDomenico Scarlatti (スカルラッティ)の作品です。フジコさんにはイタリア人の男性声楽家の友人がいましたが、将来を悲観して自殺されてしまいました。

 フジコさんにはスウェーデン人のお父さんを介して、ドイツ、ロシア、イタリアの血が流れていることを最近知りました。フジコさんはイタリア語も話しました。

フジコ・ヘミング / Domenico Scarlatti (スカルラッティ)-Sonata in E Major, Kk.380,Andante Comodo ソナタ ホ長調 K380(L.23)
https://www.youtube.com/watch?v=UnxBZvv0s9I
Le OrmeがCollageで引用。

 フジコさんは再び、ドイツに戻り、ハンブルクやハイデルベルクでピアノ教師として生計を立てます。
 苦しい生活でしたが、フジコさんのピアノを聴いて子供たちが路上で踊ったり、野良猫を助けて戯れるのが心の支えでした。

 フジコさんは「私の人生にとって一番大切なことは、小さな命に対する愛情や行為を最優先させること。自分より困っている誰かを助けたり、野良一匹でも救うために人は命を授かっているのよ。」と語っています。

 ハンブルクは、かつてBeatlesが演奏し、Kraftwerk, Neu!, Harmonia, Ash Ra Tempel / 1stを生んだConny Plankのスタジオがありました。ハイデルベルクにはGuru Guruがいました。

Neu! / Isi
https://www.youtube.com/watch?v=qCEcOmx4kas
美しいピアノはフジコさんにも聴いてもらいたかった。Klaus DingerはMozartを愛していた。


W 帰国:下北沢のフジコさんの新たな青春 
 〜 AさんとTarot、Ash Ra Tempelの思い出 金子ボクシングジム

金子ボクシングジムの隣のフジコさんの自宅
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 フジコさんは1995年に帰国し、お母さんが買った元は劇団のアトリエだったという下北沢の家に住むことになります。
   
 1999年2月11日にNHKのドキュメント番組『ETV特集』「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」が放映されて大きな反響を呼び、フジコブームが起こりました。その後、発売されたデビューCD『奇蹟のカンパネラ』は、日本のクラシック界では異例の大ヒットとなり、各賞を受賞しました。

1999年下北沢のフジコ・ヘミング
https://www.youtube.com/watch?v=ETAJVv-1jQg

 NHKの番組を見たとき、フジコさんの家の隣に金子ボクシングジムがあって驚きました。金子ジムの創設者金子繁晴はクリスチャンで、フジコさんもカトリックでした。金子ジムはカシアス内藤のカムバックを小説化した沢木耕太郎の「一瞬の夏」の舞台になりました。カシアス内藤もハーフで、横浜でジョー山中の友人でした。

沢木耕太郎とカシアス内藤
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 下北沢は本多劇場など演劇の街で、音楽の街でもあり、亡きAさんからWalter Wegmüller / Tarot、BerlinのAsh Ra Tempel / 1stなどを聴かせていただいた思い出の街です。

Walter Wegmüller / Tarot (1973) 全曲
https://www.youtube.com/watch?v=QCd5GE1jgl0
BerlinのAsh Ra Tempelの3名とWallensteinが合体した奇跡のセッション。

Walter Wegmüller / Die Zerstörung
https://www.youtube.com/watch?v=2BhPg6VoPRc
Tarotでフジコさんにも聴いてほしかったPiano+Mellotronの佳曲。

Aさんから借りたWalter Wegmüller / Tarot
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 フジコさんの曽祖父は戦前、動物病院の院長で、フジコさんの生き物に対する愛情も人一倍でした。亡くなったAさんも獣医科大学出身でした。Aさんとは山口冨士夫さんのライブでお見掛けしたのが最後でした。今、天国で、フジコさんと山口冨士夫さんとAさんが会われていたらいいなと思います。

 フジコさんのおかげで下北沢は私にとってパワースポットになり、小田急線から金子ジムを見るたびに勇気づけられました。


 下北沢は、海外で「世界で2番目にかっこいい街」にランクインしたこともあります。若者文化は、フジコさんの衣装など若さと創造の源泉になり、フジコさんは「私の青春」と呼んでいました。

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写真 小田急線地下化前の「開かずの踏切」に向かうフジコさん
フジコ宅からブルーハーツがバイトをした「a亭」の前を通るコース。
すぐ後方左側に金子マリの旧「金子葬儀店」 ずっと左に「本多劇場」
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翔け!フジ子・ヘミング 35年目の世界初挑戦 〜奇蹟のピアニスト独占密着
https://www.youtube.com/watch?v=Pml46Vk2ejo
1999年のフジコさんのブレイク後の2001年カーネギーホールなどの海外公演。下北沢からのエネルギーが感じられるフジコさんの全盛期といえる。2:50〜ウイーンでレナード・バーンスタインに直訴してコンサートを実現 3:45〜コンサートのポスターが貼られた柱 11:00〜母との思い出の表参道 13:35〜小田急線とフジコさんの家 15:50〜ドイツの不遇時代の日記 20:30〜カーネギーホール公演 30:38〜コンサート成功後、恩人レナード・バーンスタインの墓地へ 35:45〜Berlinの生家を来訪するフジコさん 40:08〜母校Berlin芸術大学を40年ぶりに来訪 44:05〜プラハ公演へ 1:02:20〜公演成功を報じるプラハの新聞

 1996年に安室奈美恵がブレイクします。1992年〜1995年は安室ちゃんの苦節の時代でした。フジコさんは安室ちゃんのファンでもありました。安室ちゃんのルーツもイタリア系アメリカ人です。

 フジコさんも1995年の帰国から1999年までは不遇の時代が続いたので、安室ちゃんと通じるものを感じたのかもしれません。
 フジコさんが新しい音楽に敏感なのも下北沢の影響だと思います。

安室奈美恵「Hero」2016 NHKオフィシャル・ミュージックビデオ
https://www.youtube.com/watch?v=YJt7KRmv2bQ

 フジコさんは、1974年にCharと伝説のSmoky Medicine スモーキー・メディスンを結成して「下北のJanis」と呼ばれた金子マリとも対談しています。

下北沢音楽祭 第30回記念対談「フジコ・ヘミング ✕ 金子マリ」
https://www.youtube.com/watch?v=px1TcXbPwCE&t=1s
フジコさんも北沢 (下北沢) 音楽祭に出演経験あり。下北沢で拾った野良猫を20匹飼っている。

2024年9月21日、アルバム『Smoky Medicine 1974 Live -Joy To The World-』ついに50年の時を経て発売。
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フジコ・ヘミングさんインタビュー
https://www.youtube.com/watch?v=Bd3HeqHPIPE
0:50 健康の秘訣は粗食。タバコを止めたが脳に良い。ミスをしなくなった。
7:00 自分が14歳から何度も弾いてる曲の方がいい
7:50 ファンレターについて「身に余る光栄 わかってくださる方がいっぱいいて嬉しいです」


X フジコ・ヘミングさんの憧れのパリ 〜 Juliette Greco


 フジコさんは下北沢以外にも海外で生活するようになりました。その一つがパリです。私はファンレターと一緒にフジコさんが好きだったJuliette Grecoのレコードを送ったこともありました。

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 フジコ・ヘミングさんは、演奏楽曲をほぼ変更しない理由として「私ならいつも同じ曲が聴きたい」「私の場合は、たとえば大好きなジュリエット・グレコのコンサートに行くときは、いつも同じ曲を歌ってほしかった。名曲っていうのは、そんなにたくさんあるわけじゃない。でも、私はその名曲をいつも歌ってほしいんです。新しい曲に挑戦したら、尊敬されるのかもしれないけど、私のところに来るファンも、何度も同じ曲を聴いて、それで満足してくださっているみたいだし。」と語っています。私も同感です。フジコさんのコンサートはプロ野球のオールスターゲームのような感動がありました。

Juliette Gréco / Coin de rue 街角
https://www.youtube.com/watch?v=0M3ksNml--M
音楽史上最も美しいMVの一つ。私がコンサートに行った時もこの曲を歌ってくれた。

フジコ・ヘミング 78年前の記憶と戦争の愚かさ【RSKドキュメンタリー】
https://www.youtube.com/watch?v=nIQrhhFa6FU

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Y フジコ・ヘミングさんとすい臓がん 
   〜 Aさんへの追悼 〜 糖尿病への警鐘

 フジコさんは2020年のコロナの初の自粛期間のころに、ただ一人テレビでご自身が体験された戦争と比べれば大丈夫というポジティブなお話をされていました。誰もが悲観的な状況で、唯一の前向きな言葉にとても勇気づけられました。

 いつも明るいフジコさんは100歳を超えてコンサートをする方だと私は確信していました。
 それだけに訃報を聞いたときはショックでした。

 フジコさんの死因が膵臓がんだったと知りました。
 膵臓がんは発見が難しく、気づいたときはステージ4など治療困難になるのがほとんどです。 
 膵臓がんの原因は糖尿病が多いと言われています。

 また、お世話になった早逝したAさんも糖尿病からの心臓疾患が原因だったと知りました。

Aさん、フジコさんの思い出の下北沢
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 最近になって糖尿病の怖さが初めてわかりました。
 糖尿病は全く自覚症状のない状態で深く進行します。そして、気が付いたときは、膵臓がん、心臓疾患、失明など、たいへんなことになっています。

 私も体調をなんどか壊しましたが、その理由も糖質の過剰であったことが最近わかりました。大量の糖分をとるとブドウ糖が人間の血管の99%を占める毛細血管を塞いでしまい、酸素の欠乏状態によって細胞が壊死してしまいます。

 ところが、太古の飢餓時代から、人間の脳は生存本能のために糖質をとると快感を得るようにプログラミングされています。そのため、甘い物や炭水化物を過剰に摂ってしまいます。

 糖質制限を実行しようとして甘い物を急に我慢するとリバウンドしてしまいます。糖質の過剰を防ぐ一番効果的な方法は、糖質の少ない食品を積極的にたくさん食べることです。そうすると自然に甘い物への欲求が減っていきます。

 そのためにインターネットなどを利用して、まず第1に、「 (自分が興味のある) 〇〇病にならないための食事」「野菜の効用」「GI値の低い食品」「糖化」「酸化」などを検索して、健康的な食品、危険な食品の知識を集めます。

 次に第2に、甘いものへの誘惑に負けないように、それらの健康的な食材が「美味しく」食べれるようなレシピをインターネットで探します。

膵臓がんになりやすい人の特徴や原因リスクについて
https://ganmedi.jp/pancreatic/features-risks/

糖尿病患者・予備軍が食べてもいい食品・避けた方がいい食品リスト
https://www.diabetes-dietaryguide.com/okmenungmenu/

糖尿病患者さん向け一週間の献立|簡単でおいしい!
https://oishi-kenko.com/tieups/54
 
 ブログを読んでいただいている方のご健康をお祈りします。

 最後にフジコさんのコンサートのアンコールで感動的だった「トロイメライ」「主よ、人の望みの喜びよ」を。

フジコ・ヘミング / トロイメライ
https://www.youtube.com/watch?v=4--Y76E3umA

フジコ・ヘミング / 主よ、人の望みの喜びよ(バッハ)
https://www.youtube.com/watch?v=wkgF7FHtXJY

 改めて、今まで私を支えて頂いたフジコ・ヘミングさんのご冥福をお祈りいたします。ありがとうございました。RIP

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posted by カンカン at 15:52| 神奈川 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | クラシック Classic Music | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年06月13日

RIP 追悼 フランソワーズ・アルディ Françoise Hardy 〜 1967年「Des Ronds Dans L'Eau 水の中の環」〜 1971年「Rêve 夢」 〜 「音楽の力」

1960年代のほとんど見たことのないFrançoise Hardyのシングル盤
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Françoise Hardy has passed away. She became famous in Japan with hits "Comment Te Dire Adieu" in 1973 and "Ma Jeunesse Fout Le Camp" in 1979.

The Yomiuri Shimbun 13 June 2024 Japanese newspaper
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今日の1曲
Françoise Hardy / Comment Te Dire Adieu 1969
Françoise Hardy / Ma Jeunesse Fout Le Camp 1967
Françoise Hardy / Si mi caballero 1971
Francoise Hardy / Des Ronds Dans L'Eau 水の中の環1967
Françoise Hardy / Let It Be Me 1969
Françoise Hardy / Rêve 1971

『ローリングストーン』誌「史上最も偉大な歌手200人」でFrançoise Hardyはフランス人として唯一、162位に選出。
https://www.rollingstone.com/music/music-lists/best-singers-all-time-1234642307/francoise-hardy-1234642907/

 ついにフランソワーズ・アルディさんも80歳で亡くなってしまいました。自分にとっては精神的な鉄人のようなイメージがあり、100歳ぐらいまで生きていかれると思っていたので、フジコ・ヘミングさんのときのように、心に穴が空いたような気持になりました。2004年から腫瘍と戦っていたことは知りませんでした。

 しかし、故人から受け取ったものをもう一度振り返って、前向きにならねばと思います。Françoise Hardyの歌はもの悲しいけれども力強いもので、40年以上、心に穴が空いたときに気持を癒してくれました。フジコ・ヘミングさんのようにフランソワーズ・アルディさんも幼少から父にほとんど会っていなかったということを初めて知りました。

悲しいけれど強い Françoise Hardyは常に心の支えだった
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 Françoise Hardyを最初に知ったのは、ラジオで1970年代に聴いた「さよならを教えてComment Te Dire Adieu」です。この1969年の歌が日本でヒットしたのは1973年ですが、一度聴いたら忘れられないメロディー(Serge Gainsbourgとずっと後で知った)と歌詞の韻、哀愁の歌声でした。

Françoise Hardy / Comment Te Dire Adieu 1969 (youtube.com)
https://www.youtube.com/watch?v=oJCkBhKzdfw

最初に手にした2つのLP 右:「Rêve 夢」収録の2枚組フランス盤
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 次にFrançoise Hardyを聴いたのは、1979年のテレビ主題歌によるリバイバルヒット「わたしは森へなんか行かないMa Jeunesse Fout Le Camp」でした。

 貸しレコードでベスト盤を借りることができました。いろいろなことで苦しんだ時期に、Let It Be Me 、Si mi caballero、Des Ronds Dans L'Eauなどは、心に沁みました。

Françoise Hardy / Ma Jeunesse Fout Le Camp 1967 (youtube.com)
https://www.youtube.com/watch?v=lX6ltbbRBAU

Françoise Hardy / Si mi caballero (1971) (youtube.com)
https://www.youtube.com/watch?v=-dSV5n5EPQc

Françoise Hardy / Let It Be Me 1969 (youtube.com)
https://www.youtube.com/watch?v=4luG7m86PI8
New Trollsの1976年のLet It Be Meと比較すると、同じ曲で解釈によってこうも違うものかと感じた。

Francoise Hardy / Des Ronds Dans L'Eau 水の中の環1967 (youtube.com)
https://www.youtube.com/watch?v=wTpXR6th_xA
1990年に日本で再発された3インチCDのB面に収録されていたので買った。

 そして、池袋西武のDiskportで1979年、Françoise Hardyをたくさん聴いてみたいと思っていた時期に2枚組ベスト盤の新譜を買いました。

 D面のComment Te Dire Adieuに続く最後のRêve夢が、Françoise Hardyの全てを凝縮していると思いました。1975年に日本で独自に発売された2枚組の最後の曲もRêveでした。

Françoise Hardy / Rêve夢 (youtube.com) 1971
https://www.youtube.com/watch?v=DWAIElOl2to
ブラジルの曲のカバーだと今回初めて知った

1960年代に一世を風靡したFrançoise HardyはBob Dylanも魅了した
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有名になった1970年代以降のシングル盤は見かけた
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 1982年に「Ma Jeunesse Fout Le Camp もう森へなんか行かない / Si mi caballero 」のシングル盤を買いました。
 
 それ以後も、40年以上前に聴いたこれらのFrançoise Hardyの歌は、自分の体の一部になって、癒しを与え続けてくれました。
 振り返ると、それらは1967年から1971年の歌で、Françoise Hardyのベトナム戦争に対する追悼歌だったように思います。

 素晴らしい音楽をありがとうございました。Merci beaucoup. RIP


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2024年06月08日

1970年の山口冨士夫・黎明期 ”村八分” (裸のラリーズ)日本のロックの誕生 〜 @  ”村八分” 初代ドラマー恒田義見と2代目ドラマー上原ユカリのインタビュー 〜 A ついに発見「裸のラリーズLes Rallizes Dénudés(=村八分+水谷孝)」が出演した1970年7月「ロックイン・富士急ハイランド (ジョー山中 Flower Travellin' Band) 」の映像 〜 ブログ16周年 「音楽の夢・音楽の力」〜

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1970年7月26日の富士急ハイランドでの裸のラリーズLes Rallizes Dénudés(= 村八分+水谷孝)左から山口冨士夫、恒田義見、チャー坊、水谷孝


今日の1曲
ダイナマイツ / トンネル天国 1968年LPヴァージョン
裸のラリーズ Les Rallizes Dénudés
      / My Conviction (2nd Version) 1969年?
Rolling Stones / Gimme Shelter 1969年
Rolling Stones / Jumpin' Jack Flash (Live) 1970年
村八分 / くたびれて 1970年作曲
村八分 / あっ!!  from 村八分 / くたびれて 1971年
Flower Travellin' Band / Satori Part2 1971年
近田春夫&ハルヲフォンLIVE 1977年
     / 日本のROCKメドレー ドラム:恒田義見
Pegmo / リトルラブ 1982年ドラム:恒田義見
SUGAR BABE / DOWN TOWN LIVE 1976 ドラム:上原ユカリ
沢田研二 / ストリッパー 1981年ドラム:上原ユカリ
村八分 / 夢うつつ(Cover)2023年 ボーカル:恒田義見
裸のラリーズ Les Rallizes Dénudés (山口冨士夫)
      / 『屋根裏 YaneUra Oct.'80』 2024年発売

 おかげさまで、当ブログも16周年に入りました。ありがとうございます。下手な文章で恐縮ですが、体調に留意しながら続けさせていただきたいと思います。

 今回は希望を込めて、1970年、1971年の黎明期の「村八分」を特集してみました。山口冨士夫などの情熱によって日本のニューロックが誕生した時代のエネルギーから、生きる勇気をもらいました。

1971年4月5日号の平凡パンチの「京都のロック」特集。村八分のとじ込みカラー写真ピンナップが掲載された。京都には世界中からヒッピーが集まり、山口冨士夫も1970年に「京都に行けば何かがある」と京都行きを決意した。
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平凡パンチ掲載の西部講堂での村八分のカラーとじ込みピンナップ。左から、木村英輝、チャー坊、山口冨士夫、浅田哲、青木真一、上原ユカリ
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ー 特集@ 初代ドラマー恒田義見+2代目ドラマー上原ユカリのインタビュー

 
 まず、1970年に村八分が結成される時期について語った初代ドラマー恒田義見の貴重なインタビューを発見しました。ほとんどの方が鬼籍に入られた村八分の草創期について、生の声で聞くのは初めてなのでたいへん新鮮で感動しました。

 新しい驚くべき情報もあります。特に、長年謎だった1970年7月の”裸のラリーズ”名義での村八分の富士急ハイランドへの出演の経緯もわかって感動しました。

 インタビューの前に、1970年、1971年までの村八分などの動向を振り返ってみたいと思います。


★★ 1970年、1971年までの村八分などの日本のロックの動向★★

  ー 村八分、山口冨士夫、恒田義見、上原ユカリ、裸のラリーズ、Flower Travellin’ Bandなど


<ニューロック期のミュージシャン 生年> 

1943年 石間秀機(1944年早生まれ)
1946年 ジョー山中、松崎由治
1947年 細野晴臣、加橋かつみ
1948年 水谷孝、沢田研二、加部正義、鮎川誠
1949年 山口冨士夫、PANTA(1950年早生まれ)
1950年 チャー坊、萩原健一、近田春夫(1951年早生まれ)
1951年 恒田義見、坂本龍一(1952年早生まれ)
1952年 高橋幸宏
1953年 上原ユカリ、山下達郎

= 1967年 =

・1967年11月  ダイナマイツが「トンネル天国」でデビュー

・1967年11月 京都で水谷孝が裸のラリーズを結成。

= 1968年 =

P1660824.JPG

ダイナマイツ / トンネル天国 1968年LPヴァージョン
https://www.youtube.com/watch?v=8FGJMUxnr78
ボーカル:山口冨士夫


= 1969年 =
 
・1968〜1969年 ダイナマイツ出演のライブハウスに、恒田義見が高校の後輩で山口冨士夫の熱心なファンだった高橋幸宏と頻繁に通う。

・1969年 上原ユカリが京都の“ハウス・グラス・ホッパー”でドラマーとして活動。

・5月 チャー坊が渡米。チャー坊は帰国後、裸のラリーズにベースで参加することを水谷孝と約束していたが、1969年12月6日 カリフォルニア州オルタモントでRolling Stonesを見て、音楽的方向性を変えた。

1969年6月京都同志社大学 右が水谷孝。
左はマネージャーで、裸のラリーズと共演した現代劇場の小松氏
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裸のラリーズ / My Conviction (2nd Version) 1969年?
https://www.youtube.com/watch?v=xRHtqkZMfFo
珍しいガレージGS風のビートの曲。Golden Cupsのようなギターソロ。

・12月31日 ダイナマイツ解散

Rolling Stones / Gimme Shelter (Remastered 2019)
https://www.youtube.com/watch?v=QeglgSWKSIY
山口冨士夫、チャー坊が目標としたRolling Stones

= 1970年 ”村八分”誕生 =

 この年、「山口冨士夫グループ→ななしのごんべ→裸のラリーズ→村八分」とバンド名が変遷 

・1970年初頭? 山口冨士夫、成毛滋、マモルマヌー(Golden Cups)による新バンドの構想ができるが流れる。

・1970年初頭  水谷孝が久保田麻琴とレコーディングを行い、その後「Mizutani '70 STUDIO & LIVE」に収録。

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・2月28日 京都会館第2ホールイベント「Too Much」に山口冨士夫がセッションで出演し(メンバー不明)、木村英輝と出会う。木村英輝は山口冨士夫を芸能界で苦労を経験した好青年と感じたという。共演:ヘルプフルソウル、Flower Travellin’ Band 
        
・3月  東京で、山口冨士夫が帰国したチャー坊と出会い、新バンド結成を決意。

・3月31日 裸のラリーズのオリジナルメンバーだった若林盛亮がよど号ハイジャック事件を起こす。

・5月? 東京で、山口冨士夫がドラムス恒田義見をオーディションで京都に誘う。恒田義見は、その前に細野晴臣から「はっぴいえんど」のオーディションも受けていた。

・5月10日  日比谷野外音楽堂「第3回日本ロックフェスティバル」に「山口冨士夫グループ」が出演。メンバー:山口冨士夫、成毛滋、石川恵(ファーラウト)、つのだひろ(ジャックス)。初ステージのチャー坊は踊りだけで参加し、成毛滋に「あんた、いえてへんわ」と言ったとされる。
 5月10日の共演者:フード・ブレイン/稲垣次郎&ソウル・メディア/フラワー・トラベリン・バンド/猪俣猛&サウンド・リミテッド/モップス/ロカビリー・リバイバル・サーカス/ズーニーブー/ゴールデン・カップス

「山口冨士夫グループ」左上から成毛滋、陳信輝(当日、石川恵に交替)、山口冨士夫、つのだひろ(「第3回日本ロックフェスティバル」パンフレットより)
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・5月 京都で「ななしのごんべ」として村八分が結成される。メンバー:山口冨士夫、チャー坊、染谷青、青木真一、恒田義見。恒田義見は夜行列車で1人で京都に行く。

村八分 / くたびれて (1972年三田祭ライブより)
https://www.youtube.com/watch?v=Pm9RZ9wdr9k
山口冨士夫とチャー坊が初めて作ったオリジナル曲とされる

・6月30日 京都円山音楽堂で村八分が「山口冨士夫グループ」としてデビュー。

円山音楽堂。村八分(「山口冨士夫グループ」)のデビュー、1973年にFlower Travellin' Bandのラストライブなどが行われた場所。
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・夏  京都で、上原ユカリが伊藤銀次と“グラス・ブレイン”を結成。

・7月11日  東京で、木村英輝主催の深大寺自由広場イベント「Too Much」開催。出演:ヘルプフルソウル、Flower Travellin’ Band、ブラインド・バード

・7月26日 「ロックイン・ハイランド」(富士急ハイランド)で、村八分が水谷孝を加えた6名で「裸のラリーズ」名義で出演。共演:Flower Travellin’ Band、モップスなど。

 「ロックイン・ハイランド」は、8月15日から8月22日まで、静岡県の伊豆富士見ランドで開催されるはずだったRolling Stones、Jimi Hendrix、Doors、Janis Joplinなどを呼ぶ一大イベントだった「富士オデッセイ」が中止になったために企画された。「富士オデッセイ」のプロデューサーは、京都で村八分をサポートした木村英輝だった。

ロックイン・ハイランドでのチャー坊(右)。左は村八分のメンバーとすれば、恒田義見か、染谷青か?
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・9月13日 京都円山オデッセイに、水谷孝を除く「山口冨士夫グループ」として村八分が出演。共演:Flower Travellin' Band
 山口冨士夫「So What」によれば、1つのイベントにチャー坊主導と水谷孝主導の2つの「裸のラリーズ」が出て、水谷孝は「東京ラリーズ」を名乗ったとあるというのはこの日の事。

・秋 水谷は東京に移り、「東京版ラリーズ」を編成。
・10月   Flower Travellin’ Band / Anywhere 発売
・秋ごろ? チャー坊が京都でディスコCatseye等に出演していた上原ユカリを大阪で誘う。


= 1971年 =

・1971年1月?  染谷青が脱退。チャー坊の同級生だった浅田哲がサイドギターで加入し、浅田哲の考案で「村八分」に改名。
・1971年1月?  上原ユカリ加入。恒田義見が脱退して帰京。その後ブラインドバード、小坂忠のフォージョーハーフに一時参加後、近田春夫にレコード店で声をかけられ、ハルヲフォンに加入。その後、テクノポップPEGMOを経て、和太鼓奏者となる。

近田春夫&ハルヲフォンLIVE / 日本のROCKメドレー ドラムス:恒田義見
https://www.youtube.com/watch?v=wpnBhi90zpg
一触即発〜ファンキーモンキーベイビー〜Double Dealing Woman〜港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ〜ネイビーブルー〜タイムマシンにおねがい〜私は風〜You Better Find Out〜Satori Part 2

Pegmo / リトルラブ 1982年 ドラムス:恒田義見
https://www.youtube.com/watch?v=x_alQWvdOUc
Pegmo(ex 四人囃子、村八分、めんたんぴん)「日本の10CC」とも呼ばれたテクノポップ


・3月20日 京大西部講堂「Mojo West」で、「村八分」名義でのステージデビュー。共演:PYG(沢田研二、萩原健一)

平凡パンチで大きく取り上げられた京大西部講堂「Mojo West」
P1660816.JPG   

・4月11日 日比谷野音で「村八分」の東京デビュー 共演:トゥーマッチ

・4月30日 村八分 / 草臥れて 大阪のスタジオで録音。山口冨士夫は「日本のギタリスト」という著書で「草臥れて」を「1番気に入っているプレイ」として挙げている。

・4月 Flower Travellin’ Band / Satori カナダ、日本で発売

・5月25日 Music Life 6月号に山口冨士夫のインタビューを掲載。「世界で一番すごいのはRolling Stonesと村八分だ」と発言。

・6月27日 日比谷野音で村八分主催のコンサート。これを見た一風堂の土屋昌巳は「音楽によって世界が変わると確信した」と述べている。

村八分BOX -LIMITED EDITION Trailer
https://www.youtube.com/watch?v=G9EqrB0ISaw
1:37まで、1971年の日比谷野音での映像が見られる。

・8月8日〜9日 「精進湖ロックーン」に村八分が参加。ポスターの「参加者」には「その他多数」とあり、水谷孝の裸のラリーズも参加した。

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・9月〜10月 村八分が高円寺に拠点を移し、ドラムにカントが加入。
      上原ユカリが脱退し、伊藤銀次の“ごまのはえ”に参加。1975年にシュガー・ベイブ『SONGS』、その後ナイアガラ関連のレコーディングに参加、1981年〜1984年に沢田研二の“EXOTICS”に加入後、1986年に一時音楽から引退。

SUGAR BABE / DOWN TOWN (都市センターホール '76) ドラム:上原ユカリ
https://www.youtube.com/watch?v=gdJKSlJDARQ

沢田研二 / ストリッパー 1981年 ドラム:上原ユカリ
https://www.youtube.com/watch?v=kTljhurK_z8

・10月29日 ニューミュージックマガジンに掲載された有名な村八分の写真を風月堂前で撮影。 

・11月6日 村八分が慶應大学三田祭をキャンセル。この日、頭脳警察がはっぴいえんどの演奏時間をジャックしたことで知られる。水谷孝の裸のラリーズ、吉田拓郎が出演。


山口冨士夫の自伝「So What」 amazon書籍 単行本 https://amzn.to/3yM84hR
 P1660509.JPG 
1990年に初めて読んだとき、1970年7月の”裸のラリーズ”名義での村八分の富士急ハイランドへの出演に驚いた。
       

 それでは、恒田義見、上原ユカリの貴重なインタビューを聞いてみたいと思います。

 1970年代に「世界で通用する唯一の日本人ギタリスト」とも評された山口冨士夫がなぜ京都に向かったのか、チャー坊によってどう山口冨士夫や村八分が変化したのか、「日本のロックの誕生」を感じることができます。


【恒田義見】# 1 伝説のバンド村八分結成秘話!山口冨士夫との出会い!ハルヲフォンへの軌跡!
https://www.youtube.com/watch?v=xwCbnPn7Bi8

(以下、ネタバレですので、ご注意ください)

0:20 GSが解散し、日本のニューロックが生まれてきたころ。
 恒田義見の高校の後輩の高橋幸宏の紹介で、先輩の細野晴臣による新しいバンド(ヴァレンタイン・ブルー、はっぴいえんど)のドラムのオーディションが渋谷の寺山修司の天井桟敷館で行われたが不採用となった。
3:20 東京キッドブラザースの団員の紹介で、(京都のバンドで)ドラムスを探している帰京中の山口冨士夫と六本木アマンドで会う。
5:45 「(山口冨士夫は)20歳ですごい貫禄ですね」
「だってスーパーギタリストだもん。・・・当時10円コンサート、ロックコンサートでエディ潘、山口冨士夫っていえばギターの王者みたいなとこがあったじゃん」
6:05 新宿のディスコ「サンダーバード」でRolling StonesのMonaを15分間演奏し、山口冨士夫にドラマーとして加入を誘われる。
7:43 山口冨士夫から「新しいリズムとか新しい感じでやりたいから、ベテランでないほうがいい」と説得される。プロになりたかったため京都に行くことを決意し、フリーゲートで村八分になるメンバーと会う。
10:20 最初は、青木真一はベースが弾けず、チャー坊は踊りだけだった。
10:57 そのころ、Rolling Stones、Jimi Hendrix、Doorsなどが出演する富士オデッセイの話があったが実現せず。
12:00 富士オデッセイに代わる富士急ハイランドでの野外コンサート「ロック・イン・ハイランド」に、村八分が「裸のラリーズLes Rallizes Dénudés」として出演する(1970年7月26日)。
  

【恒田義見】# 2 「その時僕は内田裕也の『あの名言』を初めて聞いたんだ」〜東名高速1回転事件〜奇跡のツアーバスエピソード!
https://www.youtube.com/watch?v=rA5hB4TkjL8

0:40 恒田義見もBeatlesの武道館公演を見た。叔父は東芝のディレクターで、内田裕也を神戸から連れてきて、クリフ・リチャードの曲を日本語で歌わせた人だった。
2:10 1970年秋? 村八分 (「山口冨士夫グループ」) の日比谷野外出演の後、京都円山公園のライブのために、村八分、内田裕也、Flower Travellin' Bandが中型バスで同行した。
4:10 山口冨士夫は石間秀機とツインギターのバンドを作る予定だったが、内田裕也が石間秀機をフラワーズに入れてしまった。東名高速でバス横転事件が起きたが奇跡的に全員無傷で、それをきっかけに内田裕也と山口冨士夫の関係がよくなる。
7:00 その翌日、円山公園でFlower Travellin' BandのSatoriが怒涛のように盛り上がる。その後の出番のチャー坊が「今日はのらんからやめるわ」と村八分のライブを中止したが、逆に観客が怒涛のように盛り上がる。

Flower Travellin' Band / Satori Part2
https://www.youtube.com/watch?v=919X0aIsrIo
世界レベルの実力でありながら、日本ではフォークブームのため商業的に成功せず(Make Upが3万枚)、1973年に解散した。


村八分サウンド分析! ”村八分 / 夢うつつ” をサリハナバンドでリハってみた! - YouTube  2021/10/15公開
https://www.youtube.com/watch?v=TvbYwGhpu0g
4:39〜 演奏「夢うつつ」(ボーカル:恒田義見)
1:20 ”夢うつつ”など村八分の作曲は、山口冨士夫のギターリフから始まった。
3:00 Rolling Stonesが好きだったが、当時オープンGを誰も知らなかったため、Stonesのような音にならなかった。
4:20 山口冨士夫が京都で外人からオープンGを教えてもらってから、いろいろな村八分のギターリフを作るようになった

【恒田義見】# 3 ストーンズ「ミッドナイトランブラー」で「かっちょいー」って言ったのは柴田和志って本当?噂の真相から村八分脱退の理由まで  2022/04/01公開
https://www.youtube.com/watch?v=VrEGorqdazU

3:45 Rolling Stones / Get Yer Ya-Ya's Out! (Live)の「ミッドナイトランブラー」で「かっちょいー」って言ったのはチャー坊だという噂は真実ではなかった。1970年にチャー坊は恒田義見に「おれはSan FranciscoのAltamont (西海岸) には行ったが、Get Yer Ya-Ya's Out!はNew York (東海岸) でのライブだから見ていない。」と話した。
5:10 村八分を脱退。
7:00 小坂忠のバンド「フォージョーハーフ」に参加。

Rolling Stones / Jumpin' Jack Flash (Live)
https://www.youtube.com/watch?v=yvzpNnjFNk4
Get Yer Ya-Ya's Out! 1970より

 今年に入り、恒田義見のインタビューの続編ともいうべき、村八分2代目ドラマーの上原ユカリとの対談も公開されました。


 上原ユカリ裕# 1 【村八分出身ドラマー対談前編】伝説のバンド村八分加入から脱退まで (youtube.com)
https://www.youtube.com/watch?v=bcJuXe81QeY
1:35 上原ユカリは1969年に(おそらく正しくは1970年秋)、恒田義見在籍時の「山口冨士夫グループ」(村八分)を日比谷野音で見てぶっとんだ。
2:10 上原ユカリは裸のラリーズに「2日いたことがある」(いつの時代かは不明。京都にいたから1960年代か?1970年代の福生のころか?)。
2:45 大阪でハコバンをしていたとき、チャー坊が上原ユカリをスカウトに来た。山口冨士夫とならやりたいと加入を決めた。
5:10 まだ村八分が裸のラリーズを名乗っていたころは、山口冨士夫がリーダーシップをとり、Rolling Stones、Mountain、Blind Faithなどを演奏しながら曲をためていた。
5:55 山口冨士夫の本で恒田義見がチャー坊にぶっ飛ばされたというのは事実と違う。
6:30 村八分は初めは東京のメンバーが中心で、山口冨士夫もいいバンドを作ろうとしていた。日本のロックがスタートした時期で、頭脳警察もかっこよかった(上原ユカリ)。
8:08 途中からチャー坊が京都のメンバーでやりたいと言い出した。浅田哲も紹介された。
9:20 恒田義見はロックバンドとして「歌」を求めていた。今ならわかるが、チャー坊の「叫び」のような歌は理解できなかった。
9:49 水谷孝は裸のラリーズをやりたいというのでやめた。
10:00 恒田義見が村八分をやめる2日前にハコバンをしていた銀閣寺Cats Eyeで上原ユカリに会った。
11:10 山口冨士夫がCats Eyeで演奏後にストラトキャスターを丁寧に拭いていて凄いと思った(上原ユカリ)。
11:40 山口冨士夫は朝から1人で赤い335のギターで練習していた。
13:15 上原ユカリはミッチ・ミッチェルのように叩くのが好きだったが、Cats Eyeで山口冨士夫が「ビートを叩け、おかずをいれるな」と指示した。
13:58 あるとき、突然バンド名が「村八分」になると言われた(上原ユカリ)。
14:14 恒田義見は日比谷野音で上原ユカリがドラムになった村八分を見たが、3曲で「乗らないから」と言ってやめた。
15:00 (1971年3月に)西部講堂で村八分が前座でPYGと共演した時、チャー坊に言われて上原ユカリが大口ヒロシのドラムを無断で叩いた。PYGはやじられていた。京都はヒッピーがサンフランシスコから来ていて自由な時代で、野音でトリで村八分が3曲でやめたときも受けていた。
17:40 青木真一は本当に楽器が初めてで、山口冨士夫から1日中ベースを教わっていた。浅田哲も初めてで、SGを買ってきて山口冨士夫から教わっていた。

上原ユカリ裕#2【村八分出身ドラマー対談後編】二人にとっての「チャー坊」と「冨士夫ちゃん」とは (youtube.com)
https://www.youtube.com/watch?v=RqGSo6aiXpE&t=333s
1:20 上原ユカリも”村八分”としての仕事は数回しかなかった。恒田義見と上原ユカリの間に「こうじ」という人が村八分に短期間在籍した。
2:35 一度、上原ユカリと村八分全員で車に乗って東京を廻った。表参道の喫茶店「けやき」でELECの人との契約のために会い、チャー坊が「300万やな」といきなり言って、レコーディングはボツになった。
3:44 京都ではキーヤン(木村英輝)にお世話になった
3:59 (恒田義見)俺たちのころも、オランダのレーベルが村八分を出したがっているという話があった。
4:15 アルバム(1973年「ライブ」)を出す頃は、(村瀬)茂人さんがドラムだった。村瀬茂人に上原ユカリは千葉で会い、恒田義見は村八分初期の話をするためにクロコダイルのイベントに呼ばれたときに会った。
村八分脱退後、その後のグラムロック風の風貌の村八分に驚いた。カリスマ性・影響力のあるチャー坊に感化されたといえる。
6:13 噂ではSex Pistolsが村八分を聴いて音楽的方向を決めたという驚くべき情報 があるとのこと(上原ユカリ) 。 ※ John Lydonの自伝によれば、1970年代の彼の最愛聴盤は日本人ボーカリストDamo SuzukiのCan / Tago Magoだった。John LydonはCanのボーカルになりたかったという。そこで、John Lydonが日本のバンドに関心を持ち、村八分のLPを聴いた可能性は十分にある。PILのパリのライブ盤の中での”Shut Up”が有名だが、それもLP「ライブ村八分」の冒頭のチャー坊の「うるさい!」の影響か?
6:24 チャー坊は京都のフリーゲートで上原ユカリには、Rolling Stones「ミッドナイトランブラー」で「かっちょいー」って言ったのは「俺や」と言っていた。
8:25 山口冨士夫のGroove感はすごかった。山口冨士夫がリーダーシップをとっていた時代はリズムを重視した。ビートはジャストより少し遅らせる。今になって山口冨士夫から学んだことはすごくためになった。他のGSの先輩たちと演奏しているときとは違った。ギターとドラムスが合致したときの気持ちよさがあった。
11:35 京都の街を皆で良く廻ったのは楽しかった。当時の京都は東京とは言葉、リズムが全然違った。もうあのような時代は二度と来ないと思う。チャー坊は衣装にも凝っていた。

 お二人のドラマーの対談を通して感じたのは、当時村八分が他の日本のバンドを圧倒し、今でも評価されている理由が、山口冨士夫のもつ黒人のアフタービートによるGroove感だったということです。それはLed ZeppelinのGrooveに通じるものがあります。山口冨士夫がドラマーを選ぶときにベテランではだめで、あえて若いミュージシャンを選んだ理由がそこにあったのかと思います。ベースの青木真一、サイドギターの浅田哲、ドラムスの村瀬茂人など楽器未経験者を加入させたのも、ビート感覚がまだ固まっていない人の方が山口冨士夫が教えやすかったからではないかと思います。

あっ!! from 『村八分 / くたびれて (2018 remaster)』
https://www.youtube.com/watch?v=O8SuvuaVqfU
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 また、1971年からは村八分はチャー坊の歌詞や叫びによる世界観を作るためのバンドに主導権が移ったようです。そのために京都中心のメンバーに替えたと思われます。クイックジャパンで書かれていた、山口冨士夫が、チャー坊が早逝した子供について書いた「あやつり人形」の歌詞を見せられた時に本気になったというのが大きな契機ではないかと思われます。
 チャー坊の歌詞には1960年代の裸のラリーズからの影響も感じられます。チャー坊は、水谷孝が生涯の唯一のライバルと語っていました。

 チャー坊は常に山口冨士夫に対して「トップじゃないとだめだ」と語っていたとのことで、当初は山口冨士夫の「よいバンドを作りたい」という目標が、チャー坊の世界進出の夢に拡大していったのだと思います。そして、山口冨士夫とチャー坊の力関係を調整するためにカントや村瀬茂人のような年上のメンバーを入れたのではないかと思います。


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〜 A ついに発見「裸のラリーズ(=村八分+水谷孝)」が出演した1970年7月「ロックイン・ハイランド(富士急ハイランド)」の映像


 ジョー山中のインタビューをメインにした「ロックと若者」という貴重な映像を見ていたら、富士急ハイランドで裸のラリーズ(村八分)が出演した写真と同じステージの映像を発見して驚きました。残念ながら、裸のラリーズ(村八分)の出演シーンはありませんでしたが、1970年の日本のニューロックの熱気を感じることができました。


ついに伝説の富士急ハイランド「ロックイン・ハイランド」の映像を発見!
ボーカルの長髪、衣装がチャー坊に似ていたが、残念ながら別のバンド。
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[昭和45年7月] 中日ニュース No.863_2「ロックと若者」 (youtube.com)
https://www.youtube.com/watch?v=b9lUAppOGI0
冒頭からジョー山中とFlower Travellin' Bandの演奏
曲はLouisiana Blues (10月発売のAnywhereから)
0:39 赤坂の伝説のディスコ「ビブロス」の映像。
1:21 ジョー山中の語り「大自然の下で思い切り演奏し、人間を、愛を、平和を歌えたら素晴らしいと思う」
1:53から、富士急ハイランドのロックイン・ハイランド。「マスコミには知られたものの、観客は100名で失敗」とも言われたが、もう少し集客があったように見える。
1:56と2:13のボーカルが、長髪や長袖シャツ、デニムのズボンからチャー坊かと思ったが、ドラムの配置が異なるので別のバンドだった。
2:35 夜間のFlower Travellin' Bandの映像。Mopsの鈴木ヒロミツも映っている。

ジョー山中(当時23歳)の語り Joe Yamanaka (Flower Travellin' Band)
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 ジョー山中のFlower Travellin' Bandは、1971年にカナダに渡り、Satoriを発表しました。山口冨士夫もチャー坊もFlower Travellin' Bandを目標にして世界進出を目指したのだと思います。1972年に東芝の石坂敬一が村八分をイギリスでリリースしようと計画しましたが、石坂敬一が洋楽部門に属していたため実現できませんでした。

1970年「ロックイン・ハイランド」(富士急ハイランド)から10年後、1980年に山口冨士夫が参加した裸のラリーズLes Rallizes Dénudés 
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裸のラリーズのニュー・アルバム『屋根裏 YaneUra Oct.'80』
山口冨士夫をメンバーに迎えた裸のラリーズ、1980年10月に渋谷・屋根裏で炸裂させた歴史的ライブ・パフォーマンスがついに2024年7月に公式リリース CDとLP https://rooftop1976.com/news/2024/05/31121000.php
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2024年05月15日

RIP 追悼 Michele Bavaro・Alphataurus 〜 1973年Italian Progressive Rockの名盤 Alphataurus 〜 ソロ歌手としての軌跡

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Michele Bavaroの全作品


今日の1曲
Alphataurus / Peccato d'orgoglio 1973
Alphataurus / La mente vola 1973
Michele Bavaro / The Long and Winding Road 1988
Michele Bavaro / Caruso 1990
Michele Bavaro / My Way 1990
Michele Bavaro / Tu si na cosa grande
Alphataurus / Croma 1973
Alphataurus / Dopo l'uragano 1973

 またとても悲しいニュースが入りました。Alfonso Oliva, Guido Wassermanに続いて、Italian Progressive RockのAlphataurusのVocalistだったMichele Bavaroが亡くなりました。ご冥福をお祈りするとともに、その名唱を振り返りたいと思います。

Alphataurus - Wikipedia
https://it.wikipedia.org/wiki/Alphataurus

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amazon 販売 3面開き/紙ジャケットCD Alphataurus 
https://amzn.to/3QMAr5E

 1973年の名盤Alphataurusは、New TrollsのVittorio De Scalziの全面サポートにより、Magmaレーベルの1番としてリリースされ、現在も名盤として語り継がれています。日本では、今思えば本当に奇跡的に1982年にキングレコードから発売されました。

 Alphataurusは多彩なKeyboardに加えて重厚なHard RockやBlues Rockとの融合が見事でした。さらに、逆説的な爆弾のジャケットと共にベトナム反戦への強烈なメッセージが込められていました。

 それらの重い表現を可能にしたのが、Michele Bavaroの抒情的でありながら、Hardな楽曲にも対応できる強靭な歌唱力だったといえます。Alphataurusは5曲ともすべてが素晴らしい楽曲でした。

Alphataurus / Peccato d'orgoglio (youtube.com) 
https://www.youtube.com/watch?v=w5_i_I-KGUc&list=OLAK5uy_lw8koUUrsJt1VOOKlIxLmUxWuEMYtREcc
A面の1曲目「高慢の罪」は1982年には対訳がなくてわからなかったが、まさにベトナム反戦へのメッセージだと感じられた。

Alphataurus / Dopo l'uragano
https://www.youtube.com/watch?v=bJ8iUuzXRhk&list=OLAK5uy_lw8koUUrsJt1VOOKlIxLmUxWuEMYtREcc&index=2
A面の2曲目。Michele Bavaroの出自が感じられる強烈かつ繊細なBlues Rockの佳曲。

Alphataurus / La mente vola (youtube.com)
https://www.youtube.com/watch?v=-980ewBsCQw&list=OLAK5uy_lw8koUUrsJt1VOOKlIxLmUxWuEMYtREcc&index=4
B面の1曲目。3:20までのSynthesizerはGerman Electric RockやTubler Bellsからの影響がみられる。一昨年亡くなったAsh Ra TempelのManuel GöttschingもAlphataurusのファンだった。
3:21からのVocalパートは、イタリア屈指の歌曲と言える。

ソロ歌手として名声を得たMichele Bavaro
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 Alphataurus解散後、Michele Bavaroはソロ歌手として成功し活躍しました。Michele Bavaroの素晴らしい歌を聴いてみたいと思います。

 1988年の初めてのソロアルバム「Surplace」では、歌曲でありながら10分前後に及ぶメドレー組曲が3曲も含まれ、Italian Progressive Rockに対するこだわりが感じられます。組曲「Souvenir」の冒頭はBeatlesのThe Long and Winding Roadの素晴らしいカバーです。

Michele Bavaro / Souvenir組曲
/ The Long and Winding Road / September Moon / Smoke Gets into Your Eyes / Feeling /... (youtube.com)
https://www.youtube.com/watch?v=LMXMNyd9nZQ

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Michele Bavaro / Ricordi 組曲
/ La più bella del mondo / Potrai fidarti di me / Una ragazza in due / I miei giorni... (youtube.com)
https://www.youtube.com/watch?v=iVqPKR1Y8w8

Michele Bavaro / Tu si na cosa grande 
https://www.youtube.com/watch?v=Qka7980QSHw

 1990年の2ndアルバム「Semplicemente... Io」ではLucio DallaのCarusoをカバーし、ROMANIAでの「FESTIVAL INTERNAZIONALE BUCAREST」でのテレビでの貴重な映像が残されています。

MICHELE BAVARO / CARUSO.avi (youtube.com)
https://www.youtube.com/watch?v=86qoRoJRE2A
Milvaのライブを思い出させる素晴らしい名唱

 2015年には、2009年に再結成したAlphataurusにMichele Bavaroが一時的に加入し、ライブを行いました。Michele BavaroのAlphataurusに対する情熱が感じられました。

左から故Guido Wasserman, Pietro Pellegrini, Michele Bavaro 2015年
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 最後に、Michele Bavaroの素晴らしい「My Way」とAlphataurusのライブでは最後に演奏された「Croma」で締めくくりたいと思います。

Michele Bavaro / My Way (youtube.com)
https://www.youtube.com/watch?v=qegtg6x2nYc

Alphataurus / Croma (youtube.com)
https://www.youtube.com/watch?v=PWFo6WPAWkY&list=OLAK5uy_lw8koUUrsJt1VOOKlIxLmUxWuEMYtREcc&index=3

 Michele Bavaroさんからは暖かいメッセージをいただきました。
 素晴らしい音楽をありがとうございました。
 Michele Bavaroさんのご冥福をお祈りいたします。RIP

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2024年05月04日

追悼RIP フジコ・ヘミングIngrid Fuzjko Hemming @ 〜 フジコさんとの出会い1999年 〜 過去のブログを振り返って 〜 フジコさんありがとうございました

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1970年にウイーンの街中に貼られたというフジコさんのポスター。フジコさんの憧れのJuliette Grecoも。しかし、Leonard Bernsteinに認められてやっと実現したリサイタルの1週間前に、貧困から風邪を悪化させ、聴覚を全て失う。

Japan's most famous pianist Ingrid Fuzjko Hemming has passed away at the age of 92. Fuzjko was born in Berlin in 1932. Because she was mixed race, she faced discrimination in Japan during World War II. For that reason, more than anyone else, she wanted an end to the war and peace. She performed a charity concert in support of Ukraine.
In 1970, Leonard Bernstein and Bruno Maderna recognized her and helped organize a solo recital for her in Vienna. However, a week before the recital, she developed a cold and lost her hearing due to poverty, and the concert was a failure. After that, she lived a long unhappy life. She went to see her Russian-Swedish father in Stockholm, but he refused to see her.
In 1999 she became famous in Japan with a TV documentary. On June 7, 2001, she gave a successful recital at Carnegie Hall in New York.
Her bright and positive personality made her popular on TV. She was also passionate about the animal rights movement. In May 2021, when Japan was also in a hopeless state due to the coronavirus, she was the only person on TV to make positive comments. I went to her concert three times and sent her fan letters several times. She also sent me a letter.
Sorry for my poor English.

Ingrid Fuzjko Hemming - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Ingrid_Fuzjko_Hemming

Ingrid Fujiko Hemming / La Campanella (youtube.com)
https://www.youtube.com/watch?v=xNzzF0M5hB0
フジ子・ヘミング〜ラ・カンパネラ

今日の1曲
Ingrid Fujiko Hemming / La Campanella
Ingrid Fujiko Hemming / Chopin Etude Op.10 No.3
Ingrid Fujiko Hemming / Liszt: Consolation No. 3 In D Flat
Ingrid Fujiko Hemming
     / W.A.Mozart/Piano Concerto No. 21 in C Major, K. 467
Ingrid Fujiko Hemming
     / Traumerai/Kinderszenen7,Op.15/Schumann


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 フジコ・ヘミングさんが4月21日に92歳で亡くなられました。

フジコ・ヘミング公式サイト (fuzjko.net) 訃報
https://fuzjko.net/news/20240502

フジ子・ヘミング - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%B8%E5%AD%90%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0
フジコさんの苦難の歴史


〜 1999年 フジコさんとの出会い

 1999年にETV特集「フジコ : あるピアニストの軌跡(1999年2月)」が話題になり、直後の再放送でフジコさんを知りました。そのころ人生の1番苦しい時期だったため、フジコさんの数奇で自分よりもはるかに苦難の人生に感銘を受けました。

 シティロードが1994年で廃刊になったことで、1983年から人生の支えだった山口冨士夫さんの情報が途絶えていたので、フジコさんが新たな人生の支えになりました。フジコさんが保護猫を飼っていることにも感銘を受けました。

 フジコさんのお住まいが、カシアス内藤と沢木耕太郎の「一瞬の夏」の舞台になった下北沢の金子ボクシングジムの隣というのも驚きでした。その後、下北沢を通るときは小田急線からフジコさんの家を眺め、また、金子ジムの近くまで散策することもありました。

〜 2000年

 2000年は人生の中で大きな転機となり、以後、フジコさんのCDを聴き、本を読み、コンサートにも3回行き、ファンレターも出しました。
フジコさんは1999年以降、大活躍を続けられ、その姿にいつも勇気づけられてきました。

翔け!フジ子・ヘミング 35年目の世界初挑戦 〜奇蹟のピアニスト独占密着
https://www.youtube.com/watch?v=Pml46Vk2ejo
57:33 2001年のカーネギーホールでのリサイタルの成功

〜 2005年

 私も2005年に念願の目標を達成することができました。そして、フジコさんのショパンの「別れの曲」を聴いて感動し、初めて新宿と地元のピアノ教室に通い、初心者用の楽譜でテーマ部分を練習しました。

Ingrid Fujiko Hemming / Chopin Etude Op.10 No.3
https://www.youtube.com/watch?v=fKuv_Xp7BOc
フジ子・ヘミング 〜 ショパン 「別れの曲」

フジコさんに憧れて練習した「別れの曲」の楽譜
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 今回、過去のブログを振り返って、改めてフジコさんに癒され、勇気づけられてきたことを再確認したいと思いました。


【過去のフジコさん関連のブログ】

〜 2008年10月01日ブログ

タイガーマスクT 今日の1曲 <21> フジ子・へミング
http://soleluna.seesaa.net/article/107438358.html
2006年5月の祖母の死がきっかけで体調が悪化。2008年6月4日に遺書代わりとも思って開始した本ブログの21曲目がフジコさんだった。タイガーマスク伊達直人やカシアス内藤などがフジコさんと重なった。このころから体調が回復していった。

〜 2008年11月17日ブログ

癒しの達人再び 今日の1曲 <39> フジ子・ヘミングU
http://soleluna.seesaa.net/article/109787167.html
4度目の戦いが始まるときだったが、養護施設に慰問するフジコさんに勇気づけられた。3度目の戦いまでは絶望的な気持ちだったが、この4度目の挑戦の時は1週間宿泊した毎日が充実し、翌年8月の5度目の挑戦での成功につながった。

〜 2014年04月19日ブログ

癒しの達人 〜 フジコ・ヘミング・コンサート
http://soleluna.seesaa.net/article/395080596.html
山口冨士夫さんが2013年8月に亡くなって2度目の体調が悪化し、2014年1月、2月ごろが地獄のような苦しみのピークだった。ドラムの入った音楽は聴けず、寝床で唯一聴けたのがフジコさんのピアノ曲だった。救いを求めるように相模大野でコンサートを聴いた。Le OrmeのCollageで引用されたDomenico Scarlattiに感動してファンレターを書いた。

Ingrid Fujiko Hemming / Liszt: Consolation No. 3 In D Flat
https://www.youtube.com/watch?v=op0aaD_R-8A
フジコ・ヘミング / リスト / 慰め コンソレーションNo.3

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奇蹟のピアニスト~フジコ・ベスト&レア

〜 2016年06月26日ブログ

音楽の夢 〜 フジ子・ヘミング ピアノリサイタル
http://soleluna.seesaa.net/article/439426545.html
2015年に祖母、2016年3月に父が亡くなり、原因不明の体調不調が続いていた。墨田トリュホニーホールでのフジコさんのリサイタルは、ほとんどが美しい知っている名曲ばかりで癒された。最後のアンコールがトロイメライだった。まさに音楽によるセラピーだった。

Ingrid Fujiko Hemming / Traumerai/Kinderszenen7,Op.15/Schumann
https://www.youtube.com/watch?v=4--Y76E3umA&t=134s
フジコ・ヘミング「トロイメライ(子供の情景 作品15 〜 第7曲)/ シューマン」

〜 2017年07月19日ブログ

フジコヘミング・ハンブルク交響楽団コンサート
http://soleluna.seesaa.net/article/451939832.html
昨年からの体調不良がまだ続いていた。ガンなどの検査なども受けたが理由がわからなかった。寒気のため真夏なのにコートを着てコンサート会場に行った。フジコさんのモーツァルト: ピアノ協奏曲第21番:第2楽章は美しかった。

Ingrid Fujiko Hemming / W.A.Mozart/Piano Concerto No. 21 in C Major, K. 467
https://www.youtube.com/watch?v=8tx7ImWWg74&t=578s
フジコ・ヘミング モーツァルト/ピアノ協奏曲第21番 ハ長調 K 467 
18:35から2楽章のPianoパート
 
〜 2021年

 2020年の初頭は、コロナのため3か月ブログを書く気力を失いました。
 2021年もコロナの恐怖は続いていました。しかし、再度の非常事態宣言の際、テレビで唯一フジコさんの「戦争のときとくらべれば大丈夫」という前向きな言葉にとても勇気づけられました。

フジコ・ヘミングからのメッセージと『エオリアンハープ』
https://www.youtube.com/watch?v=JBshzBrsTNI
0:35 コロナウィルスについて「戦争に比べればまだ大丈夫です」

〜 2022年

 2022年は、ウクライナ戦争の連日の新聞テレビ報道で体調が不良になりました。そのようなときにフジコさんの「ウクライナ支援チャリティーコンサート」の告知を新聞で見てたいへん勇気づけられ、壁に新聞を貼っています。

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〜 2023年

 フジコさんが昨年2023年11月に転倒して怪我をされ、コンサートをキャンセルされたときは驚きましたが、不屈の精神力で回復されると確信していました。

〜 2024年

 4月に、7月の振り替え公演が1回実施されると知り喜んでいたのですが、それも先週中止になったと知り、心配でお見舞いの手紙を書こうと思っていた矢先だったので、4月21日に亡くなっていたのは大変ショックで、一昨日は心の整理がつきませんでした。

 しかし、萩原健一さんや鮎川誠さんのように、フジコさんがファンに心配をかけないために3月に膵臓癌と診断されたことを公表されなかったということをお聞きし、フジコさんのご遺志に応えるためにも前向きに頑張ろうと思います。

 今まで生きる勇気と癒しをありがとうございました。
 ご冥福を心よりお祈りいたします。RIP

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posted by カンカン at 14:41| 神奈川 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | クラシック Classic Music | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年04月28日

「音楽の夢」 ドイツ・Cosmic Couriers 約50年ぶりの2つの発掘音源! 〜 @ “Sci Fi Party - Remaster” ついに実現!幻の音源でTangerine DreamがKlaus Schulze、Ash Ra Tempel、Wallensteinと夢の共演 〜 A “Gilles Zeitschiff2” Jürgen DollaseとRoberto Cacciapaglia主導・Melodie重視のCosmic Jokers・OhrとMina PDUとの関係 

Cosmic Jokers / Sci Fi Party- Remaster 2023年版
https://amzn.to/49tVBw7 Tangerine Dream未発表曲の隠しトラック収録
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Die Kosmischen Kuriere = Cosmic Couriers


今日の1曲
Cosmic Jokers / Sci Fi Party - Remaster 2023 inc. Tangerine Dream
Cosmic Jokers / Gilles Zeitschiff2 2023
Wallenstein / Your Lunar Friends 1974
Roberto Cacciapaglia / Sonanze 1975
Tangerine Dream / Alpha Centauri 1971


 2022年にKlaus Schulze、Manuel Göttschingが続けて亡くなってしまいましたが、2023年にCosmic Couriersから実に約50年ぶりにCosmic Jokers関連の発掘音源が2つもリリースされました。

 数年前、Cosmic CouriersのEngineerだったDieter DierksとWallensteinのHarald Grosskopfの間で、Cosmic Couriersの未発表音源のマスターテープがみつかったというニュースが入りました。今回のリリースがそれだと思われます。

1974年のCosmic Jokersの5作
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〜 @ “Sci Fi Party - Remaster 2023” ついに実現!! 幻の音源でTangerine DreamがKlaus Schulze、Ash Ra Tempel、Wallenstein, Tarotと夢の共演 

 まず、Sci Fi Partyです。これはOhr‐Cosmic Couriersレーベルの1974年の11番で、Best編集版に語りが乗る内容でした。Cosmic Couriersの作品の中でも特に美しいMelodieの部分を集めたもので、音楽の本質はMelodieというメッセージを感じる好盤でした。

Cosmic Jokers / Sci Fi Party 1曲目 Im Reich der Magier
https://www.youtube.com/watch?v=eJMrBjjsm9E&list=OLAK5uy_loUgcB7HvAERqI6Wo7Crizq62Hr4THtNU&index=2
1曲目はCosmic Jokers / Cosmic JokersのA面Galactic JokeからManuel Göttschingのギターが最もかっこいい部分と、Klaus Schulzeの印象的なMelodieのSynthesizerのPartを抽出。Jürgen Dollaseによれば、この曲で実際に主導権をとっていたのはHarald GrosskopfのDrumsとJürgen DollaseのBassのdriveだった。

 1972年のOhrの2枚組Best盤「Kosmische Musik」がドローン中心のDarkな宇宙観の音楽の編集盤だったのと比較すると、2年間でベトナム戦争などの状況が大きく変わったことが感じられます。

 今回、Cosmic Couriers・Dieter Dierks関連で2021年からRemasterが出たのは、Walter Wegmüller / Tarot、Wallenstein / Cosmic CenturyとBlitzkrieg、Cosmic Jokers のCosmic Jokers、Galactic Supermarket、Gilles Zeitschiff、Planeten Sit-in、Sci Fi Partyです。


 ところが、Discogsを見ていたところ、Sci Fi Party‐Remasterについては、今まで情報さえ聞かないTangerine Dreamの幻の音源“Alert!”の隠しトラックがあるとのことでびっくり仰天。Cosmic Couriersにおいて、Tangerine Dreamと、Klaus Schulze、Ash Ra Tempel、Wallenstein, Tarotと夢の共演がついに実現となりました!

 1973年にTangerine Dreamは、Virginと契約して、OhrからOhr‐Cosmic Couriersへの移籍を断り、Edgar Froeseが契約無効の訴訟を起こして勝訴しました。

 1973年の初頭では、Tangerine DreamとAsh Ra Tempel、Klaus Schulzeが写っているOhrの宣伝Poster「Kosmo Rock」(Edgar Froeseの創った言葉とのこと)も存在しました。この時点では、Tangerine DreamもCosmic Couriersに移ることを予定していたと思われます。

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 ところが、1974年に発売されたCosmic Couriersの12番のLP Gilles Zeitschiffにおいては、冒頭のGilleのメンバー紹介で、「mit Timothy Leary…Klaus Schulze…Ash Ra Tempel」と、Tangerine Dreamの名が外されていました。

 これに対して、1991年に再発されたSpalaxのGilles Zeitschiffでは「mit Timothy Leary…Klaus Schulze…Tangerine Dream…Ash Ra Tempel」とTangerine Dreamの名が入っています。そこで、1991年版CDは、まだ訴訟継続中の音源だったことがわかります。

 もしTangerine Dreamが敗訴していたら、PhaedraもVirginではなく、Ohr-Cosmic Couriersの黄色いラベルで発売され、Gilles Zeitschiffの付録の大型Posterでも最上段にAsh Ra Tempelではなく、Ohrのドル箱だったTangerine Dreamが印刷されていたと思われます。

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 そして、2023年のSci Fi Party‐Remasterで、ついにTangerine DreamのCosmic Couriersへの参加が隠しトラックとして実現されました。入っている箇所は、A面2曲目のWalter Wegmüller / Tarotと3曲目のWallensteinの間です。

 Tangerine Dream "Alert!"については初めて聞きました。
 ほとんど情報がなく、Ash Ra Tempel / Seven UpのようにTimothy Learyとの共演とのことです。

 一体どんな音楽なのか? 

 ネタばれになるので詳しくは書きませんが、サウンドはOhr時代の実験的なもので、今までTangerine Dreamの作品では聴いたことのないようなものです。本作Sci Fi Partyの流れの中で、サプライズとして挿入された箇所も的確だったと思います。

 ドイツロックのCDを買ったのは10年ぶり以上だと思います。久々にドキドキしながら、CD「Sci Fi Party‐Remaster」を聴くことができました。



〜A  “Gilles Zeitschiff2” Roberto Cacciapaglia ・ Jürgen Dollase主導、Melodie重視のCosmic Jokers 〜 ついに明かされたOhrとMinaのPDUとの関係

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CD Gilles Zeitschiff2 2023年  amazon
https://amzn.to/43LzjVj

CD Gilles Zeitschiff1(1974) amazon
https://amzn.to/3U8Jss6


 もう一つのサプライズは、Cosmic Couriersの約50年ぶりの完全な新作、Gilles Zeitschiff2です。Gilles ZeitschiffはCosmic Jokersの中でも異色作で、主にTimothy Leary&Ash Ra Tempel / Seven Upの音源をKlaus SchulzeのSynthesizerで繋ぐ内容で、それにGilleのVoiceが重なるというものでした。

 特にA面1曲目「Tim bleibt bei uns」冒頭から始まるKlaus SchulzeのSynthesizerとGilleのVoiceには、宇宙に対する夢があって本当に素晴らしかったです。Klaus Schulze関連作品の中でも「Tim bleibt bei uns」はトップ10に入れたいと思います。

Tim bleibt bei uns
https://www.youtube.com/watch?v=1dbBMLPwO3A&list=OLAK5uy_mFNEAEm7UVS5SMUSO0n9Xmvb_QDG3kJq8
CD版1991年では、冒頭のメンバー紹介で“Klaus Schulze”に続いて、0:30で“Tangerine Dream” “Ash Ra Tempel”との語りが続く。これに対してLP版1974年では、“Tangerine Dream”が抜けて、Klaus Schulzeの次にAsh Ra Tempelが来る。

 Gilles Zeitschiffは、Cosmic Couriersの夢のあるポスターもついていて良き思い出です。

「音楽の夢」Cosmic CouriersのSci Fi PartyとGilles Zeitschiff
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Meine kosmische Musik
https://www.youtube.com/watch?v=XCEfhjLg54E&list=OLAK5uy_mFNEAEm7UVS5SMUSO0n9Xmvb_QDG3kJq8&index=13
旧LPのB面の最後の曲。0:59でCD版では“Tangerine Dream und Ash Ra Tempel”と語っている。LP版にはTangerine Dreamが入っていなかったと記憶している。

 そして、2023年に新作Gilles Zeitschiff2が突然リリースされていました。
 全く予期しない事件に気が付いて驚き、さっそく購入しました。

 まずメンバーですが、Gilles Zeitschiff1が、Klaus Schulzeのソロと、Timothy Leary&Ash Ra Tempel / Seven Upが主要な構成で、Walter Wegmüller / TarotとSergius Golowin / Lord Krishna Von Golokaが少しだけ入るものでした。 
 Cosmic Jokersは、Ash Ra TempelとWallensteinの合体が基礎にありましたが、Gilles Zeitschiff1は、Klaus SchulzeとManuel GöttschingのAsh Ra Tempel色の強い作品でした。

 これに対して、Gilles Zeitschiff2のMusic Composerの記載は、トップがイタリア人のRoberto Cacciapaglia で、以下、WallensteinのJürgen Dollase、Dieter Dierks、ゲストとしてWallensteinのHarald Grosskopf、そしてMythosとなっています。
 従って、まったくAsh Ra Tempel、Klaus Schulze色のない作品になっています。

 そして、Gilles Zeitschiff2はDieter DierksのProduceにより、Dierks Studioで作られています。
 7曲で構成されていて、どの曲を誰が作り、誰が何を演奏しているかまでは記載されていないので、想像するしかありません。

 期待を膨らませて聴いてみると、やはり、Beethoven、Bachなどのクラシックを日々弾いていたというJürgen DollaseのMelodie志向が感じられました。

 特に感動したのが、4曲目Leonardo、5曲目Beethovenで聴かれるJürgen DollaseとすぐにわかるPianoです。ここではWallensteinのStories, Songs & Symphoniesで聴かれるフレーズが郷愁を誘いました。このフレーズによって、本作がDieter Dierksのスタジオで1974年ごろに制作されたものだと証明できます。

 そして、本作Gilles Zeitschiff2でもっとも貢献していると思われるのがイタリア人のRoberto Cacciapaglia です。7曲全体に聴かれるSynthesizerの音は1974年当時としては世界最先端の音と言えます。

 Jürgen Dollaseは、WallensteinのCosmic CenturyやStories, Songs & Symphoniesでは、メカニカルなSynthesizerに強くこだわっておらず、Piano、Mellotron、また1977年のNo More LoveではStrings系のSynthesizerが見事でした。

Wallenstein / Your Lunar Friends 1975年
https://www.youtube.com/watch?v=ohLvYWo8dRM&list=OLAK5uy_nfyB0zKp1N7pYJ4pvOHfQWtmqswK8Mwa0
1:00でWallensteinには珍しいメカニカルなSynthesizerが聴かれる。2:48で「Gilles Zeitschiff2」でも聴かれるピアノのフレーズが美しい。

 そこで、Gilles Zeitschiff2の全体で聴かれるVangelisを思わせるSynthesizerを操っていたのは、Jürgen DollaseではなくRoberto Cacciapaglia だと想像できます。

Roberto Cacciapaglia Wikipedia
https://it.wikipedia.org/wiki/Roberto_Cacciapaglia

 Roberto Cacciapaglia の名前は40年以上前から聞いたことがあり、MinaのPDUがCosmic Couriers、Ohr、Pilzをリリースした時、PDUから1枚だけイタリア人のRoberto Cacciapaglia の作品も出ていたのを不思議に思っていました。

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最後段の左から2番目がRoberto Cacciapaglia / Sonanze

 その後、Roberto Cacciapaglia はイタリアでも有名な作曲家になっていたことを知りました。PDUから1975年に出たSonanzeもYoutubeで聴けるようになっていました。
 初めて聴きましたが、素晴らしい作品です。元々、クラシックの教養を持った人がGerman Electric Rockの影響を強く受けてSynthesizerに傾倒していったことがわかります。

Roberto Cacciapaglia / Sonanze [Full Album] 1975
https://www.youtube.com/watch?v=r3kh3UeaYXg&t=505s
 1st〜5th Movementまでが、LPのA面と思われる。1曲目の冒頭はTangerine Dream / Alpha CentauriのB面の世界に近いが、徐々にクラシックオーケストラになる。
 6st〜10th Movementまでが、LPのB面と思われる。クラシックを根底にTangerine Dream、Cosmic Jokers、Vangelisなどの色彩を持ったSynthesizerが素晴らしい。

 Sonanze のLPのジャケットには「Milan 1972 - Cologne 1974」「Recorded in Milan, Quadraphonic mix in Cologne」と記載されています。
 また、Sonanzeの内ジャケットに印刷された楽譜は、まさに1971年のTangerine Dream / Alpha Centauriや1975年のKlaus Schulze / Timewindに記載されたものと似ており、Roberto Cacciapaglia が、輸入盤でOhrのレコードを買って影響を受けたことがわかります。

上:Sonanzeのスコア 下:Alpha Centauriのスコア
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Tangerine Dream / Alpha Centauri 1971年
https://www.youtube.com/watch?v=BAuWKOBWNu4&list=OLAK5uy_noEO6a7IY62GQ8JNxn4DacJln_u2AwF9k
Edgar Froeseが初めてCosmic Music の概念を打ち出した画期的な作品。1971年のSounds誌年間最優秀アルバム。Amon Düül II / Tanz der LemmingeのSpace Rockにも影響を与えたと思われる。

 Minaもまた、Roberto Cacciapaglia と同様に1971年ごろからOhr、PilzのTangerine Dream、Ash Ra Tempel、Popol Vuh、Wallensteinの輸入盤を購入していたことが想像できます。

 2人ともドイツのCosmic Music に魅せられ、Minaは自分のレーベルから発売するにまで至り、Roberto Cacciapaglia はおそらく、OhrのRolf Ulrich Kaiserに自分の作品を売り込み、結果としてMinaのPDUを経由して、Roberto Cacciapaglia の作品はイタリア盤Cosmic Couriersの作品として世に出ることになったのだと思います。

MinaがPDUからリリースした1974年のCosmic Couriersの広告
「伝説のレコード,,,ついにイタリアで発売!」Museo Rosenbach の日本での世界初の再発の際のチラシを思わせる宣伝文
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上段:Tangerine Dream、Guru Guru
下段:Wallenstein、Popol Vuh、Ash Ra Tempel

 そして、Gilles Zeitschiff2は、まさにOhrとMinaのPDUを繋いだことを解明する手掛かりとなりました。
 
 想像できるのは、Roberto Cacciapaglia がMilanoで1972年から1974年までに作った音源をもって1974年にOhrに出向いたこと、そして、 KaiserはRoberto Cacciapaglia を同じくクラシック志向のJürgen Dollaseに紹介し、ケルンのDieter Dierksのスタジオで一緒にGilles Zeitschiff2の音源を作ったのではないかと思われます。

 Ohr‐Cosmic Couriersが1975年に倒産しなければ、もしかしたらCosmic Couriersの17番Popol VuhのEinsjäger & Siebenjägerに続く、18番としてGilles Zeitschiff2が1975年に出ていたのかもしれません。ドイツのOhr倒産後もPDUが権利を引き継いだので、Sonanzeがイタリアでリリースされたのだと思われます。

 Gilles Zeitschiff2は、美しいMelodieを多く含んでいて、久々に「音楽の夢」を見させてくれました。

 今後Cosmic Couriersからのリリースが期待できるのは、最近テープが発見されたという1973年2月のParisでの伝説的なTangerine Dream、Ash Ra Tempel、Klaus Schulzeのライブです。またTangerine Dream / Alerts!も可能性はあると思います。


【参考ブログ】 追悼RIP Klaus Schulze

Cosmic Jokersの1973年2月〜5月録音の作品群
http://soleluna.seesaa.net/article/490428522.html

Tangerine Dream / Alpha Centauri、Ash Ra Tempel / 1stなど1971年
http://soleluna.seesaa.net/article/488640389.html

1972年のKlaus Schulze、Ash Ra Tempel、Popol Vuh
http://soleluna.seesaa.net/article/488899441.html

1972年のTarot(Klaus Schulze+Ash Ra Tempel+Wallenstein)
http://soleluna.seesaa.net/article/489803257.html

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2024年03月29日

RIP 追悼 八代亜紀 Aki Yashiro sings Enka, Jazz, Pops, Rock, Heavy Metal 〜 1973年なみだ恋 〜 2012年大田区民ホール・アプリコのコンサートに行く 〜 2016年フジロックFUJI ROCK出演 〜 2018年自由が丘文化芸術大使就任 〜 八代亜紀さんありがとう

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八代亜紀 〜日本のポップスを唄う〜
amazon https://amzn.to/3PCUjYj

One of Japan's most famous singers, Aki Yashiro, has passed away on December 30, 2023. A grand farewell party was held on March 26th. Although she was successful as a Japanese popular domestic music “Enka” singer, when she was younger she aspired to be a Jazz singer like Julie London. She performed at Japan's biggest rock festival “Fuji Rock” and even performed with heavy metal. I like her emotional voice, like Greg Lake, Dalida, Patty Pravo.

今日の1曲
八代亜紀Aki Yashiro / なみだ恋 1973
八代亜紀Aki Yashiro / 愛は死んでも1971
八代亜紀 / だいじょうぶ 2018
八代亜紀 Aki Yashiro at FUJI ROCK FESTIVAL 2016
      / Funauta 舟唄
八代亜紀 Aki Yashiro&Martin Friedman (Megadeth)
       / Heavy Metal Medley ヘヴィメタ・メドレー
八代亜紀 Aki Yashiro / You'd Be So Nice To Come Home To
八代亜紀 Aki Yashiro / Summertime
八代亜紀 / シクラメンのかほり
八代亜紀 Aki Yashiro
/ Live at Birdland, New York with Helen Merrill
Julie London / Fly Me To The Moon Live 1964 

 一度コンサートに行ったこともある八代亜紀さんが昨年12月30日に亡くなり、先日お別れ会がありました。

八代亜紀 Aki Yashiro  wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%BB%A3%E4%BA%9C%E7%B4%80

3月26日のお別れ会の会場
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八代亜紀「だいじょうぶ」2018
https://www.youtube.com/watch?v=xbjwg0wqQ9I
熊本地震復興に向けて作られた歌

 八代亜紀さんが全盛期の1973年から1970年代にかけて私はBeatlesやProgressive Rockを主に聴いていましたが、八代亜紀さんの演歌のヒット曲もとても印象深いものでした。八代亜紀さんの声はGreg LakeやDalidaのように情感がありました。

 おそらく、八代亜紀さんは本当は演歌よりも洋楽が好きなのではないかと思っていましたが、後に八代亜紀さんは熊本で若い頃ジャズ歌手を目指していたことがわかりました。

 九州では前川清さんも元は有名なジャズ歌手で、十代の高橋真梨子さんも九州一の女性歌手と評価されていたとサンハウスの菊さんが書かれていました。

 八代亜紀さんは、熊本のキャバレーで3日間、初めて人前でジャズを歌ったのが自分のキャリアの原点と明言されています。その後、すぐに上京されましたが、もしそのまま熊本で歌って九州で有名になっていたら、前野曜子さんや高橋真梨子さんの代わりにペドロ&カプリシャスにスカウトされて「別れの朝」や「五番街のマリー」をヒットさせていたかもしれません。

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 2012年に初めて見た八代亜紀さんのコンサートの時、ステージ上を舞うようにリズミカルに歌われる姿がとても感動的でした。この人の本質は演歌ではなく、ジャズやポップスなのだと実感しました。

Julie London / Fly Me To The Moon Live 1964 
https://www.youtube.com/watch?v=WWxObuuy9oA
八代亜紀さんのパフォーマンスのイメージは、まさにこのJulie Londonの動きだった。

自由が丘で歌う八代亜紀さん
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 2018年には八代亜紀さんは自由が丘文化芸術大使に就任されました。自由が丘は小学校のときにBeatles、中学校のときにRolling Stones、Gentle Giant / In A Glass Houseなどを買ったソハラレコードがあった思い出の街です。

自由が丘文化芸術大使就任記念 八代亜紀スペシャルライブ 〜自由が丘女神まつり2018〜 | iTSCOMch | イッツコムチャンネル
https://www.itscom.co.jp/ch/program/blog/583474


 改めて、八代亜紀さんの素晴らしい歌を振り返ってみたいと思います。


−Aki Yashiro sings Enka −

 八代亜紀さんはお父さんに勘当されて15歳で上京してから1971年のデビューまで6年もかかっていたとは知りませんでした。1973年のなみだ恋がデビュー曲だと思っていました。売れるまで4回も名前を変えた五木ひろしさんと銀座のクラブなどで苦楽を共にしていたことも知りました。
 
 銀座のクラブでは八代亜紀の歌を聴いてホステスたちが泣いて感動し、1971年に期待されてデビューしたものの売れずに、手売りで回ったそうです。初めから売れていたら、今の自分はなかったと八代亜紀さんは言っています。デビュー後3年間売れなかった安室奈美恵さんを思い出しました。

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amazon 熱唱 八代亜紀 全集 ベストコレクション
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昭和演歌の金字塔 CD6枚組 全91曲 別冊歌詞集 (カバーケース)付


八代亜紀Aki Yashiro / 愛は死んでも1971 デビュー曲
https://www.youtube.com/watch?v=TTAe6cv6vBY

八代亜紀 Aki Yashiro / なみだ恋 1973
https://www.youtube.com/watch?v=EoepPNQyjfQ

八代亜紀 Aki Yashiro / なみだ恋 Live
https://www.youtube.com/watch?v=DeOfl8VDvVA&list=RDDeOfl8VDvVA&start_radio=1
素晴らしいファルセットとビブラート


−Aki Yashiro sings Rock、Heavy Metal −

 昔から、八代亜紀さんは本当はカルメンマキさんのようにJanis Joplinのようなロックを歌いたかったのではないかと想像していました。最近になって、その証拠がみつかって喜んでいます。

Aki Yashiro at FUJI ROCK FESTIVAL 2016
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八代亜紀 Aki Yashiro at FUJI ROCK FESTIVALフジロック 2016 / Funauta 舟唄
https://www.youtube.com/watch?v=JNa6SuAL3bw
麻生レミ、カルメンマキと並ぶ情念のロックシンガーと言える

八代亜紀 Aki Yashiro&Martin Friedman (Megadeth) / Heavy Metal Medley ヘヴィメタ・メドレー
https://www.youtube.com/watch?v=owFKrOQ10o8
Martin Friedmanが日本に憧れたきっかけは友人の家で聴いた八代亜紀の演歌だった。1:30で切られ役の名優福本清三も登場。

−Aki Yashiro sings Jazz −

 八代亜紀さんが本当はJazz Singerを目指していたのを知ったのは最近でした。BSなどでアメリカ公演などが放映され、その素晴らしさを知りました。

八代亜紀 Aki Yashiro / You'd Be So Nice To Come Home To
https://www.youtube.com/watch?v=ny4BX8IxWmc

八代亜紀 Aki Yashiro / Summertime
https://www.youtube.com/watch?v=DjZN9k9y8Pg

八代亜紀 Aki Yashiro / Live at Birdland, New York ライヴ・イン・ニューヨーク (ダイジェスト)
https://www.youtube.com/watch?v=7CpXX76oNJE
3:07 with Helen Merrill

−Aki Yashiro sings Pops −

八代亜紀Aki Yashiro / シクラメンのかほり
https://www.youtube.com/watch?v=E6Y50p2sYg0&list=OLAK5uy_mP-rzPe7PYt1sezbslnB828QZs821au_M&index=2

 最近は、BSの八代亜紀さんの司会の歌番組や地元紹介の番組が好きでした。
 八代亜紀さんが描かれる動物の絵にもとても癒されました。

Aki Yashiro drew many pictures and won prizes.
八代亜紀さんのお父さんも画家志望だったとのこと
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 素晴らしい歌をありがとうございました。
 ボランティアに熱心で、1973年から少年院に慰問に行かれていたことも最近知りました。
 八代亜紀さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。RIP

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2024年02月29日

2024年1月 感動の最新ライブ Of New Trolls / Chi Mi Puo' Capire 〜 76歳で2オクターブの声域・Paul McCartney、MinaもファンのNico Di Paloの驚異の“The Voice” 〜 1972年ベトナム戦争とChi Mi Puo' Capire 

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Of New Trollsの最新作 / Chi Mi Puo' Capire を再録音

今日の1曲
★Of New Trolls / Chi Mi Puo' Capire - Live 2024
New Trolls / Chi Mi Puo' Capire 1972
New Trolls / Un'ora 1970
New Trolls / C'è troppa guerra 1973 (Color)

 悲しい訃報が続いていますが、Vittorio De Scalziが亡くなった後も、Nico Di PaloとGianni BellenoのOf New Trollsの素晴らしい精力的なライブ活動が続いています。

Of New Trolls - Wikipedia
https://it.wikipedia.org/wiki/Of_New_Trolls

2024年1月13日のライブ
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 特に最新の2024年1月のChi Mi Puo' Capireのライブは感動しました。Paul McCartneyもファンだという“The Voice”とも呼ばれたNico Di Paloの2オクターブの高音Voiceも76歳で健在です。

★Of New Trolls / Chi Mi Puo' Capire - Live 2024年1月13日
https://www.youtube.com/watch?v=0se7ZiGPROo
1972年の原曲と同じキーで驚異の2オクターブの音域を歌っている。1998年の交通事故のためNico Di PaloはKeyboardとVocalに専念している。
 
 初めて Chi Mi Puo' Capireを聴いた1980年から44年もたちますが、1972年録音のUT収録の原曲以上に深い感銘を受けました。
 たしかに、Maurizio SalviのARP2600 Synthesizerが絡むサビのCの3つ上のAの3オクターブに近い超高音Voiceは、さすがにNicoが24歳のときのようには出ないようです。

 しかし、現在のNico Di Paloの声の方が太くて温かみがあり、年月と人生を重ねた味わいがあります。
 むしろ、バラードであるChi Mi Puo' Capireは、サビの超高音部分がないほうが、歌として説得力があると思いました。
 3オクターブの超高音が出なくても、76歳でCから2つ上のCまで2オクターブも歌えるNico Di Paloは世界でも無二の超人と言えます。

歌詞 New Trolls – Chi Mi Può Capire Lyrics | Genius Lyrics
https://genius.com/New-trolls-chi-mi-puo-capire-lyrics
詞の内容からは、Concerto Grosso Adagioにも通底するベトナム戦争の時代における死と絶望からの希求のようなものを感じる。


 New Trolls / UTは、1980年の8枚中7枚がイタリアだった第2回King European Rock Collectionの中でも目玉の一つでした。

New Trolls / UT Japan re-issue ”European Rock Collection 2”1980
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 1979年の第1回European Rock Collection でNew Trolls / Concerto Grosso Adagioは、イタリアにはPFM以上に凄いバンドがあるという衝撃と認識を日本に与えました。

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 そして、1980年の第2回European Rock Collection のNew Trolls / UTは「Concerto Grosso以上との評価もある」との触れ込みでリリースされました。

 喜んでUTを買って聴いてみると、全曲捨て曲がない充実したアルバムで、最後にAdagioにも劣らないChi Mi Puo’ Capireというとんでもない名曲が入っていました。
 1978年ごろに買ったNew Trolls / Antologia New Trollsという2枚組LPでもUTの曲が3曲入っていましたが、Chi Mi Puo’ Capireは入っていませんでした。

 また、第2回でUTと同時に発売されたOsanna / PalepoliのA面のMellotronの驚天動地の衝撃は、イタリアにはKing Crimsonも超えるバンドがあるという認識を与えました。
 New TrollsもOsannaもBacalovという巨匠がついていなくても、自分たちだけで傑作を作れるということも驚きでした。

 第2回European Rock Collection におけるUTのChi Mi Puo' CapireとPalepoliのMellotronは、この後、10年近くも続く日本でのItalian Progressive Rockの再発の起爆剤になったと思います。このような長期間のLPの再発シリーズは、日本のみならず、世界でも類を見ないものと言えます。

New Trolls / Chi Mi Puo' Capire 1972
https://www.youtube.com/watch?v=19ztsZ2fEbs
前作に収録のVittorio De Scalzi主導のIn St. Peters Dayに続いて、New Trolls自身でBacalov作曲のAdagioを超えようと挑戦した作品と言える。Nico Di PaloのVocalの音域は、下のC (0:45) から超高音の3つ上のA (2:47) まで、約3オクターブもある。

 もし、Chi Mi Puo’ Capireを1972年にMinaやMilva、あるいはMia Martiniなどが歌ってシングル盤にしていたら、イタリア音楽史上の名曲と評価されたかもしれません。しかし、サビの超高音も含めた原曲の2オクターブ半を超える音域を歌うことはMinaでも不可能だったと思います。やはりNico Di Paloの歌は異次元だったと思います。

 なお、MinaがNew Trollsの1970年のUn'oraを歌う計画もあったとされ、MinaはUn'oraのNico Di PaloのVocalの高音域の箇所を賞賛しています。

New Trolls / Un'ora 1970
https://www.youtube.com/watch?v=1vDwbuCGiKY&list=PLWBIZ261OgKjWq5DkIOOhvONqPBlQagSq&index=9
2:25の最高音のところをMinaが賞賛。

New Trolls / C'è troppa guerra (UT収録)のドイツBremen放送のBeat Clubをも凌駕する1973年の驚異のカラー映像。
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 1972年のChi Mi Puo’ Capireの超高音の話になってしまいましたが、Nico Di Paloの超高音Voiceも、1972年のKeith EmersonのHoedownやTrilogyのMoog、CanのDamo Suzukiの1971年のBeat ClubにおけるPaperhouseでの叫びのように、ベトナム戦争への怒りと救いを求める叫びだったのかもしれません。

 UTの最終曲Chi Mi Puo’ Capireの2曲前のB面1曲目には、Led Zeppelinを彷彿させるベトナム戦争を象徴する「戦争 C'è troppa guerra」が配されていました。

New Trolls / 戦争 C'è troppa guerra 1973 (Color)
https://www.youtube.com/watch?v=H09dsrpBkX8
1973年では世界でも類を見ない驚異のカラー映像。New TrollsがLed Zeppelinを超えようとしたものといえる。

New TrollsとLed Zeppelinが共演した伝説の1971年のCantagiroの写真。
Led Zeppelinのライブの際に観客の暴動が起きて中止になった。
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2024年02月15日

RIP 追悼Damo Suzuki ダモ鈴木・Canカン 〜 出会いMusic Life 1973年11月号 〜 1976年8月3日Can / Future Daysを買う 〜 1978年PILのJohn LydonがCanからの影響を公言 〜 1990年 衝撃映像・1971年Beat ClubのCan / Paperhouse 〜 1997年Quick Japanロングインタビュー 〜 「音楽の夢・音楽の力」ありがとう・ダモさんとの50年

”CAN SPIELT PAPERHOUSE” Beat Club 7. Aug. 1971
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CanとBremen放送のスタッフが、英米を超えるため敗戦国ドイツロックの威信を賭けて制作したと思われるBeat ClubでのCan / Paperhouseの渾身の映像
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Can's Damo Suzuki has passed away. However, he has long been a mysterious and legendary figure even for us Japanese people since 1970. I wanted to know the source of his power. In 1997, I read Damo Suzuki's long interview for the first time. When Damo Suzuki was a toddler, his older sister died trying to protect him from a car accident. Later, Damo Suzuki found out about this fact. Therefore, no matter what he did, he always believed that he was protected by supernatural powers from his late sister. And I read that in Germany, in a music magazine popularity poll in 1973, Can took 1st place in the group category and Damo Suzuki took 2nd place in the vocalist category.

Neu! Michael Rotherの追悼文 
Damo impassioned generations of musicians, but most importantly, he was a kind and gentle soul. Rest in peace, Damo. May your spirit keep on inspiring us.


今日の1曲
★Can / Paperhouse (1971) Beat Club Live
Tangerine Dream / Phaedra 1974
Can / Quantum Physics 1974
Can / Future Days 1973
★Can / Bel Air 1973
Kraftwerk / Autobahn 1974
Klaus Schulze / Timewind 1975 
Wallenstein / Song of Wire 1973
Popol Vuh / Einsjäger & Siebenjäger 1975
Faust / Krautrock 1974
Amon Düül II / Surrounded by the Stars 1972
Can / Paperhouse 1971 Tago Mago
★Can / Unfinished 1975
Can / Animal Waves 1977
Sex Pistols / Never Mind The Bollocks 1977
Locanda Delle Fate
       / Forse Le Lucciole Non Si Amano Più 1977
Emerson, Lake & Palmer / Knife-Edge Beat Club 1971
King Crimson / Larks' Tongues in Aspic Beat Club 1972
Popol Vuh / Bettina 1971 Beat-Club
Manuel Göttsching / E2-E4 1984
James Brown / There Was A Time (Live At The Apollo)1967
村八分 / むらさき (aka.恋しや)  1972
裸のラリーズ Les Rallizes Dénudés / The Last One _1977
★Can / Free concert (Sporthalle Cologne 1972)
天井桟敷「邪宗門」より「1970年8月」1972
NEU! / Für immer 1973
Guru Guru / Oxymoron 1972
Iggy and the Stooges / Down on the street 1970
★Can / Deadlock 1970 Live
Can / Deadlock 1970 Soundtrack
★Can Damo Suzuki ダモ鈴木 / Document film in Tokyo 2008


 Canのダモ鈴木Damo Suzukiさんが、ついに74歳で亡くなりました。

 30代で大腸がんになり、闘病しながら音楽活動を続けられてきたそうです。自分も経済的にも精神的にも厳しい状況ですがダモさんを見習って頑張りたいと思います。

元CANのダモ鈴木が死去 名曲“Spoon”“Vitamin C”や名盤『Future Days』などで歌った即興ボーカリスト | Mikiki
https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/36751

Damo Suzuki, Legendary Can Vocalist, Dies at 74
https://pitchfork.com/news/damo-suzuki-legendary-can-vocalist-dies-at-74/


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amazon book「I AM DAMO SUZUKI」2019年の自伝
https://amzn.to/49fRl3P


ダモ鈴木 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%A2%E9%88%B4%E6%9C%A8

元Canダモ鈴木、2022年公開ドキュメンタリー映画『Energy』記念でインタビューに応じる
https://amass.jp/162089/

 ダモさんを知ってからちょうど50年になります。日本人として海外で活躍したダモさんの業績を考えると、いったい自分は50年間何をしていたんだろうという感懐がふと浮かびました。Can / Future DaysはRolling Stone誌の選定したProgressive Rockの名盤で8位、また1973年のドイツの雑誌の人気投票ではDamo Suzukiがボーカル部門で2位になっています。

Rolling Stone ”50 Greatest Prog Rock Albums of All Time” 2015
https://www.rollingstone.com/music/music-lists/50-greatest-prog-rock-albums-of-all-time-78793/
日本語版
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/25323
http://prognote.net/progre/magazine/rolling-stone-50-greatest-prog.html

 1990年ごろにVHSビデオで初めて見た1971年のドイツBeat ClubにおけるCan / Paperhouseの映像は、今までに見た音楽映像のトップ5で、人生への影響力を含めればNo.1と言えるものです。人生で1番苦しかったときに、ダモ鈴木さんが動く映像を初めて見てどれほど勇気づけられたかわかりません。レコードでしか知らなかったCanの真の凄さを知るとともに、こんな凄いバンドに日本人がいたということを誇りに思いました。
 
★Can / Paperhouse (1971)  Beat Club Live
https://www.youtube.com/watch?v=LPjF4ZHuIko
1960年代から英米のバンドだけを紹介してきたブレーメンBeat Clubが、1970年10月24日のAmon Düül II、1971年4月24日のPopol Vuhに続いて、「英米のコピーではない」ドイツ・ロックの威信をかけて作ったと思われる1971年8月7日放送の渾身の映像。
5:00以降からラストまで、Tago Magoのレコードとは全く違うアレンジがされており、入念なリハーサルがあったことが伺える。

 1997年に、DamoさんのPaperhouseでの信じられないLiveや、日本で最年少ヒッピーと呼ばれ、世界を回った活動力の源泉が、Damoさんを交通事故から庇って亡くなったお姉さんにあることを知りました。ダモさんの行動力は、やはり1969年にアメリカでヒッピーになった村八分のチャー坊とも比較されます。

 初めて「ダモ鈴木」を知ったのは、生まれて初めて買った音楽雑誌Music Life1973年11月号です。そこには全盛期の終期にあったUKロック、Pantaと頭脳警察、裸のラリーズ、PFM、Faustなども掲載されていて、自分の音楽人生の起点のような本です。
 
 ダモさんとの出会いから50年を振り返ってみたいと思います。


= 1973年 =

ダモさんとCan、Kraftwerkとの出会いは小学生のときMusic Lifeの数行の記事
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・1973年11月 
 Music Lifeで「ダモ鈴木」の名を初めて知る。初めて買った音楽の本「ローリングストーンズのすべて」に続いて買った。Music Lifeの発売日の10月25日の直後に購入し、付録も付いた分厚い本に心が躍った。

 Damo Suzukiの記事はKraftwerkの1stの記事の中にあった。「ひょっこり里帰りしたダモ鈴木」と会った記者が、ダモ鈴木から「Kraftwerkって人気があったんだ。もう解散しちゃったけどね」と言ってKraftwerkの1stアルバムを渡されたというもの。変わった名前と、Yoko Ono以外にも日本人が外国で活躍していることが新鮮だった。

 別の記事で「蛇毛鈴木」と書いてあるのも見た。

 
= 1975年 =

・1975年6月30日 
 Tangerine Dream / Phaedraを購入。間章Akira Aidaの解説に感銘。今まででこれほど素晴らしいライナーは体験したことがない。哲学的な序文から、German Rockを概観した上でのTangerine Dreamの位置づけ、直接Edgar Froeseから聞いた話を基にしたTangerine Dreamの記述が素晴らしかった。なお、間章の3部作の著作集の中で、Phaedraの解説文は収録されていない。

Tangerine Dream / Phaedra 1974
https://www.youtube.com/watch?v=EhQpXD2Z9WQ

 間章の解説の中で「カン(Can)」は「グルグル(Guru Guru)」「アモンデュール(Amon Düül II)」と並んでGerman Rockの重要なパイオニアとして位置づけられ、ダモ鈴木への関心が膨らんだ。

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・1975年9月30日 
 カンの初めてのLP / Soon Over Babalumaをイギリス盤で買う。Damo Suzukiは不在だが銀色のジャケットが素晴らしかった。1曲目からお経みたいだと言われ、家族の評判はよくなかった。

 少ない小遣いで買ったLPなので必死に聴いて愛着が深まった。 良い部分もたくさんみつけたが(Splashのイントロとフェイドアウトの緊張感。特にB面の2曲目Quantum Physicsが美しい)、Phaedraや10月に購入したAmon Düül IIのメンバーが認める最高作 Wolf CityのSymphonicな完成度に比べると物足りなかった。

Can / Quantum Physics
https://www.youtube.com/watch?v=qsrgus_zA24&list=PL4EsdjBgRt6dzqlINIUCskYrnZLS0NAOu&index=4
Tangerine Dreamを意識してElectronicsへの比重を大きくしたと思われる。5:29以降のIrmin Schmittの所持でしか聞いたことがないSynthesizer ”Alpha77”は比類なき美しさ。Damo Suzukiの抜けた穴を必死に模索していたようだ。

 やはり、CanはDamo SuzukiがいるLPが良いのではないかと感じた。ダモ鈴木が1973年にCanのリハーサル中に突然奇声を上げて飛び出して、そのまま戻らなかったという伝説を知った。ダモ鈴木が「金、金」という他のメンバーに失望したという情報から、純粋な人ではないかと想像した。 


= 1976年 =

1976年8月3日
 Damo Suzuki参加のCan / Future Daysを購入。8月2日購入のWallenstein / Cosmic Centuryで半年ぶりにGerman Rockに再び衝撃を受け、翌3日に衝動的に貯金を叩いて5枚のGerman Rockを買ったうちの1枚。

Wallenstein / Song of Wire 1973
https://www.youtube.com/watch?v=ZhmieWBMqiU&list=OLAK5uy_meImELv2ZWlC-dQ09K3atdkMarhT5a1bE&index=5
6:36は、Galactic SupermarketのA面と並んでChorus Mellotronの世界最高作と言える。

 Future Daysはカットアウトのアメリカ盤で1480円と安かったが、独特の匂いがあった。
 他方、Wallenstein、Popol Vuhのドイツ盤Cosmic CouriersはMetronome制作のジャケットで、夢のような匂いがした。内容的にも、Wallenstein、Popol Vuh / Einsjäger & SiebenjägerはMelodieも美しく言葉で表せない感動があった。

Popol Vuh / Einsjäger & Siebenjäger 1975
https://www.youtube.com/watch?v=KglJfGEMTPg&list=OLAK5uy_kl8jHjlGbjZiYkDvFfHzMnoLbINcfpuoI
1分の美しい序曲とB面の20分の大曲という構成にも心を奪われた。

1983年になって初めて発売されたFuture Daysの国内盤
Canの先見性が畏敬の対象だったことがわかる帯は、強烈な印象だった。
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 Kraftwerk / 1、2は、1975年に感動した1973年の3rdアルバムRalf &Florianと異なり、いずれもノイズアルバムで1曲目しかメロディーがなかった。しかし、German Rockが1970年から実験を経てきたことは理解できた。KraftwerkもCanから影響を受けたことを後で知った。

 間章が推奨していたFaustも買う。Tony Conrad With Faust / Outside The Dream Syndicateはドラムの反復だけで、通して聴けなかったが、実験精神に畏敬の念を感じた。1976年12月24日にもう一枚トライして買った国内盤のFaust / W「廃墟と青空」は、1曲目KrautrockのリフにFaust Tapesのように隠されたメロディーがあって素晴らしかった。

Faust / Krautrock 1974
https://www.youtube.com/watch?v=m5-_c2VFxhQ&list=PLs9zwqXsceUhfeaql8tnSLxN5tEWbPiIP
自らKrautrockを名乗った代表曲。

 Canの最高傑作とされるFuture Daysは、タイトル曲から大曲Bel Airの最後までわかりやすいMelodieとリズムに貫かれ、起伏のあるBel Airは20分通して何度も聴けた。German Rockの元祖とされる実力を感じた。

Can / Future Days
https://www.youtube.com/watch?v=eyklWIMPoAA

★Can / Bel Air
https://www.youtube.com/watch?v=ayxRGsTiE4M
20分の楽園Music。全てをクラシックオーケストラにアレンジできるほど、Melodieと構造がしっかりしていると思う。
11:48からIrmin Schmittがクラシックの和声に基づいた美しいSynthesizerを配し、徐々にコード進行を変えていくことで最後まで聞き通せる名盤になったと思われる。

 CanのライバルAmon Düül II が1970年に1枚が即興の2枚組Yetiを出したのに対して、CanがB面とC面が即興の2枚組Tago Magoを出したように、Amon Düül IIの Melodie重視のWolf Cityに対抗して、CanもMelodie重視のFuture Daysを作ったと思われる。

 しかし、1974年〜1975年ごろは、Tangerine Dream / Phaedra、Ricochet、Klaus Schulze / Timewind、Ash Ra Tempel / Echo Wavesなど「Drumsのない」German Electric Synthesizerがしのぎを削っていた時期だったため、1973年のFuture Daysの音は時代に遅れた印象だった。
 Damo Suzukiの歌い方もこのFuture Daysでは的確だったのだが、情熱が感じられなかった。おそらく、Canも、Amon Düül II自身も、1974年から1975年にはTangerine Dreamがトップだったと思っていたのではないか。

Klaus Schulze / Timewind 1975年度 フランスディスク大賞
https://www.youtube.com/watch?v=qBn0Jnf7_3M&t=1s

〜 1975年・1976年当時のCanとGerman Rockを振り返って 〜

 現在はRolling Stone誌のProg名盤でも、8位のCan / Future Daysは23位のTangerine Dream / Phaedraより上位に評価。しかし、1976年当時の日本でのGerman Rockへの評価はTangerine Dreamが断トツで、Klaus Schulzeはかなり離れて次点、Kraftwerkはアメリカではシングルが4位だったが、日本ではまだ「テクノの始祖」という言葉もなく、知る人ぞ知るSynthesizer音楽だった。

Kraftwerk / Autobahn 1974
https://www.youtube.com/watch?v=x-G28iyPtz0&t=819s

 Canは、Tangerine Dreamなどの間章の解説を読んだ人以外は日本でほとんど知られていなかった。東芝からのTago MagoとEge Bamyasiの2枚の発売も知らなかったし、実物を見たこともない。1973年発売の東芝のAmon Düül II / Wolf CityのLPのライナーの広告にもAmon Düül IIは全て載っていたが、Canはなく、すぐに廃盤になって削除されていたようだ。Canは本当に売れなかったのだろう。

 私が音楽人生で一番影響を受けた東芝のハンドブック「Beatles Forever」の作成者で、日本で最初に「Progressive Rock」の名を流行らせた石坂敬一が、思い切ってCanを出したと思われる。最高作Future Daysが出なかったのは、CanがUAからVirginに移籍したからではないだろうか。

全く見たことも噂を聞いたこともないCan / Ege Bamyasiの東芝日本盤
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 1974年の時点では、DrumsのないTangerine Dream、KraftwerkなどのSynthesizer音楽が世界の最先端にあった。Pink Floydもそのことを認めていたと思われ、Nick MasonがTangerine Dreamのライブに参加する予定というChris Frankeの談話もあったが流れた。そのため、Drumsが入っているCanは時代遅れの音楽という印象だった。

 Tangerine Dream / Phaedra、Kraftwerk / Autobahnが、1970年のSynthesizer Rhythmの開祖のPopol Vuh / AffenstundeよりもMelodieと普遍性を持たせて成功したのも、やはりMelodieを重視してSymphonicに転向した1972年のAmon Düül II / Wolf Cityからの影響と思われる。

Amon Düül II / Surrounded by the Stars 1972
https://www.youtube.com/watch?v=scWD73Og0kQ&list=OLAK5uy_l9Y5Hg95UHPT7U3-QrvSY0F9bAhiSd1G8
 
 Canの場合、Irmin Schmittがのクラシック演奏家だったり、Holger Czukayもクラシックの知識があり、Michael Karoliはその教え子だったが、英米のロックのみならず、クラシックの伝統にも背を向けていた。しかし、同じUAレーベルのAmon Düül IIが1972年5月のItalian Progressive RockのVilla Pamphili Festivalに出演し、クラシカルなSymphonicの方向に転換した影響で、Future Daysも全ての曲でクラシックをベースにしたMelodieのある音楽になっている。

 しかし、1975年には、元Tangerine DreamのKlaus Schulzeが、Tangerine Dream / Phaedraからの影響で、TimewindでDrumsを完全に放棄。個人的には、Klaus SchulzeのTangerine Dream、Ash Ra Tempel、ソロアルバムPicture MusicにおけるDrumsは、John Coltrane / Love Supreme part3におけるElvin Jonesと並んで世界最高峰と思っている。TimewindのA面は元Drummerだからこそ作れたSynthesizer rhythmの極点といえる。またAsh Ra TempelのManuel Göttschingも1975年にDrumsのないInvenntions For Electric Guitarをリリースしている。

 このように、当時世界最先端のGerman Rockとは、Drumsがない音楽であることが最大の特徴だった。

 他方、Neu!にはKlaus Dinger、CanにはJaki Liebezeit という圧倒的に個性的なDrumsがいたため、Tangerine DreamなどのBerlin School一派とは異なりDrumsのあるElectric Musicにこだわった。Klaus Dingerは「Kraftwerkの2人の作品を尊敬するが、機械的だ」と批判していた。Drumsが残っていたため、Canには古臭さを感じてしまった。 

 そして、DrumsのないSynthesizer Musicがピークを越えて衰退した1976年以降は、再び、Drumsの入ったGerman Electric Rockが注目されるようになった。今日のようにCanやNeu!が評価されるようになるとは当時は想像もつかなかった。

2LP Can / Tago Mago Japan&UK これも見たことのない日本盤
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・1976年12月
 Can / Tago Magoのイギリス盤2枚組LPを買う。袋型変形ジャケには夢があって期待したが、1971年の作品でFuture Daysよりもさらに古い音だった。Canの代表作とされるTago Magoだが、2面にわたるMelodieのない即興も通して聴けなかった。

 それだけに、1990年になって1971年のPaperhouseのBeat Clubでのライブを見たときは驚天動地の衝撃だった。
 このような全盛期のCanとDamo SuzukiのライブをJohn Lydonがイギリスで体験したことが、Sex Pistolsのエネルギーに繋がったのだろう。

Can - Tago Mago [ FULL ALBUM ]
https://www.youtube.com/watch?v=Uzm6DG_ezOg
1曲目のPaperhouseの1:50での転換と、7:27のPaperhouseからMashroomへの曲の転換の部分は好きだった。

Tago Mago英国盤の裏側。先端の音だったFarfisa keyboardの広告がある。
John Lydon (Sex Pistols) の最愛聴盤でありSyd Viciousも聴いていた。
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 Canの1975年のLandedも「闇の舞踏会」のタイトルで1976年に日本盤が出たが、秋葉原の石丸電気で見たものの買わなかった。


= 1977年 =

 FMで間章か、あるいは渋谷陽一がCan / Landed「闇の舞踏会」からHunters and collectorsを放送した。ProgというよりRockの楽曲として秀逸で、Virgin移籍による情熱が感じられた。

 その後、Landedを聴いた。Vernal Equinoxのテクニックは凄まじいもので、また、UnfinishedはBeatlesのRevolution9のようなミュージック・コンクレートでありながら、随所にClassicをルーツとする美しいフレーズが隠され、ラストもGerman Rockの中では最高レベルの感動があった。Damo Suzukiはこんな凄い人たちと一緒にやっていたのかと感銘を受けた。

★Can / Unfinished
https://www.youtube.com/watch?v=Hmyplk2Pf0I
特に11:00あたりからが美しい。Tangerine Dream / Alpha Centauriのラスト5分を彷彿させる。

 1969年のCan / Monster movieはジャケットが素晴らしかったが、Tago Magoよりさらに音が古くて通して聴けなかった。Soundtracks、Ege Bamyasiは買わなかった。

 1977年にはTangerine Dreamの2枚組Live「Encore」を聴いて、Ricochetと異なり、緊張感のなさに落胆。
 Edgar Froeseの最新インタビューで「今はTangerine DreamがTangerine Dreamをコピーしてしまっている」という言葉を見て、Tangerine Dreamから心が離れた。ベルリンの学生運動のバリケードの中で生まれたTangerine Dreamもまた、ベトナム戦争が終わった1975年に創造者としての使命を終えたと思う。

 1977年のCan / Saw Delightを後に聴いたが、この中のAnimal WavesがCanの最後の輝きと思う。

Can / Animal Waves 1977
https://www.youtube.com/watch?v=GuvlTSRAmlI&list=RDGuvlTSRAmlI&start_radio=1

= 1978年 =

 John Lydonの発言によりCanが世界的に再評価

 Sex Pistolsを解散してPIL(Public Image Limited)を結成したJohn LydonがCanからの影響を公言して驚く。Sex Pistolsのときと人格が変わったように真剣な発言が多かった。
 日本人の在籍するバンドへのRespectを海外の有名なArtistが語ったのを聞いたのは初めてで、Damo Suzukiのことが誇りに思えた。他方でYoko OnoはBeatlesを解散させた人物のように言われていた。

 その影響で、1980年になって初めてSex Pistolsを聴いてみて感動した。Sex PistolsはPunkではなく、Melodieの伴った素晴らしい音楽で、1970年代のあらゆるProgressive Rockの凝縮されたエネルギーの1977年における最後の爆発だと思う。イタリアで1977年のLocanda Delle Fateが最後のItalian Progressive Rockの輝きと呼ばれているのを想起させる。Locanda Delle FateもテクニックだけのProgressive Rockではなく、美しいMelodieを伴った音楽だった。

 1977年にSex Pistolsを聴いていたら、人生が変わっていたかもしれない。
 1974年に「King Crimsonは死んだ」と語って音楽を止めたRobert Frippも、Sex Pistolsを聴いてKing Crimsonを復活させた。

Sex Pistols / Never Mind The Bollocks 1977
https://www.youtube.com/watch?v=LD2i99QPVI0

Locanda Delle Fate / Forse Le Lucciole Non Si Amano Più 1977
https://www.youtube.com/watch?v=U2ncX_2-7rw&list=OLAK5uy_nzzae6s13WA2Zqa6LjmXBFFUT0U030F8I


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amazon書籍 John Lydonの自伝
https://amzn.to/4aRO1MT



= 1982年 =

 Tangerine Dreamが初来日したが、興味がなくなっていた。Synthesizerはもはや日常生活のBGMになるほど拡散していた。Tangerine Dreamは、1986年に未発表音源Green Desert (1973年) の発売が気になったが、1988年のTygerを最後に国内盤も発売されなくなっていたようで、その存在は1977年から30年以上忘却の彼方にあった。Edgar Froeseが2009年に伊豆に来日し、広島、長崎をテーマにしたアルバムをリリースした時は嬉しかった。

= 1983年 =

 Canの旧譜が日本で一斉に再発されて驚いた。「1973年、君は生まれていたか?」という特異な帯の文章が象徴するように、当時Tangerine Dreamとは対照的に、Canは音楽史の中で極めて重要なバンドという認識になっていた。今日に至るまでCanに対する高評価は、様々な音楽誌で普通に見られるようになった。

 中野サンプラザでPublic Image Limitedのライブを見る。アンコールでSex Pistolsを1曲だけ、Anarchy in the UKを演奏した。ライブの前後に、原宿の竹下通りで偶然John Lydonジョン・ライドンに会い、サインをもらう。VDGGやPeter Hammillのファンだと聞いていたので、後になって、CanやPeter Hammillの好きなアルバムを質問してみたかったと後悔した。

= 1984年 =

 Manuel GöttschingのE2-E4が発売される。現在は、テクノの始祖としてGerman Electricの世界的再評価のきっかけになったが、LPを家で初めて聴いたときは単調な繰り返しに落胆した。Tangerine Dream以降、最後の頼みだったManuel Göttschingも終わりかと思い、German Rockに対する関心を全く失い、LPもすぐに売却した。

= 1988年 =

 VHSビデオ「ビートクラブ」のシリーズで「黄金のロック伝説Vol.7 Progressive Rock」発売。Beat Clubは世界最高レベルの音楽番組だからこそVHS化されたが、Youtubeのない時代には大事件だった。

 1985年に見た1973年のGenesis / Wacher of the skies以来、動くProgressive Rockを久々に見て、King Crimson / 太陽と戦慄part1、ELP / Knife Edgeに大感動。Neu!のメンバー2人Klaus Dinger、Michael Rotherを擁するKraftwerkの映像にも驚く。

Emerson, Lake & Palmer / Knife-Edge Beat Club 1971
https://www.youtube.com/watch?v=TQQdYokbp4E

King Crimson / Larks' Tongues in Aspic Beat Club 1972
https://www.youtube.com/watch?v=WhudDa3JAyc 


= 1990年ごろ = 

 Beat Club映像・Can / Paperhouseの衝撃

英米ロックの番組だったBeat ClubにGerman Rockで3番目に出演したCan。
敗戦を幼少のころに記憶した世代のIrmin Schmitt、Holger Czukay、Jaki Liebezeitは、英米を超えるGerman Rockを真剣に創ろうとしたという
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 VHSビデオ「ビートクラブ」シリーズの最大の衝撃は、レンタルで借りたボーナス特典ビデオの「Deep Purple / Highway Star」そして「Can / Paperhouse」だった。

 1976年12月に”Tago Mago”のレコードでPaperhouseを聴いたときは落胆した。1971年のGerman Rockは、1975年のTangerine DreamのSynthesizerよりも明らかに時代遅れの音楽だった。

 しかし、1971年のPaperhouseのライブ映像には、天地が返るほどの衝撃を受けた。
 同じ曲で、これほど違うものなのか? 
 今日に至るまで私が見た音楽映像で最高のものと言える。

★Can / Paperhouse (1971) Beat Club Live
https://www.youtube.com/watch?v=LPjF4ZHuIko
3:55からのMichael Karoliのギターソロもその場で思いついた即興でなく、すべて事前にMelodieが十分に練られ、ラストはIrmin SchmittのKeyboardとDamo Suzukiの歌による、Beethovenからの伝統に基づくSymphonicなProgressive Rockになっている。

 Paperhouseの最後のダモ鈴木の叫びの歌詞の内容が気になった。

 Can / Paperhouseで歌詞を検索すると、
”You just can't give back no more” が公式のTago MagoのPaperhouseの歌詞になっている。

Can / Paperhouse 1971 Tago Magoオリジナル音源
https://www.youtube.com/watch?v=8n4XPN62cDU
 
 しかし、Beat ClubでのPaperhouseの歌詞は、Tago Magoでの歌詞と明らかに食い違っている箇所がある。
 ダモ鈴木は即興音楽家であり、1996年のインタビューで、売るための音楽ではなく「切に」表現する音楽家が好きだと述べている。
 また、Canの歌詞は全てDamo Suzukiが作詞していて、印税を公平にするために全員の名前にしたとのことである。
 そこで、Damo SuzukiがBeat Clubのライブでは、Paperhouseの歌詞を意識的に変えたと思われる。
 
 最後の叫びの歌詞の内容は何なのか? 私は英会話が苦手でよくわからない。

”You just can get back no more” とするYoutubeのコメントを見た。

 長く英語圏で生活していた知人に聴かせたとき、

”You just can get back from war” と聞こえると言われた。

 1971年はベトナム戦争が泥沼化した時代で、Damo Suzukiは反戦ミュージカルHairに1969年〜1970年ごろに3か月ほど出演していた(Donna Summerとも会っていたと思われる)。そのため、Damo Suzukiが、”You just can get back from war”という反戦的なメッセージを伝えようとした可能性もある。

 Beat Clubへのドイツのバンドの出演は、ドイツのミュージシャンは皆注目していたと思われる。Can / PaperhouseのDamo Suzuki、Holger Czukayの半裸のライブは、1972年のAsh Ra Tempel / Schwingungen−Flowers must dieのVocalのJohn.Lなどにも直接の影響を与えたと思われる。 
 
 現在テクノトランスの始祖とされるManuel Göttschingも好きなArtistとしてCan、Popol Vuhを挙げている。ドイツでのトランス、反復Beatの始祖はCanと言える。Canもまた、Damo SuzukiのようにJames Brownから影響を受けていた。Damo Suzukiは日本にいたころ一番聴いていたのがJames Brownだった。Damo Suzukiとの出会いが、他のGerman RockにはないCanのGrooveを生んだと言える。

Popol Vuh / Bettina (1971年4月24日) Beat-Club
https://www.youtube.com/watch?v=W6RUstmzDic
これもPopol VuhとBremen放送が、英米のロックには全くないドイツのロックで挑戦したものといえる。

James Brown / There Was A Time (Live At The Apollo) 1967
https://www.youtube.com/watch?v=01GEJC95gmE

James Brown ‎– Live At The Apollo (1968)
https://www.youtube.com/watch?v=KIJzDvWWQxU&t=1181s
1990年ごろVHSビデオ店で最も推薦されていた作品の一つ。

= 1991年ごろ =

 芝浦のクラブ「Gold」でManuel GöttschingのE2-E4をDance Musicとして大音量で聴いて初めて感動し、イタリア、デトロイトなどで評価されていることが理解できた。Beat ClubのCan / PaperhouseでのDamo Suzukiの映像とともに、1984年から失われていたGerman Rockに対する関心が復活した。 

= 1997年 =

 初めてダモ鈴木のロングインタビューを読む。

目次 1997年「クイックジャパン vol.13 」 ダモ鈴木”Can”インタビュー  
同い年の「チャー坊”村八分”の生と死」を連載中
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 クイックジャパンで、1996年6月にケルンで3日にわたって行われたというDamo Suzukiのロングインタビューが掲載される。
 10回以上の長期に及んだ村八分の「チャー坊の生と死」を読んでいたため、幸運にも気づくことができた。

 インタビューによれば、Damo SuzukiがCanのリハーサル中に叫んで出て行ったという話は事実で、Canとの音楽性が食い違うようになり( Soon Over BabalumaはCanの解釈によるラテンロックを志向)、Future Daysで最高のものを作れたのが理由とのこと。その後石畳の職人の学校に2年通ったが、サラリーマンとなった。1973年に音楽雑誌の人気投票で、Canと他のメンバー全員が各部門で1位になり、Damo Suzukiがボーカル部門で2位になった。

 Damo Suzukiが子供の時、彼の姉は彼を交通事故から庇うために亡くなった。だから、彼はどんなことをしても、常に亡くなったお姉さんからスーパーナチュラルな力で守られていると思っていた。ダモ鈴木はずっと神秘的な存在で、そのパワーの源泉が謎だったが、やっとその謎が解けたと思った。

 ダモ鈴木は厚木出身で、米軍の兵隊から日本にないようなレコードを得られた。特に「James Brownなど黒っぽい音」を聴いていた。Golden Cupsが本牧にあったこと、山口冨士夫のダイナマイツが立川基地で演奏していたこと、ユーミンが米軍基地でLPを購入してかまやつひろし等に届けていたことなどを想起させた。

 この回の「チャー坊の生と死」では、村八分の「あっ」で「かたわ」といった差別用語を用いたチャー坊の生い立ちを妹が明らかにしている。チャー坊が幼少時に眼の斜視のためにいじめられ、「ぼくは、かたわものです」という詩を書き、それを母が保管していたという。

 村八分の1972年11月のライブでは、「むらさき」「天まで昇れ」という反復を基調とする特異な2曲でCanとの類似性がみられる。村八分が、東芝から発売されたCan / Tago Magoを買った可能性もある。
 裸のラリーズの水谷孝は、1970年代にAmon Düül、Canを福生の自宅で大音量で聴いていたという。

村八分 / むらさき (aka.恋しや)  1972年
https://www.youtube.com/watch?v=Z3u9QgoITSM

裸のラリーズ Les Rallizes Dénudés / The Last One _1977
https://www.youtube.com/watch?v=DPZSTeyShPo

 このクイックジャパン連載をきっかけに村八分が再び注目され、2000年の村八分のピークとされるCD「1972年11月23日・ライブ三田祭」とその特典だったVHSビデオを皮切りに、村八分の希少音源が大量に発掘されるようになる。

村八分 / あやつり人形 1972年11月23日
https://www.youtube.com/watch?v=wrHrsF_g0ZU
1977年のSex Pistolsと同格と思われる3:30〜

 クイックジャパンvol.13のチャー坊の記事では、友人の加藤和彦のSadistic Mika Bandを見たことなどの1974年のLondonからのチャー坊の手紙なども掲載されている。ダモ鈴木がチャー坊に関心をもって「ライブ村八分」など村八分の音源を聴くことはなかっただろうか。

 4月30日にDamo Suzukiがダモズ・ネットワークDamo Suzuki's networkで音楽活動を本格的に再開し、 Tokyo on Air West でライブを行う。Mother Skyと書いてあった記憶があるが、Canの曲を1曲だけ演奏したようだ。

 1996年のAmon Düül II、1997年のAsh Ra Tempelを筆頭に、Klaus Dinger(Neu!)、Guru Guru、Cluster、Agitation Free、Faust、Klaus SchulzeなどのGerman Rockの初来日が相次ぐ。
 Damo SuzukiとMani Neumeier (Guru Guru) の共演があった記憶もある。


= 1998年 =

 Can / Can Box発売。2本のVHSビデオが衝撃的だった。  

Can、Led Zeppelinのライブが行われたケルンのスポーツセンター
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 ビデオ「Can-Free-Concert」は1972年2月のケルンでの伝説の1万人無料コンサート。Damo SuzukiのエネルギーがCanの起爆剤になっていたことが明確にわかった。

★Can / Free concert (Sporthalle Cologne 1972)
https://www.youtube.com/watch?v=9FaydRUQ42Q&t=1215s
14:30〜17:30が一番の見どころ。他の誰にもできないCanの最高の瞬間といえる。

 同じ2月に日本では渋谷公会堂で天井桟敷の「邪宗門」公演があり、その実況盤CD(完全収録盤)のラストの「1970年8月」こそ、日本のProgressive Rockの最高作といえる。ドイツと日本が同じような混乱した政治的状況にあったことが感じられる。

天井桟敷「邪宗門」より「1970年8月」1972年
https://www.youtube.com/watch?v=V0Vb-2yMGf8
演者たちの叫びは、Beat Club「Can / Paperhouse」でのDamo Suzukiの最後の叫びを想起させる。

 ビデオ「Can – Documentary」では、全盛期のCanのIrmin Schmittの弁舌、終始無言のDamo Suzukiの自信に満ちた佇まいが印象に残った。

 「Can Book」という初めての評伝本も出版された。

= 2001年 =

 音楽専科復刻シリーズ「Progressive Rock」でDamo SuzukiのGerman Rockのレポートを読む。

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 ダモ鈴木Damo Suzukiの3ページにもわたる1973年10月号「ドイツロックレポート」が掲載。ダモ鈴木がいかにGerman Rockに精通していたかがわかって感動。間章の1975年1月のTangerine Dream / Phaedraのライナーもここから影響を受けたと思われる。

 ダモ鈴木のレポートは、冒頭においてドイツ固有の「ドイツロック」と、通常の英米系のロックを分け、後者として(当時Mother Universeがフランスで1972年8月の月間ベストアルバムになった)Wallensteinを「現在受けているバンド」として挙げている。

 続いて「1」としてAmon Düül IIをGerman Rockを体現するバンドとして詳述。
 1stと2nd Yetiを「非常によかった」としつつ、3rdと4thは「いただけなかった」と明らかに否定的に評したのに対し、5thの最新作 Wolf Cityについて「”ドイツロック”を離れ英米的なサウンドに変わりつつあるように思う」と評している。このことから、Amon Düül II自身が最高作と認めるWolf Cityが、CanがFuture DaysでMelodieを重視したSymphonic路線に転化したことへの影響を及ぼしたことが読み取れる。
 Future Daysのタイトル曲と、Bel Airにはいずれも冒頭にBeatlesのPaul McCartneyを思わせる美しいMelodieのバラードが配されている。

 「2」として「シュトックハウゼンの影響が大きいGerman Electric」の「音楽的センスの面で最右翼」としてKraftwerk、Neu!を賞賛。Neu!を「素直な何の抵抗もなく入りこめるElectric Meditation」と述べており、Neu!のFuture Days、特にBel Airの楽園的サウンドへの影響が大きかったと思われる。

 「3」としてCanを詳述。1973年の人気投票で1位であること、2位がTangerine Dream、3位がGuru Guruと紹介。2024年現在、世界的に最高額のコレクターズレコードの1枚であるMonster Movieのオリジナル盤が「アングラで6000円が付いた」とある。

 「4」としてBerlinのTangerine Dreamとその似通った音の「弟バンド」としてAsh Ra Tempelを紹介。

NEU! / Für immer 1973
https://www.youtube.com/watch?v=V85AjBFDmbI
Bel Airに影響を与えたと思われるMeditation Rock。Damo Suzukiは、Kraftwerkでも在籍時のKlaus Dingerがもっともユニークだったと記している。

Guru Guru / Oxymoron 1972 Känguruより
https://www.youtube.com/watch?v=NSkgEAvISL4
Guru Guruの人気を決定づけた名盤。ジャケットのカンガルーの親子が ”Käng Käng?”、”Guru Guru!”と会話しているのは、「Canじゃなくて、Guru Guruだよ!」というライバル関係を表していると、間章がラジオで語っていた。

= 2002年 =

 ジョン・ライドンJohn Lydon自伝を読む。ジョン・ライドンが1970年代前半に好きだったアルバムとしてCan / Tago Mago、次にMiles Davis / Bitches Brewを挙げていた。


= 2008年 =

 2008年のDamo Suzukiの素晴らしい東京での映像が残っていて感激。一度ダモさんのライブに行きたかったが、見ることができてよかった。サポートの演奏も素晴らしい。

Can Damo Suzuki ダモ鈴木 / Document film in Tokyo 2008
https://www.youtube.com/watch?v=Q_E4IxwXK8A&t=6s
闘病中にもかかわらず、声も若い時より張りがあって驚いた。

= 2010年ごろ =

 Youtubeで1970年のCanのライブ、特にDeadlockでの何かを訴えかけるようなDamo Suzukiの歌に感銘を受ける。2ndアルバムSoundtracksの曲を聴いたのは初めてだった。

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Can / Soundtracks L:Germany 1970 R:UK 1973
1970年代は2ndアルバムSoundtracksは英国盤の方を店頭でよくみかけた。
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★Can / Deadlock (1970) Live
https://www.youtube.com/watch?v=e_51JhbqgjU
Canの中で、LandedのUnfinishedのラストの部分と並んで、最も美しいMelodieの曲だと思う。1996年のロングインタビューで、ダモ鈴木が「切に」音楽をやろうとしているミュージシャンが好きと語っていたのを思い出させる。

Can live | Rockpalast | 1970 (youtube.com)
https://www.youtube.com/watch?v=7zhdNviS0Vs&t=18s
Rockpalast全編。Deadlockの後の48:13からのダモさんの仕草がいい。

 2021年に実に50年のときを経て、日本で映画『デッドロックDeadlock (1970)』が初公開された。

CANのサウンドが殺戮の荒野に炸裂する『デッドロックDeadlock (1970)』予告編解禁
https://www.barks.jp/news/?id=1000198599

Can / Deadlock 1970 Soundtrack 映画インスト版  
https://www.youtube.com/watch?v=IkS3j6yQk3w

映画『Deadlockデッドロック』劇場予告編
https://www.youtube.com/watch?v=qJiICLV9cPo&t=72s


= 2012年 =

 3枚組CDカン 『ザ・ロスト・テープス』 - Can / The Lost Tapesが発売。
 1970年代前半の正規版と同等、それ以上のレベルの楽曲も含まれ、全盛期のCanがいかに凄かったかを再認識した。

= 2016年 =

 改訂版「ジョン・ライドン自伝」を読む。John LydonがCanのライブを見に行ったとき、Bassの音が重すぎたためにホールの床が抜けたこと、Syd ViciousシドヴィシャスもTago Magoが好きだったことなど、John LydonがCanに傾倒していた事実がさらにわかった。

 John LydonはHawkwindのローディーで、Soft Machineのライブにも行き、Faust / Tapesも買っていた。Punkの中でもMelodieの明確なDown on the streetを目標にしていた。Iggy PopはNeu!のファンで、Michael RotherのライブでHeroにゲスト出演している。

Iggy and the Stooges / Down on the street
https://www.youtube.com/watch?v=85RSPV9Q-3s

 他にもジョン・ライドンがDamo Suzukiに替わってCanに入りたかったという記事も見た。

= 2018年 =

 Damo SuzukiがCanのJaki Liebezeitの追悼コンサートに出演。Neu!のMichael Rotherも出演し、このときに2人で撮った写真がMichael RotherのDamo Suzukiに対する追悼文とともに掲載された。

= 2019年 =

自伝「I Am Damo Suzuki 」出版
https://amzn.to/49fRl3P


アメリカでのダモ鈴木のインタビュー
Damo Suzuki : The Aquarium Drunkard Interview : Aquarium Drunkard
https://aquariumdrunkard.com/2019/10/22/damo-suzuki-the-aquarium-drunkard-interview/


= 2022年 =

元Canダモ鈴木、ドキュメンタリー映画『Energy』公開 予告編
https://www.youtube.com/watch?v=NShW9PZAhpg
生存率10%と宣告されたガンとの長期間の闘病も記録。


1972年幻の国内盤「Can / Ege Bamyasi」JapanのライナーノートLiner noteにおいて
Shakespeareの詞が引用されている。
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Canは1972年の日本ではあまりに難解だったので、石坂敬一がTangerine Dream / Alpha Centauri (「このレコードの価値は聴き手の耳と主観に依存する」と帯に記されていた) でイラストを付けたように、音楽の理解のための一助としてシェイクスピアの詩をつけたのではないか。
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 ダモ鈴木さんには50年間勇気づけられてきました。 
 素晴らしい音楽をありがとうございました。
 心よりご冥福をお祈りいたします。RIP

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2024年01月31日

2024年新春 Happy New Year 第3弾 〜 Il Balletto di Bronzo特集・Marco CecioniとGianni Leoneの50年の軌跡 〜 @ 発見1970年のサントラ音源  〜 A 2012年 Rolling Stone ItaliaでItalian Best Album100に選出された Sirio 2222 〜 B 2016年 Marco Cecioniの "Cuma 2016 D.C." 〜 C 2023年Gianni Leoneの新作"Lemures"

画家として活躍するIl Balletto di BronzoのオリジナルメンバーMarco Cecioni
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2023年Gianni LeoneのIl Balletto di Bronzo51年ぶりの新作Lemures
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イラスト画で1972年のYS時のメンバーと対比させている。
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Gianni Leoneが友情参加したMarco Cecioni、Lino AjelloのIl Balletto di Bronzo / Cuma 2016 D.C.
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今日の1曲
Il Balletto di Bronzo
       / Ti risveglierai con me (soundtrack version)1970
Il Balletto di Bronzo
       / Ti risveglierai con me (Sirio 2222 version)1970
Il Balletto di Bronzo
       / Sì Mama mama TV CM Coca Cola 1970
Il Balletto di Bronzo / Meditazione 1970
Il Balletto di Bronzo / Primo incontro 1972
Il Balletto di Bronzo / Missione Sirio 2222 1970
Il Balletto di Bronzo / Incantesimo 1970
Il Balletto di Bronzo / Accidenti 1970
Il Balletto di Bronzo / Eternita' 1970
Led Zeppelin / Babe I'm Gonna Leave You live 1969
Aphrodite's Child / Rain and Tears live 1968
Il Balletto di Bronzo di Lino Ajello & Marco Cecioni
      / Pirati Guest Gianni Leone 2016
Il Balletto di Bronzo di Lino Ajello & Marco Cecioni
      / Bivio Acido Guest Gianni Leone 2016
Osanna + Gianni Leone (=Citta Frontale)
      / Everybody's Gonna See You Die live 2021
Adriano Celentano / L'Ultimo Degli Uccelli 1972
Leo Nero (Gianni Leone)/ Sono stanco anche io 1977
Il Balletto di Bronzo / TRYS 1996年9月6日録音
Il Balletto di Bronzo
      / Introduzione (1971 English version 2011mix)
Il Balletto di Bronzo
       / Lu tua casa comoda (2011 new live recording)
Il Balletto di Bronzo / Lu tua casa comoda 1973
Il Balletto di Bronzo / Dear Prudence 2021
Beatles / Dear Prudence 1968
山口冨士夫 / Dear Prudence 1983
Il Balletto di Bronzo / Lemures 2023



〜 @ 2024年新春 発見1970年のIl Balletto di Bronzoのサントラ音源 〜

L:Il Balletto di Bronzo / Sirio 2222 1970
R : 5 Bambole Per La Luna D'Agosto 1970 → Ti risveglierai con me収録
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Il Balletto di Bronzo - Wikipedia
https://it.wikipedia.org/wiki/Il_Balletto_di_Bronzo

 2024年に入って、初めてIl Balletto di Bronzoの1970年の1stアルバムSirio 2222のTi risveglierai con meのサントラ・ヴァージョンがあることを知りました。

 それはPiero Umiliani監督の5 Bambole Per La Luna D'Agostoという1970年公開の映画のサントラで、最近再発されたアナログ盤に追加収録されています。これは1970年のTripの出演したTerzo Canale、1971年のNew TrollsのConcerto Grossoに並ぶItalian Progとしては最初期のサントラといえます。

Il Balletto di Bronzo / Ti risveglierai con me (サントラ version)
https://www.youtube.com/watch?v=096VqKsubbc
映画の最後の場面で使われた音源

Il Balletto di Bronzo / Ti Risveglierai Con Me(Sirio 2222 version)
https://www.youtube.com/watch?v=1tSEoL9bsIA

 Il Balletto di BronzoがItalian Rockの先駆的存在として、日本におけるApryl Foolのように映画関係者などからも注目されていたことがわかります。そこで、Il Balletto di Bronzoをもう一度振り返ってみたいと思います。


〜 A Rolling Stone ItaliaのItalia Best Album100に選出されたSirio 2222  〜

1970年Sirio 2222期のIl Balletto di Bronzo
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 Rolling Stone Italiaによるイタリアのベストアルバム100枚は、2012年1月30日に音楽雑誌ローリングストーンのイタリア版が発表したイタリアのアルバムのリストです。100人の審査員に過去50年間のイタリアのベスト・レコードについて意見をもらい、アーティスト1人につき1枚のアルバムだけを載せて作成されました。

100 migliori album italiani secondo Rolling Stone - Wikipedia
https://it.wikipedia.org/wiki/I_100_migliori_album_italiani_secondo_Rolling_Stone
  
 シンガーソングライター関連が圧倒的に多くなっていますが、Italian Progとそれに影響を及ぼしたと思われるArtistをピックアップしてみました。

3位  Lucio Battisti / Una donna per amico 1978
9位  Area / Arbeit macht frei 1973
10位 Adriano Celentano con Giulio Libano e la sua orchestra 1960
22位 Luigi Tenco / Luigi Tenco 1962
44位 PFM / Storia di un minute 1972
51位 Le Orme / Uomo di pezza 1972
52位 Alan Sorrenti / Aria 1972
58位 Pooh / Parsifal 1973
59位 Goblin / Profondo rosso  1975
64位 Il Balletto di Bronzo / Sirio 2222 1970
73位 Patty Pravo / Patty Pravo 1968
81位 Mina / Live '78 1978
85位 Biglietto per l'Inferno / Biglietto per l'Inferno 1974
    (イタリアでこのバンドが高く評価されているが、後にVocalが有名な牧師になったことも理由なのだろうか)
92位 Banco del Mutuo Soccorso / Darwin! 1972

 特に目をひいたのは、Il Balletto di BronzoがMinaやBancoよりも上位にランクされ、一般的に知名度の高いYSではなくSirio 2222が選出されていることです。それはSirio 2222が、Italian Rockの先駆的存在とされていることの証と思われます。そこで、もう一度Sirio 2222について振り返ってみたいと思います。


= 音楽の夢・Il Balletto di Bronzo / Sirio 2222  =
  Meditazione 〜 Marco CecioniとGianni Leoneの出会い

A面 Sì Mama mamaの作者はNora Mazzocchi (Gianni Leone) と記載。
B面 MeditazioneのハープシコードはGianni Leoneと思われる
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 Il Balletto di Bronzoは、1967年にNapoliで当初Battitori Selvaggiという名で結成されました。以前「Il Balletto di Bronzoの歴史」という1960年代の映像が多いFilmが公開されていました。テレビ番組Per voi giovaniなどの最も有名なイタリアのDJの一人Raffaele Casconeや後のレコード業界の重鎮などがメンバーでした。ギターがRaffaele CasconeからLino Ajelloに交替し、バンド名もIl Balletto di Bronzoに変わりました。

 Il Balletto di BronzoはNATOの基地で演奏していたため、やはり米軍基地のそばで演奏していたGolden Cupsに通じるGroove感が生まれたのだと思います。
 
 Il Balletto di BronzoがCoca ColaのCMに出た貴重映像があります。 

TVのCMに出演したMarco CecioniとLino Ajello
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Il Balletto di Bronzo / Sì Mama mama  TV CM Coca Cola
https://www.youtube.com/watch?v=MgiUkOn1sWI

 LP未収のシングルSì Mama mamaはNora Mazzocchi作とあり、これは当時SIAEに登録してなかったGianni LeoneがYSにおいて名前を借りた女性の作曲家の名として有名なので、Gianni Leoneが10代の1970年の時点でIl Balletto di Bronzoに関わっていたことがわかります。

 Sì Mama mamaのB面がMeditazioneで、Sirio 2222の3曲にGianni LeoneがKeyboardで参加しているとの情報があることから、この曲のハープシコードはGianni Leoneと思われます。Marco CesioniとGianni Leoneの関係がここから始まったと言えます。 

 1970年のMeditazioneにおけるハープシコード、ストリングスは、1971年のLe Orme / Collage、New Trolls / Concerto Grossoに先行するものであり、Sirio 2222がRolling Stone Italiaのイタリアベストアルバム100に選出された理由の一つと思われます。

Il Balletto di Bronzo / Meditazione 1970
https://www.youtube.com/watch?v=c358efxhat8&list=OLAK5uy_lvvCBfs9ncNWEDf5TqeP3mrO9jRz4JJwk&index=5
ハープシコードとStringsを使用したこの曲こそIl Balletto di Bronzoのこれからの新機軸だったと思われるが、それはYSで完全に実現された。

Il Balletto di Bronzo / Primo incontro 1972
https://www.youtube.com/watch?v=01XtGOfWMI4
YSでMeditazioneのように再びハープシコードが使用された。

 ハープシコードは、Italiaにおいても1968年に3週間1位になったAphrodite's Child / Rain and Tearsからの影響と思われます。

Aphrodite's Child / Rain and Tears (Live France 1968)
https://www.youtube.com/watch?v=BcbjuQmgr5A

Aphrodite's Child / Rain And Tears (official video) 1968
https://www.youtube.com/watch?v=lyF_0BIW8HA

1972年Il Balletto di Bronzo / YSのメンバー
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Il Balletto Di Bronzo / Missione Sirio 2222 1970
https://www.youtube.com/watch?v=zHsluYSdEXc
Italian Rock初の9分越えの曲。Cosmic Soundの映像

Il Balletto di Bronzo / Incantesimo 1970
https://www.youtube.com/watch?v=BKDYEQ-CUTY&list=OLAK5uy_lvvCBfs9ncNWEDf5TqeP3mrO9jRz4JJwk&index=7
YSの核となるHeavy Progの原点ともいえる鋭いItalian Blues Rock

 Sirio 2222以外にもIl Balletto di Bronzoは1970年のSanremo音楽祭出場曲をカバーした貴重音源を残しています。

Il Balletto di Bronzo / Accidenti 1970
https://www.youtube.com/watch?v=uqFpBSWa7q8
Gianni Leoneと思われるハープシコード、最後のPianoの展開はYSを想起させる。途中のギターリフはLed ZeppelinのBabe I'm Gonna Leave You からの影響と思われる。Gianni Dall'Aglioが参加したSuper Gruppoの曲。

Led Zeppelin / Babe I'm Gonna Leave You (live Danmarks 1969)
https://www.youtube.com/watch?v=wO6bRjcyQN8
Luciano RegoliのRRRも2015年の来日公演でこの曲を演奏。2:40からギターリフ。

Il Balletto di Bronzo / Eternita'  Spanish version 1970
https://www.youtube.com/watch?v=7Kx6eYzdPeg
Camaleontiで4位に入賞した名曲をIl Balletto di Bronzoがかっこいいロックにアレンジ。


〜 B 画家として活躍するMarco Cecioni ~
Il Balletto di Bronzo Di Lino Ajello & Marco Cecioni (special guest Gianni Leone)/ Cuma 2016 D.C. 〜

2016年 Lino Ajello & Marco Cecioni+Guest Gianni Leoneによる
Il Balletto di Bronzo / Cuma 2016 D.C.
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 Marco CecioniはIl Balletto di Bronzoを脱退した後、Stockholm、Napoliを拠点に画家として活動をしています。Andy Warholから影響を受けたというMarco Cecioniの英文の紹介記事があります。

Marco Cecioni ” A galactic future “ – ArtCecioni
https://www.artcecioni.com/marco-cecioni/

現在も画家として活躍するMarco Cecioni
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 2016年に、Marco CecioniはLino Ajelloと共に、Gianni Leoneをゲストに迎えて、Sirio 2222から46年ぶりにIl Balletto di BronzoとしてCuma 2016 D.C.をリリースしました。

 Cuma 2016 D.C.はギターをメインとするRockですが、Gianni LeoneのKeyboardがアクセントを添えた素晴らしい音と映像になっています。Gianni Leoneがやはりかつて在籍したOsanna(Citta Frontale)のライブのサポートをしているのを想起させます。

Il Balletto di Bronzo Di Lino Ajello & Marco Cecioni / BIVIO ACIDO
https://www.youtube.com/watch?v=fcDymMaCcLI
本作中、最も印象的なリフを持つ代表曲。3:15でMarco Cecioniの絵のアトリエが映る。冒頭のGianni LeoneのSynthesizerが効果的。

Il Balletto di Bronzo Di Lino Ajello & Marco Cecioni / Pirati (official video)
https://www.youtube.com/watch?v=BXbrGSgXJgU
海賊をテーマにした力作映像

Il Balletto di Bronzo Di Lino Ajello & Marco Cecioni- Cuma 2016 D.C. - Anteprima
https://www.youtube.com/watch?v=kkGII6i2wy4
CDのダイジェスト・プロモーション映像。Gianni Leoneも登場。

Osanna +Gianni Leone / Everybody's Gonna See You Die Dedicato a DANILO RUSTICI 2021
https://www.youtube.com/watch?v=EEW6gnl6fwI
この曲は、Osannaのデビュー前のGianni Leoneが在籍したCitta Frontale時代から演奏していた曲と思われる。

Lino Ajello、Gianni Leone(中央)、Marco Cecioni
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〜 C 2023年 1972年 YSから51年目の新作 Lemures  〜
    
L:Il Balletto di Bronzo Plays Beatles 2021年
R:Il Balletto di Bronzo / Lemures  2023年
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= ”音楽の夢” Il Balletto di Bronzoの軌跡 =
 
 ついにGianni Leoneが2023年にYSから実に51年ぶりにIl Balletto di Bronzoとしての新作Lemures をリリースしました。

 Gianni Leoneの新作に至るIl Balletto di Bronzoの軌跡を振り返ってみます。

・1960年代 Gianni Leone、NapoliでJames BrownなどのSoulを演奏。
     幼少期は修道院の先生からピアノを習う。
・1967年 Il Balletto di Bronzoの前身、Battitori SelvaggiがMarco Cecioniらによって結成。
・1969年ごろ Lino Ajelloが参加。Il Balletto di Bronzoに名前を変える。
・1969年 Il Balletto di BronzoがシングルNeve Caldaでデビュー
・1970年ごろ Gianni Leone、Osannaの前身、Citta Frontaleに参加
・1970年 Il Balletto di Bronzo / Sirio 2222リリース。
     Gianni LeoneがSirio 2222とシングル Sì Mama mama に参加後、Il Balletto di Bronzoに正式加入。Marco Cecioni脱退。
・1971年 Il Balletto di Bronzo / YS English version recording 
・1972年 Il Balletto di Bronzo / YS リリース
・1972年 Gianni Leone、Gianchi StingaがAdriano Celentano / Mali Del Secoloなどに参加。

Adriano Celentano / L'Ultimo Degli Uccelli
https://www.youtube.com/watch?v=zCRBKcnLDZA
Mellotronの傑作

Adriano Celentano / Disse (youtube.com)
https://www.youtube.com/watch?v=z9etr49vZe4&list=OLAK5uy_nG1T2AhqxGPknT-B3_GI7Ut9_QkmNkOFk&index=5
この曲でもMellotronが活躍

・1973年 Il Balletto di Bronzo / La Tua Casa ComodaをGianni Leone、Gianchi Stingaで録音し、シングルリリース後、解散。

 以後、Gianni Leoneはソロ活動。Lino Ajello、Gianchi StingaはMarco Cecioniとともに拠点をStockholmに移して活動。Vito Manzariは後にRomaで家具のデザインを行う。

・1975年12月 日本でIl Balletto di Bronzo / YSの広告(おそらく1974年Polydor Specialのre-issue)が初めて掲載。

The first Il Balletto di Bronzo article in Japan. An advertisement on an imported record store in Tokyo in the December 1975 issue of the magazine "Music Life."
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L:最初に買った懐かしいPolydor Special盤。 R:Sirio 2222のSide A
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・1977年 Leo Nero / Vero リリース。美しいMelodieを持つ名曲Sono stanco anche ioなどを収録。

Leo Nero / Sono stanco anche io
https://www.youtube.com/watch?v=61SwxETM-40

・1980年 Leo Nero / Monitor リリース

・1982年 Il Balletto di Bronzo / YS 日本で完全復刻再発。World's first LP re-issue in Japan

Adv. of YS in Oct. 1982 on Japanese magazine "Music Life"
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 その後、Il Balletto di Bronzoの存在は忘れられたかのように見えました。

・1987年 Italiaのレコード・コレクターの音楽誌の創刊号で、Minaの特集と共に最初のItalian Rock BandとしてIl Balletto di Bronzoが2pに渡って掲載。

・1988年 Il Balletto di Bronzo / Sirio 2222のCDがRCAから再発される。World's first CD re-issue in Italy Meditazioneのハープシコードに驚く。

・1990年 Il Balletto di Bronzo / Sirio 2222時代のAccidentiなど未発表音源Il Re Del Castelloがリリース。

・1992年 Il Balletto Di Bronzo / "YS" English Versionsがリリース。冒頭のノイズ音が衝撃的だった。

L:Il Balletto di Bronzo / "YS" English Versions 1992
R:Re-mix "YS" English Versions ”On The Road To Ys” 2011
https://amzn.to/495U5Rs
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・1995年 Gianni LeoneがDivaeのメンバーと共にIl Balletto di Bronzoのライブを再開。

・1999年 Il Balletto di Bronzo / Trys リリース。
     1980年以降にリリースされたProgressive Rockの中で印象に残った作品はいくつかしかないが、その中で最も印象的だった作品。

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Il Balletto di Bronzo / TRYS Tour
https://www.youtube.com/watch?v=DpmcoNwNELo

Richard Benson presenta il disco nuovo del Balletto di Bronzo (Ottava Nota, 1999)
https://www.youtube.com/watch?v=_5UG0I2J51I
1972年のVilla Pamphili Festivalにも出演したRichard Bensonが新譜Trysを紹介。

・2002年 初来日 Il Balletto di Bronzo / 1st live in Tokyo & Osaka Japan 
・2010年 来日 Osanna with Gianni Leone, Dave Jackson / live at "Club Citta" in Kawasaki Japan
・2011年 来日  Il Balletto di Bronzo / 2nd live at "Club Citta" in Kawasaki Japan

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・2011年 Il Balletto Di Bronzo / On The Road To Ys リリース
   1992年のIl Balletto Di Bronzo / "YS" English VersionsとはIntroduzioneの冒頭部分が大きく異なる。 

Il Balletto di Bronzo / Introduzione (1971 English version)
https://www.youtube.com/watch?v=DVnH3xQuiFE&list=OLAK5uy_lbsezhd9eJiahtNGgkCknyPnxyS0rDiRM
1992年にリリースされたものは冒頭に衝動的な重い音が入っていて驚いたが、2011年盤は穏やかなSynthesizerになっている。

Il Balletto di Bronzo / Lu tua casa comoda (2011 new recording)
https://www.youtube.com/watch?v=eW9qcDqma9s&list=OLAK5uy_lbsezhd9eJiahtNGgkCknyPnxyS0rDiRM&index=3
メキシコでの凄いLiveヴァージョン。1973年のオリジナル曲とは違う形に瞬時に再現できるスキルの高さに驚く。

Gianni LeoneとFocusのThijs Van Leer ツアーで。
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Il Balletto di Bronzo / La Tua Casa Comoda (1973 Remastered)
https://www.youtube.com/watch?v=NPpo8F4hlkE
1973年のオリジナル音源。

1972年のIl Balletto Di Bronzo ( シングル La Tua Casa Comodaのジャケットと同じ日のフォトセッション)
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・2015年 来日 Osanna with Gianni Leone, Corrado Lustici, Jenny Sorrenti, Dave Jackson / live at "Club Citta" in Kawasaki Japan
・2016年 Il Balletto di Bronzo Di Lino Ajello & Marco Cecioni (special guest Gianni Leone)/ Cuma 2016 D.C. リリース

・2018年 Il Balletto di Bronzo / 3rd Live in Japan at "PIT IN", famous Jazz club in Shinjuku Tokyo. 3回目の来日。9月14日、15日 新宿ピットイン。2011年にPeter HammillのLiveを見た場所。

・2021年 Il Balletto di Bronzo / Plays Beatles リリース。山口冨士夫も1983年に演奏したDear Prudence 収録で感動。 

Beatlesを演奏するIl Balletto di Bronzo
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Balletto di Bronzo / “Dear Prudence" live (Stazione Birra, 5/10/2022))
https://www.youtube.com/watch?v=-fjJ0JAFGOg

Beatles / Dear Prudence 1968
https://www.youtube.com/watch?v=I4xw_Dx0pIg

・2023年 Il Balletto di Bronzo / Lemures 新作。Gianni LeoneのIl Balletto di Bronzoとしては51年ぶり。Gianni Leoneの実験的精神が衰えていないことに驚嘆。聴いたことのないようなSynthesizerの音色やフレーズが随所に聴かれる意欲作。

Il Balletto di Bronzo / Lemures - Labyrinthus
https://www.youtube.com/watch?v=qQua2ZzVEnE
まさにYSの50年後の続編ともいえる力作。

 Il Balletto di Bronzoの50年以上の歴史を振り返って、Marco CecioniとGianni Leoneは互いに支えあいながら創造力を高めてきたのだと思いました。これからのさらなる活躍に期待したいと思います。


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2024年01月23日

RIP 追悼 Artulo Vitale・Arti e Mestieri 美しいMelodieを持つJazz Rock 〜 1974年 In cammino 〜 1975年 Valzer per domani 明日へのワルツ 〜 Hank Mobley / Roll Callの思い出

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帯ObiにPFM、Banco、Tai Phong、Areaの広告が見られる日本盤Tilt 1976

Italian Jazz Progressive Rock, Arti e Mestieri's saxophonist Artulo Vitale passed away in January. Arti e Mestieri / Tilt is the 8th Italian Progressive Rock LP released in Japan in 1976, after PFM / Photos Of Ghosts、The World Became The World、Cook Live、Formula3 / La Grande Casa、I Pooh / Alessandra、Banco、Area / Arbeit Macht Frei. In Japan, along with "Il Volo", they were praised as a band that reflected the world's "Crossover Music'' scene at the time. Italian music magazine "Rolling Stone Italia" named "Arti e Mestieri / Tilt" the number one Italian jazz rock album.

1975年のArti e Mestieri, Artulo Vitale
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今日の1曲
Arti e Mestieri / Valzer per domani 明日へのワルツ 1975
Arti e Mestieri / Gravità 9.81 1974
Arti e Mestieri / Strips 1974
Arti e Mestieri / Corrosione 1974
Arti e Mestieri / Positivo / Negativo 1974
Arti e Mestieri / In cammino 1974
Chet Baker / Autumn Leaves 1974
Hank Mobley / Roll Call 1960


 Amon Düül IIのChris Karrerさんに続いてArti e MestieriのArtulo Vitaleさんが亡くなりました。ショックですが、もう一度Artulo Vitaleさんの素晴らしい音楽を振り返ってみたいと思います。

 Arti e Mestieri / Tiltは、イタリアの音楽誌Rolling Stone Italiaで、イタリアのJazz Rockのアルバムトップ10で1位に選ばれています。

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 1970年代のジャズフュージョン、クロスオーバーは、ともすると冗長なアドリブソロに流れがちで、レコードのどこを聴いても同じような気がしました。しかし、Arti e MestieriのTilt、特にA面は、5曲すべての楽曲に美しいメロディーがあり、その美しい緊張感が途切れなく続く作品でした。それは、前回のブログのAmon Düül II / Wolf CityのA面にも通じる夢と希望がありました。

 そこで、感動的なArti e Mestieri / TiltのA面をもう一度聞いてみたいと思います。

Arti e Mestieri / Tilt全曲
https://www.youtube.com/watch?v=DC-9TgyDdc4
A面の5曲は19:10まで。

Arti e Mestieri / Tilt A面5曲

Gravità 9.81
https://www.youtube.com/watch?v=TIS7ehq8JwQ&list=OLAK5uy_lwG_4vz-Iwnx9Y6yBPvzOF97kayrr3jbw

Strips
https://www.youtube.com/watch?v=tySnNN7da6A&list=OLAK5uy_lwG_4vz-Iwnx9Y6yBPvzOF97kayrr3jbw&index=2

Corrosione
https://www.youtube.com/watch?v=CobsF5XRNTY&list=OLAK5uy_lwG_4vz-Iwnx9Y6yBPvzOF97kayrr3jbw&index=3

Positivo / Negativo
https://www.youtube.com/watch?v=c08w__ar6-g&list=OLAK5uy_lwG_4vz-Iwnx9Y6yBPvzOF97kayrr3jbw&index=4

In cammino
https://www.youtube.com/watch?v=_axQIoeIpjM&list=OLAK5uy_lwG_4vz-Iwnx9Y6yBPvzOF97kayrr3jbw&index=5
Artulo VitaleがArti e Mestieriのために最初に書いた曲

2015年にArtulo Vitaleが再録音したIn cammino
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Arti e MestieriのPFMとのツアー告知
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 Arti e MestieriのBeppe Crovellaさんの弔文によれば、近年再会したArtulo Vitaleさんとの電話は、ほとんどがかつてのArti e Mestieriに関することだったそうです。そして、苦しい闘病の中で最後までチャットでArti e Mestieriの50周年になる新作への意欲を伝えられていたとのことでした。

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 Beppe Crovellaさんは、「あなたの音楽の1音1音に、あなたを私たちに連れ戻してくれる思い出、感情、『un valzer per domani 明日へのワルツ』が存在します」と弔文を結んでいます。

Artulo Vitaleさんが所有していたSingle盤 Valzer per domani 明日へのワルツ
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 Artulo Vitaleさんは、Gigi Venegoniさん、Beppe Crovellaさんとの共作のシングル盤Valzer per domani 明日へのワルツと、トランペット奏者Chet Bakerとの共演を亡くなる1週間前のSNSでも投稿されていました。

Arti e Mestieri / Valzer per domani 明日へのワルツ
https://www.youtube.com/watch?v=iIGtJeYqO9Q
Arti+Mestieri / Giro Di Valzer Per DomaniのA面1曲目

Artulo VitaleとChet Baker
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 Artulo Vitaleさんは2005年と2015年の2回、Arti e Mestieriとして来日しています。残念ながら私が見たのは2011年のArtulo Vitaleさんがいないときの来日でした。

ARTI & MESTIERI - FIRST LIVE IN JAPAN (youtube.com)
https://www.youtube.com/watch?v=vu6gPyquiyc

 Artulo Vitaleさんには1度だけメールでHank Mobley / Roll Callを聴いて頂いてたいへん喜んで頂きました。
 In cammino、Valzer per domaniの美しいSaxphoneのメロディーは今も私の心の中に鳴り響いています。
 素晴らしい音楽をありがとうございました。Artulo Vitaleさんのご冥福をお祈りいたします。 RIP

Chet Baker / Autumn Leaves 1974
https://www.youtube.com/watch?v=sgn7VfXH2GY

Hank Mobley / Roll Call (Rudy Van Gelder Edition) 1960
https://www.youtube.com/watch?v=9i8yYv83i3Q

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2024年01月17日

RIP 追悼 Chris Karrer クリス・カーレル・Amon Düül II アモン・デュールU 〜 1972年 メンバーが認める最高傑作 Wolf City 「狼の町」・ 反復とドローン中心の難解な音楽だったGerman Rockを、Classicの伝統美に回帰したメロディー主体の音楽に戻すことによって世界的な成功に導いた作品

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1975年10月に買ったAmon Düül IIの初めてのLP Wolf City。Beatles / Revolverのように捨て曲のない完璧なLPで、Yes、ELP等と同格に感じた。

Amon Düül II leader Chris Karrer passed away on January 2, 2024.
In May 1972, Amon Düül II appeared as the top international guest at the 100,000-person Villa Pamphili Festival, "Italy's Woodstock''. Amon Düül II, who primarily focused on improvisational music, was influenced by Italian Prog based on classical music traditions and recorded the Symphonic Prog masterpiece "Wolf City" in July. Amon Düül II, the biggest pioneer of German Rocker’s "Wolf City" transformed German Rock from repetitive/drone music lacking melody into a more melody-driven music that sparked worldwide hits and success since 1973 by Tangerine Dream, Kraftwerk, Can, Ash Ra Tempel, Popol Vuh, Wallenstein, Neu! and more. The members of Amon Düül II themselves consider "Wolf City" their best work.

今日の1曲
Amon Düül II / Surrounded by the Stars
Amon Düül II / Green Bubble Raincoated Man
Amon Düül II / Jail-House Frog
Amon Düül II / Wolf City
Amon Düül II / Wie der Wind am Ende einer Straße
Amon Düül II / Deutsch Nepal
Amon Düül II / Sleepwalker's Timeless Bridge
       (以上、Amon Düül II / Wolf Cityより)

Amon Düül II / Phallus Dei 1969
Amon Düül II / Yeti 1970
Amon Düül II / Between The Eyes : Beat Club Live 1970
Amon Düül II / Tanz Der Lemminge 1971
Amon Düül II / Carnival In Babylon 1972
Amon Düül II / Wolf City 1972
Amon Düül II / Live in London 1973
Amon Düül II / Vive La Trance 1973
Amon Düül II / Kanaan Live 1969

Wallenstein / Audiences 1972
Il Paese di Balocchi / Canzone della carità 1972
Popol Vuh / AguirreT 1972


1972年6月UKツアーでのAmon Düül II。5月に「ItalyのWoodstock」10万人のVilla Pamphili Festivalに海外のトップゲストとして出演してItalian Symphonic Progressive Rockの影響を受け、7月からWolf Cityの録音に入る。
(左から3人目がChris Karrer)
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 Amon Düül, Amon Düül IIの創始者Chris Karrerさんが1月2日にコロナのために亡くなりました。Tangerine DreamのEdgar Froese、Klaus Schulze、Can、Kraftwerkなどと並ぶ1960年代からのGerman RockのPioneerの歴史を振り返ってみたいと思います。

Amon Düül II アモン・デュールU 日本語Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%ABII

Amon Düül II English Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Amon_D%C3%BC%C3%BCl_II

Amon Düül German Wikipedia
https://de.wikipedia.org/wiki/Amon_D%C3%BC%C3%BCl

Chris Karrer English Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Chris_Karrer

左上から右下の順に発売されたAmon Düül IIの国内盤LP。
Wolf CityはPhallus Deiの次に発売。All LPs in Japan from 1971 to 1974
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〜 Chris Carrer・Amon Düül IIとの出会い 〜

 きっかけは、1975年6月31日に買ったTangerine DreamのPhaedraの間章Akira AidaのGerman Rockを体系的にまとめたライナーノートでした。

 その影響で、まず7月31日に渋谷西武のB1にあったCiscoの前身Be-inで、Akira AidaがElectric系として紹介した2つのバンド、Kraftwerk / Ralf &Florian、Neu!75を購入しました。

 そして10月に再びBe-inで、Akira Aidaのライナーの中で、Canと並ぶGerman Rockの創始者であり、Magmaなどと通じるロック共同体として重要と紹介されたAmon Düül IIのWolf City「狼の町」を購入しました。

Amon Düül II / Wolf City「狼の町」を買ったBe-in(Ciscoの前身)が地下1階にあった渋谷西武B館(右側の建物)
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 また、同じ10月にPFMの「幻の映像」Photos of Ghostsも購入。1975年3月のFocus / Hamburger Concertoから始まったEuropean Rockのオランダ、ドイツ、イタリアの核となるLPをこの時点で聴くことができました。

 結論としてWolf Cityは、全曲捨て曲のないLPとしてPhotos of Ghosts、Hamburger Concertoと並ぶ傑作であり、強烈な印象を残しました。
 それは、それまでに聴いていたKing Crimson / 1st、Yes / Close to Edge、ELP / Trilogy、Beatles / Revolver、Led Zeppelin /W(A面に比べてB面はクオリティーが下がる)等に匹敵するものでした。

 後に、Renate KnaupもWolf CityはAmon Düül IIのメンバー全員が認める最高傑作であり、それ以降のレコーディングはWolf Cityを超えることを目標としたと述べており、後に1996年に設立したAmon Düül IIレーベルでもWolf Cityのジャケットの絵がロゴマークにされています。

 世界的に見て、Amon Düül IIの評価はYetiがトップとされ、「Rolling Stone誌による Prog50」でも41位にランクされています。German RockでランクインしているのはCan / Future Days、Tangerine Dream / Phaedra、Triumvirat / Illusions on a Double DimpleとAmon Düül II / Yetiの4枚だけです。
http://prognote.net/progre/magazine/rolling-stone-50-greatest-prog.html

 1972年6月に続いて12月、さらに1973年にもLondonでライブを行っていたことからも、Amon Düül IIがイギリスで評価が高かったことがわかります。

1972年12月10日のLondonでのライブの告知
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1973年のUKツアーとWolf City、Live in London(1972年12月16日録音)の告知
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 Renate Knaupの意見にも従い、Amon Düül IIの頂点がWolf Cityにあることを前提として、Amon Düül IIを振り返ってみたいと思います。

 私は、Wolf CityはGerman Rockの最重要作の10枚の1枚には確実に入る作品と思います。まだ、German Rockを聴いていない人が最初に聴くGerman RockのAlbumとして推奨できます。

 2023年にKlaus Schulzeの追悼でGerman Rockの歴史を振り返りましたが、その際に気づいたことは、Wolf Cityが1972年にGerman Rockで初めてClassicをRockに導入したことです。それは、その前にItalian Progressive RockのWoodstockとされ、10万人を集めたVilla Pamphili FestivalにAmon Düül IIが外国からのトップとして招聘されたことがきっかけと思われます。

 Amon Düül IIは、イタリア音楽史のハイライトとされる1972年のイタリアの波を体験した数少ないドイツ人だったと言えます。

Amon Düül IIは、1972年5月のFestival pop di Villa Pamphiliのポスターの最上段に掲載された
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 1960年代から活動したAmon Düül II、Can、Kraftwerk、Tangerine Dream、Guru Guruは,アメリカ、イギリスのロックを模倣しないことから音楽をスタートしました。それと同時に彼らはそのルーツであるドイツのClassic音楽をも拒絶していました。その結果として生まれたGerman Rockの特徴は、反復、ドローン、メロディーを排した現代音楽、Free Jazzに似た攻撃性でした。

 German Rockの先鋒にあったAmon Düül IIは、政治的なAmon Düülよりも音楽的な集団を目指して独立したバンドでしたが、さらにWolf Cityにおいては、Classicの整合的な美を求めるAmon Düül Vとも呼ぶべきバンドに昇華していたと思います。

 厳密には,ドイツではWolf Cityの前に1972年初頭リリースのWallenstein / Blitzkriegが、Classicの影響を顕しMellotronも使用した最初のSymphonic Progressive Rockといえます。Wolf CityにPiano、Mellotron類似のChoir Organが導入されたのもBlitzkriegの影響とも考えられます。しかし、他のGerman Rockへの影響力という点では、1960年代から活動したAmon Düül IIのWolf Cityでの転向が大きかったと言えます。

Wallenstein / Audiences 1972
https://www.youtube.com/watch?v=jTHoKm0jD9o
Amon Düül II / Wolf Cityより先にドイツ初のPianoとMellotronを使用したSymphonic Prog。1971年にDieter Dierks所有の中古のMellotronで録音された。特に6:23以降は、Popol VuhのFlorian Frickeに対して、Moogとドローンの「In Den Gärten Pharaos」からHosianna Mantra(Piano)、Aguirre(Mellotron類似のChoir Organ)に転向する影響を与えたと思われる。その証左として、Florian FrickeがWallensteinのHarald GrosskopfをPopol Vuhのドラマーに誘って断られた経緯がある。

 Wolf City「狼の町」のライナーでは、Amon Düül IIがAmon Düülから分離した経緯についても書かれていました。
 バンド名で「U」がつくこと、そして今は「U」の方がメジャーになっているというのは新鮮な驚きでした。イタリアで、I Trollsが分裂してNew Trollsができたという話以上にインパクトがありました。当ブログのLe Orme UというのもAmon Düül IIの真似です。

 また、Wolf City「狼の町」のライナーでは、Chris Karrerの重要性が詳しく書かれていました。
 まず、ライナーの筆者は1970年5月に、ドイツでAmon Düül IIを見た友人から手紙を受け取りました。それによると、Chris Karrerが非常に美しいMelodieを奏でるのとは反対に、Amon Düül IIの他のメンバーが一つの音の塊を作ろうとしていたとのことでした。
 さらに、当時のMelody Makerなどの音楽雑誌でもChris Karrerのことが詳しく書かれており、Amon Düül IIのPhallus DeiとYeti、その後HawkwindのBassistとなったDave AndersonはChris Karrerの創造性について「彼は常にグループのまとまりを考えている。」と述べ、「Chris Karrerの才能は現代の視覚における芸術」とも述べています。

 そこでもう一度、Amon Düül II / Wolf City「狼の町」の全曲を聴きなおしながら、Chris Karrerの足跡を振り返ってみたいと思います。

1990年代のAmon Düül 2レーベルでは、メンバーが最高作とするWolf Cityのデザインが採用された。
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= Amon Düül II / Wolf City「アモン・デュールU / 狼の町」全曲を聴く =

旧LP SideA

A₋1 Surrounded by the Stars「きらめく流星群の徘徊」
https://www.youtube.com/watch?v=scWD73Og0kQ&list=OLAK5uy_l9Y5Hg95UHPT7U3-QrvSY0F9bAhiSd1G8
冒頭からItalian Progの影響と思われる美しいPiano、Chris KarrerのギターとRenate Knaupのメロディーの輪郭がAmon Düül IIの音楽史で初めて示される。1:37からPopol Vuh / AguirreでFlorian Frickeが使用した同じものと思われるMellotronのChoirに似たChior Organ と、Chris KarrerのClassicの素養を示すViolinがSymphonic Progを決定づける。5:26はViolinのProgとしては世界最高峰で、Curved Air、PFM、Quella Vecchia Locandaをも超えると思う。この曲は、PFMを世界的にしたPer Un Amico(Photos of Ghosts)の1曲目River of Lifeにも通じる完璧な構成を持っている。

A₋2 Green Bubble Raincoated Man「奇妙なコートの男」
https://www.youtube.com/watch?v=MOHXuvMj8r0&list=OLAK5uy_l9Y5Hg95UHPT7U3-QrvSY0F9bAhiSd1G8&index=2
続いて、Mellotron Stringsに似たChior OrganをバックにしたAメロから美しいRenate Knaupの歌が始まる。展開部分も美しく、歌ものとして1曲で3曲分ぐらいのクオリティーがある。最後のGerman Rockでは初と思われるMini Moogも斬新で美しい。Amon Düül IIはこの時点で、Can、Tangerine Dreamと並んで「音楽で食べていける(ダモ鈴木談 1973年)」数少ないGerman Rock BandだったためMini Moogも購入できたと思われる 。この曲も当時のEuropean Rock、UK Progの良曲と同格といえる。

A₋3 Jail-House Frog 「ジェイル・ハウス・フロッグ」
https://www.youtube.com/watch?v=g-6PuzqoNYQ&list=OLAK5uy_l9Y5Hg95UHPT7U3-QrvSY0F9bAhiSd1G8&index=3
風の効果音から前曲から途切れることがなく、これもRock Classicの名曲にも劣らない印象的なギターリフ、突然のピアノ、Mellotron Strings
類似の神秘的なChior Organ、最後に再び印象的なSaxのメロディー。全くスキのない4分間。Mellotron類似のChoir OrganはAtem以降のTangerine DreamやKraftwerk / Radio Activityにも影響を与えたと思われる。2015年のライブでも「Green Bubble」「Jail-House Frog」「Deutsch Nepal」が続けて演奏されている。

 ここまでA面全てがMelodieの洪水で、それまでMelodieを拒絶するドローンや反復を繰り返してきたChris KarrerやAmon Düül IIが、貯めてきた美しいMelodieを全て放出したようにも感じられます。Villa Pamphiliで出会ったItalian Progに対して「我々ドイツ人にはこれだけClassicの伝統と素養がある」ということを対抗的に示したようにも思えます。

B₋1 Wolf City「狼の町」
https://www.youtube.com/watch?v=h2iQCEL7-ak&list=OLAK5uy_l9Y5Hg95UHPT7U3-QrvSY0F9bAhiSd1G8&index=4
Amon Düül IIの2枚組の2nd Album「Yeti」で1時間以上に渡って試みたGerman Heavy Rockを、Melodieの輪郭をつけて3分でまとめたような傑作タイトル曲。フェイドアウトのギターまで全くスキがない。

B₋2 Wie der Wind am Ende einer Straße「袋小路を通りぬける風のように」
https://www.youtube.com/watch?v=sYX2OQtmZbU&list=OLAK5uy_l9Y5Hg95UHPT7U3-QrvSY0F9bAhiSd1G8&index=5
2枚組の3rd Album「Tanz Der Lemminge(イタリアではJourney Into A Dream = Viaggio In Un Sognoのタイトル)」で試みたCosmic SoundのSynthesizerから開始。続いて、Green Bubble Raincoated Manで顕れたギターリフと共に1st Album「Phallus Dei」の中近東サウンドが美しいMelodieを伴って展開される。最後に再び、Tanz Der LemmingeのCosmic Soundに戻る。2015年のGuru Guruの来日公演では、この曲の中近東的な部分をMani NeumeierはPopol Vuh / Aguirre、ClusterUとともにSEとして使用していた。

B₋3 Deutsch Nepal 「ドイツ・ネパール」
https://www.youtube.com/watch?v=isyIixbKbmI&list=OLAK5uy_l9Y5Hg95UHPT7U3-QrvSY0F9bAhiSd1G8&index=6
これもYetiのGerman Heavy Rockを、Mellotron類似のChoir OrganのStringsの和声に乗せて3分に凝縮させている。このトーキングボーカルは、同年12月録音のWalter WegmüllerのTarotに影響を与えたと思われる。

B₋4 Sleepwalker's Timeless Bridge 「夢遊病者の限りない橋」
https://www.youtube.com/watch?v=dJLld5bj3AI&list=OLAK5uy_l9Y5Hg95UHPT7U3-QrvSY0F9bAhiSd1G8&index=7
これも冒頭から印象的なリフ。ひたすらUK・USAのRockを否定してきたAmon Düül IIだが、実はBeatlesの影響を受けていたとも思えるAbbey RoadのOctopus Gardenのようなギターの音色が聴かれる。0:45から中近東的になるが、1:24からのSymphonicな展開はItalian Progファンにはたまらないものがある。2:00あたりのChris KarrerのSaxはOsannaを彷彿とさせる。2:49からは全く別曲と言える。最後を締めくくるChior Organは、世界中のMellotronファンに隠れた傑作として知られている。

 改めて、Wolf Cityを聴きなおして、A面、B面通して、全くスキのない傑作だったと再認識しました。


(追記)  Wolf Cityの再発でChris Karrer作曲のアウトテイクを発見。録音時期等は不明ですが、広がりのある新鮮なサウンドなので追記しておきたいと思います。

Amon Düül II / Kindermörderlied
https://www.youtube.com/watch?v=25FSF9CszDE

2015年のライブでも全15曲中、Wolf Cityの7曲から5曲も選曲された。最後から2曲目に配置されたSurrounded by the StarsがAmon Düül II自身の認める代表曲とみて間違いない。Archangels Thunderbirdは2ndアルバムYetiからシングルカットされた曲。Kanaanは1stアルバムPhallus Deiの1曲目。
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ライブレポート AMON DÜÜL II @ MILLA, MÜNCHEN, 2015-06-10
https://gerhardemmerkunst.wordpress.com/2015/06/13/amon-duul-ii-milla-munchen-2015-06-10/?fbclid=IwAR0BpItz-YS7OYDso4UBjDdX-GXHR8wy_wktAeV8EYqJ0CxjXEyxLCapFwU
Wolf City時メンバーのDanny Fichelscher, John Weinzierl, Chris Karrer, Renate Knaupが参加

Amon Düül II / Live in MÜNCHEN 2010
https://www.youtube.com/watch?v=y4M5EjZ3gak
Chris KarrerのViolinの映像。

 1996年の東京での唯一の来日公演でも、Surrounded by the Starsが最後から3曲目に演奏されています。


 以下は、2023年のKlaus Schulzeの追悼のブログからの抜粋です。
 Klaus Schulzeを軸とするGerman Rockの歴史を書いたのですが、そこからAmon Düül IIに関する記述を抜粋し、さらにAmon Düül IIの情報を補足して掲載したいと思います。

 特にWolf CityのGerman Rockにおける意義については長文になったので、そのまま再掲載します。

(  以下、ブログ「追悼RIP Klaus Schulze 2023年」からの抜粋   )


追悼RIP Klaus Schulze A 〜1969年
  Tangerine Dream / Journey through a burning brainまで 〜 ライバル Edgar Froeseとの出会い
http://soleluna.seesaa.net/article/487974365.html


=  1968年 =

・9月25日〜29日 Rolf Ulrich Kaiser、ドイツ初の大規模ロックフェスInternationale Essener Songtageを主宰。
 ドイツからはTangerine Dream, Guru Guru, Amon Düülが出演。

映画「Krautrock 2」より - International Essener Songtage 1968
https://www.youtube.com/watch?v=mONF8XDk98o

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ポスター 9月26日にTangerine Dream, Guru Guru Groove, Amon Düülが出演


=  1969年 =

・Amon Düül II – Phallus Dei リリース

Amon Düül II / Kanaan
https://www.youtube.com/watch?v=-vdZB86tKUw&t=1s


追悼RIP クラウス・シュルツKlaus Schulze B 〜 1971年まで 
Tangerine Dream / Alpha CentauriとAsh Ra Tempel / Amboss 〜「音楽の力」Pink Floyd、Led Zeppelinを超えたOhrの12番と13番
http://soleluna.seesaa.net/article/488640389.html

 = 1970年 =

・2月6日〜8日 Berlinで、Tangerine Dream(Edgar Froese、Klaus Schulze)、Amon Düül IIによる公開セッションが行われる。

   クラウス・シュルツのコンサート歴
    (Tangerine Dream、Ash Ra Tempel、ソロ活動含む)
   Klaus Schulze - Concerts (klaus-schulze.com)
   https://klaus-schulze.com/concerts/welcome.htm

・4月 Amon Düül IIが2枚組Yetiをリリース。2015年のRolling Stone誌で「Greatest progressive rock album of all time」の41位に選出される。

L : Archangels Thunderbird single 1971 1st record of Amon Düül II in Japan
R : LP Yeti Red vinyl 1971 1st LP in Japan
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・4月 日本人Damo Suzuki (反戦ミュージカルHairドイツ版に出演していた)がMünchenでCanに加入。

・4月10日 Paul McCartney の脱退宣言により、Beatlesが事実上解散。

・4月12日のライブを最後にKlaus SchulzeがTangerine Dreamを脱退。
 → Tangerine Dreamは一旦解散状態になり、Edgar Froeseは単独で活動。

・10月24日 Rock史上のドイツの傑作テレビ番組Beat ClubでAmon Düül IIが演奏。
  英米のバンドが中心の番組であり、German Rock では初出演と思われる。

Amon Düül II - Between The Eyes (1970) Beat Club
https://www.youtube.com/watch?v=ZkSAsYjL54s

 = 1971年 =

・Tangerine Dream / Alpha Centauri リリース
・Amon Düül II / Tanz Der Lemminge リリース
・Ash Ra Tempel / Ash Ra Tempel リリース
・Can / Tago Mago リリース


追悼RIP クラウス・シュルツKlaus Schulze C 〜 1972年の重圧
Ash Ra Tempel / Flowers Must Die・Klaus Schulze / Irrlicht・Tangerine Dream / Zeit・OMM 2/56027 Kosmische Musik 〜   そしてPopol Vuh / Hosianna Mantra・Aguirreの奇跡
http://soleluna.seesaa.net/article/488899441.html

 = 1972年 =

・Amon Düül II / Carnival In Babylon リリース(1972年初頭)
 このアルバムは6つの短曲構成になったが、Damo Suzukiは「いただけなかった(1973年談)」と評価。
 → 次作Wolf Cityを同じ7曲の短曲構成ながらClassic音楽の伝統に基づく最高傑作に昇華させたのが、5月のItalyのVilla Pamphili FestivalでのSymphonicなItalian Prog体験にあると考えられる。

・Tangerine Dream / Zeit 1月録音 Melodieを完全に消去したドローン
・Wallenstein / Blitzkrieg 1971年録音・1972年初頭リリース 
       ドイツ初のPiano、Mellotronを前面に出したSymphonic Prog
・Guru Guru / Känguru リリース 一般に最高作と評価されている
・Amon Düül II / Wolf City 7月録音 Melodieを重視したドイツClassic音楽への回帰
・Wallenstein / Mother Universe リリース German Rockとして初めて海外で高評価(フランス8月の月間ベストアルバム)を受けた作品

以下、Amon Düül II / Wolf Cityからの影響でドローン・即興からMelodie重視に回帰したと思われるGerman Rockの作品

・Popol Vuh / Hosianna Mantra、・Popol Vuh / Aguirre(1972年12月映画公開)・Walter Wegmüller(Klaus Schulze) / Tarot、・Ash Ra Tempel / Join Inn、・Tangerine Dream / Atem (以上1972年12月録音) 、・Kraftwerk / Ralf&Florian、・Can / Future Days、・Neu! / Für Immer ( Forever )、・Faust / Tapes  (以上1973年リリース)
 

〜 追悼RIP クラウス・シュルツKlaus Schulze D 1972年12月 
〜  「音楽の夢」 ドイツロックの集大成Walter Wegmüller / Tarotの時代 〜 シンセサイザースターSynthesizer Star クラウス・シュルツの誕生 
〜 Amon Düül II / Wolf Cityのクラシック革命とItalian Progとの架橋 
http://soleluna.seesaa.net/article/489803257.html

(以下、Amon Düül II / Wolf Cityに関する部分を抜粋)


@ Italian ProgからのAmon Düül U / Wolf Cityへの影響とクラシック革命 
   = 47年目の発見 = 

・Amon Düül IIのローマVilla Pamphilliフェス出演によるItalian Prog との架橋
・ドイツClassic音楽への回帰
・Tangerine Dream / Zeitの対極にあるメロディーと美的感覚

 Klaus Schulzeは、1969年〜1970年のTangerine Dream時代に何度も共演したAmon Düül Uの動向を常に注目していたと思われます。そこで、Klaus Schulze、Tarotのみならずドイツロック全体に重大な影響を及ぼした1972年リリースのAmon Düül II / Wolf Cityが起こしたクラシックロック革命について、特に考察してみたいと思います。

 1972年5月、Berlinからはメロディーを放棄し重圧を極めたTangerine Dream / Zeit、Klaus Schulze / Irrlichtがリリース。その直後の7月にMünchenではAmon Düül IIが、全く対照的なメロディーを重視したSymphonic Rock 、Wolf Cityを録音しています。

 Wolf Cityは全曲が素晴らしく、Renate Knaupなどメンバー自身が最高作とするもので、1990年代にAmon Düül IIレーベルを設立した時にもWolf Cityのデザインが使用されました。

 1969年にCanとともにドイツロックの先陣を切ったAmon Düül IIは、1970年はTangerine Dreamと同様のPsychedelic Hard Rockでしたが、1971年のTanz der LemmingeでTangerine Dream / Alpha Centauriからの影響と思われるSpace Cosmic Rockに移行、続く1972年のCarnival in Babylonでは小曲主義になりました。

 その後、Amon Düül IIは、1972年5月25日〜27日にイタリアのWoodstockと呼ばれた10万人を超える最大の音楽フェスFestival pop di Villa Pamphiliに招聘され、海外ゲストとしてVDGGと共にポスターの最上段に掲載されました。

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 なおVilla Pamphiliのポスターには「Amon Düül」と掲載されていますが、Amon DüülTは1971年に解散しており、出演したのはAmon Düül IIといえます。
 その時点で、Amon Düül IIはイタリアでは唯一3rdアルバムで2枚組の Tanz Der Lemmingeだけが、1971年に「Journey Into A Dream = Viaggio In Un Sogno」というCosmicな音楽内容を的確に言い当てた全く別のタイトルでリリースされていました。

 Villa Pamphiliには、イタリアからは約50組、Banco del Mutuo Soccorso, Osanna, New Trolls、Quella Vecchia Locanda, The Trip, Latte e Miele、Il Paese dei Ballochi、Ritoratto di Dorian Grey(Cherry Five)などが多数出演しました。

 Amon Düül IIは、3日にわたってVilla PamphiliというItalian Progの洪水を体験した極めて少ない外国人であり、出演者・関係者と話をしたり、PFMやNew Trolls / Concerto Grossoなどのレコードも購入あるいは贈与されて入手したと思われます。

Amon Düül IIが、Villa Pamphiliでライブを体験したり、メンバーと会ったり、レコードを入手した可能性があるItalian Progの傑作群。
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Banco Del Mutuo Soccorso / La Conquista Della Posizione Eretta 1972
https://www.youtube.com/watch?v=NdwK3gPbrlw&list=PL2Mt3dp76i0PCcCbT879pin0VfNyJK8f6
2ndアルバムDarwin!より。曲の展開や、SynthesizerのサウンドにAmon Düül II / Wolf Cityに近いものを感じる。

New Trolls / Concerto Grosso & St.Peter's Day
https://www.youtube.com/watch?v=hnZubCu3xqM
Villa Pamphiliと同時期の1972年のオーケストラ入りのLive。

OSANNA / L' Uomo (1971)
https://www.youtube.com/watch?v=cAWQVkLyv3A
カラー映像。Amon Düül IIもVilla Pamphiliでメンバーの衣装を見たと思われる。Wolf Cityの多くの曲の構造にNew TrollsやOsannaからの影響を感じる。Amon Düül IIがイタリアで当時ヒットしていたPFM、New Trolls、Osanna、Le Ormeなどのレコードを買った可能性は高い。

Latte e Miele / Getzemani Album "Passio Secundum Mattheum"1972
https://www.youtube.com/watch?v=hoi70neCugU
カラー映像。Bachのマタイ受難曲からの影響。

Quella Vecchia Locanda / Sogno, Risveglio E... 1972
https://www.youtube.com/watch?v=wH7BZxbdp7A&list=PL769CFC1BC0530D66&index=7
クラシカルなPianoとViolin。Amon Düül IIもWolf CityのSurrounded by the StarsでクラシカルなPianoとViolinを初めて演奏した。

Il Paese di Balocchi / Canzone della carità
https://www.youtube.com/watch?v=7jnIDo9KDqU&list=OLAK5uy_nJOgpykud5vkT3baQHY4R-qZBpMcs3PIk&index=7
Italian Progressive Rockで唯一、Classicストリングスだけの曲。

 Amon Düül IIがVilla PamphiliのItalian Progから得たものは、Vivaldi、Bach、Beethoven等のクラシックの様式美であり、それはリーダーのChris Karrer等が幼少から体得してきたもので、即座に受け入れる素養があったといえます。

 直後の7月からレコーディングに入ったWolf Cityは、Piano、クラシカルなViolin、Mellotron(Choir Organとされる)、明確なギターリフ、メロディーの際立ったVocalなど、それまでのAmon Düül IIとは全く異質です。

 Amon Düül IIは政治的コミューンのAmon Düülから音楽的な表現を追求する集団が「U」として分離したものでしたが、Wolf Cityはさらにクラシックとメロディーの音楽性を極めようとしたAmon Düül 「V」ともいうべき、別次元のアルバムだと思います。

(なお、当ブログの「あしあとU」もAmon Düül IIの影響ですが、Le Ormeの来日を機にUにしただけで特に意味はありません。)

 Wolf Cityは、メロディーとハーモニーの美しさがItalian Progの最高傑作群とも比肩しうるもので、Italiaのバンドの作品として出されても違和感はないと思います。

 特に1曲目のSurrounded by the Starsは、Italian ProgのSymphonic Progの粋を集めたとともに、Cosmic Electric Soundの面においては1971年度の年間ベストアルバムとなった「Cosmic Music」の開祖Tangerine Dream / Alpha Centauriへの回答ともいえる自信作だと思います。


★Amon Düül II / Wolf City 全曲
https://www.youtube.com/watch?v=7LM75RePolw&t=74s
全曲に渡って印象的なメロディーに貫かれている。それまでのAmon Düül IIとは全く別の音楽。21:09のWie Der Wind am Ende Einer Strasseは、初期Amon Düül IIを聴きやすくした名曲。26:56のDeutsch NepalはTarotのトーキングヴォイスに影響。アルバムのラストを締めるSleepwalker's Timeless Bridgeの最後のMellotronの人気が高い。

★Amon Düül II / Surrounded by the Stars
https://www.youtube.com/watch?v=scWD73Og0kQ&list=OLAK5uy_l9Y5Hg95UHPT7U3-QrvSY0F9bAhiSd1G8
Italian Progの粋を集めた1曲目。冒頭のPianoはBanco、Electric・AcousticギターにOsanna・New Trolls、ViolinはQuella Vecchia Locandaなどからの影響が見られる。Chris KarrerがVilla Pamphilliで、Quella Vecchia Locanda のアメリカ人のViolin、Donald Laxと英語で会話した可能性も想像できる。Wallenstein / Cosmic CenturyのViolinの参加にも影響を与えたとも思われる。強烈なMellotron(Choir Organ)は、この後Popol Vuh / Aguirreで使用された。

A  Amon Düül II / Wolf Cityからのドイツロック(Tarot等)への影響 

 1969年からリリースされたCan、Amon Düül 、Kraftwerk、Tangerine Dream、Guru Guruなどのドイツロックは、英米のロックへのアンチテーゼから始まりました。普遍的な西洋的なメロディーやハーモニーの拒絶、土俗的・攻撃的な反復ビート、中近東音楽、現代音楽への接近・ミュージックコンクレート・過激な電子音・ドローンなどです。

 しかし、その先鋒にあったAmon Düül IIが、1972年にそれまで視野になかったItalian Progの影響で、Wolf Cityでクラシックの様式美をドイツロックに還元し、普遍的なメロディーを許容したことは、重大な革命だったと思います。

 それは、ドイツロック創世期からの盟友でありライバルだったTangerine Dream、Klaus SchulzeなどのBerlin勢、Popol Vuh、Can、Kraftwerkなどにも衝撃を与えたと想像できます。

 以下、Wolf Cityが、Tarotのみならず、ドイツロックへ与えた影響を見ていきたいと思います。


◆a Wolf CityのPopol Vuhへの影響


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 Wolf Cityは、まず同じMünchenで交流があったFlorian Frickeに影響を与えたと思います。メロディーの重視、Classical Pianoの使用はHosianna Mantraに影響し、またAguirreのコーラスMellotronの音はWolf Cityの「Choir Organ」 と同じ楽器とされています。そしてFlorian FrickeはAmon Düül II / Wolf CityのメンバーDaniel Fichelscherを1973年からPopol Vuhに迎えました。

Popol Vuh / AguirreT
https://www.bing.com/videos/riverview/relatedvideo?&q=popol+vuh+aguirre&&mid=B9AD677DA887C3D47AF1B9AD677DA887C3D47AF1&&FORM=VRDGAR
Florian FrickeがWolf CityのSurrounded by the StarsのChoir Organを聴いて影響を受け、同じものを使用したと思われる。Mellotronではないかと言われてきたが、よく聴くとコーラスの響き強くて微妙に音が違う。また、Mellotronは8秒しか音が続かない。

Amon Düül II のMellotronに関する記述
https://www.planetmellotron.com/sama3.htm
「Choir Organ」はMellotronと似た音だが実態は不明だった。Werner HerzogはInterviewで、Florian FrickeがAguirreでChoir Organという特殊な楽器を使用していたと述べているが、その話の内容からするとMellotronではない。

◆b Wolf Cityの「Tarotセッション」(Klaus Schulze、Wallenstein)への影響 

Tarotに封入されたKlaus Schulzeのカード
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 Klaus Schulzeは1969年〜1970年のTangerine Dream時代にはAmon Düül IIとともにハードな即興演奏を追求していました。Wolf Cityは、1972年のIrrlichtでメロディーを放棄しようとしたKlaus Schulzeに対して、再びメロディーのある音楽への回帰を促し、その影響の最初の顕れが1972年12月のTarotセッションといえます。

 Tarotでは大半の曲がメロディーを重視しており、即興的な曲でも美しいメロディーが随所に顕れます。特にKlaus SchulzeはJürgen Dollaseとの共同作業・相乗効果によって、Tarot以降、Cosmic Jokersで美しいメロディーのSynthesizerのフレーズを編み出していきます。
 1973年以降も、Klaus Schulzeは、Picture MusicのMental Door、Timewindとメロディー重視に移行し、数々の名盤を制作していきます。

 Jürgen DollaseのWallensteinも、Tarot以降、最高傑作とされる1973年のCosmic Centuryでメロディーの洪水のItalian Progのような状態となります。また、Violinの加入はWolf CityのChris Karrerからの影響と思われます。

 また、TarotにおけるWegmüllerのトーキングヴォイスは、Wolf Cityのタイトル曲、及びDeutsch Nepalからの影響と思われます。

Amon Düül II / Deutsch Nepal
https://www.youtube.com/watch?v=isyIixbKbmI&list=OLAK5uy_l9Y5Hg95UHPT7U3-QrvSY0F9bAhiSd1G8&index=6
Tarotに影響を与えたと思われるトーキングヴォイス 

1972年のWolf City以降、German Rockはそれまで拒絶していたClassicの伝統美を導入することで世界的な成功に至る。Tangerine Dream / Phaedra Can / Future Days Kraftwerk / Autobahn Faust / Tapes Ash Ra Tempel / Inventions For Electric Guitar Klaus Schulze / Timewind
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「英米の音楽を拒絶した」と述べていたFaustでさえ、Tapesでは美しいMelodieが聴かれる。


◆c Wolf CityのTangerine Dreamへの影響

 1972年5月リリースのZeitで完全にメロディーを消去したTangerine Dreamは、Wolf Cityの後、Tarotと同じ12月録音のAtemの冒頭で主題のメロディーを明確に打ち出しました。これはBBCのジョン・ピールがAtemを年間最優秀アルバムに選んだことに大きく影響したと思います。以後、Tangerine DreamはPhaedra以降もメロディーを重視し、世界的な評価を獲得します。

Tangerine Dream - Atem (Live-Auftritt im ORF, 1973)
https://www.youtube.com/watch?v=l1qPMPJpRnc
Amon Düül II / Wolf Cityの影響で、MelodieのあるMellotronを使用したことがTangerine Dreamの世界的な評価に繋がった。

◆d Wolf CityのAsh Ra Tempelへの影響

 Manuel Göttschingは1973年のStarring Rosi以降、全曲メロディーを重視し、その後も世界的な評価を受けるNew Age Of Earth、E2-E4といった作品で美しいメロディーを披露します。

Ash Ra Tempel / Starring Rosi 1973
https://www.youtube.com/watch?v=1da0hk623F4&t=1020s
Wolf Cityと同じく全7曲で、すべてが明確なMelodieとリフに基づいている。

◆e Wolf CityのCanへの影響

 Wolf Cityの後、1973年にCanは最高傑作であり、世界的に評価されるFuture Daysを発表します。この作品もそれまでの反復的なビートや即興演奏重視と異なり、タイトル曲やBel Airなどで普遍的なメロディー・ハーモニー、美しいSynthesizerを使用しています。もともとクラシックの音楽教育を受けた人たちで、Wolf Cityの影響によるクラシックへの回帰は自然なことであり、それが世界的な評価に繋がったと思われます。

Can / Future Days
https://www.youtube.com/watch?v=eyklWIMPoAA&list=OLAK5uy_lKRUCRIJphJbhsWfcHMr5joOXIukpXPrg
4曲全てが明確な構造と印象的なMelodie、リフを持つ。Amon Düül IIの「Yeti(2枚目のLPはInprovisation)」から「Wolf City」への変化と、Canの「Tago Mago(2枚組のLPの2面はInprovisation)」から「Future Days」への変化は、German Rock史上においてパラレルに考えられる。

◆f Wolf CityのKraftwerk Neu! Faustへの影響

 Kraftwerkは1st、2ndでは1曲目以外は、Melodieのない電子音の音響ノイズの即興が中心でした。しかしWolf Cityの後、1973年にKraftwerkはRalf & Florianという全曲が美しいメロディーの作品を発表し、1974年には美しいMelodieとリフを持つAutobahnでアメリカで4位になる成功を収めます。後に、Ralf Huetterは、Kraftwerkはクラシック音楽の延長上にあると発言しています。

Kraftwerk / Ralf And Florian 1973
https://www.youtube.com/watch?v=YMdd1B9Q1wg
Wolf Cityに近い6曲構成になり、全てが明確なMelodieを持つ。Wolf City / Surrounded by the Starsのように初めてPianoを使用した。

 Neu!もまた、1stはほとんどがノイズでしたが、1973年のNeu!2のFür Immerにおいて美しいメロディーのつづれ織りを披露し、Neu!75ではメロディーを強化。以降、解散後もメロディーを重視するようになります。

NEU! / Für immer 1973年
https://www.youtube.com/watch?v=V85AjBFDmbI
Mozartを愛好していたというKlaus Dingerの側面も見られる。これ1曲のためにレコーディングの予算を使い果たしたために、残りは既発の1972年のシングルの回転数を変えてB面を埋めたという名曲。50年近く聴いているが、美しいMelodieとリフが基本にあるため、11分間にわたって飽きがこない。

 「英米の音楽を拒絶する」と宣言していたFaustにおいても、1973年のFaust Tapesにおいては、美しいメロディーが隠されているのが魅力となっています。

Faust Tapes 1973年
https://www.youtube.com/watch?v=8cNoFrYbyW8
1:14、40:36などで、Wolf CityのChris Karrerを思わせる美しいギターのMelodieと歌が聴かれる。3:35のピアノもFaustでは初めて。反復に変化する直前の6:50の美しいSynthesizerが最大の聴きどころ。

 Wolf Cityを1975年10月に初めて聴いて感動してから、47年目になります。
 昔から、Wolf CityはドイツのRevolverとも言うべき、全曲捨て曲がない完全なアルバムの1枚だと思っていました。しかし、なぜAmon Düül IIの中でWolf Cityだけが突出したのか、Renate Knaupがなぜ最高作だと言うのか、その理由が判然としませんでした。Italian Progに似ていると思っていましたが、やはりそのルーツはItalian Progだったと思います。

 「イタリアのWoodstock」Villa Pamphilliフェスを主宰したCiao2001がAmon Düül II、VDGGを外国から招聘した理由は、反体制運動をルーツとする彼らの精神をフェスの支柱とするためだったとも考えられます。当時、Villa Pamphilliフェスはカトリックの保守層からは反対を受けていたことを最近知りました。

 Amon Düül IIやVDGGもVilla Pamphilliの主旨を理解して参加したと思われます。そして、その10万人を超えたVilla Pamphilliフェスのトップとして参加した見返りとして、Amon Düül IIとVDGGは、Italian Progからクラシック音楽の伝統・メロディーの重要性を持ち帰ったといえます。

 イタリアのLe Ormeも1970年のWight島フェスの現地体験からELPスタイルのバンドに変貌し、1971年に初のItalian ProgとされるCollageをリリースしました。Amon Düül IIもVilla Pamphilliの影響でWolf Cityを作ったといえます。それがKrautrockにメロディーという普遍性を与え、1973年以降の世界レベルで名盤とされるドイツロックの傑作群を生み出したと思います。

 同じくVilla Pamphilliに出演したVDGG・Peter Hammillも、それ以降Amon Düül IIと同様にメロディーを重視するようになります。Peter Hammill / The Lie、Gog; Magog (In Bromine Chambers)、VDGG / Pilgrimsなどの傑作群ではメロディーが印象的で、Hammillが英詞をつけたLe OrmeやHammillが賞賛するOsannaなどからの影響も顕れています。

 TarotそしてKlaus Schulzeの音楽的変遷を考える中で、Amon Düül II / Wolf Cityの起こした革命と重要性、その起源がItalian ProgにあったことをWolf Cityを聴いてから47年目にして気づくことができたと思います。


( 以上、ブログ2023年「RIP追悼 Klaus Schulze」からのAmon Düül II / Wolf Cityに関する部分の抜粋 )


Amon Düül II / Wolf City「狼の町」のライナーの東芝音楽工業株式会社「実験的・思考的音楽」の広告。Beatles・Pink Floyd等の宣伝担当だった石坂敬一によるもの
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 Chris Karrerさんには、以前東芝のAmon Düül II / Wolf CityのライナーのAmon Düül IIの載った広告を見て喜んでいただきました。

 来年でWolf Cityを初めて聴いてから50年になりますが、今でもその感動は続いています。
 素晴らしい音楽をありがとうございました。 RIP

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2024年01月08日

2024年新春 Happy New Year 第2弾 〜 音楽の夢・「音楽史のハイライト イタリア 1972年人気投票 Italian Pop Poll 」〜 LP国外部門1位 ELP / Trilogy・LP国内部門1位 Le Orme / Uomo Di Pezzaの時代 〜 注目すべき Italian Progressive RockのBass 〜 現在家具のデザイナーとして活躍するIl Balletto di BronzoのVito Manzari


1972年度人気投票 国内LP部門1位 Le Orme / Uomo Di Pezzaのカセット
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今日の1曲
Emerson, Lake, and Palmer / Trilogy LP 1972
      Endless Enigma part1、Fugue、Hoedown
Emerson, Lake, and Palmer
       / Eruption 〜 The Stones of Years 1971
Keith Emerson composing「Endless Enigma] from Trilogy
Le Orme / Uomo Di Pezza LP 1972
バッハ Bach
     / シャコンヌ Chaconne Partita n. 2 in re minore BWV 1004
Le Orme / Sospesi Nell'Incredibile 1973
PFM / Appena un po' 1972
Museo Rosenbach / L'ultimo Uomo 1973
Latte e Miele / Introduzione 1972
Latte Miele 2.0 / Inno 2019
      including The Endless Enigma (ELP cover)
Latte Miele / Opera 21 1976
Led Zeppelin / Stairway to Heaven (5:32) 1971
Deep Purple / Highway Star (2:15) 1972
Pink Floyd / Echoes (18:13) 1971
New Trolls / II Tempo: Adagio (2:10) 1971
Lucio Battisti / I giardini di marzo (1:43) 1972
Mina / La mente torna 1971
PFM / Grazie davvero (5:27) 1972
Formula 3 / Aeternum 1972
PFM / Per Un Amico (4:58) 1972
Osanna / L’uomo (1:21) 1971
I Pooh / La nostra età difficile (3:02) 1972
Banco del Mutuo Soccorso / Metamorfosi (9:36) 1972
The Trip / Analisi 1972
Il Balletto di Bronzo / Terzo Incontro 1972
Vito Manzari / Bass Solo 2014
      Suite per basso dedicated to Jaco intro prima parte
Il Rovescio Della Medaglia / Il Giudizio (2:36) 1971
Mia Martini / Donna Sola 1972

 能登半島の地震のたいへんな状況が日に日に明らかになってきています。
 厳寒の中で救出作業が続いています。私には何もできませんが郵便局に寄付に行こうと思います。

 2024年新春 Happy New Year 第2弾は、「元気の出る1972年人気投票 Italia Pop Poll 」です。イタリアでは、Italian Progressive Rockは当時「Pop Italiano」と呼ばれ、日本における1967年のGSブームのような人気だったことがわかります。

 イタリアは、幼少期からのClassicの素養が世界で一番豊かな国であり、Italian Progressive Rockは、それがBeatles革命やベトナム反戦問題などと化合したために起きた現象と言えます。イタリアの1972年は「音楽史のハイライト」であり、音楽の夢ともいえる時代です。

Progressive Rockの華・Keyboard 人気Best10
国外部門 International Pop Poll
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国内部門 Italian Pop Poll
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〜 1972年「ELP / Trilogy」のClassicとRockの融合が、Italian Progressive Rockに与えた影響 〜


イタリア1972年度海外LP部門で1位になったELP / Trilogyのカセット
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 1972年度のイタリアでの人気投票では、前回のブログでも紹介した「ELP / Trilogy」が国外のLP部門で1位、「Le Orme / Uomo Di Pezza」 が国内のLP部門で1位になっています。

 Trilogyは、イタリアで1972年後半にMina、Lucio Battistiと競いながら8週間断続的に1位になっており、イギリスでは2位、アメリカでは5位が最高位なので、イタリアでの評価が1番高かったことがわかります。また、イタリアではELP / Tarkusは2週間1位、Pictures at an Exhibitionは最高位2位、Brain Salad Surgeryは最高位7位にとどまっています。

 そして1位が長期に渡ったTrilogyの特に1曲目のThe Endless EnigmaのClassicの様式美が、Le Orme / Uomo Di Pezza、PFM / Per Un Amico、Latte e Miele / 1st、Museo Rosenbach / Zarathustraなど多数のItalian Progressive Rockの音楽的構造に決定的な影響を与えたと思われます。 

 1972年6月発売のTrilogyの数か月後に発売されたUomo di pezza の1曲目Una Dolcezza Nuovaでは、ELP / Knife Edgeに影響を受けたBachの Chaconne の導入と、ELP / The Endless Enigmaのような長いイントロという2つの試みがされています。
 
 Uomo Di Pezzaの録音は1972年3月22日から4月12日であるため、編曲・ProducerのGian Piero Reverberiは、Una Dolcezza Nuovaの長いイントロについて1971年のELP / Tarkusから影響を受けたと思われます。クラシックの作曲家Dougさんの動画が参考になります。 

Emerson, Lake, and Palmer / The Endless Enigma (Pt. 1) 1972
https://www.youtube.com/watch?v=3O35mcfY7nE
2:30もの長いイントロの構造を持つ。

Keith Emerson composing「Endless Enigma」 from Trilogy
https://www.youtube.com/watch?v=abVhSCzByw8
Keith Emersonが譜面を作成する貴重映像。

ELP / Tarkus : Classical Composer Reacion and Analysis | The Daily Doug (Episode 147)
https://www.youtube.com/watch?v=_FMjCN6jEyY&t=1296s
8:09からEruptionがStart。17:21からThe Stones of YearsVocalに入る。 Una Dolcezza Nuovaの制作にあたり、Gian Piero ReverberiもDougさんのように分析したと思われる。

Le orme / Una Dolcezza Nuova - Uomo di pezza 1972
https://www.youtube.com/watch?v=lneoP0jMm_8&list=PLbIN9DHtOfK-AOkLSgybOfzUsoUmoFMIM&index=1
2:15のイントロを持つ。バッハ Bach / シャコンヌ Chaconneが冒頭から引用され、編曲・ProducerのGian Piero Reverberiと作曲Aldo Tagliapietraによる真剣な推敲がなされたと思われる。

バッハ Bach / シャコンヌ Chaconne Partita n. 2 in re minore BWV 1004
https://www.youtube.com/watch?v=vx4smRlFAnw

PFM / Appena un po' - Per Un Amico 1972
https://www.youtube.com/watch?v=V852GxkYCQY&list=OLAK5uy_nGjLtSDQkUaw0YriIWeS-t6J9pf91B8to
The Endless Enigmaよりもさらに長い2:50のイントロの1曲目。

Latte e Miele / Introduzione 1972
https://www.youtube.com/watch?v=na16-cZlA9M&list=PLn6IUYFGu6PK4rJTWOxac29_myCC8vet1
冒頭の2:19の IntroduzioneもEndless Enigmaの構造に由来していると思われる。

Museo Rosenbach / L'ultimo Uomo 1973
https://www.youtube.com/watch?v=uC9hegZIC2g&list=PLn6IUYFGu6PIcMKtOTDXVOY_SoG082g2O
Vocalまで50秒のイントロ。さらに2:14から2人目のVocalに交替するという構造を持つ。

 2019年の「Latte Miele 2.0 / Paganini Experience」の1曲目 Innoで、ELPへのHomageとしてThe Endless Enigmaが引用されていることからも、TrilogyがItalian Progressive Rockに与えた影響は大きかったと言えます。

Latte Miele 2.0 / Inno (live in Genova Progfest 18/07/2019)
https://www.youtube.com/watch?v=99HPzPGmlTk
1:10からELP / The Endless Enigmaを引用。

 また、クラシックをアレンジしたTrilogyのHoedownは、Latte E Miele / Opera 21 のひな型にもなったと思われます。

ELP / Hoedown (2015 - Remaster)
https://www.youtube.com/watch?v=LWYAIy8WVXk
コープランドの曲をアレンジ。

Latte E Miele / Opera 21 (1976)
https://www.youtube.com/watch?v=V4ym6C-i2uQ
ベートーヴェンの曲をアレンジ。

 さらに、TrilogyのFugueは、1973年にGian Piero ReverberiがLe Orme / Felona e Soronaの冒頭のFugueを生むヒントになったと思われます。

ELP / Fugue
https://www.youtube.com/watch?v=AoY2PBdrrkA

Le Orme / Sospesi Nell'Incredibile
https://www.youtube.com/watch?v=9qfLAI-ey9Y&list=OLAK5uy_ncQQB171G1TCNLVwDJFlvpUBRHnZHpbkU
Felona e Soronaの1曲目。このような思考的な内容のLPが最高位2位までヒットした当時のイタリアの音楽的状況には驚かざるを得ない。


「音楽史のハイライト」イタリア1972年のLPチャート
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 この時期には、TrilogyのELP以外にも転調部分などClassicからの大きな影響を受けたUK Progの歴史的な最高傑作群が誕生し、1972年の人気投票の各部門に反映されています。

Led Zeppelin / Stairway to Heaven 1971【和訳】
https://www.youtube.com/watch?v=wzTLbMUYtqs
Herbert von Karajanもファンだったという天国への階段。
5:32からが有名な転調部分。

Deep Purple / Highway Star 1972年
https://www.youtube.com/watch?v=xKwPOy_nEmI
2:15からBachのBass半音下降。

Pink Floyd / Echoes 1971年
https://www.youtube.com/watch?v=53N99Nim6WE
18:13からが転調部分。後にPink Floyd自身が、Echoesを代表曲として認めてタイトルにしたBest盤が発売された。

New Trolls / II Tempo: Adagio (Shadows)  1971年
https://www.youtube.com/watch?v=W21Lq1xdVAI
Bacalovが生み出した2:10は、Beatles、Led Zeppelin、ELP等英米の最高傑作群と同格といえる。

Lucio Battisti / I giardini di marzo 1972
https://www.youtube.com/watch?v=_-QeCCgIyvA
1:43からGian Piero ReverberiのClassicの素養を極めたStringsが広がる最高傑作のひとつ。

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Mina / La mente torna 1971
https://www.youtube.com/watch?v=TlPOxql880w
Lucio Battisti曲。1972年にMinaはPFMをTeatro10に招聘している。

PFM / Grazie davvero 1972
https://www.youtube.com/watch?v=bu1J3J7EGno
5:27からが感動の最後のパート。Classicそのものといえる。

Formula 3 / Aeternum - Tema / Caccia / Interludio / Finale 1972
https://www.youtube.com/watch?v=xUWCstR7kh0
ブラジルのリオ音楽祭で大賞を受賞。MozartとMJQの影響を受けたGabriele LorenziのKeyboardが活躍する。

Formula3 / Sognando e Risognando ブラジル盤
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 当時、NapoliのBe-inなどItalian Progressive RockのFestivalに多く出演していたMia Martini / Nel mondo, una cosaも国内LP部門の10位に入っています。

Mia Martini / Donna Sola 1972
https://www.youtube.com/watch?v=kGekxsPiqMs&list=OLAK5uy_m9mR97ep6O2HVitkk9Cr80okH7eelcG9g

Mia Martini / Nel mondo, una cosa LP Japan diff.cover
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〜 注目すべきItalian Progressive RockのBass 〜


Italia 1972年度 国内Bassist部門 Best10
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 Italian Progressive RockのKeyboardがKeith Emersonなどと並んで世界でトップクラスであることはよく知られていますが、BassこそClassicの素養が問われる部分であり、Italian Progressive Rockの魅力がそこに凝縮され、人気投票にもそれが反映しています。

1位 Aldo Tagliapietra
Le orme / Una Dolcezza Nuova + Bach Chaconne シャコンヌ
https://www.youtube.com/watch?v=8KRfMbXf5to
1:45のAldoの空間を広げるBassが素晴らしい。

2位 Giorgio Piazza
PFM / Per Un Amico - 03 Per Un Amico
https://www.youtube.com/watch?v=gDWKIgopUSI&list=PLEhKnbYtxwiLsHvi3HDHGcdthdX16qi_Q&index=3
4:58からのGiorgio PiazzaのClassic音楽を総括したBassが素晴らしい。

3位 Lello Brandi
Osanna / L’uomo
https://www.youtube.com/watch?v=pilrnypzWgU
1:21からのVocalに対峙するLello BrandiのBassは、Rock史上最も美しいMelodieの一つと言える。

右下がLello Brandi
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4位 Riccardo Fogli
I Pooh / La nostra età difficile
https://www.youtube.com/watch?v=xpOPXxiCdRY&list=PL5AC66036E7783135&index=6
3:02からのRiccardo Fogliの歌い上げるようなBassも音楽史上の傑作といえる。

Riccardo Fogli脱退後のためRed Canzianに写真が替わっている日本盤
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5位 Renato D’Angelo
BMS (Banco del Mutuo Soccorso) / Metamorfosi
https://www.youtube.com/watch?v=IDcUm3NRE9s&list=RDIDcUm3NRE9s&start_radio=1
8:30の歌と9:36からが最も有名な箇所。9:54のRenato D’Angeloの地を這うようなBassが素晴らしい。Ash Ra Tempel / AmbossのHartmut Enkeを彷彿とさせる。

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6位 Wegg Anderson
The Trip / Analisi - Live Cantagiro 1972
https://www.youtube.com/watch?v=rabLt09aMgM
Bass:Wegg Anderson 2011年のTrip来日時はVocalだけ担当した。

ITALIAN PROGRESSIVE ROCK BAND....Best of....
https://www.youtube.com/watch?v=xapKHZmTN_s
6:30からTrip / AtlantideのLive

8位 Vito Manzari
Il Balletto di Bronzo / Terzo Incontro
https://www.youtube.com/watch?v=hMFXXeSOW5E&list=PLGfb2R92OHuk4oRt4BDawmSDXOcQ7ZE06&index=4
YSは全曲をGianni Leoneの知見とVito ManzariのGroove感に基づくBassラインとリフが統括しているが、特にこの曲ではBassが主役ともいえる。1:15からのVito ManzariとGianchi StingaのDrumsの絡みが素晴らしい。Vito ManzariはJaco Pastoriusのファンでもある。

Il Balletto di Bronzo / YS 全曲
https://www.youtube.com/watch?v=MDQG_kA6ong&t=900s

Vito Manzari / Bass Solo Suite per basso dedicated to Jaco intro prima parte
https://www.youtube.com/watch?v=Z-c34eKWW04
Jacoに捧げる自宅での寛いだ演奏。2014年

Intervista a Vito Manzari
https://www.youtube.com/watch?v=S0EXuHlNarU
Vito Manzariは現在家具・装飾品のデザインをしている。

右がYS録音中のVito Manzari
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9位 Stefano Urso
Il Rovescio Della Medaglia / Il Giudizio (youtube.com)
https://www.youtube.com/watch?v=xCuZI9Mi0bI&list=PL72KulmsXfl4ymZzQkRhFtgSCQ2l2i0hN&index=5
ContaminazioneはBacalovが統括しているので、この曲こそRDMの代表曲。2:36からのStefano UrsoのBassのうねりが素晴らしい。リーフレットに「自分=神」と記している。

1番前がStefano Urso
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Il Rovescio Della Medaglia のIo Come Ioのメダル。1972年という創造的な時代には、音楽だけでなくジャケットでも普通は考えもつかないアイディアが実行された好例。
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「音楽史のハイライト」イタリア1972年の人気投票・全部門
2つ合わせてご覧ください。
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2024年元日 初日の出
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2024年01月05日

2024年新春 Happy New Year 第1弾 〜 元気の出るELP 〜 Emerson, Lake, and Palmer reactions 〜 + Genesis / Supper’s Ready

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Trilogy Japan LP with silver OBI「Memorial of Live in Japan」1972

今日の1曲
Emerson, Lake, and Palmer / Trilogy 1972
Emerson, Lake, and Palmer / The Endless Enigma 1972
Emerson, Lake, and Palmer / Knife Edge 1970
Emerson, Lake, and Palmer / Knife Edge Live 1970
Genesis / Supper’s Ready 1972
バッハBach / フランス組曲 第1曲 Allemande
Triumvirat / Illusions On A Double Dimple 1974
Le Orme /
        Una Dolcezza Nuova、La Porta Chiusa 1972
Wallenstein / Cosmic Century 1973
Le Orme / Collage 1971
Domenico Scarlatti / Sonata in E major, K 380.
        Piano フジコヘミング
Deep Purple / Highway Star 1972
Il Balletto di Bronzo / Meditazione 1970



 遅れてしまいましたが、明けましておめでとうございます。
 本年も下手な文章のブログで恐縮ですが、よろしければお立ち寄りください。

 以前から、曲を聴きながらReaction、感想や分析を行う動画が気になっていました。 Emerson, Lake, and Palmerの大好きな曲へのReactionを見ていて、昔必死で聴いていたころを思い出して元気が出てきました。

 そこで、新年1回目は ELPともう1曲Genesis / Supper’s ReadyのReactionを紹介したいと思います。

 昨年亡くなった頭脳警察のPantaさんが、3年ぐらい前に自分の周囲でELPを再評価しなければという気運があると言われていました。キーボードレスの頭脳警察のPantaさんがELPが好きだったと聞いて嬉しくなりました。Pantaさん、頭脳警察と関係が深かったFlower Travellin' Bandは、日本で唯一 Emerson, Lake, and Palmerと共演したバンドです(Canadaで前座として)。

 今回のReactionは、クラシックの作曲家Dougさんとカップルさんの2組によるものを比較しながら見ていきたいと思います。

昔、友達から借りたLPをオープンリールテープに録音して何度も聴いた。
生涯で最も好きなアルバムの一つ。 
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− 1曲目  Emerson, Lake, and Palmer / Trilogy −

 まず、ELPの1972年のTrilogyからタイトル曲のTrilogyです。この曲は、タイトルのとおり、3つのパートに分かれています。まずクラシックの作曲家Dougさん、次にカップルさんです。

★Classical Composer Reacts to Trilogy (Emerson, Lake, & Palmer)
https://www.youtube.com/watch?v=JW_Xei320dk&t=321s
4:41から注目。クラシックの作曲家DougさんはClassic Pianoのところは冷静だが、最高のReactionは5:08。 Part2のRockに切り替わるところで圧倒され、言葉を失う。7:10のPart3への展開でも驚いている。

★EMERSON LAKE & PALMER | FIRST COUPLE REACTION to Trilogy
https://www.youtube.com/watch?v=aNWYfvp9sKs&t=287s
素人のカップルさんは、クラシックの作曲家Dougさんとは逆にPart1のClassic Pianoの3:58から盛り上がり、4:25で「OMG! Chopin!」「(?)Highway Star(?と聞き取れるが、、、バッハのコードを使用した曲なので)」と最高のReaction。そして4:37からのPart2のRock以降ではノリノリで楽しんでいる。

 ELPフォロワーの代表格TriumviratもTrilogyを模倣した素晴らしい作品を残しています。

Triumvirat / Illusions On A Double Dimple 1974
https://www.youtube.com/watch?v=RCoIWItQ0Xs&t=363s
4:19から7:30が聴きどころ。5:40からはTrilogyのPart 2を模倣した世界のELPフォロワーでもLe OrmeやLatte E Mieleと並ぶ最高楽曲の一つと言える。最初の4分をカットすれば、もっと世界に届いたのではないだろうか。

★Triumvirat-"Triangle" exerpt- Illusions on a Double Dimple
https://www.youtube.com/watch?v=iiiWzVkdosU
1番の聴きどころ


− 2 曲目  Emerson, Lake, and Palmer / The Endless Enigma −

 次は、同じくELPの1972年のTrilogyから、1曲目のThe Endless Enigmaです。この曲も3つのパートに分かれ、途中にPianoソロを挟んでいます。

 この曲のReactionについては、クラシックの作曲家Dougさんの40分に近い楽譜を用いた分析に圧倒されます。

★Behind the Score: The Endless Enigma (ELP) | Reaction & Analysis by The Daily Doug
https://www.youtube.com/watch?v=9FJm2Jgousw
楽譜を見ながら詳細に解説。Keith Emersonがいかに凄い知識があったかが初めてよくわかった。

 このThe Endless EnigmaのPianoを挟む3部構造は、ドイツのWallensteinが1973年のCosmic Couriersで踏襲しています。また、The Endless Enigma Part 1の構造は、1972年のGian Piero ReverberiがProduceしたLe Orme / Una Dolcezza Nuovaに影響を与えたと思われます。

WALLENSTEIN / Cosmic Century 1973
https://www.youtube.com/watch?v=X_lgWdc43w8&t=2102s
21:16までがA面の3部作。9:26からの間奏曲Grand Pianoは、The Endless Enigmaの3部構成を模倣したと思われる。

Le Orme / Una Dolcezza Nuova
https://www.youtube.com/watch?v=0cXdBSWXCpk
冒頭でBachのシャコンヌを引用。Gian Piero Reverberiが、長い前奏の後にVocalが入るThe Endless Enigma Part 1の構造を模倣したと思われる。


Japan LP with rare expensive "Flower OBI"
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− 3曲目  Emerson, Lake, and Palmer / Knife Edge −

 次は、ELPの1970年のデビューアルバムからKnife Edgeです。この曲は、途中でBachのフランス組曲の第1曲が引用されています。

 このバロック・クラシックの引用は、Le Ormeの1971年のItalian Progressive Rockの最初のLPとされるCollage(Domenico Scarlatti / Sonata in E major, K 380)で踏襲されています。1972年のDeep Purple / Highway StarのオルガンソロでもBachの半音下降のコード進行が引用されています。Keith EmersonはJon Lordを高く評価していました。

 この曲では、カップルさんによるオリジナルLPの音源と1970年のドイツBeat ClubでのライブへのReactionが面白いので、比較してみたいと思います。

OUR FIRST REACTION to Emerson, Lake & Palmer - Knife-Edge | COUPLE REACTION
https://www.youtube.com/watch?v=Swatav2zup4&t=437s
6:50からBachのフランス組曲。 

ELP FIRST TIME COUPLE REACTION to Knife-Edge Live Beat Club1970年11月26日
https://www.youtube.com/watch?v=QeLMiFm3V8E&t=448s
5:14からMoog Synthesizerのライブ映像。1971年のPopol Vuh / Bettinaに先立つ世界初のMoogライブ映像と思われる。6:10からのMoogのパフォーマンスは、Keith Emersonのベトナム戦争への怒りだったと言われている。7:03でフランス組曲を演奏する際に手書きの楽譜を見るのは、Keith Emersonのバッハに対するRespectが感じられる。

Emerson, Lake, and Palmer / Knife-Edge Live 1977 Canada
https://www.youtube.com/watch?v=-PU6cTjVy4I
これはReactionではないが、3:04のフランス組曲でOrchestraが入る貴重なライブ

バッハBach / フランス組曲 第1曲 Allemande
  - Tatiana Nikolayeva (1984) French Suite n°1 BWV 812 in D minor
https://www.youtube.com/watch?v=l26QTcx9_yw
Knife-Edge でのKeith Emersonの解釈に最も近い。

 ワイト島フェスで Emerson, Lake, and Palmerを見たことなどをきっかけにキーボードトリオに変貌したLe Ormeは、ELP / Knife Edgeからの影響で1971年、1972年のアルバムでクラシックを引用しています。

Le Orme | Collage
https://www.youtube.com/watch?v=-Q7hqZy6Bns&list=PL2Mt3dp76i0PpG-9EJPpr6_OAfpYNe9x0&index=1
1:47からDomenico Scarlatti Sonata in E major, K 380.

Domenico Scarlatti's Sonata in E major, K 380. スカルラッティ / ホ長調K380 フジコヘミング
https://www.youtube.com/watch?v=UnxBZvv0s9I
2014年にフジコ・ヘミングさんもこの曲をコンサートで演奏していた。昨年怪我をされコンサートを中止されているのが心配。

Le Orme / La Porta Chiusa
https://www.youtube.com/watch?v=hbzsmskJs-Q
6:11でバッハ / シャコンヌを引用。Gian Piero Reverberiが、Emerson, Lake, and Palmerを超えるために数あるバッハの曲からシャコンヌに厳選したものと想像できる。Una Dolcezza Nuovaでのシャコンヌとの関連づけも凄い。

Le Orme / Una dolcezza nuova + La Porta Chiusa 1972 Live TV
https://www.youtube.com/watch?v=WuZ3gN82WCY
3:55からシャコンヌ

Il Balletto di Bronzo / Meditazione 1970
https://www.youtube.com/watch?v=c358efxhat8
当ブログでも頻出のIl Balletto di Bronzo / Sirio 2222のMeditazioneも画期的な曲。冒頭のStringsと1:24からのGianni Leoneによるバロック・チェンバロは、1971年のNew Trolls / Concerto Grosso、Le Orme / Collageよりも早い。

Deep Purple / Highway Star 1972
https://www.youtube.com/watch?v=Wr9ie2J2690
2:14のBachのBassの半音下降は、ELP / Knife Edgeから着想を得たと思われる。


Genesis / Foxtrot Japan LP Diff.Jacket
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− 4曲目 Genesis / Supper’s Ready 1972 −

 
最後にELPではありませんが、これも感動したGenesis / Supper’s Readyを、カップルさんとクラシックの作曲家Dougさんで比較したいと思います。

★OUR FIRST REACTION to Genesis - Supper's Ready
https://www.youtube.com/watch?v=M-P9Rr2ysT8&t=1883s
カップルさんは、29:10から最高のReaction。感動して曲が終わってもしばらく言葉が出ない。

Classical Composer Reacts to Supper's Ready (Genesis) | The Daily Doug
https://www.youtube.com/watch?v=LfO7iplZVIM&t=1693s
クラシックの作曲家Dougさんは理論的で、25:16からのコード進行に感心しきり。27:05で最後のパートをさらに聴きなおしている。


 皆様方のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。


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2023年12月28日

RIP追悼 1周忌 Tony Hill(High Tide)、Ian McDonald(King Crimson)〜 ベトナム戦争の惨状が生んだ1969年の偉大な作品「High Tide / Sea Shanties」からFutilist's Lament と「King Crimson / In The Court Of The Crimson King」〜 1970年のELP、Italian Progressive Rockへの多大な影響

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L:LP Japan with rare Flower Obi  Most Expensive record of King Crimson(2000 Euro)
R:Single Japan The Court Of The Crimson King Part 1 / Part2
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今日の1曲
High Tide / Futilist's Lament 1969年
King Crimson / Epitaph 1969年
King Crimson / The Court Of The Crimson King 1969年
New Trolls / Annalisa 1970年
I Leoni / Ogni Notte 1970年
Il Balletto di Bronzo / Meditazione 1970年
Emerson, Lake & Palmer / Knife Edge– Live Beat Club1970
Rare Bird / Beautiful Scarlet– Live Beat Club1970年


 2022年12月8日にHigh TideのTony Hillさんが亡くなって1周忌となります。
 また、2022年2月9日にはKing Crimsonのオリジナル・メンバーIan McDonaldさんが亡くなっています。

High Tide From right, Tony Hill, Simon House
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 1969年に発売されたHigh Tide / Sea ShantiesはTony Hillが6曲中5曲で作詞作曲を担当しており、Tony Hillの世界観と言ってよいと思います。

 他方、1969年10月10日に発売されたKing Crimson / In The Court Of The Crimson Kingは、5曲の内、Ian McDonaldだけがI Talk To The Wind、The Court Of The Crimson Kingも含めた全曲にクレジットされています。また、Ian McDonaldがKing Crimsonを脱退するとき、Robert Frippが「King Crimsonはあなたのバンドだ」と言った逸話があります。従ってKing Crimson / In The Court Of The Crimson Kingは、作曲面においてIan McDonaldの世界観が反映されたものと言えます。

21st Century Schizoid Man
I Talk To The Wind
Epitaph
https://www.youtube.com/watch?v=vXrpFxHfppI&list=PLXhfRoiJBIiuXOUv_7EJ1i7UKj0aGfy0U&index=3
Moonchild
The Court Of The Crimson King
https://www.youtube.com/watch?v=ukgraQ-xkp4&list=PLXhfRoiJBIiuXOUv_7EJ1i7UKj0aGfy0U&index=5

 King Crimsonの1stは、メンバーがベトナム戦争の惨状をテレビで見た衝撃から作られたと言われています。ジャケットの写真はまさにその表れと言えます。

 他方、High Tide / Sea Shantiesのジャケットに描かれているのは、ベトナム戦争の戦場そのものだと言えます。
 リリースは、In The Court Of The Crimson King の2か月ほど後になります。

L:Sea Shanties original R:Japan Promo only LP
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 Mick JaggerもLet It Bleedを作ったとき、ベトナム戦争から重い影響を受けていたと述べています。翌1970年にデビューしたELPのKeith EmersonのMoogやライブでのナイフパフォーマンスもベトナム戦争に対する怒りだったとされています。

 High Tide / Sea Shantiesは商業的に成功せず、ほとんど知られないコレクターズアイテムでしたが、冒頭のFutilist's Lamentは、Led Zeppelin / 1st、Beatles / Abbey Road、Rolling Stones / Let It Bleedなどに匹敵する1969年のRockの偉大な作品だと思います。

High Tide / Futilist's Lament
https://www.youtube.com/watch?v=cpBCXof2qCc&list=PLEMzLROuENR2TrnybowmwRELji6w26THM
3:00からのギターフレーズは、Rock史上最も美しく感動的なものといえる。

 High Tide / Sea Shanties、King Crimson / In The Court Of The Crimson King の最大の功績は、ClassicとProgressive RockとHard Rockを融合させたSymphonic Progressive Rockを確立させたことだと言えます。

 Sea ShantiesのFutilist's Lamentでは、Simon HouseのClassic Violinとの対峙が、Tony HillのGuitarの攻撃性、緊張感と美しさを際立たせていました。

 BeatlesにはEleanor Rigbyなど多くのClassic Violinの曲がありますが、Simon Houseが世界初のProgressive Hard RockにおけるViolinといえます。

 High Tide / Futilist's Lamentは、後のNew Trolls / Concerto Grosso - Adagio、Wallenstein / Cosmic Century、Amon Düül II / Wolf Cityの Surrounded By The Stars、PFM / River Of Life、Curved Air / Vivaldiなどと並ぶViolinのProgressive Rockのトップ10に入る傑作だと思います。

Wallenstein / Rory Blanchford 1973
https://www.youtube.com/watch?v=vpxabHDpxwE&list=OLAK5uy_meImELv2ZWlC-dQ09K3atdkMarhT5a1bE

Amon Düül II / Surrounded by the Stars 1972
https://www.youtube.com/watch?v=scWD73Og0kQ
1:37からMellotronに近いChoir Organ(Popol Vuh / Aguirreでも使用)に続くViolin。1972年にAmon Düül IIがイタリアのWoodstock“Villa Pamphili”にトップゲストとして招聘されたとき、Italian Progressive Rockの影響を受けた結果生まれた。Amon Düül II自身が認める最高傑作。

King Crimson
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 他方で、In The Court Of The Crimson King では、Ian McDonaldのMellotronがClassicオーケストラの役割を果たしていました。

 Sea ShantiesとIn The Court Of The Crimson King が持つ攻撃性が、Keith EmersonをNiceからELPに発展させる影響を与えたと思います。
 Rare Bird / Beautiful Scarletとともに、ドイツのBeat ClubでのELPの1970年のライブが象徴的です。

Emerson, Lake & Palmer / Knife-Edge – Live Beat Club 1970年
https://www.youtube.com/watch?v=TQQdYokbp4E
4:00以降のMoogとパフォーマンスが当時のKeith Emersonの心境を表していたといえる。

Rare Bird / Beautiful Scarlet – Live Beat Club1970年https://www.youtube.com/watch?v=Ff4HTKT_ejM
後にベスト盤のタイトルとなる最重要曲。熱狂的なパフォーマンスのドラマーは後に画家に転身した。

 また、In The Court Of The Crimson King は、PFMが公言するように、Symphonic なItalian Progressive Rockに最大の影響を与えたと言えます。
 High Tide / Sea Shantiesもイタリアで1970年に発売されており、Italian Progressive Rockに影響を与えたと思われます。

 イギリスでは1967年からJimi HendrixのHard Rock、1969年からProgressive Rockが本格化しましたが、イタリアでは、Sanremo音楽祭が世界的な人気だった影響で、レコード会社がラブソングと英米のカバーしか発売させませんでした。

 そのため、1969年ではイタリアのHard Rockは、Formula3とIl Balletto di Bronzoの2枚のシングルしかなく、Gian Piero ReverberiがProduceした1970年のNew Trolls、Le OrmeのシングルがProgressive Rockの源流であり、一般には1971年のLe Orme / CollageがItalian Progressive Rockの発端とされています。

New Trolls / Annalisa 1970年
https://www.youtube.com/watch?v=6Hvucxkb7qo&list=PLWBIZ261OgKjWq5DkIOOhvONqPBlQagSq&index=8
Hard Rockをベースに、Prog、Classic、歌を融合させるHigh Tide / Futilist's Lamentと同様な構造を持つ。Jimi Hendrixを崇拝し歯でギターを弾いていたNicoが、1967年から望んでいた表現を爆発させたといえる。

Il Balletto di Bronzo / Meditazione 1970年
https://www.youtube.com/watch?v=c358efxhat8
Classic Stringsから始まり、Hard Rockのギターと融合するEpitaphやHigh Tide / Futilist's Lamentと同じ美意識を持つ。クレジットにはないがGianni Leoneがチェンバロを担当。

I Leoni / Ogni Notte 1970年
https://www.youtube.com/watch?v=eljC2b5DjU0
イタリアの大手Ricordiの中で商業的音楽しか作れなかったEnrico Riccardiが、King Crimson / Epitaphに感銘を受けて作ったものと想像できる。

 Futilist's LamentやEpitaphは、昔何度もヘッドホンで大音量で繰り返し聴きました。素晴らしい音楽をありがとうございました。
 Tony Hillさん、Ian McDonaldさんのご冥福をお祈りいたします。RIP

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posted by カンカン at 06:58| 神奈川 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | イギリスのロック British Rock & Pops  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする